怒り、憎み、恨みの心の弊害についての法話

怒りについて以下のような言葉、ことわざがある。

例えば、

「怒りは敵と思え」

「一朝の怒りは其の身を忘る」

「一朝の怒りに一生を過(あやま)つ」

「善く戦う者は怒らず、善く勝つ者は争わず」

「堪忍は一生の宝」

「堪忍五両、思案百両」

「ならぬ堪忍、するが堪忍」

「短気は損気」

「人を呪わば穴二つ」

怒りは自分に盛る毒(ネイティブアメリカン ホピ族のことわざ)

賢者は怒ると賢明でなくなる」(『タルムード』(ユダヤ教の聖典)の言葉)

妬みと怒りは生命を縮める(『旧約聖書の言葉

などなど。

このように怒りについて多くの言葉が残されている。

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次に、仏典『ウダーナ ヴァルガ』において、仏陀(ブッダ)は怒り、憎しみについて次のように説かれている。

「怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。

いかなる束縛をも超越せよ。

名称と形態とに執着せず、無一物となった者は苦悩に追われることがない。

怒りが起こったならば、それを捨て去れ。

情欲が起こったならば、それを防げ。

思慮ある人は無明を捨て去れ。

真理を体得することから幸せが起こる。

怒りを滅ぼして安らかに臥す。

怒りを滅ぼして悩まない。

毒の根であり、甘味を害なうものである怒りを滅ぼす事を聖者らは賞賛する。

修行僧らよ、それを滅ばしたならば、悩むことがない。

怒りたけった人は、善いことでも悪いことだと言い立てるが、のちに怒りがおさまったときには、火に触れたように苦しむ。

かれは、恥じることもなく、誓戒を守ることもなく、怒りたける。

怒りに襲われた者には、たよりとすべきいかなる帰趣(よるべ)もこの世に存在しない。

あるひとにとって力は力であっても、怒ったならば、その力は力でなくなる。

怒って徳行の無い人には道の実践ということがない。

この人が力のある人であっても、無力な人を耐え忍ぶならば、それを最上の忍耐という。

弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。

他の人々の主である人が弱い人々を忍んでやるならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。

弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。

力のある人が、他人から謗られても忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。

弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。

他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、自分をも他人をも大きな危険から守ることになる。

他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行っているのである。

自分と他人と両者のために行っている人を「弱い奴(やつ)だ。」と愚人は考える。ことわりを省察することもなく。

愚者は荒々しいことばを語りながら、「自分は勝っているのだ。」と考える。

しかし、謗(そし)りを忍ぶ人にこそ、常に勝利があるのだと言えよう。

人は恐怖のゆえに、優れた人の言葉を許す。人は争いをしたくないから、同輩の言葉を許す。しかし自分より劣った者の言葉を許す人がおれば、それを、聖者らは、この世における最上の忍耐と呼ぶ。」

また、憎しみについて、次のように説かれている。

「実にこの世においては、およそ怨(うら)みに報いるに怨(うら)みを以てせば、ついに怨(うら)みの止むことがない。

耐え忍ぶことによって怨(うら)みは止む。

これは永遠の真理である。

怨(うら)みは怨(うら)みによってはけっして静まらないであろう。

怨(うら)みの状態は、怨(うら)みの無いことによって静まるであろう。

怨(うら)みにつれて次々と現れることは、ためにならぬということが認められる。

それ故にことわりを知る人は怨(うら)みを作らない。」

   ブッダ釈尊(紀元前5世紀頃)

  ブッダ釈尊の法話を聞く聴衆

ところで、この「怨(うら)みは怨(うら)みによってはけっして静まらないであろう。

怨(うら)みの状態は、怨(うら)みの無いことによって静まるであろう。」

というブッダ釈尊のお言葉について次のような興味深い話がある。

第二次世界大戦後の1951年9月、サンフランシスコ講和会議の際、敗戦国の日本に対し、日本分割統治案、つまり、戦勝国アメリカ、イギリス、中国、ソ連(現在のロシア)が日本を分割統治するという話が出ていた。

具体的には、北海道はソ連(現在のロシア)、本州はアメリカ、四国は中国、九州はイギリスが統治するという案である。

その日本分割統治案に真っ向から反対したのが時のスリランカ代表(昔のセイロン国)ジャヤワルダナ氏(後のスリランカ大統領)であり、ジャヤワルダナ氏はこのブッダ釈尊のお言葉

「怨(うら)みは怨(うら)みによってはけっして静まらないであろう。

怨(うら)みの状態は、怨(うら)みの無いことによって静まるであろう。」

という言葉を引用し、世界51ヶ国の首脳たちを前にし、戦勝国による日本分割統治案に強く反対、日本を独立国として認めるよう長時間にわたる名演説をされた。

そのスリランカ(昔のセイロン国)代表、ジャヤワルダナ氏の演説後、世界51ヶ国の大多数の各国首脳たちはその名演説に強く心を打たれ、その演説に感動した聴衆の拍手は場内の窓ガラスが割れんばかりの大拍手であったという。

その演説により日本の分割統治案は廃案となり日本の独立は認められたとも言われている。

つまり、時の敗戦国であった日本はスリランカ(昔のセイロン国)のジャヤワルダナ氏(後のスリランカ大統領)とお釈迦様に救われたとも言うべきか。

このダンマパダのこの教えは今日に至るまで、南アジアの人々に暖かい気持ちを起こさせている。

書籍『敗戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人 スリランカのジャヤワルダナ大統領 野口芳宣著 銀の鈴社』参照

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さて、次に、古代ギリシアの哲学者セネカは怒りの感情について仔細に分析した著書『怒りについてを著している

その著書怒りについての中でセネカは次のように説かれている。

私自身、特にこの著書で共感した文章をここで紹介する。

「或る賢者たちは、怒りを短期の気狂いだと言っている。

怒ることそれ自体が、どんなに多くの人々に害を与えるか、ということである。或る者は、余りに激しく怒ったために血管を破ったし、限度以上に張り上げた叫び声が出血を起こしたし、目の中に激しく湧き出た涙によって目の鋭さが曇らされたし、病人が病気をぶり返したりした。

これ以上に気狂いになる道はない。

それゆえ、怒りの狂暴を続けて、しまいには、自分から追い出しておいた知性を再び取り戻せなかった者も多い。

酒は怒りを燃え上がらせるが、それは酒が熱を高めるからである。

口論が長時間にわたり、しかもケンカになる恐れがある場合には、口論が激しさを加えない最初のうちに必ず停止する方がよい。

論争というものは自ずから勢いを増していくものであって、熱中すればするほど当人を押さえて離さない。

自分を争いから引き出すよりも、そこから自分を遠ざけておく方が容易である。

体の疲れにも用心せねばならない。

疲れは、われわれのうちにあるどんな穏やかさ静かさを無くし、荒々しさを引き起こすからである。

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次に、臨済宗の中興の祖とも言われ、江戸時代に活躍された白隠慧鶴(はくいんえかく)様は自身の著作「草取唄」の中で

『兎角(とかく)怒るな、短氣を出すな、死せば来世は蛇となるぞ、』

と説かれている。

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また、江戸時代の高僧、慈雲尊者の著書『十善法語』という書籍の中において、慈雲尊者は次にようにお説きになられている。

「華厳経(けごんぎょう)の中に、瞋恚(しんに)の罪、また衆生をして三悪道に堕せしむ。

たまたま人中に生ずれば、二種の果報を得。一つには短命、二つには常に悩害せらる。恒に人に短をもとめられるとある。」

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慈雲尊者(西暦1718年~1804年)

さらにまた、慈雲尊者の著書『人となる道』(書籍「日本古典文学大系〈第83〉仮名法語集 岩波書店」)の中で

華厳経等に、一念瞋恚の火、無量劫の功徳法財を焼亡ぼすと説けり。」と説かれている。

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さらに、真言宗の開祖、弘法大師空海様は自身の晩年の著作、

秘密曼荼羅十住心論 第一巻の中において瞋恚、怒りについて次のようにお説きになられている、

「身を割くとも忍ぶべし。
いかに況や罵声の句をや
畏(おそ)るべし一瞋の報い
長時に懼(おそ)れを免(まぬが)れざることを」と。

真言宗開祖 弘法大師空海(西暦774年~835年)

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次に阿含宗開祖の桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作『説法六十心 桐山靖雄著 平河出版社の中で瞋恚、怒りについて次のようにお説きになられている。

多少引用が長くなるが以下の通り、

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瞋というのは、瞋恚(しんに)といって、いかることです。

これは人間の煩悩の中で、一番悪い、よくないものです。

また、一番強い力を持っている。

人生を破壊してしまう。

世の中の一切を打ち破る根本悪といってもよいよくない心です。

これほど恐ろしい心はありません。

この瞋恚の心がどうして起こるかというと、一番はじめは、ものごとが自分の思ったようにいかないことを不愉快に思うところから起こります。

あるいは、自分とちがうものにたいして不快を感ずるというところから起きる。

これは、なんといっても、わたくしたちのわがままです。

手前勝手というよりほかない。

最初、自分のいままでやっていることと少しちがうものが出てくると、なんだかおもしろくない。

すべて自分の思っているようにいかないと腹が立つ。

はじめはちょっとしたことでもだんだんそれが大きくなっていく。

それが嵩(こう)じると、いわゆる瞋恚というものになって、自分とちがったもの、自分の自分の気にくわないものすべて仇敵(きゅうてき)とするということになる。これが恐ろしい。

貪欲(という煩悩)はまだ、利益という点で仲間を集めるという協力の気持ちがあるが、瞋恚の心が起きると、世の中すべて敵、三千世界をすべて敵にしてしまう。

そうなると人間が孤立してしまう。

親でも子でも、妻でも友人でも自分が本当に腹を立てたときには、みんな仇敵です。

向こうが味方をしようと思っても、こちらが腹を立てていると、よせつけない。

心の中で敵にしてしまっている。

世界中全部、敵。

これはじつに浅ましく、恐ろしいことです。

人間はみんないっしょに力を合わせて生きてゆかなければならない。

その本性をまるで失って、一切を仇敵とする。

その心は地獄ですね。

他の迷い(煩悩)の中には、まだいくらかとりえがある。

たとえば、貪欲(という煩悩)というものは悪いが、しかし、貪るためには一時的でも人と仲よくなることがある。

協力するという心がある。

こういうことをやりたいが仲間に入らないか、もうかりますよ。というように他の人を仲間に入れる。

ところが瞋は周囲をみんな敵にしてしまう。

瞋りは破壊性を有する。

だから一番悪い。

すべてのものを敵にするこの破壊性というものは、だんだん大きくなっていく。

戦争もそうです。

貪りだけだったら経済戦ですむが、貪りがうまくゆかないでいかりが加わったら、戦争になって殺し合いがはじまり、破壊がはじまる。

そのもとはわがまま、手前勝手です。

自分と少しでも考えのちがうものに対して不愉快を感ずる。

あるいは自分の思い通りにならないものをおもしろくなく思う。

相手の立場とか、考えというものを考えてみようとしない。

そういうものを一切無視して腹を立てる。

これは自己中心、手前勝手から起きる心です。

世の中にはたくさんの人がいて、それぞれの立場、それぞれの考えというものがある。

それで成り立っているので、それが自分とおなじ意見ではないからといって腹を立て、そういうことをやられたら自分の利益にならないといっておこっていたら、際限のないことです。

大きな広い心で、理解するということがなくては、この世の中、成り立たない。

自分自身も孤立してしまう。

この頃、勝海舟ブームですが、わたくしがひとつ感心しているのは明治になって、福沢諭吉が、海舟のことを新聞紙上になにか痛烈に非難したことがある。

ある人が、この記事について海舟の意見を聞くと、

「行蔵はわれにあり、毀誉(きよ)は他に存す。なんのかかわりあらんや」

といって笑っていて、さらにいかる風がなかったといいます。

わたくしはこれを読んで感銘を受けました。

行蔵はわれにあり、すること、考えることは自分がやるのであり、それを批評するのは赤の他人だから、そこになんのかかわりあいもない、それぞれに自由であるといいきっている。

ところが、わたくしたちは、なんのかかわりあらんやというようにはいかない。

自分の心の中でかかわりをつけてかんかんに怒る。

ここで怒るという字が出てきますが、瞋(しん)もいかり、怒(ぬ)もいかり、どうちがうかというと、瞋は心の中で相手を憎悪(ぞうお)する。

表には出さない。

怒は瞋が表にあらわれて行動になったのをいう。

勝海舟は心の中でかかわりをつけないで瞋をおこさず、怒を発さないが、わたくしたちは心の中でかかわりをつけ、腹を立て、怒となって相手に罵詈讒謗(ばりざんぼう)を浴びせたり、衝突してしまう。

海舟、必ずしも感心することばかりでないが、こういうところはじつに偉い。

さすがにあれだけの大事業をした人物です。

とにかく、おこるということは大人物のすることではない。

われわれは、このいかりを、よくよく注意しなければいけない。

人間関係を害ね徳を損ずること、怒りほどはなはだしいものはない。

そういうと、なまざとりの宗教家がいるんです。

わたしは修養を積んでいるからどんなにおこっても表に出さない。

じっとがまんする、とこういう。

こういうのはやっぱりなまざとりなんですな。

どんなにおこっても、という。

もうおこっちゃっているんですよ。

表に出さないというのは怒で、心の中で瞋を発してしまっている。

普通の人間だって、腹を立てても、そうそうは表に出さない。

ニコニコ笑っていますよ。

少し思慮ある人間だったら、みなそうしている。

特に修行したり修養を積んだひとでなくとも、人間、みなそうしている。

ところが、宗教家や教育家など自慢する人がいる。

わしはどんなにおこっても、腹を立てても、表に出さん、と。

しかし、腹の中ででもおこっちゃったら、これはもう修養を積んだとはいえないんです。

本当に修行を積んだら、瞋らなくなるんです。

瞋らなくならなきゃほんとうではないんです。

「ならぬかんにんするがかんにん」なんて、カンシャク筋をこう立てて、腹の中でウンウンうなりながらこらえている。

高血圧の原因で、衛生にも悪いですよ。

おこってガマンするのはまだ修行が足りない。

瞋りを感じなくならなきゃいかん。

もっとも、ひとつだけ、おこってもいい場合があります。

それは、自分自身にたいしておこることです。

自分の未熟さ、自分の愚かさ、自分の徳の至らなさ、これを自分にたいして憤りを発し、いわゆる発憤するのは大いによろしい。

ところがわたくしたちはそうはいかない。

すべて他のせいにして、他にむけていかりを発する。

これがいけない。

幕末の大学者、佐藤一斉先生は、つねに、

「春風(しゅんぷう)人に接し、秋風己を粛(つつし)む」

といっておられた。

人にはそよ吹く風のように温和に過失をゆるし、自分自身には冷徹な秋風のようにきびしく律するという生活態度です。

こういう心がまえでいると、おこるということが自然になくなる。

おこってガマンするというのでは本当ではない。

自然におこらなくならなければいけない。

これができないのを「痴」という。」

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

(西暦1921~2016)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

(西暦1921~2016)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1983年)

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次に、仏教教団、阿含宗の機関紙、『アゴンマガジン2011年4月号』の36ページに次のような記載が書かれている。

修行の心得

必ず導師の指導のもとに行をすすめてゆく、自分勝手な独行は絶対につつしみ御法の護持にあたる。

いかに御法に精進しても、人をにくみ、ものをにくみつつの行は、御法の力いだだけぬものと知れ。

いかに御法に精進しても、人をうらみ、ものをうらみつつの行は、御法の力いただけぬものと知れ。

いかに御法に精進しても、人をいかり、ものをいかりつつの行は、御法の力いただけぬものと知れ。

いかに御法に精進しても、人をむさぼり、ものをむさぼりつつの行は、御法の力いただけぬものと知れ。

行は日常生活の中から始まります。毎月の例祭にはもちろんのこと、その他の日にも必ず月に一回以上は道場にお詣りして、わが身の因縁浄化の勤行をすること。

阿含宗の会員証には、このような修行の心得が記されています。

人間性を高め、霊性を確立していくためにもこの心得を常に念頭において修行精進いたしましょう。

無財の七施

和語施、親切でなごやかな言葉づかいを施す。

和顔施、にこやかな笑顔を施す。

眼施、やさしい眼(まなざし)を施す。

身施、礼儀正しい行動、身体を使う奉仕活動を施す。

心施、うるわしい思いやりを施す。

房舎施、気持ちの良い待遇を施す。

人に喜びを与え、人につくす布施の行はその心さえあれば必ず出来ます。

昔から無財の七施といって、お金や物がなくても、七つの施しができるといわれています。

まず、無財の七施を実行いたしましょう。

 

次に、インド哲学、仏教学の世界的権威である中村元(なかむらはじめ)博士は自身の著作『東洋のこころ 中村元著 講談社学術文庫』の中で、愛と憎しみ、怨み、さらに慈悲について次のように説かれている。

いかなる階級に属する人にあっても、愛が純粋であれば尊いものである。

ただ愛はそのまま慈悲ではありません。

愛をインドではカーマといい、愛、恋愛、愛欲の意味です。

だから相手に裏切られた時には、激しい憎しみを生じる時もあります。

ところが慈悲は愛と憎しみを超えています。

そこで、愛憎からの超越ということは、慈悲の重要な特性の一つです。

すでに原始仏教では、ひとは怨(うら)みをすてよ。ということを教えています。

およそこの世において、怨みは怨みによってしずまることはない。

怨みをすててこそしずまる。

これは不変の真理である。

仏典『ダンマパダ』引用。

こういう思想は仏教を通してわが国の神道にも影響を及ぼしました。

『禊教(みそぎきょう)』において

怨まれて怨み返すな怨みなば、またうらまれて怨みはてしなし。」と説かれています。

また、慈悲の立場に立つと、悪人を憎むということがありません。

悪人は悪をしたために罰せられますが、しかしその人に対する慈悲の念には差別がないのです。

例えば、日本の古い歌(修験道の歌)の中において次の言葉が伝えられている。

慈悲の眼に憎しと思ふものあらじ、とがある者をなほもあはれめ。

つまり、真の慈悲心ある者から見ると、憎いと思う者はこの世に誰もいない。

また、罪ある者に対しても哀れに思え。と。

インド哲学、仏教学の世界的権威

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スリランカ首相官邸においてスリランカ国ジャヤワルダナ大統領より

お釈迦様のご遺骨である真正仏舎利を拝受される阿含宗開祖、

桐山靖雄大僧正猊下(1986年4月7日)

 

https://www.youtube.com/shorts/xQReT9BNPuI

仏教が説く因果応報についての法話

真言密教の開祖、弘法大師空海様の著作、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」の中で弘法大師空海様は次のようにお説きになられている。

「三途の苦は劫を経ても免れがたし。如来の慈父この極苦を見てその因果を説きたもう。悪の因果を説いてその極苦を抜き、善の因果を示してその極果を授く。」

書籍 「大乗仏教の誕生 さとりと廻向 梶山雄一著 講談社学術文庫」の中にその因果応報について説かれている箇所がある。それをここで紹介したい。

西暦150年~250年頃、インドで活躍した大乗仏教の祖師、ナーガールジュナ、別名、龍樹菩薩様は自身の著作、「宝行王正論」に、悪業とその報いとの対応を説いている箇所がある。それによると、

殺生を行うと次の世に短命の生を受け、暴力を用いる者は苦悩多い者となり、盗みを行うと次の世には貧しく、ものに恵まれず、邪淫を犯すと人の怨恨を買う、妄言は争いを、中傷は友情の破壊を、悪口は不快なことばかり聞くことを、へつらいはいやな言葉を結果として引き起こす。貪る人は自分の願望の破滅をきたし、怒りは恐怖の因である。邪悪な考えをもつ人は誤った見解をもつにいたり、飲酒は理性を狂わせる。施しをしない人には貧困が、邪な生活をすれば欺瞞(ぎまん)に遭(あ)い、高慢な人には次の世に卑しい生まれが、嫉妬深い人には卑弱が結果する。怒ってばかりいると卑しいカーストに生まれ、賢者に質問しない人は愚鈍に生まれる、などなどである。

以上は人間の世界における因果応報であるが、もちろん無道を過ぎれば(つまり度を過ぎれば)、地獄、餓鬼、畜生に生まれる。

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   弘法大師空海様

また、仏教には三報という考え方がある。現報、生報、後報の三つである。
現報とは、人がこの世で善悪の行為を行い、この世で禍福の報いを受けるのをいう。
生報とは、この世で善悪の行為をして、次の世でその果報を受ける場合である。後報とは、この世での善悪業が、二世、三世を経たのちに報いられるものである。

だから、善人がこの世で不運にばかり遭い、悪人がこの世で栄華を極めても、それは過去世の善悪の業の果報がいまあらわれているだけで、いまの善悪の業は次の世、あるいはその次の世であらわれるのであるから、落胆するにはおよばない。
もちろん現報のばあいには、この世の業の報いがただちにこの世であらわれる。

ナーガールジュナの示した業と果報との対応例は、原始仏教経典に出ているのを彼が借用したものであり(パーリ中部経典、漢訳 中阿含 鸚鵡経を参照)、一般にも信じられていた。そこには悪業とその苦果だけが挙げられているが、善業の場合はその逆を考えればよい。たとえば、殺生をつつしめば長寿が、布施を常に行えば富豪に生まれるというようにである。

ナーガールジュナ(龍樹菩薩)

また、書籍「原始仏典Ⅰ 長部経典Ⅰ 中村元(監修) 森祖道(翻訳) 橋本哲夫(翻訳) 浪花宣明(翻訳) 渡辺研二(翻訳) 春秋社」の中に、ある修行者の瞑想体験について次のように説かれている。

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「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、(そのもの自身が)堅固不動のものになると、かれ(修行者)は生き物達の死と再生について知る事(死生通)に心を傾け、心を向けるのです。

そして、かれ(修行者)は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知るのです。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。とかれ(修行者)は知る。」

書籍『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照

さらに、書籍 「ブッダ 神々との対話 サンユッタ 二カーヤⅠ 中村元訳 岩波文庫」 の中で仏陀は次のように説かれている。

「生きとし生ける者どもは(寿命が尽きて)いつかは(必ず)死ぬであろう。

生命はいずれ死に至る。

かれらは死後に自己の作った業(自己の行った行為の内容)に従って各所に赴いてそれぞれ善悪の報いを受けるであろう。

悪い行いをした人々は死後において地獄(大いなる苦しみ悩み痛みに満ちた世界 悪い世界)に生まれ赴き
善い行いをした人々は(死後)善いところ(幸福、平和、快楽、安楽の世界 善い世界)に生まれ赴くであろう。

その為に来世(自分の魂が死後に生まれて変わって行く世界 死んでから自分が再び生まれ変わる世界)の幸福、平和、安楽の為に現世(現在生きているこの世界)で善い事をして功徳を積まなければならない。

人々が作ったその功徳はあの世で人々のよりどころとなる。」

さらに、

「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い  また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等 それこそが、その人自身のものである。

人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。

それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。影が人に従うように。

それ故に善い事をして功徳を積め。功徳は人々のよりどころとなる。」

  ブッダ釈尊の初転法輪像

  ブッダ釈尊の降魔成道図絵

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以上のことから、仏教の根本的な教え、ブッダ、真理に目覚めた等正覚者達の最も重要な教えとは「よいことをせよ。わるいことはするな」という倫理、道徳の実践の教えであると考えられる。

漢訳仏典において
「諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」 という七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)がある。

またパーリ仏典の法句経(ダンマパダ)において

「一切の悪をなすことなく、善を具備実践し、自分の心を浄化すること、これが諸仏(真理に目覚め、ブッダとしての悟りをお開きになられた覚者達)の教えである」

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫 青302-1) [ 中村 元 ]

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餓鬼への供養法、施餓鬼会(せがきえ)と盂蘭盆会(うらぼんえ)、また、追善供養(ついぜんくよう)についての法話

 

仏教には施餓鬼会(せがきえ)及び盂蘭盆会(うらぼんえ)という行事があります。
この行事は餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事です。

餓鬼界とは生前もの惜しみ心が強くケチで人に親切でなく布施をしたりせず悪い事をした者が死後に生まれ変わっていく境涯であります。

餓鬼界には食物がほとんどなく空腹で苦しみ仮に食べ物があっても食べ物を食べようとすると火になって燃えてしまったりする。

そういった餓鬼界で苦しんでいる餓鬼達に食べ物を供養したり食事が出来るように餓鬼達を救う為の行事を盂蘭盆会や施餓鬼供養といいます。

仏教経典には餓鬼へのご供養をする為の様々なご真言が書かれている。

その施餓鬼会(せがきえ)に関する仏教のお経に餓鬼事経(がきじきょう)というお経があります。

この重要な年中行事、施餓鬼会(せがきえ)の源流に関係があると考えられるお経がその餓鬼事経に収められている。

この餓鬼事経(がきじきょう)というお経はパーリ五部経典(パーり語五部経典)の中の小部経典に属するお経であります。

餓鬼事経は全部で五十一話あり、その話の主な内容は、餓鬼、死者、幽霊達が生前 つまり生きている間に悪業(わるいこと)を行い、その悪い事をしたことによる悪い報いによって、死後に悪い境涯、餓鬼界(がきかい)に落ちて苦しみ、困っている状況の話が説かれている。

このお経において善因善果、つまり自分の善いおこないは自分に善い結果、善い報いを生む、悪因悪果、つまり自分の悪いおこないは自分に悪い結果、悪い報いを生む、つまり、因縁果報(いんねんかほう)、因果応報(いんがおうほう)についての具体的な話が餓鬼、死者、幽霊達の話を通じて説かれている。

次に、盂蘭盆会(うらぼんえ)に関するお経に盂蘭盆経というお経があります。

その主な内容は「昔、お釈迦様の直弟子であり高弟の目連尊者が修行により悟りを開くと直ちに故郷の母を想い起こし目連尊者自身の天眼通、すなわち、超人的な透視力、霊眼により母の所在を探すと母はもう既に亡くなっており餓鬼界に堕ちて苦しんでいた。

目連尊者は悲しんで自身の神通力により母の傍らに赴き、手づから食物を捧げると母はうれし涙にくれ直ちに食物を口に入れようとするも過去の悪業報の報いにより食物はそのまま火炎となって燃え上がり食べる事が出来なかった。

母は悲泣し目連尊者もどうすることも出来ず赤子のようにただ泣くのみであった。

その後、目連尊者はお釈迦様の所に趣き母の苦しみを救って欲しいと願い出た。
するとお釈迦様は次のように説かれた。

「目連の母は生前の悪業が深いので目連の力だけではどうする事も出来ない。
このうえは十方(多数)の衆僧(修行僧)の威徳に頼る他は無い。
七月十五日は僧懺悔の日、仏歓喜の日であるから、その日に飲食を調えて十方の衆僧を供養するがよい。

そうすればその功徳により母の餓鬼道の苦しみも消えるであろう。」

と説かれたので目連尊者はその教えの通りに行うと母の餓鬼道の苦しみを救う事が出来た」とある。

     「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照

      「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照

 

次に、その餓鬼を供養するご真言に無量威徳自在光明殊勝妙力等がある。

施餓鬼に関する経典に有名な「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼」等の経典に詳しく記載されている。

佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼経というお経の主な内容は、

昔、お釈迦様の直弟子の阿難尊者がある夜、閑静な場所に独り座し仏様の教えの内容を深く観じていると深夜に一人の餓鬼が現れた。

その姿は、髪は蓬(よもぎ)のように乱れ口からは焔(ほのお)を吹き身体はやせこけ咽(のど)は針の如く細く爪は長くとがり顔に苦悶の形相が凄く、阿難尊者に向かってこのように言った。

「あなたは三日後に死んで私のように餓鬼となるであろう。」と。

阿難尊者は内心大いに恐れ「どのようにしたらこのような苦しみから解放されることが出来るのだろうか」と反問したところ餓鬼が次のように答えた。

「この世界に満ちている多数の餓鬼に飲食を施し、多数の仙人、多数の修行者及び三宝(仏、法、僧)に供養をすれば、その功徳に依って私も餓鬼の苦しみから解放され、あなたも寿命を延ばし餓鬼界に堕ちる事はないでしょう」と言って姿を消した。

阿難尊者は仏様にその出来事について相談をし仏様から餓鬼供養のご真言や供養法を教わった。そして、その法を修したところ阿難尊者も天命を全うし餓鬼の苦しみも解脱したとあります。(大正新修大蔵経第21巻(密教部四)464P~465P参照。)

また、仏教の経典に「梵網経(ぼんもうきょう)」というお経があります。

その中に不救存亡戒(ふぐそんぼうかい)という戒律があります。

それによれば仏教信者は慈悲の心を持って全ての生者、死者に対して慈悲の行為を行わなければならない事が説かれ、特に父母兄弟等の家門の親しい先亡精霊に対し、冥界における幸福を助けるための宗教行為に勤めるべきことを勧めています。

仏教には死者に対しての追福追善の報恩行、冥福を祈る宗教行事があります。つまり、追善供養という供養があります。

追善とは亡者のために追って善事を修して福を薦め、その冥福を祈る事です。

人の死後四十九日の間、亡者の霊は中有に迷って果報、転生先が定まらないので遺族、僧侶が善根を追修、回向してその功徳を亡者に捧げ、三途の苦報を免がれさせようとするため追善供養を行います。
ただし極善の者は四十九日間を待たずに直ぐに仏界、天上界に直行し、極悪の者は直ぐに地獄界へ直行するとされています。

追善供養は人の死後、七日ごとに初七日忌、二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌、六七日忌、七七日忌つまり四十九日忌を行います。

また百日目の百カ日忌、一年目に一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などに法要を営みその功徳を亡者に回向します。

さいごに、仏陀はパーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。
そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。
愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。
現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。
そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。
他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。
現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

また、パーリ仏典「ウダーナヴァルガ」において仏陀は、分かち合うことの大切さが説かれている。

「信ずる心あり、恥を知り、誡(いまし)めをたもち、また財を分かち与える。

これらの徳行は、尊い人のほめたたえることがらである。

この道は崇高なものである。

とかれらは説く。

これによって、この人は天の神々におもむく。

もの惜しみする人々は、天の神々の世界におもむかない。

その愚かな人々は、分かち合うことをたたえない(賞賛しない)。

しかし、この信ある人は分かち合うことを喜んでいるので、このようにして来世には幸せとなる。」

「死者たちの物語 餓鬼事経和訳と解説 藤本晃訳著 国書刊行会」
「お盆と彼岸の供養 開甘露門の世界 野口善敬編者 禅文化研究所」

「ブッダ 神々との対話 サンユッタ 二カーヤ 中村元著 岩波文庫」

「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」

「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

仏典が説く怒り、激怒の感情についての話、また、怒り、激怒の感情と日々の食生活との関連性について

仏教経典 漢訳大蔵経の中の阿含経及び南伝大蔵経において仏陀釈尊は次のようにお説きになられている。

「比丘(修行者)たちよ。まさに一法を断つがよい。

一法を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう。

その一法とはなんであろうか。

いわゆる瞋恚(しんに)(怒り)がそれである。

比丘(修行者)たちよ。まさに瞋恚(怒り)を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう」

「瞋恚(怒り)にかりたてられて、人は悪しき処におもむく。

まさにつとめて瞋恚(怒り)を捨つれば、すなわち煩悩滅尽して聖者たらん。」

「雑言と悪語とを語って愚かなる者は勝てリという。

されど誠の勝利は堪忍を知る人のものである。

怒る者に怒り返すは悪しきことと知るがよい。

怒る者に怒り返さぬ者は二つの勝利を得るのである。

他人の怒れるを知って正念に自分(自分の心、精神、感情)を静める人はよく己(自分)に勝つとともに他人に勝つのである。」

パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において仏陀(仏様)はこうお説きになっている。

「愚者(おろかもの)は荒々しい言葉を語りながら「自分が勝っているのだ」と愚者は考える。

しかし、真理を認知する人がそしり(悪口、中傷誹謗,罵詈雑言、罵倒)を耐え忍ぶならば、(耐え忍ぶ)その人にこそ勝利が存在する。

怒った人に対して怒りを返す人はそれによっていっそう悪をなすことになるのである。

怒った人に対して怒りを返さないならば勝ち難き戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのを知って気をつけて静かにしているならばその人は自分と他人の両者の為になることを行っているのである。

理法(真理)に通じていない人々は「その者(怒りを返さない者)は愚者(おろかもの)だ」と考える。

さらに、パーリ仏典「スッタニパータ」において仏陀曰く

「罪がないのに罵(ののし)られ、殴(なぐ)られ、拘禁(こうきん)されるのを耐え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、彼を私はバラモンという。」

さらにまた、パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において仏陀は次のようにお説きになられている.。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。

怒りを断ち切って悲しまない。

その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを聖者達は称賛する。
それを断ち切ったならば、悲しむことがない」

また、漢訳仏典の大正新修大蔵経第二巻阿含部下、雑阿含経第三十二巻において仏陀はつぎのような主旨の法話を説かれている。

「嗔恚(しんに)を離れるを善と成す。

嗔恚及び驕慢(きょうまん)を生じることがないようにせよ。」とある。

つまり、怒り、激怒,うぬぼれ,慢心の心を起こさないようにせよという主旨の内容が説かれている。

パーリ仏典「サンユッタ・二カーヤ」というお経においてブッダは次のようにお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。怒りを断ち切って、悲しまない。その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを聖者達は賞賛(しょうさん)する。それ(怒り)を断ち切ったならば悲しむことがない。」

「人は利を求めて自分を与えてはならない。自分を捨て去ってははならない。
人は善い(優(やさ)しい)言葉を放つべきである。
悪い、粗暴(そぼう)な言葉を放ってはならない。
やさしい言葉を口に出し荒々(あらあら)しい言葉を口に出してはいけない。」

ところで、話が変わって、ことわざに「健全なる肉体には健全なる精神が宿る」ということわざがある。

健全な精神生活を過ごす為には充分な睡眠、健全な食生活、バランスの取れた栄養の摂取等が重要であると思われる。

暴力的、怒り易い、イライラし易い、キレ易いなどの精神状態に至る原因は様々であるがそのひとつの原因は乱れた食生活、アンバランスな栄養状態にその原因があると考えられる。

「食事で治す心の病 心・脳・栄養 新しい医学の潮流 大沢 博著 第三文明社」という書籍がある。

その書籍のなかでコーラが大好きで砂糖入り缶コーヒーを一日十本以上飲むような偏った食生活をしていた若者がいた。

以前から突発的な発作的暴力を起こしたりしていた。

それを心配したその若者の母親が著者(大沢 博)に電話で窮状を訴えたところバナナを食べさせなさいというアドバイスを与えられた。

母親はその若者にバナナを食べさせ、一時間後に母親から電話がありバナナを食べさせたら一応落ち着きを取り戻したという報告があったという。

またその他の事例で低血糖症、インスリン過剰分泌症の若者がひどい頭痛を訴えた.

しかし著者のアドバイスによりバナナの摂取をしたところ頭痛が収まった事が書かれている。

次に、「現世成仏 わが人生・わが宗教 桐山靖雄著 力富書房」という書籍の中において、日々の栄養がいかに精神生活に影響を与えるかが分かるある一つの事例が紹介されている。

「イギリスで、日本の少年鑑別所のような、非行少年を収容して矯正する強制施設での食べ物による実験の記録が紹介されていた。

まず収容された非行少年少女を二つのグループに分け、一つのグループには精白した材料を使った食べ物を与えた、精白すなわち白パン、白砂糖 その他、精白したものを与えた。そして野菜を少量にして肉を多く与えた。

与えられた連中はみんな大喜びであった。

すると、二、三日も経たないうちに喧嘩が起こる、いがみ合いはするなど大騒ぎになった。

収容がつかないほど騒然となってきた。

そういう素因をもった連中ばかりが集まっている施設であるから言う事を聞かなかったり反抗したりするのは、やむを得ないといえばいえるが、その度合いが日増しに激しくなっていった。

ところがもう一方のグループには、黒パン、黒砂糖、その他精白しないもの、あるいはヨーグルト、野菜、果物などを主とした食べ物を与えていた。

すると、こちらは一週間くらいでみんな行儀よくなって反抗しなくなった。

物事の道理が理解出来るようになった。その為みんな従順になってきた。」とある。

次に、「日本食長寿健康法 川島四郎著 新潮文庫」という書籍がある。

その書籍において著者は栄養学者の立場から「いじめとカルシウム」という章において子供達の校内暴力、いじめの原因のひとつにカルシウム不足をその原因として指摘されている。

「なかでも問題なのはカルシウムの不足で、実はこれこそが子供達の凶暴化の最大の原因なのである。

カルシウムは骨や歯を作るのに欠かせない栄養素であるがそればかりでなく哺乳動物では神経系統に対しても重要な働きをしているのである。

これが十分に補給されている哺乳動物は精神が安定していて気も穏やかであるが欠乏すると精神が不安定になり気性が荒くなる。

つまりカルシウムは精神安定剤の役割ももっているのである。

たとえば妊娠している女性はヒステリーになりやすい傾向があるが、これなどはまさにカルシウム不足のなせるわざなのだ。

胎児の骨の形成の為に母体のカルシウムを奪われてしまうために精神が不安定になるもので、医師はこうした患者には注射や薬剤でカルシウムを投与して治療している。」とある。

日本食長寿健康法 (新潮文庫)

現世成仏―わが人生・わが宗教

仏教が説く利他の教え、利他についてのお経

書籍「仏陀の真実の教えを説く阿含経講義(上)桐山靖雄著 平河出版」の中において阿含経の一切事経というお経が紹介されている。

一切事経の内容は、お釈迦様がお釈迦様の弟子のマカナン(お釈迦様の叔父)から優婆塞(在家信者)の修行法についての質問を受け、お釈迦様がマカナン(お釈迦様の叔父)からの質問に対して説かれたお経であります。

その主たる内容は、

ある時、弟子のマカナンがお釈迦様に対し、在家の仏教信者はどのような修行法をすればよいのかを質問したところ、お釈迦様は

先ず、正信を持つことが必要であると説かれた。つまり正しい信仰心を持つ事。

次に、正しい戒律を守る事。

次に、正しい布施を実践する事。

次に、正しい仏教を聴聞する事、つまり正法を聴聞する事。

次に、その正しい教えを保持する事。つまり正しい教えを聞いても聞いただけで直ぐに忘れたりしてはいけないという事。

次に、その正しい教えを観察、正しい教えについて観念工夫する事。つまり自分自身の頭の中でその教えについて深く考える事。例えば、その教えについてよく吟味(ぎんみ)する事。

次に、正しい教えに従い、正しい教えに向かっていく事である。

要約すると,信、戒、施、聞、持、観、法次、法向の八つの法があると説かれている。

すなわち八法の修行法である。

さらに、お釈迦様は、その八法の修行法、いわゆる自分の為だけにする修行法だけではなく、その八法の修行法を他者にも実践するように教え導きなさいという教えを説かれている。つまり、自分の為だけにする修行ではなく自分と他者の為の修行法の実践を提唱されている。

それが八法十六法である。

いわゆる、八法十六法とは以下の通り、

自分が正しい信仰心を持つだけではなく、他者にも正しい信仰を持つことを教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい戒律を保持する事を教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい教え、正しい法を聴聞する事を教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい教えを保持する事を教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい教えに対し観念工夫する事を教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい教えに従い、正しい教えに向かっていく事を教え導きなさい。と説かれている。

その八法十六法の修行法により、宗教的境涯において在家仏教修行者(優婆塞 優婆夷)が出家修行者(僧侶、沙門)を越えていく事が可能であるという内容が説かれている。

「仏陀の真実の教えを説く阿含経講義(上)桐山靖雄著 平川出版」の著者であり阿含宗の開祖である桐山靖雄大僧正猊下はこの阿含経の一切事経を引用し次のように説かれている。

阿含経というお経は日本仏教の歴史において千年以上の長きにわたり小乗経典であると蔑視され、また出家仏教であると批判され続けてきたが、その一切事経のお経の内容から阿含経は決して利己的な小乗経典、つまり、自分だけの救いを求めるお経ではなく、また出家仏教、つまり、出家しなければ救われないというお経では決してない事をこのお経を引用し、強く主張されている。

一切事経は 大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 雑阿含経巻第三十三 大蔵出版 二百三十六頁下段~二百三十七頁中段、及び 国訳一切経 印度撰述部 阿含部三 大東出版社 雑阿含経 第四十六巻 四百五十頁~四百五十二頁に説かれている。

さらに桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「説法六十心 桐山靖雄著 平川出版」において次のようにお説きになられている。

「上求菩提下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)ということばがあります。

自分より上(上の境涯)のものに向かっては菩提、悟りを求めて一心に修行をする。

自分より下(下の境涯)のものに向かっては親切に指導してあげる。

仏道修行者が必ず実践しなければならない事だと言われています。

またどんなに大知識、大学者であっても自分一人の力だけでそうなったのではなく社会や無数の方々のおかげがあったという事を忘れてはいけない。

そのためにその知識は社会の幸福の為、社会に役立てる為、社会に対してそのお返しをしなければならない。」

特に仏教徒は仏祖への報恩謝徳の為に又一般民衆の幸福の為に正しい仏教、正しい仏法を広めなければならない。

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

仏教のお経、真言をお唱えする事のご利益と意義と重要性

真言宗の開祖、弘法大師空海様の処女作「三教指帰」の中に

「谷響きを惜しまず明星来影す」という一文が説かれている。

具体的に説明すると、若き頃の弘法大師空海様が「虚空蔵菩薩求聞持法」という密教の修行法を修行中、四国の室戸岬の洞窟内で非常に特殊な神秘体験をした事は古来から有名な話です。

その特殊な神秘体験を「谷響きを惜しまず明星来影す」という表現でこの神秘体験を表現されています。

求聞持法を修行中の若き頃の弘法大師海様

求聞持法を修行中の若き頃の弘法大師海様

    虚空蔵菩薩様ご尊影

この「虚空蔵菩薩求聞持法」の正式名称は「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」とお唱えしますが、この修行が成就すると様々なご利益、霊験があると伝えられている。

この修行の主たる内容は、虚空蔵菩薩様のご真言

「のうぼう あきゃしゃぎゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」
というご真言を百日間の間に百万回唱えるという修行法であり、

大正新修大蔵経密教部にも「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」として詳しい修行方法が記載されています。

次に、阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921~2016)が若い頃、人生の苦悩の末、自殺をしようとした事が自身の著作「般若心経瞑想法 桐山靖雄著 平河出版社」に書かれている。

  阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

そこから救われた体験談が「般若心経瞑想法」や「さあやるぞかならず勝つ⑩」という書籍に書かれている。

その書籍によると事業の失敗による莫大な借金と結核の再発に見舞われた事により前途を悲観し自殺を決意し自殺を決行しようとした直前、ふと目にした小経本で自殺を思いとどまり生きる事を決意した経緯が記されている。

その小教本には般若心経や準提観音経そして延命十句観音経等のお経が書かれており準提観音経には

「寂静にして心常に誦すれば一切諸々の大難能く是の人を侵すこと無し」という文言が書かれていた。

桐山管長はこのお経を信じ準提観世音菩薩様のご真言

「のうばさったなん さんみゃくさんぼだくち なんたにゃた おんしゃれい しゅれい じゅんてい そわか」

を何回も何回も毎日唱えていたそうです。

多い時には一日千回ちかくも唱えていたそうです。

そうするとだんだん自身の運気が変わっていき運勢や環境が 良くなっていき自殺する必要がなくなっていったそうです。

密教大辞典(法蔵館刊)という書籍に、この準提陀羅尼(準提観世音菩薩様のご真言を読誦 唱える事)の功能(功徳 ご利益)として次のように書かれている。

「準提陀羅尼経によれば薄福無善根(福徳が薄い)の衆生(生き物)もこの陀羅尼(準提陀羅尼)を誦すれば(唱えれば)菩提分(さとり 等正覚 完全解脱成仏)の根芽(種子 基礎)を生じ決定して菩提(さとり、等正覚、完全解脱成仏)を成就せん(出来る)と云い、

その他、聡明、勝諍論、夫婦敬愛、他人敬愛(他人から愛される)、求児、延命、治病、滅罪、降雨、脱禁鎖等を祈ると験(効験)を得。悪鬼悪賊の難を逃れる事(が出来る)を説く。後略」とある。

真言密教伝持八祖の内の第五祖 インドの高僧であった善無畏三蔵の伝記に次のように説かれている。

真言密教伝持 第五祖 

善無畏三蔵法師

「商人と善無畏三蔵が航海中、船上において商人が盗賊に襲われた際に善無畏三蔵が準提呪の黙誦をすると準提観世音菩薩様が全身のお姿を現され商人を盗賊の難から救った。」とある。

          仏母準提観世音菩薩様ご尊影

準提観世音菩薩様に関するお経は、大正新修大蔵経(密教部 大蔵出版)及び国訳一切経 (印度撰述部 密教部 大東出版社)の中に七倶提佛母所説準提陀羅尼経というお経が説かれている。

準提観世音菩薩様は密教の仏様であり別名準提如来ともお呼び致します。

密教の流派では如来部に属すると主張したりまた別の流派では観音部に属すると主張したりして解釈が分かれています。

さてこの仏様の密教での呼び名つまり密号は最勝金剛ともお呼び致します。
最勝金剛とは最も優れた仏という意味であります。

この仏様は別名を七倶提仏母(しちくていぶつぼ)ともお呼び致します。

七倶提(しちくてい)とは七億または七千万という意味でつまり無量無数を意味し仏母とは仏の母という意味つまり無量無数の仏の母という意味です。

「密教大辞典 法蔵館刊」によると「過去無量の諸仏の母たる清浄陀羅尼を司る尊を七倶提仏母と名ずく」

準提とは梵語のチュンディの音写で意味は清浄という意味でありこのご真言は清浄陀羅尼ともいわれます。

このご真言から過去無量無数の仏様が生まれたと伝えられています。

「龍神が翔ぶ―家運をよくする守護神・守護霊の持ちかた (単行本)桐山 靖雄 (著) 」という書籍でも準提観音様の事が記されています。

次に、延命十句観音経について説明すると、「白隠禅師法語全集 八重葎 延命十句経霊験記」という書籍に次のように説かれている。

「昔、ある男がいた。ところがある日処刑される事になった。 そして処刑前夜その男の夢に僧侶が現れ「延命十句経を千返唱えると命は助かる」と夢で教えられ明け方までこのお経を千編唱えた。

ところが同じ処刑前夜に別のある男の夢に観音様が現れ「この処刑を中止しなさい。そうすれば立派な徳行になるでしょう。

さもなくば大災厄がふりかかるであろう」というお告げを聞いた。

またその他の処刑実行者も同じような夢を見た人がおり処刑を中止した」という話がある。

延命十句経に関する霊験談がこの本では他にも書かれていて興味深い。

延命十句観音経(えんめいじゅっくかんのんきょう)
「観世音(かんぜおん)
南無仏(なむぶつ)
与仏有因(よぶつういん)
与仏有縁(よぶつうえん)
仏法僧縁(ぶっぽうそうえん)
常楽我浄(じょうらくがじょう)
朝念観世音(ちょうねんかんぜおん)
暮念観世音(ぼねんかんぜおん)
念々従心起(ねんねんじゅうしんき)
念々不離心(ねんねんふりしん)」
とお唱えし致します。

さて、ところで、仏教には般若心経というお経が有名であり、世間一般に広く知られており、様々な宗旨宗派においても盛んにお唱えされているが、

阿含宗開祖の桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「般若心経瞑想法 桐山靖雄著 平河出版社」の中で、その般若心経について次のようにお説きになられている。

「玄奘三蔵訳の般若心経は頭で考えて作った経典ではなく霊感によってほとばしり出た経典であり、ぱぁっと霊感によって出てきた文言をそのまま、文字にして放り出したという感じである。

ことに、さいごに突然、出てきている呪(マントラ)などをみると、強くそういう感じがする。

この経典は経典というより、全体がマントラではないかと思うのである。

この経典作者は観音信仰者だったのではなかろうか?

マントラ、ダラニは一心に、ただひたすらに、一心にとなえることによって偉大な力をさずけてくれるのである。

マントラ、ダラニに理くつはない。

人間の子賢(こざか)しい知慧を越えた不思議な力がある。

神秘としかいいようがない奇跡を起こす力がある。

ただ一心に心をこめて祈り、誦すればよいのだ。

あなたもそのようにして偉大な功徳をいただいてほしい。」

と解説されている。