仏教には施餓鬼会(せがきえ)及び盂蘭盆会(うらぼんえ)という行事があります。
この行事は餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事です。
餓鬼界とは生前もの惜しみ心が強くケチで人に親切でなく布施をしたりせず悪い事をした者が死後に生まれ変わっていく境涯であります。
餓鬼界には食物がほとんどなく空腹で苦しみ仮に食べ物があっても食べ物を食べようとすると火になって燃えてしまったりする。
そういった餓鬼界で苦しんでいる餓鬼達に食べ物を供養したり食事が出来るように餓鬼達を救う為の行事を盂蘭盆会や施餓鬼供養といいます。
仏教経典には餓鬼へのご供養をする為の様々なご真言が書かれている。
その施餓鬼会(せがきえ)に関する仏教のお経に餓鬼事経(がきじきょう)というお経があります。
この重要な年中行事、施餓鬼会(せがきえ)の源流に関係があると考えられるお経がその餓鬼事経に収められている。
この餓鬼事経(がきじきょう)というお経はパーリ五部経典(パーり語五部経典)の中の小部経典に属するお経であります。
餓鬼事経は全部で五十一話あり、その話の主な内容は、餓鬼、死者、幽霊達が生前 つまり生きている間に悪業(わるいこと)を行い、その悪い事をしたことによる悪い報いによって、死後に悪い境涯、餓鬼界(がきかい)に落ちて苦しみ、困っている状況の話が説かれている。
このお経において善因善果、つまり自分の善いおこないは自分に善い結果、善い報いを生む、悪因悪果、つまり自分の悪いおこないは自分に悪い結果、悪い報いを生む、つまり、因縁果報(いんねんかほう)、因果応報(いんがおうほう)についての具体的な話が餓鬼、死者、幽霊達の話を通じて説かれている。
次に、盂蘭盆会(うらぼんえ)に関するお経に盂蘭盆経というお経があります。
その主な内容は「昔、お釈迦様の直弟子であり高弟の目連尊者が修行により悟りを開くと直ちに故郷の母を想い起こし目連尊者自身の天眼通、すなわち、超人的な透視力、霊眼により母の所在を探すと母はもう既に亡くなっており餓鬼界に堕ちて苦しんでいた。
目連尊者は悲しんで自身の神通力により母の傍らに赴き、手づから食物を捧げると母はうれし涙にくれ直ちに食物を口に入れようとするも過去の悪業報の報いにより食物はそのまま火炎となって燃え上がり食べる事が出来なかった。
母は悲泣し目連尊者もどうすることも出来ず赤子のようにただ泣くのみであった。
その後、目連尊者はお釈迦様の所に趣き母の苦しみを救って欲しいと願い出た。
するとお釈迦様は次のように説かれた。
「目連の母は生前の悪業が深いので目連の力だけではどうする事も出来ない。
このうえは十方(多数)の衆僧(修行僧)の威徳に頼る他は無い。
七月十五日は僧懺悔の日、仏歓喜の日であるから、その日に飲食を調えて十方の衆僧を供養するがよい。
そうすればその功徳により母の餓鬼道の苦しみも消えるであろう。」
と説かれたので目連尊者はその教えの通りに行うと母の餓鬼道の苦しみを救う事が出来た」とある。
「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照
「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照
次に、その餓鬼を供養するご真言に無量威徳自在光明殊勝妙力等がある。
施餓鬼に関する経典に有名な「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼」等の経典に詳しく記載されている。
佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼経というお経の主な内容は、
昔、お釈迦様の直弟子の阿難尊者がある夜、閑静な場所に独り座し仏様の教えの内容を深く観じていると深夜に一人の餓鬼が現れた。
その姿は、髪は蓬(よもぎ)のように乱れ口からは焔(ほのお)を吹き身体はやせこけ咽(のど)は針の如く細く爪は長くとがり顔に苦悶の形相が凄く、阿難尊者に向かってこのように言った。
「あなたは三日後に死んで私のように餓鬼となるであろう。」と。
阿難尊者は内心大いに恐れ「どのようにしたらこのような苦しみから解放されることが出来るのだろうか」と反問したところ餓鬼が次のように答えた。
「この世界に満ちている多数の餓鬼に飲食を施し、多数の仙人、多数の修行者及び三宝(仏、法、僧)に供養をすれば、その功徳に依って私も餓鬼の苦しみから解放され、あなたも寿命を延ばし餓鬼界に堕ちる事はないでしょう」と言って姿を消した。
阿難尊者は仏様にその出来事について相談をし仏様から餓鬼供養のご真言や供養法を教わった。そして、その法を修したところ阿難尊者も天命を全うし餓鬼の苦しみも解脱したとあります。(大正新修大蔵経第21巻(密教部四)464P~465P参照。)
また、仏教の経典に「梵網経(ぼんもうきょう)」というお経があります。
その中に不救存亡戒(ふぐそんぼうかい)という戒律があります。
それによれば仏教信者は慈悲の心を持って全ての生者、死者に対して慈悲の行為を行わなければならない事が説かれ、特に父母兄弟等の家門の親しい先亡精霊に対し、冥界における幸福を助けるための宗教行為に勤めるべきことを勧めています。
仏教には死者に対しての追福追善の報恩行、冥福を祈る宗教行事があります。つまり、追善供養という供養があります。
追善とは亡者のために追って善事を修して福を薦め、その冥福を祈る事です。
人の死後四十九日の間、亡者の霊は中有に迷って果報、転生先が定まらないので遺族、僧侶が善根を追修、回向してその功徳を亡者に捧げ、三途の苦報を免がれさせようとするため追善供養を行います。
ただし極善の者は四十九日間を待たずに直ぐに仏界、天上界に直行し、極悪の者は直ぐに地獄界へ直行するとされています。
追善供養は人の死後、七日ごとに初七日忌、二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌、六七日忌、七七日忌つまり四十九日忌を行います。
また百日目の百カ日忌、一年目に一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などに法要を営みその功徳を亡者に回向します。
さいごに、仏陀はパーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて次のようにお説きになられている。
「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。
もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。
そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。
愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。
現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」
「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。
もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。
そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。
他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。
現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」
また、パーリ仏典「ウダーナヴァルガ」において仏陀は、分かち合うことの大切さが説かれている。
「信ずる心あり、恥を知り、誡(いまし)めをたもち、また財を分かち与える。
これらの徳行は、尊い人のほめたたえることがらである。
この道は崇高なものである。
とかれらは説く。
これによって、この人は天の神々におもむく。
もの惜しみする人々は、天の神々の世界におもむかない。
その愚かな人々は、分かち合うことをたたえない(賞賛しない)。
しかし、この信ある人は分かち合うことを喜んでいるので、このようにして来世には幸せとなる。」
「死者たちの物語 餓鬼事経和訳と解説 藤本晃訳著 国書刊行会」
「お盆と彼岸の供養 開甘露門の世界 野口善敬編者 禅文化研究所」
「ブッダ 神々との対話 サンユッタ 二カーヤ 中村元著 岩波文庫」
「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」
「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」