中国共産党によるチベット人に対する仏教弾圧、人権弾圧について考える

以前から世界的なニュースで、中国共産党によるチベット人に対する人権弾圧、宗教弾圧のニュースをよく目にし耳にするが、

書籍 『チベットの反論 チベットの史実を歪曲する中国共産党に挑む アリア・ツェワン・ギャルポ著 亀田浩史 訳 集広舎』を読んでみるとチベット国内では中国共産党によるチベット国内への侵略行為によりチベット人の信教の自由が無くなっているそうだ。

また、チベットの僧侶が中国人に対して説法をすることも中国共産党により禁止されているそうだ。

さらにまた、チベット人は中国共産党によって母国語のチベット語の使用は禁止されているそうだ。

さらに、チベットでは一般的に、チベット国内の寺院ではブッダ、仏様に対する五体投地、いわゆる全身を使っての礼拝を行うが、この書籍の内容によると、中国共産党の習近平主席の写真に対してお供え物を捧げ、五体投地の礼拝をしているという話が書かれている。

本来、人として生まれた以上、信教の自由は保障されるべき権利であり、信教の自由は人間としての権利だと私は考える。
日本国憲法では信教の自由が保障されている。

このような仏教弾圧、人権弾圧がもし、事実であるならば、これが本当の話であれば、まったくもって酷い話である。

 

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『仏為首迦長者説業報差別経』が説く善因善果、悪因悪果の具体的な内容

真言密教の開祖、弘法大師空海様の自身の著作、『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』の中で弘法大師空海様は次のようにお説きになられている。

「この生に悪業を作って後にまさに三途(さんず)に堕(お)つべし。

三途の苦は劫を経ても免れがたし。

如来の慈父この極苦を見てその因果を説きたもう。

悪の因果を説いてその極苦を抜き、善の因果を示してその極果を授く。」

真言宗開祖 弘法大師空海

     仏陀像

書籍『ブッダのおしえ 初期経典をたどって アンドレ バロー著 富樫瓔子訳 大東出版』の中で『仏為首迦長者説業報差別経』というお経が紹介されており、そのお経の中で、善因善果、悪因悪果の因果の法則の具体的な内容が説かれているので以下、紹介する。

「生き物を短命に終わらせる可能性のある十種の行為がある。
その十の行為とは、

自身で殺生を犯すこと、
他者をそそのかし、殺生をさせること、
殺生を称賛すること、
殺生を見て喜びを感じること、
憎んでいる相手の死を望むこと、
敵の死を見て喜びを感じること、
他者の妊娠を中絶させること、
人を傷つけるよう命ずること、
生あるものを生贄(いけにえ)として神殿に捧げること。
戦い、傷つけあい、殺しあうよう、人々に命ずることである。
これらの十の行為により、人は短命を得る。

また、生き物に長寿を得させる可能性のある十の行為がある。
それは、自身が殺生をしないこと、
他者に殺生をせぬよう勧めること、
不殺生を称賛すること、
他者の不殺生を見て喜びを感じること。
殺されようとしている他者を見て救おうと力を尽くすこと。
死を恐れている他者を見て、その心を安らげること。
恐怖に怯える人を見て安心感を与えること、
悲嘆にくれる人を見て、思いやりの気持ちを起こすこと。
苦境に落ちた人を見て、大きな憐れみの気持ちを起こすこと。
生き物に食べ物や飲み物を与えることである。
これらの十の行為により、ひとは長寿を得る。

また卑しい身分を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。
それは好ましく振る舞う人に腹を立てる事、
善意の人を憎むこと。
他者を欺く。
父母に敬愛の念を覚えぬないこと。
徳の高い人や聖者に敬意を示さないこと、
徳の高い人や聖者の個人的な財産を奪うこと、
スットゥーパー(仏舎利塔)の灯を消すこと。
卑しめられる身分にある人を見てわざと卑しめること。
悪行を実践する事である。
これらの十の行為により、ひとは卑しい身分を得る。

また、生き物に尊敬すべき身分をもたらす可能性のある十の行為がある。
それは怒らぬこと。
衣を施すこと。
父母を敬愛すること。徳の高い人や聖者を敬うこと、
仏陀の舎利塔を塗り飾ること。
仏の説教の行われる講堂を掃き清め、洗い清めること。
僧院を洗い清めること
仏陀の舎利塔を掃き洗い清めること。
卑しい身分にある人々を見ても、卑しめず敬意を抱くこと、
尊敬すべき身分にある人を認めて、彼らが前世で積んだ行為に思いを致す事である。
これらの十の行為により、ひとは尊敬すべき身分を得る。

また、貧しい一生を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。
それは自身で盗みを働くこと、
他者に盗みをそそのかす事、
盗みを称賛すること、
盗みを見て喜ぶこと、
父母のなりわいを妨害すること。
徳の高い人や聖者の個人的な財産を横領すること。
他者が利を得るのを見て不服を覚えること、
他者が利を得るのを妨げるために難題を持ちだすこと、
他者が施しをするのを見て喜びを感じぬこと、
飢えた人々を見て、哀れみではなく喜びを抱く事である。
これらの十の行為により、ひとは貧しい一生を得る。

また、裕福な一生を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。

それは盗みを差し控えること。
他者に盗みをせぬよう勧めること、
盗まないのを称賛すること、
他者が盗みをしないのを見て喜ぶこと。
父母のなりあいを手助けすること。
徳の高い人や聖者が必要とするものを供給すること、
他者が利を得るのを見て喜びを覚えること、
他者が利を得ようとするのを見て、その援助に尽力すること、
施しを幸せとする人を見て喜びを覚えること。
飢えた人々を見てを感じることである。
これらの十の行為により、ひとは裕福な一生を得る。

また、誤った認識を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。
それは賢く知恵ある修行者やバラモンに相談したり尋ねたりしようとせぬこと
間違った教義を公然と説くこと。
正しい教えを受け入れ、守り深めようとしないこと。
不確実な教義を、あたかも確実なように見せかけ、賞賛すること、
ほとんど、あるいは全く仏法について話さぬこと。
誤った認識に慣れ親しむこと
正しい認識から遠ざかること、
誤った見解を称賛すること、
正しい見解を捨てること。
おろかな悪人を見て貶しさげすむ事である。
これらの十の行為により、ひとは誤った認識を得る。

また、正しい認識を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。
それは賢く知恵ある修行者やバラモンに相談したり尋ねたりしようとすること。
正しい教義を解き広めること。
正しい教えを聞き、守ること
確実な教義が説かれるのをそれを良いといい賞賛すること。
正しい教えを喜び持って説くこと
正しい認識の持ち主と親しくすること。
正しい教えを受け入れ。守ること
正しい教えを熱心に修め、学ぶこと。
誤った見解から遠ざかること。
愚かな悪人を見ても蔑まぬ事である。
これらの十の行為で正しい認識を得る。

また、生き物を地獄に落とす可能性のある十の行為がある。
身体によってなされる重大な悪行、口によってなされる重大な悪行、精神によってなされる重大な悪行。
霊魂消滅論を創出すること。
霊魂不滅論を創出すること。
因果律否定論を創出すること。
行為の結果を否定する論を創出すること、
虚無主義の見解を創出すること、
過激主義の見解を創出すること、
善行の恩恵を無視すること。
これらの十の行為により、地獄に堕ちる。

また、生き物を動物の境涯に落とす可能性のある十の行為がある。
それは身体によってなされる中程度の悪行、
口によってなされる中程度の悪行
精神によってなされる中程度の悪行
貪欲という情念から生じた悪行、
悪意という情念から生じた悪行、
迷妄への執着から生じた悪行。
生き物をののしること、
生き物を憎むこと、
不浄なものを施すこと、
淫蕩を行う事である。
これらの十の行為により、ひとは動物の境涯を得る。

また、生き物を餓鬼の境涯に落とす可能性のある十の行為がある。
それは身体によってなされる軽度の悪行。
口によってなされる軽度の悪行
精神によってなされる軽度の悪行。
多く貪ること、
邪に貪ること、
妬むこと
誤った見解
物的資産に利己的に執着すること。
憎しみから飢えとしようと招くこと、
憎しみから。渇きと非を招く事である。
これらの十の行為により、ひとは餓鬼の境涯を得る。

・・・・・・・ 後略・・・・・

『ブッダのおしえ 初期経典をたどって アンドレ バロー著 富樫瓔子訳 大東出版』引用。

『大正新修大蔵経第一巻 阿含部 第一巻 891頁~893頁 仏為首迦長者説業報差別経』引用

『大正新修大蔵経第一巻 阿含部 第一巻 891頁~893頁 仏為首迦長者説業報差別経』引用

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山野の生ける草木、生き物たちを焼き殺した人の死後の末路を説くお経

ジャイナ教や初期仏教において草木を傷つける事を戒める戒律が存在する。

昔も今も、草木に命は存在しない。という見解を持つ人々が多くいるが、最近の研究では草木にも人間や動物と同じ感情があり、人間や動物と同じように命がある事は最近、科学的に証明されている。

ただし、数百年前のダーウィンやリンネなどの優れた学者たちは草木に命があることを知っていたが。

仏教経典の中には、死者と仏弟子、目連尊者との対話の内容が説かれているお経が存在するが、その中の「佛説鬼問目連経」というお経の中に、山野に自生する草木を焼き払い、多くの草木、生き物たちを焼き殺した人が死後、その罪の報いにより極めて苦しいめに遭い、地獄に堕ちて苦しんでいる事を説くお経がある。

「国訳一切経 経集部 大東出版社」参照

ブッダが説く、瞋恚、怒りの感情についてのご法話

人は生きていく中で、理不尽な目に遭遇(そうぐう)することが幾度もあると思うが、ブッダは仏典『スッタニ・パータ』の中で次のような教えをお説きになられている。

(六二五) 罪がないのに罵(ののし)られ、なぐられ、拘禁(こうきん)されるのを耐え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、かれをわたくしは(バラモン)と呼ぶ。(※この章句の中のバラモンとは立派な修行者という意味。)

(書籍『ブッダのことば 中村元著 岩波文庫』137ページ参照)

(九三二)諸々の出家修行者やいろいろ言い立てる世俗人に辱(はずかし)められ、その不快なことばを多く聞いても、荒々(あらあら)しいことばを以て答えてはならない。立派な人々は敵対的な返答をしないからである。

(書籍『ブッダのことば 中村元著 岩波文庫』202ページ参照)

また、ブッダは仏典『ダンマ・パダ(法句経)』において次のようにお説きになられている。

(三二〇)戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。

(書籍『ブッダ真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫』55ページ参照)

さらにまた、阿含経の中で、仏陀はつぎのようにお説きになられている。

「かようにわたし(仏弟子)は聞いた。

ある時、世尊(仏陀)は、サーヴァッティ(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なる給孤独の園におられた。

その時、世尊(仏陀)は、比丘(仏弟子)たちに告げて、かように説かれた。

「比丘たちよ、まさに一法を断つがよい。

一法を断てば、なんじら必ず、煩悩を滅し尽くして、聖者たることを得るであろう。

その一法とは何であろうか。

いわゆる瞋恚(しんに)(怒り)がそれである。

比丘たちよ、まさに瞋恚を断てば、なんじら必ず煩悩を滅しつくして、聖者たることを得るであろう。」

かく教えて、世尊は、さらに重ねて、このように説かれた。

「瞋恚にかりたてられて、人は悪しき処におもむく。

まさにつとめて瞋恚心を捨つれば、すなわち煩悩滅尽して聖者たらん。」

『南伝大蔵経 相応部経典 七、二、讒謗』
『漢訳経典 雑阿含経 四二、一一五二』

書籍『阿含経典による仏教の根本聖典 増谷文雄著 大法輪閣』参照。

ところで、ブッダ釈尊はインドのクシナガラという場所でお亡くなりになられたのだが、ブッダ釈尊の死後、,釈尊のご遺体の火葬後、釈尊のご遺骨の所有権をめぐり各国が互いに争いが生じたとされる。

ついには遺骨をめぐって軍事衝突にまで発展しそうになった。とされる。

その時、一人のバラモンが争う者たちを制して次のように言ったとされる。

「我らが師(ブッダ釈尊)は耐え忍ぶ事を説かれた方です。師のご遺骨をめぐってこのような争いをしてはいけません。」と諭し、最終的に、ブッダ釈尊のご遺骨はそれぞれ各国に分骨されてお祀りされることになり、ご遺骨をめぐる争いを静めたという話がある。

書籍『ブッダ最後の旅 中村元著 岩波文庫』参照。

ゴータマ・ブッダ初転法輪像(サールナート)

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天台大師智顗の五時教判と富永仲基の大乗非仏説の話

仏教学に五時教判(ごじきょうはん)という仏典の教相判釈(きょうそうはんじゃく)がある。

五時教判は六世紀頃(538年~598年)のシナ(現在の中国)の天台宗第三祖、天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)が打ち立てたとされている。

天台大師智顗は古典的名著『摩訶止観(まかしかん)』という瞑想、禅定に関する書物を著した高僧としても有名である。

その天台大師智顗の打ち立てた五時教判の大雑把(おおざっぱ)な内容として、仏教の開祖、お釈迦様は生涯、すべての仏典、経典をお説きになられ、生涯において五度にわたって教えの内容を変えていったと智顗は考えた。

その五時教判の具体的な内容は、

先ず、お釈迦様は悟りを開かれた直後、弟子たちに華厳経(けごんぎょう)を説かれた。

しかし、その教えの内容あまりにも難解(なんかい)、純粋(じゅんすい)過ぎて、弟子たちはその華厳の教えを理解できなかった。(この時期を第一時)

そこでお釈迦さまは考え直し、誰でも理解できるレベルの低い、具体的な内容で、かつ卑近な内容の阿含経(あごんぎょう)を説いた。と智顗は考えた。(この時期を第二時)

そして何年か経過し弟子たちの理解のレベルが上がっていくにつれ、教えのレベルを上げていき、維摩経(ゆいまぎょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)などの教えを説いた。(この時期を第三時)

さらに、教えのレベルを徐々に上げていき、般若経(はんにゃきょう)などの教えを説いた。(この時期を第四時)

そして最後の時期、お釈迦様の晩年には最高で深遠な内容の法華経(ほけきょう)、亡くなる少し前には涅槃経(ねはんきょう)を説いた。(この時期を第五時)

以上のように釈迦は時期ごとに内容を変えて教えを説いたと智顗は考えた。

その五時教判の価値判断、天台大師の智顗の説によると阿含経は一番レベルの低い卑近な経典で、法華経や涅槃経はレベルの高い、深遠な経典という価値判断を下した。

特に阿含経は小乗経典として考え、法華経や涅槃経などのお経は大乗経典と考えた。

その智顗が作った仏典の価値基準が日本にも伝わり、天台宗の開祖、伝教大師最澄、日蓮宗の開祖、日蓮大聖人、曹洞宗の開祖、道元禅師など数多くの仏教者、僧侶たちに強い影響を与え、五時教判の経典の価値基準体系が長年にわたり日本に広まった。

そして、智顗の死後、約千年以上の時が流れ、日本は明治時代を迎え、江戸時代に続いてきた日本の200年以上にわたる鎖国状態も解け、日本はヨーロッパとの交流も始まり、日本の南条文雄、笠原研寿などの高名な仏教学者たちがサンスクリット語を学ぶ為、ヨーロッパにわたりヨーロッパの仏教学者たちと仏教について議論をするとヨーロッパの仏教学者たちから「私たちが研究している経典はパーリ語で書かれたアーガマ経典(漢訳では阿含経)、いわゆるパーリ仏典である。釈迦の真説を知ろうとするならば真っ先に学ぶべき経典はアーガマ(阿含経)であり、その他の経典は釈迦が直接説いた経典ではない。」という内容の話を聞いた。

ヨーロッパに渡った日本の仏教学者たちはヨーロッパの仏教学者たちと数々の討論を重ねていくうち、日本で卑近な経典としてほとんど見向きもされなかった、小乗経典としてほとんど研究対象にもならなかった阿含経、その阿含経のみが釈迦の真説であり、他の経典(法華経などの大乗仏典)は釈迦の真説ではないのではないか?と考えた。

つまり大乗非仏説という説が明治時代の日本の仏教界に浮上した。

また、江戸時代の日本でも大乗仏典は釈迦の真説ではない。と結論付けた市井(しせい)の日本人学者、富永仲基(とみながなかもと)という人物がいた。

かれは僧侶ではないが職業柄、数多くの仏典を目にすることの出来る環境にあり、その仏典の研究結果を「出定後語(しゅつじょうごご)」という書物に著した。

出定後語の意味は定(瞑想)から出た後に語った言葉という意味。

その著作の中で彼は仏典の加上説を唱えた。

加上説とは、釈迦の死後、釈迦の数多くの弟子たちが集まり、釈迦の言葉をまとめた仏典を作成した。

これを仏典結集という。

釈迦の死後、仏教教団は意見の食い違いにより分裂し、釈迦の死後、約千年以上にわたって様々な仏典と称する経典が次から次へと、過去に作成した経典に加えられていくように作成された。

そのなかには般若経、法華経や阿弥陀経、大日経(だいにちきょう)、理趣経(りしゅきょう)などの経典があった。

富永仲基の説によれば、膨大な量の仏典はすべて釈迦一代のうちにすべてが説かれたのではなく、釈迦の死後、数百年から千年にわたり漸次、作成され続けてきたものであり、実際に釈迦が存命中に説かれた教えの内容は阿含経の中のごく一部であると主張されている。

この加上説は近代の仏教史、現代の仏教史、ヨーロッパの仏教史の内容に酷似しており、当時、鎖国状態の江戸時代において、また、五時教判の考えが広く浸透(しんとう)し、広く行き渡っていた江戸時代の日本において、これに気付いたのは富永仲基の慧眼(けいがん)とでもいうべきであろうか。

まさに「後世(こうせい)畏(おそ)るべし」(天台大師智顗の時代から見れば)とでもいおうか。

ところで、大正時代、膨大な仏典の編纂、大正新修大蔵経の編纂が仏教学者の高楠順次郎氏と渡辺海旭氏を中心として行われた。

その大正新修大蔵経の第一巻目が阿含部経典である。

富永仲基が主張する経典の成立順に大正新修大蔵経の第一巻目からの順番が並べられている。

昔、私(堀田努)は京都の龍谷大学大宮学舎の図書館に入館した際、大正新修大蔵経以外の大蔵経を目にする機会があり、その大蔵経の一巻目は華厳経であったことを見た。

これはこの大蔵経が編纂された時代、五時教判の教相判釈が強く信じられていた時代の為、華厳経を第一巻目にしたのであろうかと思ったものである。

また、原始仏教(阿含経典)研究の先駆者、姉崎正治博士の古典的名著『現身仏と法身仏』の中で姉崎正治博士は阿含経典と大乗仏典について以下のような見解をされているのをご紹介する。

「この研究のために著者が渉猟(しょうりょう)したるは、主としてパーリ語仏典と漢文四阿含にあり。

是れ、仏教史の初期に現れたる人心信仰の真歴史が、これら仏典に特に忠実に保存せられしを見たるがためにして、日本の仏教者が、自ら大乗と称して独り高しとし、高遠な理論、迂闊(うかつ)の談理(だんり)をもてあそびて、かえって切実なる仏陀中心の信仰を忘れ、その極、ついに影の如く空閣の如き仏教となしはてしは、歴史と信仰との二面より、憫笑(びんしょう)するに堪えたり。

もとより仏教歴史の問題は、広漠(こうばく)たる仏典の正確なる批評(ひひょう)をへたるのちにあらざれば、十分に正確の断案をくだしがたしといえども、しかも明晰(めいせき)に師主徒弟が日常生活を叙し、その生活の間に現れたる信仰道行の活ける跡(あと)を伝うる阿含仏典(あごんぶってん)と、ひたすら神話装飾(しんわそうしょく)に勉め、経文賛歓(きょうもんさんかん)に余念なき自称大乗仏典(じしょうだいじょうぶってん)と、いずれが史料として正確なるやは、公平なる頭脳の容易に判断し得るところならん。

而(しか)して、真正の歴史はまた事実に活動したる信仰の跡を忠実に具象的(ぐしょうてき)に伝うるものなれば、この具象的信仰の中には、また最も永遠なる信仰の意義を発揮し得べきなり。

仏性、真如は決して架空妄想(かくうもうそう)の中に現れるべきにあらず」

と大乗仏典を強く批判されておられる。

しかし、一方、ある仏教学者の中には、仏教に大乗仏典、大乗仏教がなければ仏教が世界宗教にまで発展しなかったのではないか。という見解を持つ仏教学者もおられる。

ところで、現代の仏教学、学問の世界において、大乗仏教、小乗仏教という呼び名は学問的には正式な呼び名ではなく、大乗仏教のことを正式には大衆部仏教(主に在家信者中心の仏教)と呼び、小乗仏教のことを正式には上座部仏教(主に出家修行者中心の仏教)と呼ぶ。

また、現在、仏教史という学問の世界では、釈迦の死後、数百年後に仏教教団が意見の対立により上座部側と大衆部側に分裂し、その際、大衆部側が上座部側のことを小乗仏教と呼称したとされている。

つまり、小乗仏教という呼び名はあくまで、大衆部仏教側から上座部仏教側に対して一方的に放たれた蔑称(べっしょう)である。とされている。

次に、インド哲学の世界的権威、中村元博士(1912年~1999年)はシナの智顗が立てた五時教判について、また、シナの仏教学者たちの仏典に対する捉え方、考え方について自身の著書『シナ人の思惟方法 中村元著 春秋社』で次のように言及されておられる。

「ところでこれらの多数の経論の所説は、種々さまざまであり、たがいに異なっていて、シナの仏教徒は帰趨(きすう)に迷ったのである。

そこでいずれかひとつの「経」または「論」に根拠をおいて、他の経論をそれに従属させて、多くの教説を整理して、それらのあいだの関係を明らかにして、多くの教説をそれぞれ位置づけようとする努力が、仏教学者たちによってなされた。

これがすなわち「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)、または「教判」(きょうはん)といわれるものなのである。

このようなこころみは、古くはすでに東晋時代のはじめに起こっているともいわれるが、しかし、さかんに行われたということが、シナ仏教の特色のひとつなのである。

このような教判としては、シナの仏教学者たちが自己の最高権威と仰ぐ経論の異なるにしたがい、また、思想的立場の異なるにしたがって、種々の組織がたてられた。

その多くは思想的、哲学的な分類のしかたをとったのであるが、シナ的な思惟方法がもっともよくあらわれているのは「五時」の教判である。

すでに述べたように、シナ人のは人物の個別性を重んじるから、釈尊をも歴史的人物として理解し、多くの経典は釈尊の成道後のいずれかの時期に説かれたものとして、いずれかの時期にあてはめようとする。

「五時」とは、釈尊の成道から入滅までに説法した期間を、五つの時期に分ける考えかたなのである。

劉宋の慧観(えかん)が創唱してから一般に行われたが、天台大師智顗がそれを少し改めた。天台宗によると、五時とは次のごとくである。

  • 華厳時(けごんじ)。釈尊がブッダガヤーで正覚を成じて、のち三十七日間(三週間)のあいだ菩提樹の下で、菩薩らのために、華厳経を説かれた。この教えによるならば、ただちに真理をさとることができる。
  • 鹿苑時(ろくおんじ)。華厳経の教えを聞いても、一般の愚かな人たちはそれを理解しえなかった。そこで彼らを導く方便として、ベナレスの近くの鹿野園で小乗の教えを説いた、この時期は十二年間である。
  • 方等時(ほうどうじ)。小乗の教えを理解したひとびとのために、さらに程度の高い「維摩経典」「思益(しやく)経」金光明経」「勝まん経」などの大乗経典を説いて、彼らをして、小乗を恥じて大乗に向かいたいという気持ちを起こさせる。これが八年つづく。

第四、般若時。釈尊は、そののち二十二年間「般若経」を説いて、空の理を悟らせた。

第五、法華涅槃時。釈尊は最後の八年間がたった後に「法華経」を説いて、小乗の徒も大乗の徒もともに同じ真理を証得しうるものであるということを明らかにし、臨終に「涅槃経」を説いて仏性の理を明らかにした

右に挙げた年数をどうして算出したかというと、これらの経典のうちに記されているところの説法の年時に関するかすかな断片的記事を、あれこれ比較しつきあわせて、このように割りふったのである。

もろもろの経典は実際においては歴史的人物としての釈尊よりもはるかに後世に成立したものであるので、それを考えようともしないで、これらの時期に割りふるというところに、顕著的にシナ的な思惟方法の特徴を認めうる。

シナの仏教徒はもろもろの経典の「説時の前後」ということを、しきりに問題としたのである。(インド人も諸種の教えの前後関係をときには問題にしたが、このように大がかりに年時的にそれを定めることをしなかった。)

ところでこのような割りふりかたそのものに、非常に無理があるのであるから、少しく論理的に注意して経典を読んだひとびとは、当時でもその無理に気がついた。

たとえば、「華厳経」は、この経典自身の標榜するように、釈尊成道直後に説かれたものと一般に信じられていたが、そこには合点のゆかない点がある。

当時の人でもこれを問題としていた。

釈尊成道の直後に「華厳経」が説かれたとき、その会座にシャーリプトラ(舎利弗)などが大勢の弟子をつれてそこに臨んでいたと「華厳経」に記されている。

しかし、彼らは釈尊成道のときには、他の国にいて、のちに仏教に帰依して出家修行僧となった。と他の諸経典に記されている。

ゆえに、彼らが成道直後にいあわせたはずはない。

また説法の行われた講堂である善光法堂は釈尊成道のときにはまだ建立されていなかったはずであるのに、そこで説法が行われたと記されていることも、おかしい。

南方アジア諸国の仏教を見るに、スリランカ、ビルマ、タイ、カンボジア、ラオスなどでは、パーリ語の三蔵を保存し、教団用語としてはパーリ語を用いている。

パーリ語の起源については諸学者のあいだに意見の相違があるが、ともかくインドで成立した言語であることは、疑いない。

したがって南方アジアでは、インドで成立したままの原始仏教聖典を用いているのである。

部分的にはそれぞれの国の国語に翻訳されているが、自国語の経典はただ一般民衆を教化するための目的のものにすぎず、たいして重要視されてはいない。

僧侶たち、少なくとも古典的教養ある僧侶たちは、パーリ語の聖典を読んで、パーリ語で理解しているのである。

他方、チベット人は仏教聖典をチベット語に翻訳してしまって、厖大(ぼうだい)なチベット大蔵経を成立させているが、それはサンスクリット経典のきわめて忠実な直訳であって、訳文を読んだだけで直ちに原文を想定しうるほどである。

ところがシナの翻訳者たちは、インドあるいは中央アジアから将来されたサンスクリット語あるいは中央アジア諸言語(故語)の経典を漢訳することに全力を傾注し、ひとたび自国語に訳出されると、もはや原文をまったく捨て去って、かえりみなかったのである。

その理由としては、いろいろ考えられるであろうが、もっとも主要な理由は、仏教の渡来する以前に、シナにはすでに高度の文化が発達していて、シナ人一般のあいだに伝統的既成勢力となっていたので、新来の仏教はシナの文化的伝統のうちに摂取・包容・同化されてしまったのであろうと考えられる。」

 

 

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「不妄語戒(ふもうごかい)」を考える。

日本のことわざに「正直者(しょうじきもの)の頭(こうべ)に神が宿る」ということわざがある。

また、仏典『スッタニ・パータ」の中でブッダ(真理に目覚めた者)は次のように説かれている。

「嘘(うそ)を言う人は地獄(じごく)に堕(お)ちる」(仏典スッタニ・パータ 六六一詩)(書籍 『ブッダのことば 中村元訳 岩波文庫』 146頁参照)

また、仏教の戒律に「不妄語戒(ふもうごかい)」という戒律がある。

つまり、うそをついてはいけないという戒律がある。

仏教と類似性が強いジャイナ教にも不妄語戒という戒律がある。

インド哲学の世界的権威、中村元博士(1912年~1999年)は自身の著作『思想の自由とジャイナ教 中村元著 春秋社』の中で、ジャイナ教の信者の中に商人が多く、また、ジャイナ教の戒律、不妄語戒を遵守(じゅんしゅ)している方が多く、商売においても、ほとんどウソをついたり、人をだましたりしないので商売上においてお客さんや取引先の方からの信用があるので商売上成功している方が多いと著書の中で書かれている。

さらにまた、中村元博士は自身の著作『ブッダのことば 中村元訳 岩波文庫』の巻末(あとがき(解説))の中で次のように解説されている。

「仏典『スッタニ・パータ』は仏教の開祖であるゴータマ・ブッダ(釈尊)を歴史的人物として把捉するとき、その生き生きとしたすがたに最も近く迫りうる書  少なくともそのうちの一つは『スッタニ・パータ』であると言っても過言ではないであろう。

本書の題名『ブッダのことば』は『スッタニ・パータ』(Sutta Nipāta)の訳である。

「スッタ」とは「たていと」「経」の意味であり、「二パータ」は集成の意味である。この書のパーリ分注釈書のうちにはスッタに関する種々の解釈を挙げているが、ともかくブッダが明らかにした永遠の真理を伝えることばであることをめざしている。

南方アジアの仏教諸国に伝わった経典は五種に分かれ、その第五のものを『グッタカ・二カーヤ』(Khuddaka Nikāya,「小部」と訳す)というが、それがさらに十五に分かれているうちの第五に相当する。

いまここに訳出した『ブッダのことば(スッタニパータ)』は現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。

シナ(中国)・日本の仏教にはほとんど知られなかったが、学問的には重要である。

これによって、われわれはゴータマ・ブッダその人あるいは最初期の仏教に近づきうる一つの通路をもつからである。」
(書籍 『ブッダのことば 中村元訳 岩波文庫』 433頁~434頁参照)

 

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恵心僧都源信の著作、「往生要集」が説く輪廻転生の実態

平安時代の天台宗の学僧、恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)は多くの仏典を引用して書かれた自身の著作「往生要集(おうじょうようしゅう)」において、無量無数の生き物たちが無量無数の生まれ変わりをし、また、多くの生き物たち(仏教用語では生き物、生命体のことを衆生(しゅじょう)という)が死後に、人間に生まれ変わっていくよりも地獄界、餓鬼界、畜生界などの悲惨な生命体に生まれ変わっていくことの方が圧倒的に多いことが説かれている。

例えば、恵心僧都源信は往生要集の中で次のように説かれている。

「我等、いまだかつて道を修せざりしが故に、徒(いたずら)に無辺劫を歴たり。

今もし勤修せずば未来もまた然るべし。

かくの如く無量生死の中に、人身を得ること甚だ難し。

たとひ人身を得とも、諸根(※1)を具することまた難し。

たとひ諸根を具すとも、仏教に遭ふことまた難し。

たとひ仏教に遭ふとも、信心を生ずることまた難し。

故に大経(涅槃経)に云く、

人趣(にんしゅ)(※2)に生るる者は爪の上の土の如し。

三途(さんず)(※3)に堕つる者は十方の土の如し。」と。

(※1) 諸根とはものの機能とか能力、機関などの意を包括した言葉で、草木の根のように、感覚を起こさせる五官を眼根(げんこん)、耳根(にこん)、鼻根、舌根、身根といい、心を意根として六根と呼ぶ。その他、女根(にょこん)、男根(なんこん)、命根、楽根、苦根、喜根、憂根をはじめ、さとりに導くものをも信根、慧根などと数える。普通、二十二根という。

(※2)人趣(にんしゅ) 人間界、人間に生まれること。

(※3)三途(さんず)  三途の川(さんずのかわ)、三瀬川(みつせがわ)ともいう。仏教の教えでは、多くの衆生(生き物)は死後、三途の川に流され、その流れ生まれ行く行先は地獄界、餓鬼界、畜生界とされる。

恵心僧都源信(西暦942年~西暦1017年)

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