精進料理の健康効果についての法話(特に心臓病の予防効果について)

高野山や比叡山、永平寺などのお寺、宿坊に宿泊すると精進料理が出される事が多いが、そもそも精進料理とは動物性タンパク質を控えた料理、例えば肉や魚などの魚肉を使わず調理した料理である。

肉や魚を食べることは、その前提として牛や豚や魚などの命を絶つことになるので、仏教の思想、生き物を殺すなという戒律、いわゆる不殺生戒の観点から、また、動物たちに対する思いやり、慈悲の観点から、出来るだけ動物などの生物の殺生を行わずに調理できる料理が古来から考案されてきた。

ところで、その精進料理の健康効果はどうだろうかと考えたところ、動物性の肉食を控えることは心臓病や各種の成人病予防効果があると思われる。

その根拠の一環として次の書物を紹介したい。

アメリカの著名な栄養学者、ジーン・カーパー氏は著書「食事で治す本 下 ジーン・カーパー著 ハルキ文庫」の中で心臓病と動物性脂肪の摂取との因果関係について次のように述べておられる。

「動物性の飽和脂肪は避けるべきだ。それは心臓において真の悪魔である。それは血中コレステロールを上げ、血液の粘度を高めてくっつきやすくさせ、血栓溶解のメカニズムを抑圧して動脈を破壊し、動脈を詰まらせ、狭窄(きょうさく)させる。

世界で動物性脂肪を最も多くとっている地域は、冠状動脈性心臓病の最高率を示している。動物性脂肪の摂取の増加が心臓病の増加を招いている。

1990年の世界保健機構(WHO)の報告は、摂取カロリーに占める飽和脂肪の比率が3%~10%のところでは心臓病が少ないことを明らかにしている。飽和脂肪の摂取がそれ以上になると、顕著な進行性の致命的心臓病を引き起こすのだ。

アメリカと西欧諸国では、飽和脂肪が摂取カロリーの15%~なんと20%を占めているところが多い。

動物性脂肪をとらないようにすることで、あなたのミステークは逆転でき、動脈を詰まらせないように出来る。数件の研究が動物性脂肪を制限すると、動脈への脂質の(たいせき)とその成長が阻(はば)まれ、動脈の詰まるのが防がれ、脂質の堆積物が縮小させすることを明らかにしている。

南カリフォルニア医科大学のデービット・H・ブランケンホーン医博は、低飽和脂肪食(摂取カロリーに占める比率が5%)で冠状動脈にバイパス手術を受けた患者に良い結果をもたらしている。

「たんに高脂肪乳製品を低脂肪乳製品に切り替えるだけで」大多数の人が動脈を動物性脂肪による破壊から守ることができると、医博はいっている。

もしも、私が心臓病のリスクを下げる方法をただ一つだけいえといわれたら、動物性食品、とくに動物性脂肪の摂取を減らして、その代わりに炭水化物複合体━穀類、果物、野菜を多く食べるようすすめる。

(アーネスト・シェファー医博、タフト大学の廊下についてのアメリカ農務省人間栄養リサーチ・センター)」

と述べている。

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パーリ仏典『テーリー・ガーター』より女人禁制、男尊女卑思想の是非について考える

和歌山県にある真言密教の聖地である高野山は、かつて、女人禁制の地として女性の参拝は明治時代まで出来ず、高野山の入り口付近にある女人堂までしかお詣りが出来なかった過去がある。

また、男尊女卑、つまり、男性が尊く女性は卑しいという思想は仏教思想から来ているとも言われてきた。

お釈迦様が使用していた言語、パーリ語で書かれたお経で、紀元前3世紀頃から紀元前1世紀頃、スリランカに伝えられたお経に『テーリー・ガーター』というお経がある。

この『テーリー・ガーター』というお経は、お釈迦様の弟子である女性修行者たちが修業し悟りを開くことが出来た後に語られた体験談などが記されている。

パーリ語で書かれた『テーリー・ガーター』の原文と日本語での解説が共に掲載された書籍「パーリ文『テーリー・ガーター』翻訳語彙典 植木雅俊著 法蔵館」という書籍がある。

その書籍の著者、植木雅俊博士によると、その『テーリー・ガーター』というお経は日本や中国、朝鮮などの北伝仏教には伝えられなかった。という。

また、この書籍の前文の解説で次にように書かれている。

「女性であることが一体、何の妨げをなすのでしょうか」。

女性差別の社会で釈尊と出会い、自己の尊さに目覚めた尼僧たちの赤裸々な体験談。

「女性差別の著しい古代インド社会にあって苛まれていた女性たちが、釈尊と出会って、人間としてあるべき“普遍的真理”(dhamma、法)を覚知し、真の自己に目覚めて人格の完成を果たすとともに、自己の尊さに目覚めて溌剌とした生き方に蘇生していった体験が赤裸々につづられている。

その女性たちが、異口同音に「私は解脱しました」「私は覚りました」「私はブッダの教えをなし遂げました」「私の心は安らいでいます」と誇りをもって語っているのである。……

後世にゆがめられた仏教の女性観を正し、歴史的人物としての釈尊の女性観を知る上で、『テーリー・ガーター』は欠かすことのできない重要な文献であることが理解されよう。」

と著者の植木博士は説かれている。

もし、この『テーリー・ガーター』が千数百年前の日本の仏教伝来の際に伝えられていたならば高野山の女人禁制や昔から一部で言われてきた男尊女卑という思想は、ひょっとするとなかったのではないかと思われるほど貴重なお経であると思われる。

また、仏教を真に理解、解読しようとするならば、お釈迦様が実際に使用されていたパーリ語で仏典を研究しなければならないと思われる。

この書籍「パーリ文『テーリー・ガーター』翻訳語彙典 植木雅俊著 法蔵館」はパーリ語と日本語の解説が併記されており、500頁以上の大部の書物であり、比較的高価な書物ではあるがパーリ語の学習には最適のテキスト、最適な参考書であると思われる。

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釈尊が護摩を禁止、否定されていたのではないか?と思われる阿含経、パーリ経典のお経についての法話

護摩(ごま)、いわゆる、密教系の寺院などにおいて、佛菩薩像、明王像、仏舎利塔などの前に護摩壇を設置し、その護摩壇上に火を焚き、その火で佛菩薩やその他、諸精霊を供養する儀式、法要の事を意味する。

また、密教において護摩は修行法の一部として定義されているが、仏教の開祖である釈尊は護摩についてどのように考えていたか、どのような見解をもたれていたのかが気になる。

私は、今まで、仏跡、仏画など多くの仏画を見てきたが、お釈迦様が護摩を焚いている仏画を一度も見たことがなく、お釈迦様が護摩を焚いたというお経を読んだことは寡聞にして一度もない。

ところで、書籍「ブッダ 悪魔との対話 中村元著 岩波文庫」及び書籍「月間アーガマ50号 阿含宗総本山出版局」においてインド哲学及び仏教学の世界的権威である今は亡き中村元博士がパーリ仏典サンユッタ・二カーヤや漢訳仏典『雑阿含経 四十四巻七』(大正新修大蔵経2巻 阿含部下 大蔵出版社)(320頁~321頁)を引用し、釈尊と事火外道との対話を紹介している。

事火外道とは火を祀り、火を拝み崇拝する宗教、ゾロアスター教などの火を祀る宗教などを指すが、一般的に、外道とは悪者を意味する言葉と世間一般では考えられているが、仏教では、いわゆる仏教の観点からすると、仏教以外の宗教を全て外道と呼ぶ、あくまで仏教側から見た呼び名である。

釈尊は、その事火外道の行者に対して、火を拝み、火を祀る護摩を否定されていると思われるようなお経が紹介されている。

内容は以下の通り。

『尊師(ブッダ)は事火外道の行者に曰はく、

「バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。

それは単に外側に関することであるからである。

外的なことによって清浄が得られると考える人は、

実は浄らかさを得ることができない。

と真理に熟達した人々は語る。

バラモンよ。わたしは(外的に木片を焼くことをやめて)

内面的に光輝を燃焼させる。

永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、

敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。

バラモンよ。そなたの慢心は重檐(ちょうえん)である。

怒りは煙であり、虚言は灰である。

舌は木杓であり、心臓は(供犠のための)光炎の場所である。

よく自己を調練した人が人間の光輝である。

バラモンよ。戒しめに安住している人は法の湖である。

濁り無く、常に立派な人々から賞賛されている。

知識に精通している人々はそこで水浴するのである。

肢体がまつわられることの無い人々は彼岸に渡る。

真実と法と自制と清浄行、

これは中(道)に依るものであり、ブラフマンを体得する。

バラモンよ

善にして真直ぐな人々を敬え。

その人を、わたくしは(法に従っている人)であると説く。』

(書籍「ブッダ 悪魔との対話 中村元著 岩波文庫」147頁参照。

書籍『月刊アーガマ50号 (昭和59年出版) 阿含宗総本山出版局』 24頁~25頁参照。)

このように、お釈迦様が護摩を実際に否定されているような見解をもっていた事を考えると、日本の仏教寺院、特に密教系寺院において古来から現在に至るまで、また現在もなお、護摩修法が日常的に修され続けていることを鑑みると、何か考えさせられるものがある。

            釈尊 初転法輪像

書籍『大正新修大蔵経二巻 阿含部下 大蔵出版社』320頁~321頁 参照。

インド哲学及び仏教学の

世界的権威   中村元博士

仏陀が説く貪瞋痴の煩悩について

仏教では貪瞋痴の三毒、いわゆる、貪り、瞋り、痴の煩悩が悪趣に赴く原因であると説かれている。

『南伝大蔵経 小部経典』の中の『如是語経』においてブッダは貪瞋痴の三毒、について次のように説かれている。

「げにこれを世尊(せそん=仏の別名、世間から尊ばれるべきお方という意味)は説き應供(応供)(おうぐ=仏の別名、供養に応えることが出来る存在を意味する)は説き給へりと我聞けり。

比丘衆(出家修行者)よ、一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果(ふげんか=二度とシャバ世界に生まれて来ない聖者、仏に次ぐ位の高い聖者)の成就者なり。何れの一法ぞ。

比丘衆よ、貪の一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果の成就者なり。と。

この義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ。

「貪婪の有情(生きもの)は、貪によりて悪趣に行く、

勝観の者はその貪を、正しく知りて断つ、

断ちてこの世に、決して再来せず」と。

世尊はこの義をも説き給へりと我聞けり、と。

げにこれを世尊(せそん)は説き應供(応供)(=仏の別名、供養に応えることが出来る存在を意味する)は説き給へりと我聞けり。

比丘衆(出家修行者)よ、一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果(仏に次ぐ位の高い聖者)の成就者なり。

何れの一法ぞ。

比丘衆よ、瞋の一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果の成就者なり。と。

この義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ。

「嗔(いか)れる有情は、瞋(しん)によりて悪趣に行く、

勝観の者はその瞋(しん)を、正しく知りて断つ、

断ちてこの世に、決して再来せず」と。

世尊はこの義をも説き給へりと我聞けり、と。

げにこれを世尊は説き應供は説き給へりと我聞けり。

比丘衆よ、一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果の成就者なり。

何れの一法ぞ。

比丘衆よ、痴の一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果の成就者なり。と。

この義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ。

「痴れる有情は、痴によりて悪趣に行く、

勝観の者はその痴を、正しく知りて断つ、

断ちてこの世に、決して再来せず」と。

世尊はこの義をも説き給へりと我聞けり、と。」

https://www.youtube.com/shorts/xQReT9BNPuI

書籍「南伝大蔵経 第二十三巻 小部経典Ⅰ 大蔵出版社」参照。

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天界に生まれ欲望を満たす方法と布施の意義を説いた世尊(ブッダ)

仏陀は、人が死んだ後、天界に生まれ、欲望を満たすことが出来る方法として、ケチな心を捨て、聖者や多くの人々に飯を施すことがその方法であるとお説きになられている。

『南伝大蔵経 小部経典(第二十三巻)(小部経典Ⅰ)』の中の『如是語経』

というお経に次のように説かれている。

『げにこれを世尊(せそん)(=仏の別名)は説き應供(おうぐ)(応供)(=仏の別名、供養に応(こた)えることが出来る存在を意味する)は説き給へりと我聞けり。

「比丘衆(仏教の出家修行者たち)よ、我知るが如く斯若し衆生(しゅじょう=生き物たち)は布施・均分の果報を知らば與(あた)ずして食することなく且つかの慳悋(けんりん)(=ケチの意味)の汚れを心に懐(いだ)きて住することなけむ、

假令かの最後の一摶・最後の一口たりとも有する者は則ち若し受く可きもの有らば均分せずして食すること無からん。

何となれば、比丘衆よ、我知るが如く衆生(しゅじょう)(=生き物たち)は斯く布施・均分の果報を知らざるが故に與(あた)へずして食し、慳悋(けんりん)(=ケチの意味)の汚れをその心に懐(いだ)きて住するなり」と。

此の義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ、

「均分の果報の如何に大果あるやを、

大仙の宣へるがごと斯く若し衆生らば、清き心もて吝嗇(りんしょく)ケチ)の汚れを拂(はら)ひ、大果の得らるる聖なる者に適時に施せよかし。

多くの人に飯(めし)與(あた)え、應施者に施をなして施主は此處より逝きて天上に至るなり。

かく天上に行ける者は欲を満し喜び吝嗇(りんしょく)を無み、均分の果報を受く。』とある。

さて、ビルマやミャンマー、タイ、スリランカなどの東南アジアの国々、南伝仏教を信仰する多くの在家の仏教信者たちは毎朝、托鉢に来た出家修行者の方々に食事を布施する長きにわたる伝統があるが、その布施の行為が功徳となり死後、天界に生まれ変わり、良き生涯を送ることが出来ると考えている在家の信者の方々が多い。

次に、仏教は大まかに説明すると、インドから中国、朝鮮、日本と伝わった北伝仏教とインドからスリランカ、ビルマ、タイ、ミャンマーなどの南側へと伝わった南伝仏教がある。

その南伝仏教国の方々が日々、信仰、所依の経典としているのが南伝大蔵経である。

日本において南伝大蔵経の存在が知られるようになったのは明治、大正時代、昭和などの時代、いわゆる近代、現代においてからで、南伝大蔵経のおおまかな内容は北伝仏教、つまり漢訳経典の阿含部と律部経典が内容としてほぼ重複している所が多いとされている。

その漢訳仏教の阿含部には長部阿含、中部阿含、雑阿含、増一阿含という4種類の阿含経典が存在するが、南伝仏教の経典には長部、中部、雑部、増一とは別に小部経典というお経が存在する。

書籍「南伝大蔵経 第二十三巻 小部経典Ⅰ 大蔵出版社」参照。

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弘法大師空海様が説く十善戒について

仏教には十善戒という戒律が存在する。

すなわち、

①不殺生戒(ふせっしょうかい)、

②不偸盗戒(ふちゅうとんかい)、

③不邪淫戒(ふじゃいんかい)、

④不妄語戒(ふもうごかい)、

⑤不両舌戒(ふりょうぜつかい)、

⑥不悪口戒(ふあっくかい)、

⑦不綺語戒(ふきごかい)、

⑧不貪欲戒(ふとんよくかい)、

⑨不瞋恚戒(ふしんにかい)、

⑩不邪見戒(ふじゃけんかい)

という十種類の戒律がある。

真言密教の開祖である弘法大師空海様は晩年の著作『秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』の中でこの十の戒律、すなわち十善戒について次のようにお説きになられている。

「次に十善を修することを明かす。

・・・・中略・・・・

殺と怨恨(おんごん)とを離れて利慈を生ずれば端正なり長命なり諸天護(まも)る。

盗まず知足にして衆生に施せば資材壊(え)せず天上に生ず。

邪淫を遠離(おんり)して染心(ぜんしん)なければ自妻に知足す

況(いわ)んや他女をや。

所有の妻妾侵奪(しんだつ)せず。

これ円寂の器として生死を出ず。

妄語せざれば常に実言なり。

一切みな信じて供(ぐ)すること王の如し。

両舌語を離れて離間なければ親疎堅固にして怨の破することなし。

もろもろの悪口を離れて柔軟の語なれば勝妙の色を得て人みな慰(やす)んず。

道義の語を思いて綺語(きご)を離るれば現身にすなわち諸人の敬を得’(う)。

他の財を貪せず心願わざれば

現には珠宝を得て後には天に生ず。

瞋(しん)を離れて慈(じ)を生ずれば一切に愛せらる。

輪王の七宝これによりて得(う)。

八邪見を離れて正道に住するは

これ菩薩の人なり煩悩を断ず。

かくの如くの十善の上中下は粟散(ぞくさん)と輪王と三乗との因なり。

「華厳経」にいわく、「十善業道は、人天の因及び有頂の因なり。」

すまわち、

「殺生と怨みとを離れて人々のために慈(いつく)しみを生ずれば端正にして長寿であり、神々に守護される。

盗まず、足るを知って人々に施せば物質・財産がなくならずに天上界に生まれる。

異性に対する邪(よこし)まな行為(邪淫)を離れて煩悩の心がなければ自分の妻に満足するから、ましてや他の婦人に対して煩悩の心が起ころうか

自分の妻妾をうばわれることがない。

これはさとり(円寂)の器(うつわ)にして迷い(生死)を出ることである。

嘘(うそ)をつかない者は常(つね)に真実(しんじつ)を語る。

すべての人々はみな信じてものを供(そな)えることは王のようである。

二枚舌を離れて人々を仲たがいさせることがなければ親しい人とも、疎(うと)い人とも関係が確かで、怨(うら)みによって破られることがない。

もろもろの悪口を離れてやさしい言葉で語れば勝れて妙なる姿かたちを得て人はみな安らかである

理にかなった言葉を心がけて、飾った言葉を離れるならばこの身にすなわちもろもろの人の尊敬を得る。

他人の財産を貪らず、心に願わなければ現世に宝珠を得て、後世に天に生まれる。

怒りを離れて慈(いつく)しみを生ずれば、すべての人々に愛され転輪聖王(てんりんじょうおう)の七宝をこれによって得る。

八つの邪まな見解(八邪見)を離れて正しい道にあるのはこれは菩薩の人、煩悩を断ったのである。

このような十善の上と中と下の部類は小国の王と転輪聖王と三乗(声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんがくじょう)・菩薩乗(ぼさつじょう)とのいずれかになるものである。」

華厳経にいう

「十善業道というのは、人間界と天界に生まれる原因であり、有頂天に生まれる原因となる。」

 弘法大師空海様の御影

 

ブッダが説く父母孝養、父母に対する報恩についての法話

   ブッダ釈尊 初転法輪像

ブッダ釈尊は両親に対する報恩、両親に対する孝養の重要性を説いている。

以下、書籍『東洋のこころ 中村元著 講談社学術文庫』から父母に対する報恩、父母に対する孝養についての話を引用する。

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『母と父とは梵天(世界創造の神)とも言われ、先師とも言われる。

子らの扶養すべきもので、また子孫を愛する者である。

だから賢者は食物と飲料と衣服と座床と塗身と沐浴と洗足とを以て、父母に敬礼し尊敬せよ。

このように父母に仕えることによって、この世ではもろもろの賢者がかれを賞賛し、また逝かば(死後)かれは天上に楽しむ。』

経典『アングッタラ二カーヤ』 第一巻 132ページ参照

父母から受けた恩の大きいことを強調しています。

 

さらにブッダ釈尊は次のようにお説きになられている。

         チベット仏教 仏画

『修行僧らよ。われは二人に対しては十分に報恩をなすことが出来ないと説く。

その二人とは誰か。母と父である。

百歳の寿あり百歳の間生きて、一つの肩で母をにない、他の肩で父をになうとせよ。

またかれは母と父を塗身、按摩、沐浴、揉療によって看護するとせよ。

しかもなお、母と父とに報いたのではない。

また、母と父とを七つの宝に富むこの大地の支配権(王位)につかしめても、

なお母と父につかえ恩に報いたのではない、それは何故であるか。

母と父は、多くの方法で子らを保護し、養い、この世の中を見せてくれたからである。』

されば正しい善人は、恩を感じて恩を知り、むかしの恩を思い起こして母と父を扶養する。

『むかしの恩を受けたとおりに、かれら(父母)に対して義務をはたす。

教えを守り、扶養して、家系を絶たず、信仰あり、戒めをたもつ子は、賞賛せらるべきである。』

『敬礼を守り、つねに年長者をうやまう人には四種のことがらが増大する。すなわち寿命と美しさと楽しみと力である。』『ダンマパダ』引用

         女性信者の帰依を受けるブッダ

大阪府箕面(みのう)市にある箕面の滝への参道に

建立された母を背負う笹川良一氏の孝養の像

 

 

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東洋の

 

仏典スッタニパータなどのお経が説く、飲酒の恐ろしい弊害についての法話

ことわざに、『酒はきちがい水』という言葉がある。

つまり、お酒を飲むと人は気違いのように狂ったような人になる、又は、お酒を飲むと人は気違いのように狂った人のようになり易いという意味だが、

よく、ある人が自宅や酒場、宴会の席上で大量の酒を飲み、お酒に酔い過ぎ、あげくの果てには酩酊状態になる程、泥酔(でんすい)し、酒乱(しゅらん)状態となり、ささいな事で突然腹を立て激高(げきこう)、激怒(げきど)し、家族や友人、周囲の人々に大声で暴言を吐き、怒鳴り散らし、喚(わめ)き散らし、さらにまた暴力を奮い、最悪の場合には傷害事件や殺人事件にまで発展するという事件を過去にニュースや新聞で何度も見聞きした事があるが、健全な社会生活を営む上においてこのような飲酒による周りの人々への迷惑行為は厳に慎まなければならないと思われる。

近年の医学的な研究では過度の飲酒は脳細胞を痛め、脳を委縮させ、また、自身の健康を害し、寿命を縮め、挙句の果てにはボケや認知症になる確率が非常に高くなるといわれている。

ところで、仏教において、酒を飲んではいけないという戒律、すなわち不飲酒戒という実に素晴らしい戒律がある。

仏典『スッタニパータ』においてブッダは弟子や信者たち、またあらゆる人々に対し、お酒を飲まないよう、強く戒められている。

その仏典『スッタニパータ』においてブッダは次のようにお説きになられている。

『飲酒を行ってはならない。

この不飲酒の教えを喜ぶ在家者は、他人をして(飲酒を)飲ませてもならぬ。

他人が酒を飲むことを容認してもならぬ。

これ(飲酒)は終(つい)に人を狂酔(きょうすい)せしめるものであると知って。

けだし、諸々(もろもろ)の愚者(ぐしゃ=おろかもの)は酔いのために悪事を行い、また他の人を怠惰ならしめ、悪事をなさせる。

この禍(わざわい)を起こるもとを回避せよ。

それ(酒)は愚人(ぐにん=おろかもの)の愛好するところであるが、しかし、人を狂酔せしめ迷わせるものである。』と。

このようにブッダは飲酒を強く戒められている。

   ブッダ釈尊 初転法輪像

ちなみにインド哲学、仏教学の世界的権威、碩学泰斗であられる中村元(なかむら はじめ)博士の解説によると、このスッタニパータというお経は数多くの仏教経典(仏典の中には釈尊の死後、数百年後に作成編成されたお経が多数ある)の中で最も釈尊(ゴータマ・ブッダ)の言行録に近いとされている。

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インド哲学、仏教学の世界的権威

    中村元博士

また、『国訳一切経 阿含部経典』の中に、飲酒について次のように説かれているお経が存在する。

「聞くこと是の如し、
一時佛、舎衛國祇樹給孤獨園(しゃえいこくぎじゅぎっこどくおん)に在しき。

爾(そ)の時世尊(せそん)、諸比丘(しょびく)に告げたまはく、

「此の衆中(しゅうちゅう)に於て、我一法を見ず、修行しおわり、多く修行しおわれば、畜生(ちくしょう)、餓鬼(がき)、地獄(じごく)の罪を受け、若し人中に生るれば狂愚癡惑(きょうぐちわく)にして眞偽を識らざらん。

所謂(いわゆる)飲酒(おんじゅ)なり。

諸比丘(しょびく)、若し人有って心に飲酒(おんじゅ)を好めば、所生の處に智慧有ることなく、常に愚癡を懐かん。

是の如く(かくのごとく)諸比丘、慎しみて飲酒すること莫れ。

是の如く(かくのごとく)諸比丘、當(まさ)に是の學(がく)を作すべし」と。
爾(そ)の時諸比丘、佛の所説を聞いて歓喜奉行(かんきぶぎょう)しぬ。」

 

「聞くこと是の如し、
一時佛、舎衛國祇樹給孤獨園(しゃえいこくぎじゅぎっこどくおん)に在しき。
爾の時世尊、諸比丘に告げたまはく、

「此の衆中(しゅうちゅう)に於て、一法として此の法に勝(まさ)るもの有ることなし。

若し修行しおわり、多く修行しおわれば人中の福を受け、天上の福を受けて、泥洹(ないおん)の證(さと)りを得ん。

云何(いかん)が一法と為すや。

所謂不飲酒(ふおんじゅ)なり。

諸比丘、若し人有って酒を飲まずば、生れて便ち聡明にして愚惑有ることなく、博く経籍(きょうしゃく)を知り、意錯乱(こころしゃくらん)せじ。

是の如く(かくのごとく)諸比丘、當(まさ)に是の學を作すべし」と。

爾の時諸比丘、佛の所説を聞いて歓喜奉行(かんきぶぎょう)しぬ。」

 

※世尊=佛、ブッダの意味

※比丘=出家して仏道修行をしている男性修行者のこと

出家して仏道修行をしている女性修行者の事を比丘尼(びくに)という。

諸比丘とは、複数の男性修行者の意味

※舎衛國祇樹給孤獨園(しゃえいこくぎじゅぎっこどくおん)=古代インドの祇園精舎’ぎおんしょうじゃ)の事

※泥洹(ないおん)の證(さと)り=涅槃、ニルヴァーナのさとりの意味

 

       『国訳一切経 阿含部 大東出版社』参照

ところで、この記事を書いている最中、私自身、数十年前の若い頃に、高野山のとある宿坊にアルバイトで働いていた時代、宿坊のあるお坊さんが、大勢の参拝客、観光客の前で『お酒は悟りの水といわれています』と解説していた事を思い出した。

この当時の事を考えると、大勢の人たちに対し仏教に対する誤った、間違った、誤解を招く内容の法話をされていた事はとても罪深い行為だと思われる。

因縁果報、因果応報の具体的な内容を説く仏為首迦長者説業報差別経

仏教の教えとは、一言で言えば、

諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教
(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう、じじょうごい、ぜしょぶっきょう)

その意味としては、諸々の悪をなさず、諸々の善いことを行い、自ら心を浄める、是れ諸仏の教えなり。

つまり、簡単に言うと、仏教の教えとは、悪いことはするな、善いことをせよ、また、自分の心を清めよ、それが仏の教えである。という意味だが、その悪い事とは具体的に一体どのような行為が悪い事なのか、また、善い事とは具体的にどのような行為が善い事なのか。さらに、その具体的な悪行為、善行為の果報とは一体どのようなものなのか。その善行為、悪行為の具体的な因果の内容、つまり、あらゆる行為の報いの内容を具体的に説いたお経に仏為首迦長者説業報差別経というお経が存在する。

書籍『ブッダのおしえ 初期経典をたどって アンドレ バロー著 富樫瓔子訳 大東出版』という書籍の中に『仏為首迦長者説業報差別経』というお経の内容が非常に分かりやすく説かれている。

そのお経には善因善果、悪因悪果の具体的な内容が説かれており、非常に参考になると思われるのでここでそのお経の一部を紹介したいと思う。

以下、『ブッダのおしえ 初期経典をたどって アンドレ バロー著 富樫瓔子訳 大東出版』の一部を抜粋して紹介する。

『前略

生き物を短命に終わらせる可能性のある十種の行為がある。

その十の行為とは、

自身で殺生を犯すこと、
他者をそそのかし殺生をさせること、
殺生を称賛すること、
殺生を見て喜びを感じること、
憎んでいる相手の死を望むこと、
敵の死を見て喜びを感じること、
他者の妊娠を中絶させること、
人を傷つけるよう命ずること、
生あるものを生贄(いけにえ)として神殿に捧げること。
戦い、傷つけあい、殺しあうよう、人々に命ずることである。
これらの十の行為により、人は短命を得る。

また、生き物に長寿を得させる可能性のある十の行為がある。
それは、自身が殺生をしないこと、
他者に殺生をせぬよう勧めること、
不殺生を称賛すること、
他者の不殺生を見て喜びを感じること。
殺されようとしている他者を見て救おうと力を尽くすこと。
死を恐れている他者を見て、その心を安らげること。
恐怖におびえる人を見て安心感を与えること、
悲嘆にくれる人を見て、思いやりの気持ちを起こすこと。
苦境に落ちた人を見て、大きな憐れみの気持ちを起こすこと。
生き物に食べ物や飲み物を与えることである。
これらの十の行為により、ひとは長寿を得る。

 

(中略)

 

また、貧しい一生を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。
それは、自身で盗みを働くこと、
他者に盗みをそそのかす事、
盗みを称賛すること、
盗みを見て喜ぶこと、
父母の生業(なりわい)を妨害すること。
徳の高い人や聖者の個人的な財産を横領すること。
他者が利を得るのを見て不服を覚えること、
他者が利を得るのを妨げるために難題を持ちだすこと、
他者が施しをするのを見て喜びを感じぬこと、
飢えた人々を見て、哀れみではなく喜びをいだくことである。
これらの十の行為により、ひとは貧しい一生を得る。

また、裕福な一生を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。
それは、自身が盗みを差し控えること。
他者に盗みをせぬよう勧めること、
盗まないのを称賛すること、
他者が盗みをしないのを見て喜ぶこと。
父母の生業(なりわい)を手助けすること。
徳の高い人や聖者が必要とするものを供給すること、
他者が利を得るのを見て喜びを覚えること、
他者が利を得ようとするのを見て、その援助に尽力すること、
施しを幸せとする人を見て喜びを覚えること、
飢えた人々を見てあわれみを感じることである。
これらの十の行為により、ひとは裕福な一生を得る。

また、誤った認識を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。
それは、賢く知恵ある修行者やバラモンに相談したり尋ねたりしようとせぬこと、
間違った教義を公然と説くこと、
正しい教えを受け入れ、守り、深めようとせぬこと、
不確実な教義を、あたかも確実なように見せかけ、賞賛すること、
ほとんど、あるいはまったく仏法について話さぬこと、
誤った認識に慣れ親しむこと、
正しい認識から遠ざかること、
誤った見解を称賛すること、
正しい見解を捨てること、
おろかな悪人を見て貶しさげすむ事である。
これらの十の行為により、ひとは誤った認識を得る。

また、正しい認識を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。
それは賢く知恵ある修行者やバラモンに相談したり尋ねたりしようとすること、
正しい教義を解き広めること、
正しい教えを聞き、守ること、
確実な教義が説かれるのをみて、それを『よい』といい賞賛すること。
正しい教えを喜びをもって説くこと、
正しい認識の持ち主と親しくすること、
正しい教えを受け入れ。守ること、
正しい教えを熱心に修め、学ぶこと、
誤った見解から遠ざかること、
愚かな悪人を見てもさげすまぬ事である。
これらの十の行為で人は正しい認識を得る。

また、生き物を地獄に落とす可能性のある十の行為がある。
身体によってなされる重大な悪行、口によってなされる重大な悪行、精神によってなされる重大な悪行。
霊魂消滅論を創出すること。
霊魂不滅論を創出すること。
因果律否定論を創出すること。
行為の結果を否定する論を創出すること、
虚無主義の見解を創出すること、
過激主義の見解を創出すること、
善行の恩恵を無視すること。
これらの十の行為により、地獄に堕ちる。

以下省略。』

このように、仏典には因果の道理、行為の果報を詳細に説くお経が存在する。

『大正新修大蔵経 第一巻 阿含部上 大蔵出版 891ページ』

『大正新修大蔵経 第一巻 阿含部上 大蔵出版 892ページ』

『大正新修大蔵経 第一巻 阿含部上 大蔵出版 893ページ』

参考文献

『ブッダのおしえ 初期経典をたどって アンドレ バロー著 富樫瓔子訳 大東出版』

『大正新修大蔵経 第一巻 阿含部上 大蔵出版』

真言宗の開祖、弘法大師空海様が説く瞋恚、怒りについてのご法話

真言宗の開祖、弘法大師空海様(774年~835年)は自身の晩年の著作、『秘密曼荼羅十住心論』において瞋恚、怒りについての因果応報について次のようにお説きになられている。

「また、貪欲は意に適わざるによるが故に、すなわち憤怒して瞋恚を起こす事あり。

今身にもし瞋恚(しんい)多き者は死してすなわちまさに泥犁地獄(ないりじごく)に堕し、歴劫(りゃくこう)の中において、つぶさに衆苦を受くべし。

受苦すでにおわって畜生の中に堕し、毒蛇蚖蝮虎豹豺狼となる。

(蛇=ヘビ、蚖=イモリ、蝮=マムシ、虎=トラ、豹=ヒョウ、豺=サイ、ヤマイヌ、狼=オオカミ)

この中にありて、無量に生死す。

本因縁をもって、もし微善(みぜん)に遭うて、たまたま人身(人間)に復すれば、また、瞋恚多く、面貌醜悪にして人に憎悪せらる。

ただ親友とともならざるのみにあらず、実にはまた眼に見んことをも喜ばざるなり。

まさに知るべし、憤恚は瞋悩(しんのう)によって生ずることを。

故に、『地持論』にいわく、瞋恚の罪もまた衆生をして三悪道に堕せしむ。

もし人中に生ずれば二種の果報を得。

一には常に一切のためにその長短を求められ、二には常に衆人のために悩害せらる。と。

何が故にか瞋悩は地獄に堕するや。

この瞋悩は恚害(いがい)して苦悩するによるが故に、地獄の苦を受く。

何が故にか瞋悩は出でて畜生となるや。

この瞋悩は仁恕(じんじょ)すること能わざるによりて、ゆえに獄を出でて畜生の身を受く。

(仁恕=情け深く、思いやりがあること、相手を憐れんで、罪を許すこと)

何が故か瞋悩はまた餓鬼となるや。

この瞋悩は慳心(けんしん)より起こるによりて、慳心の罪の故にまた餓鬼となる。

(慳心=ケチな心)

何が故にか瞋悩は常に一切のために、その長短を求められるや。

この瞋悩は含容すること能わざるによるが故に、一切のためにその長短を求められる。

何が故にか瞋悩は常に衆人のために悩害せらるるや。この瞋悩は人を悩害するによって、人もまた悩害す。

まさに知るべし。瞋悩は九の大苦なることを。」

さらに弘法大師空海様は瞋りについて次のようにお説きになられている。

「身を割くとも忍ぶべし。
いかに況や罵声の句をや
畏るべし一瞋の報い
長時に懼れを免れざることを」

また、弘法大師空海様の著作、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」の中で弘法大師空海様は次のようにお説きになられている。

「三途の苦は劫を経ても免れがたし。

如来の慈父この極苦を見てその因果を説きたもう。

悪の因果を説いてその極苦を抜き、善の因果を示してその極果を授く。」

真言宗開祖、弘法大師空海様の御影

(774年~835年)

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仏教の植物観と科学者の植物観、及び神道の植物観について

初期仏教、ジャイナ教の教えに草木に魂、精神の存在を認め、草木を切ったり、刈ったり、燃やしたりして草木を傷つけることを禁じていた。

また、釈迦の過去世物語であるジャータカには、樹神(樹の神様)が釈尊の菩薩たりし時の姿として現れてくる例がしばしば見られる。

また、上座部仏教の聖典(現在のスリランカなどの仏教)である南伝大蔵経の中に説かれている戒律には、樹木などの植物を伐採することを禁じている内容が説かれている。

次に、仏教以外の科学者、哲学者、植物学者の方々の植物に対する考えをみてみると、植物は人間と同様に生命を有していると強く主張する書籍「植物は知性をもっている  20の感覚で思考する生命システム  ステファノ マンクーゾ著  アレッサンドラ ヴィオラ著  マイケルポーラン著 久保耕司訳 NHK出版」がある。その書籍の中で著者は次のように主張している。

「じつは、植物にも脳や魂がそなわっている考えや、もっと単純な植物さえも外界の刺激に反応する考えは、何千年ものあいだ、数多くの哲学者や科学者によって示されてきた。
プラトン、デモクリトス、フェヒナー、ダーウィンなど(これはほんの一例だ)、どんな時代にも天才といわれる人々のなかには、植物には知性があるという説を支持する者がいた。

植物には感覚があるという者もいた。

さらには、植物は逆立ちした人間であると考える者もいた。

すなわち、頭を土のなかに突っこみ、逆立ちしたできないことはできないものの、それ以外ならなんでもでき、感覚や知性もある、というわけだ。

実際、多くの偉大な思想家が、植物の知性を論じ、文章に残している。

それでも、いまだに、植物は知性の点で劣った存在だ。あるいは無脊椎動物と同じ段階にさえ進化していないといった考えがはびこっている。

進化の階段において、植物は石や岩などの動かない物体のすぐ上に位置しているにすぎないという信念は、どんな文化にも根強く残っている。

こうした信念は、私たちの心に深く根づいているが、それはあくまで仮定でしかない。」

さらに

「ユダヤ教では、理由もなく木を切る事が禁止され「樹木の新年」すなわち、春の到来を祝い、樹木に感謝を捧げるユダヤ教の祭日が祝われている。

また、ネイティブアメリカンや世界各地の様々な先住民のように植物を神聖なものとみなしている人々もいる。

さらにまた、植物の世界は、ただ、表面的に観察しただけでは、複雑さのかけらもない。まったく単純な世界にみえるかもしれない。

いっぽうで、こうも考えられる。実は植物は感覚を備えた生物で、コミュニケーション能力があり、社会的な生活を送っており、優れた戦略を用いて難題を解決することが出来る。と。

一言でいえば、植物は知性を持っているということだ。そうした考えは、何世紀もの間、さまざまな時代や文化のなかで、ときどきちらりと顔を出してきた。

植物は、一般的に考えられているよりも、ずっと優れた能力をもっていると確信していた哲学者や科学者もいる。

有名な名前をあげると、プラトン、デモクリトス、リンネ、ダーウィン、フェヒナー(グスタス・テオドール・フェヒナー。19世紀のドイツの物理学者、哲学者)、ポーズ(ジャガディッシュ・チャンドラ・ポーズ。19世紀~20世紀のインドの植物生理学者、科学者)などである。

20世紀半ばまで、植物の知性というテーマに取り組んできたのは、天才ともいうべき直感をもった者だけだった。」

特に「種の起源」を著したチャールズ・ダーウィンは自身の著作「植物の運動力」という大著を著し、植物は生物であり、生き物であるとしか思えないような、様々な実験結果を紹介し、植物は生き物であると結論づけている。

植物が知性があることを否定する根拠は、科学的なデータなどではなく、実は、数千年前から人類の文化に巣食っている先入観や思い込みにすぎないことを明らかにする。

この状況は現代でも変わっていない。しかし、いまこそ私たちの考え方を思い切って変えるチャンスだ。植物は予測し、選択し、学習し、記憶する能力をもった生物だということが、この数十年に蓄積された実験結果のおかげで、ようやく認められ始めている。

たとえば、スイスは、数年前に冷静な議論を重ねた結果、植物の権利を認める世界初の国になった。(2008年にスイス連邦倫理委員会は、植物に一定の尊厳を認める指針を出した。)

スイスの生命倫理委員会は倫理学者、分子生物学者、ナチュラリスト、生態学者を含め、満場一致して合意した。

「植物を好き勝手に扱ってはならないとし、植物を無差別に殺すことは倫理的に正当化出来ない。」と。」

さらに、日本の植物学者でもあり博引傍証の天才と謳われている南方熊楠先生は著書「南方熊楠コレクション 森の思想 中沢 新一 編 河出出版」の中で、次のように語られている。

「この椋(むくのき)も三年ばかり前に伐らんと言いしを、小生(南方熊楠)ら抗議して止(とど)む。

さて、伐らんと言いしものは今春即死、また、件(くだん)の糸田の神森を伐り、酒にして飲んでしまいし神主も、大いに悔いおりしが、数月前、へんな病にて死す。

祟りなどということ小生(南方熊楠)は信ぜぬが、昨今、英独(イギリス、ドイツ)の不思議研究者ら、もっぱらその存在をいい、小生(南方熊楠)も神社合祀励行、森林乱伐に伴い、至る処にその事実あるを認む。

思うに不正姦邪の輩、不識不知(しらずしらず)の間にその悪行を悔い、悔念重畳して自心悩乱すること存じ候。

かかることを、当国官公史また神職らは迷信と言いて笑うことおびただし。

しかるにいずれの国にも犯神罪あり。

キリスト教国にもこれを犯して神罰で死すること多きは小生(南方熊楠)つねに見たり。」

さらに

「明治の国家は、神道をもって、国民のアイデンティティを形成するための、精神的装置にしようともくろみをもっていた。

日本文化と神道は一体であり、キリスト教や仏教のように、外からやって来た宗教や、天理教や金光教のような新しい民衆宗教とは、一線を画する必要があった。

そのためには、神道は宗教ではない。

国体と一体となった。

国体の表現そのものにほかならないのだから、これを諸宗教と同列に扱うことができない、という発言がしばしば行われた。

熊楠はその発言をとらえて、批判を加えているのである。

神道は宗教ではない、という主張の根拠として、そこには壮麗な建築物や、人目を引く宗教的シンボルにとぼしい、という点があげられることが多かった。

宗教はことごとしいやり方で、人々の心を、超越的な世界に向けようとしている。ところが、わが神道は、そのようなことごとしさがなく、自然な民族的心情をすなおに表現しようとしている。この意味でも、それは国体の自然な表現ではあっても、宗教と同列にあつかうことはできない、というわけである。

これについて熊楠はこう反論する。

宗教の本質にとっては、壮麗なやイコンやシンボルなどは、必ずしも必要なものではない。

歴史を見てみろ。

バビロニアだって、エジプトだって、マヤやインカだって、偉大なる建造物は残ったが、かつてそこにあったはずの神聖なるものは、もはやどこかへ消え去って、宗教の伝統は、すっかりとだえてしまっているではないか。

大事なのは、人々の精神に大いなるものに対する畏敬が、とだえることなく、連続してあるということだ。

その点で言えば、神道は立派な宗教ではないか。

神を祀って神社といい、それを崇敬しているのだから、たとえそれが壮大華麗な建造物などをもたなくとも、これが宗教であることがあきらかなのだ。

それを宗教ではない、などと言いくるめるのは、神道にたいして失礼ではないか。

それに立派な建物はなくとも、神道には森があるではないか。

そこには驚くほどの老大樹がそびえたち、稀観の異植物が鬱蒼(うっそう)たる森をつくりだしている。

日本人は、この森の中にたたずむだけで、深い神秘の宗教感情にみたされてきたのだ。

荘厳な神のイコンでもなく、聖人の遺物でもなく、神秘の仏像でもなく、ただ森林の奥深さに日本人は存在の神秘をおぼえ、神々にたいする畏敬の念を育ててきたのである。

これは宗教の諸形態の中でも、粗末なものであるどころか、きわめて高級なものと言っていい。

つまり、神道は真言密教などと同じく、秘密儀の宗教、素朴な神秘主義の宗教なのだ。

そのため、神道は幽玄なやり方で、人々に感化をおよぼしてきた。

それは、文字を立てず、表像を立てず、森林のもたらす神秘の感情をもとにして、人々に神のありかを語ってきたのである。

それはイデオロギーなどとは、もともと無縁のものとして、すばらしいのである。」

 

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「佛説目連鬼問経」参照

書籍「国訳一切経 経集部十四 大東出版社」参照

怒り、憎み、恨みの心の弊害についての法話

怒りについて以下のような言葉、ことわざがある。

例えば、

「怒りは敵と思え」

「一朝の怒りは其の身を忘る」

「一朝の怒りに一生を過(あやま)つ」

「善く戦う者は怒らず、善く勝つ者は争わず」

「堪忍は一生の宝」

「堪忍五両、思案百両」

「ならぬ堪忍、するが堪忍」

「短気は損気」

「人を呪わば穴二つ」

怒りは自分に盛る毒(ネイティブアメリカン ホピ族のことわざ)

賢者は怒ると賢明でなくなる」(『タルムード』(ユダヤ教の聖典)の言葉)

妬みと怒りは生命を縮める(『旧約聖書の言葉

などなど。

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次に、仏典『ウダーナ ヴァルガ』において、仏陀(ブッダ)は怒り、憎しみについて次のように説かれている。

「怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。

いかなる束縛をも超越せよ。

名称と形態とに執着せず、無一物となった者は苦悩に追われることがない。

怒りが起こったならば、それを捨て去れ。

情欲が起こったならば、それを防げ。

思慮ある人は無明を捨て去れ。

真理を体得することから幸せが起こる。

怒りを滅ぼして安らかに臥す。

怒りを滅ぼして悩まない。

毒の根であり、甘味を害なうものである怒りを滅ぼす事を聖者らは賞賛する。

修行僧らよ、それを滅ばしたならば、悩むことがない。

怒りたけった人は、善いことでも悪いことだと言い立てるが、のちに怒りがおさまったときには、火に触れたように苦しむ。

かれは、恥じることもなく、誓戒を守ることもなく、怒りたける。

怒りに襲われた者には、たよりとすべきいかなる帰趣(よるべ)もこの世に存在しない。

あるひとにとって力は力であっても、怒ったならば、その力は力でなくなる。

怒って徳行の無い人には道の実践ということがない。

この人が力のある人であっても、無力な人を耐え忍ぶならば、それを最上の忍耐という。

弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。

他の人々の主である人が弱い人々を忍んでやるならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。

弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。

力のある人が、他人から謗られても忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。

弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。

他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、自分をも他人をも大きな危険から守ることになる。

他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行っているのである。

自分と他人と両者のために行っている人を「弱い奴(やつ)だ。」と愚人は考える。ことわりを省察することもなく。

愚者は荒々しいことばを語りながら、「自分は勝っているのだ。」と考える。

しかし、謗(そし)りを忍ぶ人にこそ、常に勝利があるのだと言えよう。

人は恐怖のゆえに、優れた人の言葉を許す。人は争いをしたくないから、同輩の言葉を許す。しかし自分より劣った者の言葉を許す人がおれば、それを、聖者らは、この世における最上の忍耐と呼ぶ。」

また、憎しみについて、次のように説かれている。

「実にこの世においては、およそ怨(うら)みに報いるに怨(うら)みを以てせば、ついに怨(うら)みの止むことがない。

耐え忍ぶことによって怨(うら)みは止む。

これは永遠の真理である。

怨(うら)みは怨(うら)みによってはけっして静まらないであろう。

怨(うら)みの状態は、怨(うら)みの無いことによって静まるであろう。

怨(うら)みにつれて次々と現れることは、ためにならぬということが認められる。

それ故にことわりを知る人は怨(うら)みを作らない。」

   ブッダ釈尊(紀元前5世紀頃)

  ブッダ釈尊の法話を聞く聴衆

ところで、この「怨(うら)みは怨(うら)みによってはけっして静まらないであろう。

怨(うら)みの状態は、怨(うら)みの無いことによって静まるであろう。」

というブッダ釈尊のお言葉について次のような興味深い話がある。

第二次世界大戦後の1951年9月、サンフランシスコ講和会議の際、敗戦国の日本に対し、日本分割統治案、つまり、戦勝国アメリカ、イギリス、中国、ソ連(現在のロシア)が日本を分割統治するという話が出ていた。

具体的には、北海道はソ連(現在のロシア)、本州はアメリカ、四国は中国、九州はイギリスが統治するという案である。

その日本分割統治案に真っ向から反対したのが時のスリランカ代表(昔のセイロン国)ジャヤワルダナ氏(後のスリランカ大統領)であり、ジャヤワルダナ氏はこのブッダ釈尊のお言葉

「怨(うら)みは怨(うら)みによってはけっして静まらないであろう。

怨(うら)みの状態は、怨(うら)みの無いことによって静まるであろう。」

という言葉を引用し、世界51ヶ国の首脳たちを前にし、戦勝国による日本分割統治案に強く反対、日本を独立国として認めるよう長時間にわたる名演説をされた。

そのスリランカ(昔のセイロン国)代表、ジャヤワルダナ氏の演説後、世界51ヶ国の大多数の各国首脳たちはその名演説に強く心を打たれ、その演説に感動した聴衆の拍手は場内の窓ガラスが割れんばかりの大拍手であったという。

その演説により日本の分割統治案は廃案となり日本の独立は認められたとも言われている。

つまり、時の敗戦国であった日本はスリランカ(昔のセイロン国)のジャヤワルダナ氏(後のスリランカ大統領)とお釈迦様に救われたとも言うべきか。

このダンマパダのこの教えは今日に至るまで、南アジアの人々に暖かい気持ちを起こさせている。

書籍『敗戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人 スリランカのジャヤワルダナ大統領 野口芳宣著 銀の鈴社』参照

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さて、次に、古代ギリシアの哲学者セネカは怒りの感情について仔細に分析した著書『怒りについてを著している

その著書怒りについての中でセネカは次のように説かれている。

私自身、特にこの著書で共感した文章をここで紹介する。

「或る賢者たちは、怒りを短期の気狂いだと言っている。

怒ることそれ自体が、どんなに多くの人々に害を与えるか、ということである。或る者は、余りに激しく怒ったために血管を破ったし、限度以上に張り上げた叫び声が出血を起こしたし、目の中に激しく湧き出た涙によって目の鋭さが曇らされたし、病人が病気をぶり返したりした。

これ以上に気狂いになる道はない。

それゆえ、怒りの狂暴を続けて、しまいには、自分から追い出しておいた知性を再び取り戻せなかった者も多い。

酒は怒りを燃え上がらせるが、それは酒が熱を高めるからである。

口論が長時間にわたり、しかもケンカになる恐れがある場合には、口論が激しさを加えない最初のうちに必ず停止する方がよい。

論争というものは自ずから勢いを増していくものであって、熱中すればするほど当人を押さえて離さない。

自分を争いから引き出すよりも、そこから自分を遠ざけておく方が容易である。

体の疲れにも用心せねばならない。

疲れは、われわれのうちにあるどんな穏やかさ静かさを無くし、荒々しさを引き起こすからである。

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次に、臨済宗の中興の祖とも言われ、江戸時代に活躍された白隠慧鶴(はくいんえかく)様は自身の著作「草取唄」の中で

『兎角(とかく)怒るな、短氣を出すな、死せば来世は蛇となるぞ、』

と説かれている。

白隠慧鶴禅師(西暦1686年~1769年)

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また、江戸時代の高僧、慈雲尊者の著書『十善法語』という書籍の中において、慈雲尊者は次にようにお説きになられている。

「華厳経(けごんぎょう)の中に、瞋恚(しんに)の罪、また衆生をして三悪道に堕せしむ。

たまたま人中に生ずれば、二種の果報を得。一つには短命、二つには常に悩害せらる。恒に人に短をもとめられるとある。」

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慈雲尊者(西暦1718年~1804年)

さらにまた、慈雲尊者の著書『人となる道』(書籍「日本古典文学大系〈第83〉仮名法語集 岩波書店」)の中で

華厳経等に、一念瞋恚の火、無量劫の功徳法財を焼亡ぼすと説けり。」と説かれている。

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さらに、真言宗の開祖、弘法大師空海様は自身の晩年の著作、

秘密曼荼羅十住心論 第一巻の中において瞋恚、怒りについて次のようにお説きになられている、

「身を割くとも忍ぶべし。
いかに況や罵声の句をや
畏(おそ)るべし一瞋の報い
長時に懼(おそ)れを免(まぬが)れざることを」と。

真言宗開祖 弘法大師空海(西暦774年~835年)

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次に阿含宗開祖の桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作『説法六十心 桐山靖雄著 平河出版社の中で瞋恚、怒りについて次のようにお説きになられている。

多少引用が長くなるが以下の通り、

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瞋というのは、瞋恚(しんに)といって、いかることです。

これは人間の煩悩の中で、一番悪い、よくないものです。

また、一番強い力を持っている。

人生を破壊してしまう。

世の中の一切を打ち破る根本悪といってもよいよくない心です。

これほど恐ろしい心はありません。

この瞋恚の心がどうして起こるかというと、一番はじめは、ものごとが自分の思ったようにいかないことを不愉快に思うところから起こります。

あるいは、自分とちがうものにたいして不快を感ずるというところから起きる。

これは、なんといっても、わたくしたちのわがままです。

手前勝手というよりほかない。

最初、自分のいままでやっていることと少しちがうものが出てくると、なんだかおもしろくない。

すべて自分の思っているようにいかないと腹が立つ。

はじめはちょっとしたことでもだんだんそれが大きくなっていく。

それが嵩(こう)じると、いわゆる瞋恚というものになって、自分とちがったもの、自分の自分の気にくわないものすべて仇敵(きゅうてき)とするということになる。これが恐ろしい。

貪欲(という煩悩)はまだ、利益という点で仲間を集めるという協力の気持ちがあるが、瞋恚の心が起きると、世の中すべて敵、三千世界をすべて敵にしてしまう。

そうなると人間が孤立してしまう。

親でも子でも、妻でも友人でも自分が本当に腹を立てたときには、みんな仇敵です。

向こうが味方をしようと思っても、こちらが腹を立てていると、よせつけない。

心の中で敵にしてしまっている。

世界中全部、敵。

これはじつに浅ましく、恐ろしいことです。

人間はみんないっしょに力を合わせて生きてゆかなければならない。

その本性をまるで失って、一切を仇敵とする。

その心は地獄ですね。

他の迷い(煩悩)の中には、まだいくらかとりえがある。

たとえば、貪欲(という煩悩)というものは悪いが、しかし、貪るためには一時的でも人と仲よくなることがある。

協力するという心がある。

こういうことをやりたいが仲間に入らないか、もうかりますよ。というように他の人を仲間に入れる。

ところが瞋は周囲をみんな敵にしてしまう。

瞋りは破壊性を有する。

だから一番悪い。

すべてのものを敵にするこの破壊性というものは、だんだん大きくなっていく。

戦争もそうです。

貪りだけだったら経済戦ですむが、貪りがうまくゆかないでいかりが加わったら、戦争になって殺し合いがはじまり、破壊がはじまる。

そのもとはわがまま、手前勝手です。

自分と少しでも考えのちがうものに対して不愉快を感ずる。

あるいは自分の思い通りにならないものをおもしろくなく思う。

相手の立場とか、考えというものを考えてみようとしない。

そういうものを一切無視して腹を立てる。

これは自己中心、手前勝手から起きる心です。

世の中にはたくさんの人がいて、それぞれの立場、それぞれの考えというものがある。

それで成り立っているので、それが自分とおなじ意見ではないからといって腹を立て、そういうことをやられたら自分の利益にならないといっておこっていたら、際限のないことです。

大きな広い心で、理解するということがなくては、この世の中、成り立たない。

自分自身も孤立してしまう。

この頃、勝海舟ブームですが、わたくしがひとつ感心しているのは明治になって、福沢諭吉が、海舟のことを新聞紙上になにか痛烈に非難したことがある。

ある人が、この記事について海舟の意見を聞くと、

「行蔵はわれにあり、毀誉(きよ)は他に存す。なんのかかわりあらんや」

といって笑っていて、さらにいかる風がなかったといいます。

わたくしはこれを読んで感銘を受けました。

行蔵はわれにあり、すること、考えることは自分がやるのであり、それを批評するのは赤の他人だから、そこになんのかかわりあいもない、それぞれに自由であるといいきっている。

ところが、わたくしたちは、なんのかかわりあらんやというようにはいかない。

自分の心の中でかかわりをつけてかんかんに怒る。

ここで怒るという字が出てきますが、瞋(しん)もいかり、怒(ぬ)もいかり、どうちがうかというと、瞋は心の中で相手を憎悪(ぞうお)する。

表には出さない。

怒は瞋が表にあらわれて行動になったのをいう。

勝海舟は心の中でかかわりをつけないで瞋をおこさず、怒を発さないが、わたくしたちは心の中でかかわりをつけ、腹を立て、怒となって相手に罵詈讒謗(ばりざんぼう)を浴びせたり、衝突してしまう。

海舟、必ずしも感心することばかりでないが、こういうところはじつに偉い。

さすがにあれだけの大事業をした人物です。

とにかく、おこるということは大人物のすることではない。

われわれは、このいかりを、よくよく注意しなければいけない。

人間関係を害ね徳を損ずること、怒りほどはなはだしいものはない。

そういうと、なまざとりの宗教家がいるんです。

わたしは修養を積んでいるからどんなにおこっても表に出さない。

じっとがまんする、とこういう。

こういうのはやっぱりなまざとりなんですな。

どんなにおこっても、という。

もうおこっちゃっているんですよ。

表に出さないというのは怒で、心の中で瞋を発してしまっている。

普通の人間だって、腹を立てても、そうそうは表に出さない。

ニコニコ笑っていますよ。

少し思慮ある人間だったら、みなそうしている。

特に修行したり修養を積んだひとでなくとも、人間、みなそうしている。

ところが、宗教家や教育家など自慢する人がいる。

わしはどんなにおこっても、腹を立てても、表に出さん、と。

しかし、腹の中ででもおこっちゃったら、これはもう修養を積んだとはいえないんです。

本当に修行を積んだら、瞋らなくなるんです。

瞋らなくならなきゃほんとうではないんです。

「ならぬかんにんするがかんにん」なんて、カンシャク筋をこう立てて、腹の中でウンウンうなりながらこらえている。

高血圧の原因で、衛生にも悪いですよ。

おこってガマンするのはまだ修行が足りない。

瞋りを感じなくならなきゃいかん。

もっとも、ひとつだけ、おこってもいい場合があります。

それは、自分自身にたいしておこることです。

自分の未熟さ、自分の愚かさ、自分の徳の至らなさ、これを自分にたいして憤りを発し、いわゆる発憤するのは大いによろしい。

ところがわたくしたちはそうはいかない。

すべて他のせいにして、他にむけていかりを発する。

これがいけない。

幕末の大学者、佐藤一斉先生は、つねに、

「春風(しゅんぷう)人に接し、秋風己を粛(つつし)む」

といっておられた。

人にはそよ吹く風のように温和に過失をゆるし、自分自身には冷徹な秋風のようにきびしく律するという生活態度です。

こういう心がまえでいると、おこるということが自然になくなる。

おこってガマンするというのでは本当ではない。

自然におこらなくならなければいけない。

これができないのを「痴」という。」

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

(西暦1921~2016)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

(西暦1921~2016)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1983年)

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次に、仏教教団、阿含宗の機関紙、『アゴンマガジン2011年4月号』の36ページに次のような記載が書かれている。

修行の心得

必ず導師の指導のもとに行をすすめてゆく、自分勝手な独行は絶対につつしみ御法の護持にあたる。

いかに御法に精進しても、人をにくみ、ものをにくみつつの行は、御法の力いだだけぬものと知れ。

いかに御法に精進しても、人をうらみ、ものをうらみつつの行は、御法の力いただけぬものと知れ。

いかに御法に精進しても、人をいかり、ものをいかりつつの行は、御法の力いただけぬものと知れ。

いかに御法に精進しても、人をむさぼり、ものをむさぼりつつの行は、御法の力いただけぬものと知れ。

行は日常生活の中から始まります。毎月の例祭にはもちろんのこと、その他の日にも必ず月に一回以上は道場にお詣りして、わが身の因縁浄化の勤行をすること。

阿含宗の会員証には、このような修行の心得が記されています。

人間性を高め、霊性を確立していくためにもこの心得を常に念頭において修行精進いたしましょう。

無財の七施

和語施、親切でなごやかな言葉づかいを施す。

和顔施、にこやかな笑顔を施す。

眼施、やさしい眼(まなざし)を施す。

身施、礼儀正しい行動、身体を使う奉仕活動を施す。

心施、うるわしい思いやりを施す。

房舎施、気持ちの良い待遇を施す。

人に喜びを与え、人につくす布施の行はその心さえあれば必ず出来ます。

昔から無財の七施といって、お金や物がなくても、七つの施しができるといわれています。

まず、無財の七施を実行いたしましょう。

次に、インド哲学、仏教学の世界的権威である中村元(なかむらはじめ)博士は自身の著作『東洋のこころ 中村元著 講談社学術文庫』の中で、愛と憎しみ、怨み、さらに慈悲について次のように説かれている。

いかなる階級に属する人にあっても、愛が純粋であれば尊いものである。

ただ愛はそのまま慈悲ではありません。

愛をインドではカーマといい、愛、恋愛、愛欲の意味です。

だから相手に裏切られた時には、激しい憎しみを生じる時もあります。

ところが慈悲は愛と憎しみを超えています。

そこで、愛憎からの超越ということは、慈悲の重要な特性の一つです。

すでに原始仏教では、ひとは怨(うら)みをすてよ。ということを教えています。

およそこの世において、怨みは怨みによってしずまることはない。

怨みをすててこそしずまる。

これは不変の真理である。

仏典『ダンマパダ』引用。

こういう思想は仏教を通してわが国の神道にも影響を及ぼしました。

『禊教(みそぎきょう)』において

怨まれて怨み返すな怨みなば、またうらまれて怨みはてしなし。」と説かれています。

また、慈悲の立場に立つと、悪人を憎むということがありません。

悪人は悪をしたために罰せられますが、しかしその人に対する慈悲の念には差別がないのです。

例えば、日本の古い歌(修験道の歌)の中において次の言葉が伝えられている。

慈悲の眼に憎しと思ふものあらじ、とがある者をなほもあはれめ。

つまり、真の慈悲心ある者から見ると、憎いと思う者はこの世に誰もいない。

また、罪ある者に対しても哀れに思え。と。

インド哲学、仏教学の世界的権威

中村元(なかむらはじめ)博士

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スリランカ首相官邸においてスリランカ国ジャヤワルダナ大統領より

お釈迦様のご遺骨である真正仏舎利を拝受される阿含宗開祖、

桐山靖雄大僧正猊下(1986年4月7日)

https://www.youtube.com/shorts/xQReT9BNPuI

仏教が説く因果応報についての法話

真言密教の開祖、弘法大師空海様の著作、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」の中で弘法大師空海様は次のようにお説きになられている。

「三途の苦は劫を経ても免れがたし。如来の慈父この極苦を見てその因果を説きたもう。悪の因果を説いてその極苦を抜き、善の因果を示してその極果を授く。」

書籍 「大乗仏教の誕生 さとりと廻向 梶山雄一著 講談社学術文庫」の中にその因果応報について説かれている箇所がある。それをここで紹介したい。

西暦150年~250年頃、インドで活躍した大乗仏教の祖師、ナーガールジュナ、別名、龍樹菩薩様は自身の著作、「宝行王正論」に、悪業とその報いとの対応を説いている箇所がある。それによると、

殺生を行うと次の世に短命の生を受け、暴力を用いる者は苦悩多い者となり、盗みを行うと次の世には貧しく、ものに恵まれず、邪淫を犯すと人の怨恨を買う、妄言は争いを、中傷は友情の破壊を、悪口は不快なことばかり聞くことを、へつらいはいやな言葉を結果として引き起こす。貪る人は自分の願望の破滅をきたし、怒りは恐怖の因である。邪悪な考えをもつ人は誤った見解をもつにいたり、飲酒は理性を狂わせる。施しをしない人には貧困が、邪な生活をすれば欺瞞(ぎまん)に遭(あ)い、高慢な人には次の世に卑しい生まれが、嫉妬深い人には卑弱が結果する。怒ってばかりいると卑しいカーストに生まれ、賢者に質問しない人は愚鈍に生まれる、などなどである。

以上は人間の世界における因果応報であるが、もちろん無道を過ぎれば(つまり度を過ぎれば)、地獄、餓鬼、畜生に生まれる。

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   弘法大師空海様

また、仏教には三報という考え方がある。現報、生報、後報の三つである。
現報とは、人がこの世で善悪の行為を行い、この世で禍福の報いを受けるのをいう。
生報とは、この世で善悪の行為をして、次の世でその果報を受ける場合である。後報とは、この世での善悪業が、二世、三世を経たのちに報いられるものである。

だから、善人がこの世で不運にばかり遭い、悪人がこの世で栄華を極めても、それは過去世の善悪の業の果報がいまあらわれているだけで、いまの善悪の業は次の世、あるいはその次の世であらわれるのであるから、落胆するにはおよばない。
もちろん現報のばあいには、この世の業の報いがただちにこの世であらわれる。

ナーガールジュナの示した業と果報との対応例は、原始仏教経典に出ているのを彼が借用したものであり(パーリ中部経典、漢訳 中阿含 鸚鵡経を参照)、一般にも信じられていた。そこには悪業とその苦果だけが挙げられているが、善業の場合はその逆を考えればよい。たとえば、殺生をつつしめば長寿が、布施を常に行えば富豪に生まれるというようにである。

ナーガールジュナ(龍樹菩薩)

また、書籍「原始仏典Ⅰ 長部経典Ⅰ 中村元(監修) 森祖道(翻訳) 橋本哲夫(翻訳) 浪花宣明(翻訳) 渡辺研二(翻訳) 春秋社」の中に、ある修行者の瞑想体験について次のように説かれている。

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「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、(そのもの自身が)堅固不動のものになると、かれ(修行者)は生き物達の死と再生について知る事(死生通)に心を傾け、心を向けるのです。

そして、かれ(修行者)は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知るのです。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。とかれ(修行者)は知る。」

書籍『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照

さらに、書籍 「ブッダ 神々との対話 サンユッタ 二カーヤⅠ 中村元訳 岩波文庫」 の中で仏陀は次のように説かれている。

「生きとし生ける者どもは(寿命が尽きて)いつかは(必ず)死ぬであろう。

生命はいずれ死に至る。

かれらは死後に自己の作った業(自己の行った行為の内容)に従って各所に赴いてそれぞれ善悪の報いを受けるであろう。

悪い行いをした人々は死後において地獄(大いなる苦しみ悩み痛みに満ちた世界 悪い世界)に生まれ赴き
善い行いをした人々は(死後)善いところ(幸福、平和、快楽、安楽の世界 善い世界)に生まれ赴くであろう。

その為に来世(自分の魂が死後に生まれて変わって行く世界 死んでから自分が再び生まれ変わる世界)の幸福、平和、安楽の為に現世(現在生きているこの世界)で善い事をして功徳を積まなければならない。

人々が作ったその功徳はあの世で人々のよりどころとなる。」

さらに、

「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い  また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等 それこそが、その人自身のものである。

人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。

それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。影が人に従うように。

それ故に善い事をして功徳を積め。功徳は人々のよりどころとなる。」

  ブッダ釈尊の初転法輪像

  ブッダ釈尊の降魔成道図絵

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以上のことから、仏教の根本的な教え、ブッダ、真理に目覚めた等正覚者達の最も重要な教えとは「よいことをせよ。わるいことはするな」という倫理、道徳の実践の教えであると考えられる。

漢訳仏典において
「諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」 という七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)がある。

またパーリ仏典の法句経(ダンマパダ)において

「一切の悪をなすことなく、善を具備実践し、自分の心を浄化すること、これが諸仏(真理に目覚め、ブッダとしての悟りをお開きになられた覚者達)の教えである」

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餓鬼への供養法、施餓鬼会(せがきえ)と盂蘭盆会(うらぼんえ)、また、追善供養(ついぜんくよう)についての法話

 

仏教には施餓鬼会(せがきえ)及び盂蘭盆会(うらぼんえ)という行事があります。
この行事は餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事です。

餓鬼界とは生前もの惜しみ心が強くケチで人に親切でなく布施をしたりせず悪い事をした者が死後に生まれ変わっていく境涯であります。

餓鬼界には食物がほとんどなく空腹で苦しみ仮に食べ物があっても食べ物を食べようとすると火になって燃えてしまったりする。

そういった餓鬼界で苦しんでいる餓鬼達に食べ物を供養したり食事が出来るように餓鬼達を救う為の行事を盂蘭盆会や施餓鬼供養といいます。

仏教経典には餓鬼へのご供養をする為の様々なご真言が書かれている。

その施餓鬼会(せがきえ)に関する仏教のお経に餓鬼事経(がきじきょう)というお経があります。

この重要な年中行事、施餓鬼会(せがきえ)の源流に関係があると考えられるお経がその餓鬼事経に収められている。

この餓鬼事経(がきじきょう)というお経はパーリ五部経典(パーり語五部経典)の中の小部経典に属するお経であります。

餓鬼事経は全部で五十一話あり、その話の主な内容は、餓鬼、死者、幽霊達が生前 つまり生きている間に悪業(わるいこと)を行い、その悪い事をしたことによる悪い報いによって、死後に悪い境涯、餓鬼界(がきかい)に落ちて苦しみ、困っている状況の話が説かれている。

このお経において善因善果、つまり自分の善いおこないは自分に善い結果、善い報いを生む、悪因悪果、つまり自分の悪いおこないは自分に悪い結果、悪い報いを生む、つまり、因縁果報(いんねんかほう)、因果応報(いんがおうほう)についての具体的な話が餓鬼、死者、幽霊達の話を通じて説かれている。

次に、盂蘭盆会(うらぼんえ)に関するお経に盂蘭盆経というお経があります。

その主な内容は「昔、お釈迦様の直弟子であり高弟の目連尊者が修行により悟りを開くと直ちに故郷の母を想い起こし目連尊者自身の天眼通、すなわち、超人的な透視力、霊眼により母の所在を探すと母はもう既に亡くなっており餓鬼界に堕ちて苦しんでいた。

目連尊者は悲しんで自身の神通力により母の傍らに赴き、手づから食物を捧げると母はうれし涙にくれ直ちに食物を口に入れようとするも過去の悪業報の報いにより食物はそのまま火炎となって燃え上がり食べる事が出来なかった。

母は悲泣し目連尊者もどうすることも出来ず赤子のようにただ泣くのみであった。

その後、目連尊者はお釈迦様の所に趣き母の苦しみを救って欲しいと願い出た。
するとお釈迦様は次のように説かれた。

「目連の母は生前の悪業が深いので目連の力だけではどうする事も出来ない。
このうえは十方(多数)の衆僧(修行僧)の威徳に頼る他は無い。
七月十五日は僧懺悔の日、仏歓喜の日であるから、その日に飲食を調えて十方の衆僧を供養するがよい。

そうすればその功徳により母の餓鬼道の苦しみも消えるであろう。」

と説かれたので目連尊者はその教えの通りに行うと母の餓鬼道の苦しみを救う事が出来た」とある。

     「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照

      「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照

 

次に、その餓鬼を供養するご真言に無量威徳自在光明殊勝妙力等がある。

施餓鬼に関する経典に有名な「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼」等の経典に詳しく記載されている。

佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼経というお経の主な内容は、

昔、お釈迦様の直弟子の阿難尊者がある夜、閑静な場所に独り座し仏様の教えの内容を深く観じていると深夜に一人の餓鬼が現れた。

その姿は、髪は蓬(よもぎ)のように乱れ口からは焔(ほのお)を吹き身体はやせこけ咽(のど)は針の如く細く爪は長くとがり顔に苦悶の形相が凄く、阿難尊者に向かってこのように言った。

「あなたは三日後に死んで私のように餓鬼となるであろう。」と。

阿難尊者は内心大いに恐れ「どのようにしたらこのような苦しみから解放されることが出来るのだろうか」と反問したところ餓鬼が次のように答えた。

「この世界に満ちている多数の餓鬼に飲食を施し、多数の仙人、多数の修行者及び三宝(仏、法、僧)に供養をすれば、その功徳に依って私も餓鬼の苦しみから解放され、あなたも寿命を延ばし餓鬼界に堕ちる事はないでしょう」と言って姿を消した。

阿難尊者は仏様にその出来事について相談をし仏様から餓鬼供養のご真言や供養法を教わった。そして、その法を修したところ阿難尊者も天命を全うし餓鬼の苦しみも解脱したとあります。(大正新修大蔵経第21巻(密教部四)464P~465P参照。)

また、仏教の経典に「梵網経(ぼんもうきょう)」というお経があります。

その中に不救存亡戒(ふぐそんぼうかい)という戒律があります。

それによれば仏教信者は慈悲の心を持って全ての生者、死者に対して慈悲の行為を行わなければならない事が説かれ、特に父母兄弟等の家門の親しい先亡精霊に対し、冥界における幸福を助けるための宗教行為に勤めるべきことを勧めています。

仏教には死者に対しての追福追善の報恩行、冥福を祈る宗教行事があります。つまり、追善供養という供養があります。

追善とは亡者のために追って善事を修して福を薦め、その冥福を祈る事です。

人の死後四十九日の間、亡者の霊は中有に迷って果報、転生先が定まらないので遺族、僧侶が善根を追修、回向してその功徳を亡者に捧げ、三途の苦報を免がれさせようとするため追善供養を行います。
ただし極善の者は四十九日間を待たずに直ぐに仏界、天上界に直行し、極悪の者は直ぐに地獄界へ直行するとされています。

追善供養は人の死後、七日ごとに初七日忌、二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌、六七日忌、七七日忌つまり四十九日忌を行います。

また百日目の百カ日忌、一年目に一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などに法要を営みその功徳を亡者に回向します。

さいごに、仏陀はパーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。
そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。
愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。
現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。
そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。
他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。
現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

また、パーリ仏典「ウダーナヴァルガ」において仏陀は、分かち合うことの大切さが説かれている。

「信ずる心あり、恥を知り、誡(いまし)めをたもち、また財を分かち与える。

これらの徳行は、尊い人のほめたたえることがらである。

この道は崇高なものである。

とかれらは説く。

これによって、この人は天の神々におもむく。

もの惜しみする人々は、天の神々の世界におもむかない。

その愚かな人々は、分かち合うことをたたえない(賞賛しない)。

しかし、この信ある人は分かち合うことを喜んでいるので、このようにして来世には幸せとなる。」

「死者たちの物語 餓鬼事経和訳と解説 藤本晃訳著 国書刊行会」
「お盆と彼岸の供養 開甘露門の世界 野口善敬編者 禅文化研究所」

「ブッダ 神々との対話 サンユッタ 二カーヤ 中村元著 岩波文庫」

「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」

「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

仏典が説く怒り、激怒の感情についての話、また、怒り、激怒の感情と日々の食生活との関連性について

仏教経典 漢訳大蔵経の中の阿含経及び南伝大蔵経において仏陀釈尊は次のようにお説きになられている。

「比丘(修行者)たちよ。まさに一法を断つがよい。

一法を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう。

その一法とはなんであろうか。

いわゆる瞋恚(しんに)(怒り)がそれである。

比丘(修行者)たちよ。まさに瞋恚(怒り)を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう」

「瞋恚(怒り)にかりたてられて、人は悪しき処におもむく。

まさにつとめて瞋恚(怒り)を捨つれば、すなわち煩悩滅尽して聖者たらん。」

「雑言と悪語とを語って愚かなる者は勝てリという。

されど誠の勝利は堪忍を知る人のものである。

怒る者に怒り返すは悪しきことと知るがよい。

怒る者に怒り返さぬ者は二つの勝利を得るのである。

他人の怒れるを知って正念に自分(自分の心、精神、感情)を静める人はよく己(自分)に勝つとともに他人に勝つのである。」

パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において仏陀(仏様)はこうお説きになっている。

「愚者(おろかもの)は荒々しい言葉を語りながら「自分が勝っているのだ」と愚者は考える。

しかし、真理を認知する人がそしり(悪口、中傷誹謗,罵詈雑言、罵倒)を耐え忍ぶならば、(耐え忍ぶ)その人にこそ勝利が存在する。

怒った人に対して怒りを返す人はそれによっていっそう悪をなすことになるのである。

怒った人に対して怒りを返さないならば勝ち難き戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのを知って気をつけて静かにしているならばその人は自分と他人の両者の為になることを行っているのである。

理法(真理)に通じていない人々は「その者(怒りを返さない者)は愚者(おろかもの)だ」と考える。

さらに、パーリ仏典「スッタニパータ」において仏陀曰く

「罪がないのに罵(ののし)られ、殴(なぐ)られ、拘禁(こうきん)されるのを耐え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、彼を私はバラモンという。」

さらにまた、パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において仏陀は次のようにお説きになられている.。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。

怒りを断ち切って悲しまない。

その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを聖者達は称賛する。
それを断ち切ったならば、悲しむことがない」

また、漢訳仏典の大正新修大蔵経第二巻阿含部下、雑阿含経第三十二巻において仏陀はつぎのような主旨の法話を説かれている。

「嗔恚(しんに)を離れるを善と成す。

嗔恚及び驕慢(きょうまん)を生じることがないようにせよ。」とある。

つまり、怒り、激怒,うぬぼれ,慢心の心を起こさないようにせよという主旨の内容が説かれている。

パーリ仏典「サンユッタ・二カーヤ」というお経においてブッダは次のようにお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。怒りを断ち切って、悲しまない。その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを聖者達は賞賛(しょうさん)する。それ(怒り)を断ち切ったならば悲しむことがない。」

「人は利を求めて自分を与えてはならない。自分を捨て去ってははならない。
人は善い(優(やさ)しい)言葉を放つべきである。
悪い、粗暴(そぼう)な言葉を放ってはならない。
やさしい言葉を口に出し荒々(あらあら)しい言葉を口に出してはいけない。」

ところで、話が変わって、ことわざに「健全なる肉体には健全なる精神が宿る」ということわざがある。

健全な精神生活を過ごす為には充分な睡眠、健全な食生活、バランスの取れた栄養の摂取等が重要であると思われる。

暴力的、怒り易い、イライラし易い、キレ易いなどの精神状態に至る原因は様々であるがそのひとつの原因は乱れた食生活、アンバランスな栄養状態にその原因があると考えられる。

「食事で治す心の病 心・脳・栄養 新しい医学の潮流 大沢 博著 第三文明社」という書籍がある。

その書籍のなかでコーラが大好きで砂糖入り缶コーヒーを一日十本以上飲むような偏った食生活をしていた若者がいた。

以前から突発的な発作的暴力を起こしたりしていた。

それを心配したその若者の母親が著者(大沢 博)に電話で窮状を訴えたところバナナを食べさせなさいというアドバイスを与えられた。

母親はその若者にバナナを食べさせ、一時間後に母親から電話がありバナナを食べさせたら一応落ち着きを取り戻したという報告があったという。

またその他の事例で低血糖症、インスリン過剰分泌症の若者がひどい頭痛を訴えた.

しかし著者のアドバイスによりバナナの摂取をしたところ頭痛が収まった事が書かれている。

次に、「現世成仏 わが人生・わが宗教 桐山靖雄著 力富書房」という書籍の中において、日々の栄養がいかに精神生活に影響を与えるかが分かるある一つの事例が紹介されている。

「イギリスで、日本の少年鑑別所のような、非行少年を収容して矯正する強制施設での食べ物による実験の記録が紹介されていた。

まず収容された非行少年少女を二つのグループに分け、一つのグループには精白した材料を使った食べ物を与えた、精白すなわち白パン、白砂糖 その他、精白したものを与えた。そして野菜を少量にして肉を多く与えた。

与えられた連中はみんな大喜びであった。

すると、二、三日も経たないうちに喧嘩が起こる、いがみ合いはするなど大騒ぎになった。

収容がつかないほど騒然となってきた。

そういう素因をもった連中ばかりが集まっている施設であるから言う事を聞かなかったり反抗したりするのは、やむを得ないといえばいえるが、その度合いが日増しに激しくなっていった。

ところがもう一方のグループには、黒パン、黒砂糖、その他精白しないもの、あるいはヨーグルト、野菜、果物などを主とした食べ物を与えていた。

すると、こちらは一週間くらいでみんな行儀よくなって反抗しなくなった。

物事の道理が理解出来るようになった。その為みんな従順になってきた。」とある。

次に、「日本食長寿健康法 川島四郎著 新潮文庫」という書籍がある。

その書籍において著者は栄養学者の立場から「いじめとカルシウム」という章において子供達の校内暴力、いじめの原因のひとつにカルシウム不足をその原因として指摘されている。

「なかでも問題なのはカルシウムの不足で、実はこれこそが子供達の凶暴化の最大の原因なのである。

カルシウムは骨や歯を作るのに欠かせない栄養素であるがそればかりでなく哺乳動物では神経系統に対しても重要な働きをしているのである。

これが十分に補給されている哺乳動物は精神が安定していて気も穏やかであるが欠乏すると精神が不安定になり気性が荒くなる。

つまりカルシウムは精神安定剤の役割ももっているのである。

たとえば妊娠している女性はヒステリーになりやすい傾向があるが、これなどはまさにカルシウム不足のなせるわざなのだ。

胎児の骨の形成の為に母体のカルシウムを奪われてしまうために精神が不安定になるもので、医師はこうした患者には注射や薬剤でカルシウムを投与して治療している。」とある。

日本食長寿健康法 (新潮文庫)

現世成仏―わが人生・わが宗教

仏教が説く利他の教え、利他についてのお経

書籍「仏陀の真実の教えを説く阿含経講義(上)桐山靖雄著 平河出版」の中において阿含経の一切事経というお経が紹介されている。

一切事経の内容は、お釈迦様がお釈迦様の弟子のマカナン(お釈迦様の叔父)から優婆塞(在家信者)の修行法についての質問を受け、お釈迦様がマカナン(お釈迦様の叔父)からの質問に対して説かれたお経であります。

その主たる内容は、

ある時、弟子のマカナンがお釈迦様に対し、在家の仏教信者はどのような修行法をすればよいのかを質問したところ、お釈迦様は

先ず、正信を持つことが必要であると説かれた。つまり正しい信仰心を持つ事。

次に、正しい戒律を守る事。

次に、正しい布施を実践する事。

次に、正しい仏教を聴聞する事、つまり正法を聴聞する事。

次に、その正しい教えを保持する事。つまり正しい教えを聞いても聞いただけで直ぐに忘れたりしてはいけないという事。

次に、その正しい教えを観察、正しい教えについて観念工夫する事。つまり自分自身の頭の中でその教えについて深く考える事。例えば、その教えについてよく吟味(ぎんみ)する事。

次に、正しい教えに従い、正しい教えに向かっていく事である。

要約すると,信、戒、施、聞、持、観、法次、法向の八つの法があると説かれている。

すなわち八法の修行法である。

さらに、お釈迦様は、その八法の修行法、いわゆる自分の為だけにする修行法だけではなく、その八法の修行法を他者にも実践するように教え導きなさいという教えを説かれている。つまり、自分の為だけにする修行ではなく自分と他者の為の修行法の実践を提唱されている。

それが八法十六法である。

いわゆる、八法十六法とは以下の通り、

自分が正しい信仰心を持つだけではなく、他者にも正しい信仰を持つことを教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい戒律を保持する事を教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい教え、正しい法を聴聞する事を教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい教えを保持する事を教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい教えに対し観念工夫する事を教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい教えに従い、正しい教えに向かっていく事を教え導きなさい。と説かれている。

その八法十六法の修行法により、宗教的境涯において在家仏教修行者(優婆塞 優婆夷)が出家修行者(僧侶、沙門)を越えていく事が可能であるという内容が説かれている。

「仏陀の真実の教えを説く阿含経講義(上)桐山靖雄著 平川出版」の著者であり阿含宗の開祖である桐山靖雄大僧正猊下はこの阿含経の一切事経を引用し次のように説かれている。

阿含経というお経は日本仏教の歴史において千年以上の長きにわたり小乗経典であると蔑視され、また出家仏教であると批判され続けてきたが、その一切事経のお経の内容から阿含経は決して利己的な小乗経典、つまり、自分だけの救いを求めるお経ではなく、また出家仏教、つまり、出家しなければ救われないというお経では決してない事をこのお経を引用し、強く主張されている。

一切事経は 大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 雑阿含経巻第三十三 大蔵出版 二百三十六頁下段~二百三十七頁中段、及び 国訳一切経 印度撰述部 阿含部三 大東出版社 雑阿含経 第四十六巻 四百五十頁~四百五十二頁に説かれている。

さらに桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「説法六十心 桐山靖雄著 平川出版」において次のようにお説きになられている。

「上求菩提下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)ということばがあります。

自分より上(上の境涯)のものに向かっては菩提、悟りを求めて一心に修行をする。

自分より下(下の境涯)のものに向かっては親切に指導してあげる。

仏道修行者が必ず実践しなければならない事だと言われています。

またどんなに大知識、大学者であっても自分一人の力だけでそうなったのではなく社会や無数の方々のおかげがあったという事を忘れてはいけない。

そのためにその知識は社会の幸福の為、社会に役立てる為、社会に対してそのお返しをしなければならない。」

特に仏教徒は仏祖への報恩謝徳の為に又一般民衆の幸福の為に正しい仏教、正しい仏法を広めなければならない。

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

仏教のお経、真言をお唱えする事のご利益と意義と重要性

真言宗の開祖、弘法大師空海様の処女作「三教指帰」の中に

「谷響きを惜しまず明星来影す」という一文が説かれている。

具体的に説明すると、若き頃の弘法大師空海様が「虚空蔵菩薩求聞持法」という密教の修行法を修行中、四国の室戸岬の洞窟内で非常に特殊な神秘体験をした事は古来から有名な話です。

その特殊な神秘体験を「谷響きを惜しまず明星来影す」という表現でこの神秘体験を表現されています。

求聞持法を修行中の若き頃の弘法大師海様

求聞持法を修行中の若き頃の弘法大師海様

    虚空蔵菩薩様ご尊影

この「虚空蔵菩薩求聞持法」の正式名称は「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」とお唱えしますが、この修行が成就すると様々なご利益、霊験があると伝えられている。

この修行の主たる内容は、虚空蔵菩薩様のご真言

「のうぼう あきゃしゃぎゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」
というご真言を百日間の間に百万回唱えるという修行法であり、

大正新修大蔵経密教部にも「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」として詳しい修行方法が記載されています。

次に、阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921~2016)が若い頃、人生の苦悩の末、自殺をしようとした事が自身の著作「般若心経瞑想法 桐山靖雄著 平河出版社」に書かれている。

  阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

そこから救われた体験談が「般若心経瞑想法」や「さあやるぞかならず勝つ⑩」という書籍に書かれている。

その書籍によると事業の失敗による莫大な借金と結核の再発に見舞われた事により前途を悲観し自殺を決意し自殺を決行しようとした直前、ふと目にした小経本で自殺を思いとどまり生きる事を決意した経緯が記されている。

その小教本には般若心経や準提観音経そして延命十句観音経等のお経が書かれており準提観音経には

「寂静にして心常に誦すれば一切諸々の大難能く是の人を侵すこと無し」という文言が書かれていた。

桐山管長はこのお経を信じ準提観世音菩薩様のご真言

「のうばさったなん さんみゃくさんぼだくち なんたにゃた おんしゃれい しゅれい じゅんてい そわか」

を何回も何回も毎日唱えていたそうです。

多い時には一日千回ちかくも唱えていたそうです。

そうするとだんだん自身の運気が変わっていき運勢や環境が 良くなっていき自殺する必要がなくなっていったそうです。

密教大辞典(法蔵館刊)という書籍に、この準提陀羅尼(準提観世音菩薩様のご真言を読誦 唱える事)の功能(功徳 ご利益)として次のように書かれている。

「準提陀羅尼経によれば薄福無善根(福徳が薄い)の衆生(生き物)もこの陀羅尼(準提陀羅尼)を誦すれば(唱えれば)菩提分(さとり 等正覚 完全解脱成仏)の根芽(種子 基礎)を生じ決定して菩提(さとり、等正覚、完全解脱成仏)を成就せん(出来る)と云い、

その他、聡明、勝諍論、夫婦敬愛、他人敬愛(他人から愛される)、求児、延命、治病、滅罪、降雨、脱禁鎖等を祈ると験(効験)を得。悪鬼悪賊の難を逃れる事(が出来る)を説く。後略」とある。

真言密教伝持八祖の内の第五祖 インドの高僧であった善無畏三蔵の伝記に次のように説かれている。

真言密教伝持 第五祖 

善無畏三蔵法師

「商人と善無畏三蔵が航海中、船上において商人が盗賊に襲われた際に善無畏三蔵が準提呪の黙誦をすると準提観世音菩薩様が全身のお姿を現され商人を盗賊の難から救った。」とある。

          仏母準提観世音菩薩様ご尊影

準提観世音菩薩様に関するお経は、大正新修大蔵経(密教部 大蔵出版)及び国訳一切経 (印度撰述部 密教部 大東出版社)の中に七倶提佛母所説準提陀羅尼経というお経が説かれている。

準提観世音菩薩様は密教の仏様であり別名準提如来ともお呼び致します。

密教の流派では如来部に属すると主張したりまた別の流派では観音部に属すると主張したりして解釈が分かれています。

さてこの仏様の密教での呼び名つまり密号は最勝金剛ともお呼び致します。
最勝金剛とは最も優れた仏という意味であります。

この仏様は別名を七倶提仏母(しちくていぶつぼ)ともお呼び致します。

七倶提(しちくてい)とは七億または七千万という意味でつまり無量無数を意味し仏母とは仏の母という意味つまり無量無数の仏の母という意味です。

「密教大辞典 法蔵館刊」によると「過去無量の諸仏の母たる清浄陀羅尼を司る尊を七倶提仏母と名ずく」

準提とは梵語のチュンディの音写で意味は清浄という意味でありこのご真言は清浄陀羅尼ともいわれます。

このご真言から過去無量無数の仏様が生まれたと伝えられています。

「龍神が翔ぶ―家運をよくする守護神・守護霊の持ちかた (単行本)桐山 靖雄 (著) 」という書籍でも準提観音様の事が記されています。

次に、延命十句観音経について説明すると、「白隠禅師法語全集 八重葎 延命十句経霊験記」という書籍に次のように説かれている。

「昔、ある男がいた。ところがある日処刑される事になった。 そして処刑前夜その男の夢に僧侶が現れ「延命十句経を千返唱えると命は助かる」と夢で教えられ明け方までこのお経を千編唱えた。

ところが同じ処刑前夜に別のある男の夢に観音様が現れ「この処刑を中止しなさい。そうすれば立派な徳行になるでしょう。

さもなくば大災厄がふりかかるであろう」というお告げを聞いた。

またその他の処刑実行者も同じような夢を見た人がおり処刑を中止した」という話がある。

延命十句経に関する霊験談がこの本では他にも書かれていて興味深い。

延命十句観音経(えんめいじゅっくかんのんきょう)
「観世音(かんぜおん)
南無仏(なむぶつ)
与仏有因(よぶつういん)
与仏有縁(よぶつうえん)
仏法僧縁(ぶっぽうそうえん)
常楽我浄(じょうらくがじょう)
朝念観世音(ちょうねんかんぜおん)
暮念観世音(ぼねんかんぜおん)
念々従心起(ねんねんじゅうしんき)
念々不離心(ねんねんふりしん)」
とお唱えし致します。

さて、ところで、仏教には般若心経というお経が有名であり、世間一般に広く知られており、様々な宗旨宗派においても盛んにお唱えされているが、

阿含宗開祖の桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「般若心経瞑想法 桐山靖雄著 平河出版社」の中で、その般若心経について次のようにお説きになられている。

「玄奘三蔵訳の般若心経は頭で考えて作った経典ではなく霊感によってほとばしり出た経典であり、ぱぁっと霊感によって出てきた文言をそのまま、文字にして放り出したという感じである。

ことに、さいごに突然、出てきている呪(マントラ)などをみると、強くそういう感じがする。

この経典は経典というより、全体がマントラではないかと思うのである。

この経典作者は観音信仰者だったのではなかろうか?

マントラ、ダラニは一心に、ただひたすらに、一心にとなえることによって偉大な力をさずけてくれるのである。

マントラ、ダラニに理くつはない。

人間の子賢(こざか)しい知慧を越えた不思議な力がある。

神秘としかいいようがない奇跡を起こす力がある。

ただ一心に心をこめて祈り、誦すればよいのだ。

あなたもそのようにして偉大な功徳をいただいてほしい。」

と解説されている。

Buddha Shakyamuni respected the practice of ethics and morals

The phenomenon of abandoning old people who are no longer useful in old age has been seen all over the world since ancient times, but Buddha opposed this trend and preached to take care of his parents.

“It’s fun to honor your mother in the world, and it’s fun to honor your father.”

“Whoever feeds his mother or father according to the law, he serves his father and mother, and in this world all sages praise him.

And after his death (for his merits) he will rejoice in heaven. ”

“Mother and father are also called Brahma, and they are said to be teachers.

You are the one to serve your children and the one who loves your descendants.

Therefore, wise men should salute and respect their parents by eating, drinking, clothing, flooring, lacquering, bathing, and washing their feet. ”

“Then, a righteous and good person will feel gratitude, know that he is indebted, will remember his past gratitude, and support his mother and father.

In ancient times he would do his duty to them (parents) as if he were indebted.

A child who protects the teachings, supports them, does not break the family line, has faith, and keeps the precepts should be praised. ”

“If we were fed by our parents, we should feed them.

Do what you ought to do for them.

Keep the family alive.

Inherit property.

You should also make offerings to your ancestors at appropriate times. ”

In the Buddhist scripture “Suttanipata”, the Buddha preaches as follows.

“Those who do not feed their old and decrepit mothers and fathers, and live in abundance, are the gates to ruin.”

Furthermore, in the Buddhist scriptures, the Pali Correspondence Scriptures (Sanyutta Nikaya), the Buddha preaches as follows.

A Brahmin who feeds his father and mother said to the Blessed One (Buddha Shakyamuni):

“Gotama (Buddha Shakyamuni).

I follow the rules and ask for food.

According to the rules, they ask for food and support their parents.

I am doing this, but am I doing my duty? ”

The Blessed One (Buddha Shakyamuni) said:

“Brahmin, indeed you are doing your duty in this way.

He who eats according to the order and feeds his parents according to the order will accrue many merits.

Whoever feeds her mother or father according to her law, by her service to her parents, is in this world. Wise men praise him, and after death he rejoices in heaven. ”

Hearing these words, the Brahmin said:

“It’s wonderful, Master Gotama.

That’s great. Gotama.

Lord Gautama, please accept me as a lay believer.

From now on, as long as I live, I will devote myself to you.”

In addition, in the Dhammapada and Udhanavamaga, the Pali Buddhist scriptures, the Buddha preaches the importance of non-injury and non-violence as follows.

“If you do harm to innocent people without doing anything, you will quickly encounter one of the following ten cases.

1. Severe pain

2. old age

3. bodily injury

4. Severe illness

5. Madness

6. Calamity from the King

7. Horrible tales

8. Death of relatives

9. Property loss

10. A fire burns his house

This fool will be born in hell after death. ”

In addition, in the Sanyutta Nikaya, the Pali Buddhist scriptures, the Buddha teaches about generosity and sharing:

“Those who are stingy in this world, who are stingy, who curse those who beg for stingy things, and who prevent others from giving, they are born in Hell, in the womb of animals, in the world of Enma.

Even if he was born as a human, he would be born in a poor and poor family.

Clothing, food, pleasures and games are hard to come by there.

Fools hope to get it in the afterlife, but they cannot.

In this world you have this reward, and after death you fall into a bad place.”

“If those who have attained human form in this world and are willing to share generously have faith in the teachings of the Buddha’s truth and have a fervent respect for the assembly of practitioners, they will was born in heaven and shines there.

Even if he were to become a human, he would be born into a wealthy family.

Clothing, food, pleasures, and games are readily available there.

Rejoice and enjoy the wealth that others have accumulated as if it were an altar.

In this world there is this reward, and after death you will be born in a good place. ”

Furthermore, the Buddha Shakyamuni preached as follows regarding nursing in the 40th volume of the Ritsuzo Sutra of the Pali Buddhist Scriptures, the Masuichi Agon Sutra.

“O monks, those who want to serve me (Buddha Shakyamuni) should take care of the sick.”

“Even if you (Buddha Shakyamuni) and other Buddhas of the past are to be held, there is no difference between the blessings bestowed on me (Buddha Shakyamuni) and the sickness (people) cared for (blessings).”

In addition, it is said that Buddha Shakyamuni himself was directly engaged in caring for sick people.

Furthermore, in the Sanskrit Sutra of the Ritsubu Sutra, nursing is listed as the number one of the Happukuda.

In other words, we can see how much importance is placed on caring for the sick in Buddhism.

In addition, in the 40th volume of the Buddhist scripture, the Buddha preaches the following about seven types of uke.

One day, the Buddha (Shakyamuni) preached that if one possesses the seven kinds of uke, he can be reborn under Heaven’s Taishaku (a good world or a good place).

What is Nanakinuke

1. Hold a memorial service for your parents.
2. Hold a memorial service for the respect of the family
3 Take gentle and gentle words and attitudes of humility
4 Leaving rough words
5 Leaving both tongues
6 Stop his stingy heart
7 Speak the truth

怒りや憎しみの感情と日々の食生活との関連性についての話

パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において

仏陀はこうお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。

怒りを断ち切って悲しまない。

その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを

滅ぼすことを聖者達は称賛する。

それを断ち切ったならば、悲しむことがない」

また漢訳仏典の大正新修大蔵経第二巻阿含部下、

雑阿含経第三十二巻において仏陀は

つぎのような主旨の法話を説かれている。

「嗔恚(しんに)を離れるを善と成す。

嗔恚及び驕慢(きょうまん)を

生じることがないようにせよ。」とある。

つまり、怒り、激怒,うぬぼれ,慢心の心を

起こさないようにせよ。

という主旨の内容が説かれている。

さらに、パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において

仏陀(仏様)はこうお説きになった。

「愚者(おろかもの)は荒々しい言葉を語りながら

「自分が勝っているのだ」と愚者は考える。

しかし、真理を認知する人がそしり

(悪口、中傷誹謗,罵詈雑言、罵倒)を

耐え忍ぶならば、

(耐え忍ぶ)その人にこそ勝利が存在する。

怒った人に対して怒りを返す人はそれによって

いっそう悪をなすことになるのである。

怒った人に対して怒りを返さないならば

勝ち難き戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのを知って気をつけて

静かにしているならば

その人は自分と他人の両者の為になることを行っているのである。

理法(真理)に通じていない人々は

「その者(怒りを返さない者)は愚者(おろかもの)だ」

と考える。

パーリ仏典「スッタニパータ」において仏陀曰く

「罪がないのに罵(ののし)られ、殴(なぐ)られ、

拘禁(こうきん)されるのを耐え忍び、

忍耐の力あり、心の猛き人、

彼を私はバラモンという。

さらに、漢訳大蔵経の中の阿含経及び

南伝大蔵経において、

仏陀釈尊は次のようにお説きになられている。

「比丘(修行者)たちよ。まさに一法を断つがよい。

一法を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして

聖者たることを得るであろう。

その一法とはなんであろうか。

いわゆる瞋恚(しんに)(怒り)がそれである。

比丘(修行者)たちよ。まさに瞋恚(怒り)を断たば、

汝ら必ず煩悩を滅し尽くして

聖者たることを得るであろう」

「瞋恚(怒り)にかりたてられて、

人は悪しき処におもむく。

まさにつとめて瞋恚(怒り)を捨つれば、

すなわち煩悩滅尽して聖者たらん。」

「雑言と悪語とを語って愚かなる者は勝てリという。

されど誠の勝利は堪忍を知る人のものである。

怒る者に怒り返すは悪しきことと知るがよい。

怒る者に怒り返さぬ者は二つの勝利を得るのである。

他人の怒れるを知って正念に自分(自分の心、精神、感情)

を静める人は、よく己(自分)に勝つとともに

他人に勝つのである。」

ところで、「健全なる肉体には健全なる精神が宿る」

ということわざがある。

健全な精神生活を過ごす為には充分な睡眠、健全な食生活、

バランスの取れた栄養の摂取等が重要であると思われる。

暴力的、怒り易い、イライラし易い、

キレ易いなどの精神状態に至る原因は様々であるが、

そのひとつの原因は乱れた食生活、

アンバランスな栄養状態にその原因があると考えられる。

「食事で治す心の病 心・脳・栄養 新しい医学の潮流

大沢 博著 第三文明社」という書籍がある。

その書籍のなかでコーラが大好きで砂糖入り缶コーヒーを

一日十本以上飲むような偏った食生活をしていた若者がいた。

以前から突発的な発作的暴力を起こしたりしていた。

それを心配したその若者の母親が著者(大沢 博)に

電話で窮状を訴えたところ、

バナナを食べさせなさいというアドバイスを与えられた。

母親はその若者にバナナを食べさせ、

一時間後に母親から電話がありバナナを食べさせたら、

一応落ち着きを取り戻した

という報告があったという。

またその他の事例で低血糖症、

インスリン過剰分泌症の若者がひどい頭痛を訴えた。

しかし著者のアドバイスによりバナナの摂取をしたところ

頭痛が収まった事が書かれている。

次に、イギリスでは、日本の少年鑑別所のような非行少年を収容して、

矯正する強制施設での食べ物による実験の記録が紹介されていた。

まず、収容された非行少年少女を二つのグループに分け、

一つのグループには精白した材料を使った食べ物を与えた。

精白すなわち白パン、白砂糖 その他、精白したものを与えた。

そして野菜を少量にして肉を多く与えた。

与えられた連中はみんな大喜びであった。

すると、二、三日も経たないうちに喧嘩が起こる、

いがみ合いはするなど大騒ぎになった。

収容がつかないほど騒然となってきた。

そういう素因をもった連中ばかりが集まっている施設であるから、

言う事を聞かなかったり反抗したりするのは

やむを得ないといえばいえるが、

その度合いが日増しに激しくなっていった。

ところがもう一方のグループには、黒パン、黒砂糖、

その他精白しないもの、あるいはヨーグルト、

野菜、果物などを主とした食べ物を与えていた。

すると、こちらは一週間くらいでみんな行儀よくなって

反抗しなくなった。

物事の道理が理解出来るようになった。

その為みんな従順になってきた。

次に、「日本食長寿健康法 川島四朗 新潮文庫」

という書籍に次のような記述がある。

「日本とイギリスは同じ島国であるが、

日本本土は火山国であるため、

その土壌の質は酸性でありカルシウムは少ない。

一方イギリス本土は 海底がせり上がった島で

その土壌の質はアルカリ性であり

カルシウムが豊富に含まれている。

そのため日本の水、食物を摂取する場合において意識的に

カルシウムの豊富な食べ物を日常的に

多く摂らなければならないと考えられる。

カルシウムが豊富に含まれている食べ物は

様々であるが、

特に胡麻(ゴマ)、わかめ、ひじきにカルシウム、

ミネラルが豊富に含まれていることが

分かっている。」

また、その書籍において

「カルシウムをたっぷり与えられたオリの中のネズミは従順だが、

カルシウムの欠乏したオリの中のネズミは気が荒く、

凶暴で体重を量ろうとオリに手をいれた時に

ネズミに噛みつかれることもしばしばであった」

という事が書かれている。

このことはネズミだけではなく人間においても

あてはまるのではないだろうか。

カルシウムは人間の精神安定と密接に関係がある事が

現代栄養学において解明されている。

以上のことから健全な精神生活には健全なる食生活が

必要不可欠と考えられる。

https://www.youtube.com/watch?v=kADqlz0-7bc

仏教が説く断人頭経、好戦経、堕胎経(中絶経)など、殺人、殺生、虐殺に関するお経について

仏教経典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九に、屠殺(殺生)に関するお経がある。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前(生きている間)において人間や動物達等の生き物の屠殺(殺す事)、殺生(生き物を殺す事)を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業(罪障)の報いにより非常に長い年月の間地獄(大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒(地獄の鬼達)により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界)に赴き、多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にも、その屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達(カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等)に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

殺人行為を犯した者の死後の業報、報いについて漢訳仏典、雑阿含経第十九巻(大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版 136ページ下段)、国訳一切経 阿含部2 大東出版 雑阿含経第十九巻の断人頭経、南伝大蔵経 十三巻の中の断人頭経というお経において次のように説かれている。

「一時、仏、王舎城に住まり給えり、その時、我(目連尊者)は道中(路中)において、頭が無い一大身の衆生(生き物、霊体)を見た。

その霊体は両肩に眼が生じ、胸に口があり、身体より常に血を流し、諸々の虫がその体をついばみ、獲食し、その生き物の身体は骨髄に徹する程の痛みを受け、苦しんでいるのを見た。」

仏陀釈尊は目連尊者の見聞した事の内容をお聞きになり、この衆生(生き物)について諸々の比丘(修行者)に次のようにお説きになられた。

「この衆生は生前(この世で生きている間)に、この王舎城において好んで人の頭(首)を切断し殺害した。

この罪によるが故に、この衆生は既に百千歳、地獄の中に堕ちて無量の苦しみを受け、その後、更にこのような身体を受け、このようなひどい苦しみを受けるのである。

諸々の比丘よ。目連尊者の所見(見聞)は真実にして異ならず。まさにこれをよく受持すべし。」と。

また、仏教のお経の阿含経に「好戦経」というお経がある。

戦争を好み刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

さらにまた、「堕胎経」というお経もある。

その内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。

「好戦経」 「堕胎経」は「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」という書籍があり、その書籍の中において「好戦経」「堕胎経」を非常に分かり易く説かれている箇所がある。

次に、屠牛者経を例に挙げるとそのお経の概要は釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

またその奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(生きている間)において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

また我(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

阿含宗 🧙大目犍連もお釈迦様も霊障の存在🔥不成仏霊は存在する‼️因果応報はあるんだ💥と説法していたんですね🙏#阿含宗 #スピリチュアル #大靈界#tv#japan #瞑想 #運勢 #佛教 #旅行 # (youtube.com)

阿含宗 🦚お釈迦様が霊障の存在を説法しなかった理由は⁉️如来の説く説法を信じない者は多くの苦しみを受け地獄に落ちるからなんだ…というお釈迦様のお言葉は重要ですね🙏#阿含宗#スピリチュアル#瞑想#運勢 – YouTube

ところで、話は変わるが、日本に放生会(ほうじょうえ)という行事がある。

殺される運命にある生き物を助け逃がしてやる行事だ。

殺生を戒める宗教儀式で仏教の不殺生戒(生き物を殺してはいけないとういう戒律)から神仏習合により神道にも取り入れられた。

例えば殺される運命にある捕えられた鳥を大空に逃がしたり又捕えられた魚や亀などを海や川や池に逃がしてやる行事だ。

とても功徳のある行いだ。

「日本人が知らない本当の道教  三多道長著」という書籍でその事について書かれている。

各神社、各お寺でも実施している所があるそうだ。

京都府の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)や奈良県生駒郡(ならけん いこまぐん)斑鳩(いかるが)町にある吉田(きちでん)寺、大分県宇佐市にある宇佐神宮,福岡県福岡市東区箱崎にある筥崎宮(はこざきぐう)(筥崎宮では「ほうじょうや」とよぶ)全国の八幡宮(八幡神社)でも行われている。

詳しい事は「仏教行事歳時記 9月 放生 監修 瀬戸内寂聴、藤井正雄、宮田登 第一法規出版株式会社」という書籍に書かれている。

書籍「南伝大蔵経 第十三巻  大蔵出版」 参照。

書籍「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下   大蔵出版」参照。

書籍「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」参照。

秘密曼荼羅十住心論 (書き下し文)「空海 日本思想大系 岩波書店」参照。

秘密曼荼羅十住心論 (原文)(弘法大師空海 著)「空海 日本思想大系 

岩波書店」参照。

「国訳一切経 阿含部二 大東出版社」参照。

「国訳一切経 阿含部二 大東出版社」参照。

「国訳一切経 阿含部三 大東出版社」参照。

書籍「タイの地獄寺」参照。

仏教用語、福田(ふくでん)と布施(ふせ)についての話

仏教の教え、おしゃかさまの教えの中に、田んぼや畑(はたけ)に種子(しゅし)を撒(ま)くと実が成り、収穫があるように、仏,僧,父母,貧窮者などに布施をすると,未来に功徳が得られ、その布施する対象、いわゆる、福田という事を教えている。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

ふくでん【福田】 とは仏教用語であり、福徳を生み出す田地の意味である。

また、おしゃかさまは分かち与えることについても次のように説かれている。

「善い人々は僅(わず)かであっても、正しく、わかち与えるならば、多くの人々に勝つ。

ただ物をくれてやることが勝つのではない。

たとい、僅(わず)かなものであっても、信仰心をもって与えるならば、この人は来世において安楽となる。

分かち与えることと戦闘とは相等しいと人々は言う。

これらの美徳は悪人には存在しない。

人々にわかち与える時は、戦闘の時のごとくである。

その原因をまとめて言うならば(いずれも他と)等しいであろう。

執着する心がなくて施しを与える人は、幾百の障害に打ち勝って、敵である物惜しみを圧倒して勇士よりもさらに勇士であると、われは語る。

福徳の果報が熟するのは楽しい。 希望する事が成就する。

そうしてその人は速やかに最高のやすらぎ、覆いの解きほぐされた(解脱)の状態におもむく。

福徳を積んだ人に対しては、悪魔の身をとった神々も、他から害をなすことも、障りをなすこともできないであろう。」

書籍「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波文庫」269ページ~270ページ引用。

「世に母を敬うことは楽し。また父を敬うことは楽し。」

「母あるいは父を法によりて養う人あらば父母に仕えるそのことを以って、この世にてはもろもろの賢者がかれを賞賛す。

また死後(その功徳により)、かれは天界にて楽しむ。」

「母と父とは梵天ともいわれ先師ともいわれる。

子らの供養すべきものにして、また子孫を愛する者なり。

されば実に賢者は飲食と衣服と床と塗身と沐浴と洗足とを以って父母に敬礼し尊敬せよ。」

「されば正しき善人は、恩を感じて恩を知り、昔の恩を思い起こして母と父を扶養す。

昔、恩を受けたるが如くにかれら(父母)に対して義務を果たす。

教えを護り、扶養して、家系を断たず、信仰あり、戒を保つ子は賞賛せらるべきなり。」

「われらは両親に養われたならば、かれらを養うべし。

かれらの為に為すべきことを為すべし。

家系を存続すべし。

財産相続を為すべし。

また祖霊に対して適当なる時々に供物を捧ぐべし。」

パーリ仏典や漢訳仏典 雑阿含経においてブッダ釈尊はこうも説かれている。

1、母と父を養う人、父母を供養する。

2、家においては年長者を敬う人。家の尊重に供養する。

3、やさしい心の通う会話をなす人。柔和で優しい謙遜の言葉、態度をする。

4、そしる言葉を捨てた人。荒々しい言葉を離れる。

5、もの惜しみを除くのに努めている人。ケチな心をやめる。

6、真実なる人(真実の言葉を言う 嘘はつかない)。

7、怒りに打ち勝った人(怒りが起きても怒り心をすぐに取り除く人。

こういう立派な人々は来世(死後)に三十三天に生まれる事が出来る。と。

   書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部三 大東出版社」参照。

つぎに、仏教経典 パーリ相応部経典(サンユッタ・二カーヤ)のお経において父母を養っているバラモンが尊師(仏陀釈尊)に次のように質問をした。

「ゴータマ(仏陀釈尊)さま。

わたくしは、きまりにしたがって食を求めます。

きまりにしたがって托鉢(たくはつ)して食を求めて、両親を養っています。

わたくしは、このようにしていますが、なすべきつとめを果たしているのでしょうか。」

尊師(仏陀釈尊)は次のように言った。

「バラモンよ。たしかに、そなたは、このようにして、なすべきつとめを果たしているのです。

きまりにしたがって食を求め きまりにしたがって食を求めて両親を養っている人は、多くの功徳を生じます。

母または父を、ことわりにしたがって養う人は、両親に対するその奉仕によって、この世では。賢者がかれを称賛し、死後には天にあって楽しむ。」

その言葉を聞きバラモンは次のように言った。

「すばらしいことです。

ゴータマさま。

すばらしいことです。

ゴータマさま。

ゴータマさま、私を在俗(在家)信者として受け入れて下さい。

今日以後、命ある限り貴方様に帰依致します。」と。

また、ブッダは布施する内容は様々な種類があるとして、布施について次のように説かれている。

仏陀は神々から布施について次のように問われた。

「何を与えて力を与えるのか

何を与えて美貌を与えるのか

何を与えて安楽を与えるのか

何を与えて目を与えるのか

何を与えて総てを与えるのか」

という神々からの質問に

ブッダは次のように説かれている。

「食物を与えて力を与え、

衣を与えて美貌を与え、

乗り物を与えて安楽を与え、

燈明を与えて目(視力)を与え、

住居を与えるところの人は総てを与えるなり。

法(仏教)を教える人は不死を与える人なり」と説かれている。


書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版社」参照。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版社」参照。

また、ブッダは功徳と来世について次のように説かれている。
「生きとし生ける者どもは(寿命が尽きて)いつかは(必ず)死ぬであろう。
生命はいずれ死に至る。
かれらは死後に自己の作った業に従って各所に赴いてそれぞれ善悪の報いを受けるであろう。
悪い行いをした人々は死後において地獄に生まれ赴き、
善い行いをした人々は(死後)善いところに生まれ赴くであろう。
その為に来世の幸福、平和、安楽の為に現世で善い事をして功徳を積まなければ
ならない。
人々が作ったその功徳はあの世で人々のよりどころとなる。」

 

仏教経典(雑阿含経)(パーリ仏典サンユッタ 二カーヤ)参照。

仏教やヨーガが説く呼吸による感情のコントロール方法(アンガーマネジメント)について

仏教では怒りなどの煩悩を起こす事は自身の福徳を損じ、地獄に生まれ変る原因として怒りや憤り、憤怒の感情を起こすことは強く戒められている。

この怒りの感情を抑えるために、仏教では数息観などの呼吸法が説かれている。

例えば、数息観という呼吸法を説明すると
呼吸を鼻で行い、ゆっくりと心の中で呼吸を意識して数えて行う修行法がある。

つまり、
ひとーつ、(1)
ふたーつ、(2)
みーっつ、(3)
よーっつ、(4)
いつーつ、(5)
むーっつ、(6)
ななーつ、(7)
やーっつ、(8)

などというように呼吸を鼻から、意識的に、深く、ゆっくりと数えて行う修行法である。

呼吸を、意識的に、深く、ゆっくりと行うことにより心のコントロール、感情のコントロールが容易になり、怒り、激情、憤りの感情が鎮まるという。

これは、ヨーガなどでも同様に様々な呼吸法が説かれている。

また、仏教ではお経を声に出して唱える読経というものがあるが、これも一種の呼吸法とも考えられる。

人間、怒ると、呼吸が荒くなる。

心が静まると呼吸も静かでゆっくりになる。

呼吸と感情は、ある種、密接な関連性があるように思える。

一般的に、成人の呼吸回数は1分間に約17回程度の間隔で呼吸をしているとされているが、精神病患者は1分間の呼吸回数が一般人と比べて比較的に多いと書物で読んだことがある。

それとは逆に、ヨーガの呼吸法の達人は一説には1分間に1回程度の間隔で呼吸をするという話を「思念力百科」という本で読んだことがある。

この「思念力百科」という書籍の中で、随意筋と不随筋について説明があり、心臓などの臓器は自分の意志でコントロール出来ない不随筋、一方、自分の意志でコントロール出来る手足の筋肉は随意筋であるが、呼吸という機能は自分の意志でコントロール出来る機能であるが、また、自分の意志がなくとも自然に呼吸する事が出来る。
いわゆる、不随筋、随意筋の両方の機能を兼ね備えている。

この随意筋と不随筋、両方の機能を兼ね備えた呼吸という機能を意識的に行い、コントロールすることで無意識のコントロールが出来るのではないかと書かれている。

仏教の諸経典、ヨーガの経典、ヨーガ・スートラなどでは、様々な呼吸法が説かれている。

呼吸をコントロールする事は感情をコントロールするのみならず、様々な利益があると思われる。

また、古来から現存するヨーガや仙道などでにおいて、呼吸法は口呼吸ではなく鼻呼吸を推奨している。

鼻呼吸の利点として、鼻から空気を吸うと、空気が体内に適した湿度に加湿され、また、細菌やバクリアなど体内に有害な物質を鼻によりろ過され体内に空気が取り込まれる。

それにより体内にはある程度の有害物質が除去され空気が取り込まれる事が可能になる。

書籍「トップアスリートが実践する人生が変わる最高の呼吸法 パトリック・マキューン著 桜田 直美 訳 かんき出版」のなかで著者のパトリック・マキューンは自書の中で次のように説かれている。

「今から1世紀以上前に書かれたヨガの本「呼吸の科学(The Science of Breath)」のなかで著者のヨギ・ラマチャラカは鼻呼吸と口呼吸について次のように書いている。

「ヨガの呼吸法で最初に学ぶことのひとつは、広く行われている口呼吸をやめて、鼻呼吸の方法を学ぶことだ。」

「文明人がよくかかる病気の多くは口呼吸の習慣が原因になっている。」

と書かれている。

また、著者は、自書の中において「鼻呼吸が脳卒中を防ぐ一酸化窒素を増やす」という章を設け、次のように書かれている。

「鼻呼吸の役割の一部を記載すると鼻呼吸は口呼吸に比べ、呼吸への抵抗が約50%大きくなる。その為、呼吸量が減るので体内に取り込める酸素の量が約20%増える。

鼻呼吸をすると、吸い込む空気が温まり、湿度が上がる。

例えば、外で摂氏約6度だった空気は、鼻孔を通過すると、のどの奥に達するまでに約30度に上昇する。そして最終目的地である肺に達する頃には約37度まで上昇している。

鼻呼吸をすると、吸い込んだ空気から大量の細菌やバクテリアが除去される。

運動時に鼻呼吸すると有酸素運動と同じ効果が得られる。

鼻は一酸化窒素の貯蔵庫であり、健康維持に欠かせない気体である。

1980年代までは一酸化窒素は光化学スモッグなどの公害の原因になると考えられていた。

一酸化窒素の重要性が最初に指摘された時にわかには信じられなかった。

体内にあると著しく害になるガスが体内には重要な役割を果たすなんて本当にあり得るのだろうか。

医学会が一酸化窒素に注目するようになったのは最近のことだが、すでに10万以上の研究が行われていて科学者の関心を集めている。

1992年一酸化窒素は科学誌「サイエンス」でその年の分子オブ・ザ・イヤーに選ばれた。

この奇妙な単純な構造の分子は神経科学、生理学、免疫学を統合する働きがあり、細胞同士のコミュニケーションや細胞の防御能力に関する科学界の常識を覆すことになった。

1998年、ある科学者が一酸化窒素が心血管システムで重要な情報伝達の機能を担っていることを発見しノーベル賞を受賞した。

私自身、一酸化炭素について勉強を始めた頃、その利点の大きさに驚いたのを覚えている。

主な器官や臓器のすべてに影響を与えるだけでなく、がんなどの病気を予防する働きがあり、長寿を促進し、さらには寝室でのパフォーマンスも向上させてくれるのだ。

奇妙なことに、一酸化窒素には人生を変えるほどの力があるというのに、医学会の外では、ほとんどその存在が知られていない。

私は今までに、数百人の高血圧、心臓病、喘息などの症状を持つ人たちと会っているが、一酸化窒素の働きを知っている人は一人もいなかった。

一酸化窒素が作られる場所は、鼻腔と、全身に張り巡らされた全長10万 km にもなる血管の内壁。

科学的な研究によると、一酸化窒素は鼻呼吸によって鼻から気管、肺へと送られていく。

世界的に有名なスウェーデンのカロリンスカ研究所で働く二人の研究者は権威ある医学雑誌「ソラックス」に発表した論文の中で、

「一酸化窒素は人間の鼻の中で放出され、鼻呼吸によって気道から肺に送られる」

と書いている。

体が酸素を取り込む上で、一酸化窒素はとても大切な役割を果たしている。

一酸化窒素には肺の中の気道や血管を拡張する働きがある。

一酸化窒素の利点を生かすには鼻呼吸をすることが不可欠だ。

そして鼻呼吸をするには腹式呼吸にする必要がある。

ここで鼻は一酸化窒素の貯蔵庫だと考えてみよう。

鼻から息をゆっくりすると一酸化窒素という有能な分子が肺と血液に送り込まれそこから全身に行き渡る。

しかし、口呼吸だと鼻の奥にある一酸化窒素を素通りしてしまうため、一酸化窒素が健康に与える利点を生かすことができない。

一酸化窒素はまた血圧の調節、恒常性の維持、神経伝達、免疫機能、呼吸機能でも重要な役割を果たしている。

高血圧を予防するコレステロール値を下げる動脈の老化を防ぎ、柔軟性を保つ。動脈瘤を予防するなどの働きもある。

これら、全て心臓発作と脳卒中の予防につながる。

また一酸化窒素には抗ウイルスの働きがあり、あなたの体を守ってくれる。

そのため病気のリスクが減り全体的な 健康状態が向上すると考えられる。」

 

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部四 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部八 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部八 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部八 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部八 大東出版社」参照。

Why must not steal? Why must not kill?

Why must not steal? Why must not kill?
The moral simple question which especially a child and youth hold vaguely exists.

One of the appropriate replies to the question can be found out from Buddhist literature, Samyutta Nikaya.

The Buddha is the Awakened One , or the Enlightened One.
Buddha is explained as follows.

“The person who did the act which deprived of the thing of the others will encounter the fate of which are deprived in the future or next world after death, those who kill others are killed from others in future or next world after death, and those who blame others incur resentment from others in future or next world after death , and those who speak ill receive speaked ill from others in future or next world after death and those who get angry will took receive anger from others in future or next world after death .
A fool considers it natural that there is no reward of evil, while a reward of evil does not fruit. However, when a reward of evil fruits, a fool considers receives suffering.”

The Buddha preached that violence is wrong in Dhammapada.

Dhammapada is the Buddhism literature , or the Buddhism sutra.

The Buddha preached about violence as follows.

「All tremble at violence;

All fear death.

Seeing others as being like yourself,

Do not kill or cause others to kill.

All tremble at violence;

Life is dear for all.

Seeing others as being like yourself,
Do not kill or cause others to kill.

You who seeking own happiness punish or kill beings who also long for happiness, will not find happiness after death.

You who seeking own happiness does not punish or kill beings who also long for happiness, will find happiness after death.
The Buddha is the Awakened One, or the Enlightened One. Sutta-Nipata is one of the Pali Canon. Pali Canon is Buddhism Literature.

The Buddha preached about mercy (benevolence,compassion) as follows in Sutta-Nipata.

“Whatever living beings there are, either feeble or strong, all either long or great ,middle-sized, short , small or large,Either seen or which are not seen , and which live far (or) near, either born or seeking birth , may all creatures be happy-minded.”

“As a mother at the risk of her life watches over her own child, her only child, so also let every one cultivate a boundless (friendly) mind towards all beings.
And let him cultivate goodwill towards all the world,a boundless (friendly) mind, above and below and across ,unobstructed, without hatred, without enmity.
Standing , walking or sitting or lying, as long as he be awake,let him devote himself to this mind ; this (way of) living they say is the best in this world.”

Buddha preached about sacrifice festival of animals as follows in Sutta Nipata.
「(Above sentence abbreviation ) The cows, that are like goats, do not hurt any one with their feet or with either of their horns, they are tender,and yield vessels (of milk)-seizing them by the horns the king caused them to be slain with a weapon.Then the gods,the forefathers, Inda,the Asuras, and the Rakkhasas cried out:“This is injustice ” because of the weapon falling on the cows.There were formerly three diseases:desire,hunger,and decay,but from the slaying of cattle there came ninety-eight.This injustice of (using) violence that has come down (to us), was old ; innocent (cows) are slain,the sacrificing(priests) have fallen off from the Dhamma. So this old and mean Dhamma is blamed by the wise;where people see such a one,they blame the sacrificing priest.So Dhamma being lost ,the Suddas and the Vessikas disagreed, the Khattiyas disagreed in manifold ways,the wife despised her husband. (A next sentence omits.) 」

Why must not do a wicked act ?

One of the appropriate replies to the question can be found out from Buddhist literature.

Buddha preached as follows in Dhammapada.

“If a man commits a sin,let him not do it again;let him not delight in sin:pain is the outcome of evil.”

“Even an evil-doer sees happiness as long as his evil deed has not ripened;but when his evil deed has ripened, then does the evil doer see evil.”

“Let no man think lightly of evil,saying in his heart,It will not come nigh unto me. Even by the falling of water-drops a water-pot is filled;the fool becomes full of evil,even if he gather it little by little.”

“If a man offend a harmless,pure,and innocent person,the evil falls back upon that fool,like light dust thrown up against the wind.”

“Some people are born again;evil-doers go to hell;righteous people go to heaven;those who are free from all worldly desires attain Nirvana.”

The Buddha is the Awakened One, or the Enlightened One. Dhammapada is one of the Pali Canon, Pali Canon is the Buddhism literature. The Buddha preached as follows in Dhammapada.

“If a man offend a harmless, pure, and innocent person, the evil falls back upon that fool, like light dust thrown up against the wind.”

“He who inflicts pain on innocent and harmless persons will soon come to one of these ten states.
He will have cruel suffering, loss, injury of the body, heavy affliction, or loss of mind, or a misfortune coming from the king, or a fearful accusation, or loss of relations, or destruction of treasures, or lightning-fire will burn his houses, and when his body is destroyed, the fool will go to hell.”

“An evil deed, like newly-drawn milk, does not turn(suddenly), smoldering, like fire covered by ashes, it follows the fool.”

Gautama Buddha is the founder of Buddhism.

He was born in the 6th century BCE as Prince Siddhartha Gautama of the Shakya clan , rulers of a small kingdom in present-day Nepal. As a youth , he confronted the realities of sickness , old age , suffering , and death , he determined to find a way out of the pain that seemed a universal aspect of life. At the age of 29 , he gave up his royal life , left home to become a wandering ascetic, and seeking to find the way in traditional religious disciplines , denying himself everything but the necessities.

However he did not find satisfaction.

After six years, while meditate , he is lost in deep contemplation sitting under a tree one evening , he achieved complete enlightenment, became a Buddha at the age of 35 after all.

He then spent the rest of his life teaching what he had realized ,guiding his followers monastic and lay on the path to spiritual awakening ,until his death at the age oh 80.

The Buddha (Tathagata,Arahat) is the Awakened One,or the Enlightened One.Dhammapada is one of the Pali Canon.Pali Canon is Buddhism Literature.

The Buddha preached about summary of Buddhism as follows in Dhammapada.

“Not to commit any sin,to do good ,and to purify one`s mind ,that is the teaching of (all) the Awakened.”(Dhammapada No.183)

真言密教の開祖、弘法大師空海様が説いた虐殺、屠殺、殺生、殺戮、殺害の果報、業報について

弘法大師空海

仏教やジャイナ教の教えに屠殺、殺生、殺戮、殺害を戒める教え、戒律が存在する。

真言密教の開祖、弘法大師空海様の晩年の著作「秘密曼荼羅十住心論」の中で殺生の果報として次のように説かれている。

「地持論」にいわく、「殺生の罪はよく衆生をして、三悪道に堕せしむ。

もし人中に生ずれば、二種の果報を得。

一には短命。二には多病なり。」

と。かくのごとくの十悪は、一一にみな五種の果報を備う。

一には、殺生は何が故にか地獄の苦を受くるや。

その殺生は衆生を苦しむをもっての故に、故に身壊し命終すれば、地獄の衆苦、みな来たりて己れを切(せ)む。

二には、殺生は何が故にか出でて畜生となるや。

殺生は慈惻あることなくて、行い人倫に背くをもっての故に、地獄の罪おわりて畜生の身を受く。

三には、殺生は何が故にかまた餓鬼となるや。

その殺生は必ず慳心によりて、滋味を貪著するをもってまた餓鬼となる。

四には、殺生は何が故にか人に生じて短寿を得るや。

その殺生は物の命を残害するをもっての故に短命を得。

五には、殺生は何が故にか兼ねて多病を得るや。

殺生は遺適して衆患競い集まるをもっての故に多病を得るなり。

まさに知るべし、殺生はこれ大苦なり。

また、「雑宝蔵経」にいわく、

「時に一人の鬼ありて、目連に申して曰く、われ常に両肩に目あり、胸に口鼻ありて、常に頭あることなし、何の因縁の故ぞと。

目連答えて曰く、汝、前世の時、恒に、魁膾(かいかい)(屠殺者の主)の弟子となりき。

もし、人を殺す時には、汝常に歓喜の心ありて、縄をもって髻に著けてこれを挽く。

この因縁をもっての故に、かくのごとく罪を受くと。

これはこれ悪行の華報なり。

地獄の苦果はまさに後世にあるなり。

また、一人の鬼ありて、目連に申していわく。我が身は常に塊の如くの肉にして、手、脚、眼、耳、鼻あることなし。

常に蟲鳥の為に食せられて、罪苦耐え難し。

何の因縁の故ぞと、答えていわく、汝、前世の時に、常に他に薬を与えて他の児胎を堕とす。この故にかくのごとくの罪を受くと。

これは華報なり、地獄の華報はまさに後身にあり。といえり。

秘密曼荼羅十住心論 書き下し文

書籍「日本思想大系  空海 川崎庸之 (校注者)岩波書店」参照。

秘密曼荼羅十住心論 原文(弘法大師空海 著)

書籍「日本思想大系 空海   川崎庸之 (校注者) 岩波書店」参照。

さらに、因果の道理を知る事の重要性について弘法大師空海様は自身が著された「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)の中において次のように説かれている。

「三途の苦は劫を経ても免れがたし。如来の慈父この極苦を見てその因果を説きたもう。

悪の因果を説いてその極苦を抜き、善の因果を示してその極果を授く。

その教えを修するものに略して二種あり。

一には出家、二には在家なり。

出家とは頭を剃り衣を染むる比丘・比丘尼等これなり。

在家とは冠を頂き縷(えい)を絡(まと)える優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)これなり。

上、天子に達し、下、凡庶に及ぶまで、五戒、十善戒を持(たも)って仏法に帰依するものみなこれなり。

菩薩といっぱ、かくのごとくの在家の人、十善戒を持(たも)って六度の行を修するものこれなり。

出家して大心を発するものもまたこれなり。

悪を断ずるが故に苦を離れ、善を修するが故に楽を得。

下、人天より上、仏果に至るまでみなこれ断悪修善の感得するところなり。

この両趣を示さんがために、大聖教を設けたもう。

仏教すでに存せり。

弘行人に在り。

この故に法を知るものは出家し燈(ともしび)を伝え、道を仰ぐものは道に入って形を改む。(この文章の中での燈とは仏の教法を意味する)

・・・・・・後略・・・・・」

ちなみに真言密教における十善戒とは

不殺生戒

不偸盗戒

不邪淫戒

不偸盗戒

不両舌戒

不悪口戒

無義語戒

不貪欲戒

不瞋恚戒

不邪見戒

を意味する。

 

書籍「弘法大師著作全集 第一巻 弘法大師(著) 勝又俊教(編)山喜房仏書林」参照。

    若き頃、修行中の弘法大師空海

   大日如来

仏教が説いた、ケチと分かち合いについての話、盂蘭盆経、餓鬼事経、施餓鬼供養などについての話

パーリ仏典サンユッタ・二カーヤ(南伝大蔵経)において仏陀は次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版社」参照。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版社」参照。

また、パーリ仏典「ウダーナヴァルガ」において分かち合うことの大切さが説かれている。

「信ずる心あり、恥を知り、誡(いまし)めをたもち、また財を分かち与える。これらの徳行は、尊い人のほめたたえることがらである。

この道は崇高なものである。とかれらは説く。

これによって、この人は天の神々におもむく。

もの惜しみする人々は、天の神々の世界におもむかない。

その愚かな人々は、分かち合うことをたたえない(賞賛しない)。

しかし、この信ある人は分かち合うことを喜んでいるので、このようにして来世には幸せとなる。」

 

次に、盂蘭盆会という行事があります。

この行事は餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事です。

餓鬼界とは生前もの惜しみ心が強く、ケチで、人に親切でなく、布施をしたりせず、悪い事をした者が死後に生まれ変わっていく境涯であります。

餓鬼界には食物がほとんどなく、空腹で苦しみ、仮に食べ物があっても食べ物を食べようとすると火になって燃えてしまったりする。

そういった餓鬼界で苦しんでいる餓鬼達に食べ物を供養したり、食事が出来るように餓鬼達を救う為の行事を盂蘭盆会や施餓鬼供養といいます。

餓鬼へのご供養をする為のご真言が仏教経典には書かれている。

真言には無量威徳自在光明殊勝妙力等の餓鬼を供養するご真言があるが、施餓鬼の経典として有名な「仏説盂蘭盆経」「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼」等の経典に詳しく記載されている。

次に、仏教のお経に餓鬼事経(がきじきょう)というお経があります。

この餓鬼事経(がきじきょう)というお経はパーリ五部経典(パーリ語 五部経典)の中の小部経典に属するお経であります。

餓鬼事経は全部で五十一話あり、その話の主な内容は、餓鬼、死者、幽霊達が生前 つまり生きている間に悪業(わるいこと)を行い、その悪い事をしたことによる悪い報いによって、死後に悪い境涯、餓鬼界(がきかい)に落ちて苦しみ、困っている状況の話が説かれている。

このお経において善因善果、つまり自分の善いおこないは自分に善い結果、善い報いを生む、悪因悪果、つまり自分の悪いおこないは自分に悪い結果、悪い報いを生む、つまり、因縁果報(いんねんかほう)、因果応報(いんがおうほう)についての具体的な話が餓鬼、死者、幽霊達の話を通じて説かれている。

また重要な年中行事、施餓鬼会(せがきえ)の源流に関係があると考えられるお経がその餓鬼事経に収められている。

「死者たちの物語 餓鬼事経和訳と解説 藤本晃訳著 国書刊行会」という書籍において餓鬼事経(五十一話)の全訳(日本語訳)が説かれている。

次に、佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼経というお経があります。

そのお経の主な内容は、昔、お釈迦様の直弟子の阿難尊者がある夜、閑静な場所に独り座し仏様の教えの内容を深く観じていると深夜に一人の餓鬼が現れた。

その姿は、髪は蓬(よもぎ)のように乱れ口からは焔(ほのお)を吹き身体はやせこけ咽(のど)は針の如く細く爪は長くとがり顔に苦悶の形相が凄く、阿難尊者に向かってこのように言った。

「あなたは三日後に死んで私のように餓鬼となるであろう。」と。

阿難尊者は内心大いに恐れ「どのようにしたらこのような苦しみから解放されることが出来るのだろうか」と反問したところ餓鬼が次のように答えた。

「この世界に満ちている多数の餓鬼に飲食を施し、多数の仙人、多数の修行者及び三宝(仏、法、僧)に供養をすれば、その功徳に依って私も餓鬼の苦しみから解放され、あなたも寿命を延ばし餓鬼界に堕ちる事はないでしょう。」と言って姿を消した。

阿難尊者は仏様にその出来事について相談をし仏様から餓鬼供養のご真言や供養法を教わった。

そして、その法を修したところ阿難尊者も天命を全うし餓鬼の苦しみも解脱したとあります。(大正新修大蔵経第21巻(密教部四)464P~465P参照。)

次に、盂蘭盆経というお経があります。

書籍「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

 

書籍「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

その主な内容は

今から約2500年程前のインドにおいて仏教の開祖お釈迦様が活躍されていた時代、お釈迦様の直弟子に目連尊者(もくれんそんじゃ)という方がおられた。

その目連尊者はお釈迦様の直弟子の中において神通の力が最も優れていると認められていた方であった。

その目連尊者が修行により悟りを開くと直ちに故郷の母を想い起こし目連尊者自身の天眼通(超人的な透視力、霊眼)により母の所在を探すと母はもう既に亡くなっており餓鬼道に堕ちて苦しんでいる事を知った。

目連尊者は悲しんで自分自身の神通力により母の傍らに赴き、手づから食物を捧げると母はうれし涙にくれ直ちに食物を口に入れようとするも過去の悪業報の報いにより食物はそのまま火炎となって燃え上がり食べる事が出来なかった。

母は悲泣し目連尊者もどうすることも出来ず赤子のようにただ泣くのみであった。

その後、目連尊者はお釈迦様の所に趣き母の苦しみを救って欲しいと願い出た。

するとお釈迦様は次のように説かれた。

「目連の母は生前の悪業が深いので目連の力だけではどうする事も出来ない。

このうえは十方(多数)の衆僧(修行僧)の威徳に頼る他は無い。

七月十五日は僧懺悔の日、仏歓喜の日であるから、その日に飲食を調えて十方の衆僧を供養するがよい。

そうすればその功徳により母の餓鬼道の苦しみも消えるであろう。」

と説かれたので目連尊者はその教えの通りに行うと母の餓鬼道の苦しみを救う事が出来た」とあります。

余談だが、目連尊者は、自分の母親が餓鬼界から脱出することが出来たのを知り、非常に歓喜し、狂ったように躍り喜んだ。

他の修行者たちは、普段は冷静沈着、真面目で実直勤勉な目連尊者が狂ったように踊り喜んでいる様子を見て非常に驚いた。

その目連尊者の踊る姿が、毎年、夏に行われている盆踊りの起源であり、盆踊りの始まりであったといわれています。

次に、阿含経において着服、横領、盗み、窃盗, 掠め取り、収奪について説かれているお経が存在する。

その主な内容は、その目連尊者がある時、奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(前世、生きている間)において他人の食べ物をひそかに盗み、かすめ取る行為を行い、その食べ物をひそかに盗み、かすめ取った罪業の報いにより死後において多くの地獄の苦しみに苦しんでいる。という内容が説かれている。

「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」 雑阿含経第十九巻 第四弟子諸説誦 第二目犍連相應「不分油経 盗取七菓経 盗食石蜜経 盗取二瓶経 比丘経」

「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」百三十八頁(ページ)上段中段参照。

次に、真言宗の開祖、弘法大師空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において盗み、窃盗、泥棒、収奪の業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 五五七頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は

「ある一人の鬼(死者)がいた。

その鬼が仏弟子である目連尊者に対しこのように質問した。

「私の腹は極度に大きく、のど、手足は極度に細くて食べ物や飲み物を取ること、食事をする事が出来ない。

何が原因でこのような苦しみを受けるのか。

目連尊者は答えて言った。

「あなたは前世(前生)において高い地位にあり富貴、裕福で、さまざまな食事、お酒を大いに楽しんだが、他の人々を軽視し、侮り(あなどり)、見下し他の人々の飲食を奪(うば)い取り、他人を飢(う)えさせ、他人を困らせた。

このような、他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた行い、行為、因縁、業報、罪の報いによりこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、業報であり、このような罪の報いによる地獄の苦しみは後になって受けるのである」と。説かれている。

書籍「弘法大師著作全集 第一巻 勝又俊教(編) 山喜房仏書林」参照。

 

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

Why must not violence? why must not kill?

The Buddha preached that violence is wrong in Dhammapada.

The Buddha is the Awakened One , or the Enlightened One.

Dhammapada is the Buddhism literature , or the Buddhism sutra.

The Buddha preached about violence as follows.

「All tremble at violence;

All fear death.

Seeing others as being like yourself,

Do not kill or cause others to kill.

All tremble at violence;

Life is dear for all.

Seeing others as being like yourself,
Do not kill or cause others to kill.

You who seeking own happiness punish or kill beings who also long for happiness,will not find happiness after death.

You who seeking own happiness does not punish or kill beings who also long for happiness,will find happiness after death.

“If a man commits a sin,let him not do it again;let him not delight in sin:pain is the outcome of evil.”

“Even an evil-doer sees happiness as long as his evil deed has not ripened;but when his evil deed has ripened, then does the evil doer see evil.”

“Let no man think lightly of evil,saying in his heart,It will not come nigh unto me. Even by the falling of water-drops a water-pot is filled;the fool becomes full of evil,even if he gather it little by little.”

“If a man offend a harmless,pure,and innocent person,the evil falls back upon that fool,like light dust thrown up against the wind.”

“Some people are born again;evil-doers go to hell;righteous people go to heaven;those who are free from all worldly desires attain Nirvana.”

 

 

Why must not murder,slay,slaughter ?

 

It is explained to Buddhist literature that those who did the atrocious, brutal deed fall to hell, and receive many miserable big pain after death (next life).

Majjhima Nikaya in Pali Canon (Buddhist literature), The Buddha is explained in this way, even if there is fate that he lose his all money, lose his wife,lose his child and be imprisoned himself by gambling, Commiting a crime and an evil deed, according to the reward of the crime and an evil, falling to hell for huge period after death, If compared with big pain into the hell which receives many cruel miserable pain, There is fate that he lose his all money, lose his wife, lose his child and be imprisoned himself by gambling is slight pain . The very worst misfortune in which the fate which commits an evil deed, falls to hell after death according to the reward of the crime and an evil deed, and falls to the hell for huge period which encounters many cruel, many miserable and big pain is the very worst unfortunate .

Why must not murder?
Why must not slay?
Why must not slaughter?

One of the appropriate replies to the question can be found out from Sutta-Nipata.

Sutta-Nipata is one of the Pali Canon. Pali Canon is Buddhism literature.

Gotama Buddha is the Awakened One, or the Enlightened One.

Gotama Buddha preached about murder,slay,slaughter as follows in Sutta-Nipata.

“Those persons who in this world are unrestrained (in their behaviour) towards living creatures, who are bent upon injuring after taking others” (goods), wicked, cruel, harsh, disrespectful;-this is Amagandha, but not the eating of flesh. (Sutta-Nipata No.246)

“Those creatures who are greedy of these (living beings, who are) hostile, offending; always bent upon (evil) and therefore, when dead, go to darkness and fall with their heads downwards into hell;- this is Amagandha, but not the eating of flesh. (Sutta-Nipata No.247)

なぜ盗んではいけないのか? なぜ殺してはいけないのか?

なぜ盗んではいけないのか?

なぜ殺してはいけないのか?

特に子供や青少年が漠然と抱く道徳上の素朴な疑問が存在する。

その疑問に対する妥当な回答の一つを仏典より見い出す事が出来る。

パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ、雑阿含経において仏陀は次のように説かれている。その主な内容は

「他人から奪った人が(来世、未来において)他人から奪われるのである。

愚か者は悪の報いが実らない間は悪の報いがない事を当然のことだと考える。

しかし、悪の報いが実ったときには愚か者は苦悩を受ける。

殺す者は(未来には)殺され怨む者は(未来には)怨みを買う、

また罵りわめく者は(未来には)他の人から罵りを受ける、

怒りたける者は(未来には)他の人から怒りを受ける、・・後略」

つまり自分が(来世、未来において)殺されないようにするためには他者を殺してはいけない。また(来世、未来において)自分のお金や大切にしている物を盗まれないようにする為には他者のお金や物を盗んではいけない。

法句経において
「悪業の報いはたとえ大空においても大海においても奥深い山中に隠れても悪業の報いからは逃れることが出来ない」と仏陀は説かれている。

仏教経典の増壱阿含経第七巻の五戒品第十四において盗み、泥棒、窃盗、略奪行為の報いについて説かれているお経が存在する。

その主な主旨内容は、盗み、泥棒、窃盗行為を多く行った者はその罪の報いにより未来、将来、死後、来世において地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ赴(おもむ)くと説かれている。

また人間に生まれ変わっても極めて貧しく、衣服や食事に極めて事欠く境涯に生まれ赴くと説かれている。

(大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版社 576ページ中段参照、国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社 106ページ~107ページ参照)

※仏教では六道輪廻を説きます。

六道輪廻とは生き物達が天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六道つまり六つの境涯を途方もない膨大な期間、途方もなく膨大な回数、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしている。

輪廻転生している。

その六道のうち畜生界(動物の境涯)、餓鬼界(飢えや渇きに苦しむ境涯)、地獄界(地獄の鬼達に残虐に責め立てられ痛めつけられ苦しめられる極めて残虐悲惨な境涯)は三悪道、三悪趣といって六道輪廻の中では最も苦しい境涯であると説きます。
ジャイナ教の教えにこうある。

「わたしは説く。いかなる生物も傷つけてはならない。これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。虐待してはならぬ。害してはならぬ。苦しめてはならぬ。悩ましてはならぬ。これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

増一阿含経 五戒品 第十四

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部八 大東出版社」参照。

弘法大師空海様が説く中絶、堕胎の業報

真言宗開祖、弘法大師空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において中絶(ちゅうぜつ)、堕胎(だたい)の果報、業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経 第十七巻 経集部四 五五八頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は
「一人の鬼あり、その鬼が仏弟子である目連尊者に対してこう問いかけた。「私の身体は常に肉の塊にして手、脚、眼、耳、鼻等あること無し、

つねに多くの鳥達に体をついばまれ、食べられ、耐えられない程苦しい。

何が原因でこういう苦しみに遭(あ)うのか」

目連尊者は答えて言った「あなたは前世(前生)においてつねに他者に薬を与え他者の胎児(たいじ)を堕(おろ)した。

胎児を中絶させた。

胎児を殺害した。

このような行為、因縁、業報により死後、現在においてこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、行為の報い、罪の報いであり、地獄の苦果、苦しみはまさに後身にあり(果報の報いはあとになって受ける)」とある。

(鬼という言葉は死者を意味する。昔は死ぬ事を鬼籍に入ると言った。)

 真言宗開祖 弘法大師空海

 

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秘密曼荼羅十住心論 (原文)(弘法大師空海 著)   

書籍「日本思想大系 空海  川崎庸之 (校注者) 岩波書店」参照。

秘密曼荼羅十住心論 (書き下し文)   

書籍「日本思想大系 空海 川崎庸之 (校注者) 岩波書店」参照。

 

 

書籍「弘法大師著作全集 第一巻 弘法大師(著) 勝又俊教(編)

山喜房仏書林」参照。

佛説雑蔵経 参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部十四巻 大東出版社」参照。

 

 

 

 

お釈迦様が不殺生戒、生き物を殺してはいけない戒律を制定した主な理由について

仏教のお経、阿含経に「好戦経」というお経があります。

戦争を好み刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

又「堕胎経」というお経もある。

内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。

「好戦経」 「堕胎経」は「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」という書籍がある。

その書籍の中において「好戦経」「堕胎経」を非常に分かり易く説かれている箇所がある。

次に、仏典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九に屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前(生きている間)において人間や動物達等の生き物の屠殺(殺す事)、殺生(生き物を殺す事)を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業(罪障)の報いにより非常に長い年月の間地獄(大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒(地獄の鬼達)により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界)に赴き多くの様々な激しい苦しみを受けその地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達(カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等)に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版社」という書籍の中において一般の方々には難解と思われる国訳一切経(阿含部)の中の好戦経と堕胎経その他のお経について非常に分かり易く解説されている。

例えば屠牛者経を例に挙げると、そのお経の概要は釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(生きている間)において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

また我(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

屠羊者経 殺猪経 猟師経も屠牛者経と同様、大体似た内容で説かれている。

書籍「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部 第十九巻 大蔵出版」参照。

書籍「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部 第十九巻 大蔵出版」参照。

「国訳一切経 阿含部2 大東出版社」参照。

このように、「極悪非道な行いをした者は死後、地獄に堕ち極めて残虐悲惨な苦しみを受ける」と仏典に説かれている。

最古の仏典スッタニパータやパーリ中部経典の中の賢愚経、漢訳仏典中阿含経の癡慧地経において仏陀はこのように説かれている

「仮に賭博(とばく)や博打(ばくち)に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運があったとしても、罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後、地獄へ堕ち、膨大な年数、極めて残虐悲惨な苦しみを受ける地獄での大苦痛大苦悩に比べれば賭博、博打に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運などはとるに足らない僅(わず)かな不運である。」

つまり「罪、悪事を犯しその罪、悪事の報いにより死後地獄へ堕ち、膨大な年数、残虐で極めて悲惨な苦しみに遭遇する地獄へと堕ちる不運こそが最悪の大不幸、大不運である。」という内容が説かれている。

また、地獄にも種類があり阿鼻地獄、無間地獄という地獄がある、阿鼻地獄(無間地獄)は最も極悪非道な行為をした者が赴(おもむ)く地獄であり、最も痛み苦しみの激しい、極めて残虐極めて悲惨な地獄であると仏典に説かれている。

仏典「スッタニパータ」において釈尊は次のようにお説きになられている。

「何者の業も滅びる事はない。それは必ず戻ってきて業を作った本人がその報いを受ける。

愚者は罪を犯して来世にあってはその身に苦しみを受ける。

地獄に落ちた者は鉄の串を突き刺される所に至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。

また灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは昔作った業にふさわしい当然な事である。

地獄の獄卒どもは「捕らえよ」「打て」などといって誰もやさしい言葉をかけることなく、温顔をもってむかってくることなく、頼りになってくれない。

地獄に落ちた者どもは敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

またそこで地獄の獄卒どもは鉄の縄をもって地獄に落ちた者どもをからめとり鉄槌をもって打つ。

さらに真の暗黒である闇に至るがその闇は霧のように広がっている。また次に地獄に落ちた者どもは火炎あまねく燃え盛っている銅製の釜に入る。

火の燃え盛るそれらの釜の中で永い間煮られて浮き沈みする。(中略)。

罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。

だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなし、おろそかにしてはならない。」

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 三 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 三 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社」参照。

 

次に、ジャイナ教の教えにこうある。

「わたしは説く。いかなる生物も傷つけてはならない。これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。虐待してはならぬ。害してはならぬ。苦しめてはならぬ。悩ましてはならぬ。これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

次に、往生要集という書物がある。

この書物は浄土宗に大きな影響を与えた書物で鎌倉時代前に活躍した天台宗の僧侶、源信(慧心僧都源信、横川僧都源信)という僧侶により書かれた書籍である。

この書物の前半では地獄界 餓鬼界などの状況等について各教典論書を引用し具体的に書かれている。又どのような行為(例えば殺生、盗み、妄語、邪淫、飲酒など)によりどういう境涯(例えば地獄界、餓鬼界、畜生界など)に赴くのかが記載されている。
また仏の三十二相についても具体的に説かれている。

どういう種類の良い行いによら良き報い、良き境涯、優れた仏の外観相形などを得られるのかという事も書かれている。

書籍「日本思想大系6 源信  石田瑞麿(校注) 岩波書店」参照。

書籍「日本思想大系6 源信  石田瑞麿(校注) 岩波書店」参照。

この往生要集は宗(約千年前の中国の国名)の国に贈呈され台州の周文徳という方が往生要集を国清寺に収められた。また周文徳は源信を小釈迦源信如来として賛嘆、褒め称えた。

また真宗皇帝も源信を賛賞する事切なるものがあったという。
日本国においても今迦葉(迦葉とはお釈迦様の在世当時の十大弟子の一人 優秀な高弟の名前)と呼ばれ、源信を賛賞する事切なるものがあったという。

さて、日本には放生会(ほうじょうえ)という行事がある。

殺される運命にある生き物を助け逃がしてやる行事だ。

殺生を戒める宗教儀式で仏教の不殺生戒(生き物を殺してはいけないとういう戒律)から神仏習合により神道にも取り入れられた。

例えば殺される運命にある捕えられた鳥を大空に逃がしたり又捕えられた魚や亀などを海や川や池に逃がしてやる行事だ。

とても功徳のある行いだ。

各神社、各お寺でも実施している所があるそうだ。

京都府の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)や奈良県生駒郡(ならけん いこまぐん)斑鳩(いかるが)町にある吉田(きちでん)寺、大分県宇佐市にある宇佐神宮,福岡県福岡市東区箱崎にある筥崎宮(はこざきぐう)(筥崎宮では「ほうじょうや」とよぶ)全国の八幡宮(八幡神社)でも行われている。
詳しい事は「仏教行事歳時記 9月 放生 監修 瀬戸内寂聴、藤井正雄、宮田登 第一法規出版株式会社」という書籍に書かれている。

ジャータカ(釈迦前世物語)について

仏様のことを別名、万徳円満という。

つまり、よろずの徳を円満に、完全に備えた存在。

仏教書の中に「福力成仏」という言葉があるが、お釈迦様は一度の生涯だけの修行だけで悟りを開いたのではなく、数え切れない程の生まれ変わり、死に変わり、数多くの前世の中で積んだ膨大な善根功徳、膨大な福徳の力、幾多の修行によって真理に目覚めた者、いわゆる、等正覚者、ブッダになったとされている。

フランスの仏教学の権威、アンドレ・バロー教授は自身の書籍「ブッダの教え 初期経典をたどって アンドレ・バロー著 富樫瓔子訳 大東出版」の中で次のように説かれている。

「完全なブッダ、厳密に言えば、完全無欠の覚者に至る道のりは、あらゆる中で最も長く、最も不可思議な道のりである。

それを断固として志した人、目覚めを誓った者は数え切れない程多くの生涯を経る間に、膨大な徳を積み、その結果、はるか遠い将来に、自ら定めた目標に達する事が出来る。

このような途方もない功徳を得る為には自戒、施し、忍耐、気力、知恵などの仏教的な偉大な徳行を、完璧に、また自己犠牲を必要とするまでに、実践せねばならない。

このような次第で、後に、歴史上のブッダとなったゴータマ(釈迦)がその数々の過去世に、人間や動物に生まれて成し遂げた功績は、ジャータカ(本生譚)と呼ばれる数百の物語に語られ、全仏教圏で、紀元前数百年以来、今日に至るまで、相変わらず親しまれている。」とある。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

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ブッダの教え?初期経典をたどって

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草木に霊魂の存在を認め、草木を切ったり刈ったりして、草木を殺生する事を禁じていた初期仏教やジャイナ教の教え、草木を燃やす護摩はお釈迦様の教えに反するのではないか?という疑問について

初期仏教、ジャイナ教の教えに草木に魂、精神の存在を認め、草木を切ったり、刈ったり、燃やしたりして草木を傷つけることを禁じていた。

それに関する論文が、今は亡き、元大谷大学教授の白土わか先生(1919年~2015年 享年96歳)の論文「草木成仏説について その形成と展開 白土わか」(書籍「佛教學セミナー第69号 1999年5月 大谷大学仏教學會」の中で解説されている。

白土わか先生は初期仏教やジャイナ教の教えが、草木についてどのように考えていたかを次のように説かれている。

「ジャイナ教にあっては、草木に生命・霊魂を認め、それは知・見・苦・楽等の精神作用を有するものと見ていたといわれている。

一方、仏教内の事情はどのようなものであったかのであろうか。

それを戒律の条項に照らしてみると、「四分僧戒本」波逸提十一に、

「若比丘壊鬼神村者波逸提」とあり、「壊生種戒」といわれるものがある。

それは「四分律」巻十二によれば、村とは一切草木をさし、鬼神の依る所という。

そして草木に五種ありとし、その生種を断つことを戒めている。

それが「五分戒本」には、「若比丘殺衆草木波逸提」とあり、草木を殺生することの罪となる。

「十誦比丘波羅提木叉戒本」にも同文で出されている。

「摩訶僧祇律」巻十四にも、手づから草木の命を殺生することを禁じている。

パーリ「経分別」波逸提十一にも、樹を伐り伐らしめることを禁じ、それは生命を傷つけるものであると戒めている。

以上の例を見るとき、初期仏教に於いては、草木は生命であり、精神を持つものと見ていた形跡が認められる。

しかし、それが、大乗仏教に受け継がれていった思想か否かは疑問である。

次に樹木に宿る樹神の場合を見てみよう。

樹神は仏教以前から、豊穣の神として崇められてきた。

「法句譬喩経」巻二「刀杖品」樹神説話は日本では「今昔物語」巻二「天竺神、為鳩留降長者降甘露語」や「註好選」中「樹神手下百味」の原拠となっているが、それによると舎衛国の男子が、世尊に飯食を捧げ聴法した功徳によって、忽ち大樹の樹神として生れ替わり、修行者たちの為に百味の飯食を流溢せしめて与えたという説話である。

そして、この樹神は八齋戒を果たしていたなら、天上界に生まれることができたであろう、ということになっている。

ジャータカには、樹神が釈尊の菩薩たりし時の姿として現れてくる例がしばしば見られる。

ここでは樹神が仏となるのである。

しかし、樹神は樹木に宿り司る神であり、その樹木も何種類かの特定の木に限られていて、樹木そのものが仏になるという発想に結びつかない。

ちなみに北伝の説話には、樹神が仏の前世であるという例は見当たらないようである。」

また、書籍「南伝大蔵経6 長部経典1 高楠順次郎 監修 大蔵出版」の中に仏教の戒律に樹木などの植物を伐採することを禁じている事が説かれている。

「南伝大蔵経6 長部経典1 高楠順次郎 監修  大蔵出版」

「南伝大蔵経6 長部経典1 高楠順次郎 監修  大蔵出版」

このように初期仏教、ジャイナ教において草木を刈ったり傷つけたりするのを禁止していたことが分かる。

また、書籍「植物は知性を持っている 20の感覚で思考する生命システム ステファノ・マンクーゾ アレッサンドラ・ヴィオラ マイケル・ポーランド序文 久保耕司訳  NHK出版」参照。」の中で、植物が生きとし生けるものであることを論証し、次のように記載されている。

「ユダヤ教では、理由もなく木を切る事が禁止され「樹木の新年」すなわち、春の到来を祝い、樹木に感謝を捧げるユダヤ教の祭日が祝われている。

また、ネイティブアメリカンや世界各地の様々な先住民のように植物を神聖なものとみなしている人々もいる。

さらにまた、植物の世界は、ただ、表面的に観察しただけでは、複雑さのかけらもない。まったく単純な世界にみえるかもしれない。

いっぽうで、こうも考えられる。実は植物は感覚を備えた生物で、コミュニケーション能力があり、社会的な生活を送っており、優れた戦略を用いて難題を解決することが出来る。と。

一言でいえば、植物は知性を持っているということだ。そうした考えは、何世紀もの間、さまざまな時代や文化のなかで、ときどきちらりと顔を出してきた。

植物は、一般的に考えられているよりも、ずっと優れた能力をもっていると確信していた哲学者や科学者もいる。

有名な名前をあげると、プラトン、デモクリトス、リンネ、ダーウィン、フェヒナー(グスタス・テオドール・フェヒナー。19世紀のドイツの物理学者、哲学者)、ポーズ(ジャガディッシュ・チャンドラ・ポーズ。19世紀~20世紀のインドの植物生理学者、科学者)などである。

20世紀半ばまで、植物の知性というテーマに取り組んできたのは、天才ともいうべき直感をもった者だけだった。

特に「種の起源」を著したチャールズ・ダーウィンは自身の著作「植物の運動力」という大著を著し、植物は生物であり、生き物であるとしか思えないような、様々な実験結果を紹介し、植物は生き物であると結論づけている。

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そして、この50年の間に多くの発見があった。

そして、今日、ようやく、この問題に光があてられるようになり、今や植物の世界を新たな目でみる必要が出てきた。

植物が知性があることを否定する根拠は、科学的なデータなどではなく、実は、数千年前から人類の文化に巣食っている先入観や思い込みにすぎないことを明らかにする。

この状況は現代でも変わっていない。しかし、いまこそ私たちの考え方を思い切って変えるチャンスだ。植物は予測し、選択し、学習し、記憶する能力をもった生物だということが、この数十年に蓄積された実験結果のおかげで、ようやく認められ始めている。

たとえば、スイスは、数年前に冷静な議論を重ねた結果、植物の権利を認める世界初の国になった。(2008年にスイス連邦倫理委員会は、植物に一定の尊厳を認める指針を出した。)

スイスの生命倫理委員会は倫理学者、分子生物学者、ナチュラリスト、生態学者を含め、満場一致して合意した。「植物を好き勝手に扱ってはならないとし、植物を無差別に殺すことは倫理的に正当化出来ない。」と。」

さて、次に、ヨーガの大家であられた今は亡き本山博先生は自身の著書「啓示された人類のゆくえⅡ 本山博著 宗教真理出版」の中において、木に魂が宿っているので木を切ってはいけないと、次のようなお話を紹介されている。

「木や石に魂があるという話をすると、(本山博先生に相談して来た)Pさんという方がインドの厚生大臣の下で働いていた。

(Pさんは)わりあいインド政府ではお上の方の人で、大きなマンションに住んでいた。
土地の広さは1 千坪 ぐらいあって、このお宮全体くらいの大きな館が建っているが、それを拡張したいと思った。

場所はボンベイで、英国のエリザベス女王が港に着いたときを記念してクイーンロードというのか、女王の首飾りと称えられている美しい通りが海に面してあるその通りの、海に面した側にそのマンションがある。

その持ち主の P さんが(本山博先生に)、いろんな国政の問題とか、家庭の問題とかを伺いに見えた時、(本山博先生がPさんを)じっと顔を見ていると、大きな木の精が出てきたのです。

木の精というのは、人間の格好をしているが、人間とは違うのです。

先日、伊豆高原の「池」というところで、山の斜面にある神社にお参りした際、そこの神様は出てこられたけども、山の神様も、人間とは違うのです。
人間の格好をして見えているけれどもね。

固い、冷たい感じで、男のような姿をしていられた。

インドの木の精の場合は女のような感じでしたね。

それで、インドの木の精は「切らないでほしいと Pさんに伝えてください」と言って泣いて出てきた。

不思議に思って、「今、木の精が出てきて、切らないでほしいと訴えているが、あなたの住まいの門の脇に、菩提樹の大きな木がありますか?」と聞いたら、その通りの木があって、マンションを拡げたいので切ろうと思っている、とのことでした。

それで、「その木が出てきて、泣いて、切らないでくれと言っていますよ。」と言ったらすぐ自宅に電報を打って切らないことにしたらしいです。
そのように木にも魂があるのです。

そして見えるわけです。」と説かれている。

つまり、本山先生は木の精という生き物の存在を説いている。

これは釈尊前世物語、つまりジャータカにおいて樹の精霊として生まれたことのある釈尊の前世の話とよく似ている。

次に、書籍「「未知」への事典 コリン・ウィルソン 著 ジョン・グランド 編 中村 男 訳」の中の第五部 内空間 精神と肉体 という章の中の植物の交信という項目の中に、植物は感情を持っているとしか思えないような実験結果が記載されている。以下、その記載内容である。

「植物は人間の心を読むことができるか」という論争の火種となった実験は、1968年2月に、うそ発見器の専門家クリーブ・バックスターの執務室で行われた。

ポリグラフ(うそ発見器)は、それにかけられる人の緊張が高まると、皮膚からの発汗が多くなる性質を利用して、汗の増え方を記録することによって、うそ発見器という目的を果たそうとするものである。

バックスターは植物の葉に水をかけてもそれと同じ変化を植物が示すのではないかと考え、ドラセナという百合(ゆり)科の植物に水を注いだ。

すると、不思議なことに、緊張が減少し、人間で言えば感情の充足が起こった事が示された。

次に、一枚の葉を熱いコーヒーにひたしてみたが、何の変化もなかった。

そこで今度は葉を燃やしたらどうなるか、と思うと、そう思っただけでグラフの線がラセナのパニック状態を反映するかのように急上昇し、いったんバックスターがマッチをもって戻ると、再び急角度で上昇した。」

その他、植物の感情の有無に関する様々な実験が行われ、植物が苦楽の感情を持っているとしか思えない実験結果が現れた。

また、書籍「南方熊楠コレクション 森の思想 中沢 新一 編 河出出版」の中で、その植物に対し生命の存在を感じ、植物の密集した森林の破壊、自然破壊の考えについて、次のように反論、書かれている。

「すぐに儲けにならないものの中には、貴重なものがいっぱいあるのだ。

生命の世界もそう、それに景色だってそうだ。

いまは景色なんて、なんの儲けになるかと思っているかもしれないが、それが今に一番の貴重品になる時代がやってくる。

景色を護らなくっちゃいけない。その景色の中に生きている。

生命の世界を金儲けの魔力から守らなくてはいけない。

要するに、自然を保護するという考えが大切なのだと熊楠は力説したのである。

自然を保護するという考えは、当時の日本人には、ちょっと思いつきにくいものだと思う。

人為を離れたところで、自然は生きていた。

人間は母親のような、その自然のふところに、優しくまもられてきたのだ。

その自然を、今度は人為によって護らなければいけないというのだ。

護られてばかりいる子供は、往々にして、自分を守ってくれている母親の苦悩を知らない。

母親は子供を守る。だが、その母親は、一体誰に守ってもらえばいいというのか。

自然保護の思想は、産業化された人間の力が、いち早く自然を圧倒しはじめてしまった英国に発生している。

彼らは、母親である自然からの分離を、早くから実践してきた為に (おかげで、自然は開発と探究の対象となってしまったが) 、自分たちの文明によって苦悩する自然の姿を、客観的にとらえることができたのである。

熊楠は長いこと、海外で生活した体験から一切の母親的なるものから自立を果たしていた。

そのおかげで、彼には自然が苦悩しているさまが、よく見えたのである。」

さらに、

「神道は宗教ではない、という主張の根拠として、そこには、キリスト教や仏教のような壮麗な建築物や、人目を引く宗教的なシンボルに乏しい。という点があげられることが多かった。

宗教はことごとしいやり方で、人々の心を、超越的な世界に向けようとしてきた。

ところが、わが神道には、そのようなことごとしさがなく、自然な民族的心情をすなおに表現しようとしている。

この意味でも、それは国体の自然な表現ではあっても、宗教と同列にあつかうことができない、というわけである。

これに対して、熊楠はこう反論する。

宗教の本質にとっては、壮麗な建造物やイコンやシンボルなどは、必ずしも必要なものではない。

歴史を見てみろ。バビロニアだって、エジプトだって、マヤやインカだって、偉大なる建造物は残ったが、かつてそこにあったはずの神聖なものは、もはやどこかへ消え去って、宗教の伝統は、すっかり途絶えてしまっているではないか。

大事なのは、ひとびとの精神に、大いなるものに対する畏敬が、途絶えることなく、連続してあるということだ。

その点で言えば、神道は立派な宗教ではないか。

神を祀って神社といい、それを崇敬しているのだから、たとえそれが壮大華麗な建造物などをもたなくとも、これが宗教であることはあきらかなのだ。

それを宗教でない、などと言いくるめるのは神道に対して失礼ではないか。

それに、そんな立派な建物はなくとも神道には森があるではないか。

そこには、驚くほどの老大樹がそびえたち、稀観の異植物が鬱蒼たる森をつくりなしている。

日本人は、この森の中にたたずむだけで、深い神秘の宗教感情にみたされてきたのだ。

荘厳な神のイコンでもなく、聖人の遺物でもなく、神秘の仏像でもなく、ただ森林の奥深さに、日本人は存在の神秘をおぼえ、神々に対する畏敬の念を育ててきたのである。

これは、宗教の諸形態の中でも、粗末なものであるどころか、きわめて高級なものと言っていい。

つまり、神道は真言密教などと同じく、秘密儀の宗教、素朴な神秘主義の宗教なのだ。

そのため、神道は、きわめて幽玄なやり方で、人々に感化をおよぼしてきた。

それは文字を立てず、表象を立てず、森林のもたらす神秘な感情をもとにして、人々の神のありかを語ってきたのである。

だから、それはイデオロギーなどとは無縁のものとして、すばらしいのである。」

さらに、南方熊楠先生は次のように語られている。

この椋(むくのき)も三年ばかり前に伐らんと言いしを、小生(南方熊楠)ら抗議して止(とど)む。

さて、伐らんと言いしものは今春即死、また、件(くだん)の糸田の神森を伐り、酒にして飲んでしまいし神主も、大いに悔いおりしが、数月前、へんな病にて死す。

祟りなどということ小生(南方熊楠)は信ぜぬが、昨今、英独(イギリス、ドイツ)
の不思議研究者ら、もっぱらその存在をいい、小生(南方熊楠)も神社合祀励行、森林乱伐に伴い、至る処にその事実あるを認む。

思うに不正姦邪の輩、不識不知(しらずしらず)の間にその悪行を悔い、悔念重畳して自心悩乱すること存じ候。

かかることを、当国官公史また神職らは迷信と言いて笑うことおびただし。

しかるにいずれの国にも犯神罪あり。

キリスト教国にもこれを犯して神罰で死すること多きは小生(南方熊楠)つねに見たり。」

つまり、神道は森に、林に、植物たちに対し、生命の存在を感じ、その植物たちに対し崇高なる畏敬の念を抱いた偉大なる宗教ではないのか?と思う。

以上の事から、植物も人間や動物と同じように苦楽の感情をもっている存在、生命体であると考えられるのではないだろうか。

このように考えると、修験道や密教で焚く護摩、柴燈護摩は、護摩法要でお焚きあげする草木、枝葉、樹木を、ノコギリやチェーンソーで切断、伐採したり、木の枝や葉っぱをお護摩の火で燃やしたりする行為、その行為は極めて暴力的で、生き物を殺戮しているのと同じことであり、ある種、仏教の戒律、不殺生戒を犯しているのではないかと思えてならない。

特に、修験道や密教の護摩は木の枝や葉っぱを伐採し木や枝や葉っぱを燃やし、葉っぱに付着している微生物をも焼き殺しているので、仏教の戒律、不殺生戒を犯していると考えられないだろうか?

「国訳一切経 印度撰述部 経集部十四巻 大東出版社」参照。

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凡人の肉眼では見えない、聞こえない存在を説いた超一流の仏教の祖師達

仏典、雑阿含経に爪甲経(そうこうきょう)というお経がある。

その概要は

「ある日釈尊は釈尊自身の手で大地の土を拾い釈尊自身の手の爪と手の甲の上に土を乗せて諸々の比丘(修行者)に次のように尋ねられた。

「諸々の比丘(びく)よ。私のこの手の爪と手の甲の上に乗っている土の量とこの大地の土の量とでは土の量はどちらが多いか?」

諸々の比丘は次のように答えた。

「世尊(釈尊)よ。世尊(せそん)の手の爪と手の甲の上に乗っている土の量はこの大地の土の量と比べるならば比べものにならない程ごくわずかな量です。」

釈尊は続けてこのようにお説きになられた。

「諸々の比丘よ。もし肉眼で見える生き物たちの数をこの手の爪と手の甲の上にある土の量とするならば、その形が微細で肉眼では見えない生き物たちの数はこの大地の土の量のように膨大に存在する。比丘たちよ。未だ無間等の悟り(仏陀の悟り)に到達しない者は努めて無間等(むけんとう)の悟りに至るよう努力せよ。」

(大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 114ページ上段(雑阿含経第十六巻)参照。国訳一切経 阿含部二 雑阿含経第十六巻 参照。)

つまり、釈尊は人間の肉眼では見えない生命体が多く存在している事を覚知していたと言える。

また、阿含宗の開祖 桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「間脳思考」において、国訳一切経 阿含部の「好戦経」を引用し「戦争を楽しみ刀剣により人を悩ませ傷つけ苦しめ殺した者がその罪の報いにより死後巨大な年数、猛烈に苦しい地獄の責め苦を受け、その長い期間の地獄の責め苦が終わった後にも地獄の余罪による猛烈な苦しみに耐えかね、号泣している霊体をお釈迦様の弟子の目連尊者が霊視した」事が説かれている。

つまり、肉眼では見る事が出来ない霊の存在をお釈迦様、仏教では説いていた事を桐山靖雄大僧正猊下は自身の著書「間脳思考」においてお説きになっておられる。

 阿含宗開祖  桐山靖雄大僧正猊下

ところで、現代の科学では人間の五感、いわゆる、見る、聞く、嗅ぐなどの感覚能力は一部の動物達と比較して著しく劣っているとされている。

例えば、匂いを嗅ぎ分ける犬の驚くべき嗅覚は非常に有名である。

麻薬の密輸捜査、様々な災害人命救助活動などにおいて、人間の嗅覚能力をはるかに凌駕した、はるかに超えた、卓越した犬の嗅覚能力が不可欠とされている。

また、ガラガラ蛇は赤外線を見る事が出来る。つまり温度を視覚化出来る。いわばサーモグラフィのような視覚能力を持っていると言う事が出来る。

コウモリは超音波を聞くことが出来る。

人間は2万ヘルツまでの周波数しか聞こえないが、豚は4万ヘルツまでの高周波の音を聞き分けることが出来る。

ナマズは地震を予知出来る。

ネズミは火事を予知出来るなどなど。

また、世界的に著名な学者、ライアル・ワトソン博士は動物行動学、人類学、医学、心理学、生物学など驚異的な知識を背景に活発な著作活動を続け、各界に知的な刺激を与えている世界的に著名な超一流の学者であるが、そのワトソン博士は自身の著作「スーパーネイチュア」の中で、普通の人には見えないエックス線を見ることが出来る人物について、次のように紹介されている。

 「1963年に、ピーター・バン・ヤールスベェルト(Pieter van Jaarsveld)という12歳になる南アフリカ人は、地下深くに隠れている水を探知する能力のために{エックス線の眼を持つ少年}として世界で有名になった。

彼は水脈占い棒のような物は使わなかったが、地表を通して{緑色の月光のようにかすかに光る}水を見ることが出来ると主張した。

ピーターは、他の人にはそれが同じように見えないことを知って非常に驚いた。

われわれが自然および古典的な五つの感覚(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、つまり、見る、聴く、触れる、味わう、嗅ぐ)は、超自然の本当の魔術のほんの小部分にすぎないことをやがて悟り始める時、もっと多くの人たちが、彼の仲間入りをして、物事を真にあるがままに見るようになると私は思っている。」とワトスン博士は説かれている。

(書籍「スーパーネイチュア ライアル・ワトソン著 牧野賢治訳  蒼樹書房  124ページ~125ページ」参照。)

また、ワトン博士はこの著書の中で、動物の地震予知能力について、地震の何時間も前にウサギやシカが、震源地域から恐怖におののいて駆け出してくるのを見たことがある。とも書かれている。

(書籍「スーパーネイチュア ライアル・ワトソン著 牧野賢治訳  蒼樹書房  98ページ」参照。)

以上の事を考えると、「自分自身は霊が見えないから霊の存在を一切信じない。霊魂の存在を一切認めない。」という考えをお持ちの方々が世間では数多くおられるが、私自身から見ると、ある種、合理的な考えではないように思われる。

さて、つぎに、真言密教の開祖、弘法大師空海様は自身の著作「弁顕密二教論」の中において、

「それ、仏に三身あり、教えはすなわち二種なり。応化の開説を名づけて顕教という。ことば顕略にして機に逗(かな)えり。法仏の談話(だんかい)これを密蔵という。ことば秘奥にして実説なり。」とお説きになられている。

 真言密教開祖、弘法大師空海

「仏に三身あり」とは、大乗仏教が説いている仏の三身説の事で、仏の三身とはすなわち、

法身(ほっしん)の仏、

報身(ほうじん)の仏、

応身(おうじん)の仏、

つまり、仏に三身あり、とは、仏様は三種類の仏様に分類される。という事になる。

具体的に説明すると、

法身の仏とは毘盧遮那仏、大日如来のような真理そのものとしての仏様を法身の仏様という。

報身の仏とは阿弥陀如来のように、菩薩として様々な修行を経、最終的に悟りを開いた仏様を報身の仏様という。

応身の仏とは釈迦如来、いわゆるお釈迦様のように凡夫でもその仏様のお姿を見ることが出来る仏様のことを応身の仏様という。

また、三身の仏様の中で、法身の仏、報身の仏のお姿は、普通の凡夫ではそのお姿を見ることが出来ないとされている。

そして、「弁顕密二教論」の中に「仏様の説法には法身説法という種類の説法がある」と説かれている。

法身説法とは密教でいう真理そのものとしての仏、大日如来、最高位の仏様がなされる説法の事。

空海様は自身の著作「弁顕密二教論」の中においてインドの高僧であり、大乗仏教の祖師でもある、龍樹菩薩様が著した、仏教の百科全書ともいうべき著作「大智度論」巻九を引用し法身説法についてこう解説されている。

「(大智度論)智度論の第九にいわく、

「仏に二種の身あり。一には法性身、二には父母生身なり。

この法性身は十方虚空に満ちて、無量無辺の色像端政にして相好荘厳(そうごうしょうごん)せり。

無量の光明、無量の音声あり。

聴法の衆もまた虚空に満てり。(これは衆もまたこれ法性身にして生死の人の所見にあらざることを明す。)

常に種々の身、種々の名号を出し、種々の生処に種々の方便をもって衆生を度す。

常に一切を度して息むことなし。かくのごときは法性身の仏なり。

よく十方の衆生を度し、もろもろの罪報を受くる者は、これ生身の仏なり。

生身の仏は次第に説法すること人の法のごとし」と。

またいわく、

「法身の仏は常に光明を放って常に説法したもう。

しかるに罪をもっての故に見ず、聞かざること例えば日(太陽)出づれども盲者(目が見えない人)は見ず、雷震地を振えども聾者(耳が聞こえない人)は聞かざるがごとし。

かくのごとく法身は常に光明を放って常に説法したまえども、衆生は無量劫の罪垢厚重なることあって、見ず聞かざること、明鏡浄水の面を照すときはすなわち見、垢不浄なるときはすなわち所見なきがごとし。

かくのごとく衆生の心清浄なるときは、すなわち仏を見、もし心不浄なるときはすなわち仏を見ず。」」

大乗仏教の始祖、龍樹菩薩

つまり、

「法身の仏は常に光明を放って説法をしているが罪業が深く、罪が重い衆生(生き物)はその罪の重さ, 業の深さが原因で(つまり過去の無量無数というべき多くの生まれ変わり、死に変わりにおいてなしてきた多くの罪、過去における無量無数の輪廻転生の中でなしてきた多くの罪障罪業が原因で)法身の仏の姿が見えず、法身の仏の説法も聞こえず、その説法の内容も理解出来ない。

その一方、罪業罪障が比較的軽い衆生(生き物)は法身の仏の姿が見え、法身の説法が聞こえ、またその説法の内容も理解出来る。」と説かれている。

「弘法大師著作全集 第一巻 勝又俊教 編修 山喜房佛書林」参照。

それに似たようなことわざに、

「心その境涯に至らざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」というべきか。

阿含宗の開祖 桐山靖雄大僧正猊下が1980年11月にインド仏跡巡拝の旅の際に体験したインド・サヘトマヘトにおける霊的神秘体験、仏陀から発せられる霊的テレパシーによる霊性開眼体験談、仏陀釈尊に関わる霊的神秘体験談が桐山靖雄大僧正猊下の著作「一九九九年カルマと霊障からの脱出(1981年7月出版)」と「間脳思考」(1984年1月出版)」において説かれている。

その桐山靖雄大僧正猊下のご著書「一九九九年カルマと霊障からの脱出 桐山靖雄著 平河出版(1981年7月出版)」の中で、その時のサヘトマヘトにおいて体験された衝撃的な霊的神秘体験を自身の自動書記にて記した文章が以下の文章である。

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「それは突然ななめ前方からやってきた。

一瞬、目がくらむほどの衝撃だった。

そんなことなど全然予期しておらず、まったく無防備だった自分は、あっという間にその衝撃に叩きのめされてしまったのだ。

修行、学問、そんなものはなんの役にも立たぬものであることを思い知らされた。

こころひそかに誇っていたこれまでの自分の修行も教学もあっというまに消しとんでしまった。

叩きのめされてしまった。

これなんだ。

これでなくてはならないのだ。

これしかないのだ。

目もくらむようなあの白銀の輝きにみちたバイブレーション!

100年の修行も万巻の教学も、ただ一瞬のこの霊的バイブレーションに如(し)かぬことを思い知らされた。

これがそれだったのだ。

これが究極のそれだったのだ。

このためにこそわたくしはここにやってきたのだ。

おお、サヘト・マヘト聖なる地、

あなたはここに待っていてくださった。

わたくしがいまあなたから受けたものをこれからわたくしはひとびとにあたえねばならぬ。

今、わたくしは聖者であることをつよく自覚する。

すべてのひとびとがこの聖なるバイブレーションを受けることのできる聖地を、わたくしはひがしの国につくらねばならぬ。

この輝きにみちたサヘトマヘートの地を、そのまま、日本の国にうつさねばならぬ。

それがわたくしの使命だったんですね。

それをかならずはたすことをわたくしはあなたに誓います。

そうですか、

もう一度、わたくしはこの地に来なければならないのですね。

だが、そのとき、なにが起きるのでしょうか?

そのとき、起きる或ることを、わたくしは非常なおそれの感情とともに予感します。

ああ、あの一瞬の霊的バイブレーション!

100年の苦行も、万巻の書物も、このバイブレーションなくしては路傍の石ころにも劣るのだった。

このバイブレーションをあたえることのできる聖者こそ、真の導師(グル)だったのだ。

理解できました。

聖師よ、ありがとう。」

今から、約2500年前、インドのサヘトマヘトにおいてブッダ釈尊は多くの人々の前で大神変力を現したとされる。

今から約2500年前 インド サヘトマヘトにおいてブッダ釈尊が奇跡(大神変力)を現したとされる池の跡地。

1980年11月8日、ブッダ釈尊が今から約2500年前に大神変力を現したとされるインド・サヘトマヘトの池の跡地で仏勅を受けられた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗 観返り阿含 思念による王者の相承 ※映像切れあり※ (youtube.com)

また、桐山靖雄大僧正猊下は自身の著書「間脳思考」(1984年1月出版)」の中の、

「思念による王者の相承」という章において次のように説かれている。

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「チベット仏教のニンマ派では、古くから解脱の完成に三つの方法があると説いている。

(1)思念による王者の相承

(2)象徴による持明者の相承

(3)耳を通したコトバによる人の相承

である。

(1)の思念による王者の相承とは、霊界の法の世界において、法の完成者タタギャター(如来)が常に法を説いている。この法身タタギャター(如来)が言葉や象徴という媒介なしに、直接相手のこころに自分のこころを伝達するものである。

この場合、こころ、というのはたんなる思念のこころではなく、パワーを主としたものと思うべきである。

これによって、相手はたちどころにブッダとして完成するのである。

これは最高であり、理想的なものであること、もちろんである。

「王者の」、という所以(ゆえん)である。

(2)の象徴による持明者の相承とはどういうものかというと、象徴とは、ある言葉、形、音、色などに複雑な思想の内容を圧縮して詰め込んだものをいい、また、持明者とは、純粋なこころで実相をそのまま見ることができる真如の世界に到達した者たちのことである。

この相承(方法)では、真如の理解を持つ持明者たちは、導師から象徴を示されることで、密教の深奥に到達する教法を授けられるのである。

以上のすぐれた方法にたいし、普通の人間は、霊感はなかなか得がたく、また、象徴だけでは深い密教の教法を即座に理解することはできない。

そこで、導師が、いろいろな言葉を用いて、くわしく説き明かし、弟子に理解させてゆく。

いわゆる、口頭伝授である。

これが(3)の耳を通したコトバによる人の相承である。

以上三つの方法を、わたくしは、次のように分類する。

思念による王者の相承  間脳系=霊的バイブレーション

象徴による持明者の相承 新皮質系=マントラ、タントラ、コトバ、音楽、象徴

耳を通したコトバによる人の相承 大脳辺縁系=コトバ、マントラ、音楽」

さらに書籍「間脳思考」において師は、次のようにお説きになられている、

「インド サヘトマヘトの奇跡とは、先に述べた思念(バイブレーション)による相承である。

わたくしは、サヘトマヘトにおけるこの体験をするまでは、思念による王者の相承とは、霊性開眼を成就した偉大なグル(師匠)から直接、霊的バイブレーションを受けることだと理解していた。

そして、実際にその通りなので、わたくしのようにグル(師匠)を持たぬ者は、この相承などかかわりのないものであり、ひたすら七科三十七道品の成仏法を修行するしかないものと思っていた。

また、それほど偉大なグル(師匠)など現在はほとんど稀れであるし、修行によることしか考えていなかったのである。

しかし、サヘトマヘトであの強烈なバイブレーションを受けた刹那、わたくしは、「あ、これが王者の相承だ!」と直感し、なるほど、こういう王者の相承もあるのだなと思ったのである。(中略)

この奇跡はわたくしに、筆舌につくしがたい多くの貴重なものをあたえてくれたが、その中の一つは、修行によらぬ(というより、修行を超えた)霊性開眼の方法のあることだった。その方法を、身をもって体験したことだった。」

このように龍樹菩薩様や弘法大師空海様が説く法身説法の話、桐山靖雄大僧正猊下が説くインドのサヘトマヘトで体験した仏勅の話は、精神感応、いわゆるテレパシーの事であるが、テレパシーというと世間一般では迷信とか、たわごと、論ずるに値しない空想上の概念のように考える人々が非常に多いが、先に紹介した世界的著名な学者、ライアル・ワトソン博士は自身の著書「スーパーネイチュア 」の中でテレパシーについて次のように書かれている。

「われわれの視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の鋭敏さについては、まだはっきりした動かぬ限界が引かれたわけではない。

それらの潜在的可能性を新しく探求するたびに、感受性の限界はさらに遠くへと押しやられ、知覚の新領域が絶えることなく発見されていくのである。

多くの外見上は超自然的と見られる能力は、遅かれ早かれ、既存の感覚系の異常敏感性に帰せられ、決して感覚外のものではないと判明していくが、いつも突発的に起こり、確かな感覚の言葉で満足がいくように、いずれは説明されなくてはならない一つの現象が存在する。これが「思考伝達」、すなわちテレパシーである。」

(書籍「スーパーネイチュア ライアル・ワトソン著 牧野賢治訳  蒼樹書房  265ページ」参照。)

また、パーリ仏典研究の世界的権威である仏教学者の水野弘元博士はその著書「原始仏教」の中で三明六通、いわゆる、凡人の能力を超えた神秘的な力、超人的能力について次のように書いておられる。

「今日の合理主義的な考え方からすれば仏陀及び原始仏教が三明六通という奇跡的神通力を説いたことはいかにも仏教の合理性を没却したものであり、おそらく原始仏教では説かれていなかったものを新たに加えられた挿入の不純物に過ぎない。と考える学者がいるけれども、しかし、仏教を単なる科学や倫理や修養ではなくして宗教であると考える限り、このような神通奇跡の存在は仏教の宗教的要素として極めて価値があり、かつ必要なものである。

2500年の昔において仏教は今日の科学時代にも劣らない合理性や倫理性を有したのであるが、しかし、単なる合理性や倫理性だけではそれは宗教とはなり得ないであろう。

宗教である限り、自らの実践だけではなく、他をも絶対信に導き入れなければならない。

宗教を他の方々に対し教化救済する利他的な宗教面は三明六通というような神通奇跡によって得られるのである。

宗教が多くの人々に信じられていくのは神通奇跡によってであるのですが、 また仏教各宗の祖師と言われるような人々も多かれ少なかれ常人を超えた不思議な力を持った人であったに相違ない。」と説かれている。

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さて、先に三明六通という言葉が出てきたが、仏教用語で六通とは神足通、天眼通、天耳通、宿命通、他心通、漏尽通という、常人を超えた超人的能力、超人的智慧の事を意味する。

そして、その中の三明とは天眼通、宿命通、漏尽通を意味する。

その三明の中の宿命通という通力は過去世を透視する神通、智慧であるとされている。

釈尊自身、仏陀としての最高の悟りを開く直前、この通力を得たとされている。

この釈尊が宿命通を得られた体験談が仏典(阿含経)に説かれている。

釈尊自身、仏陀としての最高の悟りを開く直前、非常に深い瞑想中において、無量無数の生き物達がそれぞれの業、それぞれのカルマに応じて無限に近い膨大な時間、無量無数とも例えられる程の回数、生き替わり死に替わりを繰り返している情景をその超人的透視力で実際に透視したという釈尊自身の体験が説かれている。

以下は釈尊自身の瞑想の体験談である。

「このように 私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、種々なる過去の生涯を想い起こした。

すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、また幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。

我はそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカースト(階級)であり、これこれの食を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。

そこで死んでから、かしこに生まれた。

このように形や名称とともに種々なる過去の生涯を想い起こしたのである。

このように私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。

実にこれらの生存者は身に悪行を行い、言葉に悪行を行い、心に悪行を行い、もろもろの聖者をそしり、誤った見解を抱き、誤った見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後に悪しき所、堕ちた所、地獄に生まれた。

また、他のこれらの生存者は、身に善行を行い、言葉に善行を行い、心に善行を行い、諸々の聖者をそしらず、正しい見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後、善い所、天の世界に生まれた。

このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。」

 四分律経典 第三十一巻 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

 四分律経典 第三十一巻 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

 四分律経典 第三十一巻 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

チベット密教 六道輪廻図絵

参考書籍

「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」

「国訳一切経 阿含部二 大東出版」

「国訳一切経 律部二 大東出版社」

「弘法大師著作全集 第一巻 勝又俊教 編修 山喜房佛書林」

「スーパーネイチュア ライアル・ワトソン著 牧野賢治訳  蒼樹書房」

「一九九九年カルマと霊障からの脱出 桐山靖雄著 平河出版」

「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」

「原始仏教 水野弘元著 サーラ叢書」

「ゴータマ・ブッダⅠ 原始仏教Ⅰ 決定版中村元撰集 第11巻 春秋社」

「ゴータマ・ブッダⅡ 原始仏教Ⅱ 決定版中村元撰集 第12巻 春秋社」

    大日如来像

大乗仏教の始祖 龍樹菩薩

真言宗開祖 弘法大師空海

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

今から約2500年前、ブッダ釈尊が約18年間、人々を説法、教化した土地、場所とされているインド サヘト・マヘト(祇園精舎)。

1980年11月、インド サヘト・マヘトに仏跡巡拝された阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。当時、59歳)

今から約2500年前、ブッダ釈尊が多くの人々の前で大神通力、大神変力を現わしたとされているインドのサヘト・マヘト ミラクルの池の跡地において強烈な仏勅、強烈な霊的バイブレーションを受けた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1980年11月8日、当時59歳)。

インド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地

今から約2500年前、ブッダ釈尊が多くの人々の前で大神通力、大神変力を現わしたとされているインドのサヘト・マヘト ミラクルの池の跡地において強烈な仏勅、強烈な霊的バイブレーションを受けた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1980年11月8日、当時59歳)。

大柴燈護摩供 修法中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1982年2月、京都、当時61歳)

大柴燈護摩供 修法中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1982年2月、京都、当時61歳)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

霊障を解く ご講演 第一部 (youtube.com)

霊障を解く ご講演 第二部 (youtube.com)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗 🧒あなたのすぐ側に不成仏霊が存在してあなたの人生を狂わせている🔥目連尊者も見ています🙏#阿含宗 #阿含の星まつり #瞑想 #スピリチュアル #気学 #宗教#仏教 #佛教 (youtube.com)

阿含宗 🤢因果応報は実在する🔥大目犍連が見たモノは生前たくさんの苦しみを人々に与え自分の権力を使い戦争をして人々の大切な命を奪った独裁者の末路です💦#阿含宗#スピリチュアル#戦争 #tv#japan (youtube.com)

阿含宗 🧙大目犍連もお釈迦様も霊障の存在🔥不成仏霊は存在する‼️因果応報はあるんだ💥と説法していたんですね🙏#阿含宗 #スピリチュアル #大靈界#tv#japan #瞑想 #運勢 #佛教 #旅行 # (youtube.com)

阿含宗 🦚お釈迦様が霊障の存在を説法しなかった理由は⁉️如来の説く説法を信じない者は多くの苦しみを受け地獄に落ちるからなんだ…というお釈迦様のお言葉は重要ですね🙏#阿含宗#スピリチュアル#瞑想#運勢 – YouTube

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

1983年8月21日、チベットにおいて最も由緒深く、格式のあるニェデン・カツェリン寺の法主であり、大座主であり、伝統的なチベット仏教ニンマ派の管長であらせられるミンリン・ティチン・リンポチェ管長が来日され、阿含宗管長 桐山靖雄大僧正猊下に、「一切萬霊守護金剛」という非常に位の高い法位、法号が授けられた。当時62歳

チベット仏教ニンマ派ミンリン・ティチン・リンポチェ管長から阿含宗管長 桐山靖雄大僧正猊下に対して、「一切萬霊守護金剛」という非常に位の高い法位、法号が授けられた。

阿含宗開祖  桐山靖雄大僧正猊下(1921~2016)当時62歳(写真)

(1983年8月 阿含宗 関西総本部道場において撮影)

1986年4月8日、スリランカのジャヤワルデナ大統領より真正仏舎利を授かる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1986年スリランカ)当時65歳

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1990年1月 スリランカの古刹、マハー・マティンダ・ピリベナ寺から真正仏舎利を拝受される阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時69歳)

1992年11月2日、スリランカ仏教シャム派総本山より「輝く平和の大王」という法号を授けられる阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時71歳)

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。

このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願大護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、75歳)

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、 世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、75歳)

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、 世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、75歳)

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、75歳)

1996年、モンゴル全土で2月下旬から数ヶ月間続いている広大な面積の山火事で、北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

まさに国家的な危機状況の中、阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下がモンゴルのジャスライ首相に対し、「明後日のガンダン寺の法要の際、観世音菩薩様に雨が降るようにお祈りします。観世音菩薩様は必ず雨を降らせて下さいます。必ず雨が降ります。」と祈りによって雨を降らす事を約束。

そして、モンゴル国ガンダン寺での護摩修法当日未明、ウランバートル市全域に一大雷鳴がとどろき、全市民を驚愕させた。同時に、豪雨が大地を叩き、全市民を歓喜させた。待望の雨の第一陣であった。

さらに、護摩修法後、桐山靖雄大僧正猊下は参拝者の方々の前で、十一面観世音菩薩様がこのように雨を降らせて下さったと語り、十一面観世音菩薩様の偉大なる神通力、お力を称賛された。

その護摩修法後、モンゴル全土ですさまじい雨が降った。

また、モンゴルの文化大臣がこの状況を目の当たりに見、「祈りの力がいかに偉大なものであるかを目のあたりに見て、心から驚嘆しました。」と述べた事を当時の現地の新聞記事が伝えた。

最終的に1ヶ月間は消えないであろうとされていたモンゴル全土の山火事が護摩修法後、モンゴル全土の大雨により護摩法要の日から5日後の6月10日に山火事は完全鎮火した。

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モンゴル国 ガンダン寺 モンゴル国立十一面観音世音菩薩像

モンゴル国 ガンダン寺 モンゴル国立十一面観音世音菩薩タンカ

モンゴルの森林火災の完全鎮火を知らせる新聞記事(1996年6月)

1999年3月6日、インドにおいて印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下、1999年3月6日、当時78歳。

1999年3月6日、インドにおいて印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下、1999年3月6日、当時78歳。

1999年3月6日、インドにおいて印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下、1999年3月6日、当時78歳。

1999年3月6日の印度聖地大柴燈護摩供の修法中、真正仏舎利尊から発するご霊光。「一九九九年七の月よ、さらば! 桐山靖雄著 平河出版」参照。

仏陀に成られた方の御遺骨(ごゆいこつ)を仏舎利(ぶっしゃり)とお唱え致します。

仏舎利尊から発するご霊光は、今から約900年前頃の日本で活躍した僧侶、臨済宗の開祖、栄西禅師様(1141年~1215年)も宋の国に留学中、阿育王山  広利禅寺に参拝した折、仏舎利尊から発するご霊光を目撃した体験談が栄西禅師様の著書「興禅護国論」に記載されている。

また、今から約1100年前頃に活躍した日本の僧侶、天台宗 慈覚大師円仁様(794年~864年)も、自身の唐への巡礼紀行体験を記した書籍「入唐求法巡礼記」の中において、仏舎利尊から発するご霊光にまつわる体験記が次のように記されている。

「長年、法華経を読誦していた僧があった。

最近、いくつかの仏陀の遺品が彼に授かった。

町中の人々は来て捧げものをした。

寺は僧俗であふれた。

どれくらい大勢来たか分からないほどであった。

遺品を発見した由来は、経を読む僧が夜中に彼の部屋に座って経を読んでいると、三本の光が射し込み、部屋全体を輝かせ、寺全体を明るくした。

光りのもとを探すとそれは寺の西の崖のふもとから来たものであった。

毎晩、光はその部屋と寺を照らした。

数日後、僧は光を辿って崖に行き、地面を十フィート以上も掘り下げると、そこには仏陀の遺品を納めた三つの壺があった。

青い瑠璃の中には七粒の舎利があり、白い瑠璃の壺には五粒、金の壺には三粒あった。

彼はそれらを持ち帰り、仏堂に安置して供養を捧げた。

太原府と近郊の貴賤男女や役人たちは位の高いものも低いものもすべて来て尊敬を捧げ、供養した。

誰もがいった、これこそ僧の法華経に対する熱心さがもたらした不思議な力によるものである。と。

町から山へ来る人々は道を埋め、大群衆は礼拝し、驚嘆した。」

書籍『円仁 唐代中国への旅 入唐求法巡礼行記の研究 エドウィン・O・ライシャワー著 田村完誓訳 講談社学術文庫』299頁~300頁 引用。

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さらにまた、今から約1400年前頃に唐の国やインドにおいて活躍し、『西遊記』のモデルにもなった玄奘三蔵法師様(604年~662年)がインドにおいて仏舎利尊から発するご霊光を目撃した体験記が次のように伝えられている。

「さて、ちょうどこのときは正月のはじめであった。

西国の法として、毎年この月にボードガヤの菩提寺では仏舎利を出し、諸国の道俗の人々はみなやってきて来観するならわしであった。

法師(玄奘三蔵)もその年は師のジャヤセーナとともに、舎利骨(しゃりこつ)を見に行った。

あるいは大きくあるいは小さく、大きいのは真珠ぐらいで紅白色に光り輝き、肉舎利は豌豆(えんどう)大で、赤色で光沢があった。

無数の人々が香花を奉献し、礼拝が終わると、その舎利は塔中に還しておくことになっていた。

その日の夜半、ジャヤセーナは法師(玄奘三蔵)とともに見た舎利が大小さまざまであったのを論じ

「私がほかの所で見た舎利は、みな大きさは米粒ぐらいのものであった。

ところがここで見たのは、非常に大きいものだ。

そなたはあれを見て疑わなかったか?」といった。

法師も、

「いや、じつは私も果たして本当の舎利かどうか、疑わしいと思っていました。」と答えた。

するとしばらくして室内に灯火がないのに部屋の内外が非常に明るくなった。

怪しんで外に出てみると、舎利塔の中から空高く光を発し、飛炎天に沖して五彩に輝いていた。

そしてあたりには香気がみなぎった。

そこで二人は人々に

「舎利に大神変が起こった。」と言った。

書籍『玄奘三蔵 西域・インド紀行  長澤和俊訳 講談社学術文庫』205頁~206頁引用。

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ところで、次には、真言密教の第五祖、不空三蔵様(705年~774年、生地はインドもしくは唐国)が釈尊の仏舎利を禮敬する意を述べた文章に舎利禮門(しゃりらいもん)という経文を紹介する。

この舎利禮門は真言宗や曹洞宗などの法要、日々の勤行において読経する場合がよくあります。

参考までに、その舎利禮門の経文の全文は以下の通りです。

舎利禮門(しゃりらいもん)

一心頂禮(いっしんちょうらい)
萬徳園満(まんとくえんまん)
釈迦如来(しゃかにょらい)
真身舎利(しんじんしゃり) 
本地法身(ほんじほっしん)  
法界塔婆(ほうかいとうば)  
我等禮敬(がとうらいきょう)   
爲我現身(いがげんしん)  
入我我入(にゅうががにゅう) 
佛加持故(ぶつかじこ) 
我請菩提(がしょうぼだい)   
以佛神力(いぶつじんりき)  
利益衆生(りやくしゅじょう)  
発菩提心(ほつぼだいしん)  
修菩薩行(しゅぼさつぎょう) 
同入園寂(どうにゅうえんじゃく)  
平等大智(びょうどうだいち)  
今将頂礼(こんじょうちょうらい) 

とお唱え致します。

ところで、仏舎利を祀る霊験功徳は多くの経典に説かれているが、その多くの経典のうち、代表的な経典、大般涅槃経と悲華経と蓮華面経において、仏舎利について次のように説かれている。

大般涅槃経にいはく、

『天界に住む神々と、僧侶、在家の仏教徒は、仏舎利を得たら七つの宝で出来ている瓶に盛り、これを都城の内なる道地において七宝でできている塔を建立して仏舎利を供養するならば、生きとし生ける一切衆生に大いなる功徳をもたらし、三界に生存する三有の苦しみを離脱し、涅槃の安楽に至らせるであろう。仏舎利を供養するということは、まさに生ける仏を供養することなのである。』

悲華経にいはく、

『衆生の福尽きて、三災(刀兵、飢饉、悪疫の三つの難)まさに現れ、経巻地に没して、衆生みな死に瀕する時が来る。この時にあたって、仏舎利、金剛際より出でて、大虚空に昇って、種々の花を雨らす。その花の中にもろもろの珍宝、名衣、百味の飲食を雨らす。その花の中に声を発して、法を説く。衆生、聞いてみな菩提心を発(おこ)す。』

蓮華面経にいはく、

『舎利の光明はるかに奈利(地獄)を照らす。罪業の衆生、この光を受けて抜苦与楽すること、称計するべからず。』

書籍『守護仏の奇蹟 桐山靖雄著 平河出版社』

  『守護霊の系譜 桐山靖雄著 平河出版社』参照。

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怒りの感情についての考察(ブッダの言葉から考える)

2016年11月13日、ある男性が同じ宿泊者の上司とトラブルになり上司の顔を殴り死に至らしめたとのニュースを見た。

怒りという感情が最終的に暴力になり相手を死に至らしめたのである。

我々は怒り、憎悪、憎しみ、激怒という感情をコントロールし抑える必要がある。

激怒という感情をコントロールする事が必要であり、そのことは社会生活を営むうえで最も重要な事であると思われます。

怒りが国家間レベルになるとその怒りが憎しみを生み双方の憎しみ合いは最終的には戦争という大量虐殺につながる事態を引き起こす結果になりかねない。

仏教では怒りの感情を起こさないよう教えている、憎しみの感情を起こさないよう気をつけるよう説かれている。

特に睡眠不足、酒に酔った状態では脳内における感情のコントロールが効きにくくなり、怒り易くなる、キレやすくなるように思われる。

日々の充分な睡眠、休息、日々の正しい生活が必要である。

パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において仏陀はこうお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。

怒りを断ち切って悲しまない。

その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを、聖者達は称賛する。

それを断ち切ったならば、悲しむことがない」

また漢訳仏典の大正新修大蔵経第二巻阿含部下、雑阿含経第三十二巻において仏陀はつぎのような主旨の法話を説かれている。

「嗔恚(しんに)を離れるを善と成す。

嗔恚及び驕慢(きょうまん)を生じることがないようにせよ。」とある。

つまり、怒り、激怒,うぬぼれ,慢心の心を起こさないようにせよという主旨の内容が説かれている。

また、仏教経典 漢訳大蔵経の中の阿含経及び南伝大蔵経において仏陀釈尊は次のようにお説きになられている。

「比丘(修行者)たちよ。まさに一法を断つがよい。一法を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう。

その一法とはなんであろうか。いわゆる瞋恚(しんに)(怒り)がそれである。

比丘(修行者)たちよ。まさに瞋恚(怒り)を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう」

「瞋恚(怒り)にかりたてられて、人は悪しき処におもむく。まさにつとめて瞋恚(怒り)を捨つれば、すなわち煩悩滅尽して聖者たらん。」

「雑言と悪語とを語って愚かなる者は勝てリという。されど誠の勝利は堪忍を知る人のものである。

怒る者に怒り返すは悪しきことと知るがよい。

怒る者に怒り返さぬ者は二つの勝利を得るのである。

他人の怒れるを知って正念に自分(自分の心、精神、感情)を静める人はよく己(自分)に勝つとともに他人に勝つのである。」

パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において仏陀(仏様)はこうお説きになった。

「愚者(おろかもの)は荒々しい言葉を語りながら「自分が勝っているのだ」と愚者は考える。

しかし、真理を認知する人がそしり(悪口、中傷誹謗,罵詈雑言、罵倒)を耐え忍ぶならば、(耐え忍ぶ)その人にこそ勝利が存在する。

怒った人に対して怒りを返す人はそれによっていっそう悪をなすことになるのである。

怒った人に対して怒りを返さないならば勝ち難き戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのを知って気をつけて静かにしているならばその人は自分と他人の両者の為になることを行っているのである。

理法(真理)に通じていない人々は「その者(怒りを返さない者)は愚者(おろかもの)だ」と考える。

パーリ仏典「スッタニパータ」において仏陀曰く

「罪がないのに罵(ののし)られ、殴(なぐ)られ、拘禁(こうきん)されるのを耐え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、彼を私はバラモンという。」

さらに、パーリ仏典「サンユッタ・二カーヤ」というお経においてブッダは次のようにお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。怒りを断ち切って、悲しまない。その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを聖者達は賞賛(しょうさん)する。それ(怒り)を断ち切ったならば悲しむことがない。」

「人は利を求めて自分を与えてはならない。自分を捨て去ってははならない。

人は善い(優(やさ)しい)言葉を放つべきである。

悪い、粗暴(そぼう)な言葉を放ってはならない。

やさしい言葉を口に出し荒々(あらあら)しい言葉を口に出してはいけない。」

次に、ダンマパダ(法句経)に次のような言葉がある。

「(彼は、我を罵った。彼は、我を害した。彼は、我に打ち勝った。彼は我から強奪した)という思いを抱く人には、恨みはついに止むことが無い。」

「(彼は、我を罵った。彼は、我を害した。彼は、我に打ち勝った。彼は我から強奪した)という思いを抱かない人には、ついに恨みが止む。」

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの止むことがない。怨みを捨ててこそ怨みが止む。これは永遠の真理である。」

第二次世界大戦が終わり講和条約が締結され、世界の諸国は敗戦国の日本に賠償を要求したが、その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加したが、日本に対する全ての賠償権を放棄した。

その時のスリランカの政府首脳達は声明の中で、このダンマパダのこの言葉を引用し次のように言った。

「戦いは終わったのだ。もはや怨みに報いるに怨みを以ってすることはやめよう。

この精神でセイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい。」と。

このダンマパダの教えは今日に至るまで、南アジアの人々に暖かい気持ちを起こさせている。

パーリ仏典ダンマパダやウダーナヴァルガに次のように説かれている。

「手むかうことなく罪咎(つみとが)のない人々に危害を加えるならば、次に挙げる十種類の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう

1、激しい痛み

2、老衰

3、身体の傷害

4、重い病

5、乱心

6、国王からの災い

7、恐ろしい告げ口

8、親族の滅亡

9、財産の損失

10、その人の家を火が焼く

この愚か者は死後に地獄へ生まれる。」

と説かれている。

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仏教が説く輪廻転生の教えと善因善果、悪因悪果の教え

仏教にとって人間に生まれてくる事は非常に良き生まれであると説く。

人間にとって神々に生まれる事は良き生まれであるといわれるが神々にとっては人間に生まれる事が良き生まれであるといわれている。

輪廻転生の世界では衆生(生き物達)は地獄界や畜生界に生まれ替わる方が人間界に生まれ替わるよりも圧倒的に多いと仏典では説きます。

(阿含経 増支部経典参照)

仏教の目的はこの輪廻転生からの脱出を説きます。本質的に仏教はこの六道輪廻の世界を苦しみの世界とみなしそこからの離脱を目指します。

仏典に修行を完成した表現として
「現法の中において、自身作證し、生死已に盡き、梵行已に立ち、所作すでに辨じ、自ら後生を受けざるを知る、すなわち阿羅漢果を得たり」とあります。(阿含経 長部経典参照)パーリ仏典において仏陀(ブッダ)は修行者の究極の瞑想体験と輪廻転生、因果の法則について次のようにお説きになられている。

 

     チベット仏教仏画

     ブッダ初転法輪像

「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、(そのもの自身が)堅固不動のものになると、かれ(修行者)は生き物達の死と再生について知る事(死生通)に心を傾け、心を向けるのです。

そして、かれ(修行者)は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知るのです。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。

とかれ(修行者)は知る。」

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部七 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部七 大東出版社」参照。

籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照

籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

仏教が説く輪廻転生の教説は、衆生(生き物達)が地獄界や餓鬼界、畜生界に生まれ替わる回数の方が天界、人間界に生まれ替わる回数よりも圧倒的に多いと説いている。

仏教では輪廻転生の本質は苦であると説いている。

仏教の目的はこの輪廻転生からの離脱を目指す。

また、仏教にとって人間に生まれる事は非常に良き生まれであると説く。

その大きな理由は、人間界は他の境涯、いわゆる天界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界に比べると最も仏道修行がしやすい境涯と言われている為。

お釈迦さまは最終的に、天界から人間界に生まれ変わり、人間界において修行を完成し、ブッダになる事が出来たと言われている。

次に、仏典 雑阿含経第四十巻において七種受という事についてブッダは次のように説かれている。

ある日仏様(お釈迦様)はもし七種受をもつものは天帝釈(良い世界又よい所)のもとに生まれ変わる事ができると説かれた

七種受とは

1 父母を供養する。
2 家の尊重に供養する
3 柔和で優しい謙遜の言葉、態度を取る
4 荒々しい言葉を離れる
5 両舌を離れる
6 ケチな心をやめる
7 真実の言葉を言う

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部三 大東出版社」参照。

さらに、パーリ仏典「サンユッタ・ニカーヤ」において仏陀は因果の法則と生まれ変わりについて次のようにお説きになられている。

「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い、言葉で行った悪しき行為の報い 、また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等 それこそが、その人自身のものである。

人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。

それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。

影が人に従うように。

それ故に善い事をして功徳を積め。

功徳は人々のよりどころとなる。」

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

さらに仏陀は次のように説いた。

「一度生まれる生き物(胎生つまり母胎から生まれる生き物)でも、二度生まれる生き物(卵生、つまり卵から生まれる生き物)でも、この世で生き物を害し、生き物に対する哀れみのない人(慈悲心のない人)、彼を賤しい人であると知れ」

さらに仏陀は次のように説いた。

「悪の報いが熟しない間は悪人でも幸運にあうことがある。

しかし、悪の報いが熟したときには、悪人は災いにあう。

善の報いが熟しない間には善人でも災いにあう事がある。

しかし、善の果報が熟したときには善人は幸福にあう。」

また、過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべて次のように説かれている。

「全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。

虐待してはならぬ。

害してはならぬ。

苦しめてはならぬ。

悩ましてはならぬ。

これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

次に、仏典には地獄という世界が説かれている。

地獄とは悪い事をした者が死後に生まれ赴く極めて苦しい、極めて残虐悲惨な世界。人や生き物を殺したり、いじめたり、苦しめたり、悩ませたり、悲しませたり、困らせたりした者、人の物を盗んだり、人をだましたりした者が死後に赴く世界。

特に阿含経、正法念処経、大智度論などの経典論書において地獄について詳しく解説した箇所がある。

最古の仏典スッタニパータやパーリ中部経典の中の賢愚経、漢訳仏典中阿含経の癡慧地経において仏陀は次のように説かれている

「仮に賭博(とばく)や博打(ばくち)に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運があったとしても、罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後、地獄へ堕ち、膨大な年数、極めて残虐悲惨な苦しみを受ける地獄での大苦痛大苦悩に比べれば、賭博、博打に負け自分の妻や子供や財産を全て失い、自分も囚(とら)われの身になるという不運などはとるに足らない僅(わず)かな不運である。」

つまり、「罪、悪事を犯しその罪、悪事の報いにより死後地獄へ堕ち、膨大な年数、残虐で極めて悲惨な苦しみに遭遇する地獄へと堕ちる不運こそが最悪の大不幸、大不運である。」という内容が説かれている。

地獄にも種類があり阿鼻地獄、無間地獄という地獄がある。

阿鼻地獄(無間地獄)は最も極悪非道な行為をした者が赴(おもむ)く地獄であり、最も痛み苦しみの激しい、極めて残虐極めて悲惨な地獄であると仏典に説かれている。

このように仏典には「極悪非道な行いをした者は死後、地獄に堕ち極めて残虐悲惨な苦しみを受ける」と説かれている。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部七 大東出版社」参照。

 書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部七 大東出版社」参照。

日本において地獄の観念が多くの人々に弘まった大きな原因のひとつは天台宗の源信(慧心僧都源信、横川僧都源信、鎌倉時代前に活躍した僧侶)という僧侶が「往生要集」という書物を著しその書物が多くの人々に読まれたからであろう。

この往生要集は浄土宗に大きな影響を与えた書物である。

この「往生要集」は今から約千年程前に書かれた書物で現在に至るまで多くの人々に読まれている。

この「往生要集」で引用されている経典の種類は極めて多く、源信様がいかに多くの経典を読まれたかが分かる。

この往生要集は宗(約千年前の中国の国名)の国に贈呈され台州の周文徳という方が往生要集を国清寺に収められた。

また、周文徳は源信を小釈迦源信如来として賛嘆、褒め称えた。

真宗皇帝も源信を賛賞する事切なるものがあったという。

日本国においても源信様を今迦葉(いまかしょう)と呼んでいた人々がいた。

迦葉とはお釈迦様の在世当時の十大弟子の一人で優秀な高弟の名前であるが、このように源信を賛賞する事、切なるものがあったという。

 往生要集を著した天台宗の高僧、慧心僧都源信(西暦942年~1017年年)

この往生要集の前半では地獄界 餓鬼界などの状況等について各教典論書を引用し具体的に書かれている。

どのような行為(例えば殺生、盗み、妄語、邪淫など)によりどういう境涯(例えば地獄界、餓鬼界、畜生界など)に赴くのかが記載されている。

書籍「日本思想大系6 源信 石田瑞麿 著 岩波書店」参照。

また、仏の三十二相についても具体的に説かれている。

どういう種類の良い行いによら良き報い、良き境涯、優れた仏の外観相形などを得られるのかという事も書かれている。

     書籍「日本思想大系6 源信 石田瑞麿 著 岩波書店」参照。

また、地獄の状況を絵で表現した地獄絵というものもある。

地獄絵は文字が読めない人々や子供達に対し仏教の教義を分かり易く解説する役割を果たし、多くの人々に倫理観、道徳意識、勧善懲悪の観念を植え付け、また地獄に対する恐怖心が凶悪犯罪の防止、犯罪抑止力の役割を果たしていたと考えられる。

次に、仏教経典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九において屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前(生きている間)において人間や動物達等の生き物の屠殺、殺生を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業の報いにより非常に長い年月の間地獄において獄卒、いわゆる地獄の鬼達により責め立てられ、苦しめられる世界に赴き、多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達(カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等)に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

仏教のお経、阿含経の中の「好戦経」というお経にも共通する内容が説かれている。

その内容は、戦争を好み、刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

又「堕胎経」というお経もある。

そのお経の内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。

「好戦経」 「堕胎経」は「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」参照。

「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」という書籍がある。

そのお経の概要として、釈尊の高弟の目連尊者がある日、托鉢中に鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊体を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行により高度な修行の境地に到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊体は生前(生きている間)において殺戮を行っていた者で死後その殺戮を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け、更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその殺戮を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

書籍「大正新修大蔵経 大蔵出版」参照。

また、我(釈尊)もまたこの衆生(霊体)を見る」という内容の事が説かれている。

 

さらにまた、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は盗みと貧困や富貴について次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる、もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる。

この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版社」参照。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版社」参照。

と説かれている。

次に、日本の有名な高僧、真言密教(真言宗)の開祖、弘法大師空海様の晩年の著作「秘密曼陀羅十住心論」において、また、浄土宗に大きな影響を与えたとされる天台宗の高僧、源信様の著作「往生要集」において、その他多くの仏教諸経典において偸盗罪(ちゅうとんざい)、つまり他者(他人)の所有物を盗む事の罪、与えられない物を奪い取る罪、盗み、窃盗行為の報いについて説かれている。

 真言宗開祖 弘法大師空海(西暦774年~835年)

 現代において典型的な盗みの罪として振り込め詐欺、オレオレ詐欺、架空請求詐欺、ワンクリック詐欺、ひったくり、ぼったくり、いかさま、スリ、着服、横領、不正請求、ペーパー商法、悪徳商法、金融犯罪、強盗、強奪、置き引き、持ち逃げ等のような悪事、悪業を犯すと未来、死後、来世においてその悪事、悪業の罪の報いとして地獄界、鉄窟地獄(てつくつじごく)、寒氷地獄、畜生界の三悪道、三悪趣という大きな悩み苦しみに満ちた残虐、悲惨な境界、人間に生まれるならば撲隷(奴隷)、無幸処(幸せの無い境界)、極貧、貧困等の大きな悩み苦しみ多き境涯に生まれ変わると説かれている。

書籍「日本思想大系6 源信 石田瑞麿 著 岩波書店」参照。

書籍「日本思想大系5 空海 岩波書店」参照。

 

仏教用語に自業自得(じごうじとく)という言葉がある。

つまり、自分が作った業、すなわち、自分自身が行った善悪の行為の報いは、幾多の生まれ変わり、死に変わりの中、輪廻転生の中で、最終的に自分自身がその行いに応じた報いを受けることになる。と仏典は説いている。

次に「君は誰れの輪廻転生か 桐山靖雄著 平河出版社」という書籍がある。

この書籍の著者である阿含宗の開祖、桐山靖雄猊下は現代における数々の輪廻転生の実例を紹介し、また、脳生理学の知識を駆使し、科学的見地から見た解説がされている。

               阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~2016年)

 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~2016年)

特に、脳神経外科、脳科学の世界的権威、ペンフィールド博士が科学者の立場から、死後の魂の存在の有無の問題について言及されており、そのペンフィールド博士の見解が紹介されているのが興味深い。

また、この書籍の後半部分において著名な文学者ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「勝五郎再生記聞」という生まれ変わりについての実話が紹介されている。

この話のなかで前世を記憶していた少年の勝五郎はこう云っている。

「仏様やお坊様に暖かい食べ物を供養し差し上げる事を忘れてはいけません。これは非常に功徳がある行為なんだよ」とある。

また、この書籍の最後の章において死後の世界の状況、斉の広場や三途の川について解説されている。

その中で、「死後の世界に斉の広場という場所があり、そこにある一人の亡者がいた。

その亡者は生前、つまり生きている間に一代で巨万の富を築いた大富豪であった。

その大富豪が晩年に一大発心をし座禅三昧に明け暮れ何がしかの悟りを得たと認められたが、その大富豪は若い時から金のために多くの人を泣かせ苦しめ、かぞえきれないほどの怨恨の念を集め、またその悪行悪業により、死後に断崖絶壁の下を流れる三途の川に流され、恐ろしい地獄に吸い込まれていった」という内容が書かれている。

   死後、三途の川に流されていく亡者の姿

 雑阿含経(パーリ仏典サンユッタ 二カーヤ)において仏陀は次のように説かれている。
「生きとし生ける者どもは(寿命が尽きて)いつかは(必ず)死ぬであろう。
生命はいずれ死に至る。
かれらは死後に自己の作った業(自己の行った行為の内容)に従って各所に赴いてそれぞれ善悪の報いを受けるであろう。
悪い行いをした人々は死後において地獄に生まれ赴き善い行いをした人々は(死後)善いところに生まれ赴くであろう。

その為に来世の幸福、平和、安楽の為に現世で善い事をして功徳を積まなければならない。人々が作ったその功徳はあの世で人々のよりどころとなる。」

また、仏教が説く輪廻転生には分段生死(ぶんだんしょうじ)と変易生死(へんやくしょうじ)と云う種類の転生があります。
分段生死とは凡夫の輪廻転生を意味し、六道輪廻つまり地獄界(極めて苦しい残虐悲惨な境涯)、餓鬼界(飢え、乾きに苦しむ境涯)、畜生界(動物の境涯)、修羅界(争いの境涯)、人間界(人間の境涯)、天界(天、神の境涯)の六種類の境涯を衆生(生き物)が何回も何回も際限なく輪廻転生していく転生を意味します。
変易生死とは聖者の輪廻転生を意味し、聖者が仏陀の境涯に向かって修行していく過程、聖者としての境涯が後退せず上昇していく転生を意味します。
変易生死について詳しく解説すると、例えば聖者の境涯に預流(よる)という境涯があります。
凡夫が仏道修行により修行の境涯が進むと先ず預流という聖者に成ります。
預流とは聖者の流れに入った者の意を表し、預流になると地獄界、餓鬼界、畜生界という最も苦しみの度合いが激しい三悪道の境涯には二度と生まれ変わらないとされています。
そして最高位の聖者である仏陀に成るまで三回~七回程度、人間界と天界への生死を繰り返し最後には必ず仏陀の境涯に至る事が出来るとされています。
阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~2016年)





観音様や先祖供養による神秘的な救いの体験談についての話

駆け込み寺という言葉がある。

悩み苦しみ、どうにも困って、耐え切れなくなった際、自分自身を助け、受け入れてくれる場所の事を表す。

さて、世の中には様々な悩み苦しみを抱える多くの人々、多くの生き物達が存在するが、その悩み苦しみから人々、生き物達を救い助けるという誓願、誓いを立てておられる様々な仏様、菩薩様、明王様、仏教に帰依した天部の神様が存在します。
そのなかに観世音菩薩という菩薩様がおられます。

書籍「観音開運法 小田隆弘著 密門会出版部」

法華経の第二十五章に妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈、略して観音経、普門品というお経に観世音菩薩のお力をほめたたえたお経があります。

観音経は日本において昔から多くの人々の間で信仰されてきたお経であり、

そのお経には観世音菩薩様の他者救済力としての大神変力(だいじんぺんりき)、念彼観音力(ねんぴかんのんりき)、いわゆる観音様の力を念じる事による救いが説かれています。

準提観世音菩薩様ご尊影(書籍 観音菩薩 変幻自在な姿をとる救済者 佐久間留理子著 春秋社)参照。

観音菩薩 変幻自在な姿をとる救済者 [ 佐久間留理子 ]

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如意輪観世音菩薩様ご尊影(書籍 観音菩薩 変幻自在な姿をとる救済者 佐久間留理子著 春秋社)参照。

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           十一面観世音菩薩様ご尊影

          不空羂索観世音菩薩様ご尊影

 和歌山県の粉河に出現したとされる千手観音菩薩様(粉河寺縁起より)

  和歌山県の粉河にご出現されたとされる千手観音菩薩様(粉河寺縁起より)

日本において昔から現在に至るまで観音信仰は盛んであり、その信仰は特に霊験あらたかであったせいもあり、多くの人々の間で弘まり、観音霊場への巡拜巡礼信仰も現在に至るまで盛んであります。

日本における観音霊場で特に有名な霊場として奈良県の長谷寺、京都の清水寺、東京の浅草寺などがあります。

また観音様は阿弥陀如来様の脇持でもあり、多くの観音様のご尊像の額や頭上に化仏とされる小さな阿弥陀如来像が立像または座像で鎮座しておられます。

観音様と関係が深いお経に延命十句観音経というお経があります。

このお経について、江戸時代、禅宗の一つの臨済宗の中興の祖と称えられた白隠禅師自身が書かれた八重葎(やえむぐら)という書物に観音様に救われた体験記が書かれている。

その救いの体験記が次のように書かれている。

「昔、ある男がいた。ところがある日処刑される事になった。

そして処刑前夜その男の夢に僧侶が現れ

「延命十句経を千返唱えると命は助かる」と夢で教えられ明け方までこのお経を千編唱えた。

ところが同じ処刑前夜に別のある男の夢に観音様が現れ

「この処刑を中止しなさい。そうすれば立派な徳行になるでしょう。さもなくば大災厄がふりかかるであろう」というお告げを聞いた。

またその他の処刑実行者も同じような夢を見た人がおり処刑を中止した」という話がある。

延命十句経に関する霊験談がこの本では他にも書かれていて興味深い。

延命十句観音経は次のようにお唱えする。

延命十句観音経(えんめいじゅっくかんのんきょう)

「観世音(かんぜおん)

南無仏(なむぶつ)

与仏有因(よぶつういん)

与仏有縁(よぶつうえん)

仏法僧縁(ぶっぽうそうえん)

常楽我浄(じょうらくがじょう)

朝念観世音(ちょうねんかんぜおん)

暮念観世音(ぼねんかんぜおん)

念々従心起(ねんねんじゅうしんき)

念々不離心(ねんねんふりしん)」

とお唱えし致します。

  臨済宗 中興の祖 白隠禅師(西暦1685年~1768年)

次に、十一面観世音菩薩様をご本尊として護摩修法をし、霊験を得た話がある。

その話とは、1996年6月モンゴルにおいて十一面観世音菩薩様をご本尊としたモンゴル国十一面観音菩薩開眼法要 世界平和祈願護摩法要が厳修された。

この年のモンゴルは大旱魃で雨がほとんど降らず山火事がモンゴル全土を覆い、百数十箇所以上で燃え広がりその山火事は数ヶ月間燃え続けていた。

さらに、モンゴルは日本の国土面積の4倍近くあり広大な山火事にモンゴル人民は頭を悩ませていた。

日本の仏教教団、阿含宗管長 桐山靖雄師(1921~2016)とその信徒、約400名の方達がモンゴル国のガンダン寺において十一面観世音菩薩様をご本尊とし、モンゴル国の山火事鎮火、世界平和を祈り、護摩法要を勤修した。

その護摩修法後、モンゴル全土において突然大雨が降り出し、数ヶ月間続いていた山火事が数日間で消えてしまった。という。

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大なモンゴルの山林、草原が焼失した。

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。

1996年6月3日、モンゴル全土で数ヶ月間続いている広大な面積の山火事で、北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失し、まさにモンゴルは国家的な危機状況の中、阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下がモンゴルのジャスライ首相に対し、「明後日のガンダン寺での法要の際、観世音菩薩様に雨が降るようにお祈りします。観世音菩薩様は必ず雨を降らせて下さります。必ず雨が降ります。」と祈りによって雨を降らす事を約束。

そして、モンゴル国ガンダン寺での護摩修法当日未明、ウランバートル市全域に一大雷鳴がとどろき、全市民を驚愕させた。同時に、豪雨が大地を叩き、全市民を歓喜させた。待望の雨の第一陣であった。

さらに、護摩修法後、桐山靖雄大僧正猊下は参拝者の方々の前で、十一面観世音菩薩様がこのように雨を降らせて下さったと語り、十一面観世音菩薩様の偉大なる神通力、お力を称賛された。

その護摩修法後、モンゴル全土ですさまじい雨が降った。

また、モンゴルの文化大臣がこの状況を目の当たりに見、「祈りの力がいかに偉大なものであるかを目のあたりに見て、心から驚嘆しました。」と述べた事を当時の現地の新聞記事が伝えた。

最終的に1ヶ月間は消えないであろうとされていたモンゴル全土の山火事が護摩修法後、モンゴル全土の大雨により6月5日から5日後の6月10日に山火事は完全鎮火した。

モンゴル国 ガンダン寺 モンゴル国立十一面観音世音菩薩像

モンゴル国 ガンダン寺 モンゴル国立十一面観音世音菩薩タンカ

モンゴルの森林火災の完全鎮火を知らせる新聞記事(1996年6月)

次に、先祖供養について阿含宗の桐山靖雄師は自身の著書「守護霊が持てる冥徳供養」の中で先祖供養の重要性について次のように説かれている。

「昔から、運が悪くなってどうしょうもなくなったら、先祖のお墓におまいりして、一心に先祖の助けをお願いせよ、必ず運がひらく。

という言い伝えがある。

仕事が行き詰まって、ニッチもサッチもいかない。

いろいろともめごとやトラブルが続出して、手におえない。

病人やケガ人の絶えまがない。

等々、どうにも手のうちようがないようなとき、先祖の助けを借りろ、というわけである。

たしかに、この言い伝えは本当のようである。

多くの例を見ているが、カベにつきあたってどうしょうもなかった人が先祖のお墓まいりをして、一心に供養をし、お願いすると、少しずつ運が良くなって、しだいに運がひらいていくそういう例を私は多く見ている。

いったいどうしたら、行き詰まった事態を打開することができるか、どうにも指導のしようもない人に対して、最後のアドバイスが先祖供養である。

「お墓まいりをして、一心に祈りなさい」

それしかいいようがない人が少なからずいる。

それをすなおに実行した人は、必ず、といっていいほど、しだいに運がひらいてゆく。

そういう例を、わたくしはかず多く見ているのである。」とある。

また、桐山靖雄師は自身の著書「霊障を解く 家運をよくする正しい先祖のまつりかた その②」という書籍のまえがきでも先祖供養の大切さを次のように説かれている。

「運が悪く、まさに苦の連続ともいうべき人々の人生を目にし耳にするたび、またその苦の連続ともいえる人々の様々な相談を受けるたび、なにかいっぺんに運をよくする方法はないものかと長年の間、考えに考え、無数の実例を徴してみて、最後にこれなら誰にでも比較的容易に実践できる運をよくする方法を発見した。

その方法とは

「先祖のお霊をねんごろにおまつりする事。

つまり先祖供養である。

先祖の霊をおまつりすることにより、今までなにをしても運が悪く、悪いこと続きであった人が先祖の御霊をねんごろに供養をすると不思議に運がよくなってくるのである。

子供に関する悩みも水子の御霊を供養すると好転してくる」と説いている。

さて、その桐山師が若い頃人生の苦悩の末自殺をしようとした事があるそうだ。

そこから救われた体験談が「般若心経瞑想法」や「さあやるぞかならず勝つ⑩」という書籍に書かれている。

その書籍によると事業の失敗による莫大な借金と結核の再発に見舞われた事により前途を悲観し自殺を決意し自殺を決行しようとした直前,偶然目にした小経本で自殺を思いとどまり生きる事を決意した経緯が記されている。

その小教本には般若心経や準提観音経そして延命十句観音経等のお経が書かれており準提観音経には

「寂静にして心常に誦すれば一切諸々の大難能く是の人を侵すこと無し」という文言が書かれていた。

桐山管長はこのお経を信じ準提観世音菩薩様のご真言

「のうばさったなん さんみゃくさんぼだくち なんたにゃた おんしゃれい しゅれい じゅんてい そわか」 を何回も何回も毎日唱えていたそうです。

準提観世音菩薩様ご尊影(書籍 観音菩薩 変幻自在な姿をとる救済者 佐久間留理子著 春秋社)参照。

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多い時には一日千回ちかくも唱えていたそうです。

そうするとだんだん自身の運気が変わっていき運勢や環境が 良くなっていき自殺する必要がなくなっていったそうです。

その桐山師が書かれた書籍「般若心経瞑想法 桐山靖雄著 平河出版社」のなかで真言、マントラについて次のように説かれている。

「玄奘三蔵訳の般若心経は頭で考えて作った経典ではなく霊感によってほとばしり出た経典であり、ぱぁっと霊感によって出てきた文言をそのまま、文字にして放り出したという感じである。

ことに、さいごに突然、出てきている呪(マントラ)などをみると、強くそういう感じがする。

この経典は経典というより、全体がマントラではないかと思うのである。

この経典作者は観音信仰者だったのではなかろうか?」と解説されておられる。

更にマントラの力と題して真言、陀羅尼について以下のように解説されている。

「マントラ、ダラニは一心に、ただひたすらに、一心にとなえることによって偉大な力をさずけてくれるのである。

マントラ、ダラニに理くつはない。

人間の子賢(こざか)しい知慧を越えた不思議な力がある。

神秘としかいいようがない奇跡を起こす力がある。

ただ一心に心をこめて祈り、誦すればよいのだ。

あなたもそのようにして偉大な功徳をいただいてほしい。」

と解説されている。

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~2016年)

 

真言には準提陀羅尼、つまり、準提観世音菩薩様のご真言があるが、その真言を読誦 唱える事)の功能(功徳 ご利益)として密教大辞典(法蔵館刊)という書籍に次のように書かれている。

「準提陀羅尼経によれば薄福無善根(福徳が薄い)の衆生(生き物)もこの陀羅尼(準提陀羅尼)を誦すれば(唱えれば)菩提分(さとり 等正覚 完全解脱成仏)の根芽(種子 基礎)を生じ決定して菩提(さとり、等正覚、完全解脱成仏)を成就せん(出来る)と云い、

その他、聡明、勝諍論、夫婦敬愛、他人敬愛(他人から愛される)、求児、延命、治病、滅罪、降雨、脱禁鎖等を祈ると験(効験)を得。悪鬼悪賊の難を逃れる事(が出来る)を説く。後略」とある。

この真言の霊験について、真言密教伝持八祖の内の第五祖 インドの高僧、善無畏三蔵の伝記に次のように書かれている。

 

真言密教伝持八祖の内の第五祖 インドの高僧、善無畏三蔵(西暦637年~735年)

「商人と善無畏三蔵が航海中、船上において商人が盗賊に襲われた際に善無畏三蔵が準提呪の黙誦をすると準提観世音菩薩様が全身のお姿を現され商人を盗賊の難から救った。」とある。

その準提観世音菩薩様は密教の仏様であり別名準提如来ともお呼び致します。

 準提観世音菩薩様ご尊影(書籍 観音菩薩 変幻自在な姿をとる救済者 佐久間留理子著 春秋社)参照。

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密教の流派では如来部に属すると主張したりまた別の流派では観音部に属すると主張したりして解釈が分かれています。

この仏様の密教での呼び名つまり密号は最勝金剛ともお呼び致します。

最勝金剛とは最も優れた仏という意味であります。

この仏様は別名七倶提仏母ともお呼び致します。

七倶提とは七億または七千万という意味で、つまり無量無数を意味し、仏母とは仏の母という意味、つまり、無量無数の仏の母という意味です。

「密教大辞典 法蔵館刊」によると

「過去無量の諸仏の母たる清浄陀羅尼を司る尊を七倶提仏母と名ずく」

準提とは梵語のチュンディの音写で意味は清浄という意味でありこのご真言は清浄陀羅尼ともいわれます。

このご真言から過去無量無数の仏様が生まれたと伝えられています。

しかし、世間一般では、観音様は身に見えない存在であるから信じられないという人が多くいる。

真言密教の開祖、弘法大師空海様は自身の著作「弁顕密二教論」の中において「仏様の説法には法身説法という種類の説法がある」と説かれています。

法身説法とは密教でいう真理そのものとしての仏、大日如来、最高位の仏様がなされる説法の事。

空海様はその「弁顕密二教論」の中においてインドの高僧、龍樹菩薩様の著した著作「大智度論」巻九を引用し法身説法についてこう解説されている。インドの高僧、大乗仏教の祖、龍樹菩薩(西暦2世紀頃~3世紀頃)

「法身の仏は常に光明を放って説法をしているが罪業が深く、罪が重い衆生(生き物)はその罪の重さ, 業の深さが原因で(つまり過去の無量無数というべき多くの生まれ変わり、死に変わりにおいてなしてきた多くの罪、過去における無量無数の輪廻転生の中でなしてきた多くの罪障罪業が原因で)法身の仏の姿が見えず、法身の仏の説法も聞こえず、その説法の内容も理解出来ない。

その一方、罪業罪障が比較的軽い衆生(生き物)は法身の仏の姿が見え、法身の説法が聞こえ、またその説法の内容も理解出来る。」

と説かれている。

その弘法大師空海様が唐(昔の中国の国名)へ渡り、留学し密教を学びその帰国の際の航海中、暴風で荒れ狂う波が船に襲い掛かろうとした時、突如として洋上に巨大な不動明王が現れ不動明王の持つ宝剣が荒波を切り裂き、空海様の乗った船を無事日本に帰国出来るよう助けたと伝えられています。

 

 唐の国に密教を学ぶ為、海を渡る若き日の弘法大師空海(西暦774年~835年)

(※昔の航海術は現代と違い未熟で船の遭難や沈没が非常に多く海外への航海は命がけであった)

この時の不動明王は波切不動明王とされています。

弘法大師空海様の唐の国への航海を無事に到着するよう出現され助けたとされている湧現観音

弘法大師空海様が日本から唐の国に無事に船で到着するよう出現され航海を助けたとされている湧現観音

弘法大師空海様が船で唐の国から日本に帰国する航海の旅の途上、激しい暴風雨が吹き荒れ、船が荒波にさらわれそうになった時、突如として洋上に巨大な不動明王が出現され、襲い掛かる荒波を不動明王が持つ剣で切り裂いたと伝えられている。その時に出現された不動明王は波切不動明王として高野山に祀られている。

 

次に、書籍「観音開運法 小田隆弘著 密門会出版部」の中の「観音様に祈る姿に異国の人が思わずうたれた。」という章の中で、著者の小田隆弘 大阿闍梨が、次のような実話を紹介されている。

「日頃の感謝の心をもって生活する人は、けっして自分の利益や得だけにこだわらない人でもある。言い換えれば、他人の為に苦労することもいとわない。「犠牲心」を持ち合わせているのだが、最後に犠牲心についてお話したい。

昭和二十年八月の末のことである。現在、ある都立商業高校の教諭をしているHさんは、父母といっしょに、南朝鮮のある村を海へ、そして日本を目指して歩いていた。

三人ともリュックを背負い、両手に荷物を持っていた。

当時の朝鮮における対日感情は最悪だった。それまで日本が朝鮮を苦しめてきた報いともいえるが、落ちのびる途中で金品を奪われるなどまだいいほうで、下手をすれば命が危なかった時代である。

Hさん一家は、現金や装飾品をバラまくようにして食糧に変え、かろうじて海のそばまでやってきたのだ。

 一面の平地、と思ったのは錯覚だった。夫と子から一歩先を歩いていたHさんの母は、上が草でおおわれた底なし沼にはまり込んでしまった。

 あわてたHさんが母親のそばに行こうとするのを父が押しとどめ、自分が妻に飛びついた。しかし、「母が父にしがみついたので二人とも沈みはじめたのです。」とHさんはいう。

 もともと、村人の目を避ける道をたどってきたので、あたりにはだれもいない。棒きれも落ちていなかった。たとえ、竹竿があったところで、七歳の少年の力では引き上げることはかなわなかったであろう。

 沈んでいく父と母は、自分たちが助からないと悟ったとき、「一生懸命、観音さまに祈りなさい」とだけ言ったという。H少年は泣きながら手を合わせ、一心に祈った。

 父と母が首のところまで沈んだとき、たまたま韓国人の農夫が二人通りかかったという。少年が祈る姿に二人はうたれた。そして、その農夫たちに父と母は助けられたのである。

二人を引きずり上げたとき、韓国人はいったそうであある。

「ほんとうなら、日本人なんてみんな死んだほうがいいんだ。でも、この子が祈っていたから」と。

 中学生になったとき、H少年は「お父さんとお母さんはもとからの観音信者なのか」と聞いたという。答えは否であった。沈んでいくとき、とっさに思いついたのだという。

「そんなわけで、父と母はいまだに僕に頭が上がらんのですよ」Hさんは会う人ごとに人に話すそうだ。彼の父母が、日本に帰ってから熱心な観音信者になったのはいうまでもない。

 あのときHさんの父は、子どものために、とっさに犠牲になったのであろう。この犠牲心こそ、慈悲の心のあらわれにほかならず、それがまたHさん親子を助けてくれたのである。」

書籍「観音開運法 小田隆弘著 密門会出版部」

倫理、道徳の実践を重んじたブッダ釈尊

老齢になって役に立たなくなった老人を遺棄するという現象は昔から汎世界的に見られるがブッダはその風潮に反対し父母をいたわることを説いている。

「世に母を敬うことは楽し。また父を敬うことは楽し。」

「母あるいは父を法によりて養う人あらば父母に仕えるそのことを以って、この世にてはもろもろの賢者がかれを賞賛す。

また死後(その功徳により)かれは天界にて楽しむ。」

「母と父とは梵天ともいわれ先師ともいわれる。

子らの供養すべきものにして、また子孫を愛する者なり。

されば実に賢者は飲食と衣服と床と塗身と沐浴と洗足とを以って父母に敬礼し尊敬せよ。」

「されば正しき善人は、恩を感じて恩を知り、昔の恩を思い起こして母と父を扶養す。

昔、恩を受けたるが如くにかれら(父母)に対して義務を果たす。

教えを護り、扶養して、家系を断たず、信仰あり、戒を保つ子は賞賛せらるべきなり。」

「われらは両親に養われたならば、かれらを養うべし。

かれらの為に為すべきことを為すべし。

家系を存続すべし。

財産相続を為すべし。

また祖霊に対して適当なる時々に供物を捧ぐべし。」

また、仏教経典「スッタニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

「老いて朽(く)ち衰(おとろ)えている母や父を養わないで、自らは豊かに暮らす人  これは破滅への門である。」

さらにまた、仏教経典 パーリ相応部経典(サンユッタ・二カーヤ)の中でブッダは次のように説かれている。

父母を養っているバラモンが尊師(仏陀釈尊)に次のように言った。

「ゴータマ(仏陀釈尊)さま。

わたくしは、きまりにしたがって食を求めます。

きまりにしたがって托鉢(たくはつ)して食を求めて、両親を養っています。

わたくしは、このようにしていますが、なすべきつとめを果たしているのでしょうか。」

尊師(仏陀釈尊)は次のように言った

「バラモンよ。たしかに、そなたは、このようにして、なすべきつとめを果たしているのです。

きまりにしたがって食を求め きまりにしたがって食を求めて両親を養っている人は、多くの功徳を生じます。

母または父を、ことわりにしたがって養う人は、両親に対するその奉仕によって、この世では。賢者がかれを称賛し、死後には天にあって楽しむ。」

その言葉を聞きバラモンは次のように言った。

「すばらしいことです。ゴータマさま。

すばらしいことです。ゴータマさま。

ゴータマさま、私を在俗(在家)信者として受け入れて下さい。

今日以後、命ある限り貴方様に帰依致します」

また、パーリ仏典ダンマパダやウダーナヴァㇽガの中でブッダは不傷害、非暴力の重要性について次のように説かれている。

「手むかうことなく罪咎(つみとが)のない人々に危害を加えるならば、次に挙げる十種類の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう。

1、激しい痛み

2、老衰

3、身体の傷害

4、重い病

5、乱心

6、国王からの災い

7、恐ろしい告げ口

8、親族の滅亡

9、財産の損失

10、その人の家を火が焼く

この愚か者は死後に地獄へ生まれる。」

また、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は物惜しみと分かち与える事についても次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

さらにまた、仏陀釈尊はパーリ仏典の律蔵経典、増一阿含経 第四十巻において看護について次のようにお説きになられている。

「修行僧らよ。我(仏陀釈尊)に仕(つか)えようと思う者は病者を看病せよ。」

「たとえ我(仏陀釈尊)および過去の諸仏に供養することあろうとも、我(仏陀釈尊)に施す福徳と、病(人)を看る、看病する(福徳)とは、異なること無し」

また、仏陀釈尊自身も病人の看病、看護に直接従事された事が説かれている。

さらに、律部経典の梵網経において看病を八福田の第一にあげている。

つまり仏教において病者への看護、看病がいかに重視されているかが分かる。

また、仏典 雑阿含経第四十巻において、七種受という事についてブッダは次のように説かれている。

ある日仏様(お釈迦様)はもし七種受をもつものは天帝釈(良い世界又よい所)のもとに生まれ変わる事ができると説かれた

七種受とは

1 父母を供養する。
2 家の尊重に供養する
3 柔和で優しい謙遜の言葉、態度を取る
4 荒々しい言葉を離れる
5 両舌を離れる
6 ケチな心をやめる
7 真実の言葉を言う

参考文献

「ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫」

「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波書店」

「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤⅠ 中村元訳 岩波文庫」

「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤⅡ 中村元訳 岩波文庫」

「宗教における思索と実践 中村元著 サンガ文庫」

「原始仏教の社会思想 中村元撰集 第十八巻 春秋社」

 

インド哲学、仏教学の世界的権威

中村元(なかむらはじめ)博士





仏事の際、仏壇やお墓で香を焚き、お供え物をお供えする意義について

よく仏事の際にお供え物を供え、線香を焚くが、その主たる目的は霊に香りを食して頂く事が目的である。

仏教では霊の事を食香(じきこう)と呼び、食香の事をサンスクリット語でガンダルヴァ(gandharva)と呼ぶ。

ガンダ(gandha)とはサンスクリット語で香を意味する。

つまり、ガンダルヴァ(gandharva)とはそのガンダ(gandha)、いわゆる香(かお)りを食する存在を意味している。

仏教の教理教学を体系的にまとめた倶舎論(くしゃろん)という仏教論書の中で、霊について次のように説かれている。

「精血等の所有の外縁が合して成ずるものでなく、意より生ずるが故に意生(いしょう)と呼ばれ、又は意生身(いしょうしん)とも呼ぶ。

常に喜んでこれから生まれるところを尋察と呼ばれ、探し求めるところから求生ともいう。

また、香食に資(たす)けられて生処に往(おもむ)くから食香と名づけられ、二趣(この世とあの世)の中間の所有の蘊(うん)なるが故に中有(ちゅうう)ともいう。

そしてこれから生まれるべき生に対向して漸時、起こるが故に起ともいわれる。」

さらに倶舎論によると中有は母体に入るのだが腹を破っているのではなく「陰門より入る」ともいう。

さらに、倶舎論巻九にその中有の相(すがた)を説明して

「見るべからず如く、触れるべからず。中有の身はごく微細なるをもっての故に。」

「ただし、もしも極浄天眼を修得するならば、よく見ることを得。

諸生は眼を得るもみな観ることあたわず、ごく微細をもってのゆえに」

つまり、中有の存在を見ることが出来る人は極めて少ないが、その中有の存在を覚知する眼、いわゆる霊眼を持っている人がごくまれにいる。

その霊眼を持つ人はその微細な姿をした中有の存在を見ることが出来ると説かれている。

ところで、江戸時代後期、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)によって書かれた書物の中に「勝五郎再生記聞」という書物がある。

その中で書かれている話は実話であったらしい。

その主な内容は、江戸時代に勝五郎という名の子供がいた。

その子供は自分が生まれる前の記憶、つまり、前生の記憶を有していた。

つまり、勝五郎は勝五郎のお母さんから生まれる前の記憶を鮮明に覚えていたという。

すなわち、勝五郎は自分が産まれる前、つまり、勝五郎が肉体を持たず霊体であった時、勝五郎の家の中、いわゆる勝五郎の両親、家族たちの話声が聞こえていたという。

また、生まれてからもその内容を覚えていたという。

また、勝五郎はお母さんのお腹の中に霊体として入る前、しばらくの期間、家の中の周囲に居た。

そして家の中の仏壇に供えられた牡丹餅(ぼたもち)の香りを食していたと語った。

そして、勝五郎はよく周りの家族たちに

「仏様、お坊様に温かい食物を布施する事を忘れてはいけません。これは大変功徳になることなんだよ」と言っていた。とある。

さて、仏教には追善供養というものがある。

追善とは亡者のために追って善事を修して福を薦め、その冥福を祈る事。

人の死後四十九日の間、亡者の霊は中有に迷って果報、転生先が定まらないので遺族、僧侶が善根を追修、回向してその功徳を亡者に捧げ、三途の苦報を免がれさせようとするために追善供養を行う。

ただし極善の者は四十九日間を待たずに直ぐに仏界、天上界に直行し、極悪の者は直ぐに地獄界へ直行するとされている。

追善供養は人の死後、七日ごとに初七日忌、二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌、六七日忌、七七日忌つまり四十九日忌を行う。

また百日目の百カ日忌、一年目に一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などに法要を営みその功徳を亡者に回向する。

仏教には死者に対しての追福追善の報恩行、冥福を祈る宗教行事がある。

仏教の経典に「梵網経(ぼんもうきょう)」というお経がある。

その中に不救存亡戒(ふぐそんぼうかい)という戒律があり、それによれば仏教信者は慈悲の心を持って全ての生者、死者に対して慈悲の行為を行わなければならない事が説かれ、

特に父母兄弟等の家門の親しい先亡精霊に対し、冥界における幸福を助けるための宗教行為に勤めるべきことを勧めている。

参考文献

「守護霊を持て 桐山靖雄著 平河出版」

「講座 仏教思想 第七巻 理想社」

「地獄の話 山辺習学著 講談社学術文庫」

「君は誰の輪廻転生か 桐山靖雄著 平河出版」

「仙境異聞 勝五郎再生記聞 平田篤胤著 岩波文庫」

「異界見聞録6 平田篤胤著 勝五郎再生記聞 前世の記憶を持つ子どもの話 現代語超編訳版 西田みどり著 知玄舎 異界見聞録シリーズ」

「葬式仏教 圭室 諦成著 大法輪閣刊」



仏教の不妄語戒と不偸盗戒からFX(外国為替証拠金取引)を考える。

仏教には不偸盗戒、つまり、他人の物を盗んではいけないという戒律もある。

他人の物を奪ってはいけないという戒律がある。

仏典、法句経の中に

「他人から奪った者は(未来に)奪われる(運命にある)。」

という内容の教えがある。

ところで、最近、YouTubeを見ているとFX(外国為替証拠金取引)の広告が流れているのを見た。

その内容を最後まで見ているとFX(外国為替証拠金取引)で大金を稼ぎ、現在は悠々自適の生活であるという内容。

FX(外国為替証拠金取引)を強く勧める内容であった。

ただし、FX(外国為替証拠金取引)の負の側面は一切語られていなかった。

かつて、1万ドルの資金を1年で100万ドル以上にした伝説のトレーダー、アメリカ人のラリー・ウイリアムズ氏は自身の著書「相場で儲ける法 ラリー・ウイリアムズ著」の中でFX(外国為替証拠金取引)などの先物取引の本当の実態はゼロサムゲームである。という。

つまり、FX(外国為替証拠金取引)で稼いだ人の全ての合計金額とFX(外国為替証拠金取引)で損をした人の全ての合計金額をプラスマイナスで計算するとトータルすると0になる。

言い換えると、大金を稼ぐ人々がいる一方、大金を失い嘆き悲しむ人々も大勢いる。

つまり、FX(外国為替証拠金取引)の取引は大局的に見ると、多くの人々が互いにお金を奪い合っている観がある。

椅子取りゲームのようなイメージがある。

ラリー・ウイリアムズ氏も相場で損失した人のお金は私のような相場に長けた人物の元に入ってくると著書で語られている。

さらに、FX(外国為替証拠金取引)は少額の金額で数十倍の取引が出来るので儲かると大きいが損をすると莫大な損失を被る危険性のある取引である。

ラリー・ウイリアムズ氏は自身の著書「相場で儲ける法 ラリー・ウイリアムズ著」の中で投資をする際は自己資金の2%~3%で運用し、資金がショート、つまり、資金が無くなり、破産しないような対策が必要であり、その為には決して大きな金額、大きなポジションをとってはならないという。

さらにまた、ラリー・ウイリアムズ氏によるとFX(外国為替証拠金取引)などのような先物取引は約8割の方々が損をしており、一般の人は相場に参加するべきではないと著書で語られている。

仏教の睡眠観と現代医学の睡眠観についての考察

仏教の学派の中には睡眠は煩悩の一種であるから、その煩悩を断ち切る為、断眠修行など、睡眠時間を大幅に制限した修行を行っている人々を見聞きする。

例えば、天台宗の総本山、延暦寺の僧侶が夜通し徹夜で仏像を礼拝する修行をしているなどの話を聞いたこともある。

日本では12月31日の大晦日に多くの人々が徹夜で、夜通し、様々なお寺を参拝する習慣がある。

しかし、この断眠修行はある種、お釈迦様の言動と相矛盾しているようにも思える。

健康上にも問題を引き起こすように思える。

例えば、仏教学の世界的権威、故中村元博士は月刊アーガマ42号において釈尊が食事の後よく昼寝をされたことを微笑ましく指摘されている。

当時の厳格な修行者からすると昼寝をする事はダラシのない事であり、怠惰なふるまいであったと考えられた。当然、釈尊に対しても次のような非難が向けられていた。

ある日、サッチャカという修行者が釈尊に次のように言った。

「ゴータマ(釈尊)よ。あなたは昼寝をする者である事を認識しているのですか。」

釈尊は、次のように答えた。

「私は托鉢から帰ってきて食事をし、その後、大衣を四つ折りにし、その上に、右脇を横たえ、自らの心の動きを観察しながら眠りに入る事があります。だから自分が昼寝をする者である事をよく認識していますよ。」

サッチャカが言った。

「ゴータマ(釈尊)よ。修行者やバラモンのある者は迷っているから、そんな事を語るのです。」

釈尊は静かにこう答えた。

「食後の昼寝をした、しないだけで、迷っているとか、迷っていないだとか、言えませんよ。」

このお釈迦様が行っていた食後の休息を仏教の聖典であるパーリ聖典において昼住(ちゅうじゅう)という。

この習慣は現在の東南アジアの僧院でもよく見かける。

また、スペインやアルゼンチンなどのラテン系の国々では昼食後の休息に数時間、当てている。

この昼食後の休息をシエスタという。

この習慣は、中国・インド・ベトナムなどの熱帯・亜熱帯地域や地中海性気候である地中海沿岸のギリシャ・イタリア・中東・北アフリカでも一般的に見られる。

一般的に人間の活動力は、午前中は上昇、正午頃が最も高く、午後2~3時ごろにかけて活動が低下するが午後4時すぎに再び上昇に転じ数時間活性化した後、就寝時間に向けて再び低下する。

就寝中の深夜2~3時が最も活動力が最低となる。

ところで、2019年に日本で出版された書籍「スタンフォード大学教授が教える熟睡の習慣 西野精治著 PHP出版 」において昼寝と認知症との関係を調査した結果が記載されている。

ある高齢アルツハイマーの方々とその配偶者、約数百人を対象にした調査の結果、30分未満の昼寝をする人は昼寝の習慣がない人に比べて認知症発病率が約7分の1であった。

30分から60分の昼寝をする人も昼寝の習慣がない人に比べて認知症発病率が半分以下であった。

最近の研究結果では、睡眠中は起きている時間帯の10倍以上、脳内に溜まった様々な老廃物を排出する機能、働きがあると分かっている。

また、書籍「アルツハイマーになる人、ならない人の習慣 ジーン・カーパー著 和田 美樹 訳  澤登 雅一 監修 Discover」の中で著者のジーン・カーパー氏は

睡眠は脳を記憶障害。アルツハイマー病から守ることに対して、驚くべき効果を発揮する。

睡眠を充分にとらないと、アルツハイマー型の脳障害を誘発する恐れがある。

実に、睡眠には特効薬的な効能がある。

起きている時間帯に発生した脳に溜まっている様々な老廃物が、 睡眠中、 きれいに洗い流され、睡眠のチカラにより脳内の老廃物がきれいに除去される。と書かれている。

また、書籍「Sleep(最高の身体と脳を作る技術)ショーンスチーブンソン著 花塚恵訳 ダイヤモンド社」の中で著者のショーンスチーブンソン氏はこの書籍の中で次のように書かれている。

「老廃物を除去する脳のシステムは睡眠時に活性化する」という章の中で

「脳は実に様々な働きをするが、その結果、大量の老廃物が生まれる。

それらは全て排除しなければならない。

老廃物を取り除く事で、文字通り、新たな成長や発達の余地が生まれるからだ。

死んだ細胞の除去やリサイクル、有害物質の排除、老廃物の排出は脳を機能するうえで絶対に欠かせない。

眠っている間の老廃物を除去する活動は目覚めている間の10倍以上老廃物を除去する活動が活発になるという。

目覚めているときの脳は学習や成長に勤め、脳の持ち主が活躍できるよう協力している。

ずっと動きっぱなしなので、たくさんの老廃物がたまっていくが、そのほとんどは睡眠が持つ修復の力で除去される。

例えば、自宅のごみを捨てるシステムがとどこおれば、家はあっという間に悲惨なことになる。

それと同じでように充分な睡眠をとらず、その老廃物を除去する働きがなければ脳内が大変なことになる。

具体的に言うと,

有害な老廃物を除去する事が無いことがアルツハイマー病を発症する根本的な原因の一つだと言われている。 」

と書かれている。

さらにまた、著者は睡眠環境について

「睡眠環境を真っ暗な状態にして寝ることが重要である」

と説き、次のように書かれている。

「まずは、近年、人気が高まりつつあるカーテンを遮光カーテンに替えよう。

それから光を発し続けるものを寝室から取り除こう。

この二つを今夜のうちに行えば、明日起きたらきっと私に感謝したくなる。

睡眠の専門家は、顔の前に手をもってきても見えないくらいの暗闇で寝ることを奨励している。

私たちの遺伝子は、暗闇で眠る事を当たり前だと思っている。

いまは部屋のなかで何かしらの光が一晩中ついていることも珍しくもない。

外の世界で起きることはどうにもならないのだから、せめて自分の家の中の事は自分の手で何とかするしかない。

だからこそ、遮光カーテンは必要だ。

寝室を居心地のいい暗闇に変えるべく、行動をおこそう。

私の睡眠は暗闇に変えた瞬間からよくなった。

寝室を真っ暗にするようになってからというもの、最高の睡眠がずっと続いている。」と書かれている。

遮光カーテンが難しければアイマスクも有効かもしれない。

チベット仏教の最高指導者、ダライラマ法王猊下は

「睡眠は最良の瞑想である。」

とお説きになられている。

また、数千年前に編纂されたとされている古代インドの哲学書のウパニシャッド(奥義書)の中に「深い睡眠は真実の自己とつながっている」という記述がある。

仏教の祖師達の霊験談を考える

仏教の開祖や仏教の各宗の祖師の方々の霊験談を次に紹介していきたい。

先ず、仏教の開祖である仏陀釈尊についてであるが、釈尊自身の瞑想体験として、修行を完成し仏陀に成られた釈尊は、仏陀としての最高の悟りを開く直前、非常に深い瞑想中において、無量無数の生き物達がそれぞれの業、それぞれのカルマに応じて無限に近い膨大な時間、無量無数とも例えられる程の回数、生き替わり死に替わりを繰り返している情景をその超人的透視力で実際に透視したという釈尊自身の体験が仏典(阿含経)に説かれている。

以下は釈尊自身の瞑想の体験談である。

「このように 私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、種々なる過去の生涯を想い起こした。

すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、また幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。

我はそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカースト(階級)であり、これこれの食を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。

そこで死んでから、かしこに生まれた。

このように形や名称とともに種々なる過去の生涯を想い起こしたのである。

このように私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。

実にこれらの生存者は身に悪行を行い、言葉に悪行を行い、心に悪行を行い、もろもろの聖者をそしり、誤った見解を抱き、誤った見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後に悪しき所、堕ちた所、地獄に生まれた。

また、他のこれらの生存者は、身に善行を行い、言葉に善行を行い、心に善行を行い、諸々の聖者をそしらず、正しい見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後、善い所、天の世界に生まれた。

このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。」

また、インドの古代文献であるウパニシャッド(奥義書)の教えに、悟りを得たときには過去の生涯を明らかに思い起こすという思想がある。

そして、ジャイナ教の教えにおいても、修行者が悟りを開いたときには世界、神々、人間、悪魔のありさま、彼らがどこから出てきてどこへ行くか、という詳しい姿を見透したという。

(書籍「思想の自由とジャイナ教 中村元撰集決定版  第10巻 春秋社」参照。)

以上の事から要約すると、仏陀釈尊の覚醒の課程は三夜にわたる智の開眼、智慧の獲得で説明される。

すなわち、第一夜(初夜 夜6時~夜10時頃)において釈迦(釈尊)は瞑想によって自らの百千の生涯、幾多の宇宙の成立期、破壊期、成立破壊期を残らず想起した。(宿明智の獲得)

次に、第二夜(中夜 夜10時~夜中2時頃)において天眼(清浄で超人的、神的な透視力)により生き物達が無限の生死循環(輪廻転生)を繰り返す様を見透す。(天眼智の獲得)

最後に、第三夜(後夜 夜中2時~朝6時頃)において「一切(輪廻転生の本質)は苦である」という認識を得、縁起の法を悟って覚醒、漏尽解脱、智慧解脱の完成を得た。(漏尽智の獲得)

そして、「わたし(釈尊)は最高の道を悟った。私の悟りは揺るがず、壊れない。私は解脱を果たした。もう苦しみの世に生まれる事は決してない。」とある。

また、釈尊はこの瞑想法だけで仏陀に成られたのではなく釈尊自身の過去世からの無量無数ともいうべき積徳の行為、功徳を積んだ行為より生じた福徳の力、福力により仏陀に成る事が出来たとされる。

仏教では福徳の力で成仏するという教えがあり、

舎利禮門というお経の文言に「万徳円満、釈迦如来」という言葉がある、

つまり万(よろず)の徳、全ての徳が完全に備わっている釈迦如来という意味であるがブッダに成るには大きな徳が必要とされる。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』

参照。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』

参照。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』

参照。

釈迦(ゴータマ・シッダールタ)(インド)

釈迦(ゴータマ・シッダールタ)、舎衛城の神変

参考書籍

「ゴータマ・ブッダⅠ 原始仏教Ⅰ 決定版中村元撰集 第11巻 春秋社」

「ゴータマ・ブッダⅡ 原始仏教Ⅱ 決定版中村元撰集 第12巻 春秋社」

パーリ仏典、漢訳仏典、参照。

次に、西遊記で有名な玄奘三蔵法師様が仏典を求めての旅の途上、砂漠で彷徨い、死にかけていたところ、般若心経を唱え、救われた話や、また、その旅の途中に盗賊に捕らえられ、玄奘三蔵法師様が処刑されようとする直前、突如、天地が鳴動し天候が一変し、処刑執行人が驚き恐れ、処刑する事を止め、玄奘三蔵に帰依した話などが伝えられている。

玄奘三蔵法師(中国)

玄奘三蔵法師はインドへの求法の旅の途上、砂漠で彷徨い、死にそうになっている時、仏教の守護神、大般若経を守護する十六善神である深沙大将(じんじゃだいしょう)が現れ、玄奘三蔵法師を助けたと伝えられている。

次に、インドの善無畏三蔵法師様、この方は、真言密教伝持八祖の内の第五祖にあたるインドの高僧であり、弘法大師空海様は第八祖にあたりますが、その善無畏三蔵法師様の伝記に「商人と善無畏三蔵法師様が船での航海中に、船上において商人が盗賊に襲われた際、善無畏三蔵が観音様の準提呪の黙誦をすると準提観世音菩薩様が全身のお姿を現され商人を盗賊の難から救った。」と伝えられています。

準提観世音菩薩

準提観世音菩薩

善無畏三蔵(インド)

弘法大師空海(日本)

弘法大師空海(日本)

次に真言宗の開祖であり、高野山を開いた弘法大師空海様が若い頃に修行し四国の室戸岬で修行の結果、特殊な神秘体験をした事で有名な「虚空蔵菩薩求聞持法」という密教の修行法があります。

虚空蔵菩薩

虚空蔵菩薩

この修行は虚空蔵菩薩様のご真言「のうぼう あきゃしゃぎゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」というご真言を百日間の間に百万回唱えるという修行で空海様は特殊な神秘的な体験をしたと伝えられている。

「三教指帰」という空海様の著書の冒頭にその体験を「谷響きを惜しまず明星来影す」という表現でその神秘体験を表現されています。
「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」というお経の中でこの修行が成功すると様々な霊験があると伝えられている。

四国の室戸岬において虚空蔵菩薩求聞持法を修行する若き頃の弘法大師空海様

また、弘法大師空海様が密教の経典を求め日本から唐(現在の中国)への航海中、涌現観音様が現れ空海様の航海を見守った。

涌現観音様

また、唐から日本に帰国する空海様の乗った船に暴風雨、荒れ狂う波がまさに襲い掛かろうとした刹那、突如として洋上に巨大な不動明王が現れ、不動明王の持つ宝剣が荒波を切り裂き、空海様の乗った船を無事日本に帰国出来るよう助けたと伝えられています。

この時の不動明王は波切不動明王とされています。高野山に波切不動明王様がお祀りされています。

不動明王様

不動明王様

求法の為、荒波の中を航海中の弘法大師空海様

各宗旨宗派の高僧との仏教討論の際、他の宗旨宗派の高僧が来世成仏を説く中、弘法大師空海様ただ一人だけが即身成仏を説き、各宗旨宗派の高僧からその論拠を示せと迫られ、嵯峨天皇及び各宗旨宗派の高僧達の御前で即身成仏の境地に入り大日如来の姿に変化した弘法大師空海様(清涼殿において)

この現象について、書籍「密教誕生 桐山靖雄著 平河出版」の中で弘法大師空海様が現した奇瑞について著者である阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下は次のように説かれている。

「朕、空海の最尊最上の教を深く信ず。

さりながら、朕、密教にて説く即身成仏の現証を未(い)まだ見ず。」

と(帝が空海に問うと)

御声のもとに、空海は、静かに南面して結跏趺坐し、手に智拳印をむすんで口に密言(みつごん)を誦す。

心は六大平等観に住すると見る間(ま)に、身はたちまち紫磨黄金(しまおうごん)の膚(はだえ)となって、五色遍照の光明を放ち、頭(こうべ)に五智の宝冠を現じて、座は八葉の蓮華となった。

帝は、畏くも玉座から下り給うて、南無遍照金剛と御拝あらせられた。

各宗の賢哲たちも、居ならぶ朝臣等も、ひとしく平伏して、随喜讃仰の手を合わせた。

ややあって、空海は、ふたたび元の体にかえり、ここに、生仏(しょうぶつ)不二、凡身即仏の妙諦を如実に示したのである。」

天暦十年(九五六年)に著された「孔雀経音義」は、つぎのように述べている。

「仍(よ)って大師智拳印を結び、南方に向うに南門俄(にわ)かに開けて、金色の毘盧遮那を成じ、眉間に白毫相(びゃくごうそう)の光を放つ。

爰(ここ)に一人(天皇のこと)諸臣七宗の衆徒は驚いて地に下り、皆ことごとく礼拝す。

即ち本体に還帰す。

入我我入の諍、即身頓証の疑いはこの日より釈然たり。

真言瑜伽宗秘密曼荼羅之道は彼の時より建立す・・・・・。」

書籍「密教誕生 桐山靖雄著 平河出版」442頁~443頁参照。

次に、鎌倉時代に活躍した日蓮宗の開祖である日蓮上人様の霊験談に龍ノ口の奇跡という話がある。

日蓮上人様が当時の幕府や諸宗を批判したとして、佐渡流罪の名目で、鎌倉の松葉谷草庵にいた日蓮上人様を捕縛し連行。

翌日の9月13日子丑の刻(午前2時前後)、日蓮上人様を土牢から引き出し日蓮聖人様は、はだか馬に乗せられ、江ノ島片瀬 龍の口(たつのくち)刑場へと引かれていった。

途中、鶴ヶ岡八幡宮にさしかかったとき、日蓮聖人様は大声で

「八幡大菩薩はまことの神か・・・」と、法華経の行者を守る役目を果たすよう叱りつけました。

源氏の氏神を叱りつけたから、役人はびっくりし、あわてて馬を引き立てた。

鎌倉を引き回された後、日蓮聖人様は龍の口の刑場で敷物に座らされ、とうとうその首が刎ねられようとしていた。

いよいよ首を斬ろうと、役人が刀をかまえたその瞬間、江ノ島の南東から満月のように大きな光る不思議な光の玉が飛んできて北西へと飛び、日蓮聖人様の上に現れた。

そして頸を刎ねようとして太刀を大きく振りかざした武士を直撃し、役人は驚いて逃げ去り、太刀は三つに折れてしまい、その手足は動かなくなってしまった。

処刑どころではなかった。


「日蓮の首は斬れません。」と早馬が鎌倉に向かい、鎌倉からは「日蓮の首を斬るな!」との連絡があり、何かの理由により刑は中止されたという。

この竜ノ口の奇蹟の話を本で読んだり、人の話で聞いたりすると、『観音経』の中の観世音菩薩普門品偈(かんぜおんぼさつふもんぼんげ)に説かれている次の経文を思い浮かべる。

「或値怨賊繞(わくちーおんぞくにょう)

各執刀加害(かくしゅーとーかーがい)

念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)

咸即起慈心(げんそくきーじーしん)

或遭王難苦(わくそーおーなんくー)

臨刑欲壽終(りんぎょーよくじゅーじゅー)

念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)

刀尋段段壊(とーじんだんだんねー)

或執禁伽鎖(わくしゅーきんかーさー)

手足被杻械(しゅーそくひちゅーかい)

念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)

釈然得解脱(しゃくねんとくげーだつ)」

ちなみに、『観音経』というお経は『法華経』の第二十五巻目に説かれているが、もともとインドにおいて観音信仰が盛んにおこなわれている地域があり、法華経の編集者がこの観音信仰に基づく「観音経」を取り入れたという説があります。

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次に、霊友会4代目の会長の大形市太郎氏は昭和20年8月に原子爆弾の被害を受け、その原子爆弾の熱線で全身大やけどをしたが、ある夜、信心深い市太郎氏の母親の夢の中に先祖が現れ、「おまえの息子の大やけどは私が教える場所の薬屋で私が教える薬を買い、その薬を全身に塗ればきれいに治る。」といわれた。

母親は市太郎氏にその話をして市太郎氏は「原爆で跡形もないであろう。」と思いながらも母が夢の中で見た先祖が言われた通りの道を行くと不思議にもその薬屋は原爆で破壊されていなかった。

そして、市太郎氏はその薬屋で先祖が言われた通りの薬を買い、母親にやけどをした全身の皮膚にその薬を塗ってもらった。

のちに、市太郎氏の友人たちは病院で治療を受けたが原爆のケロイドは残った。

しかし、市太郎氏にはケロイドは残らなかったという。

そのことが契機となり無宗教、無信心、無信仰者であった市太郎氏は「信仰の力、目に見えない力というものは確かにあるんだ。」と考え、その信心深い母親にお経の読み方を一から教えて欲しいと頼んだ。という。

次に、阿含宗の開祖、桐山靖雄大僧正猊下が1996年6月モンゴルのガンダン寺境内において桐山靖雄大僧正猊下、率いる阿含宗による国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要が厳修された。

この年のモンゴルは大旱魃で雨がほとんど降らず、モンゴル全土で山火事が200箇所以上で燃え広がり数ヶ月間燃え続けていた。

モンゴルは日本の国土面積の4倍近くあり広大な山火事にモンゴル人民は頭を悩ませていた。

阿含宗の桐山靖雄大僧正猊下とその信徒、約400名の方達がモンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国十一面観音菩薩開眼法要 世界平和祈願護摩法要を勤修した。

護摩修法が始まる前後、モンゴル全土において雨が降り出し護摩修法後には滝のような大雨が全土で降り、1996年の2月の下旬から約3ヶ月間以上続いていた山火事が法要後、5日間で消えてしまった。と書籍「祈りは天地を動かす」「モンゴル紀行」に書いてある。

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このモンゴルの奇跡について阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「阿含仏教 超奇跡の秘密 桐山靖雄著 平河出版社」の中で次のように書かれている。

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「当時、モンゴルでは昨年末からほとんど雨が降らず、大旱魃に陥っていた。

そこへ、2月から山火事、草原の火事が各地で起こり始め、5月には北海道と四国を合わせたほどの面積が消失し、なおも延焼中という状況であった。

国境を越えて中国領内にもかなりの被害が出ていたようであった。

7月に入らなければ本格的な雨季にならず、この大火災を消すほどの豪雨は望めなかった。

また、降ったとしても鎮火には最低1ヶ月はかかるだろうと報道され、周辺の諸国から憂慮されていた。

6月3日、首相官邸を表敬訪問した私(桐山靖雄氏)は沈痛な面持ちで「雨が降らないので困る。」と話されるジャスライ首相(モンゴル国)に対し「5日の日に行われる国立十一面観音の開眼法要に豪雨を祈るからきっと雨が降りますよ。」と言った。

ごく自然にその言葉が口から出たのである。

別に何の意気込みも気張りもなかった。

気の毒だなと思うと同時に「よし、雨を降らせてあげよう!」という気持ちになったのである。

「私が祈れば必ず雨が降る。」そういう確信があった。

彼(ジャスライ首相(モンゴル国))に「火事は必ず消えますよ。」帰りしなにそう付け加えた。

その夜、深夜、私(桐山靖雄氏)はホテルの一室に籠り、一人、定(瞑想)に入った。

法要の当日までおよそ30分ずつ続けるのである。

法力集中のためである。

その翌日から定(瞑想)に入っていると法が動き出していることを感じた。

実際に草原の彼方に厚い雲が集まり出し始めたのである。

6月5日、法要当日未明に雷鳴が轟き、豪雨が大地を叩いた。

続いて各地に大豪雨が降り続き、法要から5日後、日本の国土の4倍以上もあるモンゴル百数十箇所の大火災が全て完全消火した。

私のモンゴル訪問は前年の11月に決定し、すべてのスケジュールが組まれていたのである。

スケジュールになかったのは雨を降らせることだけだった。」

また、桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「阿含仏教 超奇跡の秘密 桐山靖雄著 平河出版社」の中でこのような奇跡、このような神変力について仏教語大辞典を引用され、次のように解説されている。

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「神変=仏、菩薩が衆生の教化のため、超人的な力によって種々のすがたや動作を現すことをいう。

神通に同じ。奇跡、あるいは奇跡を行なうこと。

奇瑞=古代インドでは、宗教的に高い境地に達した修行者は、しばしば超人的能力を現したという。

仏教では六通、三明とよび、これらの能力は、禅定とよばれる精神統一の副作用として得られるものと考えられていた。

また、神通は、「信仰の厚い、立派な男によって、奮闘の持続によって、不抜の意力によって、人間の力によって、人間の精神・人間の努力・人間の忍耐によって得られるべきもの」と経典に説かれている。

そういう心構えをもった者が、努力を重ねていくとき、その人間自身でも思いがけないほどの力を現すことがある。」と。

以上ような神通奇跡談について、仏教学者の水野弘元博士はその著書「原始仏教」の中で神通奇跡談について次のように書いておられる。

「今日の合理主義的な考え方からすれば仏陀及び原始仏教が三明六通という奇跡的神通力を説いたことはいかにも仏教の合理性を没却したものであり、おそらく原始仏教では説かれていなかったものを新たに加えられた挿入の不純物に過ぎない。と考える学者がいる。

しかし、仏教を単なる科学や倫理や修養ではなくして宗教であると考える限り、このような神通奇跡の存在は仏教の宗教的要素として極めて価値があり、かつ必要なものである。

2500年の昔において仏教は今日の科学時代にも劣らない合理性や倫理性を有したのであるが、しかし、単なる合理性や倫理性だけではそれは宗教とはなり得ないであろう。

宗教である限り、自らの実践だけではなく、他をも絶対信に導き入れなければならない。

宗教を他の方々に対し教化救済する利他的な宗教面は三明六通というような神通奇跡によって得られるのである。

宗教が多くの人々に信じられていくのは神通奇跡によってである。

また仏教各宗の祖師と言われるような人々も多かれ少なかれ常人を超えた不思議な力を持った人であったに相違ない。」とある。

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大柴燈護摩修法中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(日本)

今から約2500年前、ブッダ釈尊が約18年間、人々を説法、教化した土地、場所とされているインド サヘト・マヘト(祇園精舎)。

1980年11月、インド サヘト・マヘトへの仏跡巡拝をされた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。当時、59歳)

インド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地

今から約2500年前、ブッダ釈尊が多くの人々の前で大神変力を現わしたとされているインド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地において強烈な仏勅、強烈な霊的バイブレーションを受けた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1980年11月8日、当時59歳)。

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今から約2500年前、ブッダ釈尊が多くの人々の前で大神変力を現わしたとされているインド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地に立つ阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1980年11月8日、当時59歳)

そのインド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地において強烈な仏勅、強烈な霊的バイブレーションを受けた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。

阿含宗 観返り阿含 思念による王者の相承 ※映像切れあり※ (youtube.com)

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講演中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(日本)