草木に霊魂の存在を認め、草木を切ったり刈ったりして、草木を殺生する事を禁じていた初期仏教やジャイナ教の教え、草木を燃やす護摩はお釈迦様の教えに反するのではないか?という疑問について

初期仏教、ジャイナ教の教えに草木に魂、精神の存在を認め、草木を切ったり、刈ったり、燃やしたりして草木を傷つけることを禁じていた。

それに関する論文が、今は亡き、元大谷大学教授の白土わか先生(1919年~2015年 享年96歳)の論文「草木成仏説について その形成と展開 白土わか」(書籍「佛教學セミナー第69号 1999年5月 大谷大学仏教學會」の中で解説されている。

白土わか先生は初期仏教やジャイナ教の教えが、草木についてどのように考えていたかを次のように説かれている。

「ジャイナ教にあっては、草木に生命・霊魂を認め、それは知・見・苦・楽等の精神作用を有するものと見ていたといわれている。

一方、仏教内の事情はどのようなものであったかのであろうか。

それを戒律の条項に照らしてみると、「四分僧戒本」波逸提十一に、

「若比丘壊鬼神村者波逸提」とあり、「壊生種戒」といわれるものがある。

それは「四分律」巻十二によれば、村とは一切草木をさし、鬼神の依る所という。

そして草木に五種ありとし、その生種を断つことを戒めている。

それが「五分戒本」には、「若比丘殺衆草木波逸提」とあり、草木を殺生することの罪となる。

「十誦比丘波羅提木叉戒本」にも同文で出されている。

「摩訶僧祇律」巻十四にも、手づから草木の命を殺生することを禁じている。

パーリ「経分別」波逸提十一にも、樹を伐り伐らしめることを禁じ、それは生命を傷つけるものであると戒めている。

以上の例を見るとき、初期仏教に於いては、草木は生命であり、精神を持つものと見ていた形跡が認められる。

しかし、それが、大乗仏教に受け継がれていった思想か否かは疑問である。

次に樹木に宿る樹神の場合を見てみよう。

樹神は仏教以前から、豊穣の神として崇められてきた。

「法句譬喩経」巻二「刀杖品」樹神説話は日本では「今昔物語」巻二「天竺神、為鳩留降長者降甘露語」や「註好選」中「樹神手下百味」の原拠となっているが、それによると舎衛国の男子が、世尊に飯食を捧げ聴法した功徳によって、忽ち大樹の樹神として生れ替わり、修行者たちの為に百味の飯食を流溢せしめて与えたという説話である。

そして、この樹神は八齋戒を果たしていたなら、天上界に生まれることができたであろう、ということになっている。

ジャータカには、樹神が釈尊の菩薩たりし時の姿として現れてくる例がしばしば見られる。

ここでは樹神が仏となるのである。

しかし、樹神は樹木に宿り司る神であり、その樹木も何種類かの特定の木に限られていて、樹木そのものが仏になるという発想に結びつかない。

ちなみに北伝の説話には、樹神が仏の前世であるという例は見当たらないようである。」

また、書籍「南伝大蔵経6 長部経典1 高楠順次郎 監修 大蔵出版」の中に仏教の戒律に樹木などの植物を伐採することを禁じている事が説かれている。

「南伝大蔵経6 長部経典1 高楠順次郎 監修  大蔵出版」

「南伝大蔵経6 長部経典1 高楠順次郎 監修  大蔵出版」

このように初期仏教、ジャイナ教において草木を刈ったり傷つけたりするのを禁止していたことが分かる。

また、書籍「植物は知性を持っている 20の感覚で思考する生命システム ステファノ・マンクーゾ アレッサンドラ・ヴィオラ マイケル・ポーランド序文 久保耕司訳  NHK出版」参照。」の中で、植物が生きとし生けるものであることを論証し、次のように記載されている。

「ユダヤ教では、理由もなく木を切る事が禁止され「樹木の新年」すなわち、春の到来を祝い、樹木に感謝を捧げるユダヤ教の祭日が祝われている。

また、ネイティブアメリカンや世界各地の様々な先住民のように植物を神聖なものとみなしている人々もいる。

さらにまた、植物の世界は、ただ、表面的に観察しただけでは、複雑さのかけらもない。まったく単純な世界にみえるかもしれない。

いっぽうで、こうも考えられる。実は植物は感覚を備えた生物で、コミュニケーション能力があり、社会的な生活を送っており、優れた戦略を用いて難題を解決することが出来る。と。

一言でいえば、植物は知性を持っているということだ。そうした考えは、何世紀もの間、さまざまな時代や文化のなかで、ときどきちらりと顔を出してきた。

植物は、一般的に考えられているよりも、ずっと優れた能力をもっていると確信していた哲学者や科学者もいる。

有名な名前をあげると、プラトン、デモクリトス、リンネ、ダーウィン、フェヒナー(グスタス・テオドール・フェヒナー。19世紀のドイツの物理学者、哲学者)、ポーズ(ジャガディッシュ・チャンドラ・ポーズ。19世紀~20世紀のインドの植物生理学者、科学者)などである。

20世紀半ばまで、植物の知性というテーマに取り組んできたのは、天才ともいうべき直感をもった者だけだった。

特に「種の起源」を著したチャールズ・ダーウィンは自身の著作「植物の運動力」という大著を著し、植物は生物であり、生き物であるとしか思えないような、様々な実験結果を紹介し、植物は生き物であると結論づけている。

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そして、この50年の間に多くの発見があった。

そして、今日、ようやく、この問題に光があてられるようになり、今や植物の世界を新たな目でみる必要が出てきた。

植物が知性があることを否定する根拠は、科学的なデータなどではなく、実は、数千年前から人類の文化に巣食っている先入観や思い込みにすぎないことを明らかにする。

この状況は現代でも変わっていない。しかし、いまこそ私たちの考え方を思い切って変えるチャンスだ。植物は予測し、選択し、学習し、記憶する能力をもった生物だということが、この数十年に蓄積された実験結果のおかげで、ようやく認められ始めている。

たとえば、スイスは、数年前に冷静な議論を重ねた結果、植物の権利を認める世界初の国になった。(2008年にスイス連邦倫理委員会は、植物に一定の尊厳を認める指針を出した。)

スイスの生命倫理委員会は倫理学者、分子生物学者、ナチュラリスト、生態学者を含め、満場一致して合意した。「植物を好き勝手に扱ってはならないとし、植物を無差別に殺すことは倫理的に正当化出来ない。」と。」

さて、次に、ヨーガの大家であられた今は亡き本山博先生は自身の著書「啓示された人類のゆくえⅡ 本山博著 宗教真理出版」の中において、木に魂が宿っているので木を切ってはいけないと、次のようなお話を紹介されている。

「木や石に魂があるという話をすると、(本山博先生に相談して来た)Pさんという方がインドの厚生大臣の下で働いていた。

(Pさんは)わりあいインド政府ではお上の方の人で、大きなマンションに住んでいた。
土地の広さは1 千坪 ぐらいあって、このお宮全体くらいの大きな館が建っているが、それを拡張したいと思った。

場所はボンベイで、英国のエリザベス女王が港に着いたときを記念してクイーンロードというのか、女王の首飾りと称えられている美しい通りが海に面してあるその通りの、海に面した側にそのマンションがある。

その持ち主の P さんが(本山博先生に)、いろんな国政の問題とか、家庭の問題とかを伺いに見えた時、(本山博先生がPさんを)じっと顔を見ていると、大きな木の精が出てきたのです。

木の精というのは、人間の格好をしているが、人間とは違うのです。

先日、伊豆高原の「池」というところで、山の斜面にある神社にお参りした際、そこの神様は出てこられたけども、山の神様も、人間とは違うのです。
人間の格好をして見えているけれどもね。

固い、冷たい感じで、男のような姿をしていられた。

インドの木の精の場合は女のような感じでしたね。

それで、インドの木の精は「切らないでほしいと Pさんに伝えてください」と言って泣いて出てきた。

不思議に思って、「今、木の精が出てきて、切らないでほしいと訴えているが、あなたの住まいの門の脇に、菩提樹の大きな木がありますか?」と聞いたら、その通りの木があって、マンションを拡げたいので切ろうと思っている、とのことでした。

それで、「その木が出てきて、泣いて、切らないでくれと言っていますよ。」と言ったらすぐ自宅に電報を打って切らないことにしたらしいです。
そのように木にも魂があるのです。

そして見えるわけです。」と説かれている。

つまり、本山先生は木の精という生き物の存在を説いている。

これは釈尊前世物語、つまりジャータカにおいて樹の精霊として生まれたことのある釈尊の前世の話とよく似ている。

次に、書籍「「未知」への事典 コリン・ウィルソン 著 ジョン・グランド 編 中村 男 訳」の中の第五部 内空間 精神と肉体 という章の中の植物の交信という項目の中に、植物は感情を持っているとしか思えないような実験結果が記載されている。以下、その記載内容である。

「植物は人間の心を読むことができるか」という論争の火種となった実験は、1968年2月に、うそ発見器の専門家クリーブ・バックスターの執務室で行われた。

ポリグラフ(うそ発見器)は、それにかけられる人の緊張が高まると、皮膚からの発汗が多くなる性質を利用して、汗の増え方を記録することによって、うそ発見器という目的を果たそうとするものである。

バックスターは植物の葉に水をかけてもそれと同じ変化を植物が示すのではないかと考え、ドラセナという百合(ゆり)科の植物に水を注いだ。

すると、不思議なことに、緊張が減少し、人間で言えば感情の充足が起こった事が示された。

次に、一枚の葉を熱いコーヒーにひたしてみたが、何の変化もなかった。

そこで今度は葉を燃やしたらどうなるか、と思うと、そう思っただけでグラフの線がラセナのパニック状態を反映するかのように急上昇し、いったんバックスターがマッチをもって戻ると、再び急角度で上昇した。」

その他、植物の感情の有無に関する様々な実験が行われ、植物が苦楽の感情を持っているとしか思えない実験結果が現れた。

また、書籍「南方熊楠コレクション 森の思想 中沢 新一 編 河出出版」の中で、その植物に対し生命の存在を感じ、植物の密集した森林の破壊、自然破壊の考えについて、次のように反論、書かれている。

「すぐに儲けにならないものの中には、貴重なものがいっぱいあるのだ。

生命の世界もそう、それに景色だってそうだ。

いまは景色なんて、なんの儲けになるかと思っているかもしれないが、それが今に一番の貴重品になる時代がやってくる。

景色を護らなくっちゃいけない。その景色の中に生きている。

生命の世界を金儲けの魔力から守らなくてはいけない。

要するに、自然を保護するという考えが大切なのだと熊楠は力説したのである。

自然を保護するという考えは、当時の日本人には、ちょっと思いつきにくいものだと思う。

人為を離れたところで、自然は生きていた。

人間は母親のような、その自然のふところに、優しくまもられてきたのだ。

その自然を、今度は人為によって護らなければいけないというのだ。

護られてばかりいる子供は、往々にして、自分を守ってくれている母親の苦悩を知らない。

母親は子供を守る。だが、その母親は、一体誰に守ってもらえばいいというのか。

自然保護の思想は、産業化された人間の力が、いち早く自然を圧倒しはじめてしまった英国に発生している。

彼らは、母親である自然からの分離を、早くから実践してきた為に (おかげで、自然は開発と探究の対象となってしまったが) 、自分たちの文明によって苦悩する自然の姿を、客観的にとらえることができたのである。

熊楠は長いこと、海外で生活した体験から一切の母親的なるものから自立を果たしていた。

そのおかげで、彼には自然が苦悩しているさまが、よく見えたのである。」

さらに、

「神道は宗教ではない、という主張の根拠として、そこには、キリスト教や仏教のような壮麗な建築物や、人目を引く宗教的なシンボルに乏しい。という点があげられることが多かった。

宗教はことごとしいやり方で、人々の心を、超越的な世界に向けようとしてきた。

ところが、わが神道には、そのようなことごとしさがなく、自然な民族的心情をすなおに表現しようとしている。

この意味でも、それは国体の自然な表現ではあっても、宗教と同列にあつかうことができない、というわけである。

これに対して、熊楠はこう反論する。

宗教の本質にとっては、壮麗な建造物やイコンやシンボルなどは、必ずしも必要なものではない。

歴史を見てみろ。バビロニアだって、エジプトだって、マヤやインカだって、偉大なる建造物は残ったが、かつてそこにあったはずの神聖なものは、もはやどこかへ消え去って、宗教の伝統は、すっかり途絶えてしまっているではないか。

大事なのは、ひとびとの精神に、大いなるものに対する畏敬が、途絶えることなく、連続してあるということだ。

その点で言えば、神道は立派な宗教ではないか。

神を祀って神社といい、それを崇敬しているのだから、たとえそれが壮大華麗な建造物などをもたなくとも、これが宗教であることはあきらかなのだ。

それを宗教でない、などと言いくるめるのは神道に対して失礼ではないか。

それに、そんな立派な建物はなくとも神道には森があるではないか。

そこには、驚くほどの老大樹がそびえたち、稀観の異植物が鬱蒼たる森をつくりなしている。

日本人は、この森の中にたたずむだけで、深い神秘の宗教感情にみたされてきたのだ。

荘厳な神のイコンでもなく、聖人の遺物でもなく、神秘の仏像でもなく、ただ森林の奥深さに、日本人は存在の神秘をおぼえ、神々に対する畏敬の念を育ててきたのである。

これは、宗教の諸形態の中でも、粗末なものであるどころか、きわめて高級なものと言っていい。

つまり、神道は真言密教などと同じく、秘密儀の宗教、素朴な神秘主義の宗教なのだ。

そのため、神道は、きわめて幽玄なやり方で、人々に感化をおよぼしてきた。

それは文字を立てず、表象を立てず、森林のもたらす神秘な感情をもとにして、人々の神のありかを語ってきたのである。

だから、それはイデオロギーなどとは無縁のものとして、すばらしいのである。」

さらに、南方熊楠先生は次のように語られている。

この椋(むくのき)も三年ばかり前に伐らんと言いしを、小生(南方熊楠)ら抗議して止(とど)む。

さて、伐らんと言いしものは今春即死、また、件(くだん)の糸田の神森を伐り、酒にして飲んでしまいし神主も、大いに悔いおりしが、数月前、へんな病にて死す。

祟りなどということ小生(南方熊楠)は信ぜぬが、昨今、英独(イギリス、ドイツ)
の不思議研究者ら、もっぱらその存在をいい、小生(南方熊楠)も神社合祀励行、森林乱伐に伴い、至る処にその事実あるを認む。

思うに不正姦邪の輩、不識不知(しらずしらず)の間にその悪行を悔い、悔念重畳して自心悩乱すること存じ候。

かかることを、当国官公史また神職らは迷信と言いて笑うことおびただし。

しかるにいずれの国にも犯神罪あり。

キリスト教国にもこれを犯して神罰で死すること多きは小生(南方熊楠)つねに見たり。」

つまり、神道は森に、林に、植物たちに対し、生命の存在を感じ、その植物たちに対し崇高なる畏敬の念を抱いた偉大なる宗教ではないのか?と思う。

以上の事から、植物も人間や動物と同じように苦楽の感情をもっている存在、生命体であると考えられるのではないだろうか。

このように考えると、修験道や密教で焚く護摩、柴燈護摩は、護摩法要でお焚きあげする草木、枝葉、樹木を、ノコギリやチェーンソーで切断、伐採したり、木の枝や葉っぱをお護摩の火で燃やしたりする行為、その行為は極めて暴力的で、生き物を殺戮しているのと同じことであり、ある種、仏教の戒律、不殺生戒を犯しているのではないかと思えてならない。

特に、修験道や密教の護摩は木の枝や葉っぱを伐採し木や枝や葉っぱを燃やし、葉っぱに付着している微生物をも焼き殺しているので、仏教の戒律、不殺生戒を犯していると考えられないだろうか?

「国訳一切経 印度撰述部 経集部十四巻 大東出版社」参照。

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