倫理、道徳の実践を重んじたブッダ釈尊

老齢になって役に立たなくなった老人を遺棄するという現象は昔から汎世界的に見られるがブッダはその風潮に反対し父母をいたわることを説いている。

「世に母を敬うことは楽し。また父を敬うことは楽し。」

「母あるいは父を法によりて養う人あらば父母に仕えるそのことを以って、この世にてはもろもろの賢者がかれを賞賛す。

また死後(その功徳により)かれは天界にて楽しむ。」

「母と父とは梵天ともいわれ先師ともいわれる。

子らの供養すべきものにして、また子孫を愛する者なり。

されば実に賢者は飲食と衣服と床と塗身と沐浴と洗足とを以って父母に敬礼し尊敬せよ。」

「されば正しき善人は、恩を感じて恩を知り、昔の恩を思い起こして母と父を扶養す。

昔、恩を受けたるが如くにかれら(父母)に対して義務を果たす。

教えを護り、扶養して、家系を断たず、信仰あり、戒を保つ子は賞賛せらるべきなり。」

「われらは両親に養われたならば、かれらを養うべし。

かれらの為に為すべきことを為すべし。

家系を存続すべし。

財産相続を為すべし。

また祖霊に対して適当なる時々に供物を捧ぐべし。」

また、仏教経典「スッタニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

「老いて朽(く)ち衰(おとろ)えている母や父を養わないで、自らは豊かに暮らす人  これは破滅への門である。」

さらにまた、仏教経典 パーリ相応部経典(サンユッタ・二カーヤ)の中でブッダは次のように説かれている。

父母を養っているバラモンが尊師(仏陀釈尊)に次のように言った。

「ゴータマ(仏陀釈尊)さま。
わたくしは、きまりにしたがって食を求めます。
きまりにしたがって托鉢(たくはつ)して食を求めて、両親を養っています。
わたくしは、このようにしていますが、
なすべきつとめを果たしているのでしょうか。」

尊師(仏陀釈尊)は次のように言った

「バラモンよ。たしかに、そなたは、このようにして、なすべきつとめを果たしているのです。

きまりにしたがって食を求め きまりにしたがって食を求めて両親を養っている人は、多くの功徳を生じます。

母または父を、ことわりにしたがって養う人は、両親に対するその奉仕によって、この世では。賢者がかれを称賛し、死後には天にあって楽しむ。」

その言葉を聞きバラモンは次のように言った。

「すばらしいことです。ゴータマさま。

すばらしいことです。ゴータマさま。

ゴータマさま、私を在俗(在家)信者として受け入れて下さい。

今日以後、命ある限り貴方様に帰依致します」

また、パーリ仏典ダンマパダやウダーナヴァㇽガの中でブッダは不傷害、非暴力の重要性について次のように説かれている。

「手むかうことなく罪咎(つみとが)のない人々に危害を加えるならば、次に挙げる十種類の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう。

1、激しい痛み
2、老衰
3、身体の傷害
4、重い病
5、乱心
6、国王からの災い
7、恐ろしい告げ口
8、親族の滅亡
9、財産の損失
10、その人の家を火が焼く

この愚か者は死後に地獄へ生まれる。」

また、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は物惜しみと分かち与える事についても次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

さらにまた、仏陀釈尊はパーリ仏典の律蔵経典、増一阿含経 第四十巻において看護について次のようにお説きになられている。

「修行僧らよ。我(仏陀釈尊)に仕(つか)えようと思う者は病者を看病せよ。」

「たとえ我(仏陀釈尊)および過去の諸仏に供養することあろうとも、我(仏陀釈尊)に施す福徳と、病(人)を看る、看病する(福徳)とは、異なること無し」

また、仏陀釈尊自身も病人の看病、看護に直接従事された事が説かれている。

さらに、律部経典の梵網経において看病を八福田の第一にあげている。

つまり仏教において病者への看護、看病がいかに重視されているかが分かる。

参考文献

「ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫」

「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波書店」

「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤⅠ 中村元訳 岩波文庫」

「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤⅡ 中村元訳 岩波文庫」

「宗教における思索と実践 中村元著 サンガ文庫」

「原始仏教の社会思想 中村元撰集 第十八巻 春秋社」






仏事の際、仏壇やお墓で香を焚き、お供え物をお供えする意義について

仏教では霊の事を食香(じきこう)と呼び、又は梵語でガンダルヴァと呼ぶ事がある。

いわゆる、香(かお)りを食する存在を意味する。

よく仏事の際にお供え物を供え、線香を焚くが、その主たる目的は霊に香りを食して頂く事が目的である。

霊について、仏教の教理教学を体系的にまとめた倶舎論(くしゃろん)という仏教論書の中で、次のように説かれている。

「精血等の所有の外縁が合して成ずるものでなく、意より生ずるが故に意生(いしょう)(と呼ばれ、又は意生身(いしょうしん)とも呼ぶ)、常に喜んでこれから生まれるところを尋察(と呼ばれ)、探し求めるところから求生(ともいう)。

また、香食に資(たす)けられて生処に往(おもむ)くから食香(と名づけられ)、二趣(この世とあの世)の中間の所有の蘊(うん)なるが故に中有(ちゅうう)ともいう。

そしてこれから生まれるべき生に対向して漸時、起こるが故に起ともいわれる。」

さらに倶舎論によると中有は母体に入るのだが腹を破っているのではなく「陰門より入る」ともいう。

ところで、江戸時代後期、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)によって書かれた書物の中に「勝五郎再生記聞」という書物がある。

その中で書かれている話は実話であったらしい。

その主な内容は、江戸時代に勝五郎という名の子供がいた。

その子供は自分が生まれる前の記憶、つまり、前生の記憶を有していた。

つまり、勝五郎は勝五郎のお母さんから生まれる前の記憶を鮮明に覚えていたという。

すなわち、勝五郎は自分が産まれる前、つまり、勝五郎が肉体を持たず霊体であった時、勝五郎の家の中、いわゆる勝五郎の両親、家族たちの話声が聞こえていたという。

また、生まれてからもその内容を覚えていたという。

また、勝五郎はお母さんのお腹の中に霊体として入る前、しばらくの期間、家の中の周囲に居た。そして家の中の仏壇に供えられた牡丹餅(ぼたもち)の香りを食していたと語った。

そして、勝五郎はよく周りの家族たちに

「仏様、お坊様に温かい食物を布施する事を忘れてはいけません。これは大変功徳になることなんだよ」と言っていた。とある。

さて、仏教には追善供養というものがある。

追善とは亡者のために追って善事を修して福を薦め、その冥福を祈る事。

人の死後四十九日の間、亡者の霊は中有に迷って果報、転生先が定まらないので遺族、僧侶が善根を追修、回向してその功徳を亡者に捧げ、三途の苦報を免がれさせようとするために追善供養を行う。

ただし極善の者は四十九日間を待たずに直ぐに仏界、天上界に直行し、極悪の者は直ぐに地獄界へ直行するとされている。

追善供養は人の死後、七日ごとに初七日忌、二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌、六七日忌、七七日忌つまり四十九日忌を行う。

また百日目の百カ日忌、一年目に一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などに法要を営みその功徳を亡者に回向する。

仏教には死者に対しての追福追善の報恩行、冥福を祈る宗教行事がある。

仏教の経典に「梵網経(ぼんもうきょう)」というお経がある。

その中に不救存亡戒(ふぐそんぼうかい)という戒律があり、それによれば仏教信者は慈悲の心を持って全ての生者、死者に対して慈悲の行為を行わなければならない事が説かれ、特に父母兄弟等の家門の親しい先亡精霊に対し、冥界における幸福を助けるための宗教行為に勤めるべきことを勧めている。

参考文献

「講座 仏教思想 第七巻 理想社」参照。

「地獄の話 山辺習学著 講談社学術文庫」

「君は誰の輪廻転生か 桐山靖雄著 平河出版」

「仙境異聞 勝五郎再生記聞 平田篤胤著 岩波文庫」

「異界見聞録6 平田篤胤著 勝五郎再生記聞 前世の記憶を持つ子どもの話 現代語超編訳版 西田みどり著 知玄舎 異界見聞録シリーズ」

「葬式仏教 圭室 諦成著 大法輪閣刊」




仏教の不妄語戒と不偸盗戒からFX(外国為替証拠金取引)を考える。

お釈迦様の言行録に最も近いといわれている文献の一つにスッタ・ニパータという仏典がある。

その仏教の教えの中にうそをついてはいけない。という教えがある。

いわゆる不妄語戒という戒律である。

そのスッタ・ニパータの中に「嘘をついた者は地獄に堕ちる」という文言が書かれている。

また、仏教には不偸盗戒、つまり、他人の物を盗んではいけないという戒律もある。

他人の物を奪ってはいけないという戒律がある。

仏典、法句経の中に

「他人から奪った者は(未来に)奪われる(運命にある)。」

という内容の教えがある。

ところで、最近、YouTubeを見ているとFX(外国為替証拠金取引)の広告が流れているのを見た。

その内容を最後まで見ているとFX(外国為替証拠金取引)で大金を稼ぎ、現在は悠々自適の生活であるという内容。

FX(外国為替証拠金取引)を強く勧める内容であった。

ただし、FX(外国為替証拠金取引)の負の側面は一切語られていなかった。

かつて、1万ドルの資金を1年で100万ドル以上にした伝説のトレーダー、アメリカ人のラリー・ウイリアムズ氏は自身の著書「相場で儲ける法 ラリー・ウイリアムズ著」の中でFX(外国為替証拠金取引)などの先物取引の本当の実態はゼロサムゲームである。という。

つまり、FX(外国為替証拠金取引)で稼いだ人の全ての合計金額とFX(外国為替証拠金取引)で損をした人の全ての合計金額をプラスマイナスで計算するとトータルすると0になる。

言い換えると、大金を稼ぐ人々がいる一方、大金を失い嘆き悲しむ人々も大勢いる。

つまり、FX(外国為替証拠金取引)の取引は大局的に見ると、多くの人々が互いにお金を奪い合っている観がある。

椅子取りゲームのようなイメージがある。

ラリー・ウイリアムズ氏も相場で損失した人のお金は私のような相場に長けた人物の元に入ってくると著書で語られている。

さらに、FX(外国為替証拠金取引)は少額の金額で数十倍の取引が出来るので儲かると大きいが損をすると莫大な損失を被る危険性のある取引である。

ラリー・ウイリアムズ氏は自身の著書「相場で儲ける法 ラリー・ウイリアムズ著」の中で投資をする際は自己資金の2%~3%で運用し、資金がショート、つまり、資金が無くなり、破産しないような対策が必要であり、その為には決して大きな金額、大きなポジションをとってはならないという。

さらにまた、ラリー・ウイリアムズ氏によるとFX(外国為替証拠金取引)などのような先物取引は約8割の方々が損をしており、一般の人は相場に参加するべきではないと著書で語られている。


仏教の睡眠観と現代医学の睡眠観についての考察

仏教の学派の中には睡眠は煩悩の一種であるから、その煩悩を断ち切る為、断眠修行など、睡眠時間を大幅に制限した修行を行っている人々を見聞きする。

例えば、天台宗の総本山、延暦寺の僧侶が夜通し徹夜で仏像を礼拝する修行をしているなどの話を聞いたこともある。

日本では12月31日の大晦日に多くの人々が徹夜で、夜通し、様々なお寺を参拝する習慣がある。

しかし、この断眠修行はある種、お釈迦様の言動と相矛盾しているようにも思える。

健康上にも問題を引き起こすように思える。

例えば、仏教学の世界的権威、故中村元博士は月刊アーガマ42号において釈尊が食事の後よく昼寝をされたことを微笑ましく指摘されている。

当時の厳格な修行者からすると昼寝をする事はダラシのない事であり、怠惰なふるまいであったと考えられた。当然、釈尊に対しても次のような非難が向けられていた。

ある日、サッチャカという修行者が釈尊に次のように言った。

「ゴータマ(釈尊)よ。あなたは昼寝をする者である事を認識しているのですか。」

釈尊は、次のように答えた。

「私は托鉢から帰ってきて食事をし、その後、大衣を四つ折りにし、その上に、右脇を横たえ、自らの心の動きを観察しながら眠りに入る事があります。だから自分が昼寝をする者である事をよく認識していますよ。」

サッチャカが言った。

「ゴータマ(釈尊)よ。修行者やバラモンのある者は迷っているから、そんな事を語るのです。」

釈尊は静かにこう答えた。

「食後の昼寝をした、しないだけで、迷っているとか、迷っていないだとか、言えませんよ。」

このお釈迦様が行っていた食後の休息を仏教の聖典であるパーリ聖典において昼住(ちゅうじゅう)という。

この習慣は現在の東南アジアの僧院でもよく見かける。

また、スペインやアルゼンチンなどのラテン系の国々では昼食後の休息に数時間、当てている。

この昼食後の休息をシエスタという。

この習慣は、中国・インド・ベトナムなどの熱帯・亜熱帯地域や地中海性気候である地中海沿岸のギリシャ・イタリア・中東・北アフリカでも一般的に見られる。

一般的に人間の活動力は、午前中は上昇、正午頃が最も高く、午後2~3時ごろにかけて活動が低下するが午後4時すぎに再び上昇に転じ数時間活性化した後、就寝時間に向けて再び低下する。

就寝中の深夜2~3時が最も活動力が最低となる。

ところで、2019年に日本で出版された書籍「スタンフォード大学教授が教える熟睡の習慣 西野精治著 PHP出版 」において昼寝と認知症との関係を調査した結果が記載されている。

ある高齢アルツハイマーの方々とその配偶者、約数百人を対象にした調査の結果、30分未満の昼寝をする人は昼寝の習慣がない人に比べて認知症発病率が約7分の1であった。
30分から60分の昼寝をする人も昼寝の習慣がない人に比べて認知症発病率が半分以下であった。

最近の研究結果では、睡眠中は起きている時間帯の10倍以上、脳内に溜まった様々な老廃物を排出する機能、働きがあると分かっている。

また、書籍「アルツハイマーになる人、ならない人の習慣 ジーン・カーパー著 和田 美樹 訳  澤登 雅一 監修 Discover」の中で著者のジーン・カーパー氏は

睡眠は脳を記憶障害。アルツハイマー病から守ることに対して、驚くべき効果を発揮する。

睡眠を充分にとらないと、アルツハイマー型の脳障害を誘発する恐れがある。

実に、睡眠には特効薬的な効能がある。

起きている時間帯に発生した脳に溜まっている様々な老廃物が、 睡眠中、 きれいに洗い流され、睡眠のチカラにより脳内の老廃物がきれいに除去される。と書かれている。

また、書籍「Sleep(最高の身体と脳を作る技術)ショーンスチーブンソン著 花塚恵訳 ダイヤモンド社」の中で著者のショーンスチーブンソン氏はこの書籍の中で次のように書かれている。

「老廃物を除去する脳のシステムは睡眠時に活性化する」という章の中で

「脳は実に様々な働きをするが、その結果、大量の老廃物が生まれる。

それらは全て排除しなければならない。

老廃物を取り除く事で、文字通り、新たな成長や発達の余地が生まれるからだ。

死んだ細胞の除去やリサイクル、有害物質の排除、老廃物の排出は脳を機能するうえで絶対に欠かせない。

眠っている間の老廃物を除去する活動は目覚めている間の10倍以上老廃物を除去する活動が活発になるという。

目覚めているときの脳は学習や成長に勤め、脳の持ち主が活躍できるよう協力している。

ずっと動きっぱなしなので、たくさんの老廃物がたまっていくが、そのほとんどは睡眠が持つ修復の力で除去される。

例えば、自宅のごみを捨てるシステムがとどこおれば、家はあっという間に悲惨なことになる。

それと同じでように充分な睡眠をとらず、その老廃物を除去する働きがなければ脳内が大変なことになる。

具体的に言うと,

有害な老廃物を除去する事が無いことがアルツハイマー病を発症する根本的な原因の一つだと言われている。 」

と書かれている。

さらにまた、著者は睡眠環境について

「睡眠環境を真っ暗な状態にして寝ることが重要である」

と説き、次のように書かれている。

「まずは、近年、人気が高まりつつあるカーテンを遮光カーテンに替えよう。

それから光を発し続けるものを寝室から取り除こう。

この二つを今夜のうちに行えば、明日起きたらきっと私に感謝したくなる。

睡眠の専門家は、顔の前に手をもってきても見えないくらいの暗闇で寝ることを奨励している。

私たちの遺伝子は、暗闇で眠る事を当たり前だと思っている。

いまは部屋のなかで何かしらの光が一晩中ついていることも珍しくもない。

外の世界で起きることはどうにもならないのだから、せめて自分の家の中の事は自分の手で何とかするしかない。

だからこそ、遮光カーテンは必要だ。

寝室を居心地のいい暗闇に変えるべく、行動をおこそう。

私の睡眠は暗闇に変えた瞬間からよくなった。

寝室を真っ暗にするようになってからというもの、最高の睡眠がずっと続いている。」と書かれている。

遮光カーテンが難しければアイマスクも有効かもしれない。

チベット仏教の最高指導者、ダライラマ法王猊下は

「睡眠は最良の瞑想である。」

とお説きになられている。

また、数千年前に編纂されたとされている古代インドの哲学書のウパニシャッド(奥義書)の中に「深い睡眠は真実の自己とつながっている」という記述がある。


仏教の祖師達の霊験談を考える

仏教の開祖や仏教の各宗の祖師の方々の霊験談を次に紹介していきたい。

先ず、仏教の開祖である仏陀釈尊自身の瞑想体験として、

仏陀釈尊の覚醒の課程は三夜にわたる智の開眼、智慧の獲得で説明される。

第一夜(初夜 夜6時~夜10時頃)において釈迦(釈尊)は瞑想によって自らの百千の生涯、幾多の宇宙の成立期、破壊期、成立破壊期を残らず想起した。(宿明智の獲得)

第二夜(中夜 夜10時~夜中2時頃)において天眼(清浄で超人的、神的な透視力)により生き物達が無限の生死循環(輪廻転生)を繰り返す様を見透す。(天眼智の獲得)

第三夜(後夜 夜中2時~朝6時頃)において「一切(輪廻転生の本質)は苦である」という認識を得、縁起の法を悟って覚醒、漏尽解脱、智慧解脱の完成を得た。(漏尽智の獲得)

「わたし(釈尊)は最高の道を悟った。私の悟りは揺るがず、壊れない。私は解脱を果たした。もう苦しみの世に生まれる事は決してない。」とある。

次に、西遊記で有名な玄奘三蔵法師様が仏典を求めての旅の途上、砂漠で彷徨い、死にかけていたところ、般若心経を唱え、救われた話や、

また、その旅の途中に盗賊に捕らえられ、玄奘三蔵法師様が処刑されようとする直前、突如、天地が鳴動し天候が一変し、処刑執行人が驚き恐れ、処刑する事を止め、玄奘三蔵に帰依した話などが伝えられている。

次に、インドの善無畏三蔵法師様、この方は、真言密教伝持八祖の内の第五祖にあたるインドの高僧であり、弘法大師空海様は第八祖にあたりますが、その善無畏三蔵法師様の伝記に「商人と善無畏三蔵法師様が船での航海中に、船上において商人が盗賊に襲われた際、善無畏三蔵が観音様の準提呪の黙誦をすると準提観世音菩薩様が全身のお姿を現され商人を盗賊の難から救った。」と伝えられています。

次に真言宗の開祖であり、高野山を開いた弘法大師空海様が若い頃に修行し四国の室戸岬で修行の結果、特殊な神秘体験をした事で有名な「虚空蔵菩薩求聞持法」という密教の修行法があります。
この修行は虚空蔵菩薩様のご真言「のうぼう あきゃしゃぎゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」というご真言を百日間の間に百万回唱えるという修行で空海様は特殊な神秘的な体験をしたと伝えられている。
「三教指帰」という空海様の著書の冒頭にその体験を「谷響きを惜しまず明星来影す」という表現でその神秘体験を表現されています。
「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」というお経の中でこの修行が成功すると様々な霊験があると伝えられている。

また、弘法大師空海様が密教の経典を求め日本から唐(現在の中国)への航海中、涌現観音様が現れ空海様の航海を見守った話

また、暴風で荒れ狂う波が船に襲い掛かろうとした時、突如として洋上に巨大な不動明王が現れ、不動明王の持つ宝剣が荒波を切り裂き、空海様の乗った船を無事日本に帰国出来るよう助けたと伝えられています。

この時の不動明王は波切不動明王とされています。高野山に波切不動明王様がお祀りされています。

次に、日蓮宗の開祖である日蓮上人様の霊験談に龍ノ口の奇跡という話がある、鎌倉時代に活躍した日蓮上人様が当時の幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で鎌倉の松葉谷草庵にいた日蓮を捕縛し連行。翌日の9月13日子丑の刻(午前2時前後)、日蓮を土牢から引き出し日蓮聖人は、はだか馬に乗せられ、江ノ島片瀬 龍の口(たつのくち)刑場へと引かれていった。途中、鶴ヶ岡八幡宮にさしかかったとき、日蓮聖人は大声で「八幡大菩薩はまことの神か・・・」と、法華経の行者を守る役目を果たすよう叱りつけました。源氏の氏神を叱りつけたから、役人はびっくりし、あわてて馬を引き立てた。鎌倉を引き回された後、日蓮聖人は龍の口の刑場で敷物に座らされ、とうとうその首が刎ねられようとしていた。
いよいよ首を斬ろうと、役人が刀をかまえたその瞬間、江ノ島の南東から満月のように大きな光る不思議な光の玉が飛んできて北西へと飛び、日蓮聖人の上に現れた。そして頸を刎ねようとして太刀を大きく振りかざした武士を直撃し、役人は驚いて逃げ去り、太刀は三つに折れてしまい、その手足は動かなくなってしまった。処刑どころではなかった。
「日蓮の首は斬れません」と早馬が鎌倉に向かい、鎌倉からは「日蓮の首を斬るな」との連絡があり、何かの理由により刑は中止されたという。

次に、霊友会4代目の会長の大形市太郎氏は昭和20年8月に原子爆弾の被害を受け、その原子爆弾の熱線で全身大やけどをしたが、ある夜、信心深い市太郎氏の母親の夢の中に先祖が現れ、「おまえの息子の大やけどは私が教える場所の薬屋で私が教える薬を買い、その薬を全身に塗ればきれいに治る。」といわれた。

母親は市太郎氏にその話をして市太郎氏は「原爆で跡形もないであろう。」と思いながらも母が夢の中で見た先祖が言われた通りの道を行くと不思議にもその薬屋は原爆で破壊されていなかった。

そして、市太郎氏はその薬屋で先祖が言われた通りの薬を買い、母親にやけどをした全身の皮膚にその薬を塗ってもらった。

のちに、市太郎氏の友人たちは病院で治療を受けたが原爆のケロイドは残った。

しかし、市太郎氏にはケロイドは残らなかったという。

そのことが契機となり無宗教、無信心、無信仰者であった市太郎氏は「信仰の力、目に見えない力というものは確かにあるんだ。」と考え、その信心深い母親にお経の読み方を一から教えて欲しいと頼んだ。という。

次に、阿含宗の開祖、桐山靖雄師が1996年6月モンゴルにおいて桐山靖雄師が率いる阿含宗による大護摩修法が実施された。
この年のモンゴルは大旱魃で雨がほとんど降らず山火事がモンゴル全土で200箇所以上で燃え広がり数ヶ月間燃え続けていた。

モンゴルは日本の国土面積の4倍近くあり広大な山火事にモンゴル人民は頭を悩ませていた。
阿含宗の桐山靖雄師と信徒400名の方達がモンゴルにおいてモンゴル国ガンダン寺において十一面観世音菩薩世界平和祈願大護摩法要を勤修した。護摩修法が始まる前後、モンゴル全土において大雨が降り出し数ヶ月間続いていた山火事が数日間で消えてしまったと書籍「祈りは天地を動かす」「モンゴル紀行」に書いてある。

このような神通奇跡談について今は亡き仏教学者の水野弘元博士はその著書「原始仏教」の中で神通奇跡談について次のように書いておられる。

「今日の合理主義的な考え方からすれば仏陀及び原始仏教が三明六通という奇跡的神通力を説いたことはいかにも仏教の合理性を没却したものであり、おそらく原始仏教では説かれていなかったものを新たに加えられた挿入の不純物に過ぎない。と考える学者がいる。

しかし、仏教を単なる科学や倫理や修養ではなくして宗教であると考える限り、このような神通奇跡の存在は仏教の宗教的要素として極めて価値があり、かつ必要なものである。

2500年の昔において仏教は今日の科学時代にも劣らない合理性や倫理性を有したのであるが、しかし、単なる合理性や倫理性だけではそれは宗教とはなり得ないであろう。

宗教である限り、自らの実践だけではなく、他をも絶対信に導き入れなければならない。

宗教を他の方々に対し教化救済する利他的な宗教面は三明六通というような神通奇跡によって得られるのである。

宗教が多くの人々に信じられていくのは神通奇跡によってである。

また仏教各宗の祖師と言われるような人々も多かれ少なかれ常人を超えた不思議な力を持った人であったに相違ない。」とある。


ブッダが説いた「分かち合う事の重要性」と業報思想

西暦2020年の現在、全世界の人口の約1パーセントよりもさらに少ない、極めてごくわずかな少数の人たちが世界中のすべてのお金の約半分以上の桁外れな莫大なお金を所有、占有していると聞く。その中には一個人で数兆円、数十兆円もの資産、いわゆる一人の人間が小さな国の国家予算とほぼ同額のお金を所有し、一生かかっても使いきれない程の莫大な、桁外れな莫大な額のお金を所有する人がいる。

一方、それとは逆に、生まれてからこのかた十分な食事も満足に取れず、餓死したり、栄養失調に苦しみ、住む家すらなく、人知れず亡くなっていく人々も世界には多くいる。

仏教の開祖お釈迦様、ブッダ釈尊は仏教の聖典パーリ仏典「サンユッタ・ニカーヤ」において分かち合う事の重要性を次のようにお説きになられている。

「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い  また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等 それこそが、その人自身のものである。
人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。
それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。影が人に従うように。
それ故に善い事をして功徳を積め。功徳は人々のよりどころとなる。」

さらに、仏陀は次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ及び漢訳仏典雑阿含経において ブッダ(仏陀、等正覚者)はこうお説きになられている。

「悪行(悪い行為)をした者は肉体が滅んだ死後に苦悩・災いの世界、不幸な状態、煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」

「信仰もなく貪欲で利己的で悪い思いを抱き、誤った主義に生きて敬愛の心がなく、僧侶や托鉢をする人を嘲(ののし)り罵(あざけり)り心に怒り心を抱き食を乞う者に誰かが与えようとするのを邪魔する者。

このような人が死後恐ろしい煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」

地獄 獄卒絵

以上、書籍「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤⅠ 中村元訳 岩波文庫」引用。

さらに、パーリ仏典において仏陀(ブッダ)は業報思想、いわゆる善因善果、悪因悪果の思想について自分自身、及び弟子たちの瞑想体験に基づき次のように説かれている。

「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、(そのもの自身が)堅固不動のものになると、かれ(修行者)は生き物達の死と再生について知る事(死生通)に心を傾け、心を向けるのです。

そして、かれ(修行者)は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知るのです。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。

とかれ(修行者)は知る。」と説かれている。

「原始仏典 第一巻 長部経典Ⅰ 翻訳 中村元 森祖道 橋本哲夫 浪速宣明 渡辺研二 春秋社」参照。

そのヨーガについて書かれたヨーガ根本経典の中に業、カルマについて書かれた以下の章句がある。

「行為の結果には二種ありと知るべし。

天界と地獄とである。

天界はさまざまであり、地獄も同様である。

功徳ある行為の結果は天界であり、罪の行為の結果は地獄である。

万物の創生は行為の束縛によって成るもので、断じて他の何者でも無い。

天界においては生類は種々の楽を受け、地獄界においては耐え難い苦を受ける。

悪行の力で苦が生じ、善行の力で楽が生ずる。それ故に、楽を望む者はいろいろな善行を励んで行う。」

ここで説かれている行為の束縛とは業、すなわちカルマのことである。

前生において行った行為の内容によって、必然的に今生の運命の内容が定まるという思想はインドの根本思想の一つで、仏教もまたこの思想を受け継いでいる。

天地創生(天地創造)もまた生物全体の業の集計した力によって成されると考えられている。

以上、書籍「続・ヨーガ根本経典 佐保田鶴治著 平河出版」参照。

さて、仏教の行事には盂蘭盆会という行事があります。

この行事は餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事です。

餓鬼界とは生前もの惜しみ心が強くケチで人に親切でなく布施をしたりせず悪い事をした者が死後に生まれ変わっていく境涯であります。

餓鬼界には食物がほとんどなく空腹で苦しみ仮に食べ物があっても食べ物を食べようとすると火になって燃えてしまったりする。

そういった餓鬼界で苦しんでいる餓鬼達に食べ物を供養したり食事が出来るように餓鬼達を救う為の行事を盂蘭盆会や施餓鬼供養といいます。

餓鬼へのご供養をする為のご真言が仏教経典には書かれている。

真言には無量威徳自在光明殊勝妙力等の餓鬼を供養するご真言があるが施餓鬼の経典として有名な「仏説盂蘭盆経」「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼」等の経典に詳しく記載されている。


白隠禅師(はくいんぜんじ)の施行歌(せぎょううた)

仏教やジャイナ教、ヨーガの教えに布施、施しを勧める教えが存在する。

その教えの根本には、因果応報の思想、いわゆる善因善果、悪因悪果の思想、

いわゆる、善い事をすれば未来においてその善い報いが自分に返ってくる。

その逆に、悪い事をすれば未来においてその悪い報いが自分に返ってくるという思想がある。

仏教国の日本において、江戸時代、禅宗の中の一つ、臨済宗に白隠禅師という高僧がいた。

白隠禅師は自身の説く教えの中に、布施を強く勧める教えを歌にして多くの人々に布施の重要性を説いた。

以下、白隠禅師が説いたとされている施行歌を紹介する。


施行歌(白隠禅師作)

今生富貴する人は

前世に蒔きおく種がある

今生ほどこしせぬ人は

未来は極めて貧なるぞ

利口で富貴がなるならば

鈍なる人はみな貧か

利口で貧乏するを見よ

この世は前世の種次第

未来はこの世の種次第

富貴に大小あることは

蒔く種大小あるゆえぞ

この世はわづかのものなれば

よい種えらんでまきたまえ

たねを惜しみてうえざれば

穀物とれたるためしなし

田畑に麦稗(むぎひえ)まかずして

麦稗取ったるためしなし

麦稗一升まきおけば

五升や一斗はみのるぞや

しかればすこしの施しも

果報は倍倍あるものぞ

いわんやほどこし多ければ

果報も多しと計り知れ

それゆえお釈迦も観音も

施しせよとすすめたり

さすれば乞食非人まで

救うこころを発すべし

おのおの富貴で持つ宝

有ればあるほどたらぬもの

多くの宝を譲るとも

持つ子が持たねば持たぬもの

少しも田畑ゆずらねど

持つ子はあっぱれ持つものぞ

我が子の繁昌祈るなら

人を倒さず施行せよ

人を倒して持つ宝

我が子にゆづりて怨となる

人の恨みのかかるもの

ゆづる我が子に沈みきる

枡や秤や算盤や

筆の非道をし給うな

つねづね商いするひとも

あまり非道な利をとるな

死んで三途に入ることぞ

その身は三途に落ち入れて

屋敷は草木が生い茂る

非道は子孫の害となる

親の悪事が子に報う

世間に数々あるものぞ

一門繁昌することは

親が悪事をせぬゆえぞ

もし又親にはなれなば

ますます重恩思い知れ

子を慈しむ親心

あらい風をも厭ひしぞ

それほど親に思われて

親を思わぬ愚かさよ

親に不幸な人々は

鳶やカラスに劣りたり

娘むすこをしつけるに

惜しむ宝はなきものぞ

親の後生のためならば

その金出して施行せよ

飢え死ぬ人を助けなば

これに勝れる善事なし

たとえ満貫長者でも

死んで身につく物はなし

妻も子供も銭金も

捨てて冥途の旅立ちぞ

冥途の旅立ちするときは

耳も聞こえず目も見えず

ゆくえしらずに門をいで

闇を闇路に入ることぞ

その時後悔限りなし

兎に角命ある限り

菩提の種をうえたまえ

命は脆きものなれば

露の命と名づけたり

今宵頭痛がし始めて

九死一生なるもあり

強い自慢をする人も

暮れに頓死をするもあり

今日は他人を葬礼し

明日は我が身の葬礼ぞ

然らば頼み無き娑婆に

金銀蓄え何にする

富貴幸いある人は

貧者に施しせらるべし

貧者に施しせぬ人は

富貴で暮らすかいもなし

狗でも口は過ぐるぞや

飢饉貧者を助くべし

慈悲善根はそのままに

家繁栄の御祈祷ぞ

慈悲善根をする人は

神や仏にまもられて

天魔外道はよりつかず

然れば祈祷になるまいか

よくよく了見せらるべし

恵み施しならぬとは

余りどうよく目に余る

飢え死ぬ貧者を見ぬふりに

暮らす心は鬼神か

慈悲善根のなき人は

子孫繁栄長からじ

宝はあまりなきものぞ

施行で借銭し初めよ

それこそ真の信心よ

上たる人をはじめとし

頭立ったる人々は

われもわれもと共々に

厚く施行に身を入れよ

貧者の命救うなら

広大無辺の善事なり

平生貧者に敬われ

身につく果報はあるまいか

人に食い物すつるのを

好んで拾って食う者は

前世に種まきたらぬゆえ

是非なく袖乞いすることぞ

かかる有様見ながらも

おのおの仁心起こらぬか

とにもかくにも人として

信心なければ人でなし

この節信心おこらねば

まったく牛馬にことならず

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お釈迦様が説く布施の重要性。

仏教の開祖、お釈迦様の言行録として世界的に有名なダンマパダ(法句経)の中に、布施をすることの重要性が次のように説かれている。

「善い人々は僅(わず)かであっても、正しく、わかち与えるならば、多くの人々に勝つ。

ただ物をくれてやることが勝つのではない。

たとい、僅(わず)かなものであっても、信仰心をもって与えるならば、この人は来世において安楽となる。

分かち与えることと戦闘とは相等しいと人々は言う。

これらの美徳は悪人には存在しない。

人々にわかち与える時は、戦闘の時のごとくである。

その原因をまとめて言うならば(いずれも他と)等しいであろう。

執着する心がなくて施しを与える人は、幾百の障害に打ち勝って、敵である物惜しみを圧倒して勇士よりもさらに勇士であると、われは語る。

福徳の果報が熟するのは楽しい。 希望する事が成就する。

そうしてその人は速やかに最高のやすらぎ、覆いの解きほぐされた(解脱)の状態におもむく。

福徳を積んだ人に対しては、悪魔の身をとった神々も、他から害をなすことも、障りをなすこともできないであろう。」

書籍「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波文庫」269ページ~270ページ引用。

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また、舎利礼門というお経の中に

万徳円満、釈迦如来という文言が出てくるが、

仏様、お釈迦様は、万(よろず)の徳が全て備わっている存在といわれている。


仏教の平和主義と寛容主義からキリスト教を比較検証する。

インド学、仏教学の世界的権威である今は亡き、中村元博士は仏教は暴力や武力を使わないで世界に広まった数少ない宗教の一つであると言及されている。

仏教はキリスト教と比較すると著しく平和的で寛容的であると思われる。

書籍「パール博士「平和の宣言」ラダビノード・パール著 田中正明 編著 小学館」の中で次のような文章がある。

「現代の偉大な思想家であるオルダス・ハクスレーは次のように指摘している。

7世紀の初め、インドを訪れ、14年間滞在した時の詳しい記述を残しているシナの行脚僧、玄奘三蔵は次の事実を明らかにしている。

すなわち、ヒンズー教徒と仏教徒は一緒に住んでいても何ら暴力沙汰を起こさなかった。

彼らはお互いに、一方が他方を改宗させようとしたが、そのための手段として用いたのは説得と論争とであって、力によるものではなかった。

ヒンズー教も仏教も決して宗教裁判に該当するような何者によっても損なわれてはいない。

また、ヨーロッパの十字軍のような非道や、16世紀17世紀の宗教戦争のような犯罪精神病などの罪に問われることもなかった。

だが、ヴェーダの宗教はさておき、何人も仏教に対してこの異常な寛容の徳を否定することはできない。

オルダス・ハクスレーは言う。

インドの平和主義はブッタの教えに完全に表現されている。

仏教もヒンズー教も同様にアヒムサ、すなわち、生きとし生けるものを損なわないということを教えている。

世界のあらゆる偉大な宗教の中でただ仏教のみが、迫害も、検察も、宗教裁判も無しに栄えていった。

これら、すべての点で仏教の経歴はキリスト教のそれに比べて非常に優れているということができる。

キリスト教は軍国主義と結合した民衆の間で旧約聖書の野蛮が青銅時代の文学に訴えることにより信徒の血に飢えた性行を正当視することができた。

仏教徒にとっては怒りは常にそして無条件的に恥辱である。

エホバを神と同一視するように訓練されたキリスト教徒にとっては、正当なる義憤というようなものがある。

この義憤が正当なものであり得るということのおかげで、キリスト教徒が次々に戦を起こしたり、この上なく忌まわしき虐殺を起こすことを正当と思い込んできたのである。」

書籍「パール博士「平和の宣言」ラダビノード・パール著 田中正明 編著 小学館」参照。

 

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布教伝道とホームページやインターネットについて考える

昔、インターネットがなかった時代、昔の僧侶たちは、お釈迦様もそうであるが、自らの足で長い距離を歩き、不便さ、不自由を忍び、一人一人に教えを説いたこともある事を考えれば、現代はインターネット、パソコン、google ,ホームページを作成するブログ、ワードプレスなどがあり、それで自分の意見、信条など世界に向けて自由に発信、発表できることは非常にありがたい。非常に恵まれた時代でもある。

インターネットはアメリカで当初、軍事目的で開発されたが、このように多くの人々に利便性を与え、特に、自分自身の信条、信仰などについて自由に発信、発表できることは非常にありがたい。

特に、欧米の科学者、技術者の貢献が大きいかもしれない。

過去、科学技術は軍事転用され焼夷弾、原子爆弾などを生み、多くの人々を殺戮したが、このように人間の科学技術が人々の幸福の為に使われるのは良いことだと思う。


宗教が重視する瞑想についての話

真言宗には阿字観という瞑想法があり、
天台宗には摩訶止観という瞑想法がある。

密教の修行法においては精神統一を表す言葉として三摩地(さんまじ)、定(じょう)という言葉がある。

さらにヨーガにおいては精神集中の高まり、瞑想の段階過程として

制感(せいかん)、

凝念(ぎょうねん)、

静慮(じょうりょ)、

三味(さんまい)という段階がある。

凝念、静慮、三味をまとめて綜制(そうせい)ともいう。

仙道においては精神集中、精神統一の修行法として内部統覚法、外部統覚法という修行法がある。

世界的に有名な歴史学者アーノルド・トインビー氏は

「現代西洋文明の危機を救う方法は東洋に伝わる瞑想である」という言葉を残されている。

その瞑想についての話であるが、1900年代、インドに住むゴーピ・クリッシュナという名前の在家の妻子ある男性が毎朝、17年間にわたり精神集中を主体としたヨガの瞑想の修業を積んできた。

その男性が1937年12月のある朝、瞑想中に突然クンダリニー覚醒というヨーガにおいてかなり高度な覚醒体験 神秘体験をした。

又、その後の自身の肉体的、精神的な変化及び、その後46才頃、詩人としての才能が突然芽生えた。

その体験が「Kundalini: The Evolutionary Energy in Man (English Edition) 」という書籍として出版された。

この書籍は、1967年頃に出版され、当時、欧米の人々の注目を集め、特に、心理学 生理学 、医学 哲学の専門家達の注目も集めた。

また、当時、この書籍はアメリカ、ヨーロッパでも話題になり、この書籍がきっかけで多くのアメリカやヨーロッパの若者たちがヨガや瞑想を志した。

この書籍は日本でも1980年代に「クンダリニー」という書名で平河出版社から出版されている。

次に、インドの哲学者であり政治家でもあり近代インドを代表する思想家でもあったラーダークリシュナン氏は著書「Eastern Religious and Western Thought」において次のように説かれている。

「孤独における魂は、宗教の誕生地である。

淋しいシナイ山のモーゼ、菩提樹のもとで禅定にふけったブッダ、

ヨルダン川のほとりで静かに祈ったイエス、

砂漠に独りとどまっていたパウロ、

メッカの孤立せる塚にあったマホメット、

アルヴェルノ高地の岩石のうちにあって祈ったアッシジのフランシスは実在する神の力と確信を見出したのであった。

宗教における偉大な新しい創造なるものは、ことごとく、静かなる祈り、孤独なる瞑想にふける魂の測り知れざる深淵から現れ出るのである。」と。

次に、仏教の開祖、仏陀釈尊は孤独で静寂なる環境での深い瞑想により大いなる悟りを得られたが、静かなる環境における孤独な祈り、孤独な瞑想が重視されているように思われる。

パーリ仏典のダンマパダ(法句経)において次のように説かれている。

「修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を越えた楽しみが起こる。」

「実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。

心が統一されないならば豊かな智慧がほろびる。

生じることと滅びることの二種の道を知って豊かな智慧が生じるように自己をととのえよ。」

「憎む人が憎む人に対し、恨む人が恨む人に対してどのような事をしようとも、邪なことを目指している心はそれよりもひどい事をする。」

「母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れた事を、正しく向けられた心がしてくれる。」

つまり禅定の完成と智慧の完成の重要性が説かれている。

また、仏陀釈尊は特に瞑想に入っていない日常の精神状態であっても禅定にあるのと同じように無念無想の精神統一を得られていたとされる。

阿含経に

「那伽(ナーガ)は常(つね)に定(じょう)に在(あ)り。」という一節がある。

実際に仏陀釈尊は禅定の熟達者であったと経典に伝えられている。

この経典の中で那伽(ナーガ)とは仏陀釈尊を意味する。

定とは瞑想、禅定を意味している。

また南伝大蔵経の増支部経典において

「那伽(ナーガ)は行(ゆ)くにも定(じょう)にあり、

那伽(ナーガ)は立(た)てるも定にあり、

那伽(ナーガ)は臥(ふ)すにも定にあり、

那伽(ナーガ)は座(ざ)せるにも定にあり」とある。

また漢訳仏典の中阿含経118の龍象経においても

「龍行止倶定、坐定臥亦定、龍一切時定、是謂龍常法」とある。

仏典中の龍(竜)とは優れた修行者を意味する事もある。

この経典の中の那伽(ナーガ)、龍(竜)とは仏陀釈尊を意味する。

龍(竜)をサンスクリット語でナーガと云う。

釈尊の覚醒の課程は三夜にわたる智の開眼、智慧の獲得で説明される。

第一夜(初夜 夜6時~夜10時頃)において釈尊は瞑想によって自らの百千の生涯、幾多の宇宙の成立期、破壊期、成立破壊期を残らず想起した。

第二夜(中夜 夜10時~夜中2時頃)において天眼、清浄で超人的、神的な透視力により生き物達が無限の生死循環、輪廻転生を繰り返す様を見透す。

第三夜(後夜 夜中2時~朝6時頃)において「一切、輪廻転生の本質は苦である」という認識を得、縁起の法を悟って覚醒、漏尽解脱、智慧解脱の完成を得た。

パーリ仏典において仏陀(ブッダ)は次のようにお説きになられている。

「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、そのもの自身が堅固不動のものになると、

修行者は生き物達の死と再生について知る事、死生通に心を傾け、心を向ける。

そして、修行者は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知る。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。

と修行者は知る。」

仏教にとって人間に生まれてくる事は非常に良き生まれであると説く。

人間にとって神々に生まれる事は良き生まれであるといわれるが、神々にとっては人間に生まれる事が良き生まれであるといわれている。

輪廻転生の世界では衆生(生き物達)は地獄界や畜生界に生まれ替わる方が人間界に生まれ替わるよりも圧倒的に多いと仏典では説く。

(阿含経 増支部経典)

仏教の目的はこの輪廻転生からの脱出を説きます。

本質的に仏教はこの六道輪廻の世界を苦しみの世界とみなしそこからの離脱を目指します。

仏典に修行を完成した表現として

「現法の中において、自身作證し、生死已に盡き、梵行已に立ち、所作すでに辨じ、自ら後生を受けざるを知る、すなわち阿羅漢果を得たり」とあります。

(阿含経 長部経典)

インドにはお釈迦様が出生される数千年も前よりヨーガという文化的宗教が存在します。
そのヨーガについて書かれたヨーガ根本経典の中に業(カルマ)について書かれた以下の章句があります。

「行為の結果には二種ありと知るべし。

天界と地獄とである。

天界はさまざまであり、地獄も同様である。

功徳ある行為の結果は天界であり、罪の行為の結果は地獄である。

万物の創生は行為の束縛によって成るもので、断じて他の何者でも無い。

天界においては生類は種々の楽を受け、地獄界においては耐え難い苦を受ける。

悪行の力で苦が生じ、善行の力で楽が生ずる。

それ故に、楽を望む者はいろいろな善行を励んで行う。」

ここで説かれている行為の束縛とは業、すなわちカルマのことである。

前生において行った行為の内容によって、必然的に今生の運命の内容が定まるという思想はインドの根本思想の一つで、仏教もまたこの思想を受け継いでいる。

天地創生(天地創造)もまた生物全体の業の集計した力によって成されると考えられている。

良い行いをする事を徳を積むといいます。

悪い行いをする事を不徳を積むという。

良い行いを積み重ねる、 善行を積み重ねる事。

その徳の積み重ねが自分自身の幸福の基、福徳の原因となります。

仏舎利(仏陀のご遺骨)を賛嘆、称賛する舎利礼文(しゃりらいもん)というお経に万徳円満 釈迦如来という文言があります。

万(よろず)の徳、全ての徳が完全円満に備わっている釈迦如来という意味であります。

如来とは真理(真如)の世界から来られた方、悟りを開かれた方、仏陀と同じ意味の事であります。

仏道修行者の究極の目標はその万徳円満である釈迦如来、つまり仏様、如来、仏陀に成ることです。

パーリ仏典サンユッタ 二カーヤにおいてブッダは次のように説かれている。

生きとし生ける者どもは(寿命が尽きて)いつかは(必ず)死ぬであろう。

生命はいずれ死に至る。

かれらは死後に自己の作った業(自己の行った行為の内容)に従って各所に赴いてそれぞれ善悪の報いを受けるであろう。

悪い行いをした人々は死後において地獄(大いなる苦しみ悩み痛みに満ちた世界 悪い世界)に生まれ赴き

善い行いをした人々は(死後)善いところ(幸福、平和、快楽、安楽の世界 善い世界)に生まれ赴くであろう。

その為に来世(自分の魂が死後に生まれて変わって行く世界 死んでから自分が再び生まれ変わる世界)の幸福、平和、安楽の為に現世(現在生きているこの世界)で善い事をして功徳を積まなければならない。

人々が作ったその功徳はあの世で人々のよりどころとなる。

仏教の根本的な教え、ブッダ、真理に目覚めた等正覚者達の最も重要な教えとは「よいことをせよ。わるいことはするな」という倫理、道徳の実践の教えであるといえる。

漢訳仏典において
「諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」 という七仏通誡偈がある。

またパーリ仏典の法句経(ダンマパダ)には

「一切の悪をなすことなく、善を具備実践し、自分の心を浄化すること、これが諸仏(真理に目覚め、ブッダとしての悟りをお開きになられた覚者達)の教えである」

とある。

雑阿含経に爪甲経(そうこうきょう)というお経がある。その概要は

「ある日釈尊は釈尊自身の手で大地の土を拾い釈尊自身の手の爪と手の甲の上に土を乗せて諸々の比丘(修行者)に次のように尋ねられた。

「諸々の比丘(びく)よ。私のこの手の爪と手の甲の上に乗っている土の量とこの大地の土の量とでは土の量はどちらが多いか?」

諸々の比丘は次のように答えた。

「世尊(釈尊)よ。世尊(せそん)の手の爪と手の甲の上に乗っている土の量はこの大地の土の量と比べるならば比べものにならない程ごくわずかな量です。」

釈尊は続けてこのようにお説きになられた。

「諸々の比丘よ。もし肉眼で見える生き物たちの数をこの手の爪と手の甲の上にある土の量とするならば、その形が微細で肉眼では見えない生き物たちの数はこの大地の土の量のように膨大に存在する。

比丘たちよ。未だ無間等の悟り(仏陀の悟り)に到達しない者は努めて無間等(むけんとう)の悟りに至るよう努力せよ。」


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阿含経についての話

日本の仏教は千年以上の長きにわたり阿含経を劣った小乗経典つまり自分だけの悟りを求め自己のみが救われる事を目指す利己的でレベルの低い卑しい経典とみなされていた。

また、出家しなければ救われない出家仏教の経典ともいわれてきた。

その為、日本において阿含経に対する研究や信仰はほとんどなされなかった。

今から約1400年以上前の中国において、天台大師智顗が立てた五時教判という教相判釈があるが、その教相判釈によると法華経、涅槃経が最も高い大乗の教えであり阿含経は最も低い小乗の教えであると結論づけされている。

その天台大師智顗が立てた経典判尺はすべての漢訳仏典を釈迦一代で全て説いたものと考えた。

まず、釈迦が悟りを開いた後、人々に華厳経を説いた。

しかし、あまりにもその内容が純粋過ぎ人々には理解されなかったので、釈迦は最初は一番程度の低い卑近な阿含経の教えから説いていき、それから、年を経る程、順次、般若経などのお経を説いていき、釈迦の晩年の時代、一番内容の高い、最高の教えであり、真実のお経である、法華経、涅槃経を説いたと智顗は考えた。

この天台大師智顗が立てた経典判尺により、天台の最澄、日蓮が法華経を所依の経典として天台宗や日蓮宗という一宗を立てた。

伝教大師 最澄

また、日本の仏教ではその影響を受け、法華経が広く信仰されるようになった。

最近では真言密教系の教団、真如苑も涅槃経は釈迦が最後に説いた真実で最高の教えであると涅槃経を所依の経典として重視している。

しかし、現在、世界の仏教学界においてはこの智顗の教相判釈は否定されている。

また、近年、文献学の目覚しい発展、パーリ語、サンスクリット語等の原語での仏典研究、著しい学術的進歩により阿含経典こそが仏教の開祖お釈迦様が実際にお説きになった内容、もしくは極めて近い内容の経典であると学問的に認められている。

このことについて、「地獄の思想―日本精神の一系譜 (中公文庫)」という書籍で梅原猛教授は

「釈迦の説法集が出来上がったのはむしろ釈迦の死後である。

釈迦の死後に様々な経典が作られた。

そしてその経典の中には釈迦の説というより弟子自身の説が混じるようになる。

後世の人々が釈迦の名において勝手に自己の学説を正当化する経典を作るようになる。

かくして仏滅後五百年も六百年も過ぎて、なお釈迦の名において多数の経典群が作られていく。

そして謎の人、釈迦の正体を解いたのは、ヨーロッパの近代文献学にもとずく仏教学であった。

文献学的な方法にもとずく仏教学は経典の成立年代を大体、考証的に明らかにした。

そして釈迦の正説は、従来、日本においては、小乗と卑しめられてきた阿含部経典や律部経典にあることが分かったのである。

これは伝統的な仏教家にとっては大きなショックであるはずであった。

なぜなら、彼らが千数百年来、崇拝してきた仏教の経典が、釈迦の説ではなく、後世の説であり、彼らが卑しんできた経典こそ釈迦の説であることが明らかになったからである。

もしこのことを知ったら、親鸞や日蓮や道元はどのように驚いたであろうか。」

また、仏教学者の平川彰博士は仏教経典の阿含経について自身の著作である「インド仏教史 上 〈新版〉」という書籍において以下のように書かれている。

「阿含経はアーガマ、つまり伝わったもの、伝承されたものとも呼ばれ、仏陀釈尊の直接の教えが伝承されたものであることを示している。

しかし、これらの経典(阿含経)は仏陀釈尊の死後、仏陀釈尊の直弟子、仏陀釈尊の高弟達の記憶によって仏陀釈尊の教えの内容がまとめられ、又、経典として書きとめられ伝来された為、伝承の間に仏陀釈尊の弟子の理解や解釈が付加され増広され、仏陀釈尊直説の教説が多少変化を蒙ったことは避けられなかったもしれない。

厳密に考察すると阿含経は仏陀釈尊の教えそのものではないかもしれない。

しかし、幾多の仏教諸経典の中で阿含経は仏陀釈尊の教えの内容を最も含んでいる経典であり仏陀釈尊の思想を求めるとすれば先ず阿含経の中に求められなければならない」とある。

さらに、パーリ仏典研究の世界的権威、(故)水野弘元博士は仏教経典の源流について自身の著作「経典はいかに伝わったか―成立と流伝の歴史」において次のように説かれている。

「大乗仏教の般若の空思想や菩薩の波羅蜜の修道法もその源泉、源流は阿含経の中にあります。
インド大乗仏教の祖師と云われる龍樹菩薩や世親菩薩の著作において阿含経の教説は大乗の教説と並べて権威的な典拠として扱われ龍樹菩薩、世親菩薩の著作においてしばしば阿含経が引用されています。」

さらにまた、書籍「バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)」の中で著者は次のように書かれている。

「現在のアーガマ(阿含経)をそのまま釈尊の教えに直結することはあまりにも短絡化しすぎており、今日の仏教学からすれば、むしろ誤りとみなされる。

 ただし釈尊の教えと佛弟子たちの言行録などは、そして、最初期、ないし、初期の仏教の資料はアーガマ(阿含経)にしか存在していないのであり、大乗経典(これを日本人は釈尊の教えそのものと誤解し受容してきた。)には求むべくもないことが明白である以上、何よりもまずアーガマ(阿含経)の解明に専念する仏教文献学が必要不可欠の前提とされる。

そして、それは近代学問として、すでに100年以上の年月を刻んで今日もなお継続している。」

さらに、

「現在の日本には、約7万5000余と言われる仏教寺院で読誦されるお経は、開祖の釈尊の阿含経典は全く顧みられず、開祖である釈尊とは異なる別の仏による大乗のお経の一節であり、そればかりか、その大部分は宗祖に準ずる特記すべき高僧の文がお経として敬われ、読誦され続けている。

 例えば、日本最大の宗派の浄土真宗の場合、大乗経典の浄土三部経、いわゆる無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の一部のほか、宗祖である親鸞の主著、教行信証、行巻の末尾にある正信偈、もしくは、真宗中興の祖とされる蓮如の御文がその宗のお経であり、曹洞宗では大乗経典の般若心経や法華経の一部のほか、宗祖の道元の主著の正法眼蔵から、本来は明治時代に在家信者向きにダイジェスト化したテキストの修証義がお経として読誦されていて、それにより日々の勤行から諸種の行事、仏事、法事までの全てが進行する。

他の宗派においてもほぼこれに準ずる。

 親鸞、蓮如、道元、その他の諸宗祖などは、いずれも、ひときわ偉大な高僧であり、かつ学僧であるとはいえ、彼らは特定の論師であって仏ではない以上、厳密に言えば、これらの人々の著述は経に属するのではなくて、論のカテゴリーに入る。

 それでも日本では、それらがお経とされていて、何人も疑わず、異議を挟むものもいない。」と書かれている。

また、江戸時代に富永仲基という市井の学者がいた。

本居宣長も絶賛する程の学者であったが、この学者は漢訳仏典を全て読破した結果、加上説という説を唱えた。

つまり、漢訳仏典はすべて釈迦が説いたものではなくて、加上、つまり、後代にわたって書き加えられたものが最終的に現在の膨大な漢訳仏典になったという。

彼の説では、釈迦は自分自身、経典を書いたりはしなかった。

そして、釈迦の死後、多くの優れた弟子たちが釈迦の教えを文字に残しておくべきだと考え、弟子の摩訶迦葉が座長になり、約500人の仏弟子と共に、わたしはこのように聞いたという文言、すなわち、如是我聞という文言から始まった多くのお経が作られた。

その時にまとめられたのが阿含経であり、それから500年後に大乗仏教運動が興起し、法華経、般若経、阿弥陀経などのお経が作られ、そして釈迦の死後、約1000年後頃には大日経、金剛頂経などの密教経典が作られたという。

富永仲基氏の結論は釈迦が実際に説いた内容は阿含経のごく一部であったという。

ところで、昔の大蔵経の並ぶ順番は華厳経が先ず一巻目であった。

華厳経が一巻目の理由としては、おそらく天台大師智顗の五時教判に基づくものであると思われる。智顗の考えでは釈迦が最初に説いたお経は華厳経と考えている。

しかし、現代の大蔵経の順番は阿含経が一巻目になっている。

おそらく、五時教判より現代仏教学の見解が正しいと考え、並び方を変えたのではないかと思われる。

龍谷大学 大宮学舎などの仏教系大学の図書館に行けば昔の大蔵経の順番は華厳経が一巻目である事が確認できる。

近所に最新版の大蔵経が置いている大型書店があれば阿含経が一巻目であることを確認されてみたらいかがであろうか。

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キリスト教国と仏教国の言動を比較検証する

旧約聖書の中に、殺人、殺戮を肯定するような文章がある。

例えば、旧約聖書の「出エジプト記 22-18」に

「魔女を生かしておいてはいけない。」などの記載がある。

中世ヨーロッパにおいてキリスト教会が一般の人々を魔女に仕立て上げ、数十万人の人々が処刑された。

また、旧約聖書には羊などの動物を生贄にし神に捧げる儀式を解説した文章などもある。

哲学者のニーチェはキリスト教会の裕福な牧師の息子として生まれたが、ニーチェはキリスト教の残虐性を指摘、キリスト教を邪教として見ていた。

旧約聖書の中にはモーゼの十戒の中に

「汝、殺すなかれ」

という言葉、戒律がある反面、

聖絶思想、

いわゆる主のことばの中に

「根絶やしにしろ!」

「皆殺しにしろ!」というような過激で暴力的な言葉が出てくる。

ユダヤ教徒はその旧約聖書とタルムード(言行録)とトーラー(律法)を聖典としている。

キリスト教徒は新約聖書と旧約聖書を聖典として信仰している。

イスラム教徒は旧約聖書と新約聖書とコーランを聖典として信仰している。

世界にはキリスト教徒は約20億人、

イスラム教徒は約12億人、

ユダヤ教徒は2000万人いるとされている。

旧約聖書には過激な暴力性や残虐性に満ちた言葉がその聖典の中に出てくる。

その旧約聖書を聖典として信仰する信者が三十数億人もいるとすれば、かつて世界大戦で起きたような大量殺戮、大量虐殺、ホロコースト、ジェノサイド、いわゆる大量殺人が起きる可能性がまた出てくると思われ、心配でならない。

ところで、十字の形はキリスト教を象徴するものであるが、昔、キリスト教徒がエルサレムをイスラム教徒から取り戻す為に十字軍という軍隊を編成し、何度も遠征し戦争をし、何度も大量虐殺を行ったが、歴史を調べると、その十字軍の行ってきた蛮行、残虐な行為、虐殺行為はあまりにも凄まじく、ひど過ぎる。

特に女性や子供に対しての凌辱行為も酷い。

また、キリスト教会による組織的な魔女裁判による大量虐殺。

一般の普通の人々を魔女であると言いがかりをつけて多くの女性を殺した魔女裁判による大量虐殺も然り。

一説によると30万人とも言われる大量の人々が虐殺された。

さらに、ヨーロッパからやってきたキリスト教徒たちによる膨大な数のインディアンの大量虐殺。

キリスト教徒によるインディアン虐殺

一説には2000万人ものインディアンが殺されたと言われている。

キリスト教徒によるインディアン虐殺

キリスト教徒によるインディアン虐殺

かつて、欧米諸国は多くの国を植民地化し多くの数々の収奪、搾取、略奪行為を行っていた。

スペイン人によるインカ帝国の人々に対する残虐非道な大量虐殺、大量略奪。

「インカの反乱」という書物を読んで、人間がここまで残酷になれるものなのか?

人の面をかぶった悪魔の仕業である。とこの書籍を読んで強く感じた。

インドネシアはオランダから約350年間、オランダの植民地として長い期間、収奪、略奪されてきた。

また、欧米諸国はアフリカ諸国などの数多くの国々から奴隷として多くの人々を連行し人身売買をしてきた。

イギリスには大英博物館があるが、イギリスはかつての多くの国々を搾取し収奪していた植民地時代に、多数の国々から略奪、強奪したが、大英博物館にはその略奪品、盗難品を展示している感がある。

次に、第二次世界大戦の末期、イタリアが降伏し、日本の敗戦も決定的になろうとした1945年8月9日、突如、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破り、日本に宣戦布告。

多くの日本人がソ連の兵士から虐殺、略奪を受け、終戦後にはシベリアへの強制労働に従事させられ多くの日本人が亡くなっている。

また、これはあまり知られていないが、ソ連についでイタリアも日本に宣戦布告している。

1945年8月15日の敗戦後、宣戦布告してから数日程度しか経っていないのにも関わらずイタリアは日本に対して賠償金の請求をしている。

そのような行為はある意味、火事場泥棒的な印象を受ける。

そのイタリアにキリスト教の本家本元であるバチカン市国がある。

これら欧米列強の国々はほとんどキリスト教国で仏教を信仰する国ではない。

さらにまた、悪魔の兵器のような原子爆弾を日本に投下し、多くの人々、女子供を含む人々を無差別に大量虐殺したのもキリスト教国である。

原子爆弾の爆発

1945年8月6日にアメリカ軍の戦闘機B29は日本の広島にウラン型原子爆弾を投下した。

また、1945年8月9日にもアメリカ軍は日本の長崎にプルトニウム型原子爆弾を投下した。

それにより女、子供などの非戦闘員を含む数十万人の人々が突然、無差別に、一瞬のうちに、焼け死んだ。

建物の殆どが崩壊し跡形も無く、消え去った。

また、数十年にわたり原爆の後遺症に苦しむ人々が多数いた。

原子爆弾による大やけど

原子爆弾による死者

原子爆弾による死者

原子爆弾による死者

原子爆弾による死者

原子爆弾によって殺された日本の子供の死体

原子爆弾によって大やけどをした

日本の少女の体にできた全身のケロイド

最近、私は著名なジャーナリスト、ベンジャミン・フルフォード氏が書いた書籍「マネーカースト 世界経済がもたらす「新・貧富の階級社会」という書籍を読んだ。

その書籍の中に、欧米系ハザールマフィアが郵政民営化やプラザ合意を強引に、力ずくで日本に押し付け、それにより日本国民が所有する何百兆円という莫大な資産を収奪、略奪したことが書かれていた。

ちなみに1兆円がどの程度のお金かというと、日本国民の人口1億人とすると1人当たり1万円を徴収すると1兆円になる大きなお金。

ところで、日本の予算、会計には一般会計という会計とそれとは別に特別会計という一般会計の何倍もの予算のあるお金が日本の予算にはある。

かつて民主党の石井紘基議員がその日本国民にはほとんど知られていない特別会計の莫大なお金が不正に流れている事、一説にはその莫大なお金が海外に流れている事を発見し、石井紘基議員はその事を国会で発表しようとした。

その数日前に何者かによって殺されたという話を本で読んだり、話を聞いたことがある。

また、アメリカからの様々な要求に大変従順であった小泉純一郎元内閣総理大臣、

同じようにアメリカの要求に大変従順であった中曽根康弘元内閣総理大臣、

同じようにアメリカの要求に大変従順である安倍晋太郎現内閣総理大臣

彼らの政権は非常に長期に渡り安泰を保っていた。

2019年11月3日現在の安倍政権もかなりの長期政権になっている。

しかし、一方、アメリカからの要求に対し反発したり拒否した政治家はどうか?

例えば、アメリカ国債の押し売りの購入を拒んだ中川昭一元財務大臣

「アメリカ国債を売りたい衝動に駆られる。」と言ってアメリカの怒りに触れた橋本龍太郎元内閣総理大臣

アメリカから要求されたプラザ合意に反対した竹下登元内閣総理大臣

アメリカとは別に独自の日本の石油購入ルートを開拓しようとした田中角栄元内閣総理大臣

毎年アメリカから日本に突き付けられている年次改革要望書を拒否した鳩山由紀夫元内閣総理大臣など、

これら、アメリカの方針に逆らう政治家は政権期間が極端に短かったり、その政治家が失脚したり、急死したりしている事がわかる。(暗殺の疑い)

アメリカが日本に毎年要求している年次改革要望書には郵政民営化がトップ項目として突き付けられていた。

つまり、日本の政治家を脅し、日本の政治家に圧力をかけ、日本国民の財産、資産を奪い日本国民を貧困状態に陥れている存在がいる。

つぎに、最近の戦争で、アメリカやイギリスが中心となって行ったイラクの石油の略奪が目的のイラクへの爆撃、イラク人の大虐殺、大殺戮がある。

爆撃により戦車の中で焼け死んだイラクの兵隊

この戦争は大量破壊兵器の開発や保有、フセイン政権とアルカイダとの結びつきなど、アメリカは戦争を正当化する嘘を言って戦争を始め、多くの国々を巻き込み、その戦争に協力させた。

 イラクは戦後「経済制裁」が行われ恩恵に預かれなかったが湾岸戦争以降、石油は一気に値上がり、アメリカを始めとする大国は多額の利益を得た。

 1991年の第一次湾岸戦争時、アメリカ政府もメディアも、イラク攻撃の世論作りのために捏造と情報操作をした。

たとえば、ナイラという名前のクウェートの少女が、アメリカの公聴会で「イラクの兵士がクウェートの産院の乳飲み子を保育器から出して、次々と床に叩きつけ殺したのを見た。」と涙ながらに証言した。

しかし、後になって、この少女は、駐米クウェート大使の娘で、ずっとアメリカにいたことが分かった。

この証言はウソである事が判明した。

アメリカの広告代理店がシナリオを作り演出したものでリハーサルもしていた。

スポンサーはアメリカ政府以外にないと考えられる。

捏造がニューヨークタイムズで暴かれたのは1年3ヶ月後。

この「ナイラ証言」が出るまでは、アメリカの世論は戦争反対が多数を占めていた。

しかし、この証言で世論は一気に戦争賛成へと転じた。

たったひとつの捏造が、世論を完璧に逆転させた。

つぎに、この湾岸戦争の「油まみれの水鳥」の映像でもアメリカ政府は世界を騙した。

フセイン大統領が原油を海に流出させたという証拠はなかった。

アメリカ軍の爆撃による可能性も十分考えられた。

しかし、米政府はサダム・フセインの暴挙だと非難。

「油まみれの水鳥」の映像はフセインの「環境テロ」として世界を駆け巡った。

「極悪フセイン」のイメージが、世界の人々の脳裏に焼きついた。

しかし、今では、この原油流出の原因は、米軍の爆撃であるとされている。

この湾岸戦争後に湾岸戦争症候群という放射能汚染の影響と考えられる病気が多数現れている。

アメリカ軍が使用した劣化ウラン弾による影響と言われている。

劣化ウラン弾の準備をするアメリカを

中心とした多国籍軍の戦闘機とその兵隊

アメリカを中心とした多国籍軍による爆撃で

廃墟になったイラク国内の建物

劣化ウラン弾の影響によるものと

考えられるイラクの子供の奇形

劣化ウラン弾の影響によるものと

考えられるイラクで生まれた赤子の奇形

劣化ウラン弾の影響によるものと

考えられるイラクの子供の奇形

劣化ウラン弾の影響によるものと

考えられる湾岸戦争から帰った

アメリカ帰還兵の子供の奇形

劣化ウラン弾の影響によるものと

考えられるイラクで生まれた赤子の奇形

しかし、アメリカ政府はその因果関係を否定し、その政府による賠償責任を拒否している。

さらにまた、約10年後の2003年、イラク戦争開始の直前、アメリカのパウエル国務長官は、イラクの「大量破壊兵器の保有」の確固たる証拠を持って、世界の首脳に説明して回った。

しかし、イラク戦争開始後の翌年2004年に、パウエル長官は大量破壊兵器について

「いかなる備蓄も見つかっておらず、この先も発見されることはないだろう。」と証言。

今までの経緯から見ると、アメリカ政府は最初からイラクに大量破壊兵器は無かったと分かっていたのではないか?

と思われる。

寝ている時にアメリカ軍のミサイルが当たり左目を失明したイラク人の少年

アメリカ軍の銃撃で左目を失明したイラク人の少年

アメリカ軍の銃撃により5人の子供を殺され悲嘆にくれるイラク人の母親

また、2011年、欧米各国、NATO軍によるリビアへの空爆、爆撃があり、リビアのガダフィ大佐が殺害された。

NATO軍により惨殺されたリビアのガダフィ大佐

リビアのガダフィ大佐の殺害後、欧米諸国、NATO軍はリビアが所有する石油利権の略奪。

また、リビアが所有する60億ドル(日本円で6000億円)相当の金塊の略奪、

さらに、リビアが所有する720憶ドル(日本円で7兆円相当)の現金や債券の欧米諸国、NATO軍による強奪があった。

そもそも、リビアのガダフィ大佐はリビアのすべての国民に家を持たせると宣言し、結婚したリビア人のカップルが家を購入する際、5万ドル、いわゆる日本円で約500万円ものお金を結婚したカップルに支給し、さらに、家のローンの金利はすべて0、医療や大学を含む全ての教育費は全て無料、電気代も無料にするなど、政治家として一定の成果をあげておりリビアの国民からの信頼も厚かったといわれている。

リビアのガダフィ大佐は欧米各国が指摘するような狂暴な人間ではなく、温厚で誠実な人間であった。

リビアのガダフィ大佐

このように歴史を見てみると、アメリカやイギリスなどのキリスト教国の大殺戮、大虐殺、略奪と搾取、虚偽と偽証の連続。

アメリカやイギリスなどのキリスト教国は道徳的に見ても、倫理的に見ても、人道的に見ても極めて深刻な過失、過ち、問題があるように感じる。

一方、仏教を信仰する国々、例えば、タイ、ビルマ、スリランカ、チベット、ブータンなどのような仏教に対する信仰心が特に極めて篤い国で、はたして、そのような他国に侵略し、他国の人々の富を収奪強奪したり、他国の人々を奴隷として自分の国に強制的に連行したりしたという話はあったであろうか。

私は寡聞にしてそんな話は聞いたことがない。

例えば、生粋の仏教国スリランカの話をすると、第二次世界大戦が終わりサンフランシスコ講和条約が締結され、世界の諸国は敗戦国の日本に賠償を要求したが、その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加したが、日本に対する全ての賠償権を放棄した。

その時のスリランカの政府首脳達は声明の中で、仏典「ダンマパダ」の次の言葉を引用し次のように言った。

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの止むことがない。怨みを捨ててこそ怨みが止む。これは永遠の真理である。」

「戦いは終わったのだ。もはや怨みに報いるに怨みを以ってすることはやめよう。

この精神でセイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい。」と。

また、会議の際、日本の敗戦後、日本を4分割して占領統治するという案が浮上した。

おおまかに説明すると、

北海道がソ連(現在のロシア)

本州がアメリカ

四国が中国

四国 九州がイギリスで占領統治するという案である。

日本の占領とはいわゆる日本の国家財産の収奪、略奪、日本の植民地化である。

これに異議を唱えたのがインド スリランカなどのアジア諸国であり、特に反対したのは、後にスリランカの大統領に就任するスリランカのジャヤワルダナ氏であった。

ジャヤワルデナ氏は日本の分割統治に強く反対し、日本は独立国として認めることを各国の代表に強く訴える名演説を行った。

この長時間にわたる名演説は各国の首脳の心を強く打ち、日本の分割統治、分割占領が無くなったと言われている。

日本のことわざに「困ったときに助けてくれるのが本当の友達である。」ということわざがあるが、これらの事柄を見ても、真の友好国はどの国かが分かると思う。

これらを見ても、同じ宗教としてどちらが平和的で温情的で倫理的、道徳的に優れているかは一目瞭然として分かると思う。

どちらの宗教が魂のふるさとのような宗教であるか、

どちらの宗教が魂の安息所のような宗教であるか

どちらの宗教に真の魂の救済力があるか一目瞭然だと思う。

真の宗教、正しい宗教は、信仰しない人々に対し懲罰や殺戮の命令を下すような神様を信仰することでは無い。と思う。

 真の宗教、本当に正しい宗教とは、「万人に対する愛と慈悲」、「全ての生物に対する愛と慈悲」を説く宗教であると思う。

新新宗教のゲリー・ボーネル氏は、将来、仏教が全ての宗教の代わりになり、キリスト教もイスラム教も無くなっていくでしょう。と書籍の中において言及されている。

また、インド哲学、仏教学の世界的権威である今は亡き、中村元博士は次のように述べられていた。

インド哲学 仏教学の世界的権威 中村元博士

「世界には多くの宗教が存在するが、仏教は武力によらずして広まった数少ない宗教のひとつである。」

仏教の平和主義について高く評価されていた。

さらにまた、日本仏教の祖師、聖徳太子の「和を以て貴しとなす」という言葉は有名である。

そういう風に言うと、戦時中、日本は朝鮮人の方々を日本に連行したではないか?

中国はチベット人の方々を侵略、虐殺したではないか?

といわれるかもしれない。

しかし、厳密に言えば、日本は神道の国で、中国は儒教の国であるので、純粋な、生粋の仏教国とは言えないと思う。

ところで、仏教経典の増壱阿含経第七巻の五戒品第十四において盗み、泥棒、窃盗、略奪行為の報いについて説かれているお経が存在する。

その主な主旨内容は、盗み、泥棒、窃盗行為を多く行った者はその罪の報いにより未来、将来、死後、来世において地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ赴くと説かれている。

また、人間に生まれ変わっても極めて貧しく、衣服や食事に極めて事欠く境涯に生まれ赴くと説かれている。

仏教では六道輪廻を説きます。

六道輪廻とは生き物達が天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六道つまり六つの境涯を途方もない膨大な期間、途方もなく膨大な回数、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしている。

輪廻転生している。

その六道のうち畜生界、いわゆる動物の境涯、餓鬼界いわゆる飢えや渇きに苦しむ境涯、地獄界いわゆる地獄の鬼達に残虐に責め立てられ痛めつけられ苦しめられる極めて残虐悲惨な境涯は三悪道、三悪趣といって六道輪廻の中では最も苦しい境涯であると説きます。

ところで、仏教の見解では神を絶対の存在として考えていない。

神々も人間と同じように六道輪廻をする存在である。

たとえば、いかに偉大な神といえども、はるかに長い寿命を誇っている神も寿命が尽きると地獄界や餓鬼界、畜生界に堕ちることもある。

日本の神道史学の最高権威である元東大教授(故)宮地直一博士は自身の書籍「神道史 上巻」のなかで次のように解説されている。

「神という階級は絶対にあらず、もとより人間より上に位せるも、仏にあらず、覚者にあらず、それ以下の限られた能力の持ち主にて宿世の宿業によって神の身を得たるものなるがゆえに輪廻転生を免れず六道輪廻の中にいる存在である。」と書かれ

神の絶対性を否定している。

つまり、神でも死後に地獄や餓鬼界、畜生界などに転生する可能性もあるということである。

その神を超えた覚者であるとされている仏陀はパーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ、雑阿含経において次のように説かれている。

「他人から奪った人が他人から奪われるのである。

愚か者は悪の報いが実らない間は悪の報いがない事を当然のことだと考える。

しかし、悪の報いが実ったときには愚か者は苦悩を受ける。

殺す者は殺され、怨む者は怨みを買う、

また罵りわめく者は他の人から罵りを受ける、

怒りたける者は他の人から怒りを受ける、・・後略」

さらに法句経においてブッダは

「悪業の報いはたとえ大空においても大海においても奥深い山中に隠れても悪業の報いからは逃れることが出来ない」と。

さらにまた、パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ及び漢訳仏典雑阿含経において ブッダはこうお説きになられている。

「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて連れて行く事は出来ない。

全てを捨てて行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり、身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また、言葉や心で行ったもの、つまり、言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い  また、心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等

それこそが、その人自身のものである。

人はそれを受け取って行くのである。

それはかれに従うものである。

影が人に従うように。

それ故に善い事をして功徳を積め。

功徳は人々のよりどころとなる。」

次に、仏典パーリ中部経典の中の賢愚経(けんぐきょう)、漢訳仏典 中阿含経の癡慧地経(ちえぢきょう)というお経がある。

そのお経において仏陀は次のように説かれている.

「極悪非道な行いをした者は死後、地獄に堕ち極めて残虐悲惨な苦しみを受ける」と仏典に説かれている。

最古の仏典スッタニパータやパーリ中部経典の中の賢愚経、漢訳仏典中阿含経の癡慧地経において仏陀はこのように説かれている

「仮に賭博(とばく)や博打(ばくち)に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運があったとしても、罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後、地獄へ堕ち、膨大な年数、極めて残虐悲惨な苦しみを受ける地獄での大苦痛大苦悩に比べれば賭博、博打に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運などはとるに足らない僅(わず)かな不運である。」

つまり「罪、悪事を犯しその罪、悪事の報いにより死後地獄へ堕ち、膨大な年数、残虐で極めて悲惨な苦しみに遭遇する地獄へと堕ちる不運こそが最悪の大不幸、大不運である。」という内容が説かれている。

また地獄にも種類があり阿鼻地獄、無間地獄という地獄がある。

阿鼻地獄(無間地獄)は最も極悪非道な行為をした者が赴(おもむ)く地獄であり、最も痛み苦しみの激しい、極めて残虐極めて悲惨な地獄であると仏典に説かれている。

仏教経典には地獄という世界が説かれている。

地獄とは悪い事をした者が死後に生まれ赴く極めて苦しい、極めて残虐悲惨な世界。人や生き物を殺したり、いじめたり、苦しめたり、悩ませたり、悲しませたり、困らせたりした者、人の物を盗んだり、人をだましたりした者が死後に赴く世界。

特に阿含経、正法念処経、大智度論などの経典論書において地獄について詳しく解説した箇所がある。

日本において地獄の観念が多くの人々に弘まった大きな原因のひとつは天台宗の源信という僧侶が「往生要集」という書物を著しその書物が多くの人々に読まれたからであろう。

この「往生要集」は今から約千年程前に書かれた書物で現在に至るまで多くの人々に読まれている。

この「往生要集」で引用されている経典の種類は極めて多く、源信様がいかに多くの経典を読まれたかが分かる。

また地獄の状況を絵で表現した地獄絵というものもある。

地獄絵は文字が読めない人々や子供達に対し仏教の教義を分かり易く解説する役割を果たし、多くの人々に倫理観、道徳意識、勧善懲悪の観念を植え付け、また地獄に対する恐怖心が凶悪犯罪の防止、犯罪抑止力の役割を果たしていたと考えられる。

次に、真言宗開祖、弘法大師空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において盗み、窃盗、泥棒、収奪の業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は

「ある一人の鬼(死者)がいた。

その鬼が仏弟子である目連尊者に対しこのように質問した。

「私の腹は極度に大きく、のど、手足は極度に細くて食べ物や飲み物を取ること、食事をする事が出来ない。何が原因でこのような苦しみを受けるのか。」

目連尊者は答えて言った。

「あなたは前世において高い地位にあり富貴、裕福で、さまざまな食事、お酒を大いに楽しんだが、他の人々を軽視し、侮り、見下し他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた。

このような他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた行い、行為、因縁、業報、罪の報いによりこのようなひどい苦しみを受けている。

これは果報、業報であり、このような罪の報いによる地獄の苦しみは後になって受けるのである。」

次に、仏教経典「国訳一切経 (印度撰述部 阿含部 2)」という書籍の中の雑阿含経第十九に屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

例えば、屠牛者経を例に挙げるとそのお経の概要は釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなお、その屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

また我(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

屠羊者経 殺猪経 猟師経も屠牛者経と同様、大体似た内容で説かれている。

そのお経に共通する主な内容は、生きている間において、人間や動物達等の生き物の屠殺、殺生を行った者がその死後において、その屠殺、殺生を行った罪業の報いにより非常に長い年月の間地獄において苦しめられる極めて悲惨な世界に赴き、多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達、カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

 書籍「間脳思考―霊的バイオ・ホロニクスの時代」という書籍の中において一般の方々には難解と思われる国訳一切経(阿含部)の中の好戦経と堕胎経その他のお経について非常に分かり易く解説されている。

 ところで、仏教教団 阿含宗の開祖 今は亡き、桐山靖雄猊下の著作である
「人間改造の原理と方法―原始仏教から密教まで」
のあとがきで、

桐山靖雄猊下は次のように説かれている。

「我々は仏陀にはなれないかもしれないが、仏陀の残された教法を修行することにより賢者にはなれる。

いかなる場合にも、殺し合い、傷つけ合い、奪い合うような愚かな行為を演じない賢者に・・・。

 そうしてまた、そういう愚かな行為を絶滅させ、限りない愛と慈悲に満たされた高度で豊かな社会を作り出す賢者に・・・。」

1986年4月、当時のスリランカのジャヤワルダナ大統領は阿含宗の開祖 桐山靖雄猊下をスリランカに招待し釈迦のご遺骨である仏舎利を授けられた。

この仏舎利は西暦1898年に、インド ブッダガヤの金剛宝座の下から発掘されたとされている。

金剛宝座とは釈迦が悟りを開くため、正覚を得る為、ブッダになる為に瞑想した場所、悟りを開くための瞑想の際に座った場所。

これについての話は書籍 「守護霊の系譜―こうして守護霊を持てに詳しく書かれている。

また、1986年4月にジャヤワルデナ大統領から仏舎利を授けられる約2年程前の1984年1月、阿含宗の開祖、桐山靖雄猊下は「間脳思考」という書籍を著した。

その書籍の中で著者の桐山猊下は阿含経の好戦経というお経を解説されている。

そのお経の主な内容は生前、戦争を好み、刀や武器などで多くの人々を殺傷し、傷つけた者が死後、その人を殺し傷つけた罪障により地獄に堕ち、極めた長い期間、地獄の苦しみを受け、その地獄の余罪によりカラスなどの多くの鳥獣により体を啄まれ酷い苦しみ、苦痛にあえぐ霊体をお釈迦様と高弟子の目連尊者が霊視した話が説かれている。

地獄の余罪でこのような苦しみを受けるのであれば本当の地獄の苦しみは物凄い苦痛である事であると桐山猊下はこの書籍の中で解説されている

ファイナル・ウォー アメリカが目論む最後の「日本収奪計画」

泥棒国家の完成

「ヤクザ・リセッション さらに失われる10年 (光文社ペーパーバックス)

「日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日 (光文社ペーパーバックス)

国富」喪失 (詩想社新書)

拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる (文春新書)

「ゆうちょマネー」はどこへ消えたか: “格差”を生んだ郵政民営化の真実

真実を聞いてくれ―俺は劣化ウランを見てしまった

書籍「劣化ウラン弾―湾岸戦争で何が行われたか

【Amazon.co.jp 限定】M9.0東京直撃の日ー日本列島激マップ

「魔女狩り (岩波新書)

「インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫)

世界から戦争がなくならない本当の理由

広島・長崎の原爆災害 (1979年)

昭和の戦争の真実 (扶桑社BOOKS)

インカの反乱―被征服者の声 (岩波文庫)

「キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 (講談社+α新書)

「ブッダのレクイエム」―血塗られた人類史は、宗教の投影だ! 

キリスト教の悲惨 (りぶらりあ選書)

図説 魔女狩り (ふくろうの本/世界の歴史)絵で見る十字軍物語

敗戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人ースリランカのジャヤワルダナ大統領ー (ジュニアノンフィクション)

人類アカシャ全史―アカシックレコードから読み解く人類の起源と歴史、そして驚愕の近未来

旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2)

弘法大師著作全集 (第1巻)

日本の美術 no.271 六道絵

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

「間脳思考―霊的バイオ・ホロニクスの時代

人間改造の原理と方法―原始仏教から密教まで

守護霊の系譜―こうして守護霊を持て

国訳一切経 (印度撰述部 阿含部 2)」

「大正新脩大蔵経 (第2巻) (普及版大正新脩大蔵経)

書籍「国訳一切経 (印度撰述部 阿含部 8)

インド哲学 仏教学の世界的権威 中村元博士

聖徳太子

幼少期の聖徳太子

チベット仏教 生死輪図

ブッダ釈尊

閻魔大王

死後、瑠璃鏡で生前の行いを見せられる亡者

地獄絵

地獄絵

弘法大師 空海

阿含宗開祖 桐山靖雄猊下 

1986年4月7日 スリランカのジャヤワルダナ大統領から

阿含宗の開祖、桐山靖雄猊下に仏舎利が授けられる。

釈尊成道の聖地 インド ブッダガヤ 

菩提樹下の金剛宝座

b」



日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日 (光文社ペーパーバックス)














浄土真宗の開祖の親鸞聖人が説く悪人正機説は仏説と相矛盾する危険な邪説であると私は考える。

浄土真宗の親鸞聖人の悪人正機説は仏説と相矛盾する外道の説であると私は考える。

特に、仏教や倫理、道徳教育をほとんど受けていない子供たち、青少年たち、一般的に、大人に比べると思慮分別が乏しいと考えられる子供たち、青少年たち、この言葉をそのまま文字通りに、彼ら、彼女たちに教えると、彼ら、彼女たちの多くは「仏教では悪人は正しいと説いている。」と解釈し、仏教に対し誤った解釈、いわゆる誤解や混乱を招く恐れが多いにある。

悪人正機説は危険な言葉、危険な文言であると思う。

凶悪犯罪の原因になりかねない言葉であるように思われてならない。

完全に間違っている説であると私は考える。

そもそも、仏教の根本的な教え、ブッダ、真理に目覚めた等正覚者達の最も重要な教えと、根本的な教えは

「良いことをしなさい。悪いことはしてはいけない。」

という倫理、道徳の実践の教えであるといえる。

漢訳仏典においても

諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」 という

七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)という有名な言葉がある。

七仏とは過去7人の偉大なブッダがいたとされている。

すなわち、

毘婆尸仏、 尸棄仏、毘舎浮仏、倶留孫仏、倶那含牟尼仏、 迦葉仏、釈迦牟尼仏

お釈迦様はその中の一人である。

その方々の共通する教えが先に述べた通り

諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

という七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)なのである。

またパーリ仏典の法句経(ダンマパダ)においてブッダは次のように説かれている。

「一切の悪をなすことなく、善を具備実践し、自分の心を浄化すること、これが諸仏の教えである」

諸仏とは真理に目覚め、ブッダとしての悟りをお開きになられた覚者達の事。

確かに、中には

「親鸞聖人の悪人正機説はそのような悪人が正しいという意味で説いたのではない!」

「悪人にも正しい所はあるという意味だ!」

「もっと教学を勉強しろ!」

「もっと深い意味を読み取れ!」

と立腹、お叱りを受けるかもしれない。

しかし、明らかに、この言葉そのものは普通に解釈すれば「悪人は正しい。」と解釈してしまう危険性を秘めた言葉であると考えざるを得ない。

さらに、大人に比べると思慮分別が乏しいと考えられる子供たち、青少年たち、この言葉をそのまま文字通り、彼ら、彼女たちに教えると、彼ら、彼女たちは「悪人こそ正しい。」と解釈して仏教に対し誤解や混乱を招きかねない。

そもそも、浄土真宗の親鸞聖人の悪人正機説という言葉自体、釈迦牟尼世尊、ゴータマブッダ、過去に現れた多くのブッダ達の言葉の内容と相矛盾する外道の説、邪道の説であると考えざるを得ない。

確かに、親鸞聖人は仏教を一部の特権階級のものから一般大衆のものにしたという偉大な功績がある、つまり、仏教の教えを民衆が使う言葉で初めて布教しだしのは日本では鎌倉時代、日蓮上人や法然上人、親鸞聖人だとされている。

また、親鸞聖人の宗教的な情熱は素晴らしいものであり、尊敬に値するものと思う。

しかし、仏教徒は仏祖への報恩謝徳の為、一般民衆の幸福の為、誤りのない、誤解のない、わかりやすい、正しい仏教、正しい仏法を社会に広めなければならない。と思う。

それが義務であると思う。

確かに私自身、不勉強の部分はあるかもしれないが、私のその意見について是正、叱正して下さる方がいれば幸いです。

最後に、書籍「バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)」の中で次のように書かれている。

「現在のアーガマ(阿含経)をそのまま釈尊の教えに直結することはあまりにも短絡化しすぎており、今日の仏教学からすれば、むしろ誤りとみなされる。

ただし釈尊の教えと佛弟子たちの言行録などは、そして、最初期、ないし、初期の仏教の資料はアーガマ(阿含経)にしか存在していないのであり、大乗経典(これを日本人は釈尊の教えそのものと誤解し受容してきた。)には求むべくもないことが明白である以上、何よりもまずアーガマ(阿含経)の解明に専念する仏教文献学が必要不可欠の前提とされる。

そして、それは近代学問として、すでに100年以上の年月を刻んで今日もなお継続している。」

さらに、

「現在の日本には、約7万5000余と言われる仏教寺院で読誦されるお経は、開祖の釈尊の阿含経典は全く顧みられず、開祖である釈尊とは異なる別の仏による大乗のお経の一説であり、そればかりか、その大部分は宗祖に準ずる特記すべき高僧の文がお経として敬われ、読誦され続けている。

例えば、日本最大の宗派の浄土真宗の場合、大乗経典の浄土三部経、いわゆる無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の一部のほか、宗祖である親鸞の主著、教行信証、行巻の末尾にある正信偈、もしくは、真宗中興の祖とされる蓮如の御文がその宗のお経であり、曹洞宗では大乗経典の般若心経や法華経の一部のほか、宗祖の道元の主著の正法眼蔵から、本来は明治時代に在家信者向きにダイジェスト化したテキストの修証義がお経として読誦されていて、それにより日々の勤行から諸種の行事、仏事、法事までの全てが進行する。

他の宗派においてもほぼこれに準ずる。

親鸞、蓮如、道元、その他の諸宗祖などは、いずれも、ひときわ偉大な高僧であり、かつ学僧であるとはいえ、彼らは特定の論師であって仏ではない以上、厳密に言えば、これらの人々の著述は経に属するのではなくて、論のカテゴリーに入る。

それでも日本では、それらがお経とされていて、何人も疑わず、異議を挟むものもいない。」


写真と絵で見る仏教

釈尊の何代も前の前々々世、はるか大昔、釈尊がスメーダ(善慧)という名前の人間であった時、スメーダは然灯仏(ねんとうぶつ)(ディーパンカラ)に対する心からの尊敬心と憧憬心から泥道を歩こうとしている然灯仏が少しでも足が汚れないよう、スメーダ自身の結んでいた髪を解きほどき、泥の上に体をうつぶせにして自らの長い髪を投げ出し「私の背中を踏んでいって下さい。」と言い、然灯仏(ディーパンカラ)を心から拝んでいる姿が見てとれる。

そして、然灯仏(ディーパンカラ)はそのスメーダの心の中を読み取りスメーダに「遠い将来、あなたは必ずブッダになる。」と予言されたとされる。

これが、いわゆる、然灯仏授記本生図の話である。

また、この釈尊のはるか遠い前世のスメーダが燃灯仏に対して行った全身をかけた礼拝が、今現在、チベットで盛んに行われている仏様への礼拝、いわゆる五体投地に似ており、五体投地の原点のように私自身、その思えてならない。

インドで釈迦として人間に生まれ変わる直前、

兜率天で修行する釈迦の前世の姿。

釈迦の直前の前世は兜率天の善慧菩薩。

託胎霊夢

マーヤ夫人の釈尊懐妊 釈尊降誕像

マーヤ夫人の釈尊降誕

釈尊の降誕(チベット仏画)

釈尊の実母 マーヤ夫人

産まれたばかりの釈尊の体に産湯をかける従者たち

産まれたばかりの釈尊の将来をアシタ仙人が王宮に来て占い、

釈尊が将来、王の地位を継承するならば転輪聖王になり、また、

出家をすれば世界を救うブッダになります。と予言した。

青年時代の釈尊

仙人を訪ねる釈尊

禅定の達人であるアーラーラ・カーラーマの

弟子になる釈尊

釈尊苦行像

断食修行を終え、新たな瞑想修行を始める

為、体力、気力を付けるため、スジャータという娘から

乳粥の供養を受ける釈尊

瞑想するブッダ釈尊

瞑想するブッダ釈尊

釈尊の悟りを開く修行を妨害するために

集まってきた悪魔の群衆。

釈尊の悟りを開く修行を妨害するために

集まってきた悪魔の群衆。

釈尊の悟りを開く修行を妨害するために

集まってきた悪魔の群衆。

釈尊降魔成道仏画(チベット仏教)

釈尊成道像(インド)

釈尊成道後、ムチャリンダ龍王の護仏

民衆に対して説法するのを躊躇していた釈尊に対し、

説法するよう懇願する梵天

釈尊初転法輪像

火神堂内毒龍調伏

拝火教の指導者、迦葉三兄弟の釈尊への帰依

拝火教の帰仏

ブッダ説法像

ブッダ説法像

ブッダの説法を聞き入る聴衆

在家信者のスダッタ長者が

釈尊に祇園精舎を布施寄進する様子

ブッダに対する供養

ブッダに布施する職人

ブッダに布施する子供

セイロン島(スリランカ)に上陸するブッダ

ブッダ シュラヴァスティの神変

(舎衛城の神変)

ブッダ シュラヴァスティの神変

(舎衛城の神変)

ブッダ シュラヴァスティの神変

(舎衛城の神変)

ブッダ シュラヴァスティの神変

(舎衛城の神変)

ブッダ シュラヴァスティの神変

(舎衛城の神変)

ブッダ シュラヴァスティの神変

(舎衛城の神変)

洞窟内で瞑想するブッダ

涅槃入滅する前の釈尊(チベット仏画)

釈尊涅槃図絵(日本 高野山 金剛峯寺)

釈尊涅槃

釈尊涅槃

釈尊涅槃像(インドネシア アジャンター石窟)

釈尊の遺骨を祀る仏舎利塔(ストゥーパ)を礼拝供養する人々

釈尊の遺骨を祀る仏舎利塔(ストゥーパ)

仏足石(ネパール)

仏足石を礼拝する女性たち

ブッダ釈尊が悟りを開いた地とされているインド ブッダガヤ

ブッダ釈尊が悟りを開いた地とされているインド ブッダガヤ。

釈尊がこの聖菩提樹の木の下で悟りを開いた際、正覚を得た際に

座った地とされている金剛宝座。

チベット仏教 生死輪図(生き物が天界、人間界、修羅界、

畜生界、餓鬼界、地獄界の六つの境涯を輪廻転生、

すなわち、何度も何度も生まれ変わりを

繰り返す様を描いた仏画)

チベット仏教 生死輪図(生き物が天界、人間界、修羅界、

畜生界、餓鬼界、地獄界の六つの境涯を輪廻転生、

すなわち、何度も何度も生まれ変わりを

繰り返す様を描いた仏画)

薬師如来

準提観世音菩薩

地蔵菩薩

弥勒菩薩

如意輪観音

文殊菩薩

不動明王

不動明王

閻魔大王

死後の裁判状況

死後の裁判状況

死後の裁判状況

死後、生前に行った悪い行為の一部始終を

瑠璃鏡で見せられる亡者

獄卒に連行される亡者、その状況を見る、亡者の子供

地獄 獄卒絵

地獄の獄卒と罪人

地獄の獄卒

地獄絵

地獄絵

地獄絵

地獄絵

地獄絵

餓鬼たちに食物を分け与える僧侶たち

飢えに苦しむ餓鬼と対面する仏弟子の阿難尊者

餓鬼界に堕ちていた母に食物を与えるも

罪業が深く、食物を口に入れようとするも

口から火を噴き食べ物が食べられない母を見て号泣する目連尊者

大乗仏教の創始者 龍樹菩薩(チベット仏画)

大乗仏教の創始者 龍樹菩薩

チベット 釈迦牟尼仏像

インドネシア ボロブドゥール遺跡

インドネシア ボロブドゥール遺跡

スリランカ 大仏像

タイ 大仏像

中国 大仏像

中国 大仏像

中国 雲崗の大仏像

玄奘三蔵法師

求法の為、インドへの旅の途上、

砂漠で遭難し行き倒れになっている

玄奘三蔵法師を助けに現れた深沙大将

日本仏教の祖 聖徳太子

日本仏教の祖 聖徳太子

日本仏教の祖 聖徳太子

法隆寺 夢殿 救世観音像

法隆寺 夢殿 救世観音像

日本 奈良 東大寺 大仏像

日本 奈良 東大寺 大仏像 御尊顔

日本 奈良 東大寺 大仏像 御尊顔

日本 奈良 東大寺 大仏像 御尊顔

日本 奈良 東大寺 大仏像 御手

真言密教開祖 弘法大師 空海

求法の為、遣唐使船に乗船する弘法大師空海

求法の為、遣唐使船に乗船する弘法大師空海

求法の為、遣唐使船に乗船する弘法大師空海

弘法大師空海の乗る遣唐使船に

現れたとされる湧現観音

天台密教 智証大師円珍

黄不動明王

インド哲学 仏教学の世界的権威 中村元博士

阿含宗開祖 桐山靖雄管長猊下

阿含宗開祖 桐山靖雄管長猊下

チベット仏教第十四世ダライ・ラマ法王猊下


仏教篤信者の夢の神秘体験

インドの古代奥義書、ウパニシャッドの中に「深い睡眠と真実の自己はつながっている。」という言葉がある。

確かに、思い起こせば、篤信の仏教信仰者、いわゆる信心深い仏教信仰者にある種の夢の啓示を受けた方が何人かおられる。

たとえば、真言宗の開祖、弘法大師空海は若い頃の修行時代、夢の中に毘盧遮那仏が現れ、「汝の求めているお経は久米寺の東塔の下にある。」と教えられ、久米寺に行くと空海の求めていたお経、大日経、いわゆる大毘盧遮那神変加持経を発見したという話がある。

 奈良 東大寺 毘盧遮那仏像

  真言密教開祖 弘法大師空海

また、弘法大師空海が求法の為、密教の奥義を求め、唐(今の中国)に渡り、唐の大阿闍梨、いわゆる密教の専門家、密教の大導師、密教の大家である恵果和尚に会った。

 遣唐使船に乗船する弘法大師空海

そして、恵果和尚は空海を一目見、言葉を交わすごとに、恵果和尚は空海の持つ天性のずば抜けた学問、識見、才能、仏性、人格、仏器、なによりも密教の師匠としての器の非凡さ、凄さに大変惚れ込み、今まで恵果和尚の高弟たちにさえも金剛界法、胎蔵界法の両部の大法は授けることはなかったが弘法大師空海に対しては特別に両部の大法を惜しげもなく授けた。

恵果は空海に対し、恵果のお弟子、3000人以上いる弟子の中の特に優れた弟子、いわゆる高弟以上の処遇対応、指導教化をした。

そして、インドから中国へと代々続く密教の祖師の系譜があり、恵果和尚はその七代目であり、弘法大師空海を恵果に次ぐ真言密教の第八代目の祖師に指名、任命した。

そして空海に遍照金剛(へんじょうこんごう)という称号を授けた。

遍照金剛とは大日如来を意味する。

それを見た恵果和尚の高弟の珍賀が恵果和尚に対し強く抗議し、

「たかだか三ケ月程前に突然現れた異国の僧に対して、これほどまでに破格の厚遇、指導をするのは、おかしいのではないか?」と恵果和尚をたしなめた。

しかし、その夜、珍賀の夢の中に仏教の外護神、四天王たちが現れ、夢の中で珍賀は仏教の外護神の四天王たちに囲まれ、凄い叱責を受け、殴られ、蹴られたりする夢を見た。

翌朝、目覚めた珍賀は弘法大師空海に対し今までの非礼を詫び、恵果和尚の考えに間違いは無いと考えを改め、他の門下生にも恵果和尚の考えに間違いがないことを説きまわったとされている。

恵果和尚は空海に対し、全ての密教の大法秘法を授け、空海に対し、早く日本に帰り、日本にこの密教の秘法を広く弘め、民衆を益するよう空海に託した。

次の夢に関する話として、霊友会4代目の会長の大形市太郎氏は昭和20年8月に原子爆弾の被害を受け、その原子爆弾の熱線で全身大やけどをしたが、ある夜、信心深い市太郎氏の母親の夢の中に先祖が現れ、「おまえの息子の大やけどは私が教える場所の薬屋で私が教える薬を買い、その薬を全身に塗ればきれいに治る。」といわれた。

母親は市太郎氏にその話をして市太郎氏は「原爆で跡形もないであろう。」と思いながらも母が夢の中で見た先祖が言われた通りの道を行くと不思議にもその薬屋は原爆で破壊されていなかった。

そして、市太郎氏はその薬屋で先祖が言われた通りの薬を買い、母親にやけどをした全身の皮膚にその薬を塗ってもらった。

のちに、市太郎氏の友人たちは病院で治療を受けたが原爆のケロイドは残った。

しかし、市太郎氏にはケロイドは残らなかったという。

そのことが契機となり無宗教、無信心、無信仰者であった市太郎氏は「信仰の力、目に見えない力というものは確かにあるんだ。」と考え、その信心深い母親にお経の読み方を一から教えて欲しいと頼んだ。という。

(雑誌 一個人 仏教を愉しむ旅 2005年 No.56  KKベストセラーズ参照)

次の夢に関する話として、瑜伽師地論という論書は仏教の百科全書ともいわれている大部の論書であるが、昔、インドにおいてその瑜伽師地論を修めたインドの戒賢という僧侶がいた。

戒賢はある時期から重い病に伏し、苦しみのあまり食を断って死を覚悟する状態であった。

ある夜、病に伏す戒賢は夢の中に文殊菩薩、弥勒菩薩、観音菩薩、3人の菩薩が現れ、戒賢にこう言った。

「3年後に中国から一人の青年が瑜伽師地論を学びにこの寺にやってくる。その青年に汝の修めた瑜伽師地論を教え導くと誓うならば汝の病は速やかに癒えるであろう。」

と言われた。

戒賢は「そのようにします。」と答えると3人の菩薩は姿を消し、戒賢は目を覚ました。

そして、しばらくすると戒賢の重い病も次第に悉く癒えてしまった。

そして、戒賢がその夢を見た3年後にこの寺にやってきた青年が玄奘三蔵法師であったという。

 玄奘三蔵法師

その玄奘三蔵が戒賢から瑜伽師地論を学び、また、大般若経600巻という大部のお経も中国に持ち帰り、中国において梵語(インドの言語)から漢語(中国の言語)に翻訳する作業をしていた時、大般若経の翻訳量があまりにも膨大過ぎ、かつ、同じ文言の繰り返しが非常に多いので、繰り返しの箇所は省略して翻訳するように決めた。

しかし、そのように決めたその夜、玄奘三蔵は虎に襲われる夢や崖から突き落とされる夢を見たりし、物凄い恐ろしい思いをし、翌朝目を覚ました。

玄奘三蔵は、これは「翻訳は一切省略せずに全てを翻訳しろ!」という御仏の意思に違いないと考え、翌朝、同じ文章が重複するところも一切、省略せずに翻訳しようとした。

そのように全て省略せずに全翻訳を心に決めたその夜、玄奘三蔵は天国のような、まるで極楽浄土にいるかのような快楽に溢れた誠に心地のよい夢を見た。

翌朝、目覚めた玄奘三蔵は大般若経は一切省略せずに訳すことが御仏の意思であると確信し、大般若経600巻を全て省略せずに全翻訳することにした。

そして数年の歳月をかけ、玄奘三蔵は600巻もある大部の大般若経の完全翻訳を完遂したのであった。

さて、次の仏教信仰者と夢に関する話として、浄土真宗の開祖である親鸞聖人も京都にある観音ゆかりのお寺、頂法寺の六角堂に長期間、籠もり95日目に夢の中に観音様が現れ観音様からお告げを得たと言われている。

さて、次は夢の話ではなく、座禅中の神秘体験の話であるが、天台密教の智証大師円珍は座禅中、目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧め、帰依するならば汝を守護する。と言った。

   天台密教 智証大師円珍

円珍が何者であるのかと問うと、

金人は「自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っている。」答えた。

さらに、その金色不動明王は次のように言った。

 黄不動明王

「仏法の真髄を伝える汝を守護するために示現するものなり。

仏の教えを究めて迷える衆生を導くべし。」と。

その姿は魁偉奇妙、威光熾盛で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。

円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に銘じて写させたという。

参考文献


仏教が説く地獄の世界と慈悲の精神

仏教経典には地獄という世界が説かれている。

地獄とは悪い事をした者が死後に生まれ赴く極めて苦しい、極めて残虐で悲惨な世界。

人や生き物を殺したり、いじめたり、苦しめたり、悩ませたり、悲しませたり、困らせたりした者、人の物を盗んだり、人をだましたりした者が死後に赴く世界。

特に、阿含経、正法念処経、大智度論などの経典論書において地獄について詳しく解説した箇所がある。

日本において地獄の観念が多くの人々に弘まった大きな原因のひとつは今から約1000年ほど前、天台宗の源信という僧侶が「往生要集」という書物を著し、その書物が多くの人々に読まれたからであろう。

この「往生要集」は今から約千年程前に書かれた書物で現在に至るまで多くの人々に読まれている。

この「往生要集」で引用されている経典の種類は極めて多く、源信様がいかに多くの経典を読まれたかが分かる。

往生要集は浄土宗に大きな影響を与えた書籍である。

この往生要集は宗(約千年前の中国の国名)の国に贈呈され台州の周文徳という方が往生要集を国清寺に収められた。また周文徳は源信を小釈迦源信如来として賛嘆、褒め称えた。

源信僧都

また、シナ(中国)の真宗皇帝も源信を賛賞する事切なるものがあったという。

日本国においても今迦葉、迦葉とはお釈迦様の在世当時の十大弟子の一人 優秀な高弟の名前と呼ばれ、源信を賛賞する事切なるものがあったという。

この書物の前半では地獄界 餓鬼界などの状況等について各教典論書を引用し具体的に書かれている。

又、どのような行為によりどういう境涯(例えば地獄界、餓鬼界、畜生界など)に赴くのかが記載されている。

また仏の三十二相についても具体的に説かれている。

どういう種類の良い行いにより良き報い、良き境涯、優れた仏の外観相形などを得られるのかという事も書かれている。

また、地獄の状況を絵で表現した地獄絵というものもある。

地獄絵は文字が読めない人々や子供達に対し仏教の教義を分かり易く解説する役割を果たし、多くの人々に倫理観、道徳意識、勧善懲悪の観念を植え付け、また地獄に対する恐怖心が凶悪犯罪の防止、犯罪抑止力の役割を果たしていたと考えられる。

また、仏教経典 雑阿含経第十九のなかに屠牛者経 屠羊者経 殺猪経 猟師経というお経がある。

例えば屠牛者経を例に挙げると、そのお経の概要は、釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(生きている間)において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

また、わたくし(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

さらに、屠羊者経 殺猪経 猟師経も屠牛者経と同様、大体似た内容で説かれている。

さらにまた、仏教のお経の阿含経の中に「好戦経」というお経があります。

戦争を好み刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

又「堕胎経」というお経もある。

内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。
「好戦経」 「堕胎経」は「国訳一切経 (印度撰述部 阿含部 2)」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 (第2巻) (普及版大正新脩大蔵経)」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

国訳一切経、大正新脩大蔵経は内容がかなり専門的であり一般の方々、特に仏教書をあまり読まれた事がない方々にとって読んで理解するのに困難な一面があると思われる。

「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考―霊的バイオ・ホロニクスの時代」という書籍がある。

その書籍の中において「好戦経」「堕胎経」を非常に分かり易く説かれている箇所がある。

仏教経典「国訳一切経 (印度撰述部 阿含部 2)」という書籍の中の雑阿含経第十九に屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前、生きている間において人間や動物達等の生き物の屠殺、殺す事、殺生、生き物を殺す事を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業、罪障の報いにより非常に長い年月の間地獄、すなわち、大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒、地獄の鬼達により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界に赴き多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達、カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

真言宗開祖、弘法大師空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において中絶(ちゅうぜつ)、堕胎(だたい)の果報、業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経)( 大正新脩大蔵経 (第17巻) の五五八頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。そのお経の概要は

「一人の鬼あり、その鬼が仏弟子である目連尊者に対してこう問いかけた。「私(鬼)の身体は常に肉の塊(かたまり)にして手、脚、眼、耳、鼻等あること無し、つねに多くの鳥達に体をついばまれ、食べられ、耐えられない程苦しい。何が原因でこういう苦しみに遭(あ)うのか」

目連尊者は答えて言った「あなたは前世(前生)においてつねに他者に薬を与え他者の胎児(たいじ)を堕(おろ)した。胎児を中絶させた。胎児を殺害した。このような行為、因縁、業報により死後、現在においてこのようなひどい苦しみを受けている。これは(あなたが作った)果報、行為の報い、罪の報いであり、地獄の苦果、苦しみはまさに後身にあり(果報の報いはあとになって受ける)」とある。

(鬼という言葉は死者を意味する。昔は死ぬ事を鬼籍に入ると言った。)

真言宗開祖、弘法大師空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において盗み、窃盗、泥棒、収奪の業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経) 大正新脩大蔵経 (第17巻) 五五七頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は  「ある一人の鬼(死者)がいた。その鬼が仏弟子である目連尊者に対しこのように質問した。

「私の腹は極度に大きく、のど、手足は極度に細くて食べ物や飲み物を取ること、食事をする事が出来ない。何が原因でこのような苦しみを受けるのか。
目連尊者は答えて言った.

「あなたは前世(前生)において高い地位にあり富貴、裕福で、さまざまな食事、お酒を大いに楽しんだが、他の人々を軽視し、侮り(あなどり)、見下し他の人々の飲食を奪(うば)い取り、他人を飢(う)えさせ、他人を困らせた。

このような他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた行い、行為、因縁、業報、罪の報いによりこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、業報であり、このような罪の報いによる地獄の苦しみは後になって受けるのである」

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次に、比較的初期の仏教経典とされる「法句経」(ダンマパダ)において閻魔王(えんまおう)という名前が出てくる。

閻魔王とは死後の世界における人間を中心とした生き物達が生前、つまり生きていた時に行った悪事を裁く存在、すなわち死後の裁判官のような存在。

 

法句経(ダンマパダ)において仏陀はその存在についてこのようにお説きになられている。

「汝はいまや枯葉のようなものである。

閻魔王(えんまおう)の従卒もまた汝に近づいた。

汝はいま死出の門路に立っている。

しかし汝には旅の資糧さえも存在しない。

だから自己のよりどころをつくれ、すみやかに努めよ。

賢明であれ、汚れをはらい、罪過がなければ天の尊い処に至るであろう。

汝の生涯は終わりに近づいた。

汝は、閻魔王の近くにおもむいた。

汝にはみちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。

だから自己のよりどころをつくれ。

速やかに努めよ。

賢明であれ。

汚れをはらい、罪過(つみとが)がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう」とある。

また、「スッタニパータ」において釈尊は次のようにお説きになられている。

「何者の業も滅びる事はない。それは必ず戻ってきて業を作った本人がその報いを受ける。愚者は罪を犯して来世にあってはその身に苦しみを受ける。

地獄に落ちた者は鉄の串を突き刺される所に至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。

また灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは昔作った業にふさわしい当然な事である。

地獄の獄卒どもは「捕らえよ」「打て」などといって誰もやさしい言葉をかけることなく、温顔をもってむかってくることなく、頼りになってくれない。

地獄に落ちた者どもは敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

また、そこで地獄の獄卒どもは鉄の縄をもって地獄に落ちた者どもをからめとり鉄槌をもって打つ。さらに真の暗黒である闇に至るがその闇は霧のように広がっている。

また、次に地獄に落ちた者どもは火炎あまねく燃え盛っている銅製の釜に入る。火の燃え盛るそれらの釜の中で永い間煮られて浮き沈みする。(中略)。

罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。

だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなし、おろそかにしてはならない。」

パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ及び漢訳仏典雑阿含経において ブッダ(仏陀、等正覚者)はこうお説きになられている。

「悪行(悪い行為)をした者は肉体が滅んだ死後に苦悩・災いの世界、不幸な状態、煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」

「信仰もなく貪欲で利己的で悪い思いを抱き、誤った主義に生きて敬愛の心がなく、僧侶や托鉢をする人を嘲(ののし)り罵(あざけり)り心に怒り心を抱き食を乞う者に誰かが与えようとするのを邪魔する者。

このような人が死後恐ろしい煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」とある。

つぎに、「白隠禅師法語全集 第1冊 邊鄙以知吾・壁訴訟」という本がある。

白隠禅師法語全集 第1冊 邊鄙以知吾・壁訴訟

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この書籍は江戸時代に活躍された臨済宗の白隠禅師が書かれた書籍である。

その内容は江戸時代の一部の殿様や将軍達の農民に対する貪欲かつ暴利を貪るが如き年貢の要求、冷酷な年貢の取立て、またその冷酷無慙な取立てにより農民達が苦しめられ、追いつめられ、ついには農民一揆という行動をとらざるを得なくなり、最後には農民達が死罪に追い込まれていった詳しい事情経緯がこの本に書かれている。

また、この本で白隠禅師は苦しめられ追いつめられていく農民の姿を見てお殿様や将軍達にこう批判した。

「あまり農民達を冷酷、過酷な取り立てで苦しめ追いつめると来世(死後)には農民達を過酷な取り立てで追いつめ苦しめた罪、悪事、悪業の報いによってお殿様や将軍様が死後において過酷で残虐、悲惨な地獄の苦しみを受けることになりますよ」と忠告及び批判をしている。

この本は江戸時代には一時発禁処分の書籍であったという。

現代の世相にも相通ずるものがあり、考えさせられる。

次に、「極悪非道な行いをした者は死後、地獄に堕ち極めて残虐悲惨な苦しみを受ける」と多くの仏典に説かれている。

最古の仏典スッタニパータやパーリ中部経典の中の賢愚経、漢訳仏典中阿含経の癡慧地経において仏陀はこのように説かれている。

「仮に賭博(とばく)や博打(ばくち)に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運があったとしても、罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後、地獄へ堕ち、膨大な年数、極めて残虐悲惨な苦しみを受ける地獄での大苦痛大苦悩に比べれば賭博、博打に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運などはとるに足らない僅(わず)かな不運である。」

つまり、「罪、悪事を犯しその罪、悪事の報いにより死後地獄へ堕ち、膨大な年数、残虐で極めて悲惨な苦しみに遭遇する地獄へと堕ちる不運こそが最悪の大不幸、大不運である。」という内容が説かれている。

また、地獄にも種類があり阿鼻地獄、無間地獄という地獄がある。

阿鼻地獄(無間地獄)は最も極悪非道な行為をした者が赴(おもむ)く地獄であり、最も痛み苦しみの激しい、極めて残虐極めて悲惨な地獄であると仏典に説かれている。

 

仏教にとって人間に生まれてくる事は非常に良き生まれであると説く。

人間にとって神々に生まれる事は良き生まれであるといわれるが神々にとっては人間に生まれる事が良き生まれであるといわれている。

輪廻転生の世界では衆生(生き物達)は地獄界や畜生界に生まれ替わる方が人間界に生まれ替わるよりも圧倒的に多いと仏典では説きます。(阿含経 増支部経典参照)

仏教の目的はこの輪廻転生からの脱出を説きます。

本質的に仏教はこの六道輪廻の世界を苦しみの世界とみなしそこからの離脱を目指します。

 

仏典に修行を完成した表現として
「現法の中において、自身作證し、生死已に盡き、梵行已に立ち、所作すでに辨じ、自ら後生を受けざるを知る、すなわち阿羅漢果を得たり」とあります。
(阿含経 長部経典参照)
国訳一切経 (印度撰述部 阿含部 7)

仏教 下 (岩波文庫 青 324-2)」という書籍がある。
この書籍において著者は仏陀の教理を五つの章に分類して解説している。

すなわち信仰 戒律 瞑想 英知 解脱である。特に瞑想の章では仏陀の最高の悟りに至るまでの具体的な心理的、霊的進行状態を各経典群を引用し更に詳しく解説しており瞑想実践者にとっては非常に興味深い。

著者は近代ヨーロッパの仏教学者であるが、主にパーリ仏典の文献を引用している。
つまり大乗仏典ではなく日本の仏教界では長年小乗経典と蔑まれてきた阿含経典群を主に引用されている。

仏陀釈尊は特に禅定(瞑想)に入っていない日常の精神状態であっても定(禅定)にあるのと同じように無念無想の精神統一を得られていたとされる。

阿含経に「那伽(ナーガ)は常(つね)に定(じょう)に在(あ)り。」という一節がある。実際に仏陀釈尊は禅定の熟達者であったと経典に伝えられている。この経典の中で那伽(ナーガ)とは仏陀釈尊を意味する。定とは瞑想、禅定を意味している。

また南伝大蔵経の増支部経典において「那伽(ナーガ)は行(ゆ)くにも定(じょう)にあり、那伽(ナーガ)は立(た)てるも定にあり、那伽(ナーガ)は臥(ふ)すにも定にあり、那伽(ナーガ)は座(ざ)せるにも定にあり」とある。

また、漢訳仏典の中阿含経118の龍象経においても「龍行止倶定、坐定臥亦定、龍一切時定、是謂龍常法」とある。仏典中の龍(竜)とは優れた修行者を意味する事もある。この経典の中の那伽(ナーガ)、龍(竜)とは仏陀釈尊を意味する。 龍(竜)をサンスクリット語でナーガと云う。

また仏教の禅定は外学(仏教以外の宗教)の主定主義者(つまり禅定そのものが目的の学派)と異なり般若の智慧を得る手段としての禅定でなければならないとされる。

「阿含経 長部経典」の「迦葉獅子吼経」の中で仏陀は苦行者の迦葉に向かってこう説かれた。

「外面的な規定を守ることによってではなく、倫理的行為と霊的自制と智とを完成させることにより、さらに内面的な憎しみとあらゆる敵意を克服し慈愛深い心をもつ者のみが解脱に到達する見込みがある」と説かれた。

仏典「スッタニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

「一度生まれる生き物(胎生つまり母胎から生まれる生き物)でも、二度生まれる生き物(卵生、つまり卵から生まれる生き物)でも、この世で生き物を害し、生き物に対する哀(あわ)れみのない人(慈悲心のない人)、彼を賤(いや)しい人であると知れ」

「母、父、兄弟、姉妹或いは義母を打ち、また言葉で罵(ののし)る人、彼を賤(いや)しい人であると知れ。」

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。いかなる生き物(いきもの)生類(しょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも強剛(きょうごう)なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」

「あたかも、母が己(おの)が独り子を命を賭けても護(まも)るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈(いつく)しみの心を起こすべし。

また全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。

上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。

立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりたもて。

この世では、この状態を崇高(すうこう)な境地と呼ぶ。」


お釈迦様ご自身の瞑想により体験して説かれた輪廻転生と因果応報の思想

仏教の根本的な教え、ブッダ、真理に目覚めた等正覚者達の最も重要な教えとは

「善いことをせよ。悪いことはするな」

という倫理、道徳の実践の教えであるといえる。

漢訳仏典において

諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

という七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)がある。

また、パーリ仏典の法句経(ダンマパダ)において

「一切の悪をなすことなく、善を具備実践し、自分の心を浄化すること、これが諸仏の教えである」

という仏教の古い言葉がある。

その仏教の開祖であるお釈迦様という方は紀元前五世紀頃、つまり、今から約2500年程前に現在のネパール領でお産まれになった方である。

お釈迦さまは王族の出身という高貴な家柄出身であり、また物質的にも非常に恵まれた身分でありました。

しかし、様々な苦悩を解決するため29才で出家修行者として修行を重ねました。

   

最終的には35才で瞑想によって悟りをお開きになって、覚者、つまり、ブッダ、いわゆる、真理に目覚めた方になったと語り継がれています。

  

釈尊は35才で悟りをお開きになり、ブッダになられてから80才でお亡くなりになるまでの約45年間、広大なインドの大地を旅して歩き、多くの方々に仏教の教えを説き、仏の教え、仏の法を弘めました。

  

 

死後、その教えは優れた弟子達により仏教経典としてまとめられ、現在に至るまでその教えは仏教経典として伝えられています。

 

  

その仏教の教義の中に瞑想法、精神統一、禅定といった極めて重要な修行法があります。

その精神統一、瞑想、禅定の修練、 熟逹により豊かな智慧が獲得出来るとされます。

   

その瞑想修行に関して、仏陀(ブッダ)はパーリ仏典において次のようにお説きになられています。

「修行者が修行により心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、そのもの自身が堅固不動のものになると、修行者は生き物達の死と再生について知る事(死生通)に心を傾け、心を向けるのです。

そして、修行者は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知るのです。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

 

 

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。修行者は知る。」

と説かれています。

また、仏陀(釈尊)になられた時の瞑想による真理の覚醒の課程は三夜にわたる智の開眼、智慧の獲得で説明されます。

最初に、第一夜(初夜 夜6時~夜10時頃)において釈迦(釈尊)は瞑想によって自らの百千の生涯、幾多の宇宙の成立期、破壊期、成立破壊期を残らず想起した。

いわゆる宿明智の獲得。

次に、第二夜(中夜 夜10時~夜中2時頃)において天眼(清浄で超人的、神的な透視力)により生き物達が無限の生死循環(輪廻転生)を繰り返す様を見透す。

いわゆる天眼智の獲得。

最後に、第三夜(後夜 夜中2時~朝6時頃)において「一切(輪廻転生の本質)は苦である」という認識を得、縁起の法を悟って覚醒、漏尽解脱、智慧解脱の完成を得た。

いわゆる漏尽智の獲得。

また、その輪廻転生には分段生死(ぶんだんしょうじ)と変易生死(へんやくしょうじ)と云う種類の転生があります。

分段生死とは凡夫の輪廻転生を意味し、六道輪廻つまり

地獄界(極めて苦しい残虐悲惨な境涯)、

餓鬼界(飢え、乾きに苦しむ境涯)、

畜生界(動物の境涯)、

修羅界(争いの境涯)、

人間界(人間の境涯)、

天界(天、神の境涯)の六種類の境涯を衆生(生き物)が何回も何回も際限なく輪廻転生していく転生を意味します。

  

一方、変易生死とは聖者の輪廻転生を意味し、聖者が仏陀の境涯に向かって修行していく過程、聖者としての境涯が後退せず上昇していく転生を意味します。

変易生死(へんにゃくしょうじ)について詳しく解説すると、例えば聖者の境涯に預流(よる)という境涯があります。凡夫が仏道修行により修行の境涯が進むと先ず預流という聖者に成ります。預流とは聖者の流れに入った者の意を表し、預流になると地獄界、餓鬼界、畜生界という最も苦しみの度合いが激しい三悪道の境涯には二度と生まれ変わらないとされています。

そして最高位の聖者である仏陀に成るまで三回~七回程度、人間界と天界への生死を繰り返し最後には必ず仏陀の境涯に至る事が出来るとされています。

輪廻転生の世界では衆生(生き物達)は地獄界や畜生界に生まれ替わる方が人間界に生まれ替わるよりも圧倒的に多いと仏典では説きます。(阿含経 増支部経典参照)

仏教にとって人間に生まれてくる事は非常に良き生まれであると説きます。

人間にとって神々に生まれる事は良き生まれであるといわれるが神々にとっては人間に生まれる事が良き生まれであると説きます。

仏教の目的はこの輪廻転生からの脱出を説きます。

本質的に仏教はこの六道輪廻の世界を苦しみの世界とみなしそこからの離脱を目指します。

お釈迦さまの教えはお釈迦さまの死後、多くの方々の努力により、主に中国  朝鮮  日本 ネパール チベット  タイ スリランカ  ビルマ ブータン ラオス ミャンマーなどのアジア諸国を中心に広まり、近年では欧米各国にも広まりつつあります。

燃燈仏

釈尊の何世代も前の前の前のはるか大昔の釈尊の前世において、釈尊がスメーダという名前の若者であったときに帰依したブッダが燃燈仏という名前のブッダであった。

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釈尊の母、マーヤ夫人の懐胎(インド彫像)

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釈尊の母が釈尊を出産する光景(チベット仏画)

釈尊の母、マーヤ夫人(チベット仏画)

釈尊の母、釈尊を出産(インド彫像)

産まれたばかりの釈尊に産湯をかける従者たち

釈尊の将来を占うアシタ仙人

青年時代、物質的に恵まれた生活を過ごした釈尊

修行時代、仙人のもとを訪ねる釈尊

禅定の達人者、アーラーラ・カーラーマの弟子になる若き頃の釈尊

苦行する釈尊。

断食修行を終え、瞑想修行に入る前、体力と気力を回復するため、

スジャータという名前の若い娘から乳粥の供養を受ける釈尊。

悟りを開く前、数々の悪魔が来襲し、

釈尊の悟りを開く修行の妨害をする悪魔の軍勢。

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瞑想する釈尊

悟りを開いた釈尊

釈迦成道仏画(チベット仏教)

釈尊降魔成道像(インド)

釈尊降魔成道像(インド)

釈尊が悟りを開いた場所とされている金剛宝座と菩提樹(インド ブッダガヤ)

悟りを開いた釈尊に対し、

人々に説法して下さるよう釈尊にお願いをする梵天

釈尊の初めての説法

釈尊初転法輪像(サールナート)

ムチャリンダ龍王の守護

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ムチャリンダ龍王の守護

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三迦葉の帰仏

(釈尊在世当時、3人の大修行者、大仙人が釈尊に帰依した様子。)

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拝火教徒たちの釈尊への帰仏

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釈尊の説法に聞き入る聴衆。

釈尊の説法

ブッダへの供養

洞窟内で瞑想するブッダ

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酔って暴れる象が、釈尊の威徳に打たれ平伏する様子。

(絵をクリックすると大画面に表示されます。)

子供からの布施、供養を受けるブッダ

釈尊の在家信者で大富豪のスダッタ長者が釈尊、及び、釈尊の弟子、僧侶達の生活、修行する場所として広大な土地、後の祇園精舎と呼ばれる広大な土地を釈尊に寄進する様子。(写真をクリックすると大画面に表示されます。)

舎衛城の神変(シュラヴァスティの神変)

(絵をクリックすると大画面に表示されます。)

舎衛城の神変(シュラヴァスティの神変)

釈尊が病人を看護する様子。

釈尊の入滅直前の様子(死去前)(チベット仏画)

釈尊入滅、釈尊のご遷化(せんげ)(死去)

釈尊涅槃図絵(高野山 金剛峯寺)

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釈尊涅槃絵  釈尊ご遷化(せんげ)図絵

(釈尊涅槃図絵 日本国 和歌山県 高野山 金剛峯寺)

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釈尊のご遷化(せんげ)、ご逝去の時のご尊顔

(日本 高野山 金剛峯寺)

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釈尊の十大弟子の一人である

阿難尊者が釈尊の死を悲しむ様子(スリランカ石像)

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釈尊の御遺骨(仏舎利)を祀るストゥーパ(仏舎利塔)を礼拝する人々

釈尊の御遺骨(仏舎利)を祀るストゥーパ(仏舎利塔)を守護する龍王

地蔵菩薩

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チベット仏教 生死輪図

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閻魔大王

死後、閻魔王の御前において生前の悪い行いの様子を

瑠璃鏡で見せられる亡者

我が子の前で地獄の獄卒に引かれていく罪人

地獄の獄卒

地獄絵

地獄絵

地獄絵

地獄絵

地獄絵

地獄絵

地獄絵

地獄絵

餓鬼界に堕ちていた母に食べ物を与え、母がその食べ物を食べようとするも

母の口から火が噴き食物が食べられない様子を見て号泣する仏弟子の目連尊者

餓鬼と対面する仏弟子の阿難尊者

餓鬼たちに食物を分け与える僧侶たち

飢えに苦しむ餓鬼たちに食べ物を分け与える仏様

チベット仏教 生死輪図

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竜樹菩薩(南インド)(チベット仏教図絵)

竜樹菩薩(南インド)(日本仏教絵)

釈尊が悟りを開いたとされているブッダガヤ(インド)

仏足石(ネパール)

釈迦牟尼仏像(チベット)

大仏像(スリランカ)

ボロブドゥール遺跡 仏像(インドネシア)

大仏像(タイ)

(写真をクリックすると大画面に表示されます。)

カクラク壁画(アフガニスタン)

大仏像(中国)

大仏像(中国)

大仏像(中国)

 

玄奘三蔵法師(中国)     

     

玄奘三蔵法師が中国からインドへの求法の旅の途上、砂漠で遭難しそうになり、精魂尽き果て倒れこみ、死を覚悟した際、助けに現れる深沙大将

(深沙大将は後の「西遊記」の沙悟浄のモデルになる。)

奈良 東大寺 毘盧遮那仏像(日本)

奈良 東大寺 毘盧遮那仏像 御尊顔(日本)

奈良 東大寺 毘盧遮那仏像 御尊顔(日本)

奈良 東大寺 毘盧遮那仏像 御尊顔(日本)

奈良 東大寺 毘盧遮那仏像の御手(日本)

弘法大師空海(真言宗開祖)(日本)

遣唐使船に乗船する弘法大師空海

(写真をクリックすると大画面に表示されます。)

遣唐使船に乗船する弘法大師空海

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湧現観音(遣唐使船に乗船する空海の前に現れた湧現観音)

湧現観音(遣唐使船に乗船する空海の前に現れた湧現観音)

黄不動明王

中村元博士(インド哲学、仏教学の世界的権威)(日本)

桐山靖雄師(阿含宗開祖)(日本)

桐山靖雄師(阿含宗開祖)(日本)

チベット仏教 第十四世 ダライ・ラマ法王猊下(チベット)




Enseñanza budista

“Si un hombre obra mal,que no lo haga una y otra vez,que no se recree en ello.Dolorosa es la acumulación del mal.

El malhechor todo lo ve bien hasta que su mala acción da fruto,pero cuando madura la fruta,entonces ve sus desafortunados efectos.

Incluso una buena persona puede experimentar dolor al obrar bien,pero en cuanto el fruto se produce,entonces experimenta los buenos resultados.

Algunos nacen de matriz; los malévolos nacen en estados desgraciados;los autodominados van a estados benditos;los iluminados obtienen el Nibbana.

Ni en los ciclos ni en medio del océano,ni en una gruta en las montañas se halla un lugar donde uno pueda permanecer a salvo de las consecuencias de sus malos actos.

Ni en los ciclos ni en medio del océano,ni en una gruta en las montañas se halla un lugar donde uno
pueda permanecer a salvo de la muerte.

“Todos tiemblan ante el castigo.Todos temen la muerte. Si comparamos a los otros con uno mismo,ni mataremos ni provocaremos muerte.

Todos temen el castigo;Todos aman la vida. Comparándose con los demás,uno no debe matar ni provocar la muerte.

Quienquiera que buscando su propia felicidad daña a los que igual que él la buscan,no la obtendrá después de la muerte.

Quienquiera que busca su propia felicidad y no daña a los que igual que él la buscan,la hallará después de la muerte.

El abandono del mal,el cultivo del bien y la purificación de la mente;tal es la enseñanza de los Budas”.




Enseñanza de Buda

El Buda predicó:

El abandono del mal,el cultivo del bien y la purificaó de la mente:tal es la enseñanza de los Budas.

“Todos tiemblan ante el castigo.Todos temen la muerte. Si comparamos a los otros con uno mismo,ni mataremos ni provocaremos muerte.

Todos temen el castigo;Todos aman la vida. Comparándose con los demás,uno no debe matar ni provocar la muerte.

Quienquiera que buscando su propia felicidad daña a los que igual que él la buscan,no la obtendrá después de la muerte.

Quienquiera que busca su propia felicidad y no daña a los que igual que él la buscan,la hallará después de la muerte.

El malhechor todo lo ve bien hasta que su mala acción da

fruto,pero cuando madura la fruta,entonces ve sus

desafortunados efectos.

Incluso una buena persona puede experimentar dolor al

obrar bien,pero en cuanto el fruto se produce,entonces

experimenta los buenos resultados.

Algunos nacen de matriz; los malévolos nacen en

estados desgraciados;los autodominados van a estados

benditos;los iluminados obtienen el Nibbana.

Ni en los ciclos ni en medio del océano,ni en una gruta en

las montañas se halla un lugar donde uno pueda

permanecer a salvo de las consecuencias de sus malos

actos.

Ni en los ciclos ni en medio del océano,ni en una gruta en

las montañas se halla un lugar donde uno

pueda permanecer a salvo de la muerte.

“Todos tiemblan ante el castigo.Todos temen la muerte. Si comparamos a los otros con uno mismo,ni mataremos ni provocaremos muerte.

Todos temen el castigo;Todos aman la vida. Comparándose con los demás,uno no debe matar ni provocar la muerte.

Quienquiera que buscando su propia felicidad daña a los que igual que él la buscan,no la obtendrá después de la muerte.

Quienquiera que busca su propia felicidad y no daña a los que igual que él la buscan,la hallará después de la muerte.

El abandono del mal,el cultivo del bien y la purificación de la mente;tal es la enseñanza de los Budas”.

El malhechor todo lo ve bien hasta que su mala acción da fruto,pero cuando madura la fruta,entonces ve sus desafortunados efectos.

Incluso una buena persona puede experimentar dolor al obrar bien,pero en cuanto el fruto se produce,entonces experimenta los buenos resultados.

Algunos nacen de matriz; los malévolos nacen en estados desgraciados;los autodominados van a estados benditos;los iluminados obtienen el Nibbana.

Ni en los ciclos ni en medio del océano,ni en una gruta en las montañas se halla un lugar donde uno pueda permanecer a salvo de las consecuencias de sus malos actos.

Ni en los ciclos ni en medio del océano,ni en una gruta en las montañas se halla un lugar donde uno
pueda permanecer a salvo de la muerte.

“Todos tiemblan ante el castigo.Todos temen la muerte. Si comparamos a los otros con uno mismo,ni mataremos ni provocaremos muerte.

Todos temen el castigo;Todos aman la vida. Comparándose con los demás,uno no debe matar ni provocar la muerte.

Quienquiera que buscando su propia felicidad daña a los que igual que él la buscan,no la obtendrá después de la muerte.

Quienquiera que busca su propia felicidad y no daña a los que igual que él la buscan,la hallará después de la muerte.

 

No habléis agresivamente con nadie,porqe los que atacáis podrán replicaros de igual manera.Las discusiones crean dolor y podréis recibir golpe por golpe.

Si permaneces en silencio,como un inservible gong,alcanzarás el Nibbana;hallarás la paz

El abandono del mal,el cultivo del bien y la purificación de la mente;tal es la enseñanza de los Budas”.

Majjhima Nikaya – Sermones Medios del Buddha

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Enseignement du Bouddha

Le Bouddha a prêché:

N’accomplir aucun mal,

Et l’on ne tuera ni ne fera tuer.

Tous craignent le châtiment,tous ont peur de la mort :s’assimile-t-on à eux ,et l’on ne tuera ni ne fera tuer.

Tous craignent le châtiment, tous chérissent la vie :s’assimile-t-on à eux, et l’on ne tuera ni ne fera tuer.

À des êtres avides de bonheur fait-on violence par le châtiment,tout en cherchant son

propre bonheur: une fois mort, on ne l’obtient pas.

À des êtres avides de bonheur, évite-t-on la violence dans le châtiment, tout en cherchant son propre bonheur :une fois mort on l’obtient .

N’accomplir aucun mal, atteindre le bien, purifier ses visées,tel est l’enseignement des Éveillés.

Même le méchant voit le bien tant que le mal n’est pas mûr ,mais quand il est mûr le méchant voit les maux.

Même le bon voit le mal tant que le bien n’est pas mûr,mais quand il est mûr,le bon voit les biens.

Certains renaissent,vont en enfer ceux qui ont commis le mal,au ciel ceux qui ont une bonne destinée ,mais ceux qui sont exempts de souillures s’éteignent complètement.

Pas plus dans le ciel qu’au milieu de l’océan,ou en pénétrant une faille dans les montagnes,on ne trouvera de lieu dans l’univers où se tenir à l’abri de l’action mauvaise.

Pas plus dans le ciel qu’au milieu de l’océan,ou en pénétrant une faille dans les montagnes,on ne trouvera de lieu dans l’univers où se tenir loin du triomphe de la mort.

 

  

 

  

En suivant bouddha

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佛陀传授轮回的世界

下面是巴利文的<中阿含>。其内容是迦牟尼的自叙,  或者是以巴拉蒙讲话的形式而流下来的。

“ 我确实进行了苦行修,  刻苦努力。信念确立后未曾, 身体放松从不, 心神得到了一。 我脱离了欲望,  脱离了不善之事。我曾有大的思, 也有过细微的思,  最后成就了从离而生喜的初褝。 (下一段)由于消除了大的和微的思, 达到了内心安定, 心神, 既没有大的思, 也没有微的思, 成就了从定而生喜的第二褝。 (下一段)由于没有沈醉于喜,  因而平静(无关心),  思考,  正确地用心,  用身体感受到安, 也就是成就了圣者解的第三褝:  ‘平静, 信念, 安 ’  舍弃了、舍弃了苦的,  因而早已清除了喜和,  便不苦不,  成就了因平静和念得到化的第四褝。这样当达到心神一。 清静, 清, ,  不垢, 柔和, 巧妙, 明确不, 才会用心于回想去生涯的智慧上。

 我想起了去各种各的生涯, 即:一种生涯,  两种生涯, 三种生涯,  四种生涯,  五种生涯,  十种生涯,  二十种生涯,  三十种生涯,  四种生涯,  五十种生涯, 百种生涯, 千种生涯,  百千种生涯,  多宇宙成立期,  多宇宙破坏期,  多宇宙成立破坏期。 ‘  

 我出生在那里, 取如此般的名字,  姓如此般的姓,   属于如此般的等,  吃如此般的食物感受到如此般的苦,  如此般的死去。在那里死后、又在那个地方出生。

 就这样我回想起一个又一个的画面和细节,  去的生涯。 是在夜最初段达到的第一明智。无明消失了,  明智生了。黑暗消除了,  光明生了。 正是努力苦行俢者身上出果。

 就这样当达到了心神,  清静,  清,  ,  不垢,  柔和, 巧妙,  确立不动时, 我就将心向予知多生存者的生死间题上。就是我用超人的天眼多生存者的死或生。 即:我看到了卑,  ,  美好的,  丑, 幸福的, 不幸的等等, 和各种各生存者正在从事各自事的情形。

  

 ‘ 实际些生存者身施,  口出,  怀恶,  诽谤许多圣者,  怀邪念,  行邪之事。们毁坏身体,  死去之后,  降生于坏地方,  堕落的地方, 地

 

与此同却有另一些生存者身施善行,  口述善言,  心怀善意,  诽谤圣者,  持正确的,  并按照正确解行事。他的身体因病死去后,  降生于美好的地方,  降生于天堂世界。’

 我就是这样用清静,  超人的天眼,  看到许许多多生存者死而复生的情形。 也就是我看到了卑,  ,  美好的, 丑, 幸福的, 不幸的等等, 和各种各生存者正在从事各自事的情形。

 

 巴拉蒙, 就是我在夜间阶段达到的第二明智。里无明消失了, 明智生了。黑暗消除了,  光明生了。 正是努力苦行俢者身上出果。

 就这样当达到了心神,  清静,  清,  ,  不垢,  柔和,  巧妙,  确立不动时,  我就将心向消除种种污秽的智(漏尽智)上。 这时我真地知道了(一切)都是苦。

 当我这样理解,  这样观察的,  我的心从欲望的污秽中解脱出来,  从生存的污秽中解脱出来,  从无知的愚昧中解脱出来,  在底解脱之  “解脱了”   一智便生了。 我知道生命走到了尽,  完成了,  做的事情都做完了,  再没有如此的生存状可以达到。巴拉蒙,  是在夜最后段完成的第三明智。里无明消除了,  明智生了。 黑暗消除了。 光明生了。 正是努力苦行俢者身上出果。

  




The Buddha preached about cycle of reincarnation , metempsychosis , the transmigration of the soul.Why must not do a bad (evil) deed ?

The ” verse of commandment of the seven Buddhas ” (the seven Buddhas of the Past, including Gautama Buddha ) is one of the most famous verses in Buddhism:

” To do no evil,

To do only good,

To purify one’s mind,

This is the teaching of the Buddhas.”

“Not to commit any sin ,

to do good ,

and to purify one’s mind ,

that is the teaching of ( all ) the Awakened.”

The possession of absolute pure faith-a faith that purifies the mind-and the keeping of the precepts ( to avoid evil and to do good ) are the essence of Buddhism in that they teach the means by which faith and morality are to be achieved.

If faith in the Three Treasures is central, then the precepts will be followed naturally, and morality will become a function of faith.

In the Eightfold Path, right view refers to faith, while right speech, action and livelihood refer to morality.

It is explained to the Buddhism Buddhist scripture in detail about good behavior or right deed.

For example, a concrete interpretation of right action is to refrain from performing a negative activity like killing, stealing, or sexual misconduct (adultery) and to perform right actions such as saving lives, helping the sick, giving alms, contributing to charity, spreading the dharma, and encouraging people to progress on the Buddhist path.

The Buddha is the Awakened One, or the Enlightened One.

Majjhima Nikaya is one of the Pali Canon.

Pali Canon is Buddhism Literature.

Gautama Buddha left an account of his internal ladndscape after he had attained enlightenment through meditation.

This description, in the Buddha’s own words, is found in the Majjhima Nikaya;.

” Tireless energy was aroused in me and unremitting mindfulness was established , my body was tranquil and untroubled, my mind concentrated and unified.

Quite secluded from sensual pleasures , secluded from unwholesome states, I entered upon and abided in the first jhana, which is accompanied  by
applied  and sustained  thought, with rapture and pleasure born of seclusion,
With the stilling of applied and sustained thought, I entered upon and abided in the second jhana, which has self-confidence and singleness of mind without applied and sustained thought, with raputure and pleasure born of concentration.

With the fading away as well of rapture, I abided in equanimity, and mindful and fully aware, still feeling pleasure with the body, I entered upon and abided in the third jhana, on account of which noble ones announce: ‘ He has a pleasant abiding who has equaniminty and is mindful.’

With the abandoning of pleasure and pain, and with the previous disappearance of joy and grief, I entered upon and abided in the fourth jhana, which has neither-pain-nor-pleasure and purify of mindfulness due to equanimity.

When my concentrated mind was thus purified, bright, unblemished, rid of imperfection, malleable, wieldy, steady, and attained to imperturbarbility, I directed it to knowledge of the recollection of past lives.

I recollected my manifold past lives, that is, one birth, two births, three births, four births, five births, ten births, twenty births, thity births, forty births, fifty births, a hundred births, a thousand birthds, a hundred thousand births, many aeons of world-contraction , many aeons of world -expansion, many aeons of wolrd-contraction and expansion: “

There I was so named, of such a clan, with such an appearance, such was my nutriment, such my experience of pleasure and pain, such my life-term; and passing away from there, I reappeared elsewhere; and there too I was so named, of such a clan, with such an appearance, such was my nutriment, such my experience of pleasure and pain, such my life-term; and passing away from there,

I reappeared here.” Thus with their aspects and particulars I recollected my manifold past lives.

This was the first true knowledge attained by me in the first watch of the night.

Ignorance was banished and true knowledge arose, darkness was banished and light arose, as happens in one who abides diligent, ardent, and resolute.

When my concentrated mind was thus purified, bright, unblemished, rid of imperfection, malleable, wieldy, steady, and attained to imperturbability, I directed
it to knowledge of the passing away and reappearance of beings.

With the divine eye which is purified and surpasses the human, I saw beings passing away and reappearing, inferior and superior, fair and ugly, fortunate and unfortunate.

I understood how beings pass on according to their actions thus:

These worthy beings who were ill-conducted in body, speech, and mind, revilers of noble ones, wrong in their views, giving effect to wrong view in their actions, on the dissolution of the body, after death, have reappeared in a state of deprivation, in a bad destination, in perdition, even in hell; but these worthy beings who were well-conducted in body, speech and mind, not revilers of noble ones, right in their views, giving effect to right view in their actions, on the dissolution of the body, after death, have reappeared in a good destination, even in the heavenly world.”

Thus with the divine eye, which is purified and surpasses the human, I saw beings passing away and reappearing, inferior and superior, fair and ugly, fortunate and unfortunate, and I understood how beings pass on according to their actions.

This was the second true knowledge attained by me in the second watch of the night. Ignorance was banished and true knowledge arose, darkness was banished and light arose, as happens in one who abides diligent, ardent, and resolute.

When my concentrated mind was thus purified, bright, unblemished, rid of imperfection, malleable, wieldy, steady, and attained to imperturbability, I directed it to knowledge of the destruction of the taints.

I directly knew as it actually is: “ This is suffering ”; I directly knew as it actually is: “This is the origin of suffering ”; I directly knew as it actually is : “This is the cessation of suffering. ”; I directly knew as it actually is : “ This is the way leading to the cessation of suffering.” I directly knew as it actually is: “ These are the taints ”; I directly knew as it actually is : “ This is the origin of the taints ”; I directly knew as it actually is : “This is the cessation of the taints ”; I directly knew as it actually is : “This is the way leading to the cessation of taints.”

When I knew and saw thus, my mind was liberated from the taint of sensual desire, from the taint of bieng, and from the taint of ignorance.

When it was liberated, there came the knowledge:

“ It is liberated.” I directly knew: “ Birth is destroyed, the holy life has been lived, what had to be done has been done, there is no more coming to any state of being.”

This was the third true knowledge attained by me in the third watch of the night. Ignorance was banished and true knowledge arose, darkness was banished and light arose, as happens in one who abides diligent, ardent, and resolute.”

Buddha preached about Samsara , the cycle of reincarnation , metempsychosis , the transmigration of the soul.

Samsara, the cycle of birth and death , is sometimes translated as ” transmigration ” or “rebirth ” In this cycle, which is grounded in delusion, sentient beings are governed by good and evil karmic retribution.

Depending on the type of karma accumulated during a lifetime, sentient beings are reborn in one of six realms of existence.

When good karma prevails, a person may be reborn as a human or heavenly being, whereas a preponderance of adverse karma brings rebirth in a hell or as a hungry spirit, an animal, or an asura ( demon ) . This concept was inherited from pre-Buddhist Indian thought.

The Buddha is the Awakened One, or the Enlightened One.

Sutta-Nipata is one of the Pali Canon.

Pali Canon is Buddhism Literature.

The Buddha preached about mercy (benevolence,compassion) as follows in Sutta-Nipata.

“Whatever living beings there are, either feeble or strong, all either long or great ,middle-sized, short , small or large,Either seen or which are not seen , and which live far (or) near, either born or seeking birth , may all creatures be happy-minded.”

“As a mother at the risk of her life watches over her own child, her only child, so also let every one cultivate a boundless (friendly) mind towards all beings.

And let him cultivate goodwill towards all the world,a boundless (friendly) mind, above and below and across ,unobstructed, without hatred, without enmity.

Standing , walking or sitting or lying, as long as he be awake,let him devote himself to this mind ; this (way of) living they say is the best in this world.”

The Buddha preached about violence as follows.

「All tremble at violence;

All fear death.

Seeing others as being like yourself,

Do not kill or cause others to kill.

All tremble at violence;

Life is dear for all.

Seeing others as being like yourself,

Do not kill or cause others to kill.

You who seeking own happiness punish or kill beings who also long for happiness,will not find happiness after death.

You who seeking own happiness does not punish or kill beings who also long for happiness,will find happiness after death.

All beings tremble before violence.

All fear death.

All love life.

See yourself in others.

Then whom can you hurt?

What harm can you do?

He who seeks happiness
By hurting those who seek happiness

Will never find happiness.

For your brother is like you.

He wants to be happy.

Never harm him

And when you leave this life

You too will find happiness.」

The world called the hell is preached in the Buddhism sacred book、Pali Canon.

The hell is the extremely painful ,extremely cruel, and extremely miserable world ,the person who did a bad thing is born after death with the hell , according to the reward of the crime and an evil deed, for example, the person who killed a person or animal or other life ,and torment a person or animal or other life ,and worry a person or animal or other life 、and annoyed a person or animal or other life ,and sadden a person or animal or other life ,and steal the money of the person , steal the thing of the person , and deceived a person、and did other bad deed, did other brutal deed. did other atrocious deed.

There is the point that it is explained in a sacred books such as sutra of Buddhist、Pali Canon(Digha Nikaya、Majjhima Nikaya、Samyutta Nikaya、Anguttara Nikaya,Khuddaka Nikaya, and others) in particular, the profound knowledge degree theory in detail about hell.

地獄 獄卒絵




仏典研究者の立場からFX(外国為替証拠金取引)を考える。

1年で1万ドル(100万円)を100万ドル(1億円)にまで増やした経験をもつ、アメリカの伝説のトレーダー、ラリー・ウイリアムズ氏によると

先物取引やFX(外国為替証拠金取引)は完全なゼロサムゲームである。

誰かが儲かれば、誰かが損をする。泣きを見る。悲しむ。

椅子取りゲームのようなもの。

FXで儲けた人々の全ての合計金額をプラス・・・円、

FXで損をした人々の全ての合計金額をマイナス・・・円

トータル、プラス、マイナスすると0になる。

先物取引も同じようにゼロサムゲーム。

いわゆる、誰かが儲かれば、誰かが損をする。

言い方は悪いかもしれないが、FXで儲けた人はFXで損をした人からお金を奪っているようなもの。

FXはお金の奪い合いのような感がある。

FXは少額の資金で何十倍の大金を賭けるので、下手すれば大きな借金を背負い、借金まみれになる危険性がある。

FXにより自己破産者、自殺者が量産される危険性がある極めて恐ろしいもの。

また、ラリー・ウイリアムズ氏は相場を行う上での注意点として自己資金の約2パーセント~3パーセントだけを投入するべきであると強調している。

それにより予想が外れた際にも大きく損をすることもなく、破産状態になることが防げると強調している。

大きな金額、つまり自己資金の大半を相場に投資すると、大きく予想が外れた場合、自己資金を失うだけではなく大きな損失、大きな借金を背負うことになる。

相場自体も続行することが出来ず、退場となってしまう。

最悪、ホームレスになってしまうぞと氏は書籍で警告している。

一方、話は変わり、

仏典、阿含経において着服、横領、盗み、窃盗, 掠め取り、収奪について説かれているお経が多く存在する。

仏教経典の増壱阿含経第七巻の五戒品第十四において盗み、泥棒(どろぼう)、窃盗(せっとう)、略奪(りゃくだつ)行為の報いについて説かれているお経が存在する。

その主な主旨内容は、盗み、泥棒、窃盗行為を多く行った者はその罪の報いにより未来、将来、死後、来世において地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ赴(おもむ)くと説かれている。

また人間に生まれ変わっても極めて貧しく、衣服や食事に極めて事欠く境涯に生まれ赴くと説かれている。

(大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版社 576ページ中段参照、国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社 106ページ~107ページ参照)

パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

また、

「信ずる心あり、恥を知り、誡(いまし)めをたもち、また財を分かち与える。

これらの徳行は、尊い人のほめたたえることがらである。

この道は崇高なものである とかれらは説く。

これによって、この人は天の神々におもむく。

もの惜しみする人々は、天の神々の世界におもむかない。

その愚かな人々は、分かち合うことをたたえない(賞賛しない)。

しかしこの信ある人は分かち合うことを喜んでいるので、このようにして来世には幸せとなる。」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。」

※仏教では六道輪廻を説きます。

   チベット仏教 六道輪廻図

  チベット仏教 六道輪廻図

六道輪廻とは生き物達が天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六道つまり六つの境涯を途方もない膨大な期間、途方もなく膨大な回数、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしている。

輪廻転生している。

その六道のうち畜生界(動物の境涯)、餓鬼界(飢えや渇きに苦しむ境涯)、地獄界(地獄の鬼達に残虐に責め立てられ痛めつけられ苦しめられる極めて残虐悲惨な境涯)は三悪道、三悪趣といって六道輪廻の中では最も苦しい境涯であると説きます。

さらに、阿含経において着服、横領、盗み、窃盗, 掠め取り、収奪について説かれているお経が存在する。

その主な内容は
今から約2500年程前のインドにおいて仏教の開祖お釈迦様が活躍されていた時代、お釈迦様の直弟子に目連尊者(もくれんそんじゃ)という方がおられた。

その目連尊者はお釈迦様の直弟子の中において神通の力が最も優れていると認められていた方であった。

その目連尊者がある時、奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(前世、生きている間)において他人の食べ物をひそかに盗み、かすめ取る行為を行い、その食べ物をひそかに盗み、かすめ取った罪業の報いにより死後において多くの地獄の苦しみに苦しんでいる。

という内容が説かれている。
「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」 雑阿含経第十九巻 第四弟子諸説誦 第二目犍連相應「不分油経 盗取七菓経 盗食石蜜経 盗取二瓶経 比丘経」参照
「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」百三十八頁(ページ)上段中段参照

結論をいうと仏典研究者の立場から、お金の奪い合いのような感のある、相場、先物取引、FX(外国為替証拠金取引)は一切しない方がいい。

相場には一切、近づかない方がいいと私は考える。

参考書籍

「ラリー・ウイリアムズの相場で儲ける法 ラリー・ウイリアムズ著 林則行訳 林康史訳 日本経済新聞社」

「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤ1 中村元著 岩波文庫」

「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」

「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」

「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」参照。






仏教やジャイナ教が説く生き物に対する慈悲の教えと死後における地獄の世界

パーリ仏典「ダンマパダ」(法句経)はパーリ五部のなかの「グッタカ・二カーヤ」に属する経典であるが、その経典は釈尊の教えを説いた数多い諸経典のうちから重要な詩句を選んで集めた詩集であり、仏教のバイブル(聖書)として世界各国に翻訳され読まれている。

その「ダンマパダ」(法句経)において釈尊(仏様)はこうお説きになられている。

 「悪しき(悪業)をなしてこの世(現世)に苦しみ、かの世(来世)に苦しみ両世(現世、来世)に苦しむ。

「我 悪しきをなせり」と思い苦しみ、難所(地獄など)に行きて、いよいよ苦しむ。

良き(善業)をなしてこの世(現世)に歓喜し、かの世(来世)に歓喜し、両世(現世、来世)に歓喜す。

「我 良きをなせり」と歓喜し、善処(天界)に行きて、いよいよ歓喜す。」とある。

また、仏教経典「スッタ・ニパータ」というお経がある。

そのお経は数多くある仏教経典のなかでも最も古い仏教経典として学問的(現代)にも認められており、後世の仏教経典にみられる煩瑣(はんさ)な教理は少しもなく人間として正しく生きる道が対話の中で詳しく語られている。

その仏典「スッタ・ニパータ」を翻訳した「ブッダのことば スッタ・ニパータ 中村元訳 岩波書店」という書籍がある。

この書籍のあとがきで、本書、スッタ・ニパータの訳者で、仏教学の世界的権威である、今は亡き、中村 元博士(1999年没)は次のように言及されている 。

「スッタ・ニパータは現代の学問的研究の示すところによると仏教の諸聖典のうちで最も古いものであり歴史的人物ゴータマブッダ(仏陀釈尊)の言葉に最も近い詩句を集成した一つの聖典であるとされている。」と。

その仏典「スッタ・ニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

「一度生まれる生き物(胎生つまり母胎から生まれる生き物)でも、二度生まれる生き物(卵生、つまり卵から生まれる生き物)でも、この世で生き物を害し、生き物に対する哀(あわ)れみのない人(慈悲心のない人)、彼を賤(いや)しい人であると知れ」

「母、父、兄弟、姉妹或いは義母を打ち、また言葉で罵(ののし)る人、彼を賤(いや)しい人であると知れ。」と。

次に 仏教とほぼ同時期に勃興したジャイナ教がある。

ジャイナ教の第2代祖師 ゴーマテーシュバラ像。

そのジャイナ教の教えの特長は、人間だけではなく動物や植物に対する不殺生戒を徹底的に重視する点にある。

そのジャイナ教の教えにこうある。

「わたしは説く。いかなる生物も傷つけてはならない。

これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。

全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。虐待してはならぬ。

害してはならぬ。

苦しめてはならぬ。

悩ましてはならぬ。

これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

次に、仏教経典には地獄という世界が説かれている。

地獄とは悪い事をした者が死後に生まれ赴く極めて苦しい、極めて残虐悲惨な世界。人や生き物を殺したり、いじめたり、苦しめたり、悩ませたり、悲しませたり、困らせたりした者、人の物を盗んだり、人をだましたりした者が死後に赴く世界。

仏教経典 雑阿含経第十九のなかに屠牛者経 屠羊者経 殺猪経 猟師経というお経がある。

例えば、屠牛者経を例に挙げると、そのお経の概要は釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

その目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(生きている間)において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

      

また我(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

屠羊者経 殺猪経 猟師経も屠牛者経と同様、大体似た内容で説かれている。

仏教のお経の阿含経に「好戦経」というお経があります。

戦争を好み刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

又「堕胎経」というお経もある。

その内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。

「好戦経」 「堕胎経」は「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」という書籍がある。

その書籍の中において「好戦経」「堕胎経」を非常に分かり易く説かれている箇所がある。

仏教経典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九に屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前(生きている間)において人間や動物達等の生き物の屠殺(殺す事)、殺生(生き物を殺す事)を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業(罪障)の報いにより非常に長い年月の間地獄(大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒(地獄の鬼達)により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界)に赴き多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達(カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等)に内臓をついばまれ食われ、その激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

また、殺人行為を犯した者の死後の業報、報いについて漢訳仏典、雑阿含経第十九巻(大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版 136ページ下段)、国訳一切経 阿含部2 大東出版 雑阿含経第十九巻の断人頭経というお経において次のように説かれている。

「一時、仏、王舎城に住まり給えり、その時、我(目連尊者)は道中(路中)において、頭が無い一大身の衆生(生き物、霊体)を見た。その霊体は両肩に眼が生じ、胸に口があり、身体より常に血を流し、諸々の虫がその体をついばみ、獲食し、その生き物の身体は骨髄に徹する程の痛みを受け、苦しんでいるのを見た。」

仏陀釈尊は目連尊者の見聞した事の内容をお聞きになり、この衆生(生き物)について諸々の比丘(修行者)に次のようにお説きになられた。

「この衆生は生前(この世で生きている間)に、この王舎城において好んで人の頭(首)を切断し殺害した。この罪によるが故に、この衆生は既に百千歳、地獄の中に堕ちて無量の苦しみを受け、その後、更にこのような身体を受け、このようなひどい苦しみを受けるのである。

        

比丘よ。目連尊者の所見(見聞)は真実にして異ならず。まさにこれをよく受持すべし。」と。

次に、真言宗の開祖、弘法大師空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において中絶(ちゅうぜつ)、堕胎(だたい)の果報、業報について説かれている箇所がある。

   

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経 第十七巻 経集部四 五五八頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は

「一人の鬼あり、その鬼が仏弟子である目連尊者に対してこう問いかけた。「私(鬼)の身体は常に肉の塊(かたまり)にして手、脚、眼、耳、鼻等あること無し、つねに多くの鳥達に体をついばまれ、食べられ、耐えられない程苦しい。

何が原因でこういう苦しみに遭(あ)うのか」

目連尊者は答えて言った

「あなたは前世(前生)においてつねに他者に薬を与え他者の胎児(たいじ)を堕(おろ)した。

胎児を中絶させた。

胎児を殺害した。

このような行為、因縁、業報により死後、現在においてこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、行為の報い、罪の報いであり、地獄の苦果、苦しみはまさに後身にあり(果報の報いはあとになって受ける)。」とある。

(鬼という言葉は死者を意味する。昔は死ぬ事を鬼籍に入ると言った。)

次に、日本の浄土宗に大きな影響を与え鎌倉時代前に活躍した天台宗の僧侶、源信(慧心僧都源信、横川僧都源信)という僧侶により書かれた「往生要集」という書物がある。

この書物の前半では地獄界 餓鬼界などの状況等について各教典論書を引用し具体的に書かれている。

又どのような行為(例えば殺生、盗み、妄語、邪淫、飲酒など)によりどういう境涯(例えば地獄界、餓鬼界、畜生界など)に赴くのかが記載されている。

日本において地獄の観念が多くの人々に弘まった大きな原因のひとつは天台宗の源信という僧侶が「往生要集」という書物を著しその書物が多くの人々に読まれたからであろう。

この「往生要集」は今から約千年程前に書かれた書物で現在に至るまで多くの人々に読まれている。

この「往生要集」で引用されている経典の種類は極めて多く、源信様がいかに多くの経典を読まれたかが分かる。

特に阿含経、正法念処経、大智度論などの経典論書において地獄について詳しく解説した箇所がある。

また地獄の状況を絵で表現した地獄絵というものもある。

      

       

       

       

      

       

地獄絵は文字が読めない人々や子供達に対し仏教の教義を分かり易く解説する役割を果たし、多くの人々に倫理観、道徳意識、勧善懲悪の観念を植え付け、また地獄に対する恐怖心が凶悪犯罪の防止、犯罪抑止力の役割を果たしていたと考えられる。

また、仏典「スッタ・ニパータ」において釈尊は次のようにお説きになられている。

「何者の業も滅びる事はない。それは必ず戻ってきて業を作った本人がその報いを受ける。愚者は罪を犯して来世にあってはその身に苦しみを受ける。

地獄に落ちた者は鉄の串を突き刺される所に至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。また灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは昔作った業にふさわしい当然な事である。

地獄の獄卒どもは「捕らえよ」「打て」などといって誰もやさしい言葉をかけることなく、温顔をもってむかってくることなく、頼りになってくれない。

地獄に落ちた者どもは敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

またそこで地獄の獄卒どもは鉄の縄をもって地獄に落ちた者どもをからめとり鉄槌をもって打つ。

さらに真の暗黒である闇に至るがその闇は霧のように広がっている。

また、次に地獄に落ちた者どもは火炎あまねく燃え盛っている銅製の釜に入る。

火の燃え盛るそれらの釜の中で永い間煮られて浮き沈みする。

(中略)。

罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。

だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなし、おろそかにしてはならない。」と。

これらの仏教思想は作家、芥川龍之介の文学作品「蜘蛛の糸」などに大きな影響を与えている。

参考文献

「ブッダのことば スッタ・ニパータ 中村元訳 岩波書店」

「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」

「往生要集 上  源 信 著  石田 瑞麿訳注 岩波文庫」
「往生要集 下  源 信 著  石田 瑞麿訳注 岩波文庫」

「羅生門 蜘蛛の糸 杜子春外十八編 文春文庫 現代日本文学館」

「間脳思考 霊的バイオホロ二クスの時代 桐山靖雄著 平河出版」

「思想の自由とジャイナ教 中村元著 春秋社」

「弘法大師著作全集 第一巻 弘法大師(著) 勝又俊教(編)山喜房仏書林」

「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 二 大東出版社」

「大正新修大蔵経第二巻 阿含部下 大蔵出版社」

「大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 大蔵出版社」







ブッダが説く輪廻転生、因果応報、因縁果報の教え

仏教の開祖、ブッダ釈尊は輪廻転生、因果応報、因縁果報の教えを説いている。

仏教にとって人間に生まれてくる事は非常に良き生まれであると説く。

その大きな理由として、人間の境涯からのみブッダになる事が出来る事。

人間にとって神々に生まれる事は良き生まれであるといわれるが神々にとって、人間に生まれる事が良き生まれであるといわれている。

輪廻転生の世界では衆生(生き物達)は地獄界や畜生界に生まれ替わる方が人間界に生まれ替わるよりも圧倒的に多いと仏典では説きます。(阿含経 増支部経典 参照)

仏教の目的はこの苦に満ちた輪廻転生からの解脱、脱出を説きます。

本質的に仏教はこの六道輪廻の世界を苦しみの世界とみなしそこからの離脱を目指します。

仏典に修行を完成した表現として

「現法の中において、自身作證し、生死已に盡き、梵行已に立ち、所作すでに辨じ、自ら後生を受けざるを知る、すなわち阿羅漢果を得たり」

(阿含経 長部経典参照)(国訳一切経 印度撰述部 阿含部 7)

その輪廻転生には分段生死(ぶんだんしょうじ)と変易生死(へんやくしょうじ)と云う種類の転生があります。

分段生死とは凡夫の輪廻転生を意味し、

六道輪廻つまり

地獄界(極めて苦しい残虐悲惨な境涯)

餓鬼界(飢え、乾きに苦しむ境涯)

畜生界(動物の境涯)、

修羅界(争いの境涯)、

人間界(人間の境涯)、

天界(天、神の境涯)

の六種類の境涯を衆生(生き物)が何回も何回も際限なく輪廻転生していく転生を意味します。

チベット仏教 六道輪廻図絵

チベット仏教 六道輪廻図絵

変易生死とは聖者の輪廻転生を意味し、聖者が仏陀の境涯に向かって修行していく過程、聖者としての境涯が後退せず上昇していく転生を意味します。

変易生死について詳しく解説すると、例えば聖者の境涯に預流(よる)という境涯があります。凡夫が仏道修行により修行の境涯が進むと先ず預流という聖者に成ります。

預流とは聖者の流れに入った者の意を表し、預流になると地獄界、餓鬼界、畜生界という最も苦しみの度合いが激しい三悪道の境涯には二度と生まれ変わらないとされています。

そして最高位の聖者である仏陀に成るまで三回~七回程度、人間界と天界への生死を繰り返し最後には必ず仏陀の境涯に至る事が出来るとされています。

先ほど、仏教では、人間に生まれてくる事は非常に良き生まれである。と説く。と説明したが、

その大きな理由として、人間の境涯からのみブッダになる事が出来る事。

また、修行が六道の中で一番し易い事と言われている。

事実、お釈迦様は兜率天(とっそつてん)という天界の境涯から下生し、人間に生まれ変わり、人間界において修行し完全解脱、無上等正覚を得られ、ブッダになられたとされています。

仏教では、将来、ブッダになる予定の方は、ブッダになるために人間に生まれ変わる直前に、兜率天(とっそつてん)という天界において待機しているとされている。(ジャータカ、漢訳経典 本生経 参照)。

パーリ仏典において仏陀(ブッダ)は次のようにお説きになられている。

「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、(そのもの自身が)堅固不動のものになると、かれ(修行者)は生き物達の死と再生について知る事(死生通)に心を傾け、心を向けるのです。

そして、かれ(修行者)は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知るのです。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。とかれ(修行者)は知る。」

仏陀(釈尊)の覚醒の課程は三夜にわたる智の開眼、智慧の獲得で説明される。

第一夜(初夜 夜6時~夜10時頃)において釈迦(釈尊)は瞑想によって自らの百千の生涯、幾多の宇宙の成立期、破壊期、成立破壊期を残らず想起した。(宿明智の獲得)

第二夜(中夜 夜10時~夜中2時頃)において天眼(清浄で超人的、神的な透視力)により生き物達が無限の生死循環(輪廻転生)を繰り返す様を見透す。(天眼智の獲得)

第三夜(後夜 夜中2時~朝6時頃)において「一切(輪廻転生の本質)は苦である」という認識を得、縁起の法を悟って覚醒、漏尽解脱、智慧解脱の完成を得た。(漏尽智の獲得)

「わたし(釈尊)は最高の道を悟った。

私の悟りは揺るがず、壊れない。

私(釈尊)は解脱を果たした。

もう苦しみの世に生まれる事は決してない。」

仏道修行者は究極的にはこの三明智の体得、三明智の獲得を目指さなければならない。

チベット仏教 釈迦成道絵

釈迦 降魔成道像(インド)

パーリ仏典「サンユッタ・ニカーヤ」において仏陀は次のように説かれている。

「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。

全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い  また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等

それこそが、その人自身のものである。

人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。

それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。影が人に従うように。

それ故に善い事をして功徳を積め。功徳は人々のよりどころとなる。」

パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ及び漢訳仏典雑阿含経において ブッダ(仏陀、等正覚者)はこうお説きになられている。

「悪行(悪い行為)をした者は肉体が滅んだ死後に苦悩・災いの世界、不幸な状態、煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」

「信仰もなく貪欲で利己的で悪い思いを抱き、誤った主義に生きて敬愛の心がなく、僧侶や托鉢をする人を嘲(ののし)り罵(あざけり)り心に怒り心を抱き食を乞う者に誰かが与えようとするのを邪魔する者。

このような人が死後恐ろしい煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」とある。

地獄絵

パーリ仏典「ウダーナヴァルガ」において分かち合うことの大切さが説かれている。

「信ずる心あり、恥を知り、誡(いまし)めをたもち、また財を分かち与える、これらの徳行は、尊い人のほめたたえることがらである。

この道は崇高なものである とかれらは説く。

これによって、この人は天の神々におもむく。

もの惜しみする人々は、天の神々の世界におもむかない。

その愚かな人々は、分かち合うことをたたえない(賞賛しない)。

しかしこの信ある人は分かち合うことを喜んでいるので、このようにして来世には幸せとなる。」

パーリ仏典「ダンマパダ」及び「ウダーナヴァルガ」において仏陀はこうお説きになられている。

「悪の報いが熟しない間は悪人でも幸運にあうことがある。

しかし悪の報いが熟したときには、悪人は災い(わざわい)にあう。

善の報いが熟しない間には善人でも災い(わざわい)にあう事がある。

しかし善の果報が熟したときには善人は幸福にあう。」

「袈裟(けさ)を纏(まと)っていても、性質(たち)が悪く、つつしみのない者が多い、かれら悪人は悪いふるまいによって、悪いところ、地獄に堕ちる。」

(※袈裟とは一般的に仏教の僧侶、仏教修行者、仏教信仰者が首から掛ける長い布状のたすきのようなもの)

参考文献

「仏教(上)ベック著 岩波文庫」
「仏教(下)ベック著 岩波文庫」
「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤ1 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」
「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」
「大正新修大蔵経第1巻 阿含部上 大蔵出版社」
「大正新修大蔵経第2巻 阿含部下 大蔵出版社」
「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 七 大東出版社」
「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 九・十 大東出版社」
「原始仏典〈第1巻〉長部経典1  中村 元 (監修), 森 祖道 (翻訳), 橋本 哲夫 (翻訳), 浪花 宣明 (翻訳), 渡辺 研二 (翻訳) 春秋社」
「釈迦の本―永遠の覚者・仏陀の秘められた真実  NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 9 」

「ブッダの真実の教えを説く(上巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「ブッダの真実の教えを説く(中巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「ブッダの真実の教えを説く(下巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「輪廻する葦 阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「間脳思考 霊的バイオホロ二クスの時代 桐山靖雄著 平河出版」













断眠修行という荒行について考える。

宗教家や修行者の方々など、様々な宗教的修行をされている方々の中に、よく断眠行、夜中、徹夜で様々な行をされる方々がおられるが、これなどもあまり、度を過ぎると健康上、良くないように思われる。

また、日本の風習では、12月31日の大みそか、夜半から翌朝の元旦の朝方にかけて大勢の参拝者の方々が夜半、朝方まで寝ないで、様々な神社、仏閣をお詣りする風習があるが、これなども健康上の観点から考えるとあまり好ましくないように思える。

最近、発行されている睡眠に関する書籍において次のような内容が書かれている。

「眠りは単なる体や脳の機能停止だけの働きではない。

眠りは「サボり」と考えるような睡眠をネガティブ、マイナスに捉える方々でも、眠ることで回復することは疑わないであろう。

眠りが単なる機能停止ならば、なにも起こらない、回復もしない。

睡眠は体や脳の回復とともに、様々なメンテナンスの機能を持ち合わせている。

「寝る子は育つ。」「風邪は寝て治す。」これも睡眠の機能を端的に表している。

「寝る。」「眠る。」つまり活動を減らすことでエネルギーの消費を抑え、その分のエネルギーを成長や免疫活性化に充ててる。」

「限られたエネルギーの再分配の仕組みである脳は実に様々な働きをするが、その結果、大量の老廃物が生まれる。

それらは全て排除しなければならない。

老廃物を取り除く事で、文字通り、新たな成長や発達の余地が生まれるからだ。

死んだ細胞の除去やリサイクル、有害物質の排除、老廃物の排出は脳を機能するうえで絶対に欠かせない。

眠っている間の老廃物を除去する活動は目覚めている間の10倍以上老廃物を除去する活動が活発になるという。

目覚めているときの脳は学習や成長に勤め、脳の持ち主が活躍できるよう協力している。

ずっと動きっぱなしなので、たくさんの老廃物がたまっていくが、そのほとんどは睡眠が持つ修復の力で除去される。

例えば、自宅のごみを捨てるシステムがとどこおれば、家はあっという間に悲惨なことになる。

それと同じでように充分な睡眠をとらず、その老廃物を除去する働きがなければ脳内が大変なことになる。

具体的に言うと有害な老廃物を除去する事が無いことがアルツハイマー病を発症する根本的な原因の一つだと言われている。」

睡眠中は特に脳内の老廃物を排出する時間帯でもある。

充分な睡眠時間帯が取れないと脳の老廃物を除去する事が難しくなる。

充分な睡眠時間は我々に多くの利益をもたらすが睡眠不足は我々に多くの不利益をもたらす。

充分な睡眠時間を取る事は人間の健康を維持するには最も重要な事である。

特に、体全体の疲労を回復させるホルモン(疲労回復物質や成長ホルモン)などは全て睡眠中に最も分泌するしくみになっている。

また思春期の子供達にとって成長ホルモンは身長を伸ばすなど、思春期の二次性徴を促すホルモンとして有名です。

昔から「寝る子は育つ」ということわざがあります。

さらに睡眠は全身の細胞の修復と新陳代謝を促進し疲労を回復させるという大切な役割もあります。

また脳の疲れを取り、記憶力、集中力、ひらめき力、学習能力をアップする作用があります。

睡眠こそが最も強力な疲労回復の手段である。

逆に睡眠不足などが原因で体の免疫機能が低下し、風邪や感染症にかかりやすくなる。

ガンのリスクが高まる。

高血圧、糖尿病、脳梗塞、心臓病などの恐ろしい病気の原因になる。

また認知症などの原因になると考えられている。」

「マンガ家の水木しげる氏(1922年~2015年)(93歳没)は、ご自身の短編漫画「睡眠のチカラ」の中で

「私は徹夜2日目」「僕は徹夜3日目」と徹夜自慢をするマンガ家の手塚治虫氏と石ノ森章太郎氏に対して

「あんたたち、睡眠を馬鹿にしてはいけません。眠っている時間分だけ長生きするんです。

幸せなんかも睡眠力から湧いてくる。睡眠力こそが、すべての源(みなもと)です。」

と説教するシーンが描かれています。

手塚治虫氏は61歳で胃ガンによって亡くなられています。睡眠時間はつねに3~4時間で、漫画の締め切りが迫ると連続して徹夜することもあったといいます。

石ノ森章太郎氏も同じく血液のガンであるリンパ腫による心不全が原因でわずか60歳で亡くなっています。

睡眠時間は3時間ほどしか取らず、何本も連載を抱えハードワークをこなしていたそうです。

世間では「睡眠時間を削って仕事に邁進(まいしん)することが成功の道だ。」という風潮がありますが、

その結果、短命に終わる人が多いのも紛れもない事実であります。」

「過去に起きたチェルノブイリ原子力発電所の原発事故、

原始炉融解直前までいったスリーマイル島の事故、

大規模な環境破壊につながった石油輸送船エクソン・ヴァルディーズ号の石油流出事故、

そしてアメリカのスペースシャトル「チャレンジャー号」の爆発事故、

これらの事故はいずれも眠りが足りない人々によるミスが原因で起こったものだとされる。

睡眠不足は人の頭脳の働きや反応を鈍らせ事故を起こし易くする。

さらに眠りが少な過ぎると人は急死することもあれば健康を損なう。

さらに睡眠不足は人の気分を落ち込ませ深刻な鬱病(うつびょう)を引き起こす。また感情のコントロールが効きにくくなり怒り易くなる。

全米睡眠財団の発行する機関誌(Sleep Health)の発表によると20代~50代の推奨睡眠時間は7時間~9時間と発表されている。」

ところで、仏教の開祖であり、さとりを開かれたお方であるお釈迦さまは昼寝を日常的にされていた記録がある。

仏教学の世界的権威、今は亡き、中村元博士は仏教教団 阿含宗の機関紙「月刊アーガマ42号」においてお釈迦様が食事の後よく昼寝をされたことを微笑ましく指摘されている。

食後の休息をパーリ聖典で昼住(ちゅうじゅう)という。

この習慣は現在の東南アジアの僧院でよく見かける。

当時の厳格な修行者からすると昼寝をする事はダラシのない事であり、怠惰なふるまいであったと考えられた。

当然、釈尊に対しても次のような非難が向けられていた。

ある日、サッチャカという修行者が釈尊に次のように言った。

「ゴータマ(釈尊)よ。あなたは昼寝をする者である事を認識しているのですか。」

釈尊は、次のように答えた。

「私は托鉢から帰ってきて食事をし、その後、大衣を四つ折りにし、その上に、右脇を横たえ、自らの心の動きを観察しながら眠りに入る事があります。

だから自分が昼寝をする者である事をよく認識していますよ。」

サッチャカが言った。

「ゴータマ(釈尊)よ。修行者やバラモンのある者は迷っているから、そんな事を語るのです。」

釈尊は静かにこう答えた。

「食後の昼寝をした、しないだけで、迷っているとか、迷っていないだとか、言えませんよ。」

参考文献

「眠りをめぐるミステリー 睡眠の不思議から脳を読み解く 櫻井 武 著  NHK出版新書」

「月刊 アーガマ42号 阿含宗総本山出版局」

「一流の人はなぜ眠りが深いのか 奥田 弘美 著 知的生きかた文庫」

「Sleep(最高の身体と脳を作る技術)ショーン・スチーブンソン著 花塚 恵 訳  ダイヤモンド社」

「睡眠不足は危険がいっぱい スタンレー・コレン著 木村 博江 訳 文藝春秋」





仏教者の布教伝道の意義と目的についての話

上求菩提下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)ということばがあります。

今は亡き、阿含宗管長、桐山靖雄先生(1921年~2016年)は自身の著書「説法六十心 桐山靖雄著 平河出版」において次のように説かれている。

「自分自身、上の境涯に向かって菩提、悟りを求めて一心に修行をすると同時に

自分より下の境涯の者に向かっては親切に指導をしてあげる。

仏道修行者が必ず実践しなければならない事だと言われています。

また、指導する、教え導く立場の人間が心すべきこととしては、どんなに大知識者、大学者であっても自分一人の力だけでそうなったのではなく、社会や無数の方々のおかげもあったという事を忘れてはいけない。

そのために、その知識は社会の幸福の為、社会に役立てる為、社会に対して、そのお返しをしなければならない。

特に仏教徒は仏祖への報恩謝徳の為に又、一般民衆の幸福の為に正しい仏教、正しい仏法を広めなければならない。」

仏教経典には布施の実践の必要性を説いている。

その布施に2種類の布施があると説かれている。

いわゆる、財施と法施があると説かれている。

財施は文字通り、財物を布施する意味。

法施とは仏教などの教えを世の中に広め人々を教え導く事。

宗教家、山口修源先生は自身の著書「あなたの死後はこうなる 山口修源著 星雲社」」という本の中でこう説かれている。

「法施(正しい教えと法を広く世間、社会、人々に説き弘める事など)を多くした人達、生きている間に霊的に人々を多く救った人達、また、そういう道標を作った人達、道標を作っておけば直接的にたくさん人を救っていなくてもその道標が有る限りずっとその後の多くの人達を救い導く事が出来る。

例えば仏典の翻訳本を出した鳩摩羅什法師や玄奘三蔵法師達の為された法施の功徳は非常に大きい。

彼らはけっして人間的にはそれほど人格的に高くはなかったかもしれない。

しかし、あの2人の為した功徳は大きすぎて、既にあの2人は救われ解脱していると思われる。

2種類の布施の功徳を比較すると俗世間の善事と法施の功徳の差は一と百などというものではなく一と千あるいは一と万というくらい違う。

法施つまり正しい教法を世間に広める功徳の方がはるかに大きい。

正法つまり正しい教え、正しい法というものを説いていく役割についた人が最も大きな功徳を積むことが出来る。

そういった意味において、あの2人(鳩摩羅什法師や玄奘三蔵法師)のなした功徳は大きすぎて、あの2人は既に救われ解脱していると思われる」と説かれている。

参考文献

「説法六十心1 桐山靖雄著 平河出版」
「アラディンの魔法のランプ―仏舎利宝珠尊和讃 桐山靖雄著 アーガマサンガブックス」
「あなたの死後はこうなる 山口修源著 星雲社」




仏典が説く、大富豪が死んだ後、餓鬼界に堕ちて苦しんでいる話

悪しき行為が餓鬼の世界への生まれ変わりに繋がるかを示した問答が仏典に説かれている。

餓鬼は、地獄に落ちた者たちに課せられる恐るべき刑罰を受けることはないが、地上をさまよい飢えに苛まれ、しかも口が小さすぎて飢えを満たせないでいる者たちのことである。

餓鬼は裸で醜くやせ細り、静脈は浮き上がり、肋骨が突きでた姿をしている。

仏典には、大富豪が死後、極貧の餓鬼の世界に堕ちた話が書かれている。

その餓鬼との問答をひとつご紹介する。

尊者曰はく
「お前は一体何者か?」

餓鬼曰はく
「尊者よ。私は閻魔の世界の悪しき運命に落ちた亡霊である。

悪業を犯したため、私はこの亡霊どもの世界に来た。」

尊者曰はく
「一体どんな悪事、身体、声、心によって犯した為にそれが熟してお前をこの世からこの亡霊たちの世界に赴かせることになったのか?」

餓鬼曰はく

「かつて私は大富豪で荷車80台分の黄金と、莫大な金、おびただしい真珠と碧玉を私は持っていた。

だが、どれほど、たくさんの富を持とうが私は与えることを好まなかった。

乞食にその宝物を見られないよう家の門を閉じ、家の奥で富を楽しんだものだった。

不信心な利己主義者で、ケチで口うるさかった。

人々が施しをするのを邪魔したものだった。

施しが実を結ぶことはない。

倹約の果実はどこから来るというのか?

私はそう言い続けた。

ハスの池、井戸、木々の植えられた庭園、貯水槽を壊させたものだ。

善行はせずに悪行をした挙句、この世を去った途端、亡霊たちの世界に生まれ変わり、飢えと渇きに苛まれている。

もう食べ物や飲み物とはどんなものかもわからない。

倹約、それは破滅だ。

破滅それは倹約だ。

まことに亡霊たちはよく知っている。

倹約それは破滅だと。

私はかつて倹約ばかりしてたくさんの自分の恵みを施さなかった。

施しによって自らの島を作らなかった。

後になって自身の行いの果実を掴みとっては悔やんでいる。

4か月後、私は死ぬだろう。

地獄へ、全てが苦しく恐ろしいところへ私は堕ちて行く。

地獄は四角く、四つの門があり、絶妙の割合で別れ、青銅の壁に囲まれたお堂に覆い尽くされている。

地面は青銅でできていて燃え盛る炎が上がっては四方八方にも広がっていき、それがまだ続く。

あちらで私は長い間苦しい思いを味わうだろう。

それも我が悪しき行いの果実である。

だからこんなにも嘆いているのだ。

ここに集まっているあなたあなた方、全てに、私はためになる忠告をする。

悪しき行いをしてはならない。

こっそり隠れてでも。

公然とでも。

今、あるいは、今後、悪しき行いをしたら、たとえ逃げようと、もはや、あなたに苦からの解脱はない。

父母、年長の家族、修行者を敬いなさい。

そうすれば天に行けるだろう。

天空にも、海底にも、山深く分け入った岩穴の中にも、そこにいれば、悪しき行いから逃れられるという場所など、この世に見い出せはしない。」

次に、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

ところで、その餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事、盂蘭盆会という行事があります。

この行事は餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事です。

餓鬼界とは生前もの惜しみ心が強くケチで人に親切でなく布施をしたりせず悪い事をした者が死後に生まれ変わっていく境涯であります。

餓鬼界には食物がほとんどなく空腹で苦しみ仮に食べ物があっても食べ物を食べようとすると火になって燃えてしまったりする。

そういった餓鬼界で苦しんでいる餓鬼達に食べ物を供養したり食事が出来るように餓鬼達を救う為の行事を盂蘭盆会や施餓鬼供養といいます。

餓鬼へのご供養をする為のご真言が仏教経典には書かれている。

真言には無量威徳自在光明殊勝妙力等の餓鬼を供養するご真言があるが施餓鬼の経典として有名な「仏説盂蘭盆経」「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼」等の経典に詳しく記載されている。

この仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経のお経の主な内容は、昔、お釈迦様の直弟子の阿難尊者がある夜、閑静な場所に独り座し仏様の教えの内容を深く観じていると深夜に一人の餓鬼が現れた。

その姿は、髪は蓬(よもぎ)のように乱れ口からは焔(ほのお)を吹き身体はやせこけ咽(のど)は針の如く細く爪は長くとがり顔に苦悶の形相が凄く、阿難尊者に向かってこのように言った。

「あなたは三日後に死んで私のように餓鬼となるであろう。」と。

阿難尊者は内心大いに恐れ「どのようにしたらこのような苦しみから解放されることが出来るのだろうか」と反問したところ餓鬼が次のように答えた。

「この世界に満ちている多数の餓鬼に飲食を施し、多数の仙人、多数の修行者及び三宝(仏、法、僧)に供養をすれば、その功徳に依って私も餓鬼の苦しみから解放され、あなたも寿命を延ばし餓鬼界に堕ちる事はないでしょう」と言って姿を消した。

阿難尊者は仏様にその出来事について相談をし仏様から餓鬼供養のご真言や供養法を教わった。

そして、その法を修したところ阿難尊者も天命を全うし餓鬼の苦しみも解脱したとあります。(大正新修大蔵経第21巻(密教部四)464P~465P参照。)

餓鬼に関連するお経に盂蘭盆経というお経もある。

その主な内容は

「昔、お釈迦様の直弟子であり高弟の目連尊者が修行により悟りを開くと、直ちに故郷の母を想い起こし、目連尊者自身の天眼通(超人的な透視力、霊眼)により母の所在を探すと母はもう既に亡くなって、餓鬼道に堕ちて苦しんでいたのを見た、

目連尊者は大いに悲しんで自身の神通力により母の傍らに赴き、手づから食物を捧げると、母はうれし涙にくれ、直ちに目連が持ってきた食物を口に入れようとしたが、過去に目連の母が犯した多くの悪業報の報いにより、食物はそのまま火炎となって燃え上がり目連の母はその食物を食べる事が出来なかった。

母は悲泣し目連尊者もどうすることも出来ず、ただ赤子のように泣くのみであった。

その後、目連尊者はお釈迦様の所に行き、母の苦しみを救って欲しいとお願いした。

するとお釈迦様は次のように説かれた。

「目連の母は生前の悪業が深いので目連の力だけではどうする事も出来ない。

このうえは十方(多数)の衆僧(修行僧)の威徳に頼る他は無い。

七月十五日は僧懺悔の日、仏歓喜の日であるから、その日に飲食を調えて十方の衆僧を供養するがよい。

そうすればその功徳により母の餓鬼道の苦しみも消えるであろう。」と説かれたので目連尊者はその教えの通り、その日に十方の衆僧に飲食を調え供養を行うと母の餓鬼道の苦しみを救う事が出来た。」と書かれている。

この目連尊者のお母さんが救われたのを見た目連尊者が喜びのあまり、狂ったように踊って喜んだ。

周りの僧侶たちは、あの勤勉で真面目で実直な目連尊者が狂ったように踊り、喜んでいる姿を見て、大変驚いたという。

毎年、日本の夏に行われている盆踊りの起源は、この時の目連尊者の踊りが起源とされています。

参考文献

「ブッダの教え  初期経典をたどって アンドレ・バロー著  富樫瓔子訳」
「ブッダ 神々との対話 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 中村元著 岩波文庫」
「お盆と彼岸の供養 開甘露門の世界 野口善敬編者 禅文化研究所」
「大正新修大蔵経第二十一巻 密教部四 大蔵出版」
「地獄の話 山辺習学著 講談社学術文庫」

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仏教が説く、盗み、泥棒、窃盗行為に対する死後における報い。

「因果は巡る小車」という諺があるが、その意味は善行も悪行も自分に返ってくる。

一般的には悪いことをした報いは自分に返ってくるといった意味。

つまり、自業自得のような意味に使われがちですが「輪転五道罪福報応経」という仏教のお経によると、わるいことだけではなく、よいことをした報いも自分に返ってくるとされています。

何かをしくじって、一般的に、ごまかしたり、やり過ごせたりしても後になってそれが原因となり自分の身に災難が降りかかってくるケースは少なくありません。

当然のことと思った善行によって後々、その相手から窮地を救ってもらえる例もあります。

こちらは情けは人の為ならずと同義です。

ところで、現代において典型的な盗みの罪として、

振り込め詐欺、

オレオレ詐欺、

架空請求詐欺、

ワンクリック詐欺、

ひったくり、

ぼったくり、

いかさま、

スリ、

着服、

横領、

不正請求、

ペーパー商法、

悪徳商法、

金融犯罪、

強盗、

強奪、

置き引き、

持ち逃げ等の罪などがある。

仏典では、そのような悪事、悪業を犯すと未来、死後、来世においてその悪事、悪業の罪の報いとして

地獄界、

鉄窟地獄(てつくつじごく)、

寒氷地獄、

餓鬼界(飢えや渇き等に苦しむ境涯)、

畜生界の三悪道、

三悪趣という大きな悩み苦しみに満ちた残虐、

悲惨な境界、

地獄 獄卒絵

人間に生まれるならば撲隷(奴隷)、

無幸処(幸せの無い境界)、

極貧、

貧困等の大きな悩み苦しみ多き境涯に生まれ変わると説かれている。

仏教では六道輪廻を説きます。

六道輪廻とは生き物達が

天界、

人間界、

修羅界、

畜生界、

餓鬼界、

地獄界の六道

つまり六つの境涯を途方もない膨大な期間、途方もなく膨大な回数、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしている。

つまり、輪廻転生している事を説いている。

その六道のうち動物の境涯である畜生界、飢えや渇きに苦しむ境涯、餓鬼界、地獄の鬼達に残虐に責め立てられ痛めつけられ苦しめられる極めて残虐悲惨な境涯である地獄界は三悪道、三悪趣といって六道輪廻の中では最も苦しい境涯であると説きます。

増一阿含経において、生き物たちのことを、仏教用語では衆生(しゅじょう)と呼びますが、衆生は死後に、人間や神に生まれ変わるより、地獄界や畜生界、餓鬼界などの悪趣に生まれ変わる回数の方が圧倒的に多いと説いています。

仏典、増一阿含経 第七巻 五戒品 第十四において盗み、泥棒(どろぼう)、窃盗(せっとう)、略奪(りゃくだつ)行為の報いについて説かれているお経が存在する。

その主な主旨内容は、盗み、泥棒、窃盗行為を多く行った者はその罪の報いにより未来、将来、死後、来世において地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ赴(おもむ)くと説かれている。

また、人間に生まれ変わっても極めて貧しく、衣服や食事に極めて事欠く境涯に生まれ赴くと説かれている。

(大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下  576ページ中段参照、国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社 106ページ~107ページ参照)

また、パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ、雑阿含経において仏陀は次のように説かれている。

「他人から奪った人が(来世、未来において)他人から奪われるのである。

愚か者は悪の報いが実らない間は悪の報いがない事を当然のことだと考える.

しかし、悪の報いが実ったときには愚か者は苦悩を受ける。

殺す者は(未来には)殺され、怨む者は(未来には)怨みを買う。

また、罵りわめく者は(未来には)他の人から罵りを受ける。

怒りたける者は(未来には)他の人から怒りを受ける。」

次に、パーリ仏典「ダンマパダ」及び「ウダーナヴァルガ」において
仏陀はこうお説きになられている。

「悪の報いが熟しない間は悪人でも幸運にあうことがある。

しかし、悪の報いが熟したときには、悪人は災い(わざわい)にあう。

善の報いが熟しない間には善人でも災い(わざわい)にあう事がある。

しかし、善の果報が熟したときには善人は幸福にあう。」

さらに、「ダンマパダ」(法句経)において仏陀はこうお説きになられている。

「悪しき(悪業)をなしてこの世(現世)に苦しみ、かの世(来世)に苦しみ両世(現世、来世)に苦しむ。

「我 悪しきをなせり」と思い苦しみ、難所(地獄など)に行きていよいよ苦しむ。

良き(善業)をなしてこの世(現世)に歓喜し、かの世(来世)に歓喜し両世(現世、来世)に歓喜す。

「我 良きをなせり」と歓喜し、善処(天界)に行きていよいよ歓喜す。」

さらに、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀はこうお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし、人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

さらに、法句経において仏陀は次のように説かれている。

「悪業の報いはたとえ大空においても大海においても奥深い山中に隠れても悪業の報いからは逃れることが出来ない。」

さらに、仏典パーリ中部経典の中の賢愚経(けんぐきょう)、漢訳仏典 中阿含経の癡慧地経(ちえぢきょう)において仏陀は次のように説かれている.

「仮に賭博(とばく)や博打(ばくち)に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運があったとしても、罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後、地獄へ堕ち、膨大な年数、極めて残虐悲惨な苦しみを受ける地獄での大苦痛大苦悩に比べれば賭博、博打に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運などはとるに足らない僅(わず)かな不運である。」

つまり「罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後地獄へ堕ち、膨大な年数、残虐で極めて悲惨な苦しみに遭遇する地獄へと堕ちる不運こそが最悪の大不幸、大不運、大損である。」という内容の説法をされている。

つぎに、真言密教(真言宗)の開祖弘法大師空海様の晩年の著作「秘密曼陀羅十住心論」や日本の浄土宗に大きな影響を与えたとされる天台宗僧侶、慧心僧都源信様の著作「往生要集」、その他多くの仏教諸経典において偸盗罪(ちゅうとんざい)つまり他者(他人)の所有物を盗む事の罪(与えられない物を奪い取る罪)の業報について説かれている。

「秘密曼荼羅十住心論第一巻」においては盗み、窃盗、泥棒、収奪の業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 五五七頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は

「ある一人の鬼(死者)がいた。その鬼が仏弟子である目連尊者に対しこのように質問した。

「私の腹は極度に大きく、のど、手足は極度に細くて食べ物や飲み物を取ること、食事をする事が出来ない。

何が原因でこのような苦しみを受けるのか。

目連尊者は答えて言った。

「あなたは前世(前生)において高い地位にあり富貴、裕福で、さまざまな食事、お酒を大いに楽しんだが、他の人々を軽視し、侮り(あなどり)、見下し他の人々の飲食を奪(うば)い取り、他人を飢(う)えさせ、他人を困らせた。

このような他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた行い、行為、因縁、業報、罪の報いによりこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、業報であり、このような罪の報いによる地獄の苦しみは後になって受けるのである」

また、「往生要集」は浄土宗に大きな影響を与えた書物で鎌倉時代前に活躍した天台宗の僧侶、源信(慧心僧都源信、横川僧都源信)という僧侶により書かれた書籍である。

この往生要集は宗(約千年前の中国の国名)の国に贈呈され台州の周文徳という方が往生要集を国清寺に収められた。また周文徳は源信を小釈迦源信如来として賛嘆、褒め称えた。

また、真宗皇帝も源信を賛賞する事切なるものがあったという。

日本国においても源信様は今迦葉(迦葉とはお釈迦様の在世当時の十大弟子の一人 優秀な高弟の名前)と呼ばれ、源信を賛賞する事切なるものがあったという。

この書物の前半では地獄界 餓鬼界などの状況等について各教典論書を引用し具体的に書かれている。

又、どのような行為(例えば殺生、盗み、妄語、邪淫、飲酒など)によりどういう境涯(例えば地獄界、餓鬼界、畜生界など)に赴くのかが記載されている。

また、仏の三十二相についても具体的に説かれている。

どういう種類の良い行いにより良き報い、良き境涯、優れた仏の外観相形などを得られるのかという事も書かれている。

次に、江戸時代に活躍された僧侶、臨済宗の中興の祖、白隠禅師様が書かれた書籍で「辺鄙以知吾(へびいちご)・壁訴訟(かべぞしょう)」という書物がある。

その書籍の内容は、江戸時代の一部の殿様や将軍達の農民に対する貪欲かつ暴利を貪るが如き年貢の要求、冷酷な年貢の取立て、またその冷酷無慙な取立てにより農民達が苦しめられ、追いつめられ、ついには農民一揆という行動をとらざるを得なくなり、最後には農民達が死罪に追い込まれていった詳しい事情経緯がこの本に書かれている。

また、この書籍の中で白隠禅師は、苦しめられ追いつめられていく農民の姿を見てお殿様や将軍達に対して次のように批判した。

「あまり農民達を冷酷、過酷な取り立てで苦しめ追いつめると来世(死後)には農民達を過酷な取り立てで追いつめ苦しめた罪、悪事、悪業の報いによってお殿様や将軍様が死後において過酷で残虐、悲惨な地獄の苦しみを受けることになりますよ。」と忠告及び批判をしている。

この本は江戸時代に一時、発禁処分対象の書物であった。

参考文献

「生き方がうまい人のことわざの知恵 幸運社編 三笠書房 知的生き方文庫」
「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版社」
「往生要集 上  源 信 著  石田 瑞麿訳注 岩波文庫」
「往生要集 下  源 信 著  石田 瑞麿訳注 岩波文庫」

「弘法大師著作全集 第一巻 弘法大師(著) 勝又俊教(編)山喜房仏書林」
「大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 大蔵出版社」
「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社」
「白隠禅師法語全集 第1冊 邊鄙以知吾・壁訴訟 白隠 慧鶴 著, 芳澤 勝弘 著 辺鄙以知吾 禅文化研究所」
「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤ1 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」
「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」

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お釈迦様は死後の存在を肯定したのか?否定したのか?を検証する

一部の仏教学者や一部のお坊さん達、特に浄土真宗のお坊さんや仏教学者の中で、信者さんや聴衆に対し「お釈迦様は霊魂の存在を否定している。」「お釈迦様は死後の存在を否定している。」と説法しているという話を本で読んだり話を聞いたりしたことがあるが、お釈迦様は本当に霊魂の存在、死後の存在を否定したのであろうか?

お釈迦様の言行録として学問的に認められているパーリ仏典や阿含経などの文献を見てみると霊魂の存在、死後の存在を肯定するような文言が頻繁に出てくる。

例えば、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる。」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

パーリ仏典、大パリニッバーナ経(南伝大蔵経 小部経典)において次のように説かれておられる。

「聖賢の生まれなる人が住居をかまえる地方において、そこで、有徳にして自ら制せる清浄行者たちを供養したならば、そこにいる神霊たちはかれらに 施与の功徳をふり向けるであろう。

かれら(神霊)は供養されたならば、かれを供養し、崇敬されたならば、かれを崇敬する。

かくて、かれを愛護すること、あたかも母がわが子を愛護するようなものである。

神霊の冥々の加護を受けている人は、つねに幸運を見る。」

パーリ仏典「ダンマパダ」や「ウダーナヴァルガ」においてブッダはこう説かれている。

「つねに敬礼を守り年長者を敬う人には四種のことがらが増大するー すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。

実に心が統一されたならば豊かな智慧が生じる

心が統一されないならば豊かな智慧が滅びる

戦場の象が射られた矢に当たっても耐え忍ぶように我は人のそしりを耐え忍ぼう。

多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。

世のそしりを忍び自らを治めた者は人々のなかにあっても最上の者である。

悪の報いが熟さない間は悪人でも幸運に遭う事がある。

しかし、悪の報いが熟すると悪人は災いに遭う。

善の報いが熟さない間は善人でも災いに遭う事がある。

しかし、善の報いが熟すると善人は幸福に遭う。」

さらに、
「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。

全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い  また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等 それこそが、その人自身のものである。

人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。

それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。

影が人に従うように。

それ故に善い事をして功徳を積め。功徳は人々のよりどころとなる。

仏教経典 雑阿含経第十九のなかに屠牛者経 屠羊者経 殺猪経 猟師経というお経がある。

屠牛者経を例に挙げると、そのお経の概要は釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(生きている間)において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

また我(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

屠羊者経 殺猪経 猟師経も屠牛者経と同様、大体似た内容で説かれている。

仏教のお経の阿含経に「好戦経」というお経があります。

戦争を好み刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

又「堕胎経」というお経もある。

内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。

仏教経典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九に屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前(生きている間)において人間や動物達等の生き物の屠殺(殺す事)、殺生(生き物を殺す事)を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業(罪障)の報いにより非常に長い年月の間地獄(大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒(地獄の鬼達)により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界)に赴き多くの様々な激しい苦しみを受けその地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達(カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等)に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

「好戦経」「堕胎経」は「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

大正新脩大蔵経はあらゆる仏教のお経の原典原文を網羅、集大成したもので世界中の仏教学者の間から権威的文献、引用文献として高い評価を得ている。

大正新脩大蔵経には阿含部 華厳部 方等部 密教部 法華部 般若部 涅槃部 図像部などあらゆる種類の仏典が網羅されている。

国訳一切経、大正新脩大蔵経は内容がかなり専門的であり一般の方々、特に仏教書をあまり読まれた事がない方々にとって読んで理解するのに困難な一面があると思われる。

先に紹介した「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」という書籍がある。

その書籍の中に「好戦経」「堕胎経」を非常に分かり易く説かれている箇所がある。

さらにまた、雑阿含経に爪甲経(そうこうきょう)というお経がある。

その概要は

「ある日、釈尊は釈尊自身の手で大地の土を拾い釈尊自身の手の爪と手の甲の上にその土を乗せて諸々の比丘(修行者)に次のように尋ねられた。

「諸々の比丘(びく)よ。私のこの手の爪と手の甲の上に乗っている土の量とこの大地の土の量とではどちらの土の量が多いか?」

諸々の比丘は次のように答えた。

「世尊(釈尊)よ。世尊(せそん)の手の爪と手の甲の上に乗っている土の量はこの大地の土の量と比べるならば比べものにならない程ごくわずかな量です。」

釈尊は続けてこのようにお説きになられた。

「諸々の比丘よ。もし肉眼で見える生き物たちの数をこの手の爪と手の甲の上にある土の量とするならば、その形が微細で肉眼では見えない生き物たちの数はこの大地の土の量のように膨大に存在する。

比丘たちよ。

未だ無間等の悟り(仏陀の悟り)に到達しない者は努めて無間等(むけんとう)の悟りに至るよう努力せよ。」

(大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 114ページ上段(雑阿含経第十六巻)
国訳一切経 阿含部二 雑阿含経第十六巻引用)

このように、お釈迦様は霊魂の存在を肯定し、死後の存在を肯定している。

また、パーリ仏典、大パリニッバーナ経(南伝大蔵経 小部経典)において仏陀釈尊は神霊の存在について、次のように説かれている。

「聖賢の生まれなる人が住居をかまえる地方において、そこで、有徳にして自ら制せる清浄行者たちを供養したならば、そこにいる神霊たちはかれらに 施与の功徳をふり向けるであろう。

かれら(神霊)は供養されたならば、かれを供養し、崇敬されたならば、かれを崇敬する。

かくて、かれを愛護すること、あたかも母がわが子を愛護するようなものである。

神霊の冥々の加護を受けている人は、つねに幸運を見る。」

(ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 中村 元訳 岩波文庫参照)

参考文献

「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤ1 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」
「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 中村 元訳 岩波文庫」
「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」
「国訳一切経 阿含部 2巻 大東出版社」
「輪廻する葦 阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「間脳思考 霊的バイオホロ二クスの時代 桐山靖雄著 平河出版」

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仏教のお経、阿含経というお経についての話

日本や中国において、長い間、大乗仏教が信仰され、特に、日本において大乗経典と呼ばれる法華経や阿弥陀経などの大乗仏教が独占的に信仰され、その一方、阿含経というお経は小乗仏教、小乗経典として、軽視、もしくは、ほとんど無視されていた経典であった。

日本の仏教は千年以上の長きにわたり、阿含経を劣った小乗経典、つまり、自分だけの悟りを求め、自己のみが救われる事を目指す利己的で、レベルの低い卑しい経典とみなされていた。

また、出家しなければ救われない出家仏教の経典ともいわれてきた。

今から約1400年以上前の中国において、高僧、天台大師智顗(チギ)が立てた五時教判という教相判釈があるが、その教相判釈によると法華経、涅槃経が最も高い大乗の教えであり阿含経は最も低い小乗の教えであると結論づけされている。

その為,日本において、阿含経に対する研究や信仰はほとんどなされなかったが、近年文献学の目覚しい発展、パーリ語、サンスクリット語等の原語での仏典研究、著しい学術的進歩により阿含経典(パーリの五部 漢訳四阿含)こそが仏教の開祖であるお釈迦様が実際にお説きになった内容、もしくは、極めて近い内容の経典であると学問的に認められている。

この事についてインド哲学、仏教学の世界的権威(故)中村元 博士(1912~1999)は著書「バウッダ(佛教) 中村元 三枝充悳 共著 講談社学術文庫」において次のように解説されている。

中村 元 博士(1912年~1999年)

「現存のアーガマ(阿含経)を、そのまま「釈尊の教え」に直結することは、あまりにも短絡化しすぎており、今日の仏教学からすれば、むしろ誤りとみなされる。

ただし、釈尊の教えと仏弟子達の言行などは、そして、最初期ないしは初期の資料は、アーガマ(阿含経)にしか存在していないのであり、多数の大乗経典 (これを日本人は「釈尊の教え」そのものと誤解し「仏教」として受容してきた)には、求むべくもないことが明白である以上、何よりもアーガマ(阿含経)の解明に専念する仏教文献学が必要不可欠の前提とされる。

そして、それは、近代学問としてすでに100年以上の年月を刻んで、今日もなお営々として継続している。」とある。

また、仏教学者の(故)平川彰(ひらかわあきら)博士(1915~2002)は仏教経典の阿含経(あごんぎょう)について自身の著作である「インド仏教史 上巻 平川彰著 春秋社」という書籍において以下の主旨、概要の解説をされている。

「阿含経はアーガマ(Agama)、つまり伝わったもの、伝承されたものとも呼ばれ、仏陀釈尊の直接の教えが伝承されたものであることを示している。

しかし、これらの経典(阿含経)は仏陀釈尊の死後、仏陀釈尊の直弟子、仏陀釈尊の高弟達の記憶によって仏陀釈尊の教えの内容がまとめられ、又経典として書きとめられ伝来された為、伝承の間に仏陀釈尊の弟子の理解や解釈が付加され増広され、仏陀釈尊直説の教説が多少変化を蒙(こうむ)ったことは避けられなかったもしれない。

阿含経は仏陀釈尊の教えそのものではないかもしれない。

しかし、幾多の仏教諸経典の中で阿含経は仏陀釈尊の教えの内容を最も含んでいる経典であり仏陀釈尊の思想を求めるとすれば先ず阿含経の中に求められなければならない」

また、著名な日本の哲学者であった(故)梅原猛教授は自身の著作「地獄の思想 梅原 猛著 中央文庫」の中で

「釈迦の説法集が出来上がったのはむしろ釈迦の死後である。

釈迦の死後に様々な経典が作られた。

そして、その経典の中には釈迦の説というより弟子自身の説が混じるようになる。

後世の人々が釈迦の名において勝手に自己の学説を正当化する経典を作るようになる。

かくして、仏滅後五百年も六百年も過ぎて、なお釈迦の名において多数の経典群が作られていく。

そして、謎の人、釈迦の正体を解いたのは、ヨーロッパの近代文献学にもとづく仏教学であった。

文献学的な方法にもとづく仏教学は経典の成立年代を大体、考証的に明らかにした。

そして、釈迦の正説は、従来、日本においては、小乗と卑しめられてきた阿含部経典や律部経典にあることが分かったのである。

これは伝統的な仏教家にとっては大きなショックであるはずであった。

なぜなら、彼らが千数百年来、崇拝してきた仏教の経典が、釈迦の説ではなく、後世の説であり、彼らが卑しんできた経典こそ釈迦の説であることが明らかになったからである。

もし、このことを知ったら、親鸞や日蓮や道元はどのように驚いたであろうか。」

次に、パーリ仏典研究の世界的権威、(故)水野弘元博士(1901年~2006年)は仏教経典の源流について自身の著作「経典はいかに伝わったか 成立と流伝の歴史 水野弘元著 佼成出版社」において次のように説かれています。

「大乗仏教の般若の空思想や菩薩の波羅蜜の修道法もその源泉、源流は阿含経の中にあります。

インド大乗仏教の祖師と云われる龍樹菩薩や世親菩薩の著作において、阿含経の教説は大乗の教説と並べて権威的な典拠(典籍)として扱われ龍樹菩薩、世親菩薩の著作においてしばしば阿含経が引用されています。」

   竜樹菩薩(チベット画) 

  竜樹菩薩(日本画)

また、ドイツの仏教学者、(故)ヘルマン・ベック(1875年~1937年)博士が著した「仏教(上)(下)岩波文庫  ベック著」という書籍においてヘルマン・ベック博士は仏教の実践の綱要を瞑想に見い出し、種々の経典、特にパーリ仏典の長部経典(漢訳では阿含経の長部経典にほぼ該当する)等を多く引用し瞑想、禅定に関する詳細な解説をしている。

さらにまた、(故)水野博士は自身の著作の「原始仏教」において阿含経を引用し

「那伽(ナーガ)は常(つね)に定(じょう)に在(あ)り。」と引用し実際に仏陀釈尊は禅定の熟達者であったと経典に伝えられている。

この経典の中で那伽(ナーガ)とは仏陀釈尊を意味する。

定とは瞑想、禅定を意味している。

南伝大蔵経の増支部経典においても

「那伽(ナーガ)は行(ゆ)くにも定(じょう)にあり、

那伽(ナーガ)は立(た)てるも定にあり、

那伽(ナーガ)は臥(ふ)すにも定にあり、

那伽(ナーガ)は座(ざ)せるにも定にあり」

とある。

また、漢訳仏典の中阿含経118の龍象経においても、

「龍行止倶定、坐定臥亦定、龍一切時定、是謂龍常法」

とある。

仏典中の龍(竜)とは優れた修行者を意味する事もある。

この経典の中の那伽(ナーガ)、龍(竜)とは仏陀釈尊を意味する。

仏陀釈尊は特に禅定(瞑想)に入っていない日常の精神状態であっても定(禅定)にあるのと同じように無念無想の精神統一を得られていたとされる。

参考文献
「バウッダ(佛教) 中村元 三枝充悳 共著 講談社学術文庫」
「インド仏教史 上巻 平川彰著 春秋社」

「インド仏教史 下巻 平川彰著 春秋社」
「地獄の思想 梅原猛著 中央文庫」
「経典はいかに伝わったか 成立と流伝の歴史 水野弘元著 佼成出版社」
「原始仏教 水野弘元著 サーラ叢書」
「仏教(上)(下)ベック著 岩波文庫」
「輪廻する葦 桐山靖雄著 平河出版」

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いじめ、虐待の問題の根本的な原因とその解決方法についての考察

いじめ、虐待の問題の根本的な原因は第二次世界大戦における敗戦以後、教育において、宗教的なものを排除する方向に向かった事が大きな原因のひとつと考えられる。

道徳教育は人間にとって非常に重要な事である。

しかし、道徳教育のみではその道徳を実践する正当性を主張、説明するには理論的限界があるように思われる。

この道徳教育の理論的限界について、仏教学者、(故)平川彰博士(1915年~2002年)は自身の著作「インド・中国・日本 仏教通史 平川彰著 春秋社」において次のように説かれている。

「国家を治めるには刑罰だけでは治められないのであり、社会の平和を実現するには道徳が必要である。

しかし、道徳は道徳だけでその正当性を主張するのは困難であり、その根底には宗教による基礎づけを必要とする。

したがって、聖徳太子が三宝(仏、法、僧)興隆の詔勅を発し、率先して仏教を導入されたのは、仏教によって国民の道徳的精神を高める目的があったとともに、物質文化を高めることも大きな理由であったであろう。」

ここで氏が解説されている宗教による基礎づけとは仏教において説かれている輪廻転生の教説、善因善果・悪因悪果の因果業報説も当然、含まれていると考える。

また、宗教教育の欠落の弊害についてインド哲学、仏教学の世界的権威である(故)中村元博士(1912~1999)は自身の著作「日本人の思惟方法 中村 元著 春秋社」において次のように言及されている。

「明治維新以後もそうであったが、ことに第二次世界大戦における敗戦以後、日本の指導者達は、宗教的なものを全面的に禁圧する方向に向かって指導し、そのとがめが種々の局面に現れているようである。

いま、教育の荒廃ということが盛んに論じられているが、例えば、いじめとか登校拒否とかいう問題は公立学校でだけ起こっていることである。

反対に宗教教育を行なっている学校では起こっていない。

仏教精神で教育を行なっている学校では、この問題は起こっていない。

キリスト教関係の学校でもついぞ聞いたことがない。

また、いずれかひとつの宗教に偏るのではなく機会あるごとにいろいろな宗教の講話を聞かせている学園でも、この問題は起きていない。

これらは戦後に顕著になった現象なのである。

公立学校では宗教と教育とは分離するべきであるとの理由により公教育の場から宗教を追放したからである。

その法的な根拠は日本国憲法であり、その憲法の原文はGHQから日本政府に交付されたものである(後略)」

その宗教の中のひとつに仏教という宗教があるが、その仏教の経典のひとつ「スッタ・ニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

「一度生まれる生き物(胎生つまり母胎から生まれる生き物)でも、二度生まれる生き物(卵生、つまり卵から生まれる生き物)でも、この世で生き物を害し、生き物に対する哀(あわ)れみのない人(慈悲心のない人)、彼を賤(いや)しい人であると知れ」

「母、父、兄弟、姉妹或いは義母を打ち、また言葉で罵(ののし)る人、彼を賤(いや)しい人であると知れ。」

仏教とほぼ同時期に成立したジャイナ教の教えにも次のように説かれている。

「わたしは説く。

いかなる生物も傷つけてはならない。

これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。

全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。虐待してはならぬ。

害してはならぬ。

苦しめてはならぬ。

悩ましてはならぬ。

これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。

一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

ジャイナ教の教えの特長は人間だけではなく動物や植物に対する不殺生戒を徹底的に重視する点にある。

 ジャイナ教では一般に善業は楽しみを生ずる手段であり、悪業は苦しみを生ずる手段であると考えていた。

 したがって、不道徳な行為は苦しみをもたらすものであるが、そればかりではなく、行為そのものが結局において、やはり苦しみをもたらすのである。

この苦しみは行動から生ずるものである。

 人の作った業(行為)が(行為を行ったその人自身の)来世の運命を決定するということはジャイナ教においても強調されている。

 業の観念は既にジャイナ教以前において成立していたものである。

 現世における行為に応じて来世に楽あるいは苦の果報を受けるという漠然とした観念はすでにインド最古の文献「リグ・ベーダ」に現れている。

 インド最古の文献、古ウパニシャッドにおいてもこのような思想は特に明確に表明されている。

ジャイナ教は業の恐ろしさを説いている。

因果応報について種々の経典に説かれている。

また、仏教の経典、パーリ仏典「サンユッタ・ニカーヤ」、漢訳仏典「雑阿含経」において仏陀は次のように説かれている。

「他人から奪った人が(来世、未来において)他人から奪われるのである。

愚か者は悪の報いが実らない間は悪の報いがない事を当然のことだと考える。

しかし、悪の報いが実ったときには愚か者は苦悩を受ける。

殺す者は(未来には)殺され、怨む者は(未来には)怨みを買う。

また、罵りわめく者は(未来には)他の人から罵りを受ける。

怒りたける者は(未来には)他の人から怒りを受ける。・・・後略」

つまり自分が(来世、未来において)殺されないようにするためには他者を殺してはいけない。

また(来世、未来において)自分のお金や大切にしている物を盗まれないようにする為には他者のお金や物を盗んではいけない。

さらに仏教の経典のひとつ、法句経において次のように説かれている。

「悪業の報いはたとえ大空においても大海においても奥深い山中に隠れても、悪業の報いからは逃れることが出来ない。」

と仏陀は説かれている。

また、次のような教えも仏教経典に説かれている。

「耐え忍び、苦行、隠忍は最高のものであり、ニルヴァーナは最高のものであると諸々の覚者(ブッダ)は説いた。

他人を害(そこな)う人は出家者ではない。

他人を悩ます人は修行者ではない。

一切の悪をなさず、善を具現し、自らの心を清らかならしめる。

これが諸々の覚者の教えである。

争わず、害せず、それぞれの解脱について制していること。

食事に量を知り、座臥に人々から離れ、高潔なることに心を専らにすること。

これが諸々の覚者の教えである。」

(長阿含経第一巻 大本経)

パーリ仏典「サンユッタ・二カーヤ」というお経においても次のようにお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。

怒りを断ち切って、悲しまない。

その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを聖者達は賞賛(しょうさん)する。

それ(怒り)を断ち切ったならば悲しむことがない。」

「人は利を求めて自分を与えてはならない。

自分を捨て去ってははならない。

人は善い(優(やさ)しい)言葉を放つべきである。

悪い、粗暴(そぼう)な言葉を放ってはならない。

やさしい言葉を口に出し荒々(あらあら)しい言葉を口に出してはいけない。」

仏教経典 漢訳大蔵経の中の阿含経及び南伝大蔵経においても次のようにお説きになられている。

「比丘(修行者)たちよ。

まさに一法を断つがよい。

一法を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう。

その一法とはなんであろうか。

いわゆる瞋恚(しんに)(怒り)がそれである。

比丘(修行者)たちよ、まさに瞋恚(怒り)を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう。」

「瞋恚(怒り)にかりたてられて、人は悪しき処におもむく。

まさに、つとめて瞋恚(怒り)を捨つれば、すなわち煩悩滅尽して聖者たらん。」

「雑言と悪語とを語って愚かなる者は勝てりという。

されど誠の勝利は堪忍を知る人のものである。

怒る者に怒り返すは悪しきことと知るがよい。

怒る者に怒り返さぬ者は二つの勝利を得るのである。

他人の怒れるを知って正念に自分(自分の心、精神、感情)を静める人はよく己(自分)に勝つとともに他人に勝つのである。」

ところで、話は少し変わるが、日本の仏教の宗旨宗派に真言宗という宗派があるが、その真言宗の開祖である弘法大師 空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において空海様は中絶(ちゅうぜつ)、堕胎(だたい)の果報、業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経 第十七巻 経集部四 五五八頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。そのお経の概要は

「一人の鬼あり、その鬼が仏弟子である目連尊者に対してこう問いかけた。

「私(鬼)の身体は常に肉の塊(かたまり)にして手、脚、眼、耳、鼻等あること無し、

つねに多くの鳥達に体をついばまれ、食べられ、耐えられない程苦しい。

何が原因でこういう苦しみに遭(あ)うのか?」

お釈迦様のお弟子である目連尊者は次のように答えて言った。

「あなたは前世(前生)においてつねに他者に薬を与え、他者の胎児(たいじ)を堕(おろ)した。

胎児を中絶させた。

胎児を殺害した。

このような行為、因縁、業報により死後、現在においてこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、行為の報い、罪の報いであり、地獄の苦果、苦しみはまさに後身にあり。(果報の報いはあとになって受ける)」とある。

(鬼という言葉は死者を意味する。昔は死ぬ事を鬼籍に入ると言った。)

また、空海様は盗み、窃盗、泥棒、収奪の業報についても諸経典を引用し説かれている。

空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 五五七頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は

「ある一人の鬼(死者)がいた。

その鬼が仏弟子である目連尊者に対しこのように質問した。

「私の腹は極度に大きく、のど、手足は極度に細くて食べ物や飲み物を取ること、食事をする事が出来ない。

何が原因でこのような苦しみを受けるのか。

仏弟子の目連尊者は次のように答えて言った。

「あなたは前世(前生)において高い地位にあり富貴、裕福で、さまざまな食事、お酒を大いに楽しんだが、他の人々を軽視し、侮り(あなどり)、見下し、他の人々の飲食を奪(うば)い取り、他人を飢(う)えさせ、他人を困らせた。

このような他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた行い、行為、因縁、業報、罪の報いにより、このようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、業報であり、このような罪の報いによる地獄の苦しみは後になって受けるのである。」

次に、仏教経典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九にも屠殺、殺生に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前、生きている間において人間や動物達等の生き物の屠殺(殺す事)、殺生(生き物を殺す事)を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業(罪障)の報いにより非常に長い年月の間地獄(大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒(地獄の鬼達)により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界)に赴き多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達、カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

仏教の教えでは、生き物は死んでも再度、何度も何度も生まれ変わる事を説きます。

すなわち、輪廻転生を説きます。

その輪廻転生には分段生死(ぶんだんしょうじ)と変易生死(へんやくしょうじ)と云う種類の転生があります。

分段生死とは凡夫の輪廻転生を意味し、六道輪廻つまり地獄界(極めて苦しい残虐悲惨な境涯)、餓鬼界(飢え、乾きに苦しむ境涯)、畜生界(動物の境涯)、修羅界(争いの境涯)、人間界(人間の境涯)、天界(天、神の境涯)の六種類の境涯を衆生(生き物)が何回も何回も際限なく輪廻転生していく転生を意味します。

変易生死とは聖者の輪廻転生を意味し、聖者が仏陀の境涯に向かって修行していく過程、聖者としての境涯が後退せず上昇していく転生を意味します。

変易生死について詳しく解説すると、例えば聖者の境涯に預流(よる)という境涯があります。

凡夫が仏道修行により修行の境涯が進むと先ず預流という聖者に成ります。

預流とは聖者の流れに入った者の意を表し、預流になると地獄界、餓鬼界、畜生界という最も苦しみの度合いが激しい三悪道の境涯には二度と生まれ変わらないとされています。

そして最高位の聖者である仏陀に成るまで三回~七回程度、人間界と天界への生死を繰り返し最後には必ず仏陀の境涯に至る事が出来るとされています。

仏教経典「阿含経 長部経典」の「迦葉獅子吼経」の中で仏陀釈尊は苦行者の迦葉に向かってこう説かれた。

「外面的な規定を守ることによってではなく、倫理的行為と霊的自制と智とを完成させることにより、さらに内面的な憎しみとあらゆる敵意を克服し慈愛深い心をもつ者のみが解脱に到達する見込みがある。」

参考文献

「インド・中国・日本 仏教通史 平川彰著 春秋社」
「日本人の思惟方法 中村 元著 春秋社」
「ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫」
「思想の自由とジャイナ教 中村元著 春秋社」
「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波文庫」
「ブッダ 神々との対話 中村元訳 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 中村元訳 岩波文庫」
「仏教思想8 解脱 仏教思想研究会 平楽寺書店」

「仏教 上 ベック著 岩波文庫」
「仏教 下 ベック著 岩波文庫」

「ブッダの真実の教えを説く(上巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「ブッダの真実の教えを説く(中巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「ブッダの真実の教えを説く(下巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「輪廻する葦 阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「間脳思考 霊的バイオホロ二クスの時代 桐山靖雄著 平河出版」
「弘法大師著作全集 第1巻 勝又俊教著 山喜房仏書林」

「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」

「大正新修大蔵経 第一巻 阿含部上 大蔵出版」
「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」



















日本仏教は葬式仏教で堕落している。という批判についての考察

日本の仏教は葬式仏教で堕落している。

本来の仏教とは違う。

という批判をする人がいるが、これについて参考するべき見解として、仏教の経典に「梵網経(ぼんもうきょう)」というお経があり、そのお経の中に不救存亡戒(ふぐそんぼうかい)という戒律があります。

仏教信者は慈悲の心を持って全ての生者、死者に対して慈悲の行為を行わなければならない事が説かれ、特に父母兄弟等の家門の親しい先亡精霊に対し、冥界における幸福を助けるための宗教行為に勤めるべきことを勧めています。

追善供養とは亡者のために追って善事を修して福を薦め、その冥福を祈る事です。

人の死後四十九日の間、亡者の霊は中有に迷って果報、転生先が定まらないので遺族、僧侶が善根を追修、回向してその功徳を亡者に捧げ、三途の苦報を免がれさせようとするため追善供養を行います。

ただし、極善の者は四十九日間を待たずに直ぐに仏界、天上界に直行し、極悪の者は直ぐに地獄界へ直行するとされています。

追善供養は人の死後、七日ごとに初七日忌、二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌、六七日忌、七七日忌つまり四十九日忌を行います。

また、百日目の百カ日忌、一年目に一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などに法要を営み、その功徳を亡者に回向します。

仏教には死者に対しての追福追善の報恩行、冥福を祈る宗教行事があります。

参考文献

「葬式仏教 圭室諦成著 大法輪閣刊」


ブッダ釈尊が説く孝養。

昔の日本の一部の地域であった姥捨て山(うばすてやま)のような、老齢になって役に立たなくなった老人を遺棄する。という現象は昔から汎世界的に見られるが、仏教はその風潮に対し、強く反対し、父母をいたわることを説いている。

ブッダ釈尊は次のように説かれている。

「世に母を敬うことは楽し。また父を敬うことは楽し。」

「母あるいは父を法によりて養う人あらば父母に仕えるそのことを以って、この世にてはもろもろの賢者がかれを賞賛す。

また死後(その功徳により)、かれは天界にて楽しむ。」

「母と父とは梵天ともいわれ先師ともいわれる。

子らの供養すべきものにして、また子孫を愛する者なり。

されば実に賢者は飲食と衣服と床と塗身と沐浴と洗足とを以って父母に敬礼し尊敬せよ。」

「されば正しき善人は、恩を感じて恩を知り、昔の恩を思い起こして母と父を扶養す。

昔、恩を受けたるが如くにかれら(父母)に対して義務を果たす。

教えを護り、扶養して、家系を断たず、信仰あり、戒を保つ子は賞賛せらるべきなり。」

「われらは両親に養われたならば、かれらを養うべし。

かれらの為に為すべきことを為すべし。

家系を存続すべし。

財産相続を為すべし。

また祖霊に対して適当なる時々に供物を捧ぐべし。」

パーリ仏典や漢訳仏典 雑阿含経においてブッダ釈尊はこうも説かれている。

1、母と父を養う人、父母を供養する。

2、家においては年長者を敬う人。家の尊重に供養する。

3、やさしい心の通う会話をなす人。柔和で優しい謙遜の言葉、態度をする。

4、そしる言葉を捨てた人。荒々しい言葉を離れる。

5、もの惜しみを除くのに努めている人。ケチな心をやめる。

6、真実なる人(真実の言葉を言う 嘘はつかない)。

7、怒りに打ち勝った人(怒りが起きても怒り心をすぐに取り除く人。

こういう立派な人々は来世(死後)に三十三天に生まれる事が出来る。と。

つぎに、仏教経典 パーリ相応部経典(サンユッタ・二カーヤ)のお経において父母を養っているバラモンが尊師(仏陀釈尊)に次のように質問をした。

「ゴータマ(仏陀釈尊)さま。

わたくしは、きまりにしたがって食を求めます。

きまりにしたがって托鉢(たくはつ)して食を求めて、両親を養っています。

わたくしは、このようにしていますが、なすべきつとめを果たしているのでしょうか。」

尊師(仏陀釈尊)は次のように言った。

「バラモンよ。たしかに、そなたは、このようにして、なすべきつとめを果たしているのです。

きまりにしたがって食を求め きまりにしたがって食を求めて両親を養っている人は、多くの功徳を生じます。

母または父を、ことわりにしたがって養う人は、両親に対するその奉仕によって、この世では。賢者がかれを称賛し、死後には天にあって楽しむ。」

その言葉を聞きバラモンは次のように言った。

「すばらしいことです。

ゴータマさま。

すばらしいことです。

ゴータマさま。

ゴータマさま、私を在俗(在家)信者として受け入れて下さい。

今日以後、命ある限り貴方様に帰依致します。」

参考文献

「宗教における思索と実践 中村元著 サンガ文庫」
「地獄の話 山辺習学著 講談社学術文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」




仏教やジャイナ教が説く「不殺生戒」について

ことわざに「一寸の虫にも五分(ごぶ)の魂(たましい)」という言葉があるが、仏教の戒律に不殺生戒という戒律がある。

つまり、生き物を殺してはいけないという戒律がある。

仏典「スッタニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

 

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。

いかなる生き物、生類(しょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」

「あたかも、母が己(おの)が独り子を命を賭けても護(まも)るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈(いつく)しみの心を起