釈尊が護摩を禁止、否定されていたのではないか?と思われる阿含経、パーリ経典のお経についての法話

護摩(ごま)、いわゆる、密教系の寺院などにおいて、佛菩薩像、明王像、仏舎利塔などの前に護摩壇を設置し、その護摩壇上に火を焚き、その火で佛菩薩やその他、諸精霊を供養する儀式、法要の事を意味する。

また、密教において護摩は修行法の一部として定義されているが、仏教の開祖である釈尊は護摩についてどのように考えていたか、どのような見解をもたれていたのかが気になる。

私は、今まで、仏跡、仏画など多くの仏画を見てきたが、お釈迦様が護摩を焚いている仏画を一度も見たことがなく、お釈迦様が護摩を焚いたというお経を読んだことは寡聞にして一度もない。

ところで、書籍「ブッダ 悪魔との対話 中村元著 岩波文庫」及び書籍「月間アーガマ50号 阿含宗総本山出版局」においてインド哲学及び仏教学の世界的権威である今は亡き中村元博士がパーリ仏典サンユッタ・二カーヤや漢訳仏典『雑阿含経 四十四巻七』(大正新修大蔵経2巻 阿含部下 大蔵出版社)(320頁~321頁)を引用し、釈尊と事火外道との対話を紹介している。

事火外道とは火を祀り、火を拝み崇拝する宗教、ゾロアスター教などの火を祀る宗教などを指すが、一般的に、外道とは悪者を意味する言葉と世間一般では考えられているが、仏教では、いわゆる仏教の観点からすると、仏教以外の宗教を全て外道と呼ぶ、あくまで仏教側から見た呼び名である。

釈尊は、その事火外道の行者に対して、火を拝み、火を祀る護摩を否定されていると思われるようなお経が紹介されている。

内容は以下の通り。

『尊師(ブッダ)は事火外道の行者に曰はく、

「バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。

それは単に外側に関することであるからである。

外的なことによって清浄が得られると考える人は、

実は浄らかさを得ることができない。

と真理に熟達した人々は語る。

バラモンよ。わたしは(外的に木片を焼くことをやめて)

内面的に光輝を燃焼させる。

永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、

敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。

バラモンよ。そなたの慢心は重檐(ちょうえん)である。

怒りは煙であり、虚言は灰である。

舌は木杓であり、心臓は(供犠のための)光炎の場所である。

よく自己を調練した人が人間の光輝である。

バラモンよ。戒しめに安住している人は法の湖である。

濁り無く、常に立派な人々から賞賛されている。

知識に精通している人々はそこで水浴するのである。

肢体がまつわられることの無い人々は彼岸に渡る。

真実と法と自制と清浄行、

これは中(道)に依るものであり、ブラフマンを体得する。

バラモンよ

善にして真直ぐな人々を敬え。

その人を、わたくしは(法に従っている人)であると説く。』

(書籍「ブッダ 悪魔との対話 中村元著 岩波文庫」147頁参照。

書籍『月刊アーガマ50号 (昭和59年出版) 阿含宗総本山出版局』 24頁~25頁参照。)

このように、お釈迦様が護摩を実際に否定されているような見解をもっていた事を考えると、日本の仏教寺院、特に密教系寺院において古来から現在に至るまで、また現在もなお、護摩修法が日常的に修され続けていることを鑑みると、何か考えさせられるものがある。

            釈尊 初転法輪像

書籍『大正新修大蔵経二巻 阿含部下 大蔵出版社』320頁~321頁 参照。

インド哲学及び仏教学の

世界的権威   中村元博士

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