精進料理の健康効果についての法話(特に心臓病の予防効果について)

高野山や比叡山、永平寺などのお寺、宿坊に宿泊すると精進料理が出される事が多いが、そもそも精進料理とは動物性タンパク質を控えた料理、例えば肉や魚などの魚肉を使わず調理した料理である。

肉や魚を食べることは、その前提として牛や豚や魚などの命を絶つことになるので、仏教の思想、生き物を殺すなという戒律、いわゆる不殺生戒の観点から、また、動物たちに対する思いやり、慈悲の観点から、出来るだけ動物などの生物の殺生を行わずに調理できる料理が古来から考案されてきた。

ところで、その精進料理の健康効果はどうだろうかと考えたところ、動物性の肉食を控えることは心臓病や各種の成人病予防効果があると思われる。

その根拠の一環として次の書物を紹介したい。

アメリカの著名な栄養学者、ジーン・カーパー氏は著書「食事で治す本 下 ジーン・カーパー著 ハルキ文庫」の中で心臓病と動物性脂肪の摂取との因果関係について次のように述べておられる。

「動物性の飽和脂肪は避けるべきだ。それは心臓において真の悪魔である。それは血中コレステロールを上げ、血液の粘度を高めてくっつきやすくさせ、血栓溶解のメカニズムを抑圧して動脈を破壊し、動脈を詰まらせ、狭窄(きょうさく)させる。

世界で動物性脂肪を最も多くとっている地域は、冠状動脈性心臓病の最高率を示している。動物性脂肪の摂取の増加が心臓病の増加を招いている。

1990年の世界保健機構(WHO)の報告は、摂取カロリーに占める飽和脂肪の比率が3%~10%のところでは心臓病が少ないことを明らかにしている。飽和脂肪の摂取がそれ以上になると、顕著な進行性の致命的心臓病を引き起こすのだ。

アメリカと西欧諸国では、飽和脂肪が摂取カロリーの15%~なんと20%を占めているところが多い。

動物性脂肪をとらないようにすることで、あなたのミステークは逆転でき、動脈を詰まらせないように出来る。数件の研究が動物性脂肪を制限すると、動脈への脂質の(たいせき)とその成長が阻(はば)まれ、動脈の詰まるのが防がれ、脂質の堆積物が縮小させすることを明らかにしている。

南カリフォルニア医科大学のデービット・H・ブランケンホーン医博は、低飽和脂肪食(摂取カロリーに占める比率が5%)で冠状動脈にバイパス手術を受けた患者に良い結果をもたらしている。

「たんに高脂肪乳製品を低脂肪乳製品に切り替えるだけで」大多数の人が動脈を動物性脂肪による破壊から守ることができると、医博はいっている。

もしも、私が心臓病のリスクを下げる方法をただ一つだけいえといわれたら、動物性食品、とくに動物性脂肪の摂取を減らして、その代わりに炭水化物複合体━穀類、果物、野菜を多く食べるようすすめる。

(アーネスト・シェファー医博、タフト大学の廊下についてのアメリカ農務省人間栄養リサーチ・センター)」

と述べている。

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パーリ仏典『テーリー・ガーター』より女人禁制、男尊女卑思想の是非について考える

和歌山県にある真言密教の聖地である高野山は、かつて、女人禁制の地として女性の参拝は明治時代まで出来ず、高野山の入り口付近にある女人堂までしかお詣りが出来なかった過去がある。

また、男尊女卑、つまり、男性が尊く女性は卑しいという思想は仏教思想から来ているとも言われてきた。

お釈迦様が使用していた言語、パーリ語で書かれたお経で、紀元前3世紀頃から紀元前1世紀頃、スリランカに伝えられたお経に『テーリー・ガーター』というお経がある。

この『テーリー・ガーター』というお経は、お釈迦様の弟子である女性修行者たちが修業し悟りを開くことが出来た後に語られた体験談などが記されている。

パーリ語で書かれた『テーリー・ガーター』の原文と日本語での解説が共に掲載された書籍「パーリ文『テーリー・ガーター』翻訳語彙典 植木雅俊著 法蔵館」という書籍がある。

その書籍の著者、植木雅俊博士によると、その『テーリー・ガーター』というお経は日本や中国、朝鮮などの北伝仏教には伝えられなかった。という。

また、この書籍の前文の解説で次にように書かれている。

「女性であることが一体、何の妨げをなすのでしょうか」。

女性差別の社会で釈尊と出会い、自己の尊さに目覚めた尼僧たちの赤裸々な体験談。

「女性差別の著しい古代インド社会にあって苛まれていた女性たちが、釈尊と出会って、人間としてあるべき“普遍的真理”(dhamma、法)を覚知し、真の自己に目覚めて人格の完成を果たすとともに、自己の尊さに目覚めて溌剌とした生き方に蘇生していった体験が赤裸々につづられている。

その女性たちが、異口同音に「私は解脱しました」「私は覚りました」「私はブッダの教えをなし遂げました」「私の心は安らいでいます」と誇りをもって語っているのである。……

後世にゆがめられた仏教の女性観を正し、歴史的人物としての釈尊の女性観を知る上で、『テーリー・ガーター』は欠かすことのできない重要な文献であることが理解されよう。」

と著者の植木博士は説かれている。

もし、この『テーリー・ガーター』が千数百年前の日本の仏教伝来の際に伝えられていたならば高野山の女人禁制や昔から一部で言われてきた男尊女卑という思想は、ひょっとするとなかったのではないかと思われるほど貴重なお経であると思われる。

また、仏教を真に理解、解読しようとするならば、お釈迦様が実際に使用されていたパーリ語で仏典を研究しなければならないと思われる。

この書籍「パーリ文『テーリー・ガーター』翻訳語彙典 植木雅俊著 法蔵館」はパーリ語と日本語の解説が併記されており、500頁以上の大部の書物であり、比較的高価な書物ではあるがパーリ語の学習には最適のテキスト、最適な参考書であると思われる。

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釈尊が護摩を禁止、否定されていたのではないか?と思われる阿含経、パーリ経典のお経についての法話

護摩(ごま)、いわゆる、密教系の寺院などにおいて、佛菩薩像、明王像、仏舎利塔などの前に護摩壇を設置し、その護摩壇上に火を焚き、その火で佛菩薩やその他、諸精霊を供養する儀式、法要の事を意味する。

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下による内護摩修法

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下による内護摩修法

また、密教において護摩は修行法の一部として定義されているが、仏教の開祖である釈尊は護摩についてどのように考えていたか、どのような見解をもたれていたのかが気になる。

私は、今まで、仏跡、仏画など多くの仏画を見てきたが、お釈迦様が護摩を焚いている仏画を一度も見たことがなく、お釈迦様が護摩を焚いたというお経を読んだことは寡聞にして一度もない。

ところで、書籍「ブッダ 悪魔との対話 中村元著 岩波文庫」及び書籍「月間アーガマ50号 阿含宗総本山出版局」においてインド哲学及び仏教学の世界的権威である今は亡き中村元博士がパーリ仏典サンユッタ・二カーヤや漢訳仏典『雑阿含経 四十四巻七』(大正新修大蔵経2巻 阿含部下 大蔵出版社)(320頁~321頁)を引用し、釈尊と事火外道との対話を紹介している。

事火外道とは火を祀り、火を拝み崇拝する宗教、ゾロアスター教などの火を祀る宗教などを指すが、一般的に、外道とは悪者を意味する言葉と世間一般では考えられているが、仏教では、いわゆる仏教の観点からすると、仏教以外の宗教を全て外道と呼ぶ、あくまで仏教側から見た呼び名である。

釈尊は、その事火外道の行者に対して、火を拝み、火を祀る護摩を否定されていると思われるようなお経が紹介されている。

内容は以下の通り。

『尊師(ブッダ)は事火外道の行者に曰はく、

「バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。

それは単に外側に関することであるからである。

外的なことによって清浄が得られると考える人は、

実は浄らかさを得ることができない。

と真理に熟達した人々は語る。

バラモンよ。わたしは(外的に木片を焼くことをやめて)

内面的に光輝を燃焼させる。

永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、

敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。

バラモンよ。そなたの慢心は重檐(ちょうえん)である。

怒りは煙であり、虚言は灰である。

舌は木杓であり、心臓は(供犠のための)光炎の場所である。

よく自己を調練した人が人間の光輝である。

バラモンよ。戒しめに安住している人は法の湖である。

濁り無く、常に立派な人々から賞賛されている。

知識に精通している人々はそこで水浴するのである。

肢体がまつわられることの無い人々は彼岸に渡る。

真実と法と自制と清浄行、

これは中(道)に依るものであり、ブラフマンを体得する。

バラモンよ

善にして真直ぐな人々を敬え。

その人を、わたくしは(法に従っている人)であると説く。』

(書籍「ブッダ 悪魔との対話 中村元著 岩波文庫」147頁参照。

書籍『月刊アーガマ50号 (昭和59年出版) 阿含宗総本山出版局』 24頁~25頁参照。)

このように、お釈迦様が護摩を実際に否定されているような見解をもっていた事を考えると、日本の仏教寺院、特に密教系寺院において古来から現在に至るまで、また現在もなお、護摩修法が日常的に修され続けていることを鑑みると、何か考えさせられるものがある。

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下による内護摩修法

            釈尊 初転法輪像

書籍『大正新修大蔵経二巻 阿含部下 大蔵出版社』320頁~321頁 参照。

インド哲学及び仏教学の

世界的権威   中村元博士

仏陀が説く貪瞋痴の煩悩について

仏教では貪瞋痴の三毒、いわゆる、貪り、瞋り、痴の煩悩が悪趣に赴く原因であると説かれている。

『南伝大蔵経 小部経典』の中の『如是語経』においてブッダは貪瞋痴の三毒、について次のように説かれている。

「げにこれを世尊(せそん=仏の別名、世間から尊ばれるべきお方という意味)は説き應供(応供)(おうぐ=仏の別名、供養に応えることが出来る存在を意味する)は説き給へりと我聞けり。

比丘衆(出家修行者)よ、一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果(ふげんか=二度とシャバ世界に生まれて来ない聖者、仏に次ぐ位の高い聖者)の成就者なり。何れの一法ぞ。

比丘衆よ、貪の一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果の成就者なり。と。

この義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ。

「貪婪の有情(生きもの)は、貪によりて悪趣に行く、

勝観の者はその貪を、正しく知りて断つ、

断ちてこの世に、決して再来せず」と。

世尊はこの義をも説き給へりと我聞けり、と。

げにこれを世尊(せそん)は説き應供(応供)(=仏の別名、供養に応えることが出来る存在を意味する)は説き給へりと我聞けり。

比丘衆(出家修行者)よ、一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果(仏に次ぐ位の高い聖者)の成就者なり。

何れの一法ぞ。

比丘衆よ、瞋の一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果の成就者なり。と。

この義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ。

「嗔(いか)れる有情は、瞋(しん)によりて悪趣に行く、

勝観の者はその瞋(しん)を、正しく知りて断つ、

断ちてこの世に、決して再来せず」と。

世尊はこの義をも説き給へりと我聞けり、と。

げにこれを世尊は説き應供は説き給へりと我聞けり。

比丘衆よ、一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果の成就者なり。

何れの一法ぞ。

比丘衆よ、痴の一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果の成就者なり。と。

この義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ。

「痴れる有情は、痴によりて悪趣に行く、

勝観の者はその痴を、正しく知りて断つ、

断ちてこの世に、決して再来せず」と。

世尊はこの義をも説き給へりと我聞けり、と。」

書籍「南伝大蔵経 第二十三巻 小部経典Ⅰ 大蔵出版社」参照。

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天界に生まれ欲望を満たす方法と布施の意義を説いた世尊(ブッダ)

仏陀は、人が死んだ後、天界に生まれ、欲望を満たすことが出来る方法として、ケチな心を捨て、聖者や多くの人々に飯を施すことがその方法であるとお説きになられている。

『南伝大蔵経 小部経典(第二十三巻)(小部経典Ⅰ)』の中の『如是語経』

というお経に次のように説かれている。

『げにこれを世尊(せそん)(=仏の別名)は説き應供(おうぐ)(応供)(=仏の別名、供養に応(こた)えることが出来る存在を意味する)は説き給へりと我聞けり。

「比丘衆(仏教の出家修行者たち)よ、我知るが如く斯若し衆生(しゅじょう=生き物たち)は布施・均分の果報を知らば與(あた)ずして食することなく且つかの慳悋(けんりん)(=ケチの意味)の汚れを心に懐(いだ)きて住することなけむ、

假令かの最後の一摶・最後の一口たりとも有する者は則ち若し受く可きもの有らば均分せずして食すること無からん。

何となれば、比丘衆よ、我知るが如く衆生(しゅじょう)(=生き物たち)は斯く布施・均分の果報を知らざるが故に與(あた)へずして食し、慳悋(けんりん)(=ケチの意味)の汚れをその心に懐(いだ)きて住するなり」と。

此の義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ、

「均分の果報の如何に大果あるやを、

大仙の宣へるがごと斯く若し衆生らば、清き心もて吝嗇(りんしょく)ケチ)の汚れを拂(はら)ひ、大果の得らるる聖なる者に適時に施せよかし。

多くの人に飯(めし)與(あた)え、應施者に施をなして施主は此處より逝きて天上に至るなり。

かく天上に行ける者は欲を満し喜び吝嗇(りんしょく)を無み、均分の果報を受く。』とある。

さて、ビルマやミャンマー、タイ、スリランカなどの東南アジアの国々、南伝仏教を信仰する多くの在家の仏教信者たちは毎朝、托鉢に来た出家修行者の方々に食事を布施する長きにわたる伝統があるが、その布施の行為が功徳となり死後、天界に生まれ変わり、良き生涯を送ることが出来ると考えている在家の信者の方々が多い。

次に、仏教は大まかに説明すると、インドから中国、朝鮮、日本と伝わった北伝仏教とインドからスリランカ、ビルマ、タイ、ミャンマーなどの南側へと伝わった南伝仏教がある。

その南伝仏教国の方々が日々、信仰、所依の経典としているのが南伝大蔵経である。

日本において南伝大蔵経の存在が知られるようになったのは明治、大正時代、昭和などの時代、いわゆる近代、現代においてからで、南伝大蔵経のおおまかな内容は北伝仏教、つまり漢訳経典の阿含部と律部経典が内容としてほぼ重複している所が多いとされている。

その漢訳仏教の阿含部には長部阿含、中部阿含、雑阿含、増一阿含という4種類の阿含経典が存在するが、南伝仏教の経典には長部、中部、雑部、増一とは別に小部経典というお経が存在する。

書籍「南伝大蔵経 第二十三巻 小部経典Ⅰ 大蔵出版社」参照。

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弘法大師空海様が説く十善戒について

仏教には十善戒という戒律が存在する。

すなわち、

①不殺生戒(ふせっしょうかい)、

②不偸盗戒(ふちゅうとんかい)、

③不邪淫戒(ふじゃいんかい)、

④不妄語戒(ふもうごかい)、

⑤不両舌戒(ふりょうぜつかい)、

⑥不悪口戒(ふあっくかい)、

⑦不綺語戒(ふきごかい)、

⑧不貪欲戒(ふとんよくかい)、

⑨不瞋恚戒(ふしんにかい)、

⑩不邪見戒(ふじゃけんかい)

という十種類の戒律がある。

真言密教の開祖である弘法大師空海様は晩年の著作『秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』の中でこの十の戒律、すなわち十善戒について次のようにお説きになられている。

「次に十善を修することを明かす。

・・・・中略・・・・

殺と怨恨(おんごん)とを離れて利慈を生ずれば端正なり長命なり諸天護(まも)る。

盗まず知足にして衆生に施せば資材壊(え)せず天上に生ず。

邪淫を遠離(おんり)して染心(ぜんしん)なければ自妻に知足す

況(いわ)んや他女をや。

所有の妻妾侵奪(しんだつ)せず。

これ円寂の器として生死を出ず。

妄語せざれば常に実言なり。

一切みな信じて供(ぐ)すること王の如し。

両舌語を離れて離間なければ親疎堅固にして怨の破することなし。

もろもろの悪口を離れて柔軟の語なれば勝妙の色を得て人みな慰(やす)んず。

道義の語を思いて綺語(きご)を離るれば現身にすなわち諸人の敬を得’(う)。

他の財を貪せず心願わざれば

現には珠宝を得て後には天に生ず。

瞋(しん)を離れて慈(じ)を生ずれば一切に愛せらる。

輪王の七宝これによりて得(う)。

八邪見を離れて正道に住するは

これ菩薩の人なり煩悩を断ず。

かくの如くの十善の上中下は粟散(ぞくさん)と輪王と三乗との因なり。

「華厳経」にいわく、「十善業道は、人天の因及び有頂の因なり。」

すまわち、

「殺生と怨みとを離れて人々のために慈(いつく)しみを生ずれば端正にして長寿であり、神々に守護される。

盗まず、足るを知って人々に施せば物質・財産がなくならずに天上界に生まれる。

異性に対する邪(よこし)まな行為(邪淫)を離れて煩悩の心がなければ自分の妻に満足するから、ましてや他の婦人に対して煩悩の心が起ころうか

自分の妻妾をうばわれることがない。

これはさとり(円寂)の器(うつわ)にして迷い(生死)を出ることである。

嘘(うそ)をつかない者は常(つね)に真実(しんじつ)を語る。

すべての人々はみな信じてものを供(そな)えることは王のようである。

二枚舌を離れて人々を仲たがいさせることがなければ親しい人とも、疎(うと)い人とも関係が確かで、怨(うら)みによって破られることがない。

もろもろの悪口を離れてやさしい言葉で語れば勝れて妙なる姿かたちを得て人はみな安らかである

理にかなった言葉を心がけて、飾った言葉を離れるならばこの身にすなわちもろもろの人の尊敬を得る。

他人の財産を貪らず、心に願わなければ現世に宝珠を得て、後世に天に生まれる。

怒りを離れて慈(いつく)しみを生ずれば、すべての人々に愛され転輪聖王(てんりんじょうおう)の七宝をこれによって得る。

八つの邪まな見解(八邪見)を離れて正しい道にあるのはこれは菩薩の人、煩悩を断ったのである。

このような十善の上と中と下の部類は小国の王と転輪聖王と三乗(声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんがくじょう)・菩薩乗(ぼさつじょう)とのいずれかになるものである。」

華厳経にいう

「十善業道というのは、人間界と天界に生まれる原因であり、有頂天に生まれる原因となる。」

 弘法大師空海様の御影

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ブッダが説く父母孝養、父母に対する報恩についての法話

   ブッダ釈尊 初転法輪像

ブッダ釈尊は両親に対する報恩、両親に対する孝養の重要性を説いている。

以下、書籍『東洋のこころ 中村元著 講談社学術文庫』から父母に対する報恩、父母に対する孝養についての話を引用する。

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『母と父とは梵天(世界創造の神)とも言われ、先師とも言われる。

子らの扶養すべきもので、また子孫を愛する者である。

だから賢者は食物と飲料と衣服と座床と塗身と沐浴と洗足とを以て、父母に敬礼し尊敬せよ。

このように父母に仕えることによって、この世ではもろもろの賢者がかれを賞賛し、また逝かば(死後)かれは天上に楽しむ。』

経典『アングッタラ二カーヤ』 第一巻 132ページ参照

父母から受けた恩の大きいことを強調しています。

さらにブッダ釈尊は次のようにお説きになられている。

         チベット仏教 仏画

修行僧らよ。われは二人に対しては十分に報恩をなすことが出来ないと説く。

その二人とは誰か。母と父である。

百歳の寿あり百歳の間生きて、一つの肩で母をにない、他の肩で父をになうとせよ。

またかれは母と父を塗身、按摩、沐浴、揉療によって看護するとせよ。

しかもなお、母と父とに報いたのではない。

また、母と父とを七つの宝に富むこの大地の支配権(王位)につかしめても、

なお母と父につかえ恩に報いたのではない、それは何故であるか。

母と父は、多くの方法で子らを保護し、養い、この世の中を見せてくれたからである。』

されば正しい善人は、恩を感じて恩を知り、むかしの恩を思い起こして母と父を扶養する。

『むかしの恩を受けたとおりに、かれら(父母)に対して義務をはたす。

教えを守り、扶養して、家系を絶たず、信仰あり、戒めをたもつ子は、賞賛せらるべきである。』

敬礼を守り、つねに年長者をうやまう人には四種のことがらが増大する。すなわち寿命と美しさと楽しみと力である。』『ダンマパダ』引用

         女性信者の帰依を受けるブッダ

大阪府箕面(みのう)市にある箕面の滝への参道に

建立された母を背負う笹川良一氏の孝養の像

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書籍「人生のあらゆる悩みを2時間で解決できる! ブッダの教え 見るだけノート 監修 大愚元勝 宝島社」引用。

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仏典スッタニパータなどのお経が説く、飲酒の恐ろしい弊害についての法話

ことわざに、『酒はきちがい水』という言葉がある。

つまり、お酒を飲むと人は気違いのように狂ったような人になる、又は、お酒を飲むと人は気違いのように狂った人のようになり易いという意味だが、

よく、ある人が自宅や酒場、宴会の席上で大量の酒を飲み、お酒に酔い過ぎ、あげくの果てには酩酊状態になる程、泥酔(でんすい)し、酒乱(しゅらん)状態となり、ささいな事で突然腹を立て激高(げきこう)、激怒(げきど)し、家族や友人、周囲の人々に大声で暴言を吐き、怒鳴り散らし、喚(わめ)き散らし、さらにまた暴力を奮い、最悪の場合には傷害事件や殺人事件にまで発展するという事件を過去にニュースや新聞で何度も見聞きした事があるが、健全な社会生活を営む上においてこのような飲酒による周りの人々への迷惑行為は厳に慎まなければならないと思われる。

近年の医学的な研究では過度の飲酒は脳細胞を痛め、脳を委縮させ、また、自身の健康を害し、寿命を縮め、挙句の果てにはボケや認知症になる確率が非常に高くなるといわれている。

ところで、仏教において、酒を飲んではいけないという戒律、すなわち不飲酒戒という実に素晴らしい戒律がある。

仏典『スッタニパータ』においてブッダは弟子や信者たち、またあらゆる人々に対し、お酒を飲まないよう、強く戒められている。

その仏典『スッタニパータ』においてブッダは次のようにお説きになられている。

『飲酒を行ってはならない。

この不飲酒の教えを喜ぶ在家者は、他人をして(飲酒を)飲ませてもならぬ。

他人が酒を飲むことを容認してもならぬ。

これ(飲酒)は終(つい)に人を狂酔(きょうすい)せしめるものであると知って。

けだし、諸々(もろもろ)の愚者(ぐしゃ=おろかもの)は酔いのために悪事を行い、また他の人を怠惰ならしめ、悪事をなさせる。

この禍(わざわい)を起こるもとを回避せよ。

それ(酒)は愚人(ぐにん=おろかもの)の愛好するところであるが、しかし、人を狂酔せしめ迷わせるものである。』と。

このようにブッダは飲酒を強く戒められている。

   ブッダ釈尊 初転法輪像

ちなみにインド哲学、仏教学の世界的権威、碩学泰斗であられる中村元(なかむら はじめ)博士の解説によると、このスッタニパータというお経は数多くの仏教経典(仏典の中には釈尊の死後、数百年後に作成編成されたお経が多数ある)の中で最も釈尊(ゴータマ・ブッダ)の言行録に近いとされている。

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インド哲学、仏教学の世界的権威

    中村元博士

また、『国訳一切経 阿含部経典』の中に、飲酒について次のように説かれているお経が存在する。

「聞くこと是の如し、
一時佛、舎衛國祇樹給孤獨園(しゃえいこくぎじゅぎっこどくおん)に在しき。

爾(そ)の時世尊(せそん)、諸比丘(しょびく)に告げたまはく、

「此の衆中(しゅうちゅう)に於て、我一法を見ず、修行しおわり、多く修行しおわれば、畜生(ちくしょう)、餓鬼(がき)、地獄(じごく)の罪を受け、若し人中に生るれば狂愚癡惑(きょうぐちわく)にして眞偽を識らざらん。

所謂(いわゆる)飲酒(おんじゅ)なり。

諸比丘(しょびく)、若し人有って心に飲酒(おんじゅ)を好めば、所生の處に智慧有ることなく、常に愚癡を懐かん。

是の如く(かくのごとく)諸比丘、慎しみて飲酒すること莫れ。

是の如く(かくのごとく)諸比丘、當(まさ)に是の學(がく)を作すべし」と。
爾(そ)の時諸比丘、佛の所説を聞いて歓喜奉行(かんきぶぎょう)しぬ。」

 

「聞くこと是の如し、
一時佛、舎衛國祇樹給孤獨園(しゃえいこくぎじゅぎっこどくおん)に在しき。
爾の時世尊、諸比丘に告げたまはく、

「此の衆中(しゅうちゅう)に於て、一法として此の法に勝(まさ)るもの有ることなし。

若し修行しおわり、多く修行しおわれば人中の福を受け、天上の福を受けて、泥洹(ないおん)の證(さと)りを得ん。

云何(いかん)が一法と為すや。

所謂不飲酒(ふおんじゅ)なり。

諸比丘、若し人有って酒を飲まずば、生れて便ち聡明にして愚惑有ることなく、博く経籍(きょうしゃく)を知り、意錯乱(こころしゃくらん)せじ。

是の如く(かくのごとく)諸比丘、當(まさ)に是の學を作すべし」と。

爾の時諸比丘、佛の所説を聞いて歓喜奉行(かんきぶぎょう)しぬ。」

 

※世尊=佛、ブッダの意味

※比丘=出家して仏道修行をしている男性修行者のこと

出家して仏道修行をしている女性修行者の事を比丘尼(びくに)という。

諸比丘とは、複数の男性修行者の意味

※舎衛國祇樹給孤獨園(しゃえいこくぎじゅぎっこどくおん)=古代インドの祇園精舎’ぎおんしょうじゃ)の事

※泥洹(ないおん)の證(さと)り=涅槃、ニルヴァーナのさとりの意味

 

       『国訳一切経 阿含部 大東出版社』参照

ところで、この記事を書いている最中、私自身、数十年前の若い頃に、高野山のとある宿坊にアルバイトで働いていた時代、宿坊のあるお坊さんが、大勢の参拝客、観光客の前で『お酒は悟りの水といわれています』と解説していた事を思い出した。

この当時の事を考えると、大勢の人たちに対し仏教に対する誤った、間違った、誤解を招く内容の法話をされていた事はとても罪深い行為だと思われる。

因縁果報、因果応報の具体的な内容を説く仏為首迦長者説業報差別経

仏教の教えとは、一言で言えば、

諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教
(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう、じじょうごい、ぜしょぶっきょう)

その意味としては、諸々の悪をなさず、諸々の善いことを行い、自ら心を浄める、是れ諸仏の教えなり。

つまり、簡単に言うと、仏教の教えとは、悪いことはするな、善いことをせよ、また、自分の心を清めよ、それが仏の教えである。という意味だが、その悪い事とは具体的に一体どのような行為が悪い事なのか、また、善い事とは具体的にどのような行為が善い事なのか。さらに、その具体的な悪行為、善行為の果報とは一体どのようなものなのか。その善行為、悪行為の具体的な因果の内容、つまり、あらゆる行為の報いの内容を具体的に説いたお経に仏為首迦長者説業報差別経というお経が存在する。

書籍『ブッダのおしえ 初期経典をたどって アンドレ バロー著 富樫瓔子訳 大東出版』という書籍の中に『仏為首迦長者説業報差別経』というお経の内容が非常に分かりやすく説かれている。

そのお経には善因善果、悪因悪果の具体的な内容が説かれており、非常に参考になると思われるのでここでそのお経の一部を紹介したいと思う。

以下、『ブッダのおしえ 初期経典をたどって アンドレ バロー著 富樫瓔子訳 大東出版』の一部を抜粋して紹介する。

『前略

生き物を短命に終わらせる可能性のある十種の行為がある。

その十の行為とは、

自身で殺生を犯すこと、
他者をそそのかし殺生をさせること、
殺生を称賛すること、
殺生を見て喜びを感じること、
憎んでいる相手の死を望むこと、
敵の死を見て喜びを感じること、
他者の妊娠を中絶させること、
人を傷つけるよう命ずること、
生あるものを生贄(いけにえ)として神殿に捧げること。
戦い、傷つけあい、殺しあうよう、人々に命ずることである。
これらの十の行為により、人は短命を得る。

また、生き物に長寿を得させる可能性のある十の行為がある。
それは、自身が殺生をしないこと、
他者に殺生をせぬよう勧めること、
不殺生を称賛すること、
他者の不殺生を見て喜びを感じること。
殺されようとしている他者を見て救おうと力を尽くすこと。
死を恐れている他者を見て、その心を安らげること。
恐怖におびえる人を見て安心感を与えること、
悲嘆にくれる人を見て、思いやりの気持ちを起こすこと。
苦境に落ちた人を見て、大きな憐れみの気持ちを起こすこと。
生き物に食べ物や飲み物を与えることである。
これらの十の行為により、ひとは長寿を得る。

 

(中略)

 

また、貧しい一生を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。
それは、自身で盗みを働くこと、
他者に盗みをそそのかす事、
盗みを称賛すること、
盗みを見て喜ぶこと、
父母の生業(なりわい)を妨害すること。
徳の高い人や聖者の個人的な財産を横領すること。
他者が利を得るのを見て不服を覚えること、
他者が利を得るのを妨げるために難題を持ちだすこと、
他者が施しをするのを見て喜びを感じぬこと、
飢えた人々を見て、哀れみではなく喜びをいだくことである。
これらの十の行為により、ひとは貧しい一生を得る。

また、裕福な一生を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。
それは、自身が盗みを差し控えること。
他者に盗みをせぬよう勧めること、
盗まないのを称賛すること、
他者が盗みをしないのを見て喜ぶこと。
父母の生業(なりわい)を手助けすること。
徳の高い人や聖者が必要とするものを供給すること、
他者が利を得るのを見て喜びを覚えること、
他者が利を得ようとするのを見て、その援助に尽力すること、
施しを幸せとする人を見て喜びを覚えること、
飢えた人々を見てあわれみを感じることである。
これらの十の行為により、ひとは裕福な一生を得る。

また、誤った認識を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。
それは、賢く知恵ある修行者やバラモンに相談したり尋ねたりしようとせぬこと、
間違った教義を公然と説くこと、
正しい教えを受け入れ、守り、深めようとせぬこと、
不確実な教義を、あたかも確実なように見せかけ、賞賛すること、
ほとんど、あるいはまったく仏法について話さぬこと、
誤った認識に慣れ親しむこと、
正しい認識から遠ざかること、
誤った見解を称賛すること、
正しい見解を捨てること、
おろかな悪人を見て貶しさげすむ事である。
これらの十の行為により、ひとは誤った認識を得る。

また、正しい認識を生き物にもたらす可能性のある十の行為がある。
それは賢く知恵ある修行者やバラモンに相談したり尋ねたりしようとすること、
正しい教義を解き広めること、
正しい教えを聞き、守ること、
確実な教義が説かれるのをみて、それを『よい』といい賞賛すること。
正しい教えを喜びをもって説くこと、
正しい認識の持ち主と親しくすること、
正しい教えを受け入れ。守ること、
正しい教えを熱心に修め、学ぶこと、
誤った見解から遠ざかること、
愚かな悪人を見てもさげすまぬ事である。
これらの十の行為で人は正しい認識を得る。

また、生き物を地獄に落とす可能性のある十の行為がある。
身体によってなされる重大な悪行、口によってなされる重大な悪行、精神によってなされる重大な悪行。
霊魂消滅論を創出すること。
霊魂不滅論を創出すること。
因果律否定論を創出すること。
行為の結果を否定する論を創出すること、
虚無主義の見解を創出すること、
過激主義の見解を創出すること、
善行の恩恵を無視すること。
これらの十の行為により、地獄に堕ちる。

以下省略。』

このように、仏典には因果の道理、行為の果報を詳細に説くお経が存在する。

『大正新修大蔵経 第一巻 阿含部上 大蔵出版 891ページ』

『大正新修大蔵経 第一巻 阿含部上 大蔵出版 892ページ』

『大正新修大蔵経 第一巻 阿含部上 大蔵出版 893ページ』

参考文献

『ブッダのおしえ 初期経典をたどって アンドレ バロー著 富樫瓔子訳 大東出版』

『大正新修大蔵経 第一巻 阿含部上 大蔵出版』

真言宗の開祖、弘法大師空海様が説く瞋恚、怒りについてのご法話

真言宗の開祖、弘法大師空海様(774年~835年)は自身の晩年の著作、『秘密曼荼羅十住心論』において瞋恚、怒りについての因果応報について次のようにお説きになられている。

「また、貪欲は意に適わざるによるが故に、すなわち憤怒して瞋恚を起こす事あり。

今身にもし瞋恚(しんい)多き者は死してすなわちまさに泥犁地獄(ないりじごく)に堕し、歴劫(りゃくこう)の中において、つぶさに衆苦を受くべし。

受苦すでにおわって畜生の中に堕し、毒蛇蚖蝮虎豹豺狼となる。

(蛇=ヘビ、蚖=イモリ、蝮=マムシ、虎=トラ、豹=ヒョウ、豺=サイ、ヤマイヌ、狼=オオカミ)

この中にありて、無量に生死す。

本因縁をもって、もし微善(みぜん)に遭うて、たまたま人身(人間)に復すれば、また、瞋恚多く、面貌醜悪にして人に憎悪せらる。

ただ親友とともならざるのみにあらず、実にはまた眼に見んことをも喜ばざるなり。

まさに知るべし、憤恚は瞋悩(しんのう)によって生ずることを。

故に、『地持論』にいわく、瞋恚の罪もまた衆生をして三悪道に堕せしむ。

もし人中に生ずれば二種の果報を得。

一には常に一切のためにその長短を求められ、二には常に衆人のために悩害せらる。と。

何が故にか瞋悩は地獄に堕するや。

この瞋悩は恚害(いがい)して苦悩するによるが故に、地獄の苦を受く。

何が故にか瞋悩は出でて畜生となるや。

この瞋悩は仁恕(じんじょ)すること能わざるによりて、ゆえに獄を出でて畜生の身を受く。

(仁恕=情け深く、思いやりがあること、相手を憐れんで、罪を許すこと)

何が故か瞋悩はまた餓鬼となるや。

この瞋悩は慳心(けんしん)より起こるによりて、慳心の罪の故にまた餓鬼となる。

(慳心=ケチな心)

何が故にか瞋悩は常に一切のために、その長短を求められるや。

この瞋悩は含容すること能わざるによるが故に、一切のためにその長短を求められる。

何が故にか瞋悩は常に衆人のために悩害せらるるや。この瞋悩は人を悩害するによって、人もまた悩害す。

まさに知るべし。瞋悩は九の大苦なることを。」

さらに弘法大師空海様は瞋りについて次のようにお説きになられている。

「身を割くとも忍ぶべし。
いかに況や罵声の句をや
畏るべし一瞋の報い
長時に懼れを免れざることを」

また、弘法大師空海様の著作、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」の中で弘法大師空海様は次のようにお説きになられている。

「三途の苦は劫を経ても免れがたし。

如来の慈父この極苦を見てその因果を説きたもう。

悪の因果を説いてその極苦を抜き、善の因果を示してその極果を授く。」

真言宗開祖、弘法大師空海様の御影

(774年~835年)

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仏教の植物観と科学者の植物観、及び神道の植物観について

初期仏教、ジャイナ教の教えに草木に魂、精神の存在を認め、草木を切ったり、刈ったり、燃やしたりして草木を傷つけることを禁じていた。

また、釈迦の過去世物語であるジャータカには、樹神(樹の神様)が釈尊の菩薩たりし時の姿として現れてくる例がしばしば見られる。

また、上座部仏教の聖典(現在のスリランカなどの仏教)である南伝大蔵経の中に説かれている戒律には、樹木などの植物を伐採することを禁じている内容が説かれている。

次に、仏教以外の科学者、哲学者、植物学者の方々の植物に対する考えをみてみると、植物は人間と同様に生命を有していると強く主張する書籍「植物は知性をもっている  20の感覚で思考する生命システム  ステファノ マンクーゾ著  アレッサンドラ ヴィオラ著  マイケルポーラン著 久保耕司訳 NHK出版」がある。その書籍の中で著者は次のように主張している。

「じつは、植物にも脳や魂がそなわっている考えや、もっと単純な植物さえも外界の刺激に反応する考えは、何千年ものあいだ、数多くの哲学者や科学者によって示されてきた。
プラトン、デモクリトス、フェヒナー、ダーウィンなど(これはほんの一例だ)、どんな時代にも天才といわれる人々のなかには、植物には知性があるという説を支持する者がいた。

植物には感覚があるという者もいた。

さらには、植物は逆立ちした人間であると考える者もいた。

すなわち、頭を土のなかに突っこみ、逆立ちしたできないことはできないものの、それ以外ならなんでもでき、感覚や知性もある、というわけだ。

実際、多くの偉大な思想家が、植物の知性を論じ、文章に残している。

それでも、いまだに、植物は知性の点で劣った存在だ。あるいは無脊椎動物と同じ段階にさえ進化していないといった考えがはびこっている。

進化の階段において、植物は石や岩などの動かない物体のすぐ上に位置しているにすぎないという信念は、どんな文化にも根強く残っている。

こうした信念は、私たちの心に深く根づいているが、それはあくまで仮定でしかない。」

さらに

「ユダヤ教では、理由もなく木を切る事が禁止され「樹木の新年」すなわち、春の到来を祝い、樹木に感謝を捧げるユダヤ教の祭日が祝われている。

また、ネイティブアメリカンや世界各地の様々な先住民のように植物を神聖なものとみなしている人々もいる。

さらにまた、植物の世界は、ただ、表面的に観察しただけでは、複雑さのかけらもない。まったく単純な世界にみえるかもしれない。

いっぽうで、こうも考えられる。実は植物は感覚を備えた生物で、コミュニケーション能力があり、社会的な生活を送っており、優れた戦略を用いて難題を解決することが出来る。と。

一言でいえば、植物は知性を持っているということだ。そうした考えは、何世紀もの間、さまざまな時代や文化のなかで、ときどきちらりと顔を出してきた。

植物は、一般的に考えられているよりも、ずっと優れた能力をもっていると確信していた哲学者や科学者もいる。

有名な名前をあげると、プラトン、デモクリトス、リンネ、ダーウィン、フェヒナー(グスタス・テオドール・フェヒナー。19世紀のドイツの物理学者、哲学者)、ポーズ(ジャガディッシュ・チャンドラ・ポーズ。19世紀~20世紀のインドの植物生理学者、科学者)などである。

20世紀半ばまで、植物の知性というテーマに取り組んできたのは、天才ともいうべき直感をもった者だけだった。」

特に「種の起源」を著したチャールズ・ダーウィンは自身の著作「植物の運動力」という大著を著し、植物は生物であり、生き物であるとしか思えないような、様々な実験結果を紹介し、植物は生き物であると結論づけている。

植物が知性があることを否定する根拠は、科学的なデータなどではなく、実は、数千年前から人類の文化に巣食っている先入観や思い込みにすぎないことを明らかにする。

この状況は現代でも変わっていない。しかし、いまこそ私たちの考え方を思い切って変えるチャンスだ。植物は予測し、選択し、学習し、記憶する能力をもった生物だということが、この数十年に蓄積された実験結果のおかげで、ようやく認められ始めている。

たとえば、スイスは、数年前に冷静な議論を重ねた結果、植物の権利を認める世界初の国になった。(2008年にスイス連邦倫理委員会は、植物に一定の尊厳を認める指針を出した。)

スイスの生命倫理委員会は倫理学者、分子生物学者、ナチュラリスト、生態学者を含め、満場一致して合意した。

「植物を好き勝手に扱ってはならないとし、植物を無差別に殺すことは倫理的に正当化出来ない。」と。」

さらに、日本の植物学者でもあり博引傍証の天才と謳われている南方熊楠先生は著書「南方熊楠コレクション 森の思想 中沢 新一 編 河出出版」の中で、次のように語られている。

「この椋(むくのき)も三年ばかり前に伐らんと言いしを、小生(南方熊楠)ら抗議して止(とど)む。

さて、伐らんと言いしものは今春即死、また、件(くだん)の糸田の神森を伐り、酒にして飲んでしまいし神主も、大いに悔いおりしが、数月前、へんな病にて死す。

祟りなどということ小生(南方熊楠)は信ぜぬが、昨今、英独(イギリス、ドイツ)の不思議研究者ら、もっぱらその存在をいい、小生(南方熊楠)も神社合祀励行、森林乱伐に伴い、至る処にその事実あるを認む。

思うに不正姦邪の輩、不識不知(しらずしらず)の間にその悪行を悔い、悔念重畳して自心悩乱すること存じ候。

かかることを、当国官公史また神職らは迷信と言いて笑うことおびただし。

しかるにいずれの国にも犯神罪あり。

キリスト教国にもこれを犯して神罰で死すること多きは小生(南方熊楠)つねに見たり。」

さらに

「明治の国家は、神道をもって、国民のアイデンティティを形成するための、精神的装置にしようともくろみをもっていた。

日本文化と神道は一体であり、キリスト教や仏教のように、外からやって来た宗教や、天理教や金光教のような新しい民衆宗教とは、一線を画する必要があった。

そのためには、神道は宗教ではない。

国体と一体となった。

国体の表現そのものにほかならないのだから、これを諸宗教と同列に扱うことができない、という発言がしばしば行われた。

熊楠はその発言をとらえて、批判を加えているのである。

神道は宗教ではない、という主張の根拠として、そこには壮麗な建築物や、人目を引く宗教的シンボルにとぼしい、という点があげられることが多かった。

宗教はことごとしいやり方で、人々の心を、超越的な世界に向けようとしている。ところが、わが神道は、そのようなことごとしさがなく、自然な民族的心情をすなおに表現しようとしている。この意味でも、それは国体の自然な表現ではあっても、宗教と同列にあつかうことはできない、というわけである。

これについて熊楠はこう反論する。

宗教の本質にとっては、壮麗なやイコンやシンボルなどは、必ずしも必要なものではない。

歴史を見てみろ。

バビロニアだって、エジプトだって、マヤやインカだって、偉大なる建造物は残ったが、かつてそこにあったはずの神聖なるものは、もはやどこかへ消え去って、宗教の伝統は、すっかりとだえてしまっているではないか。

大事なのは、人々の精神に大いなるものに対する畏敬が、とだえることなく、連続してあるということだ。

その点で言えば、神道は立派な宗教ではないか。

神を祀って神社といい、それを崇敬しているのだから、たとえそれが壮大華麗な建造物などをもたなくとも、これが宗教であることがあきらかなのだ。

それを宗教ではない、などと言いくるめるのは、神道にたいして失礼ではないか。

それに立派な建物はなくとも、神道には森があるではないか。

そこには驚くほどの老大樹がそびえたち、稀観の異植物が鬱蒼(うっそう)たる森をつくりだしている。

日本人は、この森の中にたたずむだけで、深い神秘の宗教感情にみたされてきたのだ。

荘厳な神のイコンでもなく、聖人の遺物でもなく、神秘の仏像でもなく、ただ森林の奥深さに日本人は存在の神秘をおぼえ、神々にたいする畏敬の念を育ててきたのである。

これは宗教の諸形態の中でも、粗末なものであるどころか、きわめて高級なものと言っていい。

つまり、神道は真言密教などと同じく、秘密儀の宗教、素朴な神秘主義の宗教なのだ。

そのため、神道は幽玄なやり方で、人々に感化をおよぼしてきた。

それは、文字を立てず、表像を立てず、森林のもたらす神秘の感情をもとにして、人々に神のありかを語ってきたのである。

それはイデオロギーなどとは、もともと無縁のものとして、すばらしいのである。」

 

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「佛説目連鬼問経」参照

書籍「国訳一切経 経集部十四 大東出版社」参照

怒り、憎み、恨みの心の弊害についての法話

怒りについて以下のような言葉、ことわざがある。

例えば、

「怒りは敵と思え」

「一朝の怒りは其の身を忘る」

「一朝の怒りに一生を過(あやま)つ」

「善く戦う者は怒らず、善く勝つ者は争わず」

「堪忍は一生の宝」

「堪忍五両、思案百両」

「ならぬ堪忍、するが堪忍」

「短気は損気」

「人を呪わば穴二つ」

怒りは自分に盛る毒(ネイティブアメリカン ホピ族のことわざ)

賢者は怒ると賢明でなくなる」(『タルムード』(ユダヤ教の聖典)の言葉)

妬みと怒りは生命を縮める(『旧約聖書の言葉

などなど。

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次に、仏典『ウダーナ ヴァルガ』において、仏陀(ブッダ)は怒り、憎しみについて次のように説かれている。

「怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。

いかなる束縛をも超越せよ。

名称と形態とに執着せず、無一物となった者は苦悩に追われることがない。

怒りが起こったならば、それを捨て去れ。

情欲が起こったならば、それを防げ。

思慮ある人は無明を捨て去れ。

真理を体得することから幸せが起こる。

怒りを滅ぼして安らかに臥す。

怒りを滅ぼして悩まない。

毒の根であり、甘味を害なうものである怒りを滅ぼす事を聖者らは賞賛する。

修行僧らよ、それを滅ばしたならば、悩むことがない。

怒りたけった人は、善いことでも悪いことだと言い立てるが、のちに怒りがおさまったときには、火に触れたように苦しむ。

かれは、恥じることもなく、誓戒を守ることもなく、怒りたける。

怒りに襲われた者には、たよりとすべきいかなる帰趣(よるべ)もこの世に存在しない。

あるひとにとって力は力であっても、怒ったならば、その力は力でなくなる。

怒って徳行の無い人には道の実践ということがない。

この人が力のある人であっても、無力な人を耐え忍ぶならば、それを最上の忍耐という。

弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。

他の人々の主である人が弱い人々を忍んでやるならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。

弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。

力のある人が、他人から謗られても忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。

弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。

他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、自分をも他人をも大きな危険から守ることになる。

他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行っているのである。

自分と他人と両者のために行っている人を「弱い奴(やつ)だ。」と愚人は考える。ことわりを省察することもなく。

愚者は荒々しいことばを語りながら、「自分は勝っているのだ。」と考える。

しかし、謗(そし)りを忍ぶ人にこそ、常に勝利があるのだと言えよう。

人は恐怖のゆえに、優れた人の言葉を許す。人は争いをしたくないから、同輩の言葉を許す。しかし自分より劣った者の言葉を許す人がおれば、それを、聖者らは、この世における最上の忍耐と呼ぶ。」

また、憎しみについて、次のように説かれている。

「実にこの世においては、およそ怨(うら)みに報いるに怨(うら)みを以てせば、ついに怨(うら)みの止むことがない。

耐え忍ぶことによって怨(うら)みは止む。

これは永遠の真理である。

怨(うら)みは怨(うら)みによってはけっして静まらないであろう。

怨(うら)みの状態は、怨(うら)みの無いことによって静まるであろう。

怨(うら)みにつれて次々と現れることは、ためにならぬということが認められる。

それ故にことわりを知る人は怨(うら)みを作らない。」

   ブッダ釈尊(紀元前5世紀頃)

  ブッダ釈尊の法話を聞く聴衆

ところで、この「怨(うら)みは怨(うら)みによってはけっして静まらないであろう。

怨(うら)みの状態は、怨(うら)みの無いことによって静まるであろう。」

というブッダ釈尊のお言葉について次のような興味深い話がある。

第二次世界大戦後の1951年9月、サンフランシスコ講和会議の際、敗戦国の日本に対し、日本分割統治案、つまり、戦勝国アメリカ、イギリス、中国、ソ連(現在のロシア)が日本を分割統治するという話が出ていた。

具体的には、北海道はソ連(現在のロシア)、本州はアメリカ、四国は中国、九州はイギリスが統治するという案である。

その日本分割統治案に真っ向から反対したのが時のスリランカ代表(昔のセイロン国)ジャヤワルダナ氏(後のスリランカ大統領)であり、ジャヤワルダナ氏はこのブッダ釈尊のお言葉

「怨(うら)みは怨(うら)みによってはけっして静まらないであろう。

怨(うら)みの状態は、怨(うら)みの無いことによって静まるであろう。」

という言葉を引用し、世界51ヶ国の首脳たちを前にし、戦勝国による日本分割統治案に強く反対、日本を独立国として認めるよう長時間にわたる名演説をされた。

そのスリランカ(昔のセイロン国)代表、ジャヤワルダナ氏の演説後、世界51ヶ国の大多数の各国首脳たちはその名演説に強く心を打たれ、その演説に感動した聴衆の拍手は場内の窓ガラスが割れんばかりの大拍手であったという。

その演説により日本の分割統治案は廃案となり日本の独立は認められたとも言われている。

つまり、時の敗戦国であった日本はスリランカ(昔のセイロン国)のジャヤワルダナ氏(後のスリランカ大統領)とお釈迦様に救われたとも言うべきか。

このダンマパダのこの教えは今日に至るまで、南アジアの人々に暖かい気持ちを起こさせている。

書籍『敗戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人 スリランカのジャヤワルダナ大統領 野口芳宣著 銀の鈴社』参照

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さて、次に、古代ギリシアの哲学者セネカは怒りの感情について仔細に分析した著書『怒りについてを著している

その著書怒りについての中でセネカは次のように説かれている。

私自身、特にこの著書で共感した文章をここで紹介する。

「或る賢者たちは、怒りを短期の気狂いだと言っている。

怒ることそれ自体が、どんなに多くの人々に害を与えるか、ということである。或る者は、余りに激しく怒ったために血管を破ったし、限度以上に張り上げた叫び声が出血を起こしたし、目の中に激しく湧き出た涙によって目の鋭さが曇らされたし、病人が病気をぶり返したりした。

これ以上に気狂いになる道はない。

それゆえ、怒りの狂暴を続けて、しまいには、自分から追い出しておいた知性を再び取り戻せなかった者も多い。

酒は怒りを燃え上がらせるが、それは酒が熱を高めるからである。

口論が長時間にわたり、しかもケンカになる恐れがある場合には、口論が激しさを加えない最初のうちに必ず停止する方がよい。

論争というものは自ずから勢いを増していくものであって、熱中すればするほど当人を押さえて離さない。

自分を争いから引き出すよりも、そこから自分を遠ざけておく方が容易である。

体の疲れにも用心せねばならない。

疲れは、われわれのうちにあるどんな穏やかさ静かさを無くし、荒々しさを引き起こすからである。

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次に、臨済宗の中興の祖とも言われ、江戸時代に活躍された白隠慧鶴(はくいんえかく)様は自身の著作「草取唄」の中で

『兎角(とかく)怒るな、短氣を出すな、死せば来世は蛇となるぞ、』

と説かれている。

白隠慧鶴禅師(西暦1686年~1769年)

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また、江戸時代の高僧、慈雲尊者の著書『十善法語』という書籍の中において、慈雲尊者は次にようにお説きになられている。

「華厳経(けごんぎょう)の中に、瞋恚(しんに)の罪、また衆生をして三悪道に堕せしむ。

たまたま人中に生ずれば、二種の果報を得。一つには短命、二つには常に悩害せらる。恒に人に短をもとめられるとある。」

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慈雲尊者(西暦1718年~1804年)

さらにまた、慈雲尊者の著書『人となる道』(書籍「日本古典文学大系〈第83〉仮名法語集 岩波書店」)の中で

華厳経等に、一念瞋恚の火、無量劫の功徳法財を焼亡ぼすと説けり。」と説かれている。

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さらに、真言宗の開祖、弘法大師空海様は自身の晩年の著作、

秘密曼荼羅十住心論 第一巻の中において瞋恚、怒りについて次のようにお説きになられている、

「身を割くとも忍ぶべし。
いかに況や罵声の句をや
畏(おそ)るべし一瞋の報い
長時に懼(おそ)れを免(まぬが)れざることを」と。

真言宗開祖 弘法大師空海(西暦774年~835年)

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次に阿含宗開祖の桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作『説法六十心 桐山靖雄著 平河出版社の中で瞋恚、怒りについて次のようにお説きになられている。

多少引用が長くなるが以下の通り、

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瞋というのは、瞋恚(しんに)といって、いかることです。

これは人間の煩悩の中で、一番悪い、よくないものです。

また、一番強い力を持っている。

人生を破壊してしまう。

世の中の一切を打ち破る根本悪といってもよいよくない心です。

これほど恐ろしい心はありません。

この瞋恚の心がどうして起こるかというと、一番はじめは、ものごとが自分の思ったようにいかないことを不愉快に思うところから起こります。

あるいは、自分とちがうものにたいして不快を感ずるというところから起きる。

これは、なんといっても、わたくしたちのわがままです。

手前勝手というよりほかない。

最初、自分のいままでやっていることと少しちがうものが出てくると、なんだかおもしろくない。

すべて自分の思っているようにいかないと腹が立つ。

はじめはちょっとしたことでもだんだんそれが大きくなっていく。

それが嵩(こう)じると、いわゆる瞋恚というものになって、自分とちがったもの、自分の自分の気にくわないものすべて仇敵(きゅうてき)とするということになる。これが恐ろしい。

貪欲(という煩悩)はまだ、利益という点で仲間を集めるという協力の気持ちがあるが、瞋恚の心が起きると、世の中すべて敵、三千世界をすべて敵にしてしまう。

そうなると人間が孤立してしまう。

親でも子でも、妻でも友人でも自分が本当に腹を立てたときには、みんな仇敵です。

向こうが味方をしようと思っても、こちらが腹を立てていると、よせつけない。

心の中で敵にしてしまっている。

世界中全部、敵。

これはじつに浅ましく、恐ろしいことです。

人間はみんないっしょに力を合わせて生きてゆかなければならない。

その本性をまるで失って、一切を仇敵とする。

その心は地獄ですね。

他の迷い(煩悩)の中には、まだいくらかとりえがある。

たとえば、貪欲(という煩悩)というものは悪いが、しかし、貪るためには一時的でも人と仲よくなることがある。

協力するという心がある。

こういうことをやりたいが仲間に入らないか、もうかりますよ。というように他の人を仲間に入れる。

ところが瞋は周囲をみんな敵にしてしまう。

瞋りは破壊性を有する。

だから一番悪い。

すべてのものを敵にするこの破壊性というものは、だんだん大きくなっていく。

戦争もそうです。

貪りだけだったら経済戦ですむが、貪りがうまくゆかないでいかりが加わったら、戦争になって殺し合いがはじまり、破壊がはじまる。

そのもとはわがまま、手前勝手です。

自分と少しでも考えのちがうものに対して不愉快を感ずる。

あるいは自分の思い通りにならないものをおもしろくなく思う。

相手の立場とか、考えというものを考えてみようとしない。

そういうものを一切無視して腹を立てる。

これは自己中心、手前勝手から起きる心です。

世の中にはたくさんの人がいて、それぞれの立場、それぞれの考えというものがある。

それで成り立っているので、それが自分とおなじ意見ではないからといって腹を立て、そういうことをやられたら自分の利益にならないといっておこっていたら、際限のないことです。

大きな広い心で、理解するということがなくては、この世の中、成り立たない。

自分自身も孤立してしまう。

この頃、勝海舟ブームですが、わたくしがひとつ感心しているのは明治になって、福沢諭吉が、海舟のことを新聞紙上になにか痛烈に非難したことがある。

ある人が、この記事について海舟の意見を聞くと、

「行蔵はわれにあり、毀誉(きよ)は他に存す。なんのかかわりあらんや」

といって笑っていて、さらにいかる風がなかったといいます。

わたくしはこれを読んで感銘を受けました。

行蔵はわれにあり、すること、考えることは自分がやるのであり、それを批評するのは赤の他人だから、そこになんのかかわりあいもない、それぞれに自由であるといいきっている。

ところが、わたくしたちは、なんのかかわりあらんやというようにはいかない。

自分の心の中でかかわりをつけてかんかんに怒る。

ここで怒るという字が出てきますが、瞋(しん)もいかり、怒(ぬ)もいかり、どうちがうかというと、瞋は心の中で相手を憎悪(ぞうお)する。

表には出さない。

怒は瞋が表にあらわれて行動になったのをいう。

勝海舟は心の中でかかわりをつけないで瞋をおこさず、怒を発さないが、わたくしたちは心の中でかかわりをつけ、腹を立て、怒となって相手に罵詈讒謗(ばりざんぼう)を浴びせたり、衝突してしまう。

海舟、必ずしも感心することばかりでないが、こういうところはじつに偉い。

さすがにあれだけの大事業をした人物です。

とにかく、おこるということは大人物のすることではない。

われわれは、このいかりを、よくよく注意しなければいけない。

人間関係を害ね徳を損ずること、怒りほどはなはだしいものはない。

そういうと、なまざとりの宗教家がいるんです。

わたしは修養を積んでいるからどんなにおこっても表に出さない。

じっとがまんする、とこういう。

こういうのはやっぱりなまざとりなんですな。

どんなにおこっても、という。

もうおこっちゃっているんですよ。

表に出さないというのは怒で、心の中で瞋を発してしまっている。

普通の人間だって、腹を立てても、そうそうは表に出さない。

ニコニコ笑っていますよ。

少し思慮ある人間だったら、みなそうしている。

特に修行したり修養を積んだひとでなくとも、人間、みなそうしている。

ところが、宗教家や教育家など自慢する人がいる。

わしはどんなにおこっても、腹を立てても、表に出さん、と。

しかし、腹の中ででもおこっちゃったら、これはもう修養を積んだとはいえないんです。

本当に修行を積んだら、瞋らなくなるんです。

瞋らなくならなきゃほんとうではないんです。

「ならぬかんにんするがかんにん」なんて、カンシャク筋をこう立てて、腹の中でウンウンうなりながらこらえている。

高血圧の原因で、衛生にも悪いですよ。

おこってガマンするのはまだ修行が足りない。

瞋りを感じなくならなきゃいかん。

もっとも、ひとつだけ、おこってもいい場合があります。

それは、自分自身にたいしておこることです。

自分の未熟さ、自分の愚かさ、自分の徳の至らなさ、これを自分にたいして憤りを発し、いわゆる発憤するのは大いによろしい。

ところがわたくしたちはそうはいかない。

すべて他のせいにして、他にむけていかりを発する。

これがいけない。

幕末の大学者、佐藤一斉先生は、つねに、

「春風(しゅんぷう)人に接し、秋風己を粛(つつし)む」

といっておられた。

人にはそよ吹く風のように温和に過失をゆるし、自分自身には冷徹な秋風のようにきびしく律するという生活態度です。

こういう心がまえでいると、おこるということが自然になくなる。

おこってガマンするというのでは本当ではない。

自然におこらなくならなければいけない。

これができないのを「痴」という。」

以上、『説法六十心Ⅰ 桐山靖雄著 平河出版社』参照。

以上、書籍「52の「心所」で読み解く 仏教心理学入門 ブッダが教える心のしくみ アルボムッレ・スマナサーラ著 いとうみつる{イラスト}誠文堂 新光社」参照。

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阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

(西暦1921~2016)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

(西暦1921~2016)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1983年)

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次に、仏教教団、阿含宗の機関紙、『アゴンマガジン2011年4月号』の36ページに次のような記載が書かれている。

修行の心得

必ず導師の指導のもとに行をすすめてゆく、自分勝手な独行は絶対につつしみ御法の護持にあたる。

いかに御法に精進しても、人をにくみ、ものをにくみつつの行は、御法の力いだだけぬものと知れ。

いかに御法に精進しても、人をうらみ、ものをうらみつつの行は、御法の力いただけぬものと知れ。

いかに御法に精進しても、人をいかり、ものをいかりつつの行は、御法の力いただけぬものと知れ。

いかに御法に精進しても、人をむさぼり、ものをむさぼりつつの行は、御法の力いただけぬものと知れ。

行は日常生活の中から始まります。毎月の例祭にはもちろんのこと、その他の日にも必ず月に一回以上は道場にお詣りして、わが身の因縁浄化の勤行をすること。

阿含宗の会員証には、このような修行の心得が記されています。

人間性を高め、霊性を確立していくためにもこの心得を常に念頭において修行精進いたしましょう。

無財の七施

和語施、親切でなごやかな言葉づかいを施す。

和顔施、にこやかな笑顔を施す。

眼施、やさしい眼(まなざし)を施す。

身施、礼儀正しい行動、身体を使う奉仕活動を施す。

心施、うるわしい思いやりを施す。

房舎施、気持ちの良い待遇を施す。

人に喜びを与え、人につくす布施の行はその心さえあれば必ず出来ます。

昔から無財の七施といって、お金や物がなくても、七つの施しができるといわれています。

まず、無財の七施を実行いたしましょう。

次に、インド哲学、仏教学の世界的権威である中村元(なかむらはじめ)博士は自身の著作『東洋のこころ 中村元著 講談社学術文庫』の中で、愛と憎しみ、怨み、さらに慈悲について次のように説かれている。

いかなる階級に属する人にあっても、愛が純粋であれば尊いものである。

ただ愛はそのまま慈悲ではありません。

愛をインドではカーマといい、愛、恋愛、愛欲の意味です。

だから相手に裏切られた時には、激しい憎しみを生じる時もあります。

ところが慈悲は愛と憎しみを超えています。

そこで、愛憎からの超越ということは、慈悲の重要な特性の一つです。

すでに原始仏教では、ひとは怨(うら)みをすてよ。ということを教えています。

およそこの世において、怨みは怨みによってしずまることはない。

怨みをすててこそしずまる。

これは不変の真理である。

仏典『ダンマパダ』引用。

こういう思想は仏教を通してわが国の神道にも影響を及ぼしました。

『禊教(みそぎきょう)』において

怨まれて怨み返すな怨みなば、またうらまれて怨みはてしなし。」と説かれています。

また、慈悲の立場に立つと、悪人を憎むということがありません。

悪人は悪をしたために罰せられますが、しかしその人に対する慈悲の念には差別がないのです。

例えば、日本の古い歌(修験道の歌)の中において次の言葉が伝えられている。

慈悲の眼に憎しと思ふものあらじ、とがある者をなほもあはれめ。

つまり、真の慈悲心ある者から見ると、憎いと思う者はこの世に誰もいない。

また、罪ある者に対しても哀れに思え。と。

インド哲学、仏教学の世界的権威

中村元(なかむらはじめ)博士

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スリランカ首相官邸においてスリランカ国ジャヤワルダナ大統領より

お釈迦様のご遺骨である真正仏舎利を拝受される阿含宗開祖、

桐山靖雄大僧正猊下(1986年4月7日)

仏教が説く因果応報についての法話

真言密教の開祖、弘法大師空海様の著作、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」の中で弘法大師空海様は次のようにお説きになられている。

「三途の苦は劫を経ても免れがたし。如来の慈父この極苦を見てその因果を説きたもう。悪の因果を説いてその極苦を抜き、善の因果を示してその極果を授く。」

書籍 「大乗仏教の誕生 さとりと廻向 梶山雄一著 講談社学術文庫」の中にその因果応報について説かれている箇所がある。それをここで紹介したい。

西暦150年~250年頃、インドで活躍した大乗仏教の祖師、ナーガールジュナ、別名、龍樹菩薩様は自身の著作、「宝行王正論」に、悪業とその報いとの対応を説いている箇所がある。それによると、

殺生を行うと次の世に短命の生を受け、暴力を用いる者は苦悩多い者となり、盗みを行うと次の世には貧しく、ものに恵まれず、邪淫を犯すと人の怨恨を買う、妄言は争いを、中傷は友情の破壊を、悪口は不快なことばかり聞くことを、へつらいはいやな言葉を結果として引き起こす。貪る人は自分の願望の破滅をきたし、怒りは恐怖の因である。邪悪な考えをもつ人は誤った見解をもつにいたり、飲酒は理性を狂わせる。施しをしない人には貧困が、邪な生活をすれば欺瞞(ぎまん)に遭(あ)い、高慢な人には次の世に卑しい生まれが、嫉妬深い人には卑弱が結果する。怒ってばかりいると卑しいカーストに生まれ、賢者に質問しない人は愚鈍に生まれる、などなどである。

以上は人間の世界における因果応報であるが、もちろん無道を過ぎれば(つまり度を過ぎれば)、地獄、餓鬼、畜生に生まれる。

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   弘法大師空海様

また、仏教には三報という考え方がある。現報、生報、後報の三つである。
現報とは、人がこの世で善悪の行為を行い、この世で禍福の報いを受けるのをいう。
生報とは、この世で善悪の行為をして、次の世でその果報を受ける場合である。後報とは、この世での善悪業が、二世、三世を経たのちに報いられるものである。

だから、善人がこの世で不運にばかり遭い、悪人がこの世で栄華を極めても、それは過去世の善悪の業の果報がいまあらわれているだけで、いまの善悪の業は次の世、あるいはその次の世であらわれるのであるから、落胆するにはおよばない。
もちろん現報のばあいには、この世の業の報いがただちにこの世であらわれる。

ナーガールジュナの示した業と果報との対応例は、原始仏教経典に出ているのを彼が借用したものであり(パーリ中部経典、漢訳 中阿含 鸚鵡経を参照)、一般にも信じられていた。そこには悪業とその苦果だけが挙げられているが、善業の場合はその逆を考えればよい。たとえば、殺生をつつしめば長寿が、布施を常に行えば富豪に生まれるというようにである。

ナーガールジュナ(龍樹菩薩)

また、書籍「原始仏典Ⅰ 長部経典Ⅰ 中村元(監修) 森祖道(翻訳) 橋本哲夫(翻訳) 浪花宣明(翻訳) 渡辺研二(翻訳) 春秋社」の中に、ある修行者の瞑想体験について次のように説かれている。

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「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、(そのもの自身が)堅固不動のものになると、かれ(修行者)は生き物達の死と再生について知る事(死生通)に心を傾け、心を向けるのです。

そして、かれ(修行者)は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知るのです。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。とかれ(修行者)は知る。」

書籍『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照

さらに、書籍 「ブッダ 神々との対話 サンユッタ 二カーヤⅠ 中村元訳 岩波文庫」 の中で仏陀は次のように説かれている。

「生きとし生ける者どもは(寿命が尽きて)いつかは(必ず)死ぬであろう。

生命はいずれ死に至る。

かれらは死後に自己の作った業(自己の行った行為の内容)に従って各所に赴いてそれぞれ善悪の報いを受けるであろう。

悪い行いをした人々は死後において地獄(大いなる苦しみ悩み痛みに満ちた世界 悪い世界)に生まれ赴き
善い行いをした人々は(死後)善いところ(幸福、平和、快楽、安楽の世界 善い世界)に生まれ赴くであろう。

その為に来世(自分の魂が死後に生まれて変わって行く世界 死んでから自分が再び生まれ変わる世界)の幸福、平和、安楽の為に現世(現在生きているこの世界)で善い事をして功徳を積まなければならない。

人々が作ったその功徳はあの世で人々のよりどころとなる。」

さらに、

「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い  また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等 それこそが、その人自身のものである。

人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。

それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。影が人に従うように。

それ故に善い事をして功徳を積め。功徳は人々のよりどころとなる。」

  ブッダ釈尊の初転法輪像

  ブッダ釈尊の降魔成道図絵

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以上のことから、仏教の根本的な教え、ブッダ、真理に目覚めた等正覚者達の最も重要な教えとは「よいことをせよ。わるいことはするな」という倫理、道徳の実践の教えであると考えられる。

漢訳仏典において
「諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」 という七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)がある。

またパーリ仏典の法句経(ダンマパダ)において

「一切の悪をなすことなく、善を具備実践し、自分の心を浄化すること、これが諸仏(真理に目覚め、ブッダとしての悟りをお開きになられた覚者達)の教えである」

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餓鬼への供養法、施餓鬼会(せがきえ)と盂蘭盆会(うらぼんえ)、また、追善供養(ついぜんくよう)についての法話

 

仏教には施餓鬼会(せがきえ)及び盂蘭盆会(うらぼんえ)という行事があります。
この行事は餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事です。

餓鬼界とは生前もの惜しみ心が強くケチで人に親切でなく布施をしたりせず悪い事をした者が死後に生まれ変わっていく境涯であります。

餓鬼界には食物がほとんどなく空腹で苦しみ仮に食べ物があっても食べ物を食べようとすると火になって燃えてしまったりする。

そういった餓鬼界で苦しんでいる餓鬼達に食べ物を供養したり食事が出来るように餓鬼達を救う為の行事を盂蘭盆会や施餓鬼供養といいます。

仏教経典には餓鬼へのご供養をする為の様々なご真言が書かれている。

その施餓鬼会(せがきえ)に関する仏教のお経に餓鬼事経(がきじきょう)というお経があります。

この重要な年中行事、施餓鬼会(せがきえ)の源流に関係があると考えられるお経がその餓鬼事経に収められている。

この餓鬼事経(がきじきょう)というお経はパーリ五部経典(パーり語五部経典)の中の小部経典に属するお経であります。

餓鬼事経は全部で五十一話あり、その話の主な内容は、餓鬼、死者、幽霊達が生前 つまり生きている間に悪業(わるいこと)を行い、その悪い事をしたことによる悪い報いによって、死後に悪い境涯、餓鬼界(がきかい)に落ちて苦しみ、困っている状況の話が説かれている。

このお経において善因善果、つまり自分の善いおこないは自分に善い結果、善い報いを生む、悪因悪果、つまり自分の悪いおこないは自分に悪い結果、悪い報いを生む、つまり、因縁果報(いんねんかほう)、因果応報(いんがおうほう)についての具体的な話が餓鬼、死者、幽霊達の話を通じて説かれている。

次に、盂蘭盆会(うらぼんえ)に関するお経に盂蘭盆経というお経があります。

その主な内容は「昔、お釈迦様の直弟子であり高弟の目連尊者が修行により悟りを開くと直ちに故郷の母を想い起こし目連尊者自身の天眼通、すなわち、超人的な透視力、霊眼により母の所在を探すと母はもう既に亡くなっており餓鬼界に堕ちて苦しんでいた。

目連尊者は悲しんで自身の神通力により母の傍らに赴き、手づから食物を捧げると母はうれし涙にくれ直ちに食物を口に入れようとするも過去の悪業報の報いにより食物はそのまま火炎となって燃え上がり食べる事が出来なかった。

母は悲泣し目連尊者もどうすることも出来ず赤子のようにただ泣くのみであった。

その後、目連尊者はお釈迦様の所に趣き母の苦しみを救って欲しいと願い出た。
するとお釈迦様は次のように説かれた。

「目連の母は生前の悪業が深いので目連の力だけではどうする事も出来ない。
このうえは十方(多数)の衆僧(修行僧)の威徳に頼る他は無い。
七月十五日は僧懺悔の日、仏歓喜の日であるから、その日に飲食を調えて十方の衆僧を供養するがよい。

そうすればその功徳により母の餓鬼道の苦しみも消えるであろう。」

と説かれたので目連尊者はその教えの通りに行うと母の餓鬼道の苦しみを救う事が出来た」とある。

     「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照

      「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照

 

次に、その餓鬼を供養するご真言に無量威徳自在光明殊勝妙力等がある。

施餓鬼に関する経典に有名な「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼」等の経典に詳しく記載されている。

佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼経というお経の主な内容は、

昔、お釈迦様の直弟子の阿難尊者がある夜、閑静な場所に独り座し仏様の教えの内容を深く観じていると深夜に一人の餓鬼が現れた。

その姿は、髪は蓬(よもぎ)のように乱れ口からは焔(ほのお)を吹き身体はやせこけ咽(のど)は針の如く細く爪は長くとがり顔に苦悶の形相が凄く、阿難尊者に向かってこのように言った。

「あなたは三日後に死んで私のように餓鬼となるであろう。」と。

阿難尊者は内心大いに恐れ「どのようにしたらこのような苦しみから解放されることが出来るのだろうか」と反問したところ餓鬼が次のように答えた。

「この世界に満ちている多数の餓鬼に飲食を施し、多数の仙人、多数の修行者及び三宝(仏、法、僧)に供養をすれば、その功徳に依って私も餓鬼の苦しみから解放され、あなたも寿命を延ばし餓鬼界に堕ちる事はないでしょう」と言って姿を消した。

阿難尊者は仏様にその出来事について相談をし仏様から餓鬼供養のご真言や供養法を教わった。そして、その法を修したところ阿難尊者も天命を全うし餓鬼の苦しみも解脱したとあります。(大正新修大蔵経第21巻(密教部四)464P~465P参照。)

また、仏教の経典に「梵網経(ぼんもうきょう)」というお経があります。

その中に不救存亡戒(ふぐそんぼうかい)という戒律があります。

それによれば仏教信者は慈悲の心を持って全ての生者、死者に対して慈悲の行為を行わなければならない事が説かれ、特に父母兄弟等の家門の親しい先亡精霊に対し、冥界における幸福を助けるための宗教行為に勤めるべきことを勧めています。

仏教には死者に対しての追福追善の報恩行、冥福を祈る宗教行事があります。つまり、追善供養という供養があります。

追善とは亡者のために追って善事を修して福を薦め、その冥福を祈る事です。

人の死後四十九日の間、亡者の霊は中有に迷って果報、転生先が定まらないので遺族、僧侶が善根を追修、回向してその功徳を亡者に捧げ、三途の苦報を免がれさせようとするため追善供養を行います。
ただし極善の者は四十九日間を待たずに直ぐに仏界、天上界に直行し、極悪の者は直ぐに地獄界へ直行するとされています。

追善供養は人の死後、七日ごとに初七日忌、二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌、六七日忌、七七日忌つまり四十九日忌を行います。

また百日目の百カ日忌、一年目に一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などに法要を営みその功徳を亡者に回向します。

さいごに、仏陀はパーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。
そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。
愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。
現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。
そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。
他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。
現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

また、パーリ仏典「ウダーナヴァルガ」において仏陀は、分かち合うことの大切さが説かれている。

「信ずる心あり、恥を知り、誡(いまし)めをたもち、また財を分かち与える。

これらの徳行は、尊い人のほめたたえることがらである。

この道は崇高なものである。

とかれらは説く。

これによって、この人は天の神々におもむく。

もの惜しみする人々は、天の神々の世界におもむかない。

その愚かな人々は、分かち合うことをたたえない(賞賛しない)。

しかし、この信ある人は分かち合うことを喜んでいるので、このようにして来世には幸せとなる。」

「死者たちの物語 餓鬼事経和訳と解説 藤本晃訳著 国書刊行会」
「お盆と彼岸の供養 開甘露門の世界 野口善敬編者 禅文化研究所」

「ブッダ 神々との対話 サンユッタ 二カーヤ 中村元著 岩波文庫」

「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」

「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

仏典が説く怒り、激怒の感情についての話、また、怒り、激怒の感情と日々の食生活との関連性について

仏教経典 漢訳大蔵経の中の阿含経及び南伝大蔵経において仏陀釈尊は次のようにお説きになられている。

「比丘(修行者)たちよ。まさに一法を断つがよい。

一法を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう。

その一法とはなんであろうか。

いわゆる瞋恚(しんに)(怒り)がそれである。

比丘(修行者)たちよ。まさに瞋恚(怒り)を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう」

「瞋恚(怒り)にかりたてられて、人は悪しき処におもむく。

まさにつとめて瞋恚(怒り)を捨つれば、すなわち煩悩滅尽して聖者たらん。」

「雑言と悪語とを語って愚かなる者は勝てリという。

されど誠の勝利は堪忍を知る人のものである。

怒る者に怒り返すは悪しきことと知るがよい。

怒る者に怒り返さぬ者は二つの勝利を得るのである。

他人の怒れるを知って正念に自分(自分の心、精神、感情)を静める人はよく己(自分)に勝つとともに他人に勝つのである。」

パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において仏陀(仏様)はこうお説きになっている。

「愚者(おろかもの)は荒々しい言葉を語りながら「自分が勝っているのだ」と愚者は考える。

しかし、真理を認知する人がそしり(悪口、中傷誹謗,罵詈雑言、罵倒)を耐え忍ぶならば、(耐え忍ぶ)その人にこそ勝利が存在する。

怒った人に対して怒りを返す人はそれによっていっそう悪をなすことになるのである。

怒った人に対して怒りを返さないならば勝ち難き戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのを知って気をつけて静かにしているならばその人は自分と他人の両者の為になることを行っているのである。

理法(真理)に通じていない人々は「その者(怒りを返さない者)は愚者(おろかもの)だ」と考える。

さらに、パーリ仏典「スッタニパータ」において仏陀曰く

「罪がないのに罵(ののし)られ、殴(なぐ)られ、拘禁(こうきん)されるのを耐え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、彼を私はバラモンという。」

さらにまた、パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において仏陀は次のようにお説きになられている.。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。

怒りを断ち切って悲しまない。

その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを聖者達は称賛する。
それを断ち切ったならば、悲しむことがない」

また、漢訳仏典の大正新修大蔵経第二巻阿含部下、雑阿含経第三十二巻において仏陀はつぎのような主旨の法話を説かれている。

「嗔恚(しんに)を離れるを善と成す。

嗔恚及び驕慢(きょうまん)を生じることがないようにせよ。」とある。

つまり、怒り、激怒,うぬぼれ,慢心の心を起こさないようにせよという主旨の内容が説かれている。

パーリ仏典「サンユッタ・二カーヤ」というお経においてブッダは次のようにお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。怒りを断ち切って、悲しまない。その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを聖者達は賞賛(しょうさん)する。それ(怒り)を断ち切ったならば悲しむことがない。」

「人は利を求めて自分を与えてはならない。自分を捨て去ってははならない。
人は善い(優(やさ)しい)言葉を放つべきである。
悪い、粗暴(そぼう)な言葉を放ってはならない。
やさしい言葉を口に出し荒々(あらあら)しい言葉を口に出してはいけない。」

ところで、話が変わって、ことわざに「健全なる肉体には健全なる精神が宿る」ということわざがある。

健全な精神生活を過ごす為には充分な睡眠、健全な食生活、バランスの取れた栄養の摂取等が重要であると思われる。

暴力的、怒り易い、イライラし易い、キレ易いなどの精神状態に至る原因は様々であるがそのひとつの原因は乱れた食生活、アンバランスな栄養状態にその原因があると考えられる。

「食事で治す心の病 心・脳・栄養 新しい医学の潮流 大沢 博著 第三文明社」という書籍がある。

その書籍のなかでコーラが大好きで砂糖入り缶コーヒーを一日十本以上飲むような偏った食生活をしていた若者がいた。

以前から突発的な発作的暴力を起こしたりしていた。

それを心配したその若者の母親が著者(大沢 博)に電話で窮状を訴えたところバナナを食べさせなさいというアドバイスを与えられた。

母親はその若者にバナナを食べさせ、一時間後に母親から電話がありバナナを食べさせたら一応落ち着きを取り戻したという報告があったという。

またその他の事例で低血糖症、インスリン過剰分泌症の若者がひどい頭痛を訴えた.

しかし著者のアドバイスによりバナナの摂取をしたところ頭痛が収まった事が書かれている。

次に、「現世成仏 わが人生・わが宗教 桐山靖雄著 力富書房」という書籍の中において、日々の栄養がいかに精神生活に影響を与えるかが分かるある一つの事例が紹介されている。

「イギリスで、日本の少年鑑別所のような、非行少年を収容して矯正する強制施設での食べ物による実験の記録が紹介されていた。

まず収容された非行少年少女を二つのグループに分け、一つのグループには精白した材料を使った食べ物を与えた、精白すなわち白パン、白砂糖 その他、精白したものを与えた。そして野菜を少量にして肉を多く与えた。

与えられた連中はみんな大喜びであった。

すると、二、三日も経たないうちに喧嘩が起こる、いがみ合いはするなど大騒ぎになった。

収容がつかないほど騒然となってきた。

そういう素因をもった連中ばかりが集まっている施設であるから言う事を聞かなかったり反抗したりするのは、やむを得ないといえばいえるが、その度合いが日増しに激しくなっていった。

ところがもう一方のグループには、黒パン、黒砂糖、その他精白しないもの、あるいはヨーグルト、野菜、果物などを主とした食べ物を与えていた。

すると、こちらは一週間くらいでみんな行儀よくなって反抗しなくなった。

物事の道理が理解出来るようになった。その為みんな従順になってきた。」とある。

次に、「日本食長寿健康法 川島四郎著 新潮文庫」という書籍がある。

その書籍において著者は栄養学者の立場から「いじめとカルシウム」という章において子供達の校内暴力、いじめの原因のひとつにカルシウム不足をその原因として指摘されている。

「なかでも問題なのはカルシウムの不足で、実はこれこそが子供達の凶暴化の最大の原因なのである。

カルシウムは骨や歯を作るのに欠かせない栄養素であるがそればかりでなく哺乳動物では神経系統に対しても重要な働きをしているのである。

これが十分に補給されている哺乳動物は精神が安定していて気も穏やかであるが欠乏すると精神が不安定になり気性が荒くなる。

つまりカルシウムは精神安定剤の役割ももっているのである。

たとえば妊娠している女性はヒステリーになりやすい傾向があるが、これなどはまさにカルシウム不足のなせるわざなのだ。

胎児の骨の形成の為に母体のカルシウムを奪われてしまうために精神が不安定になるもので、医師はこうした患者には注射や薬剤でカルシウムを投与して治療している。」とある。

日本食長寿健康法 (新潮文庫)

現世成仏―わが人生・わが宗教

仏教が説く利他の教え、利他についてのお経

書籍「仏陀の真実の教えを説く阿含経講義(上)桐山靖雄著 平河出版」の中において阿含経の一切事経というお経が紹介されている。

一切事経の内容は、お釈迦様がお釈迦様の弟子のマカナン(お釈迦様の叔父)から優婆塞(在家信者)の修行法についての質問を受け、お釈迦様がマカナン(お釈迦様の叔父)からの質問に対して説かれたお経であります。

その主たる内容は、

ある時、弟子のマカナンがお釈迦様に対し、在家の仏教信者はどのような修行法をすればよいのかを質問したところ、お釈迦様は

先ず、正信を持つことが必要であると説かれた。つまり正しい信仰心を持つ事。

次に、正しい戒律を守る事。

次に、正しい布施を実践する事。

次に、正しい仏教を聴聞する事、つまり正法を聴聞する事。

次に、その正しい教えを保持する事。つまり正しい教えを聞いても聞いただけで直ぐに忘れたりしてはいけないという事。

次に、その正しい教えを観察、正しい教えについて観念工夫する事。つまり自分自身の頭の中でその教えについて深く考える事。例えば、その教えについてよく吟味(ぎんみ)する事。

次に、正しい教えに従い、正しい教えに向かっていく事である。

要約すると,信、戒、施、聞、持、観、法次、法向の八つの法があると説かれている。

すなわち八法の修行法である。

さらに、お釈迦様は、その八法の修行法、いわゆる自分の為だけにする修行法だけではなく、その八法の修行法を他者にも実践するように教え導きなさいという教えを説かれている。つまり、自分の為だけにする修行ではなく自分と他者の為の修行法の実践を提唱されている。

それが八法十六法である。

いわゆる、八法十六法とは以下の通り、

自分が正しい信仰心を持つだけではなく、他者にも正しい信仰を持つことを教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい戒律を保持する事を教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい教え、正しい法を聴聞する事を教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい教えを保持する事を教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい教えに対し観念工夫する事を教え導きなさい。

また、自分だけではなく他者に対しても正しい教えに従い、正しい教えに向かっていく事を教え導きなさい。と説かれている。

その八法十六法の修行法により、宗教的境涯において在家仏教修行者(優婆塞 優婆夷)が出家修行者(僧侶、沙門)を越えていく事が可能であるという内容が説かれている。

「仏陀の真実の教えを説く阿含経講義(上)桐山靖雄著 平川出版」の著者であり阿含宗の開祖である桐山靖雄大僧正猊下はこの阿含経の一切事経を引用し次のように説かれている。

阿含経というお経は日本仏教の歴史において千年以上の長きにわたり小乗経典であると蔑視され、また出家仏教であると批判され続けてきたが、その一切事経のお経の内容から阿含経は決して利己的な小乗経典、つまり、自分だけの救いを求めるお経ではなく、また出家仏教、つまり、出家しなければ救われないというお経では決してない事をこのお経を引用し、強く主張されている。

一切事経は 大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 雑阿含経巻第三十三 大蔵出版 二百三十六頁下段~二百三十七頁中段、及び 国訳一切経 印度撰述部 阿含部三 大東出版社 雑阿含経 第四十六巻 四百五十頁~四百五十二頁に説かれている。

さらに桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「説法六十心 桐山靖雄著 平川出版」において次のようにお説きになられている。

「上求菩提下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)ということばがあります。

自分より上(上の境涯)のものに向かっては菩提、悟りを求めて一心に修行をする。

自分より下(下の境涯)のものに向かっては親切に指導してあげる。

仏道修行者が必ず実践しなければならない事だと言われています。

またどんなに大知識、大学者であっても自分一人の力だけでそうなったのではなく社会や無数の方々のおかげがあったという事を忘れてはいけない。

そのためにその知識は社会の幸福の為、社会に役立てる為、社会に対してそのお返しをしなければならない。」

特に仏教徒は仏祖への報恩謝徳の為に又一般民衆の幸福の為に正しい仏教、正しい仏法を広めなければならない。

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

仏教のお経、真言をお唱えする事のご利益と意義と重要性

真言宗の開祖、弘法大師空海様の処女作「三教指帰」の中に

「谷響きを惜しまず明星来影す」という一文が説かれている。

具体的に説明すると、若き頃の弘法大師空海様が「虚空蔵菩薩求聞持法」という密教の修行法を修行中、四国の室戸岬の洞窟内で非常に特殊な神秘体験をした事は古来から有名な話です。

その特殊な神秘体験を「谷響きを惜しまず明星来影す」という表現でこの神秘体験を表現されています。

求聞持法を修行中の若き頃の弘法大師海様

求聞持法を修行中の若き頃の弘法大師海様

    虚空蔵菩薩様ご尊影

この「虚空蔵菩薩求聞持法」の正式名称は「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」とお唱えしますが、この修行が成就すると様々なご利益、霊験があると伝えられている。

この修行の主たる内容は、虚空蔵菩薩様のご真言

「のうぼう あきゃしゃぎゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」
というご真言を百日間の間に百万回唱えるという修行法であり、

大正新修大蔵経密教部にも「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」として詳しい修行方法が記載されています。

次に、阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921~2016)が若い頃、人生の苦悩の末、自殺をしようとした事が自身の著作「般若心経瞑想法 桐山靖雄著 平河出版社」に書かれている。

  阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

そこから救われた体験談が「般若心経瞑想法」や「さあやるぞかならず勝つ⑩」という書籍に書かれている。

その書籍によると事業の失敗による莫大な借金と結核の再発に見舞われた事により前途を悲観し自殺を決意し自殺を決行しようとした直前、ふと目にした小経本で自殺を思いとどまり生きる事を決意した経緯が記されている。

その小教本には般若心経や準提観音経そして延命十句観音経等のお経が書かれており準提観音経には

「寂静にして心常に誦すれば一切諸々の大難能く是の人を侵すこと無し」という文言が書かれていた。

桐山管長はこのお経を信じ準提観世音菩薩様のご真言

「のうばさったなん さんみゃくさんぼだくち なんたにゃた おんしゃれい しゅれい じゅんてい そわか」

を何回も何回も毎日唱えていたそうです。

多い時には一日千回ちかくも唱えていたそうです。

そうするとだんだん自身の運気が変わっていき運勢や環境が 良くなっていき自殺する必要がなくなっていったそうです。

密教大辞典(法蔵館刊)という書籍に、この準提陀羅尼(準提観世音菩薩様のご真言を読誦 唱える事)の功能(功徳 ご利益)として次のように書かれている。

「準提陀羅尼経によれば薄福無善根(福徳が薄い)の衆生(生き物)もこの陀羅尼(準提陀羅尼)を誦すれば(唱えれば)菩提分(さとり 等正覚 完全解脱成仏)の根芽(種子 基礎)を生じ決定して菩提(さとり、等正覚、完全解脱成仏)を成就せん(出来る)と云い、

その他、聡明、勝諍論、夫婦敬愛、他人敬愛(他人から愛される)、求児、延命、治病、滅罪、降雨、脱禁鎖等を祈ると験(効験)を得。悪鬼悪賊の難を逃れる事(が出来る)を説く。後略」とある。

真言密教伝持八祖の内の第五祖 インドの高僧であった善無畏三蔵の伝記に次のように説かれている。

真言密教伝持 第五祖 

善無畏三蔵法師

「商人と善無畏三蔵が航海中、船上において商人が盗賊に襲われた際に善無畏三蔵が準提呪の黙誦をすると準提観世音菩薩様が全身のお姿を現され商人を盗賊の難から救った。」とある。

          仏母準提観世音菩薩様ご尊影

準提観世音菩薩様に関するお経は、大正新修大蔵経(密教部 大蔵出版)及び国訳一切経 (印度撰述部 密教部 大東出版社)の中に七倶提佛母所説準提陀羅尼経というお経が説かれている。

準提観世音菩薩様は密教の仏様であり別名準提如来ともお呼び致します。

密教の流派では如来部に属すると主張したりまた別の流派では観音部に属すると主張したりして解釈が分かれています。

さてこの仏様の密教での呼び名つまり密号は最勝金剛ともお呼び致します。
最勝金剛とは最も優れた仏という意味であります。

この仏様は別名を七倶提仏母(しちくていぶつぼ)ともお呼び致します。

七倶提(しちくてい)とは七億または七千万という意味でつまり無量無数を意味し仏母とは仏の母という意味つまり無量無数の仏の母という意味です。

「密教大辞典 法蔵館刊」によると「過去無量の諸仏の母たる清浄陀羅尼を司る尊を七倶提仏母と名ずく」

準提とは梵語のチュンディの音写で意味は清浄という意味でありこのご真言は清浄陀羅尼ともいわれます。

このご真言から過去無量無数の仏様が生まれたと伝えられています。

「龍神が翔ぶ―家運をよくする守護神・守護霊の持ちかた (単行本)桐山 靖雄 (著) 」という書籍でも準提観音様の事が記されています。

次に、延命十句観音経について説明すると、「白隠禅師法語全集 八重葎 延命十句経霊験記」という書籍に次のように説かれている。

「昔、ある男がいた。ところがある日処刑される事になった。 そして処刑前夜その男の夢に僧侶が現れ「延命十句経を千返唱えると命は助かる」と夢で教えられ明け方までこのお経を千編唱えた。

ところが同じ処刑前夜に別のある男の夢に観音様が現れ「この処刑を中止しなさい。そうすれば立派な徳行になるでしょう。

さもなくば大災厄がふりかかるであろう」というお告げを聞いた。

またその他の処刑実行者も同じような夢を見た人がおり処刑を中止した」という話がある。

延命十句経に関する霊験談がこの本では他にも書かれていて興味深い。

延命十句観音経(えんめいじゅっくかんのんきょう)
「観世音(かんぜおん)
南無仏(なむぶつ)
与仏有因(よぶつういん)
与仏有縁(よぶつうえん)
仏法僧縁(ぶっぽうそうえん)
常楽我浄(じょうらくがじょう)
朝念観世音(ちょうねんかんぜおん)
暮念観世音(ぼねんかんぜおん)
念々従心起(ねんねんじゅうしんき)
念々不離心(ねんねんふりしん)」
とお唱えし致します。

さて、ところで、仏教には般若心経というお経が有名であり、世間一般に広く知られており、様々な宗旨宗派においても盛んにお唱えされているが、

阿含宗開祖の桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「般若心経瞑想法 桐山靖雄著 平河出版社」の中で、その般若心経について次のようにお説きになられている。

「玄奘三蔵訳の般若心経は頭で考えて作った経典ではなく霊感によってほとばしり出た経典であり、ぱぁっと霊感によって出てきた文言をそのまま、文字にして放り出したという感じである。

ことに、さいごに突然、出てきている呪(マントラ)などをみると、強くそういう感じがする。

この経典は経典というより、全体がマントラではないかと思うのである。

この経典作者は観音信仰者だったのではなかろうか?

マントラ、ダラニは一心に、ただひたすらに、一心にとなえることによって偉大な力をさずけてくれるのである。

マントラ、ダラニに理くつはない。

人間の子賢(こざか)しい知慧を越えた不思議な力がある。

神秘としかいいようがない奇跡を起こす力がある。

ただ一心に心をこめて祈り、誦すればよいのだ。

あなたもそのようにして偉大な功徳をいただいてほしい。」

と解説されている。

Buddha Shakyamuni respected the practice of ethics and morals

The phenomenon of abandoning old people who are no longer useful in old age has been seen all over the world since ancient times, but Buddha opposed this trend and preached to take care of his parents.

“It’s fun to honor your mother in the world, and it’s fun to honor your father.”

“Whoever feeds his mother or father according to the law, he serves his father and mother, and in this world all sages praise him.

And after his death (for his merits) he will rejoice in heaven. ”

“Mother and father are also called Brahma, and they are said to be teachers.

You are the one to serve your children and the one who loves your descendants.

Therefore, wise men should salute and respect their parents by eating, drinking, clothing, flooring, lacquering, bathing, and washing their feet. ”

“Then, a righteous and good person will feel gratitude, know that he is indebted, will remember his past gratitude, and support his mother and father.

In ancient times he would do his duty to them (parents) as if he were indebted.

A child who protects the teachings, supports them, does not break the family line, has faith, and keeps the precepts should be praised. ”

“If we were fed by our parents, we should feed them.

Do what you ought to do for them.

Keep the family alive.

Inherit property.

You should also make offerings to your ancestors at appropriate times. ”

In the Buddhist scripture “Suttanipata”, the Buddha preaches as follows.

“Those who do not feed their old and decrepit mothers and fathers, and live in abundance, are the gates to ruin.”

Furthermore, in the Buddhist scriptures, the Pali Correspondence Scriptures (Sanyutta Nikaya), the Buddha preaches as follows.

A Brahmin who feeds his father and mother said to the Blessed One (Buddha Shakyamuni):

“Gotama (Buddha Shakyamuni).

I follow the rules and ask for food.

According to the rules, they ask for food and support their parents.

I am doing this, but am I doing my duty? ”

The Blessed One (Buddha Shakyamuni) said:

“Brahmin, indeed you are doing your duty in this way.

He who eats according to the order and feeds his parents according to the order will accrue many merits.

Whoever feeds her mother or father according to her law, by her service to her parents, is in this world. Wise men praise him, and after death he rejoices in heaven. ”

Hearing these words, the Brahmin said:

“It’s wonderful, Master Gotama.

That’s great. Gotama.

Lord Gautama, please accept me as a lay believer.

From now on, as long as I live, I will devote myself to you.”

In addition, in the Dhammapada and Udhanavamaga, the Pali Buddhist scriptures, the Buddha preaches the importance of non-injury and non-violence as follows.

“If you do harm to innocent people without doing anything, you will quickly encounter one of the following ten cases.

1. Severe pain

2. old age

3. bodily injury

4. Severe illness

5. Madness

6. Calamity from the King

7. Horrible tales

8. Death of relatives

9. Property loss

10. A fire burns his house

This fool will be born in hell after death. ”

In addition, in the Sanyutta Nikaya, the Pali Buddhist scriptures, the Buddha teaches about generosity and sharing:

“Those who are stingy in this world, who are stingy, who curse those who beg for stingy things, and who prevent others from giving, they are born in Hell, in the womb of animals, in the world of Enma.

Even if he was born as a human, he would be born in a poor and poor family.

Clothing, food, pleasures and games are hard to come by there.

Fools hope to get it in the afterlife, but they cannot.

In this world you have this reward, and after death you fall into a bad place.”

“If those who have attained human form in this world and are willing to share generously have faith in the teachings of the Buddha’s truth and have a fervent respect for the assembly of practitioners, they will was born in heaven and shines there.

Even if he were to become a human, he would be born into a wealthy family.

Clothing, food, pleasures, and games are readily available there.

Rejoice and enjoy the wealth that others have accumulated as if it were an altar.

In this world there is this reward, and after death you will be born in a good place. ”

Furthermore, the Buddha Shakyamuni preached as follows regarding nursing in the 40th volume of the Ritsuzo Sutra of the Pali Buddhist Scriptures, the Masuichi Agon Sutra.

“O monks, those who want to serve me (Buddha Shakyamuni) should take care of the sick.”

“Even if you (Buddha Shakyamuni) and other Buddhas of the past are to be held, there is no difference between the blessings bestowed on me (Buddha Shakyamuni) and the sickness (people) cared for (blessings).”

In addition, it is said that Buddha Shakyamuni himself was directly engaged in caring for sick people.

Furthermore, in the Sanskrit Sutra of the Ritsubu Sutra, nursing is listed as the number one of the Happukuda.

In other words, we can see how much importance is placed on caring for the sick in Buddhism.

In addition, in the 40th volume of the Buddhist scripture, the Buddha preaches the following about seven types of uke.

One day, the Buddha (Shakyamuni) preached that if one possesses the seven kinds of uke, he can be reborn under Heaven’s Taishaku (a good world or a good place).

What is Nanakinuke

1. Hold a memorial service for your parents.
2. Hold a memorial service for the respect of the family
3 Take gentle and gentle words and attitudes of humility
4 Leaving rough words
5 Leaving both tongues
6 Stop his stingy heart
7 Speak the truth

怒りや憎しみの感情と日々の食生活との関連性についての話

パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において

仏陀はこうお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。

怒りを断ち切って悲しまない。

その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを

滅ぼすことを聖者達は称賛する。

それを断ち切ったならば、悲しむことがない」

また漢訳仏典の大正新修大蔵経第二巻阿含部下、

雑阿含経第三十二巻において仏陀は

つぎのような主旨の法話を説かれている。

「嗔恚(しんに)を離れるを善と成す。

嗔恚及び驕慢(きょうまん)を

生じることがないようにせよ。」とある。

つまり、怒り、激怒,うぬぼれ,慢心の心を

起こさないようにせよ。

という主旨の内容が説かれている。

さらに、パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において

仏陀(仏様)はこうお説きになった。

「愚者(おろかもの)は荒々しい言葉を語りながら

「自分が勝っているのだ」と愚者は考える。

しかし、真理を認知する人がそしり

(悪口、中傷誹謗,罵詈雑言、罵倒)を

耐え忍ぶならば、

(耐え忍ぶ)その人にこそ勝利が存在する。

怒った人に対して怒りを返す人はそれによって

いっそう悪をなすことになるのである。

怒った人に対して怒りを返さないならば

勝ち難き戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのを知って気をつけて

静かにしているならば

その人は自分と他人の両者の為になることを行っているのである。

理法(真理)に通じていない人々は

「その者(怒りを返さない者)は愚者(おろかもの)だ」

と考える。

パーリ仏典「スッタニパータ」において仏陀曰く

「罪がないのに罵(ののし)られ、殴(なぐ)られ、

拘禁(こうきん)されるのを耐え忍び、

忍耐の力あり、心の猛き人、

彼を私はバラモンという。

さらに、漢訳大蔵経の中の阿含経及び

南伝大蔵経において、

仏陀釈尊は次のようにお説きになられている。

「比丘(修行者)たちよ。まさに一法を断つがよい。

一法を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして

聖者たることを得るであろう。

その一法とはなんであろうか。

いわゆる瞋恚(しんに)(怒り)がそれである。

比丘(修行者)たちよ。まさに瞋恚(怒り)を断たば、

汝ら必ず煩悩を滅し尽くして

聖者たることを得るであろう」

「瞋恚(怒り)にかりたてられて、

人は悪しき処におもむく。

まさにつとめて瞋恚(怒り)を捨つれば、

すなわち煩悩滅尽して聖者たらん。」

「雑言と悪語とを語って愚かなる者は勝てリという。

されど誠の勝利は堪忍を知る人のものである。

怒る者に怒り返すは悪しきことと知るがよい。

怒る者に怒り返さぬ者は二つの勝利を得るのである。

他人の怒れるを知って正念に自分(自分の心、精神、感情)

を静める人は、よく己(自分)に勝つとともに

他人に勝つのである。」

ところで、「健全なる肉体には健全なる精神が宿る」

ということわざがある。

健全な精神生活を過ごす為には充分な睡眠、健全な食生活、

バランスの取れた栄養の摂取等が重要であると思われる。

暴力的、怒り易い、イライラし易い、

キレ易いなどの精神状態に至る原因は様々であるが、

そのひとつの原因は乱れた食生活、

アンバランスな栄養状態にその原因があると考えられる。

「食事で治す心の病 心・脳・栄養 新しい医学の潮流

大沢 博著 第三文明社」という書籍がある。

その書籍のなかでコーラが大好きで砂糖入り缶コーヒーを

一日十本以上飲むような偏った食生活をしていた若者がいた。

以前から突発的な発作的暴力を起こしたりしていた。

それを心配したその若者の母親が著者(大沢 博)に

電話で窮状を訴えたところ、

バナナを食べさせなさいというアドバイスを与えられた。

母親はその若者にバナナを食べさせ、

一時間後に母親から電話がありバナナを食べさせたら、

一応落ち着きを取り戻した

という報告があったという。

またその他の事例で低血糖症、

インスリン過剰分泌症の若者がひどい頭痛を訴えた。

しかし著者のアドバイスによりバナナの摂取をしたところ

頭痛が収まった事が書かれている。

次に、イギリスでは、日本の少年鑑別所のような非行少年を収容して、

矯正する強制施設での食べ物による実験の記録が紹介されていた。

まず、収容された非行少年少女を二つのグループに分け、

一つのグループには精白した材料を使った食べ物を与えた。

精白すなわち白パン、白砂糖 その他、精白したものを与えた。

そして野菜を少量にして肉を多く与えた。

与えられた連中はみんな大喜びであった。

すると、二、三日も経たないうちに喧嘩が起こる、

いがみ合いはするなど大騒ぎになった。

収容がつかないほど騒然となってきた。

そういう素因をもった連中ばかりが集まっている施設であるから、

言う事を聞かなかったり反抗したりするのは

やむを得ないといえばいえるが、

その度合いが日増しに激しくなっていった。

ところがもう一方のグループには、黒パン、黒砂糖、

その他精白しないもの、あるいはヨーグルト、

野菜、果物などを主とした食べ物を与えていた。

すると、こちらは一週間くらいでみんな行儀よくなって

反抗しなくなった。

物事の道理が理解出来るようになった。

その為みんな従順になってきた。

次に、「日本食長寿健康法 川島四朗 新潮文庫」

という書籍に次のような記述がある。

「日本とイギリスは同じ島国であるが、

日本本土は火山国であるため、

その土壌の質は酸性でありカルシウムは少ない。

一方イギリス本土は 海底がせり上がった島で

その土壌の質はアルカリ性であり

カルシウムが豊富に含まれている。

そのため日本の水、食物を摂取する場合において意識的に

カルシウムの豊富な食べ物を日常的に

多く摂らなければならないと考えられる。

カルシウムが豊富に含まれている食べ物は

様々であるが、

特に胡麻(ゴマ)、わかめ、ひじきにカルシウム、

ミネラルが豊富に含まれていることが

分かっている。」

また、その書籍において

「カルシウムをたっぷり与えられたオリの中のネズミは従順だが、

カルシウムの欠乏したオリの中のネズミは気が荒く、

凶暴で体重を量ろうとオリに手をいれた時に

ネズミに噛みつかれることもしばしばであった」

という事が書かれている。

このことはネズミだけではなく人間においても

あてはまるのではないだろうか。

カルシウムは人間の精神安定と密接に関係がある事が

現代栄養学において解明されている。

以上のことから健全な精神生活には健全なる食生活が

必要不可欠と考えられる。

https://www.youtube.com/watch?v=kADqlz0-7bc

仏教が説く断人頭経、好戦経、堕胎経(中絶経)など、殺人、殺生、虐殺に関するお経について

仏教経典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九に、屠殺(殺生)に関するお経がある。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前(生きている間)において人間や動物達等の生き物の屠殺(殺す事)、殺生(生き物を殺す事)を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業(罪障)の報いにより非常に長い年月の間地獄(大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒(地獄の鬼達)により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界)に赴き、多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にも、その屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達(カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等)に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

殺人行為を犯した者の死後の業報、報いについて漢訳仏典、雑阿含経第十九巻(大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版 136ページ下段)、国訳一切経 阿含部2 大東出版 雑阿含経第十九巻の断人頭経、南伝大蔵経 十三巻の中の断人頭経というお経において次のように説かれている。

「一時、仏、王舎城に住まり給えり、その時、我(目連尊者)は道中(路中)において、頭が無い一大身の衆生(生き物、霊体)を見た。

その霊体は両肩に眼が生じ、胸に口があり、身体より常に血を流し、諸々の虫がその体をついばみ、獲食し、その生き物の身体は骨髄に徹する程の痛みを受け、苦しんでいるのを見た。」

仏陀釈尊は目連尊者の見聞した事の内容をお聞きになり、この衆生(生き物)について諸々の比丘(修行者)に次のようにお説きになられた。

「この衆生は生前(この世で生きている間)に、この王舎城において好んで人の頭(首)を切断し殺害した。

この罪によるが故に、この衆生は既に百千歳、地獄の中に堕ちて無量の苦しみを受け、その後、更にこのような身体を受け、このようなひどい苦しみを受けるのである。

諸々の比丘よ。目連尊者の所見(見聞)は真実にして異ならず。まさにこれをよく受持すべし。」と。

また、仏教のお経の阿含経に「好戦経」というお経がある。

戦争を好み刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

さらにまた、「堕胎経」というお経もある。

その内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。

「好戦経」 「堕胎経」は「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」という書籍があり、その書籍の中において「好戦経」「堕胎経」を非常に分かり易く説かれている箇所がある。

次に、屠牛者経を例に挙げるとそのお経の概要は釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

またその奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(生きている間)において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

また我(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

阿含宗 🧙大目犍連もお釈迦様も霊障の存在🔥不成仏霊は存在する‼️因果応報はあるんだ💥と説法していたんですね🙏#阿含宗 #スピリチュアル #大靈界#tv#japan #瞑想 #運勢 #佛教 #旅行 # (youtube.com)

阿含宗 🦚お釈迦様が霊障の存在を説法しなかった理由は⁉️如来の説く説法を信じない者は多くの苦しみを受け地獄に落ちるからなんだ…というお釈迦様のお言葉は重要ですね🙏#阿含宗#スピリチュアル#瞑想#運勢 – YouTube

ところで、話は変わるが、日本に放生会(ほうじょうえ)という行事がある。

殺される運命にある生き物を助け逃がしてやる行事だ。

殺生を戒める宗教儀式で仏教の不殺生戒(生き物を殺してはいけないとういう戒律)から神仏習合により神道にも取り入れられた。

例えば殺される運命にある捕えられた鳥を大空に逃がしたり又捕えられた魚や亀などを海や川や池に逃がしてやる行事だ。

とても功徳のある行いだ。

「日本人が知らない本当の道教  三多道長著」という書籍でその事について書かれている。

各神社、各お寺でも実施している所があるそうだ。

京都府の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)や奈良県生駒郡(ならけん いこまぐん)斑鳩(いかるが)町にある吉田(きちでん)寺、大分県宇佐市にある宇佐神宮,福岡県福岡市東区箱崎にある筥崎宮(はこざきぐう)(筥崎宮では「ほうじょうや」とよぶ)全国の八幡宮(八幡神社)でも行われている。

詳しい事は「仏教行事歳時記 9月 放生 監修 瀬戸内寂聴、藤井正雄、宮田登 第一法規出版株式会社」という書籍に書かれている。

書籍「南伝大蔵経 第十三巻  大蔵出版」 参照。

書籍「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下   大蔵出版」参照。

書籍「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」参照。

秘密曼荼羅十住心論 (書き下し文)「空海 日本思想大系 岩波書店」参照。

秘密曼荼羅十住心論 (原文)(弘法大師空海 著)「空海 日本思想大系 

岩波書店」参照。

「国訳一切経 阿含部二 大東出版社」参照。

「国訳一切経 阿含部二 大東出版社」参照。

「国訳一切経 阿含部三 大東出版社」参照。

書籍「タイの地獄寺」参照。

仏教用語、福田(ふくでん)と布施(ふせ)についての話

仏教の教え、おしゃかさまの教えの中に、田んぼや畑(はたけ)に種子(しゅし)を撒(ま)くと実が成り、収穫があるように、仏,僧,父母,貧窮者などに布施をすると,未来に功徳が得られ、その布施する対象、いわゆる、福田という事を教えている。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

ふくでん【福田】 とは仏教用語であり、福徳を生み出す田地の意味である。

また、おしゃかさまは分かち与えることについても次のように説かれている。

「善い人々は僅(わず)かであっても、正しく、わかち与えるならば、多くの人々に勝つ。

ただ物をくれてやることが勝つのではない。

たとい、僅(わず)かなものであっても、信仰心をもって与えるならば、この人は来世において安楽となる。

分かち与えることと戦闘とは相等しいと人々は言う。

これらの美徳は悪人には存在しない。

人々にわかち与える時は、戦闘の時のごとくである。

その原因をまとめて言うならば(いずれも他と)等しいであろう。

執着する心がなくて施しを与える人は、幾百の障害に打ち勝って、敵である物惜しみを圧倒して勇士よりもさらに勇士であると、われは語る。

福徳の果報が熟するのは楽しい。 希望する事が成就する。

そうしてその人は速やかに最高のやすらぎ、覆いの解きほぐされた(解脱)の状態におもむく。

福徳を積んだ人に対しては、悪魔の身をとった神々も、他から害をなすことも、障りをなすこともできないであろう。」

書籍「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波文庫」269ページ~270ページ引用。

「世に母を敬うことは楽し。また父を敬うことは楽し。」

「母あるいは父を法によりて養う人あらば父母に仕えるそのことを以って、この世にてはもろもろの賢者がかれを賞賛す。

また死後(その功徳により)、かれは天界にて楽しむ。」

「母と父とは梵天ともいわれ先師ともいわれる。

子らの供養すべきものにして、また子孫を愛する者なり。

されば実に賢者は飲食と衣服と床と塗身と沐浴と洗足とを以って父母に敬礼し尊敬せよ。」

「されば正しき善人は、恩を感じて恩を知り、昔の恩を思い起こして母と父を扶養す。

昔、恩を受けたるが如くにかれら(父母)に対して義務を果たす。

教えを護り、扶養して、家系を断たず、信仰あり、戒を保つ子は賞賛せらるべきなり。」

「われらは両親に養われたならば、かれらを養うべし。

かれらの為に為すべきことを為すべし。

家系を存続すべし。

財産相続を為すべし。

また祖霊に対して適当なる時々に供物を捧ぐべし。」

パーリ仏典や漢訳仏典 雑阿含経においてブッダ釈尊はこうも説かれている。

1、母と父を養う人、父母を供養する。

2、家においては年長者を敬う人。家の尊重に供養する。

3、やさしい心の通う会話をなす人。柔和で優しい謙遜の言葉、態度をする。

4、そしる言葉を捨てた人。荒々しい言葉を離れる。

5、もの惜しみを除くのに努めている人。ケチな心をやめる。

6、真実なる人(真実の言葉を言う 嘘はつかない)。

7、怒りに打ち勝った人(怒りが起きても怒り心をすぐに取り除く人。

こういう立派な人々は来世(死後)に三十三天に生まれる事が出来る。と。

   書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部三 大東出版社」参照。

つぎに、仏教経典 パーリ相応部経典(サンユッタ・二カーヤ)のお経において父母を養っているバラモンが尊師(仏陀釈尊)に次のように質問をした。

「ゴータマ(仏陀釈尊)さま。

わたくしは、きまりにしたがって食を求めます。

きまりにしたがって托鉢(たくはつ)して食を求めて、両親を養っています。

わたくしは、このようにしていますが、なすべきつとめを果たしているのでしょうか。」

尊師(仏陀釈尊)は次のように言った。

「バラモンよ。たしかに、そなたは、このようにして、なすべきつとめを果たしているのです。

きまりにしたがって食を求め きまりにしたがって食を求めて両親を養っている人は、多くの功徳を生じます。

母または父を、ことわりにしたがって養う人は、両親に対するその奉仕によって、この世では。賢者がかれを称賛し、死後には天にあって楽しむ。」

その言葉を聞きバラモンは次のように言った。

「すばらしいことです。

ゴータマさま。

すばらしいことです。

ゴータマさま。

ゴータマさま、私を在俗(在家)信者として受け入れて下さい。

今日以後、命ある限り貴方様に帰依致します。」と。

また、ブッダは布施する内容は様々な種類があるとして、布施について次のように説かれている。

仏陀は神々から布施について次のように問われた。

「何を与えて力を与えるのか

何を与えて美貌を与えるのか

何を与えて安楽を与えるのか

何を与えて目を与えるのか

何を与えて総てを与えるのか」

という神々からの質問に

ブッダは次のように説かれている。

「食物を与えて力を与え、

衣を与えて美貌を与え、

乗り物を与えて安楽を与え、

燈明を与えて目(視力)を与え、

住居を与えるところの人は総てを与えるなり。

法(仏教)を教える人は不死を与える人なり」と説かれている。


書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版社」参照。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版社」参照。

また、ブッダは功徳と来世について次のように説かれている。
「生きとし生ける者どもは(寿命が尽きて)いつかは(必ず)死ぬであろう。
生命はいずれ死に至る。
かれらは死後に自己の作った業に従って各所に赴いてそれぞれ善悪の報いを受けるであろう。
悪い行いをした人々は死後において地獄に生まれ赴き、
善い行いをした人々は(死後)善いところに生まれ赴くであろう。
その為に来世の幸福、平和、安楽の為に現世で善い事をして功徳を積まなければ
ならない。
人々が作ったその功徳はあの世で人々のよりどころとなる。」

 

仏教経典(雑阿含経)(パーリ仏典サンユッタ 二カーヤ)参照。

仏教やヨーガが説く呼吸による感情のコントロール方法(アンガーマネジメント)について

仏教では怒りなどの煩悩を起こす事は自身の福徳を損じ、地獄に生まれ変る原因として怒りや憤り、憤怒の感情を起こすことは強く戒められている。

この怒りの感情を抑えるために、仏教では数息観などの呼吸法が説かれている。

例えば、数息観という呼吸法を説明すると
呼吸を鼻で行い、ゆっくりと心の中で呼吸を意識して数えて行う修行法がある。

つまり、
ひとーつ、(1)
ふたーつ、(2)
みーっつ、(3)
よーっつ、(4)
いつーつ、(5)
むーっつ、(6)
ななーつ、(7)
やーっつ、(8)

などというように呼吸を鼻から、意識的に、深く、ゆっくりと数えて行う修行法である。

呼吸を、意識的に、深く、ゆっくりと行うことにより心のコントロール、感情のコントロールが容易になり、怒り、激情、憤りの感情が鎮まるという。

これは、ヨーガなどでも同様に様々な呼吸法が説かれている。

また、仏教ではお経を声に出して唱える読経というものがあるが、これも一種の呼吸法とも考えられる。

人間、怒ると、呼吸が荒くなる。

心が静まると呼吸も静かでゆっくりになる。

呼吸と感情は、ある種、密接な関連性があるように思える。

一般的に、成人の呼吸回数は1分間に約17回程度の間隔で呼吸をしているとされているが、精神病患者は1分間の呼吸回数が一般人と比べて比較的に多いと書物で読んだことがある。

それとは逆に、ヨーガの呼吸法の達人は一説には1分間に1回程度の間隔で呼吸をするという話を「思念力百科」という本で読んだことがある。

この「思念力百科」という書籍の中で、随意筋と不随筋について説明があり、心臓などの臓器は自分の意志でコントロール出来ない不随筋、一方、自分の意志でコントロール出来る手足の筋肉は随意筋であるが、呼吸という機能は自分の意志でコントロール出来る機能であるが、また、自分の意志がなくとも自然に呼吸する事が出来る。
いわゆる、不随筋、随意筋の両方の機能を兼ね備えている。

この随意筋と不随筋、両方の機能を兼ね備えた呼吸という機能を意識的に行い、コントロールすることで無意識のコントロールが出来るのではないかと書かれている。

仏教の諸経典、ヨーガの経典、ヨーガ・スートラなどでは、様々な呼吸法が説かれている。

呼吸をコントロールする事は感情をコントロールするのみならず、様々な利益があると思われる。

また、古来から現存するヨーガや仙道などでにおいて、呼吸法は口呼吸ではなく鼻呼吸を推奨している。

鼻呼吸の利点として、鼻から空気を吸うと、空気が体内に適した湿度に加湿され、また、細菌やバクリアなど体内に有害な物質を鼻によりろ過され体内に空気が取り込まれる。

それにより体内にはある程度の有害物質が除去され空気が取り込まれる事が可能になる。

書籍「トップアスリートが実践する人生が変わる最高の呼吸法 パトリック・マキューン著 桜田 直美 訳 かんき出版」のなかで著者のパトリック・マキューンは自書の中で次のように説かれている。

「今から1世紀以上前に書かれたヨガの本「呼吸の科学(The Science of Breath)」のなかで著者のヨギ・ラマチャラカは鼻呼吸と口呼吸について次のように書いている。

「ヨガの呼吸法で最初に学ぶことのひとつは、広く行われている口呼吸をやめて、鼻呼吸の方法を学ぶことだ。」

「文明人がよくかかる病気の多くは口呼吸の習慣が原因になっている。」

と書かれている。

また、著者は、自書の中において「鼻呼吸が脳卒中を防ぐ一酸化窒素を増やす」という章を設け、次のように書かれている。

「鼻呼吸の役割の一部を記載すると鼻呼吸は口呼吸に比べ、呼吸への抵抗が約50%大きくなる。その為、呼吸量が減るので体内に取り込める酸素の量が約20%増える。

鼻呼吸をすると、吸い込む空気が温まり、湿度が上がる。

例えば、外で摂氏約6度だった空気は、鼻孔を通過すると、のどの奥に達するまでに約30度に上昇する。そして最終目的地である肺に達する頃には約37度まで上昇している。

鼻呼吸をすると、吸い込んだ空気から大量の細菌やバクテリアが除去される。

運動時に鼻呼吸すると有酸素運動と同じ効果が得られる。

鼻は一酸化窒素の貯蔵庫であり、健康維持に欠かせない気体である。

1980年代までは一酸化窒素は光化学スモッグなどの公害の原因になると考えられていた。

一酸化窒素の重要性が最初に指摘された時にわかには信じられなかった。

体内にあると著しく害になるガスが体内には重要な役割を果たすなんて本当にあり得るのだろうか。

医学会が一酸化窒素に注目するようになったのは最近のことだが、すでに10万以上の研究が行われていて科学者の関心を集めている。

1992年一酸化窒素は科学誌「サイエンス」でその年の分子オブ・ザ・イヤーに選ばれた。

この奇妙な単純な構造の分子は神経科学、生理学、免疫学を統合する働きがあり、細胞同士のコミュニケーションや細胞の防御能力に関する科学界の常識を覆すことになった。

1998年、ある科学者が一酸化窒素が心血管システムで重要な情報伝達の機能を担っていることを発見しノーベル賞を受賞した。

私自身、一酸化炭素について勉強を始めた頃、その利点の大きさに驚いたのを覚えている。

主な器官や臓器のすべてに影響を与えるだけでなく、がんなどの病気を予防する働きがあり、長寿を促進し、さらには寝室でのパフォーマンスも向上させてくれるのだ。

奇妙なことに、一酸化窒素には人生を変えるほどの力があるというのに、医学会の外では、ほとんどその存在が知られていない。

私は今までに、数百人の高血圧、心臓病、喘息などの症状を持つ人たちと会っているが、一酸化窒素の働きを知っている人は一人もいなかった。

一酸化窒素が作られる場所は、鼻腔と、全身に張り巡らされた全長10万 km にもなる血管の内壁。

科学的な研究によると、一酸化窒素は鼻呼吸によって鼻から気管、肺へと送られていく。

世界的に有名なスウェーデンのカロリンスカ研究所で働く二人の研究者は権威ある医学雑誌「ソラックス」に発表した論文の中で、

「一酸化窒素は人間の鼻の中で放出され、鼻呼吸によって気道から肺に送られる」

と書いている。

体が酸素を取り込む上で、一酸化窒素はとても大切な役割を果たしている。

一酸化窒素には肺の中の気道や血管を拡張する働きがある。

一酸化窒素の利点を生かすには鼻呼吸をすることが不可欠だ。

そして鼻呼吸をするには腹式呼吸にする必要がある。

ここで鼻は一酸化窒素の貯蔵庫だと考えてみよう。

鼻から息をゆっくりすると一酸化窒素という有能な分子が肺と血液に送り込まれそこから全身に行き渡る。

しかし、口呼吸だと鼻の奥にある一酸化窒素を素通りしてしまうため、一酸化窒素が健康に与える利点を生かすことができない。

一酸化窒素はまた血圧の調節、恒常性の維持、神経伝達、免疫機能、呼吸機能でも重要な役割を果たしている。

高血圧を予防するコレステロール値を下げる動脈の老化を防ぎ、柔軟性を保つ。動脈瘤を予防するなどの働きもある。

これら、全て心臓発作と脳卒中の予防につながる。

また一酸化窒素には抗ウイルスの働きがあり、あなたの体を守ってくれる。

そのため病気のリスクが減り全体的な 健康状態が向上すると考えられる。」

 

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部四 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部八 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部八 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部八 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部八 大東出版社」参照。

Why must not steal? Why must not kill?

Why must not steal? Why must not kill?
The moral simple question which especially a child and youth hold vaguely exists.

One of the appropriate replies to the question can be found out from Buddhist literature, Samyutta Nikaya.

The Buddha is the Awakened One , or the Enlightened One.
Buddha is explained as follows.

“The person who did the act which deprived of the thing of the others will encounter the fate of which are deprived in the future or next world after death, those who kill others are killed from others in future or next world after death, and those who blame others incur resentment from others in future or next world after death , and those who speak ill receive speaked ill from others in future or next world after death and those who get angry will took receive anger from others in future or next world after death .
A fool considers it natural that there is no reward of evil, while a reward of evil does not fruit. However, when a reward of evil fruits, a fool considers receives suffering.”

The Buddha preached that violence is wrong in Dhammapada.

Dhammapada is the Buddhism literature , or the Buddhism sutra.

The Buddha preached about violence as follows.

「All tremble at violence;

All fear death.

Seeing others as being like yourself,

Do not kill or cause others to kill.

All tremble at violence;

Life is dear for all.

Seeing others as being like yourself,
Do not kill or cause others to kill.

You who seeking own happiness punish or kill beings who also long for happiness, will not find happiness after death.

You who seeking own happiness does not punish or kill beings who also long for happiness, will find happiness after death.
The Buddha is the Awakened One, or the Enlightened One. Sutta-Nipata is one of the Pali Canon. Pali Canon is Buddhism Literature.

The Buddha preached about mercy (benevolence,compassion) as follows in Sutta-Nipata.

“Whatever living beings there are, either feeble or strong, all either long or great ,middle-sized, short , small or large,Either seen or which are not seen , and which live far (or) near, either born or seeking birth , may all creatures be happy-minded.”

“As a mother at the risk of her life watches over her own child, her only child, so also let every one cultivate a boundless (friendly) mind towards all beings.
And let him cultivate goodwill towards all the world,a boundless (friendly) mind, above and below and across ,unobstructed, without hatred, without enmity.
Standing , walking or sitting or lying, as long as he be awake,let him devote himself to this mind ; this (way of) living they say is the best in this world.”

Buddha preached about sacrifice festival of animals as follows in Sutta Nipata.
「(Above sentence abbreviation ) The cows, that are like goats, do not hurt any one with their feet or with either of their horns, they are tender,and yield vessels (of milk)-seizing them by the horns the king caused them to be slain with a weapon.Then the gods,the forefathers, Inda,the Asuras, and the Rakkhasas cried out:“This is injustice ” because of the weapon falling on the cows.There were formerly three diseases:desire,hunger,and decay,but from the slaying of cattle there came ninety-eight.This injustice of (using) violence that has come down (to us), was old ; innocent (cows) are slain,the sacrificing(priests) have fallen off from the Dhamma. So this old and mean Dhamma is blamed by the wise;where people see such a one,they blame the sacrificing priest.So Dhamma being lost ,the Suddas and the Vessikas disagreed, the Khattiyas disagreed in manifold ways,the wife despised her husband. (A next sentence omits.) 」

Why must not do a wicked act ?

One of the appropriate replies to the question can be found out from Buddhist literature.

Buddha preached as follows in Dhammapada.

“If a man commits a sin,let him not do it again;let him not delight in sin:pain is the outcome of evil.”

“Even an evil-doer sees happiness as long as his evil deed has not ripened;but when his evil deed has ripened, then does the evil doer see evil.”

“Let no man think lightly of evil,saying in his heart,It will not come nigh unto me. Even by the falling of water-drops a water-pot is filled;the fool becomes full of evil,even if he gather it little by little.”

“If a man offend a harmless,pure,and innocent person,the evil falls back upon that fool,like light dust thrown up against the wind.”

“Some people are born again;evil-doers go to hell;righteous people go to heaven;those who are free from all worldly desires attain Nirvana.”

The Buddha is the Awakened One, or the Enlightened One. Dhammapada is one of the Pali Canon, Pali Canon is the Buddhism literature. The Buddha preached as follows in Dhammapada.

“If a man offend a harmless, pure, and innocent person, the evil falls back upon that fool, like light dust thrown up against the wind.”

“He who inflicts pain on innocent and harmless persons will soon come to one of these ten states.
He will have cruel suffering, loss, injury of the body, heavy affliction, or loss of mind, or a misfortune coming from the king, or a fearful accusation, or loss of relations, or destruction of treasures, or lightning-fire will burn his houses, and when his body is destroyed, the fool will go to hell.”

“An evil deed, like newly-drawn milk, does not turn(suddenly), smoldering, like fire covered by ashes, it follows the fool.”

Gautama Buddha is the founder of Buddhism.

He was born in the 6th century BCE as Prince Siddhartha Gautama of the Shakya clan , rulers of a small kingdom in present-day Nepal. As a youth , he confronted the realities of sickness , old age , suffering , and death , he determined to find a way out of the pain that seemed a universal aspect of life. At the age of 29 , he gave up his royal life , left home to become a wandering ascetic, and seeking to find the way in traditional religious disciplines , denying himself everything but the necessities.

However he did not find satisfaction.

After six years, while meditate , he is lost in deep contemplation sitting under a tree one evening , he achieved complete enlightenment, became a Buddha at the age of 35 after all.

He then spent the rest of his life teaching what he had realized ,guiding his followers monastic and lay on the path to spiritual awakening ,until his death at the age oh 80.

The Buddha (Tathagata,Arahat) is the Awakened One,or the Enlightened One.Dhammapada is one of the Pali Canon.Pali Canon is Buddhism Literature.

The Buddha preached about summary of Buddhism as follows in Dhammapada.

“Not to commit any sin,to do good ,and to purify one`s mind ,that is the teaching of (all) the Awakened.”(Dhammapada No.183)

真言密教の開祖、弘法大師空海様が説いた虐殺、屠殺、殺生、殺戮、殺害の果報、業報について

弘法大師空海

仏教やジャイナ教の教えに屠殺、殺生、殺戮、殺害を戒める教え、戒律が存在する。

真言密教の開祖、弘法大師空海様の晩年の著作「秘密曼荼羅十住心論」の中で殺生の果報として次のように説かれている。

「地持論」にいわく、「殺生の罪はよく衆生をして、三悪道に堕せしむ。

もし人中に生ずれば、二種の果報を得。

一には短命。二には多病なり。」

と。かくのごとくの十悪は、一一にみな五種の果報を備う。

一には、殺生は何が故にか地獄の苦を受くるや。

その殺生は衆生を苦しむをもっての故に、故に身壊し命終すれば、地獄の衆苦、みな来たりて己れを切(せ)む。

二には、殺生は何が故にか出でて畜生となるや。

殺生は慈惻あることなくて、行い人倫に背くをもっての故に、地獄の罪おわりて畜生の身を受く。

三には、殺生は何が故にかまた餓鬼となるや。

その殺生は必ず慳心によりて、滋味を貪著するをもってまた餓鬼となる。

四には、殺生は何が故にか人に生じて短寿を得るや。

その殺生は物の命を残害するをもっての故に短命を得。

五には、殺生は何が故にか兼ねて多病を得るや。

殺生は遺適して衆患競い集まるをもっての故に多病を得るなり。

まさに知るべし、殺生はこれ大苦なり。

また、「雑宝蔵経」にいわく、

「時に一人の鬼ありて、目連に申して曰く、われ常に両肩に目あり、胸に口鼻ありて、常に頭あることなし、何の因縁の故ぞと。

目連答えて曰く、汝、前世の時、恒に、魁膾(かいかい)(屠殺者の主)の弟子となりき。

もし、人を殺す時には、汝常に歓喜の心ありて、縄をもって髻に著けてこれを挽く。

この因縁をもっての故に、かくのごとく罪を受くと。

これはこれ悪行の華報なり。

地獄の苦果はまさに後世にあるなり。

また、一人の鬼ありて、目連に申していわく。我が身は常に塊の如くの肉にして、手、脚、眼、耳、鼻あることなし。

常に蟲鳥の為に食せられて、罪苦耐え難し。

何の因縁の故ぞと、答えていわく、汝、前世の時に、常に他に薬を与えて他の児胎を堕とす。この故にかくのごとくの罪を受くと。

これは華報なり、地獄の華報はまさに後身にあり。といえり。

秘密曼荼羅十住心論 書き下し文

書籍「日本思想大系  空海 川崎庸之 (校注者)岩波書店」参照。

秘密曼荼羅十住心論 原文(弘法大師空海 著)

書籍「日本思想大系 空海   川崎庸之 (校注者) 岩波書店」参照。

さらに、因果の道理を知る事の重要性について弘法大師空海様は自身が著された「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)の中において次のように説かれている。

「三途の苦は劫を経ても免れがたし。如来の慈父この極苦を見てその因果を説きたもう。

悪の因果を説いてその極苦を抜き、善の因果を示してその極果を授く。

その教えを修するものに略して二種あり。

一には出家、二には在家なり。

出家とは頭を剃り衣を染むる比丘・比丘尼等これなり。

在家とは冠を頂き縷(えい)を絡(まと)える優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)これなり。

上、天子に達し、下、凡庶に及ぶまで、五戒、十善戒を持(たも)って仏法に帰依するものみなこれなり。

菩薩といっぱ、かくのごとくの在家の人、十善戒を持(たも)って六度の行を修するものこれなり。

出家して大心を発するものもまたこれなり。

悪を断ずるが故に苦を離れ、善を修するが故に楽を得。

下、人天より上、仏果に至るまでみなこれ断悪修善の感得するところなり。

この両趣を示さんがために、大聖教を設けたもう。

仏教すでに存せり。

弘行人に在り。

この故に法を知るものは出家し燈(ともしび)を伝え、道を仰ぐものは道に入って形を改む。(この文章の中での燈とは仏の教法を意味する)

・・・・・・後略・・・・・」

ちなみに真言密教における十善戒とは

不殺生戒

不偸盗戒

不邪淫戒

不偸盗戒

不両舌戒

不悪口戒

無義語戒

不貪欲戒

不瞋恚戒

不邪見戒

を意味する。

書籍「弘法大師著作全集 第一巻 弘法大師(著) 勝又俊教(編)山喜房仏書林」参照。

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仏教が説いた、ケチと分かち合いについての話、盂蘭盆経、餓鬼事経、施餓鬼供養などについての話

パーリ仏典サンユッタ・二カーヤ(南伝大蔵経)において仏陀は次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版社」参照。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版社」参照。

また、パーリ仏典「ウダーナヴァルガ」において分かち合うことの大切さが説かれている。

「信ずる心あり、恥を知り、誡(いまし)めをたもち、また財を分かち与える。これらの徳行は、尊い人のほめたたえることがらである。

この道は崇高なものである。とかれらは説く。

これによって、この人は天の神々におもむく。

もの惜しみする人々は、天の神々の世界におもむかない。

その愚かな人々は、分かち合うことをたたえない(賞賛しない)。

しかし、この信ある人は分かち合うことを喜んでいるので、このようにして来世には幸せとなる。」

 

次に、盂蘭盆会という行事があります。

この行事は餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事です。

餓鬼界とは生前もの惜しみ心が強く、ケチで、人に親切でなく、布施をしたりせず、悪い事をした者が死後に生まれ変わっていく境涯であります。

餓鬼界には食物がほとんどなく、空腹で苦しみ、仮に食べ物があっても食べ物を食べようとすると火になって燃えてしまったりする。

そういった餓鬼界で苦しんでいる餓鬼達に食べ物を供養したり、食事が出来るように餓鬼達を救う為の行事を盂蘭盆会や施餓鬼供養といいます。

餓鬼へのご供養をする為のご真言が仏教経典には書かれている。

真言には無量威徳自在光明殊勝妙力等の餓鬼を供養するご真言があるが、施餓鬼の経典として有名な「仏説盂蘭盆経」「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼」等の経典に詳しく記載されている。

次に、仏教のお経に餓鬼事経(がきじきょう)というお経があります。

この餓鬼事経(がきじきょう)というお経はパーリ五部経典(パーリ語 五部経典)の中の小部経典に属するお経であります。

餓鬼事経は全部で五十一話あり、その話の主な内容は、餓鬼、死者、幽霊達が生前 つまり生きている間に悪業(わるいこと)を行い、その悪い事をしたことによる悪い報いによって、死後に悪い境涯、餓鬼界(がきかい)に落ちて苦しみ、困っている状況の話が説かれている。

このお経において善因善果、つまり自分の善いおこないは自分に善い結果、善い報いを生む、悪因悪果、つまり自分の悪いおこないは自分に悪い結果、悪い報いを生む、つまり、因縁果報(いんねんかほう)、因果応報(いんがおうほう)についての具体的な話が餓鬼、死者、幽霊達の話を通じて説かれている。

また重要な年中行事、施餓鬼会(せがきえ)の源流に関係があると考えられるお経がその餓鬼事経に収められている。

「死者たちの物語 餓鬼事経和訳と解説 藤本晃訳著 国書刊行会」という書籍において餓鬼事経(五十一話)の全訳(日本語訳)が説かれている。

次に、佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼経というお経があります。

そのお経の主な内容は、昔、お釈迦様の直弟子の阿難尊者がある夜、閑静な場所に独り座し仏様の教えの内容を深く観じていると深夜に一人の餓鬼が現れた。

その姿は、髪は蓬(よもぎ)のように乱れ口からは焔(ほのお)を吹き身体はやせこけ咽(のど)は針の如く細く爪は長くとがり顔に苦悶の形相が凄く、阿難尊者に向かってこのように言った。

「あなたは三日後に死んで私のように餓鬼となるであろう。」と。

阿難尊者は内心大いに恐れ「どのようにしたらこのような苦しみから解放されることが出来るのだろうか」と反問したところ餓鬼が次のように答えた。

「この世界に満ちている多数の餓鬼に飲食を施し、多数の仙人、多数の修行者及び三宝(仏、法、僧)に供養をすれば、その功徳に依って私も餓鬼の苦しみから解放され、あなたも寿命を延ばし餓鬼界に堕ちる事はないでしょう。」と言って姿を消した。

阿難尊者は仏様にその出来事について相談をし仏様から餓鬼供養のご真言や供養法を教わった。

そして、その法を修したところ阿難尊者も天命を全うし餓鬼の苦しみも解脱したとあります。(大正新修大蔵経第21巻(密教部四)464P~465P参照。)

次に、盂蘭盆経というお経があります。

書籍「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

 

書籍「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

その主な内容は

今から約2500年程前のインドにおいて仏教の開祖お釈迦様が活躍されていた時代、お釈迦様の直弟子に目連尊者(もくれんそんじゃ)という方がおられた。

その目連尊者はお釈迦様の直弟子の中において神通の力が最も優れていると認められていた方であった。

その目連尊者が修行により悟りを開くと直ちに故郷の母を想い起こし目連尊者自身の天眼通(超人的な透視力、霊眼)により母の所在を探すと母はもう既に亡くなっており餓鬼道に堕ちて苦しんでいる事を知った。

目連尊者は悲しんで自分自身の神通力により母の傍らに赴き、手づから食物を捧げると母はうれし涙にくれ直ちに食物を口に入れようとするも過去の悪業報の報いにより食物はそのまま火炎となって燃え上がり食べる事が出来なかった。

母は悲泣し目連尊者もどうすることも出来ず赤子のようにただ泣くのみであった。

その後、目連尊者はお釈迦様の所に趣き母の苦しみを救って欲しいと願い出た。

するとお釈迦様は次のように説かれた。

「目連の母は生前の悪業が深いので目連の力だけではどうする事も出来ない。

このうえは十方(多数)の衆僧(修行僧)の威徳に頼る他は無い。

七月十五日は僧懺悔の日、仏歓喜の日であるから、その日に飲食を調えて十方の衆僧を供養するがよい。

そうすればその功徳により母の餓鬼道の苦しみも消えるであろう。」

と説かれたので目連尊者はその教えの通りに行うと母の餓鬼道の苦しみを救う事が出来た」とあります。

余談だが、目連尊者は、自分の母親が餓鬼界から脱出することが出来たのを知り、非常に歓喜し、狂ったように躍り喜んだ。

他の修行者たちは、普段は冷静沈着、真面目で実直勤勉な目連尊者が狂ったように踊り喜んでいる様子を見て非常に驚いた。

その目連尊者の踊る姿が、毎年、夏に行われている盆踊りの起源であり、盆踊りの始まりであったといわれています。

次に、阿含経において着服、横領、盗み、窃盗, 掠め取り、収奪について説かれているお経が存在する。

その主な内容は、その目連尊者がある時、奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(前世、生きている間)において他人の食べ物をひそかに盗み、かすめ取る行為を行い、その食べ物をひそかに盗み、かすめ取った罪業の報いにより死後において多くの地獄の苦しみに苦しんでいる。という内容が説かれている。

「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」 雑阿含経第十九巻 第四弟子諸説誦 第二目犍連相應「不分油経 盗取七菓経 盗食石蜜経 盗取二瓶経 比丘経」

「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」百三十八頁(ページ)上段中段参照。

次に、真言宗の開祖、弘法大師空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において盗み、窃盗、泥棒、収奪の業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 五五七頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は

「ある一人の鬼(死者)がいた。

その鬼が仏弟子である目連尊者に対しこのように質問した。

「私の腹は極度に大きく、のど、手足は極度に細くて食べ物や飲み物を取ること、食事をする事が出来ない。

何が原因でこのような苦しみを受けるのか。

目連尊者は答えて言った。

「あなたは前世(前生)において高い地位にあり富貴、裕福で、さまざまな食事、お酒を大いに楽しんだが、他の人々を軽視し、侮り(あなどり)、見下し他の人々の飲食を奪(うば)い取り、他人を飢(う)えさせ、他人を困らせた。

このような、他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた行い、行為、因縁、業報、罪の報いによりこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、業報であり、このような罪の報いによる地獄の苦しみは後になって受けるのである」と。説かれている。

書籍「弘法大師著作全集 第一巻 勝又俊教(編) 山喜房仏書林」参照。

 

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

Why must not violence? why must not kill?

The Buddha preached that violence is wrong in Dhammapada.

The Buddha is the Awakened One , or the Enlightened One.

Dhammapada is the Buddhism literature , or the Buddhism sutra.

The Buddha preached about violence as follows.

「All tremble at violence;

All fear death.

Seeing others as being like yourself,

Do not kill or cause others to kill.

All tremble at violence;

Life is dear for all.

Seeing others as being like yourself,
Do not kill or cause others to kill.

You who seeking own happiness punish or kill beings who also long for happiness,will not find happiness after death.

You who seeking own happiness does not punish or kill beings who also long for happiness,will find happiness after death.

“If a man commits a sin,let him not do it again;let him not delight in sin:pain is the outcome of evil.”

“Even an evil-doer sees happiness as long as his evil deed has not ripened;but when his evil deed has ripened, then does the evil doer see evil.”

“Let no man think lightly of evil,saying in his heart,It will not come nigh unto me. Even by the falling of water-drops a water-pot is filled;the fool becomes full of evil,even if he gather it little by little.”

“If a man offend a harmless,pure,and innocent person,the evil falls back upon that fool,like light dust thrown up against the wind.”

“Some people are born again;evil-doers go to hell;righteous people go to heaven;those who are free from all worldly desires attain Nirvana.”

 

 

Why must not murder,slay,slaughter ?

 

It is explained to Buddhist literature that those who did the atrocious, brutal deed fall to hell, and receive many miserable big pain after death (next life).

Majjhima Nikaya in Pali Canon (Buddhist literature), The Buddha is explained in this way, even if there is fate that he lose his all money, lose his wife,lose his child and be imprisoned himself by gambling, Commiting a crime and an evil deed, according to the reward of the crime and an evil, falling to hell for huge period after death, If compared with big pain into the hell which receives many cruel miserable pain, There is fate that he lose his all money, lose his wife, lose his child and be imprisoned himself by gambling is slight pain . The very worst misfortune in which the fate which commits an evil deed, falls to hell after death according to the reward of the crime and an evil deed, and falls to the hell for huge period which encounters many cruel, many miserable and big pain is the very worst unfortunate .

Why must not murder?
Why must not slay?
Why must not slaughter?

One of the appropriate replies to the question can be found out from Sutta-Nipata.

Sutta-Nipata is one of the Pali Canon. Pali Canon is Buddhism literature.

Gotama Buddha is the Awakened One, or the Enlightened One.

Gotama Buddha preached about murder,slay,slaughter as follows in Sutta-Nipata.

“Those persons who in this world are unrestrained (in their behaviour) towards living creatures, who are bent upon injuring after taking others” (goods), wicked, cruel, harsh, disrespectful;-this is Amagandha, but not the eating of flesh. (Sutta-Nipata No.246)

“Those creatures who are greedy of these (living beings, who are) hostile, offending; always bent upon (evil) and therefore, when dead, go to darkness and fall with their heads downwards into hell;- this is Amagandha, but not the eating of flesh. (Sutta-Nipata No.247)

なぜ盗んではいけないのか? なぜ殺してはいけないのか?

なぜ盗んではいけないのか?

なぜ殺してはいけないのか?

特に子供や青少年が漠然と抱く道徳上の素朴な疑問が存在する。

その疑問に対する妥当な回答の一つを仏典より見い出す事が出来る。

パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ、雑阿含経において仏陀は次のように説かれている。その主な内容は

「他人から奪った人が(来世、未来において)他人から奪われるのである。

愚か者は悪の報いが実らない間は悪の報いがない事を当然のことだと考える。

しかし、悪の報いが実ったときには愚か者は苦悩を受ける。

殺す者は(未来には)殺され怨む者は(未来には)怨みを買う、

また罵りわめく者は(未来には)他の人から罵りを受ける、

怒りたける者は(未来には)他の人から怒りを受ける、・・後略」

つまり自分が(来世、未来において)殺されないようにするためには他者を殺してはいけない。また(来世、未来において)自分のお金や大切にしている物を盗まれないようにする為には他者のお金や物を盗んではいけない。

法句経において
「悪業の報いはたとえ大空においても大海においても奥深い山中に隠れても悪業の報いからは逃れることが出来ない」と仏陀は説かれている。

仏教経典の増壱阿含経第七巻の五戒品第十四において盗み、泥棒、窃盗、略奪行為の報いについて説かれているお経が存在する。

その主な主旨内容は、盗み、泥棒、窃盗行為を多く行った者はその罪の報いにより未来、将来、死後、来世において地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ赴(おもむ)くと説かれている。

また人間に生まれ変わっても極めて貧しく、衣服や食事に極めて事欠く境涯に生まれ赴くと説かれている。

(大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版社 576ページ中段参照、国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社 106ページ~107ページ参照)

※仏教では六道輪廻を説きます。

六道輪廻とは生き物達が天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六道つまり六つの境涯を途方もない膨大な期間、途方もなく膨大な回数、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしている。

輪廻転生している。

その六道のうち畜生界(動物の境涯)、餓鬼界(飢えや渇きに苦しむ境涯)、地獄界(地獄の鬼達に残虐に責め立てられ痛めつけられ苦しめられる極めて残虐悲惨な境涯)は三悪道、三悪趣といって六道輪廻の中では最も苦しい境涯であると説きます。
ジャイナ教の教えにこうある。

「わたしは説く。いかなる生物も傷つけてはならない。これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。虐待してはならぬ。害してはならぬ。苦しめてはならぬ。悩ましてはならぬ。これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

増一阿含経 五戒品 第十四

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部八 大東出版社」参照。

弘法大師空海様が説く中絶、堕胎の業報

真言宗開祖、弘法大師空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において中絶(ちゅうぜつ)、堕胎(だたい)の果報、業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経 第十七巻 経集部四 五五八頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は
「一人の鬼あり、その鬼が仏弟子である目連尊者に対してこう問いかけた。「私の身体は常に肉の塊にして手、脚、眼、耳、鼻等あること無し、

つねに多くの鳥達に体をついばまれ、食べられ、耐えられない程苦しい。

何が原因でこういう苦しみに遭(あ)うのか」

目連尊者は答えて言った「あなたは前世(前生)においてつねに他者に薬を与え他者の胎児(たいじ)を堕(おろ)した。

胎児を中絶させた。

胎児を殺害した。

このような行為、因縁、業報により死後、現在においてこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、行為の報い、罪の報いであり、地獄の苦果、苦しみはまさに後身にあり(果報の報いはあとになって受ける)」とある。

(鬼という言葉は死者を意味する。昔は死ぬ事を鬼籍に入ると言った。)

 真言宗開祖 弘法大師空海

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秘密曼荼羅十住心論 (原文)(弘法大師空海 著)   

書籍「日本思想大系 空海  川崎庸之 (校注者) 岩波書店」参照。

秘密曼荼羅十住心論 (書き下し文)   

書籍「日本思想大系 空海 川崎庸之 (校注者) 岩波書店」参照。

書籍「弘法大師著作全集 第一巻 弘法大師(著) 勝又俊教(編)

山喜房仏書林」参照。

佛説雑蔵経 参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部十四巻 大東出版社」参照。

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お釈迦様が不殺生戒、生き物を殺してはいけない戒律を制定した主な理由について

仏教のお経、阿含経に「好戦経」というお経があります。

戦争を好み刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

又「堕胎経」というお経もある。

内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。

「好戦経」 「堕胎経」は「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」という書籍がある。

その書籍の中において「好戦経」「堕胎経」を非常に分かり易く説かれている箇所がある。

次に、仏典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九に屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前(生きている間)において人間や動物達等の生き物の屠殺(殺す事)、殺生(生き物を殺す事)を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業(罪障)の報いにより非常に長い年月の間地獄(大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒(地獄の鬼達)により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界)に赴き多くの様々な激しい苦しみを受けその地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達(カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等)に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版社」という書籍の中において一般の方々には難解と思われる国訳一切経(阿含部)の中の好戦経と堕胎経その他のお経について非常に分かり易く解説されている。

例えば屠牛者経を例に挙げると、そのお経の概要は釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(生きている間)において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

また我(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

屠羊者経 殺猪経 猟師経も屠牛者経と同様、大体似た内容で説かれている。

書籍「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部 第十九巻 大蔵出版」参照。

書籍「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部 第十九巻 大蔵出版」参照。

「国訳一切経 阿含部2 大東出版社」参照。

このように、「極悪非道な行いをした者は死後、地獄に堕ち極めて残虐悲惨な苦しみを受ける」と仏典に説かれている。

最古の仏典スッタニパータやパーリ中部経典の中の賢愚経、漢訳仏典中阿含経の癡慧地経において仏陀はこのように説かれている

「仮に賭博(とばく)や博打(ばくち)に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運があったとしても、罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後、地獄へ堕ち、膨大な年数、極めて残虐悲惨な苦しみを受ける地獄での大苦痛大苦悩に比べれば賭博、博打に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運などはとるに足らない僅(わず)かな不運である。」

つまり「罪、悪事を犯しその罪、悪事の報いにより死後地獄へ堕ち、膨大な年数、残虐で極めて悲惨な苦しみに遭遇する地獄へと堕ちる不運こそが最悪の大不幸、大不運である。」という内容が説かれている。

また、地獄にも種類があり阿鼻地獄、無間地獄という地獄がある、阿鼻地獄(無間地獄)は最も極悪非道な行為をした者が赴(おもむ)く地獄であり、最も痛み苦しみの激しい、極めて残虐極めて悲惨な地獄であると仏典に説かれている。

仏典「スッタニパータ」において釈尊は次のようにお説きになられている。

「何者の業も滅びる事はない。それは必ず戻ってきて業を作った本人がその報いを受ける。

愚者は罪を犯して来世にあってはその身に苦しみを受ける。

地獄に落ちた者は鉄の串を突き刺される所に至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。

また灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは昔作った業にふさわしい当然な事である。

地獄の獄卒どもは「捕らえよ」「打て」などといって誰もやさしい言葉をかけることなく、温顔をもってむかってくることなく、頼りになってくれない。

地獄に落ちた者どもは敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

またそこで地獄の獄卒どもは鉄の縄をもって地獄に落ちた者どもをからめとり鉄槌をもって打つ。

さらに真の暗黒である闇に至るがその闇は霧のように広がっている。また次に地獄に落ちた者どもは火炎あまねく燃え盛っている銅製の釜に入る。

火の燃え盛るそれらの釜の中で永い間煮られて浮き沈みする。(中略)。

罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。

だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなし、おろそかにしてはならない。」

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 三 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 三 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社」参照。

 

次に、ジャイナ教の教えにこうある。

「わたしは説く。いかなる生物も傷つけてはならない。これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。虐待してはならぬ。害してはならぬ。苦しめてはならぬ。悩ましてはならぬ。これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

次に、往生要集という書物がある。

この書物は浄土宗に大きな影響を与えた書物で鎌倉時代前に活躍した天台宗の僧侶、源信(慧心僧都源信、横川僧都源信)という僧侶により書かれた書籍である。

この書物の前半では地獄界 餓鬼界などの状況等について各教典論書を引用し具体的に書かれている。又どのような行為(例えば殺生、盗み、妄語、邪淫、飲酒など)によりどういう境涯(例えば地獄界、餓鬼界、畜生界など)に赴くのかが記載されている。
また仏の三十二相についても具体的に説かれている。

どういう種類の良い行いによら良き報い、良き境涯、優れた仏の外観相形などを得られるのかという事も書かれている。

書籍「日本思想大系6 源信  石田瑞麿(校注) 岩波書店」参照。

書籍「日本思想大系6 源信  石田瑞麿(校注) 岩波書店」参照。

この往生要集は宗(約千年前の中国の国名)の国に贈呈され台州の周文徳という方が往生要集を国清寺に収められた。また周文徳は源信を小釈迦源信如来として賛嘆、褒め称えた。

また真宗皇帝も源信を賛賞する事切なるものがあったという。
日本国においても今迦葉(迦葉とはお釈迦様の在世当時の十大弟子の一人 優秀な高弟の名前)と呼ばれ、源信を賛賞する事切なるものがあったという。

さて、日本には放生会(ほうじょうえ)という行事がある。

殺される運命にある生き物を助け逃がしてやる行事だ。

殺生を戒める宗教儀式で仏教の不殺生戒(生き物を殺してはいけないとういう戒律)から神仏習合により神道にも取り入れられた。

例えば殺される運命にある捕えられた鳥を大空に逃がしたり又捕えられた魚や亀などを海や川や池に逃がしてやる行事だ。

とても功徳のある行いだ。

各神社、各お寺でも実施している所があるそうだ。

京都府の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)や奈良県生駒郡(ならけん いこまぐん)斑鳩(いかるが)町にある吉田(きちでん)寺、大分県宇佐市にある宇佐神宮,福岡県福岡市東区箱崎にある筥崎宮(はこざきぐう)(筥崎宮では「ほうじょうや」とよぶ)全国の八幡宮(八幡神社)でも行われている。
詳しい事は「仏教行事歳時記 9月 放生 監修 瀬戸内寂聴、藤井正雄、宮田登 第一法規出版株式会社」という書籍に書かれている。

ジャータカ(釈迦前世物語)について

仏様のことを別名、万徳円満という。

つまり、よろずの徳を円満に、完全に備えた存在。

仏教書の中に「福力成仏」という言葉があるが、お釈迦様は一度の生涯だけの修行だけで悟りを開いたのではなく、数え切れない程の生まれ変わり、死に変わり、数多くの前世の中で積んだ膨大な善根功徳、膨大な福徳の力、幾多の修行によって真理に目覚めた者、いわゆる、等正覚者、ブッダになったとされている。

フランスの仏教学の権威、アンドレ・バロー教授は自身の書籍「ブッダの教え 初期経典をたどって アンドレ・バロー著 富樫瓔子訳 大東出版」の中で次のように説かれている。

「完全なブッダ、厳密に言えば、完全無欠の覚者に至る道のりは、あらゆる中で最も長く、最も不可思議な道のりである。

それを断固として志した人、目覚めを誓った者は数え切れない程多くの生涯を経る間に、膨大な徳を積み、その結果、はるか遠い将来に、自ら定めた目標に達する事が出来る。

このような途方もない功徳を得る為には自戒、施し、忍耐、気力、知恵などの仏教的な偉大な徳行を、完璧に、また自己犠牲を必要とするまでに、実践せねばならない。

このような次第で、後に、歴史上のブッダとなったゴータマ(釈迦)がその数々の過去世に、人間や動物に生まれて成し遂げた功績は、ジャータカ(本生譚)と呼ばれる数百の物語に語られ、全仏教圏で、紀元前数百年以来、今日に至るまで、相変わらず親しまれている。」とある。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

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ブッダの教え?初期経典をたどって

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草木に霊魂の存在を認め、草木を切ったり刈ったりして、草木を殺生する事を禁じていた初期仏教やジャイナ教の教え、草木を燃やす護摩はお釈迦様の教えに反するのではないか?という疑問について

初期仏教、ジャイナ教の教えに草木に魂、精神の存在を認め、草木を切ったり、刈ったり、燃やしたりして草木を傷つけることを禁じていた。

それに関する論文が、今は亡き、元大谷大学教授の白土わか先生(1919年~2015年 享年96歳)の論文「草木成仏説について その形成と展開 白土わか」(書籍「佛教學セミナー第69号 1999年5月 大谷大学仏教學會」の中で解説されている。

白土わか先生は初期仏教やジャイナ教の教えが、草木についてどのように考えていたかを次のように説かれている。

「ジャイナ教にあっては、草木に生命・霊魂を認め、それは知・見・苦・楽等の精神作用を有するものと見ていたといわれている。

一方、仏教内の事情はどのようなものであったかのであろうか。

それを戒律の条項に照らしてみると、「四分僧戒本」波逸提十一に、

「若比丘壊鬼神村者波逸提」とあり、「壊生種戒」といわれるものがある。

それは「四分律」巻十二によれば、村とは一切草木をさし、鬼神の依る所という。

そして草木に五種ありとし、その生種を断つことを戒めている。

それが「五分戒本」には、「若比丘殺衆草木波逸提」とあり、草木を殺生することの罪となる。

「十誦比丘波羅提木叉戒本」にも同文で出されている。

「摩訶僧祇律」巻十四にも、手づから草木の命を殺生することを禁じている。

パーリ「経分別」波逸提十一にも、樹を伐り伐らしめることを禁じ、それは生命を傷つけるものであると戒めている。

以上の例を見るとき、初期仏教に於いては、草木は生命であり、精神を持つものと見ていた形跡が認められる。

しかし、それが、大乗仏教に受け継がれていった思想か否かは疑問である。

次に樹木に宿る樹神の場合を見てみよう。

樹神は仏教以前から、豊穣の神として崇められてきた。

「法句譬喩経」巻二「刀杖品」樹神説話は日本では「今昔物語」巻二「天竺神、為鳩留降長者降甘露語」や「註好選」中「樹神手下百味」の原拠となっているが、それによると舎衛国の男子が、世尊に飯食を捧げ聴法した功徳によって、忽ち大樹の樹神として生れ替わり、修行者たちの為に百味の飯食を流溢せしめて与えたという説話である。

そして、この樹神は八齋戒を果たしていたなら、天上界に生まれることができたであろう、ということになっている。

ジャータカには、樹神が釈尊の菩薩たりし時の姿として現れてくる例がしばしば見られる。

ここでは樹神が仏となるのである。

しかし、樹神は樹木に宿り司る神であり、その樹木も何種類かの特定の木に限られていて、樹木そのものが仏になるという発想に結びつかない。

ちなみに北伝の説話には、樹神が仏の前世であるという例は見当たらないようである。」

また、書籍「南伝大蔵経6 長部経典1 高楠順次郎 監修 大蔵出版」の中に仏教の戒律に樹木などの植物を伐採することを禁じている事が説かれている。

「南伝大蔵経6 長部経典1 高楠順次郎 監修  大蔵出版」

「南伝大蔵経6 長部経典1 高楠順次郎 監修  大蔵出版」

このように初期仏教、ジャイナ教において草木を刈ったり傷つけたりするのを禁止していたことが分かる。

また、書籍「植物は知性を持っている 20の感覚で思考する生命システム ステファノ・マンクーゾ アレッサンドラ・ヴィオラ マイケル・ポーランド序文 久保耕司訳  NHK出版」参照。」の中で、植物が生きとし生けるものであることを論証し、次のように記載されている。

「ユダヤ教では、理由もなく木を切る事が禁止され「樹木の新年」すなわち、春の到来を祝い、樹木に感謝を捧げるユダヤ教の祭日が祝われている。

また、ネイティブアメリカンや世界各地の様々な先住民のように植物を神聖なものとみなしている人々もいる。

さらにまた、植物の世界は、ただ、表面的に観察しただけでは、複雑さのかけらもない。まったく単純な世界にみえるかもしれない。

いっぽうで、こうも考えられる。実は植物は感覚を備えた生物で、コミュニケーション能力があり、社会的な生活を送っており、優れた戦略を用いて難題を解決することが出来る。と。

一言でいえば、植物は知性を持っているということだ。そうした考えは、何世紀もの間、さまざまな時代や文化のなかで、ときどきちらりと顔を出してきた。

植物は、一般的に考えられているよりも、ずっと優れた能力をもっていると確信していた哲学者や科学者もいる。

有名な名前をあげると、プラトン、デモクリトス、リンネ、ダーウィン、フェヒナー(グスタス・テオドール・フェヒナー。19世紀のドイツの物理学者、哲学者)、ポーズ(ジャガディッシュ・チャンドラ・ポーズ。19世紀~20世紀のインドの植物生理学者、科学者)などである。

20世紀半ばまで、植物の知性というテーマに取り組んできたのは、天才ともいうべき直感をもった者だけだった。

特に「種の起源」を著したチャールズ・ダーウィンは自身の著作「植物の運動力」という大著を著し、植物は生物であり、生き物であるとしか思えないような、様々な実験結果を紹介し、植物は生き物であると結論づけている。

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そして、この50年の間に多くの発見があった。

そして、今日、ようやく、この問題に光があてられるようになり、今や植物の世界を新たな目でみる必要が出てきた。

植物が知性があることを否定する根拠は、科学的なデータなどではなく、実は、数千年前から人類の文化に巣食っている先入観や思い込みにすぎないことを明らかにする。

この状況は現代でも変わっていない。しかし、いまこそ私たちの考え方を思い切って変えるチャンスだ。植物は予測し、選択し、学習し、記憶する能力をもった生物だということが、この数十年に蓄積された実験結果のおかげで、ようやく認められ始めている。

たとえば、スイスは、数年前に冷静な議論を重ねた結果、植物の権利を認める世界初の国になった。(2008年にスイス連邦倫理委員会は、植物に一定の尊厳を認める指針を出した。)

スイスの生命倫理委員会は倫理学者、分子生物学者、ナチュラリスト、生態学者を含め、満場一致して合意した。「植物を好き勝手に扱ってはならないとし、植物を無差別に殺すことは倫理的に正当化出来ない。」と。」

さて、次に、ヨーガの大家であられた今は亡き本山博先生は自身の著書「啓示された人類のゆくえⅡ 本山博著 宗教真理出版」の中において、木に魂が宿っているので木を切ってはいけないと、次のようなお話を紹介されている。

「木や石に魂があるという話をすると、(本山博先生に相談して来た)Pさんという方がインドの厚生大臣の下で働いていた。

(Pさんは)わりあいインド政府ではお上の方の人で、大きなマンションに住んでいた。
土地の広さは1 千坪 ぐらいあって、このお宮全体くらいの大きな館が建っているが、それを拡張したいと思った。

場所はボンベイで、英国のエリザベス女王が港に着いたときを記念してクイーンロードというのか、女王の首飾りと称えられている美しい通りが海に面してあるその通りの、海に面した側にそのマンションがある。

その持ち主の P さんが(本山博先生に)、いろんな国政の問題とか、家庭の問題とかを伺いに見えた時、(本山博先生がPさんを)じっと顔を見ていると、大きな木の精が出てきたのです。

木の精というのは、人間の格好をしているが、人間とは違うのです。

先日、伊豆高原の「池」というところで、山の斜面にある神社にお参りした際、そこの神様は出てこられたけども、山の神様も、人間とは違うのです。
人間の格好をして見えているけれどもね。

固い、冷たい感じで、男のような姿をしていられた。

インドの木の精の場合は女のような感じでしたね。

それで、インドの木の精は「切らないでほしいと Pさんに伝えてください」と言って泣いて出てきた。

不思議に思って、「今、木の精が出てきて、切らないでほしいと訴えているが、あなたの住まいの門の脇に、菩提樹の大きな木がありますか?」と聞いたら、その通りの木があって、マンションを拡げたいので切ろうと思っている、とのことでした。

それで、「その木が出てきて、泣いて、切らないでくれと言っていますよ。」と言ったらすぐ自宅に電報を打って切らないことにしたらしいです。
そのように木にも魂があるのです。

そして見えるわけです。」と説かれている。

つまり、本山先生は木の精という生き物の存在を説いている。

これは釈尊前世物語、つまりジャータカにおいて樹の精霊として生まれたことのある釈尊の前世の話とよく似ている。

次に、書籍「「未知」への事典 コリン・ウィルソン 著 ジョン・グランド 編 中村 男 訳」の中の第五部 内空間 精神と肉体 という章の中の植物の交信という項目の中に、植物は感情を持っているとしか思えないような実験結果が記載されている。以下、その記載内容である。

「植物は人間の心を読むことができるか」という論争の火種となった実験は、1968年2月に、うそ発見器の専門家クリーブ・バックスターの執務室で行われた。

ポリグラフ(うそ発見器)は、それにかけられる人の緊張が高まると、皮膚からの発汗が多くなる性質を利用して、汗の増え方を記録することによって、うそ発見器という目的を果たそうとするものである。

バックスターは植物の葉に水をかけてもそれと同じ変化を植物が示すのではないかと考え、ドラセナという百合(ゆり)科の植物に水を注いだ。

すると、不思議なことに、緊張が減少し、人間で言えば感情の充足が起こった事が示された。

次に、一枚の葉を熱いコーヒーにひたしてみたが、何の変化もなかった。

そこで今度は葉を燃やしたらどうなるか、と思うと、そう思っただけでグラフの線がラセナのパニック状態を反映するかのように急上昇し、いったんバックスターがマッチをもって戻ると、再び急角度で上昇した。」

その他、植物の感情の有無に関する様々な実験が行われ、植物が苦楽の感情を持っているとしか思えない実験結果が現れた。

また、書籍「南方熊楠コレクション 森の思想 中沢 新一 編 河出出版」の中で、その植物に対し生命の存在を感じ、植物の密集した森林の破壊、自然破壊の考えについて、次のように反論、書かれている。

「すぐに儲けにならないものの中には、貴重なものがいっぱいあるのだ。

生命の世界もそう、それに景色だってそうだ。

いまは景色なんて、なんの儲けになるかと思っているかもしれないが、それが今に一番の貴重品になる時代がやってくる。

景色を護らなくっちゃいけない。その景色の中に生きている。

生命の世界を金儲けの魔力から守らなくてはいけない。

要するに、自然を保護するという考えが大切なのだと熊楠は力説したのである。

自然を保護するという考えは、当時の日本人には、ちょっと思いつきにくいものだと思う。

人為を離れたところで、自然は生きていた。

人間は母親のような、その自然のふところに、優しくまもられてきたのだ。

その自然を、今度は人為によって護らなければいけないというのだ。

護られてばかりいる子供は、往々にして、自分を守ってくれている母親の苦悩を知らない。

母親は子供を守る。だが、その母親は、一体誰に守ってもらえばいいというのか。

自然保護の思想は、産業化された人間の力が、いち早く自然を圧倒しはじめてしまった英国に発生している。

彼らは、母親である自然からの分離を、早くから実践してきた為に (おかげで、自然は開発と探究の対象となってしまったが) 、自分たちの文明によって苦悩する自然の姿を、客観的にとらえることができたのである。

熊楠は長いこと、海外で生活した体験から一切の母親的なるものから自立を果たしていた。

そのおかげで、彼には自然が苦悩しているさまが、よく見えたのである。」

さらに、

「神道は宗教ではない、という主張の根拠として、そこには、キリスト教や仏教のような壮麗な建築物や、人目を引く宗教的なシンボルに乏しい。という点があげられることが多かった。

宗教はことごとしいやり方で、人々の心を、超越的な世界に向けようとしてきた。

ところが、わが神道には、そのようなことごとしさがなく、自然な民族的心情をすなおに表現しようとしている。

この意味でも、それは国体の自然な表現ではあっても、宗教と同列にあつかうことができない、というわけである。

これに対して、熊楠はこう反論する。

宗教の本質にとっては、壮麗な建造物やイコンやシンボルなどは、必ずしも必要なものではない。

歴史を見てみろ。バビロニアだって、エジプトだって、マヤやインカだって、偉大なる建造物は残ったが、かつてそこにあったはずの神聖なものは、もはやどこかへ消え去って、宗教の伝統は、すっかり途絶えてしまっているではないか。

大事なのは、ひとびとの精神に、大いなるものに対する畏敬が、途絶えることなく、連続してあるということだ。

その点で言えば、神道は立派な宗教ではないか。

神を祀って神社といい、それを崇敬しているのだから、たとえそれが壮大華麗な建造物などをもたなくとも、これが宗教であることはあきらかなのだ。

それを宗教でない、などと言いくるめるのは神道に対して失礼ではないか。

それに、そんな立派な建物はなくとも神道には森があるではないか。

そこには、驚くほどの老大樹がそびえたち、稀観の異植物が鬱蒼たる森をつくりなしている。

日本人は、この森の中にたたずむだけで、深い神秘の宗教感情にみたされてきたのだ。

荘厳な神のイコンでもなく、聖人の遺物でもなく、神秘の仏像でもなく、ただ森林の奥深さに、日本人は存在の神秘をおぼえ、神々に対する畏敬の念を育ててきたのである。

これは、宗教の諸形態の中でも、粗末なものであるどころか、きわめて高級なものと言っていい。

つまり、神道は真言密教などと同じく、秘密儀の宗教、素朴な神秘主義の宗教なのだ。

そのため、神道は、きわめて幽玄なやり方で、人々に感化をおよぼしてきた。

それは文字を立てず、表象を立てず、森林のもたらす神秘な感情をもとにして、人々の神のありかを語ってきたのである。

だから、それはイデオロギーなどとは無縁のものとして、すばらしいのである。」

さらに、南方熊楠先生は次のように語られている。

この椋(むくのき)も三年ばかり前に伐らんと言いしを、小生(南方熊楠)ら抗議して止(とど)む。

さて、伐らんと言いしものは今春即死、また、件(くだん)の糸田の神森を伐り、酒にして飲んでしまいし神主も、大いに悔いおりしが、数月前、へんな病にて死す。

祟りなどということ小生(南方熊楠)は信ぜぬが、昨今、英独(イギリス、ドイツ)
の不思議研究者ら、もっぱらその存在をいい、小生(南方熊楠)も神社合祀励行、森林乱伐に伴い、至る処にその事実あるを認む。

思うに不正姦邪の輩、不識不知(しらずしらず)の間にその悪行を悔い、悔念重畳して自心悩乱すること存じ候。

かかることを、当国官公史また神職らは迷信と言いて笑うことおびただし。

しかるにいずれの国にも犯神罪あり。

キリスト教国にもこれを犯して神罰で死すること多きは小生(南方熊楠)つねに見たり。」

つまり、神道は森に、林に、植物たちに対し、生命の存在を感じ、その植物たちに対し崇高なる畏敬の念を抱いた偉大なる宗教ではないのか?と思う。

以上の事から、植物も人間や動物と同じように苦楽の感情をもっている存在、生命体であると考えられるのではないだろうか。

このように考えると、修験道や密教で焚く護摩、柴燈護摩は、護摩法要でお焚きあげする草木、枝葉、樹木を、ノコギリやチェーンソーで切断、伐採したり、木の枝や葉っぱをお護摩の火で燃やしたりする行為、その行為は極めて暴力的で、生き物を殺戮しているのと同じことであり、ある種、仏教の戒律、不殺生戒を犯しているのではないかと思えてならない。

特に、修験道や密教の護摩は木の枝や葉っぱを伐採し木や枝や葉っぱを燃やし、葉っぱに付着している微生物をも焼き殺しているので、仏教の戒律、不殺生戒を犯していると考えられないだろうか?

 

「国訳一切経 印度撰述部 経集部十四巻 大東出版社」参照。

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凡人の肉眼では見えない、聞こえない存在を説いた超一流の仏教の祖師達

仏典、雑阿含経に爪甲経(そうこうきょう)というお経がある。

その概要は

「ある日釈尊は釈尊自身の手で大地の土を拾い釈尊自身の手の爪と手の甲の上に土を乗せて諸々の比丘(修行者)に次のように尋ねられた。

「諸々の比丘(びく)よ。私のこの手の爪と手の甲の上に乗っている土の量とこの大地の土の量とでは土の量はどちらが多いか?」

諸々の比丘は次のように答えた。

「世尊(釈尊)よ。世尊(せそん)の手の爪と手の甲の上に乗っている土の量はこの大地の土の量と比べるならば比べものにならない程ごくわずかな量です。」

釈尊は続けてこのようにお説きになられた。

「諸々の比丘よ。もし肉眼で見える生き物たちの数をこの手の爪と手の甲の上にある土の量とするならば、その形が微細で肉眼では見えない生き物たちの数はこの大地の土の量のように膨大に存在する。比丘たちよ。未だ無間等の悟り(仏陀の悟り)に到達しない者は努めて無間等(むけんとう)の悟りに至るよう努力せよ。」

(大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 114ページ上段(雑阿含経第十六巻)参照。国訳一切経 阿含部二 雑阿含経第十六巻 参照。)

つまり、釈尊は人間の肉眼では見えない生命体が多く存在している事を覚知していたと言える。

また、阿含宗の開祖 桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「間脳思考」において、国訳一切経 阿含部の「好戦経」を引用し「戦争を楽しみ刀剣により人を悩ませ傷つけ苦しめ殺した者がその罪の報いにより死後巨大な年数、猛烈に苦しい地獄の責め苦を受け、その長い期間の地獄の責め苦が終わった後にも地獄の余罪による猛烈な苦しみに耐えかね、号泣している霊体をお釈迦様の弟子の目連尊者が霊視した」事が説かれている。

つまり、肉眼では見る事が出来ない霊の存在をお釈迦様、仏教では説いていた事を桐山靖雄大僧正猊下は自身の著書「間脳思考」においてお説きになっておられる。

 阿含宗開祖  桐山靖雄大僧正猊下

ところで、現代の科学では人間の五感、いわゆる、見る、聞く、嗅ぐなどの感覚能力は一部の動物達と比較して著しく劣っているとされている。

例えば、匂いを嗅ぎ分ける犬の驚くべき嗅覚は非常に有名である。

麻薬の密輸捜査、様々な災害人命救助活動などにおいて、人間の嗅覚能力をはるかに凌駕した、はるかに超えた、卓越した犬の嗅覚能力が不可欠とされている。

また、ガラガラ蛇は赤外線を見る事が出来る。つまり温度を視覚化出来る。いわばサーモグラフィのような視覚能力を持っていると言う事が出来る。

コウモリは超音波を聞くことが出来る。

人間は2万ヘルツまでの周波数しか聞こえないが、豚は4万ヘルツまでの高周波の音を聞き分けることが出来る。

ナマズは地震を予知出来る。

ネズミは火事を予知出来るなどなど。

また、世界的に著名な学者、ライアル・ワトソン博士は動物行動学、人類学、医学、心理学、生物学など驚異的な知識を背景に活発な著作活動を続け、各界に知的な刺激を与えている世界的に著名な超一流の学者であるが、そのワトソン博士は自身の著作「スーパーネイチュア」の中で、普通の人には見えないエックス線を見ることが出来る人物について、次のように紹介されている。

 「1963年に、ピーター・バン・ヤールスベェルト(Pieter van Jaarsveld)という12歳になる南アフリカ人は、地下深くに隠れている水を探知する能力のために{エックス線の眼を持つ少年}として世界で有名になった。

彼は水脈占い棒のような物は使わなかったが、地表を通して{緑色の月光のようにかすかに光る}水を見ることが出来ると主張した。

ピーターは、他の人にはそれが同じように見えないことを知って非常に驚いた。

われわれが自然および古典的な五つの感覚(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、つまり、見る、聴く、触れる、味わう、嗅ぐ)は、超自然の本当の魔術のほんの小部分にすぎないことをやがて悟り始める時、もっと多くの人たちが、彼の仲間入りをして、物事を真にあるがままに見るようになると私は思っている。」とワトスン博士は説かれている。

(書籍「スーパーネイチュア ライアル・ワトソン著 牧野賢治訳  蒼樹書房  124ページ~125ページ」参照。)

また、ワトン博士はこの著書の中で、動物の地震予知能力について、地震の何時間も前にウサギやシカが、震源地域から恐怖におののいて駆け出してくるのを見たことがある。とも書かれている。

(書籍「スーパーネイチュア ライアル・ワトソン著 牧野賢治訳  蒼樹書房  98ページ」参照。)

以上の事を考えると、「自分自身は霊が見えないから霊の存在を一切信じない。霊魂の存在を一切認めない。」という考えをお持ちの方々が世間では数多くおられるが、私自身から見ると、ある種、合理的な考えではないように思われる。

さて、つぎに、真言密教の開祖、弘法大師空海様は自身の著作「弁顕密二教論」の中において、

「それ、仏に三身あり、教えはすなわち二種なり。応化の開説を名づけて顕教という。ことば顕略にして機に逗(かな)えり。法仏の談話(だんかい)これを密蔵という。ことば秘奥にして実説なり。」とお説きになられている。

 真言密教開祖、弘法大師空海

「仏に三身あり」とは、大乗仏教が説いている仏の三身説の事で、仏の三身とはすなわち、

法身(ほっしん)の仏、

報身(ほうじん)の仏、

応身(おうじん)の仏、

つまり、仏に三身あり、とは、仏様は三種類の仏様に分類される。という事になる。

具体的に説明すると、

法身の仏とは毘盧遮那仏、大日如来のような真理そのものとしての仏様を法身の仏様という。

報身の仏とは阿弥陀如来のように、菩薩として様々な修行を経、最終的に悟りを開いた仏様を報身の仏様という。

応身の仏とは釈迦如来、いわゆるお釈迦様のように凡夫でもその仏様のお姿を見ることが出来る仏様のことを応身の仏様という。

また、三身の仏様の中で、法身の仏、報身の仏のお姿は、普通の凡夫ではそのお姿を見ることが出来ないとされている。

そして、「弁顕密二教論」の中に「仏様の説法には法身説法という種類の説法がある」と説かれている。

法身説法とは密教でいう真理そのものとしての仏、大日如来、最高位の仏様がなされる説法の事。

空海様は自身の著作「弁顕密二教論」の中においてインドの高僧であり、大乗仏教の祖師でもある、龍樹菩薩様が著した、仏教の百科全書ともいうべき著作「大智度論」巻九を引用し法身説法についてこう解説されている。

「(大智度論)智度論の第九にいわく、

「仏に二種の身あり。一には法性身、二には父母生身なり。

この法性身は十方虚空に満ちて、無量無辺の色像端政にして相好荘厳(そうごうしょうごん)せり。

無量の光明、無量の音声あり。

聴法の衆もまた虚空に満てり。(これは衆もまたこれ法性身にして生死の人の所見にあらざることを明す。)

常に種々の身、種々の名号を出し、種々の生処に種々の方便をもって衆生を度す。

常に一切を度して息むことなし。かくのごときは法性身の仏なり。

よく十方の衆生を度し、もろもろの罪報を受くる者は、これ生身の仏なり。

生身の仏は次第に説法すること人の法のごとし」と。

またいわく、

「法身の仏は常に光明を放って常に説法したもう。

しかるに罪をもっての故に見ず、聞かざること例えば日(太陽)出づれども盲者(目が見えない人)は見ず、雷震地を振えども聾者(耳が聞こえない人)は聞かざるがごとし。

かくのごとく法身は常に光明を放って常に説法したまえども、衆生は無量劫の罪垢厚重なることあって、見ず聞かざること、明鏡浄水の面を照すときはすなわち見、垢不浄なるときはすなわち所見なきがごとし。

かくのごとく衆生の心清浄なるときは、すなわち仏を見、もし心不浄なるときはすなわち仏を見ず。」

大乗仏教の始祖、龍樹菩薩

つまり、

「法身の仏は常に光明を放って説法をしているが罪業が深く、罪が重い衆生(生き物)はその罪の重さ, 業の深さが原因で(つまり過去の無量無数というべき多くの生まれ変わり、死に変わりにおいてなしてきた多くの罪、過去における無量無数の輪廻転生の中でなしてきた多くの罪障罪業が原因で)法身の仏の姿が見えず、法身の仏の説法も聞こえず、その説法の内容も理解出来ない。

その一方、罪業罪障が比較的軽い衆生(生き物)は法身の仏の姿が見え、法身の説法が聞こえ、またその説法の内容も理解出来る。」と説かれている。

「弘法大師著作全集 第一巻 勝又俊教 編修 山喜房佛書林」参照。

それに似たようなことわざに、

「心その境涯に至らざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」というべきか。

阿含宗の開祖 桐山靖雄大僧正猊下が1980年11月にインド仏跡巡拝の旅の際に体験したインド・サヘトマヘトにおける霊的神秘体験、仏陀から発せられる霊的テレパシーによる霊性開眼体験談、仏陀釈尊に関わる霊的神秘体験談が桐山靖雄大僧正猊下の著作「一九九九年カルマと霊障からの脱出(1981年7月出版)」と「間脳思考」(1984年1月出版)」において説かれている。

その桐山靖雄大僧正猊下のご著書「一九九九年カルマと霊障からの脱出 桐山靖雄著 平河出版(1981年7月出版)」の中で、その時のサヘトマヘトにおいて体験された衝撃的な霊的神秘体験を自身の自動書記にて記した文章が以下の文章である。

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「それは突然ななめ前方からやってきた。

一瞬、目がくらむほどの衝撃だった。

そんなことなど全然予期しておらず、まったく無防備だった自分は、あっという間にその衝撃に叩きのめされてしまったのだ。

修行、学問、そんなものはなんの役にも立たぬものであることを思い知らされた。

こころひそかに誇っていたこれまでの自分の修行も教学もあっというまに消しとんでしまった。

叩きのめされてしまった。

これなんだ。

これでなくてはならないのだ。

これしかないのだ。

目もくらむようなあの白銀の輝きにみちたバイブレーション!

100年の修行も万巻の教学も、ただ一瞬のこの霊的バイブレーションに如(し)かぬことを思い知らされた。

これがそれだったのだ。

これが究極のそれだったのだ。

このためにこそわたくしはここにやってきたのだ。

おお、サヘト・マヘト聖なる地、

あなたはここに待っていてくださった。

わたくしがいまあなたから受けたものをこれからわたくしはひとびとにあたえねばならぬ。

今、わたくしは聖者であることをつよく自覚する。

すべてのひとびとがこの聖なるバイブレーションを受けることのできる聖地を、わたくしはひがしの国につくらねばならぬ。

この輝きにみちたサヘトマヘートの地を、そのまま、日本の国にうつさねばならぬ。

それがわたくしの使命だったんですね。

それをかならずはたすことをわたくしはあなたに誓います。

そうですか、

もう一度、わたくしはこの地に来なければならないのですね。

だが、そのとき、なにが起きるのでしょうか?

そのとき、起きる或ることを、わたくしは非常なおそれの感情とともに予感します。

ああ、あの一瞬の霊的バイブレーション!

100年の苦行も、万巻の書物も、このバイブレーションなくしては路傍の石ころにも劣るのだった。

このバイブレーションをあたえることのできる聖者こそ、真の導師(グル)だったのだ。

理解できました。

聖師よ、ありがとう。」

今から、約2500年前、インドのサヘトマヘトにおいてブッダ釈尊は多くの人々の前で大神変力を現したとされる。

今から約2500年前 インド サヘトマヘトにおいてブッダ釈尊が奇跡(大神変力)を現したとされる池の跡地。

1980年11月8日、ブッダ釈尊が今から約2500年前に大神変力を現したとされるインド・サヘトマヘトの池の跡地で仏勅を受けられた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗 観返り阿含 思念による王者の相承 ※映像切れあり※ (youtube.com)

また、桐山靖雄大僧正猊下は自身の著書「間脳思考」(1984年1月出版)」の中の、

「思念による王者の相承」という章において次のように説かれている。

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「チベット仏教のニンマ派では、古くから解脱の完成に三つの方法があると説いている。

(1)思念による王者の相承

(2)象徴による持明者の相承

(3)耳を通したコトバによる人の相承

である。

(1)の思念による王者の相承とは、霊界の法の世界において、法の完成者タタギャター(如来)が常に法を説いている。この法身タタギャター(如来)が言葉や象徴という媒介なしに、直接相手のこころに自分のこころを伝達するものである。

この場合、こころ、というのはたんなる思念のこころではなく、パワーを主としたものと思うべきである。

これによって、相手はたちどころにブッダとして完成するのである。

これは最高であり、理想的なものであること、もちろんである。

「王者の」、という所以(ゆえん)である。

(2)の象徴による持明者の相承とはどういうものかというと、象徴とは、ある言葉、形、音、色などに複雑な思想の内容を圧縮して詰め込んだものをいい、また、持明者とは、純粋なこころで実相をそのまま見ることができる真如の世界に到達した者たちのことである。

この相承(方法)では、真如の理解を持つ持明者たちは、導師から象徴を示されることで、密教の深奥に到達する教法を授けられるのである。

以上のすぐれた方法にたいし、普通の人間は、霊感はなかなか得がたく、また、象徴だけでは深い密教の教法を即座に理解することはできない。

そこで、導師が、いろいろな言葉を用いて、くわしく説き明かし、弟子に理解させてゆく。

いわゆる、口頭伝授である。

これが(3)の耳を通したコトバによる人の相承である。

以上三つの方法を、わたくしは、次のように分類する。

思念による王者の相承  間脳系=霊的バイブレーション

象徴による持明者の相承 新皮質系=マントラ、タントラ、コトバ、音楽、象徴

耳を通したコトバによる人の相承 大脳辺縁系=コトバ、マントラ、音楽」

さらに書籍「間脳思考」において師は、次のようにお説きになられている、

「インド サヘトマヘトの奇跡とは、先に述べた思念(バイブレーション)による相承である。

わたくしは、サヘトマヘトにおけるこの体験をするまでは、思念による王者の相承とは、霊性開眼を成就した偉大なグル(師匠)から直接、霊的バイブレーションを受けることだと理解していた。

そして、実際にその通りなので、わたくしのようにグル(師匠)を持たぬ者は、この相承などかかわりのないものであり、ひたすら七科三十七道品の成仏法を修行するしかないものと思っていた。

また、それほど偉大なグル(師匠)など現在はほとんど稀れであるし、修行によることしか考えていなかったのである。

しかし、サヘトマヘトであの強烈なバイブレーションを受けた刹那、わたくしは、「あ、これが王者の相承だ!」と直感し、なるほど、こういう王者の相承もあるのだなと思ったのである。(中略)

この奇跡はわたくしに、筆舌につくしがたい多くの貴重なものをあたえてくれたが、その中の一つは、修行によらぬ(というより、修行を超えた)霊性開眼の方法のあることだった。その方法を、身をもって体験したことだった。」

このように龍樹菩薩様や弘法大師空海様が説く法身説法の話、桐山靖雄大僧正猊下が説くインドのサヘトマヘトで体験した仏勅の話は、精神感応、いわゆるテレパシーの事であるが、テレパシーというと世間一般では迷信とか、たわごと、論ずるに値しない空想上の概念のように考える人々が非常に多いが、先に紹介した世界的著名な学者、ライアル・ワトソン博士は自身の著書「スーパーネイチュア 」の中でテレパシーについて次のように書かれている。

「われわれの視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の鋭敏さについては、まだはっきりした動かぬ限界が引かれたわけではない。

それらの潜在的可能性を新しく探求するたびに、感受性の限界はさらに遠くへと押しやられ、知覚の新領域が絶えることなく発見されていくのである。

多くの外見上は超自然的と見られる能力は、遅かれ早かれ、既存の感覚系の異常敏感性に帰せられ、決して感覚外のものではないと判明していくが、いつも突発的に起こり、確かな感覚の言葉で満足がいくように、いずれは説明されなくてはならない一つの現象が存在する。これが「思考伝達」、すなわちテレパシーである。」

(書籍「スーパーネイチュア ライアル・ワトソン著 牧野賢治訳  蒼樹書房  265ページ」参照。)

また、パーリ仏典研究の世界的権威である仏教学者の水野弘元博士はその著書「原始仏教」の中で三明六通、いわゆる、凡人の能力を超えた神秘的な力、超人的能力について次のように書いておられる。

「今日の合理主義的な考え方からすれば仏陀及び原始仏教が三明六通という奇跡的神通力を説いたことはいかにも仏教の合理性を没却したものであり、おそらく原始仏教では説かれていなかったものを新たに加えられた挿入の不純物に過ぎない。と考える学者がいるけれども、しかし、仏教を単なる科学や倫理や修養ではなくして宗教であると考える限り、このような神通奇跡の存在は仏教の宗教的要素として極めて価値があり、かつ必要なものである。

2500年の昔において仏教は今日の科学時代にも劣らない合理性や倫理性を有したのであるが、しかし、単なる合理性や倫理性だけではそれは宗教とはなり得ないであろう。

宗教である限り、自らの実践だけではなく、他をも絶対信に導き入れなければならない。

宗教を他の方々に対し教化救済する利他的な宗教面は三明六通というような神通奇跡によって得られるのである。

宗教が多くの人々に信じられていくのは神通奇跡によってであるのですが、 また仏教各宗の祖師と言われるような人々も多かれ少なかれ常人を超えた不思議な力を持った人であったに相違ない。」と説かれている。

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さて、先に三明六通という言葉が出てきたが、仏教用語で六通とは神足通、天眼通、天耳通、宿命通、他心通、漏尽通という、常人を超えた超人的能力、超人的智慧の事を意味する。

そして、その中の三明とは天眼通、宿命通、漏尽通を意味する。

その三明の中の宿命通という通力は過去世を透視する神通、智慧であるとされている。

釈尊自身、仏陀としての最高の悟りを開く直前、この通力を得たとされている。

この釈尊が宿命通を得られた体験談が仏典(阿含経)に説かれている。

     チベット仏教 釈迦成道仏画

釈尊自身、仏陀としての最高の悟りを開く直前、非常に深い瞑想中において、無量無数の生き物達がそれぞれの業、それぞれのカルマに応じて無限に近い膨大な時間、無量無数とも例えられる程の回数、生き替わり死に替わりを繰り返している情景をその超人的透視力で実際に透視したという釈尊自身の体験が説かれている。

以下は釈尊自身の瞑想の体験談である。

「このように 私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、種々なる過去の生涯を想い起こした。

すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、また幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。

我はそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカースト(階級)であり、これこれの食を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。

そこで死んでから、かしこに生まれた。

このように形や名称とともに種々なる過去の生涯を想い起こしたのである。

このように私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。

実にこれらの生存者は身に悪行を行い、言葉に悪行を行い、心に悪行を行い、もろもろの聖者をそしり、誤った見解を抱き、誤った見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後に悪しき所、堕ちた所、地獄に生まれた。

また、他のこれらの生存者は、身に善行を行い、言葉に善行を行い、心に善行を行い、諸々の聖者をそしらず、正しい見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後、善い所、天の世界に生まれた。

このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。」

 四分律経典 第三十一巻 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

 四分律経典 第三十一巻 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

 四分律経典 第三十一巻 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

チベット密教 六道輪廻図絵

参考書籍

「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」

「国訳一切経 阿含部二 大東出版」

「国訳一切経 律部二 大東出版社」

「弘法大師著作全集 第一巻 勝又俊教 編修 山喜房佛書林」

「スーパーネイチュア ライアル・ワトソン著 牧野賢治訳  蒼樹書房」

「一九九九年カルマと霊障からの脱出 桐山靖雄著 平河出版」

「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」

「原始仏教 水野弘元著 サーラ叢書」

「ゴータマ・ブッダⅠ 原始仏教Ⅰ 決定版中村元撰集 第11巻 春秋社」

「ゴータマ・ブッダⅡ 原始仏教Ⅱ 決定版中村元撰集 第12巻 春秋社」

    大日如来像

大乗仏教の始祖 龍樹菩薩

真言宗開祖 弘法大師空海

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

今から約2500年前、ブッダ釈尊が約18年間、人々を説法、教化した土地、場所とされているインド サヘト・マヘト(祇園精舎)。

1980年11月、インド サヘト・マヘトに仏跡巡拝された阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。当時、59歳)

今から約2500年前、ブッダ釈尊が多くの人々の前で大神通力、大神変力を現わしたとされているインドのサヘト・マヘト ミラクルの池の跡地において強烈な仏勅、強烈な霊的バイブレーションを受けた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1980年11月8日、当時59歳)。

インド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地

今から約2500年前、ブッダ釈尊が多くの人々の前で大神通力、大神変力を現わしたとされているインドのサヘト・マヘト ミラクルの池の跡地において強烈な仏勅、強烈な霊的バイブレーションを受けた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1980年11月8日、当時59歳)。

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗道場内での内護摩修法中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1981年)

大柴燈護摩供 修法中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1982年2月、京都、当時61歳)

大柴燈護摩供 修法中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1982年2月、京都、当時61歳)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

霊障を解く ご講演 第一部 (youtube.com)

霊障を解く ご講演 第二部 (youtube.com)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗 🧒あなたのすぐ側に不成仏霊が存在してあなたの人生を狂わせている🔥目連尊者も見ています🙏#阿含宗 #阿含の星まつり #瞑想 #スピリチュアル #気学 #宗教#仏教 #佛教 (youtube.com)

阿含宗 🤢因果応報は実在する🔥大目犍連が見たモノは生前たくさんの苦しみを人々に与え自分の権力を使い戦争をして人々の大切な命を奪った独裁者の末路です💦#阿含宗#スピリチュアル#戦争 #tv#japan (youtube.com)

阿含宗 🧙大目犍連もお釈迦様も霊障の存在🔥不成仏霊は存在する‼️因果応報はあるんだ💥と説法していたんですね🙏#阿含宗 #スピリチュアル #大靈界#tv#japan #瞑想 #運勢 #佛教 #旅行 # (youtube.com)

阿含宗 🦚お釈迦様が霊障の存在を説法しなかった理由は⁉️如来の説く説法を信じない者は多くの苦しみを受け地獄に落ちるからなんだ…というお釈迦様のお言葉は重要ですね🙏#阿含宗#スピリチュアル#瞑想#運勢 – YouTube

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

1983年8月21日、チベットにおいて最も由緒深く、格式のあるニェデン・カツェリン寺の法主であり、大座主であり、伝統的なチベット仏教ニンマ派の管長であらせられるミンリン・ティチン・リンポチェ管長が来日され、阿含宗管長 桐山靖雄大僧正猊下に、「一切萬霊守護金剛」という非常に位の高い法位、法号が授けられた。当時62歳

チベット仏教ニンマ派ミンリン・ティチン・リンポチェ管長から阿含宗管長 桐山靖雄大僧正猊下に対して、「一切萬霊守護金剛」という非常に位の高い法位、法号が授けられた。

阿含宗開祖  桐山靖雄大僧正猊下(1921~2016)当時62歳(写真)

(1983年8月 阿含宗 関西総本部道場において撮影)

1986年4月8日、スリランカのジャヤワルデナ大統領より真正仏舎利を授かる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1986年スリランカ)当時65歳

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1990年1月 スリランカの古刹、マハー・マティンダ・ピリベナ寺から真正仏舎利を拝受される阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時69歳)

1992年11月2日、スリランカ仏教シャム派総本山より「輝く平和の大王」という法号を授けられる阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時71歳)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下     1993年 (当時72歳)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下    1993年 (当時72歳)

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。

このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願大護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、75歳)

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、 世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、75歳)

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、 世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、75歳)

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、75歳)

1996年、モンゴル全土で2月下旬から数ヶ月間続いている広大な面積の山火事で、北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

まさに国家的な危機状況の中、阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下がモンゴルのジャスライ首相に対し、「明後日のガンダン寺の法要の際、観世音菩薩様に雨が降るようにお祈りします。観世音菩薩様は必ず雨を降らせて下さいます。必ず雨が降ります。」と祈りによって雨を降らす事を約束。

そして、モンゴル国ガンダン寺での護摩修法当日未明、ウランバートル市全域に一大雷鳴がとどろき、全市民を驚愕させた。同時に、豪雨が大地を叩き、全市民を歓喜させた。待望の雨の第一陣であった。

さらに、護摩修法後、桐山靖雄大僧正猊下は参拝者の方々の前で、十一面観世音菩薩様がこのように雨を降らせて下さったと語り、十一面観世音菩薩様の偉大なる神通力、お力を称賛された。

その護摩修法後もモンゴル全土ですさまじい雨が降り続けた

また、モンゴルの文化大臣がこの状況を目の当たりに見、「祈りの力がいかに偉大なものであるかを目のあたりに見て、心から驚嘆しました。」と述べた事を当時の現地の新聞記事が伝えた。

最終的に1ヶ月間は消えないであろうとされていたモンゴル全土の山火事が護摩修法後、モンゴル全土の大雨により護摩法要の日から5日後の6月10日に山火事は完全鎮火した。

桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「阿含仏教 超奇跡の秘密 桐山靖雄著 平河出版社」の中でこのような奇跡、このような神変力について仏教語大辞典を引用され、次のように解説されている。

「神変=仏、菩薩が衆生の教化のため、超人的な力によって種々のすがたや動作を現すことをいう。

神通に同じ。奇跡、あるいは奇跡を行なうこと。

奇瑞=古代インドでは、宗教的に高い境地に達した修行者は、しばしば超人的能力を現したという。

仏教では六通、三明とよび、これらの能力は、禅定とよばれる精神統一の副作用として得られるものと考えられていた。

また、神通は、「信仰の厚い、立派な男によって、奮闘の持続によって、不抜の意力によって、人間の力によって、人間の精神・人間の努力・人間の忍耐によって得られるべきもの」と経典に説かれている。

そういう心構えをもった者が、努力を重ねていくとき、その人間自身でも思いがけないほどの力を現すことがある。」と。

また、修験道研究の碩学、五来重(ごらいしげる)博士は阿含宗機関紙、月刊アーガマ(昭和55年5月号)紙上において次のように説かれている。

「修験道に関する説話や文学には、よく山伏の法験や「験競」(げんくらべ)がかたられている。

今ではそのようなことはありえない超人間的な事跡が伝えられるのは、禅定が真剣に実行された時代には、十分可能だったことをものがたるものであろう。

私は奇蹟がなければ宗教はありえないものと考えている。

奇蹟を否定して、ただ人生観と倫理観の問題を信仰だというのは、哲学であり道徳ではあっても宗教ではない。

宗教の近代化と称して、奇蹟を否定した理性的宗教を正信とし、奇蹟を信じるのを迷信とするのは、宗教の自殺である。」と五来重(ごらいしげる)博士は説かれている。

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モンゴル国 ガンダン寺 モンゴル国立十一面観音世音菩薩像

モンゴル国 ガンダン寺 モンゴル国立十一面観音世音菩薩タンカ

モンゴルの森林火災の完全鎮火を知らせる新聞記事(1996年6月)

1999年3月6日、インドにおいて印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下、1999年3月6日、当時78歳。

1999年3月6日、インドにおいて印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下、1999年3月6日、当時78歳。

1999年3月6日、インドにおいて印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下、1999年3月6日、当時78歳。

1999年3月6日の印度聖地大柴燈護摩供の修法中、真正仏舎利尊から発するご霊光。「一九九九年七の月よ、さらば! 桐山靖雄著 平河出版」参照。

仏陀に成られた方の御遺骨(ごゆいこつ)を仏舎利(ぶっしゃり)とお唱え致します。

仏舎利尊から発するご霊光は、今から約900年前頃の日本で活躍した僧侶、臨済宗の開祖、栄西禅師様(1141年~1215年)も宋の国に留学中、阿育王山  広利禅寺に参拝した折、仏舎利尊から発するご霊光を目撃した体験談が栄西禅師様の著書「興禅護国論」に記載されている。

また、今から約1100年前頃に活躍した日本の僧侶、天台宗 慈覚大師円仁様(794年~864年)も、自身の唐への巡礼紀行体験を記した書籍「入唐求法巡礼記」の中において、仏舎利尊から発するご霊光にまつわる体験記が次のように記されている。

「長年、法華経を読誦していた僧があった。

最近、いくつかの仏陀の遺品が彼に授かった。

町中の人々は来て捧げものをした。

寺は僧俗であふれた。

どれくらい大勢来たか分からないほどであった。

遺品を発見した由来は、経を読む僧が夜中に彼の部屋に座って経を読んでいると、三本の光が射し込み、部屋全体を輝かせ、寺全体を明るくした。

光りのもとを探すとそれは寺の西の崖のふもとから来たものであった。

毎晩、光はその部屋と寺を照らした。

数日後、僧は光を辿って崖に行き、地面を十フィート以上も掘り下げると、そこには仏陀の遺品を納めた三つの壺があった。

青い瑠璃の中には七粒の舎利があり、白い瑠璃の壺には五粒、金の壺には三粒あった。

彼はそれらを持ち帰り、仏堂に安置して供養を捧げた。

太原府と近郊の貴賤男女や役人たちは位の高いものも低いものもすべて来て尊敬を捧げ、供養した。

誰もがいった、これこそ僧の法華経に対する熱心さがもたらした不思議な力によるものである。と。

町から山へ来る人々は道を埋め、大群衆は礼拝し、驚嘆した。」

書籍『円仁 唐代中国への旅 入唐求法巡礼行記の研究 エドウィン・O・ライシャワー著 田村完誓訳 講談社学術文庫』299頁~300頁 引用。

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さらにまた、今から約1400年前頃に唐の国やインドにおいて活躍し、『西遊記』のモデルにもなった玄奘三蔵法師様(604年~662年)がインドにおいて仏舎利尊から発するご霊光を目撃した体験記が次のように伝えられている。

「さて、ちょうどこのときは正月のはじめであった。

西国の法として、毎年この月にボードガヤの菩提寺では仏舎利を出し、諸国の道俗の人々はみなやってきて来観するならわしであった。

法師(玄奘三蔵)もその年は師のジャヤセーナとともに、舎利骨(しゃりこつ)を見に行った。

あるいは大きくあるいは小さく、大きいのは真珠ぐらいで紅白色に光り輝き、肉舎利は豌豆(えんどう)大で、赤色で光沢があった。

無数の人々が香花を奉献し、礼拝が終わると、その舎利は塔中に還しておくことになっていた。

その日の夜半、ジャヤセーナは法師(玄奘三蔵)とともに見た舎利が大小さまざまであったのを論じ

「私がほかの所で見た舎利は、みな大きさは米粒ぐらいのものであった。

ところがここで見たのは、非常に大きいものだ。

そなたはあれを見て疑わなかったか?」といった。

法師も、

「いや、じつは私も果たして本当の舎利かどうか、疑わしいと思っていました。」と答えた。

するとしばらくして室内に灯火がないのに部屋の内外が非常に明るくなった。

怪しんで外に出てみると、舎利塔の中から空高く光を発し、飛炎天に沖して五彩に輝いていた。

そしてあたりには香気がみなぎった。

そこで二人は人々に

「舎利に大神変が起こった。」と言った。

書籍『玄奘三蔵 西域・インド紀行  長澤和俊訳 講談社学術文庫』205頁~206頁引用。

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ところで、次には、真言密教の第五祖、不空三蔵様(705年~774年、生地はインドもしくは唐国)が釈尊の仏舎利を禮敬する意を述べた文章に舎利禮門(しゃりらいもん)という経文を紹介する。

この舎利禮門は真言宗や曹洞宗などの法要、日々の勤行において読経する場合がよくあります。

参考までに、その舎利禮門の経文の全文は以下の通りです。

舎利禮門(しゃりらいもん)

一心頂禮(いっしんちょうらい)
萬徳園満(まんとくえんまん)
釈迦如来(しゃかにょらい)
真身舎利(しんじんしゃり) 
本地法身(ほんじほっしん)  
法界塔婆(ほうかいとうば)  
我等禮敬(がとうらいきょう)   
爲我現身(いがげんしん)  
入我我入(にゅうががにゅう) 
佛加持故(ぶつかじこ) 
我請菩提(がしょうぼだい)   
以佛神力(いぶつじんりき)  
利益衆生(りやくしゅじょう)  
発菩提心(ほつぼだいしん)  
修菩薩行(しゅぼさつぎょう) 
同入園寂(どうにゅうえんじゃく)  
平等大智(びょうどうだいち)  
今将頂礼(こんじょうちょうらい) 

とお唱え致します。

ところで、仏舎利を祀る霊験功徳は多くの経典に説かれているが、その多くの経典のうち、代表的な経典、大般涅槃経と悲華経と蓮華面経において、仏舎利について次のように説かれている。

大般涅槃経にいはく、

『天界に住む神々と、僧侶、在家の仏教徒は、仏舎利を得たら七つの宝で出来ている瓶に盛り、これを都城の内なる道地において七宝でできている塔を建立して仏舎利を供養するならば、生きとし生ける一切衆生に大いなる功徳をもたらし、三界に生存する三有の苦しみを離脱し、涅槃の安楽に至らせるであろう。仏舎利を供養するということは、まさに生ける仏を供養することなのである。』

悲華経にいはく、

『衆生の福尽きて、三災(刀兵、飢饉、悪疫の三つの難)まさに現れ、経巻地に没して、衆生みな死に瀕する時が来る。この時にあたって、仏舎利、金剛際より出でて、大虚空に昇って、種々の花を雨らす。その花の中にもろもろの珍宝、名衣、百味の飲食を雨らす。その花の中に声を発して、法を説く。衆生、聞いてみな菩提心を発(おこ)す。』

蓮華面経にいはく、

『舎利の光明はるかに奈利(地獄)を照らす。罪業の衆生、この光を受けて抜苦与楽すること、称計するべからず。』

書籍『守護仏の奇蹟 桐山靖雄著 平河出版社』

  『守護霊の系譜 桐山靖雄著 平河出版社』参照。

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中国の阿育王寺にある真正仏舎利尊を祀る舎利殿

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怒りの感情についての考察(ブッダの言葉から考える)

2016年11月13日、ある男性が同じ宿泊者の上司とトラブルになり上司の顔を殴り死に至らしめたとのニュースを見た。

怒りという感情が最終的に暴力になり相手を死に至らしめたのである。

我々は怒り、憎悪、憎しみ、激怒という感情をコントロールし抑える必要がある。

激怒という感情をコントロールする事が必要であり、そのことは社会生活を営むうえで最も重要な事であると思われます。

怒りが国家間レベルになるとその怒りが憎しみを生み双方の憎しみ合いは最終的には戦争という大量虐殺につながる事態を引き起こす結果になりかねない。

仏教では怒りの感情を起こさないよう教えている、憎しみの感情を起こさないよう気をつけるよう説かれている。

特に睡眠不足、酒に酔った状態では脳内における感情のコントロールが効きにくくなり、怒り易くなる、キレやすくなるように思われる。

日々の充分な睡眠、休息、日々の正しい生活が必要である。

パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において仏陀はこうお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。

怒りを断ち切って悲しまない。

その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを、聖者達は称賛する。

それを断ち切ったならば、悲しむことがない」

また漢訳仏典の大正新修大蔵経第二巻阿含部下、雑阿含経第三十二巻において仏陀はつぎのような主旨の法話を説かれている。

「嗔恚(しんに)を離れるを善と成す。

嗔恚及び驕慢(きょうまん)を生じることがないようにせよ。」とある。

つまり、怒り、激怒,うぬぼれ,慢心の心を起こさないようにせよという主旨の内容が説かれている。

また、仏教経典 漢訳大蔵経の中の阿含経及び南伝大蔵経において仏陀釈尊は次のようにお説きになられている。

「比丘(修行者)たちよ。まさに一法を断つがよい。一法を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう。

その一法とはなんであろうか。いわゆる瞋恚(しんに)(怒り)がそれである。

比丘(修行者)たちよ。まさに瞋恚(怒り)を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう」

「瞋恚(怒り)にかりたてられて、人は悪しき処におもむく。まさにつとめて瞋恚(怒り)を捨つれば、すなわち煩悩滅尽して聖者たらん。」

「雑言と悪語とを語って愚かなる者は勝てリという。されど誠の勝利は堪忍を知る人のものである。

怒る者に怒り返すは悪しきことと知るがよい。

怒る者に怒り返さぬ者は二つの勝利を得るのである。

他人の怒れるを知って正念に自分(自分の心、精神、感情)を静める人はよく己(自分)に勝つとともに他人に勝つのである。」

パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において仏陀(仏様)はこうお説きになった。

「愚者(おろかもの)は荒々しい言葉を語りながら「自分が勝っているのだ」と愚者は考える。

しかし、真理を認知する人がそしり(悪口、中傷誹謗,罵詈雑言、罵倒)を耐え忍ぶならば、(耐え忍ぶ)その人にこそ勝利が存在する。

怒った人に対して怒りを返す人はそれによっていっそう悪をなすことになるのである。

怒った人に対して怒りを返さないならば勝ち難き戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのを知って気をつけて静かにしているならばその人は自分と他人の両者の為になることを行っているのである。

理法(真理)に通じていない人々は「その者(怒りを返さない者)は愚者(おろかもの)だ」と考える。

パーリ仏典「スッタニパータ」において仏陀曰く

「罪がないのに罵(ののし)られ、殴(なぐ)られ、拘禁(こうきん)されるのを耐え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、彼を私はバラモンという。」

さらに、パーリ仏典「サンユッタ・二カーヤ」というお経においてブッダは次のようにお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。怒りを断ち切って、悲しまない。その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを聖者達は賞賛(しょうさん)する。それ(怒り)を断ち切ったならば悲しむことがない。」

「人は利を求めて自分を与えてはならない。自分を捨て去ってははならない。

人は善い(優(やさ)しい)言葉を放つべきである。

悪い、粗暴(そぼう)な言葉を放ってはならない。

やさしい言葉を口に出し荒々(あらあら)しい言葉を口に出してはいけない。」

次に、ダンマパダ(法句経)に次のような言葉がある。

「(彼は、我を罵った。彼は、我を害した。彼は、我に打ち勝った。彼は我から強奪した)という思いを抱く人には、恨みはついに止むことが無い。」

「(彼は、我を罵った。彼は、我を害した。彼は、我に打ち勝った。彼は我から強奪した)という思いを抱かない人には、ついに恨みが止む。」

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの止むことがない。怨みを捨ててこそ怨みが止む。これは永遠の真理である。」

第二次世界大戦が終わり講和条約が締結され、世界の諸国は敗戦国の日本に賠償を要求したが、その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加したが、日本に対する全ての賠償権を放棄した。

その時のスリランカの政府首脳達は声明の中で、このダンマパダのこの言葉を引用し次のように言った。

「戦いは終わったのだ。もはや怨みに報いるに怨みを以ってすることはやめよう。

この精神でセイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい。」と。

このダンマパダの教えは今日に至るまで、南アジアの人々に暖かい気持ちを起こさせている。

パーリ仏典ダンマパダやウダーナヴァルガに次のように説かれている。

「手むかうことなく罪咎(つみとが)のない人々に危害を加えるならば、次に挙げる十種類の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう

1、激しい痛み

2、老衰

3、身体の傷害

4、重い病

5、乱心

6、国王からの災い

7、恐ろしい告げ口

8、親族の滅亡

9、財産の損失

10、その人の家を火が焼く

この愚か者は死後に地獄へ生まれる。」

と説かれている。

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仏教が説く輪廻転生の教えと善因善果、悪因悪果の教え

仏教にとって人間に生まれてくる事は非常に良き生まれであると説く。

人間にとって神々に生まれる事は良き生まれであるといわれるが神々にとっては人間に生まれる事が良き生まれであるといわれている。

輪廻転生の世界では衆生(生き物達)は地獄界や畜生界に生まれ替わる方が人間界に生まれ替わるよりも圧倒的に多いと仏典では説きます。

(阿含経 増支部経典参照)

仏教の目的はこの輪廻転生からの脱出を説きます。本質的に仏教はこの六道輪廻の世界を苦しみの世界とみなしそこからの離脱を目指します。

仏典に修行を完成した表現として
「現法の中において、自身作證し、生死已に盡き、梵行已に立ち、所作すでに辨じ、自ら後生を受けざるを知る、すなわち阿羅漢果を得たり」とあります。(阿含経 長部経典参照)パーリ仏典において仏陀(ブッダ)は修行者の究極の瞑想体験と輪廻転生、因果の法則について次のようにお説きになられている。

 

     チベット仏教仏画

     ブッダ初転法輪像

「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、(そのもの自身が)堅固不動のものになると、かれ(修行者)は生き物達の死と再生について知る事(死生通)に心を傾け、心を向けるのです。

そして、かれ(修行者)は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知るのです。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。

とかれ(修行者)は知る。」

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部七 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部七 大東出版社」参照。

籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照

籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

仏教が説く輪廻転生の教説は、衆生(生き物達)が地獄界や餓鬼界、畜生界に生まれ替わる回数の方が天界、人間界に生まれ替わる回数よりも圧倒的に多いと説いている。

仏教では輪廻転生の本質は苦であると説いている。

仏教の目的はこの輪廻転生からの離脱を目指す。

また、仏教にとって人間に生まれる事は非常に良き生まれであると説く。

その大きな理由は、人間界は他の境涯、いわゆる天界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界に比べると最も仏道修行がしやすい境涯と言われている為。

お釈迦さまは最終的に、天界から人間界に生まれ変わり、人間界において修行を完成し、ブッダになる事が出来たと言われている。

次に、仏典 雑阿含経第四十巻において七種受という事についてブッダは次のように説かれている。

ある日仏様(お釈迦様)はもし七種受をもつものは天帝釈(良い世界又よい所)のもとに生まれ変わる事ができると説かれた

七種受とは

1 父母を供養する。
2 家の尊重に供養する
3 柔和で優しい謙遜の言葉、態度を取る
4 荒々しい言葉を離れる
5 両舌を離れる
6 ケチな心をやめる
7 真実の言葉を言う

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部三 大東出版社」参照。

さらに、パーリ仏典「サンユッタ・ニカーヤ」において仏陀は因果の法則と生まれ変わりについて次のようにお説きになられている。

「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い、言葉で行った悪しき行為の報い 、また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等 それこそが、その人自身のものである。

人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。

それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。

影が人に従うように。

それ故に善い事をして功徳を積め。

功徳は人々のよりどころとなる。」

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

さらに仏陀は次のように説いた。

「一度生まれる生き物(胎生つまり母胎から生まれる生き物)でも、二度生まれる生き物(卵生、つまり卵から生まれる生き物)でも、この世で生き物を害し、生き物に対する哀れみのない人(慈悲心のない人)、彼を賤しい人であると知れ」

さらに仏陀は次のように説いた。

「悪の報いが熟しない間は悪人でも幸運にあうことがある。

しかし、悪の報いが熟したときには、悪人は災いにあう。

善の報いが熟しない間には善人でも災いにあう事がある。

しかし、善の果報が熟したときには善人は幸福にあう。」

また、過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべて次のように説かれている。

「全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。

虐待してはならぬ。

害してはならぬ。

苦しめてはならぬ。

悩ましてはならぬ。

これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

次に、仏典には地獄という世界が説かれている。

地獄とは悪い事をした者が死後に生まれ赴く極めて苦しい、極めて残虐悲惨な世界。人や生き物を殺したり、いじめたり、苦しめたり、悩ませたり、悲しませたり、困らせたりした者、人の物を盗んだり、人をだましたりした者が死後に赴く世界。

特に阿含経、正法念処経、大智度論などの経典論書において地獄について詳しく解説した箇所がある。

最古の仏典スッタニパータやパーリ中部経典の中の賢愚経、漢訳仏典中阿含経の癡慧地経において仏陀は次のように説かれている

「仮に賭博(とばく)や博打(ばくち)に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運があったとしても、罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後、地獄へ堕ち、膨大な年数、極めて残虐悲惨な苦しみを受ける地獄での大苦痛大苦悩に比べれば、賭博、博打に負け自分の妻や子供や財産を全て失い、自分も囚(とら)われの身になるという不運などはとるに足らない僅(わず)かな不運である。」

つまり、「罪、悪事を犯しその罪、悪事の報いにより死後地獄へ堕ち、膨大な年数、残虐で極めて悲惨な苦しみに遭遇する地獄へと堕ちる不運こそが最悪の大不幸、大不運である。」という内容が説かれている。

地獄にも種類があり阿鼻地獄、無間地獄という地獄がある。

阿鼻地獄(無間地獄)は最も極悪非道な行為をした者が赴(おもむ)く地獄であり、最も痛み苦しみの激しい、極めて残虐極めて悲惨な地獄であると仏典に説かれている。

このように仏典には「極悪非道な行いをした者は死後、地獄に堕ち極めて残虐悲惨な苦しみを受ける」と説かれている。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部七 大東出版社」参照。

 書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部七 大東出版社」参照。

日本において地獄の観念が多くの人々に弘まった大きな原因のひとつは天台宗の源信(慧心僧都源信、横川僧都源信、鎌倉時代前に活躍した僧侶)という僧侶が「往生要集」という書物を著しその書物が多くの人々に読まれたからであろう。

この往生要集は浄土宗に大きな影響を与えた書物である。

この「往生要集」は今から約千年程前に書かれた書物で現在に至るまで多くの人々に読まれている。

この「往生要集」で引用されている経典の種類は極めて多く、源信様がいかに多くの経典を読まれたかが分かる。

この往生要集は宗(約千年前の中国の国名)の国に贈呈され台州の周文徳という方が往生要集を国清寺に収められた。

また、周文徳は源信を小釈迦源信如来として賛嘆、褒め称えた。

真宗皇帝も源信を賛賞する事切なるものがあったという。

日本国においても源信様を今迦葉(いまかしょう)と呼んでいた人々がいた。

迦葉とはお釈迦様の在世当時の十大弟子の一人で優秀な高弟の名前であるが、このように源信を賛賞する事、切なるものがあったという。

 往生要集を著した天台宗の高僧、慧心僧都源信(西暦942年~1017年年)

この往生要集の前半では地獄界 餓鬼界などの状況等について各教典論書を引用し具体的に書かれている。

どのような行為(例えば殺生、盗み、妄語、邪淫など)によりどういう境涯(例えば地獄界、餓鬼界、畜生界など)に赴くのかが記載されている。

書籍「日本思想大系6 源信 石田瑞麿 著 岩波書店」参照。

また、仏の三十二相についても具体的に説かれている。

どういう種類の良い行いによら良き報い、良き境涯、優れた仏の外観相形などを得られるのかという事も書かれている。

     書籍「日本思想大系6 源信 石田瑞麿 著 岩波書店」参照。

また、地獄の状況を絵で表現した地獄絵というものもある。

地獄絵は文字が読めない人々や子供達に対し仏教の教義を分かり易く解説する役割を果たし、多くの人々に倫理観、道徳意識、勧善懲悪の観念を植え付け、また地獄に対する恐怖心が凶悪犯罪の防止、犯罪抑止力の役割を果たしていたと考えられる。

次に、仏教経典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九において屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前(生きている間)において人間や動物達等の生き物の屠殺、殺生を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業の報いにより非常に長い年月の間地獄において獄卒、いわゆる地獄の鬼達により責め立てられ、苦しめられる世界に赴き、多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達(カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等)に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

仏教のお経、阿含経の中の「好戦経」というお経にも共通する内容が説かれている。

その内容は、戦争を好み、刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

又「堕胎経」というお経もある。

そのお経の内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。

「好戦経」 「堕胎経」は「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」参照。

「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」という書籍がある。

そのお経の概要として、釈尊の高弟の目連尊者がある日、托鉢中に鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊体を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行により高度な修行の境地に到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊体は生前(生きている間)において殺戮を行っていた者で死後その殺戮を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け、更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその殺戮を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

書籍「大正新修大蔵経 大蔵出版」参照。

また、我(釈尊)もまたこの衆生(霊体)を見る」という内容の事が説かれている。

 

さらにまた、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は盗みと貧困や富貴について次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる、もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる。

この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版社」参照。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版社」参照。

と説かれている。

次に、日本の有名な高僧、真言密教(真言宗)の開祖、弘法大師空海様の晩年の著作「秘密曼陀羅十住心論」において、また、浄土宗に大きな影響を与えたとされる天台宗の高僧、源信様の著作「往生要集」において、その他多くの仏教諸経典において偸盗罪(ちゅうとんざい)、つまり他者(他人)の所有物を盗む事の罪、与えられない物を奪い取る罪、盗み、窃盗行為の報いについて説かれている。

 真言宗開祖 弘法大師空海(西暦774年~835年)

 現代において典型的な盗みの罪として振り込め詐欺、オレオレ詐欺、架空請求詐欺、ワンクリック詐欺、ひったくり、ぼったくり、いかさま、スリ、着服、横領、不正請求、ペーパー商法、悪徳商法、金融犯罪、強盗、強奪、置き引き、持ち逃げ等のような悪事、悪業を犯すと未来、死後、来世においてその悪事、悪業の罪の報いとして地獄界、鉄窟地獄(てつくつじごく)、寒氷地獄、畜生界の三悪道、三悪趣という大きな悩み苦しみに満ちた残虐、悲惨な境界、人間に生まれるならば撲隷(奴隷)、無幸処(幸せの無い境界)、極貧、貧困等の大きな悩み苦しみ多き境涯に生まれ変わると説かれている。

書籍「日本思想大系6 源信 石田瑞麿 著 岩波書店」参照。

書籍「日本思想大系5 空海 岩波書店」参照。

 

仏教用語に自業自得(じごうじとく)という言葉がある。

つまり、自分が作った業、すなわち、自分自身が行った善悪の行為の報いは、幾多の生まれ変わり、死に変わりの中、輪廻転生の中で、最終的に自分自身がその行いに応じた報いを受けることになる。と仏典は説いている。

次に「君は誰れの輪廻転生か 桐山靖雄著 平河出版社」という書籍がある。

この書籍の著者である阿含宗の開祖、桐山靖雄猊下は現代における数々の輪廻転生の実例を紹介し、また、脳生理学の知識を駆使し、科学的見地から見た解説がされている。

               阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~2016年)

 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~2016年)

特に、脳神経外科、脳科学の世界的権威、ペンフィールド博士が科学者の立場から、死後の魂の存在の有無の問題について言及されており、そのペンフィールド博士の見解が紹介されているのが興味深い。

また、この書籍の後半部分において著名な文学者ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「勝五郎再生記聞」という生まれ変わりについての実話が紹介されている。

この話のなかで前世を記憶していた少年の勝五郎はこう云っている。

「仏様やお坊様に暖かい食べ物を供養し差し上げる事を忘れてはいけません。これは非常に功徳がある行為なんだよ」とある。

また、この書籍の最後の章において死後の世界の状況、斉の広場や三途の川について解説されている。

その中で、「死後の世界に斉の広場という場所があり、そこにある一人の亡者がいた。

その亡者は生前、つまり生きている間に一代で巨万の富を築いた大富豪であった。

その大富豪が晩年に一大発心をし座禅三昧に明け暮れ何がしかの悟りを得たと認められたが、その大富豪は若い時から金のために多くの人を泣かせ苦しめ、かぞえきれないほどの怨恨の念を集め、またその悪行悪業により、死後に断崖絶壁の下を流れる三途の川に流され、恐ろしい地獄に吸い込まれていった」という内容が書かれている。

   死後、三途の川に流されていく亡者の姿

 雑阿含経(パーリ仏典サンユッタ 二カーヤ)において仏陀は次のように説かれている。
「生きとし生ける者どもは(寿命が尽きて)いつかは(必ず)死ぬであろう。
生命はいずれ死に至る。
かれらは死後に自己の作った業(自己の行った行為の内容)に従って各所に赴いてそれぞれ善悪の報いを受けるであろう。
悪い行いをした人々は死後において地獄に生まれ赴き善い行いをした人々は(死後)善いところに生まれ赴くであろう。

その為に来世の幸福、平和、安楽の為に現世で善い事をして功徳を積まなければならない。人々が作ったその功徳はあの世で人々のよりどころとなる。」

また、仏教が説く輪廻転生には分段生死(ぶんだんしょうじ)と変易生死(へんやくしょうじ)と云う種類の転生があります。
分段生死とは凡夫の輪廻転生を意味し、六道輪廻つまり地獄界(極めて苦しい残虐悲惨な境涯)、餓鬼界(飢え、乾きに苦しむ境涯)、畜生界(動物の境涯)、修羅界(争いの境涯)、人間界(人間の境涯)、天界(天、神の境涯)の六種類の境涯を衆生(生き物)が何回も何回も際限なく輪廻転生していく転生を意味します。
変易生死とは聖者の輪廻転生を意味し、聖者が仏陀の境涯に向かって修行していく過程、聖者としての境涯が後退せず上昇していく転生を意味します。
変易生死について詳しく解説すると、例えば聖者の境涯に預流(よる)という境涯があります。
凡夫が仏道修行により修行の境涯が進むと先ず預流という聖者に成ります。
預流とは聖者の流れに入った者の意を表し、預流になると地獄界、餓鬼界、畜生界という最も苦しみの度合いが激しい三悪道の境涯には二度と生まれ変わらないとされています。
そして最高位の聖者である仏陀に成るまで三回~七回程度、人間界と天界への生死を繰り返し最後には必ず仏陀の境涯に至る事が出来るとされています。
阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~2016年)





観音様や先祖供養による神秘的な救いの体験談についての話

駆け込み寺という言葉がある。

悩み苦しみ、どうにも困って、耐え切れなくなった際、自分自身を助け、受け入れてくれる場所の事を表す。

さて、世の中には様々な悩み苦しみを抱える多くの人々、多くの生き物達が存在するが、その悩み苦しみから人々、生き物達を救い助けるという誓願、誓いを立てておられる様々な仏様、菩薩様、明王様、仏教に帰依した天部の神様が存在します。
そのなかに観世音菩薩という菩薩様がおられます。

書籍「観音開運法 小田隆弘著 密門会出版部」

法華経の第二十五章に妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈、略して観音経、普門品というお経に観世音菩薩のお力をほめたたえたお経があります。

観音経は日本において昔から多くの人々の間で信仰されてきたお経であり、

そのお経には観世音菩薩様の他者救済力としての大神変力(だいじんぺんりき)、念彼観音力(ねんぴかんのんりき)、いわゆる観音様の力を念じる事による救いが説かれています。

準提観世音菩薩様ご尊影(書籍「観音菩薩 変幻自在な姿をとる救済者 佐久間留理子著 春秋社」)参照。

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如意輪観世音菩薩様ご尊影(書籍 「観音菩薩 変幻自在な姿をとる救済者 佐久間留理子著 春秋社」)参照。

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           十一面観世音菩薩様ご尊影

          不空羂索観世音菩薩様ご尊影

 和歌山県の粉河に出現したとされる千手観音菩薩様(粉河寺縁起より)

  和歌山県の粉河にご出現されたとされる千手観音菩薩様(粉河寺縁起より)

日本において昔から現在に至るまで観音信仰は盛んであり、その信仰は特に霊験あらたかであったせいもあり、多くの人々の間で弘まり、観音霊場への巡拜巡礼信仰も現在に至るまで盛んであります。

日本における観音霊場で特に有名な霊場として奈良県の長谷寺、京都の清水寺、東京の浅草寺などがあります。

また観音様は阿弥陀如来様の脇持でもあり、多くの観音様のご尊像の額や頭上に化仏とされる小さな阿弥陀如来像が立像または座像で鎮座しておられます。

観音様と関係が深いお経に延命十句観音経というお経があります。

このお経について、江戸時代、禅宗の一つの臨済宗の中興の祖と称えられた白隠禅師自身が書かれた八重葎(やえむぐら)という書物に観音様に救われた体験記が書かれている。

その救いの体験記が次のように書かれている。

「昔、ある男がいた。ところがある日処刑される事になった。

そして処刑前夜その男の夢に僧侶が現れ

「延命十句経を千返唱えると命は助かる」と夢で教えられ明け方までこのお経を千編唱えた。

ところが同じ処刑前夜に別のある男の夢に観音様が現れ

「この処刑を中止しなさい。そうすれば立派な徳行になるでしょう。さもなくば大災厄がふりかかるであろう」というお告げを聞いた。

またその他の処刑実行者も同じような夢を見た人がおり処刑を中止した」という話がある。

延命十句経に関する霊験談がこの本では他にも書かれていて興味深い。

延命十句観音経は次のようにお唱えする。

延命十句観音経(えんめいじゅっくかんのんきょう)

「観世音(かんぜおん)

南無仏(なむぶつ)

与仏有因(よぶつういん)

与仏有縁(よぶつうえん)

仏法僧縁(ぶっぽうそうえん)

常楽我浄(じょうらくがじょう)

朝念観世音(ちょうねんかんぜおん)

暮念観世音(ぼねんかんぜおん)

念々従心起(ねんねんじゅうしんき)

念々不離心(ねんねんふりしん)」

とお唱えし致します。

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臨済宗 中興の祖 白隠禅師(西暦1685年~1768年)

次に、十一面観世音菩薩様をご本尊として護摩修法をし、霊験を得た話がある。

その話とは、1996年6月モンゴルにおいて十一面観世音菩薩様をご本尊としたモンゴル国十一面観音菩薩開眼法要 世界平和祈願護摩法要が厳修された。

この年のモンゴルは大旱魃で雨がほとんど降らず山火事がモンゴル全土を覆い、百数十箇所以上で燃え広がりその山火事は数ヶ月間燃え続けていた。

さらに、モンゴルは日本の国土面積の4倍近くあり広大な山火事にモンゴル人民は頭を悩ませていた。

日本の仏教教団、阿含宗管長 桐山靖雄師(1921~2016)とその信徒、約400名の方達がモンゴル国のガンダン寺において十一面観世音菩薩様をご本尊とし、モンゴル国の山火事鎮火、世界平和を祈り、護摩法要を勤修した。

その護摩修法後、モンゴル全土において突然大雨が降り出し、数ヶ月間続いていた山火事が数日間で消えてしまった。という。

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大なモンゴルの山林、草原が焼失した。

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。

1996年6月3日、モンゴル全土で数ヶ月間続いている広大な面積の山火事で、北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失し、まさにモンゴルは国家的な危機状況の中、阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下がモンゴルのジャスライ首相に対し、「明後日のガンダン寺での法要の際、観世音菩薩様に雨が降るようにお祈りします。観世音菩薩様は必ず雨を降らせて下さります。必ず雨が降ります。」と祈りによって雨を降らす事を約束。

そして、モンゴル国ガンダン寺での護摩修法当日未明、ウランバートル市全域に一大雷鳴がとどろき、全市民を驚愕させた。同時に、豪雨が大地を叩き、全市民を歓喜させた。待望の雨の第一陣であった。

さらに、護摩修法後、桐山靖雄大僧正猊下は参拝者の方々の前で、十一面観世音菩薩様がこのように雨を降らせて下さったと語り、十一面観世音菩薩様の偉大なる神通力、お力を称賛された。

その護摩修法後、モンゴル全土ですさまじい雨が降った。

また、モンゴルの文化大臣がこの状況を目の当たりに見、「祈りの力がいかに偉大なものであるかを目のあたりに見て、心から驚嘆しました。」と述べた事を当時の現地の新聞記事が伝えた。

最終的に1ヶ月間は消えないであろうとされていたモンゴル全土の山火事が護摩修法後、モンゴル全土の大雨により6月5日から5日後の6月10日に山火事は完全鎮火した。

モンゴル国 ガンダン寺 モンゴル国立十一面観音世音菩薩像

モンゴル国 ガンダン寺 モンゴル国立十一面観音世音菩薩タンカ

モンゴルの森林火災の完全鎮火を知らせる新聞記事(1996年6月)

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次に、先祖供養について阿含宗の桐山靖雄師は自身の著書「守護霊が持てる冥徳供養」の中で先祖供養の重要性について次のように説かれている。

「昔から、運が悪くなってどうしょうもなくなったら、先祖のお墓におまいりして、一心に先祖の助けをお願いせよ、必ず運がひらく。

という言い伝えがある。

仕事が行き詰まって、ニッチもサッチもいかない。

いろいろともめごとやトラブルが続出して、手におえない。

病人やケガ人の絶えまがない。

等々、どうにも手のうちようがないようなとき、先祖の助けを借りろ、というわけである。

たしかに、この言い伝えは本当のようである。

多くの例を見ているが、カベにつきあたってどうしょうもなかった人が先祖のお墓まいりをして、一心に供養をし、お願いすると、少しずつ運が良くなって、しだいに運がひらいていくそういう例を私は多く見ている。

いったいどうしたら、行き詰まった事態を打開することができるか、どうにも指導のしようもない人に対して、最後のアドバイスが先祖供養である。

「お墓まいりをして、一心に祈りなさい」

それしかいいようがない人が少なからずいる。

それをすなおに実行した人は、必ず、といっていいほど、しだいに運がひらいてゆく。

そういう例を、わたくしはかず多く見ているのである。」とある。

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また、桐山靖雄師は自身の著書「霊障を解く 家運をよくする正しい先祖のまつりかた その②」という書籍のまえがきでも先祖供養の大切さを次のように説かれている。

「運が悪く、まさに苦の連続ともいうべき人々の人生を目にし耳にするたび、またその苦の連続ともいえる人々の様々な相談を受けるたび、なにかいっぺんに運をよくする方法はないものかと長年の間、考えに考え、無数の実例を徴してみて、最後にこれなら誰にでも比較的容易に実践できる運をよくする方法を発見した。

その方法とは

「先祖のお霊をねんごろにおまつりする事。

つまり先祖供養である。

先祖の霊をおまつりすることにより、今までなにをしても運が悪く、悪いこと続きであった人が先祖の御霊をねんごろに供養をすると不思議に運がよくなってくるのである。

子供に関する悩みも水子の御霊を供養すると好転してくる」と説いている。

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さて、その桐山師が若い頃人生の苦悩の末自殺をしようとした事があるそうだ。

そこから救われた体験談が「般若心経瞑想法」や「さあやるぞかならず勝つ⑩」という書籍に書かれている。

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その書籍によると事業の失敗による莫大な借金と結核の再発に見舞われた事により前途を悲観し自殺を決意し自殺を決行しようとした直前,偶然目にした小経本で自殺を思いとどまり生きる事を決意した経緯が記されている。

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その小教本には般若心経や準提観音経そして延命十句観音経等のお経が書かれており準提観音経には

「寂静にして心常に誦すれば一切諸々の大難能く是の人を侵すこと無し」という文言が書かれていた。

桐山管長はこのお経を信じ準提観世音菩薩様のご真言

「のうばさったなん さんみゃくさんぼだくち なんたにゃた おんしゃれい しゅれい じゅんてい そわか」 を何回も何回も毎日唱えていたそうです。

準提観世音菩薩様ご尊影(書籍 「観音菩薩 変幻自在な姿をとる救済者 佐久間留理子著 春秋社」)参照。

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多い時には一日千回ちかくも唱えていたそうです。

そうするとだんだん自身の運気が変わっていき運勢や環境が 良くなっていき自殺する必要がなくなっていったそうです。

その桐山師が書かれた書籍「般若心経瞑想法 桐山靖雄著 平河出版社」のなかで真言、マントラについて次のように説かれている。

「玄奘三蔵訳の般若心経は頭で考えて作った経典ではなく霊感によってほとばしり出た経典であり、ぱぁっと霊感によって出てきた文言をそのまま、文字にして放り出したという感じである。

ことに、さいごに突然、出てきている呪(マントラ)などをみると、強くそういう感じがする。

この経典は経典というより、全体がマントラではないかと思うのである。

この経典作者は観音信仰者だったのではなかろうか?」と解説されておられる。

更にマントラの力と題して真言、陀羅尼について以下のように解説されている。

「マントラ、ダラニは一心に、ただひたすらに、一心にとなえることによって偉大な力をさずけてくれるのである。

マントラ、ダラニに理くつはない。

人間の子賢(こざか)しい知慧を越えた不思議な力がある。

神秘としかいいようがない奇跡を起こす力がある。

ただ一心に心をこめて祈り、誦すればよいのだ。

あなたもそのようにして偉大な功徳をいただいてほしい。」

と解説されている。

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阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~2016年)

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真言には準提陀羅尼、つまり、準提観世音菩薩様のご真言があるが、その真言を読誦 唱える事)の功能(功徳 ご利益)として書籍「密教大辞典(法蔵館刊)」、書籍「龍神が翔ぶ 家運をよくする守護神・守護霊の持ちかた 桐山靖雄著 平河出版社」という書籍に次のように書かれている。

「準提陀羅尼経によれば薄福無善根(福徳が薄い)の衆生(生き物)もこの陀羅尼(準提陀羅尼)を誦すれば(唱えれば)菩提分(さとり 等正覚 完全解脱成仏)の根芽(種子 基礎)を生じ決定して菩提(さとり、等正覚、完全解脱成仏)を成就せん(出来る)と云い、

その他、聡明、勝諍論、夫婦敬愛、他人敬愛(他人から愛される)、求児、延命、治病、滅罪、降雨、脱禁鎖等を祈ると験(効験)を得。悪鬼悪賊の難を逃れる事(が出来る)を説く。後略」とある。

この真言の霊験について、真言密教伝持八祖の内の第五祖 インドの高僧、善無畏三蔵の伝記に次のように書かれている。

真言密教伝持八祖の内の第五祖 インドの高僧、善無畏三蔵(西暦637年~735年)

「商人と善無畏三蔵が航海中、船上において商人が盗賊に襲われた際に善無畏三蔵が準提呪の黙誦をすると準提観世音菩薩様が全身のお姿を現され商人を盗賊の難から救った。」とある。

その準提観世音菩薩様は密教の仏様であり別名準提如来ともお呼び致します。

 準提観世音菩薩様ご尊影(書籍 「観音菩薩 変幻自在な姿をとる救済者 佐久間留理子著 春秋社」)参照。

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密教の流派では如来部に属すると主張したりまた別の流派では観音部に属すると主張したりして解釈が分かれています。

この仏様の密教での呼び名つまり密号は最勝金剛ともお呼び致します。

最勝金剛とは最も優れた仏という意味であります。

この仏様は別名七倶提仏母ともお呼び致します。

七倶提とは七億または七千万という意味で、つまり無量無数を意味し、仏母とは仏の母という意味、つまり、無量無数の仏の母という意味です。

「密教大辞典 法蔵館刊」によると

「過去無量の諸仏の母たる清浄陀羅尼を司る尊を七倶提仏母と名ずく」

準提とは梵語のチュンディの音写で意味は清浄という意味でありこのご真言は清浄陀羅尼ともいわれます。

このご真言から過去無量無数の仏様が生まれたと伝えられています。

しかし、世間一般では、観音様は身に見えない存在であるから信じられないという人が多くいる。

真言密教の開祖、弘法大師空海様は自身の著作「弁顕密二教論」の中において「仏様の説法には法身説法という種類の説法がある」と説かれています。

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法身説法とは密教でいう真理そのものとしての仏、大日如来、最高位の仏様がなされる説法の事。

空海様はその「弁顕密二教論」の中においてインドの高僧、龍樹菩薩様の著した著作「大智度論」巻九を引用し法身説法についてこう解説されている。

インドの高僧、大乗仏教の祖、龍樹菩薩(西暦2世紀頃~3世紀頃)

「法身の仏は常に光明を放って説法をしているが罪業が深く、罪が重い衆生(生き物)はその罪の重さ, 業の深さが原因で(つまり過去の無量無数というべき多くの生まれ変わり、死に変わりにおいてなしてきた多くの罪、過去における無量無数の輪廻転生の中でなしてきた多くの罪障罪業が原因で)法身の仏の姿が見えず、法身の仏の説法も聞こえず、その説法の内容も理解出来ない。

その一方、罪業罪障が比較的軽い衆生(生き物)は法身の仏の姿が見え、法身の説法が聞こえ、またその説法の内容も理解出来る。」

と説かれている。

その弘法大師空海様が唐(昔の中国の国名)へ渡り、その唐で密教を学び、その帰国の際の航海中、暴風で荒れ狂う波が船に襲い掛かろうとした時、突如として洋上に巨大な不動明王が現れ不動明王の持つ宝剣が荒波を切り裂き、空海様の乗った船を無事に日本に帰国出来るよう助けたと伝えられています。

この時の不動明王は波切不動明王とされています。

 唐の国に密教を学ぶ為、海を渡る若き日の弘法大師空海(西暦774年~835年)

(※空海様在世当時の平安時代の航海術は現代と違い極めて未熟で船の遭難や沈没が非常に多く、海外への航海はまさに命がけであったとされている。)

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弘法大師空海様の唐の国への航海が無事に唐の国に到着するよう出現され空海様を助けたとされる湧現観音

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弘法大師空海様が船で唐の国から日本に帰国する航海の途上、激しい暴風雨が吹き荒れ、船が荒波にさらわれ大波で船が沈没しそうになった際、突如として洋上に巨大な不動明王が出現され、不動明王が持つ宝剣で襲い掛かる荒波を切り裂いたと伝えられている。その時に出現された不動明王は波切不動明王として高野山に祀られている。

次に、書籍「観音開運法 小田隆弘著 密門会出版部」の中の「観音様に祈る姿に異国の人が思わずうたれた。」という章の中で、著者の小田隆弘 大阿闍梨が、次のような実話を紹介されている。

「日頃の感謝の心をもって生活する人は、けっして自分の利益や得だけにこだわらない人でもある。言い換えれば、他人の為に苦労することもいとわない。「犠牲心」を持ち合わせているのだが、最後に犠牲心についてお話したい。

昭和二十年八月の末のことである。現在、ある都立商業高校の教諭をしているHさんは、父母といっしょに、南朝鮮のある村を海へ、そして日本を目指して歩いていた。

三人ともリュックを背負い、両手に荷物を持っていた。

当時の朝鮮における対日感情は最悪だった。それまで日本が朝鮮を苦しめてきた報いともいえるが、落ちのびる途中で金品を奪われるなどまだいいほうで、下手をすれば命が危なかった時代である。

Hさん一家は、現金や装飾品をバラまくようにして食糧に変え、かろうじて海のそばまでやってきたのだ。

 一面の平地、と思ったのは錯覚だった。夫と子から一歩先を歩いていたHさんの母は、上が草でおおわれた底なし沼にはまり込んでしまった。

 あわてたHさんが母親のそばに行こうとするのを父が押しとどめ、自分が妻に飛びついた。しかし、「母が父にしがみついたので二人とも沈みはじめたのです。」とHさんはいう。

 もともと、村人の目を避ける道をたどってきたので、あたりにはだれもいない。棒きれも落ちていなかった。たとえ、竹竿があったところで、七歳の少年の力では引き上げることはかなわなかったであろう。

 沈んでいく父と母は、自分たちが助からないと悟ったとき、「一生懸命、観音さまに祈りなさい」とだけ言ったという。H少年は泣きながら手を合わせ、一心に祈った。

 父と母が首のところまで沈んだとき、たまたま韓国人の農夫が二人通りかかったという。少年が祈る姿に二人はうたれた。そして、その農夫たちに父と母は助けられたのである。

二人を引きずり上げたとき、韓国人はいったそうであある。

「ほんとうなら、日本人なんてみんな死んだほうがいいんだ。でも、この子が祈っていたから」と。

 中学生になったとき、H少年は「お父さんとお母さんはもとからの観音信者なのか」と聞いたという。答えは否であった。沈んでいくとき、とっさに思いついたのだという。

「そんなわけで、父と母はいまだに僕に頭が上がらんのですよ」Hさんは会う人ごとに人に話すそうだ。彼の父母が、日本に帰ってから熱心な観音信者になったのはいうまでもない。

 あのときHさんの父は、子どものために、とっさに犠牲になったのであろう。この犠牲心こそ、慈悲の心のあらわれにほかならず、それがまたHさん親子を助けてくれたのである。」

書籍「観音開運法 小田隆弘著 密門会出版部」

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倫理、道徳の実践を重んじたブッダ釈尊

老齢になって役に立たなくなった老人を遺棄するという現象は昔から汎世界的に見られるがブッダはその風潮に反対し父母をいたわることを説いている。

「世に母を敬うことは楽し。また父を敬うことは楽し。」

「母あるいは父を法によりて養う人あらば父母に仕えるそのことを以って、この世にてはもろもろの賢者がかれを賞賛す。

また死後(その功徳により)かれは天界にて楽しむ。」

「母と父とは梵天ともいわれ先師ともいわれる。

子らの供養すべきものにして、また子孫を愛する者なり。

されば実に賢者は飲食と衣服と床と塗身と沐浴と洗足とを以って父母に敬礼し尊敬せよ。」

「されば正しき善人は、恩を感じて恩を知り、昔の恩を思い起こして母と父を扶養す。

昔、恩を受けたるが如くにかれら(父母)に対して義務を果たす。

教えを護り、扶養して、家系を断たず、信仰あり、戒を保つ子は賞賛せらるべきなり。」

「われらは両親に養われたならば、かれらを養うべし。

かれらの為に為すべきことを為すべし。

家系を存続すべし。

財産相続を為すべし。

また祖霊に対して適当なる時々に供物を捧ぐべし。」

また、仏教経典「スッタニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

「老いて朽(く)ち衰(おとろ)えている母や父を養わないで、自らは豊かに暮らす人  これは破滅への門である。」

さらにまた、仏教経典 パーリ相応部経典(サンユッタ・二カーヤ)の中でブッダは次のように説かれている。

父母を養っているバラモンが尊師(仏陀釈尊)に次のように言った。

「ゴータマ(仏陀釈尊)さま。

わたくしは、きまりにしたがって食を求めます。

きまりにしたがって托鉢(たくはつ)して食を求めて、両親を養っています。

わたくしは、このようにしていますが、なすべきつとめを果たしているのでしょうか。」

尊師(仏陀釈尊)は次のように言った

「バラモンよ。たしかに、そなたは、このようにして、なすべきつとめを果たしているのです。

きまりにしたがって食を求め きまりにしたがって食を求めて両親を養っている人は、多くの功徳を生じます。

母または父を、ことわりにしたがって養う人は、両親に対するその奉仕によって、この世では。賢者がかれを称賛し、死後には天にあって楽しむ。」

その言葉を聞きバラモンは次のように言った。

「すばらしいことです。ゴータマさま。

すばらしいことです。ゴータマさま。

ゴータマさま、私を在俗(在家)信者として受け入れて下さい。

今日以後、命ある限り貴方様に帰依致します」

また、パーリ仏典ダンマパダやウダーナヴァㇽガの中でブッダは不傷害、非暴力の重要性について次のように説かれている。

「手むかうことなく罪咎(つみとが)のない人々に危害を加えるならば、次に挙げる十種類の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう。

1、激しい痛み

2、老衰

3、身体の傷害

4、重い病

5、乱心

6、国王からの災い

7、恐ろしい告げ口

8、親族の滅亡

9、財産の損失

10、その人の家を火が焼く

この愚か者は死後に地獄へ生まれる。」

また、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は物惜しみと分かち与える事についても次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

さらにまた、仏陀釈尊はパーリ仏典の律蔵経典、増一阿含経 第四十巻において看護について次のようにお説きになられている。

「修行僧らよ。我(仏陀釈尊)に仕(つか)えようと思う者は病者を看病せよ。」

「たとえ我(仏陀釈尊)および過去の諸仏に供養することあろうとも、我(仏陀釈尊)に施す福徳と、病(人)を看る、看病する(福徳)とは、異なること無し」

また、仏陀釈尊自身も病人の看病、看護に直接従事された事が説かれている。

さらに、律部経典の梵網経において看病を八福田の第一にあげている。

つまり仏教において病者への看護、看病がいかに重視されているかが分かる。

また、仏典 雑阿含経第四十巻において、七種受という事についてブッダは次のように説かれている。

ある日仏様(お釈迦様)はもし七種受をもつものは天帝釈(良い世界又よい所)のもとに生まれ変わる事ができると説かれた

七種受とは

1 父母を供養する。
2 家の尊重に供養する
3 柔和で優しい謙遜の言葉、態度を取る
4 荒々しい言葉を離れる
5 両舌を離れる
6 ケチな心をやめる
7 真実の言葉を言う

参考文献

「ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫」

「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波書店」

「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤⅠ 中村元訳 岩波文庫」

「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤⅡ 中村元訳 岩波文庫」

「宗教における思索と実践 中村元著 サンガ文庫」

「原始仏教の社会思想 中村元撰集 第十八巻 春秋社」

書籍「人生のあらゆる悩みを2時間で解決できる! ブッダの教え 見るだけノート  大愚 元勝 監修 宝島社」参照。

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仏事の際、仏壇やお墓で香を焚き、お供え物をお供えする意義について

よく仏事の際にお供え物を供え、線香を焚くが、その主たる目的は霊に香りを食して頂く事が目的である。

仏教では霊の事を食香(じきこう)と呼び、食香の事をサンスクリット語でガンダルヴァ(gandharva)と呼ぶ。

ガンダ(gandha)とはサンスクリット語で香を意味する。

つまり、ガンダルヴァ(gandharva)とはそのガンダ(gandha)、いわゆる香(かお)りを食する存在を意味している。

仏教の教理教学を体系的にまとめた倶舎論(くしゃろん)という仏教論書の中で、霊について次のように説かれている。

「精血等の所有の外縁が合して成ずるものでなく、意より生ずるが故に意生(いしょう)と呼ばれ、又は意生身(いしょうしん)とも呼ぶ。

常に喜んでこれから生まれるところを尋察と呼ばれ、探し求めるところから求生ともいう。

また、香食に資(たす)けられて生処に往(おもむ)くから食香と名づけられ、二趣(この世とあの世)の中間の所有の蘊(うん)なるが故に中有(ちゅうう)ともいう。

そしてこれから生まれるべき生に対向して漸時、起こるが故に起ともいわれる。」

さらに倶舎論によると中有は母体に入るのだが腹を破っているのではなく「陰門より入る」ともいう。

さらに、倶舎論巻九にその中有の相(すがた)を説明して

「見るべからず如く、触れるべからず。中有の身はごく微細なるをもっての故に。」

「ただし、もしも極浄天眼を修得するならば、よく見ることを得。

諸生は眼を得るもみな観ることあたわず、ごく微細をもってのゆえに」

つまり、中有の存在を見ることが出来る人は極めて少ないが、その中有の存在を覚知する眼、いわゆる霊眼を持っている人がごくまれにいる。

その霊眼を持つ人はその微細な姿をした中有の存在を見ることが出来ると説かれている。

ところで、江戸時代後期、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)によって書かれた書物の中に「勝五郎再生記聞」という書物がある。

その中で書かれている話は実話であったらしい。

その主な内容は、江戸時代に勝五郎という名の子供がいた。

その子供は自分が生まれる前の記憶、つまり、前生の記憶を有していた。

つまり、勝五郎は勝五郎のお母さんから生まれる前の記憶を鮮明に覚えていたという。

すなわち、勝五郎は自分が産まれる前、つまり、勝五郎が肉体を持たず霊体であった時、勝五郎の家の中、いわゆる勝五郎の両親、家族たちの話声が聞こえていたという。

また、生まれてからもその内容を覚えていたという。

また、勝五郎はお母さんのお腹の中に霊体として入る前、しばらくの期間、家の中の周囲に居た。

そして家の中の仏壇に供えられた牡丹餅(ぼたもち)の香りを食していたと語った。

そして、勝五郎はよく周りの家族たちに

「仏様、お坊様に温かい食物を布施する事を忘れてはいけません。これは大変功徳になることなんだよ」と言っていた。とある。

さて、仏教には追善供養というものがある。

追善とは亡者のために追って善事を修して福を薦め、その冥福を祈る事。

人の死後四十九日の間、亡者の霊は中有に迷って果報、転生先が定まらないので遺族、僧侶が善根を追修、回向してその功徳を亡者に捧げ、三途の苦報を免がれさせようとするために追善供養を行う。

ただし極善の者は四十九日間を待たずに直ぐに仏界、天上界に直行し、極悪の者は直ぐに地獄界へ直行するとされている。

追善供養は人の死後、七日ごとに初七日忌、二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌、六七日忌、七七日忌つまり四十九日忌を行う。

また百日目の百カ日忌、一年目に一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などに法要を営みその功徳を亡者に回向する。

仏教には死者に対しての追福追善の報恩行、冥福を祈る宗教行事がある。

仏教の経典に「梵網経(ぼんもうきょう)」というお経がある。

その中に不救存亡戒(ふぐそんぼうかい)という戒律があり、それによれば仏教信者は慈悲の心を持って全ての生者、死者に対して慈悲の行為を行わなければならない事が説かれ、

特に父母兄弟等の家門の親しい先亡精霊に対し、冥界における幸福を助けるための宗教行為に勤めるべきことを勧めている。

参考文献

「守護霊を持て 桐山靖雄著 平河出版」

「講座 仏教思想 第七巻 理想社」

「地獄の話 山辺習学著 講談社学術文庫」

「君は誰の輪廻転生か 桐山靖雄著 平河出版」

「仙境異聞 勝五郎再生記聞 平田篤胤著 岩波文庫」

「異界見聞録6 平田篤胤著 勝五郎再生記聞 前世の記憶を持つ子どもの話 現代語超編訳版 西田みどり著 知玄舎 異界見聞録シリーズ」

「葬式仏教 圭室 諦成著 大法輪閣刊」



仏教の不妄語戒と不偸盗戒からFX(外国為替証拠金取引)を考える。

仏教には不偸盗戒、つまり、他人の物を盗んではいけないという戒律もある。

他人の物を奪ってはいけないという戒律がある。

仏典、法句経の中に

「他人から奪った者は(未来に)奪われる(運命にある)。」

という内容の教えがある。

ところで、最近、YouTubeを見ているとFX(外国為替証拠金取引)の広告が流れているのを見た。

その内容を最後まで見ているとFX(外国為替証拠金取引)で大金を稼ぎ、現在は悠々自適の生活であるという内容。

FX(外国為替証拠金取引)を強く勧める内容であった。

ただし、FX(外国為替証拠金取引)の負の側面は一切語られていなかった。

かつて、1万ドルの資金を1年で100万ドル以上にした伝説のトレーダー、アメリカ人のラリー・ウイリアムズ氏は自身の著書「相場で儲ける法 ラリー・ウイリアムズ著」の中でFX(外国為替証拠金取引)などの先物取引の本当の実態はゼロサムゲームである。という。

つまり、FX(外国為替証拠金取引)で稼いだ人の全ての合計金額とFX(外国為替証拠金取引)で損をした人の全ての合計金額をプラスマイナスで計算するとトータルすると0になる。

言い換えると、大金を稼ぐ人々がいる一方、大金を失い嘆き悲しむ人々も大勢いる。

つまり、FX(外国為替証拠金取引)の取引は大局的に見ると、多くの人々が互いにお金を奪い合っている観がある。

椅子取りゲームのようなイメージがある。

ラリー・ウイリアムズ氏も相場で損失した人のお金は私のような相場に長けた人物の元に入ってくると著書で語られている。

さらに、FX(外国為替証拠金取引)は少額の金額で数十倍の取引が出来るので儲かると大きいが損をすると莫大な損失を被る危険性のある取引である。

ラリー・ウイリアムズ氏は自身の著書「相場で儲ける法 ラリー・ウイリアムズ著」の中で投資をする際は自己資金の2%~3%で運用し、資金がショート、つまり、資金が無くなり、破産しないような対策が必要であり、その為には決して大きな金額、大きなポジションをとってはならないという。

さらにまた、ラリー・ウイリアムズ氏によるとFX(外国為替証拠金取引)などのような先物取引は約8割の方々が損をしており、一般の人は相場に参加するべきではないと著書で語られている。

仏教の睡眠観と現代医学の睡眠観についての考察

仏教の学派の中には睡眠は煩悩の一種であるから、その煩悩を断ち切る為、断眠修行など、睡眠時間を大幅に制限した修行を行っている人々を見聞きする。

例えば、天台宗の総本山、延暦寺の僧侶が夜通し徹夜で仏像を礼拝する修行をしているなどの話を聞いたこともある。

日本では12月31日の大晦日に多くの人々が徹夜で、夜通し、様々なお寺を参拝する習慣がある。

しかし、この断眠修行はある種、お釈迦様の言動と相矛盾しているようにも思える。

健康上にも問題を引き起こすように思える。

例えば、仏教学の世界的権威、故中村元博士は月刊アーガマ42号において釈尊が食事の後よく昼寝をされたことを微笑ましく指摘されている。

当時の厳格な修行者からすると昼寝をする事はダラシのない事であり、怠惰なふるまいであったと考えられた。当然、釈尊に対しても次のような非難が向けられていた。

ある日、サッチャカという修行者が釈尊に次のように言った。

「ゴータマ(釈尊)よ。あなたは昼寝をする者である事を認識しているのですか。」

釈尊は、次のように答えた。

「私は托鉢から帰ってきて食事をし、その後、大衣を四つ折りにし、その上に、右脇を横たえ、自らの心の動きを観察しながら眠りに入る事があります。だから自分が昼寝をする者である事をよく認識していますよ。」

サッチャカが言った。

「ゴータマ(釈尊)よ。修行者やバラモンのある者は迷っているから、そんな事を語るのです。」

釈尊は静かにこう答えた。

「食後の昼寝をした、しないだけで、迷っているとか、迷っていないだとか、言えませんよ。」

このお釈迦様が行っていた食後の休息を仏教の聖典であるパーリ聖典において昼住(ちゅうじゅう)という。

この習慣は現在の東南アジアの僧院でもよく見かける。

また、スペインやアルゼンチンなどのラテン系の国々では昼食後の休息に数時間、当てている。

この昼食後の休息をシエスタという。

この習慣は、中国・インド・ベトナムなどの熱帯・亜熱帯地域や地中海性気候である地中海沿岸のギリシャ・イタリア・中東・北アフリカでも一般的に見られる。

一般的に人間の活動力は、午前中は上昇、正午頃が最も高く、午後2~3時ごろにかけて活動が低下するが午後4時すぎに再び上昇に転じ数時間活性化した後、就寝時間に向けて再び低下する。

就寝中の深夜2~3時が最も活動力が最低となる。

ところで、2019年に日本で出版された書籍「スタンフォード大学教授が教える熟睡の習慣 西野精治著 PHP出版 」において昼寝と認知症との関係を調査した結果が記載されている。

ある高齢アルツハイマーの方々とその配偶者、約数百人を対象にした調査の結果、30分未満の昼寝をする人は昼寝の習慣がない人に比べて認知症発病率が約7分の1であった。

30分から60分の昼寝をする人も昼寝の習慣がない人に比べて認知症発病率が半分以下であった。

最近の研究結果では、睡眠中は起きている時間帯の10倍以上、脳内に溜まった様々な老廃物を排出する機能、働きがあると分かっている。

また、書籍「アルツハイマーになる人、ならない人の習慣 ジーン・カーパー著 和田 美樹 訳  澤登 雅一 監修 Discover」の中で著者のジーン・カーパー氏は

睡眠は脳を記憶障害。アルツハイマー病から守ることに対して、驚くべき効果を発揮する。

睡眠を充分にとらないと、アルツハイマー型の脳障害を誘発する恐れがある。

実に、睡眠には特効薬的な効能がある。

起きている時間帯に発生した脳に溜まっている様々な老廃物が、 睡眠中、 きれいに洗い流され、睡眠のチカラにより脳内の老廃物がきれいに除去される。と書かれている。

また、書籍「Sleep(最高の身体と脳を作る技術)ショーンスチーブンソン著 花塚恵訳 ダイヤモンド社」の中で著者のショーンスチーブンソン氏はこの書籍の中で次のように書かれている。

「老廃物を除去する脳のシステムは睡眠時に活性化する」という章の中で

「脳は実に様々な働きをするが、その結果、大量の老廃物が生まれる。

それらは全て排除しなければならない。

老廃物を取り除く事で、文字通り、新たな成長や発達の余地が生まれるからだ。

死んだ細胞の除去やリサイクル、有害物質の排除、老廃物の排出は脳を機能するうえで絶対に欠かせない。

眠っている間の老廃物を除去する活動は目覚めている間の10倍以上老廃物を除去する活動が活発になるという。

目覚めているときの脳は学習や成長に勤め、脳の持ち主が活躍できるよう協力している。

ずっと動きっぱなしなので、たくさんの老廃物がたまっていくが、そのほとんどは睡眠が持つ修復の力で除去される。

例えば、自宅のごみを捨てるシステムがとどこおれば、家はあっという間に悲惨なことになる。

それと同じでように充分な睡眠をとらず、その老廃物を除去する働きがなければ脳内が大変なことになる。

具体的に言うと,

有害な老廃物を除去する事が無いことがアルツハイマー病を発症する根本的な原因の一つだと言われている。 」

と書かれている。

さらにまた、著者は睡眠環境について

「睡眠環境を真っ暗な状態にして寝ることが重要である」

と説き、次のように書かれている。

「まずは、近年、人気が高まりつつあるカーテンを遮光カーテンに替えよう。

それから光を発し続けるものを寝室から取り除こう。

この二つを今夜のうちに行えば、明日起きたらきっと私に感謝したくなる。

睡眠の専門家は、顔の前に手をもってきても見えないくらいの暗闇で寝ることを奨励している。

私たちの遺伝子は、暗闇で眠る事を当たり前だと思っている。

いまは部屋のなかで何かしらの光が一晩中ついていることも珍しくもない。

外の世界で起きることはどうにもならないのだから、せめて自分の家の中の事は自分の手で何とかするしかない。

だからこそ、遮光カーテンは必要だ。

寝室を居心地のいい暗闇に変えるべく、行動をおこそう。

私の睡眠は暗闇に変えた瞬間からよくなった。

寝室を真っ暗にするようになってからというもの、最高の睡眠がずっと続いている。」と書かれている。

遮光カーテンが難しければアイマスクも有効かもしれない。

チベット仏教の最高指導者、ダライラマ法王猊下は

「睡眠は最良の瞑想である。」

とお説きになられている。

また、数千年前に編纂されたとされている古代インドの哲学書のウパニシャッド(奥義書)の中に「深い睡眠は真実の自己とつながっている」という記述がある。

仏教の祖師達の霊験談を考える

仏教の開祖や仏教の各宗の祖師の方々の霊験談を次に紹介していきたい。

先ず、仏教の開祖である仏陀釈尊についてであるが、釈尊自身の瞑想体験として、修行を完成し仏陀に成られた釈尊は、仏陀としての最高の悟りを開く直前、非常に深い瞑想中において、無量無数の生き物達がそれぞれの業、それぞれのカルマに応じて無限に近い膨大な時間、無量無数とも例えられる程の回数、生き替わり死に替わりを繰り返している情景をその超人的透視力で実際に透視したという釈尊自身の体験が仏典(阿含経)に説かれている。

以下は釈尊自身の瞑想の体験談である。

「このように 私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、種々なる過去の生涯を想い起こした。

すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、また幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。

我はそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカースト(階級)であり、これこれの食を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。

そこで死んでから、かしこに生まれた。

このように形や名称とともに種々なる過去の生涯を想い起こしたのである。

このように私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。

実にこれらの生存者は身に悪行を行い、言葉に悪行を行い、心に悪行を行い、もろもろの聖者をそしり、誤った見解を抱き、誤った見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後に悪しき所、堕ちた所、地獄に生まれた。

また、他のこれらの生存者は、身に善行を行い、言葉に善行を行い、心に善行を行い、諸々の聖者をそしらず、正しい見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後、善い所、天の世界に生まれた。

このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。」

また、インドの古代文献であるウパニシャッド(奥義書)の教えに、悟りを得たときには過去の生涯を明らかに思い起こすという思想がある。

そして、ジャイナ教の教えにおいても、修行者が悟りを開いたときには世界、神々、人間、悪魔のありさま、彼らがどこから出てきてどこへ行くか、という詳しい姿を見透したという。

(書籍「思想の自由とジャイナ教 中村元撰集決定版  第10巻 春秋社」参照。)

以上の事から要約すると、仏陀釈尊の覚醒の課程は三夜にわたる智の開眼、智慧の獲得で説明される。

すなわち、第一夜(初夜 夜6時~夜10時頃)において釈迦(釈尊)は瞑想によって自らの百千の生涯、幾多の宇宙の成立期、破壊期、成立破壊期を残らず想起した。(宿明智の獲得)

次に、第二夜(中夜 夜10時~夜中2時頃)において天眼(清浄で超人的、神的な透視力)により生き物達が無限の生死循環(輪廻転生)を繰り返す様を見透す。(天眼智の獲得)

最後に、第三夜(後夜 夜中2時~朝6時頃)において「一切(輪廻転生の本質)は苦である」という認識を得、縁起の法を悟って覚醒、漏尽解脱、智慧解脱の完成を得た。(漏尽智の獲得)

そして、「わたし(釈尊)は最高の道を悟った。私の悟りは揺るがず、壊れない。私は解脱を果たした。もう苦しみの世に生まれる事は決してない。」とある。

また、釈尊はこの瞑想法だけで仏陀に成られたのではなく釈尊自身の過去世からの無量無数ともいうべき積徳の行為、功徳を積んだ行為より生じた福徳の力、福力により仏陀に成る事が出来たとされる。

仏教では福徳の力で成仏するという教えがあり、

舎利禮門というお経の文言に「万徳円満、釈迦如来」という言葉がある、

つまり万(よろず)の徳、全ての徳が完全に備わっている釈迦如来という意味であるがブッダに成るには大きな徳が必要とされる。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』

参照。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』

参照。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』

参照。

釈迦成道仏画(ゴータマ・シッダールタ)(チベット仏教仏画)

釈迦初転法輪像

釈迦(ゴータマ・シッダールタ)、舎衛城の神変

参考書籍

「ゴータマ・ブッダⅠ 原始仏教Ⅰ 決定版中村元撰集 第11巻 春秋社」

「ゴータマ・ブッダⅡ 原始仏教Ⅱ 決定版中村元撰集 第12巻 春秋社」

パーリ仏典、漢訳仏典、参照。

次に、西遊記で有名な玄奘三蔵法師様が仏典を求めての旅の途上、砂漠で彷徨い、死にかけていたところ、般若心経を唱え、救われた話や、また、その旅の途中に盗賊に捕らえられ、玄奘三蔵法師様が処刑されようとする直前、突如、天地が鳴動し天候が一変し、処刑執行人が驚き恐れ、処刑する事を止め、玄奘三蔵に帰依した話などが伝えられている。

玄奘三蔵法師(中国)(西暦602年~西暦664年)

玄奘三蔵法師はインドへの求法の旅の途上、砂漠で彷徨い、死にそうになっている時、仏教の守護神、大般若経を守護する十六善神である深沙大将(じんじゃだいしょう)が現れ、玄奘三蔵法師を助けたと伝えられている。

次に、インドの善無畏三蔵法師様、この方は、真言密教伝持八祖の内の第五祖にあたるインドの高僧であり、弘法大師空海様は第八祖にあたりますが、その善無畏三蔵法師様の伝記に「商人と善無畏三蔵法師様が船での航海中に、船上において商人が盗賊に襲われた際、善無畏三蔵が観音様の準提呪の黙誦をすると準提観世音菩薩様が全身のお姿を現され商人を盗賊の難から救った。」と伝えられています。

準提如来(別名=七倶提仏母準提観世音菩薩)

準提如来(別名=七倶提仏母準提観世音菩薩)

善無畏三蔵(インド)(西暦637年~西暦735年)

弘法大師空海(日本)(西暦774年~西暦835年)

弘法大師空海(日本)(西暦774年~西暦835年)

次に真言宗の開祖であり、高野山を開いた弘法大師空海様が若い頃に修行し四国の室戸岬で修行の結果、特殊な神秘体験をした事で有名な「虚空蔵菩薩求聞持法」という密教の修行法があります。

虚空蔵菩薩

虚空蔵菩薩

この修行は虚空蔵菩薩様のご真言「のうぼう あきゃしゃぎゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」というご真言を百日間の間に百万回唱えるという修行で空海様は特殊な神秘的な体験をしたと伝えられている。

四国の室戸岬で求聞持法を修行する若き日の弘法大師空海

写真は(DVD(映画)空海(空海役=北大路欣也)東映株式会社)より引用。

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「三教指帰」という空海様の著書の冒頭にその体験を「谷響きを惜しまず明星来影す」という表現でその神秘体験を表現されています。
「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」というお経の中でこの修行が成功すると様々な霊験があると伝えられている。

四国の室戸岬において虚空蔵菩薩求聞持法を修行する若き頃の弘法大師空海様

虚空蔵菩薩求聞持法を修行する若き頃の弘法大師空海様

虚空蔵菩薩求聞持法を修行する若き頃の弘法大師空海様

弘法大師空海様は更なる求法の為、遣唐使船に乗船し唐の国に渡った。(西暦804年)

尚、当時の航海技術は現代の航海技術と比較すると極めて貧弱であった。

そのことについて書籍「竹取物語(全)角川ソフィア文庫」に次のように説明されている。

「遣唐使は、唐の文化を輸入するために、7世紀から8世紀にかけて、日本から公式に派遣された使節をいう。

西暦630年に始まり、西暦894年に停止するまで、およそ20回計画されたが、うち4回は中止されたという。

人員は、場合によって200名から500名に及んだ。

航路のうち南島路あるいは五島列島を通って、東シナ海を横断するために、漂流・遭難の危険性は非常に高かった。

実際、6回もの遭難記録が残っている。

自然の猛威にさらされるばかりか、海賊に襲われたり、漂着した島では島民に殺されたりすることもあった。

平安王朝の華麗な文化は、こうした先人の苦難のうえに花開いたのである。」

さらに

「(この当時の)遣唐使の派遣は危険な航海を伴い、事実、派遣回数の三分の一は遭難している。」

「竹取物語(全)角川ソフィア文庫」参照。

湧現観音

更なる求法の為、遣唐使船で唐の国に渡る弘法大師空海、その弘法大師の乗船する遣唐使船に現れたとされる湧現観音

湧現観音

更なる求法の為、遣唐使船で唐の国に渡る弘法大師空海、その弘法大師の乗船する遣唐使船に現れたとされる湧現観音

波切不動明王

唐から日本に帰国する空海様の乗った船に暴風雨、荒れ狂う波がまさに空海様の乗った船に襲い掛かろうとした刹那、突如として洋上に巨大な不動明王が現れ、不動明王の持つ宝剣が荒波を切り裂き、空海様の乗った船を無事日本に帰国出来るよう助けたと伝えられています。

この時の不動明王は波切不動明王とされています。高野山に波切不動明王様がお祀りされています。

荒波の中を航海中の弘法大師空海様

各宗旨宗派の高僧との仏教討論の際、他の宗旨宗派の高僧が来世成仏を説く中、弘法大師空海様ただ一人だけが即身成仏を説き、各宗旨宗派の高僧達からその論拠を示せと迫られ、嵯峨天皇及び各宗旨宗派の高僧達の御前で即身成仏の境地に入り大日如来の姿に変化した弘法大師空海様(清涼殿において)

この現象について、書籍「密教誕生 桐山靖雄著 平河出版」の中で弘法大師空海様が現した奇瑞について著者である阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下は次のように説かれている。

「朕、空海の最尊最上の教を深く信ず。

さりながら、朕、密教にて説く即身成仏の現証を未(い)まだ見ず。」

と(帝が空海に問うと)

御声のもとに、空海は、静かに南面して結跏趺坐し、手に智拳印をむすんで口に密言(みつごん)を誦す。

心は六大平等観に住すると見る間(ま)に、身はたちまち紫磨黄金(しまおうごん)の膚(はだえ)となって、五色遍照の光明を放ち、頭(こうべ)に五智の宝冠を現じて、座は八葉の蓮華となった。

帝は、畏くも玉座から下り給うて、南無遍照金剛と御拝あらせられた。

各宗の賢哲たちも、居ならぶ朝臣等も、ひとしく平伏して、随喜讃仰の手を合わせた。

ややあって、空海は、ふたたび元の体にかえり、ここに、生仏(しょうぶつ)不二、凡身即仏の妙諦を如実に示したのである。」

天暦十年(九五六年)に著された「孔雀経音義」は、つぎのように述べている。

「仍(よ)って大師智拳印を結び、南方に向うに南門俄(にわ)かに開けて、金色の毘盧遮那を成じ、眉間に白毫相(びゃくごうそう)の光を放つ。

爰(ここ)に一人(天皇のこと)諸臣七宗の衆徒は驚いて地に下り、皆ことごとく礼拝す。

即ち本体に還帰す。

入我我入の諍、即身頓証の疑いはこの日より釈然たり。

真言瑜伽宗秘密曼荼羅之道は彼の時より建立す・・・・・。」

書籍「密教誕生 桐山靖雄著 平河出版」442頁~443頁参照。

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次に、鎌倉時代に活躍した日蓮宗の開祖である日蓮上人様(西暦1222年~西暦1282年)の霊験談に龍ノ口の奇跡という話がある。

日蓮上人様が当時の幕府や諸宗を批判したとして、佐渡流罪の名目で、鎌倉の松葉谷草庵にいた日蓮上人様を捕縛し連行。

翌日の(西暦1271年)9月13日子丑の刻(午前2時前後)、日蓮上人様を土牢から引き出し日蓮聖人様は、はだか馬に乗せられ、江ノ島片瀬 龍の口(たつのくち)刑場へと引かれていった。

途中、鶴ヶ岡八幡宮にさしかかったとき、日蓮聖人様は大声で

「八幡大菩薩はまことの神か・・・」と、法華経の行者を守る役目を果たすよう叱りつけました。

源氏の氏神を叱りつけたから、役人はびっくりし、あわてて馬を引き立てた。

鎌倉を引き回された後、日蓮聖人様は龍の口の刑場で敷物に座らされ、とうとうその首が刎ねられようとしていた。

いよいよ首を斬ろうと、役人が刀をかまえたその瞬間、江ノ島の南東から満月のように大きな光る不思議な光の玉が飛んできて北西へと飛び、日蓮聖人様の上に現れた。

そして頸を刎ねようとして太刀を大きく振りかざした武士を直撃し、役人は驚いて逃げ去り、太刀は三つに折れてしまい、その手足は動かなくなってしまった。

処刑どころではなかった。


「日蓮の首は斬れません。」と早馬が鎌倉に向かい、鎌倉からは「日蓮の首を斬るな!」との連絡があり、何かの理由により刑は中止されたという。

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この竜ノ口の奇蹟の話を本で読んだり、人の話で聞いたりすると、『観音経』の中の観世音菩薩普門品偈(かんぜおんぼさつふもんぼんげ)に説かれている次の経文を思い浮かべる。

「或値怨賊繞(わくちーおんぞくにょう)

各執刀加害(かくしゅーとーかーがい)

念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)

咸即起慈心(げんそくきーじーしん)

或遭王難苦(わくそーおーなんくー)

臨刑欲壽終(りんぎょーよくじゅーじゅー)

念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)

刀尋段段壊(とーじんだんだんねー)

或執禁伽鎖(わくしゅーきんかーさー)

手足被杻械(しゅーそくひちゅーかい)

念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)

釈然得解脱(しゃくねんとくげーだつ)」

ちなみに、『観音経』というお経は『法華経』の第二十五巻目に説かれているが、もともとインドにおいて観音信仰が盛んにおこなわれている地域があり、法華経の編集者がこの観音信仰に基づく「観音経」を取り入れたという説があります。

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次に、霊友会4代目の会長の大形市太郎氏は昭和20年8月に原子爆弾の被害を受け、その原子爆弾の熱線で全身大やけどをしたが、ある夜、信心深い市太郎氏の母親の夢の中に先祖が現れ、「おまえの息子の大やけどは私が教える場所の薬屋で私が教える薬を買い、その薬を全身に塗ればきれいに治る。」といわれた。

母親は市太郎氏にその話をして市太郎氏は「原爆で跡形もないであろう。」と思いながらも母が夢の中で見た先祖が言われた通りの道を行くと不思議にもその薬屋は原爆で破壊されていなかった。

そして、市太郎氏はその薬屋で先祖が言われた通りの薬を買い、母親にやけどをした全身の皮膚にその薬を塗ってもらった。

のちに、市太郎氏の友人たちは病院で治療を受けたが原爆のケロイドは残った。

しかし、市太郎氏にはケロイドは残らなかったという。

そのことが契機となり無宗教、無信心、無信仰者であった市太郎氏は「信仰の力、目に見えない力というものは確かにあるんだ。」と考え、その信心深い母親にお経の読み方を一から教えて欲しいと頼んだ。という。

次に、阿含宗の開祖、桐山靖雄大僧正猊下が1996年6月モンゴルのガンダン寺境内において桐山靖雄大僧正猊下、率いる阿含宗による国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要が厳修された。

この年のモンゴルは大旱魃で雨がほとんど降らず、モンゴル全土で山火事が200箇所以上で燃え広がり数ヶ月間燃え続けていた。

モンゴルは日本の国土面積の4倍近くあり広大な山火事にモンゴル人民は頭を悩ませていた。

阿含宗の桐山靖雄大僧正猊下とその信徒、約400名の方達がモンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国十一面観音菩薩開眼法要 世界平和祈願護摩法要を勤修した。

護摩修法が始まる前後、モンゴル全土において雨が降り出し護摩修法後には滝のような大雨が全土で降り、1996年の2月の下旬から約3ヶ月間以上続いていた山火事が法要後、5日間で消えてしまった。と書籍「祈りは天地を動かす」「モンゴル紀行」に書いてある。

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このモンゴルの奇跡について阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「阿含仏教 超奇跡の秘密 桐山靖雄著 平河出版社」の中で次のように書かれている。

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「当時、モンゴルでは昨年末からほとんど雨が降らず、大旱魃に陥っていた。

そこへ、2月から山火事、草原の火事が各地で起こり始め、5月には北海道と四国を合わせたほどの面積が消失し、なおも延焼中という状況であった。

国境を越えて中国領内にもかなりの被害が出ていたようであった。

7月に入らなければ本格的な雨季にならず、この大火災を消すほどの豪雨は望めなかった。

また、降ったとしても鎮火には最低1ヶ月はかかるだろうと報道され、周辺の諸国から憂慮されていた。

6月3日、首相官邸を表敬訪問した私(桐山靖雄氏)は沈痛な面持ちで「雨が降らないので困る。」と話されるジャスライ首相(モンゴル国)に対し「5日の日に行われる国立十一面観音の開眼法要に豪雨を祈るからきっと雨が降りますよ。」と言った。

ごく自然にその言葉が口から出たのである。

別に何の意気込みも気張りもなかった。

気の毒だなと思うと同時に「よし、雨を降らせてあげよう!」という気持ちになったのである。

「私が祈れば必ず雨が降る。」そういう確信があった。

彼(ジャスライ首相(モンゴル国))に「火事は必ず消えますよ。」帰りしなにそう付け加えた。

その夜、深夜、私(桐山靖雄氏)はホテルの一室に籠り、一人、定(瞑想)に入った。

法要の当日までおよそ30分ずつ続けるのである。

法力集中のためである。

その翌日から定(瞑想)に入っていると法が動き出していることを感じた。

実際に草原の彼方に厚い雲が集まり出し始めたのである。

6月5日、法要当日未明に雷鳴が轟き、豪雨が大地を叩いた。

続いて各地に大豪雨が降り続き、法要から5日後、日本の国土の4倍以上もあるモンゴル百数十箇所の大火災が全て完全消火した。

私のモンゴル訪問は前年の11月に決定し、すべてのスケジュールが組まれていたのである。

スケジュールになかったのは雨を降らせることだけだった。」

また、桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「阿含仏教 超奇跡の秘密 桐山靖雄著 平河出版社」の中でこのような奇跡、このような神変力について仏教語大辞典を引用され、次のように解説されている。

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「神変=仏、菩薩が衆生の教化のため、超人的な力によって種々のすがたや動作を現すことをいう。

神通に同じ。奇跡、あるいは奇跡を行なうこと。

奇瑞=古代インドでは、宗教的に高い境地に達した修行者は、しばしば超人的能力を現したという。

仏教では六通、三明とよび、これらの能力は、禅定とよばれる精神統一の副作用として得られるものと考えられていた。

また、神通は、「信仰の厚い、立派な男によって、奮闘の持続によって、不抜の意力によって、人間の力によって、人間の精神・人間の努力・人間の忍耐によって得られるべきもの」と経典に説かれている。

そういう心構えをもった者が、努力を重ねていくとき、その人間自身でも思いがけないほどの力を現すことがある。」と。

以上ような神通奇跡談について、パーリ仏典研究の碩学、水野弘元博士はその著書「原始仏教」の中で神通奇跡談について次のように説かれている。

「今日の合理主義的な考え方からすれば仏陀及び原始仏教が三明六通という奇跡的神通力を説いたことはいかにも仏教の合理性を没却したものであり、おそらく原始仏教では説かれていなかったものを新たに加えられた挿入の不純物に過ぎない。と考える学者がいる。

しかし、仏教を単なる科学や倫理や修養ではなくして宗教であると考える限り、このような神通奇跡の存在は仏教の宗教的要素として極めて価値があり、かつ必要なものである。

2500年の昔において仏教は今日の科学時代にも劣らない合理性や倫理性を有したのであるが、しかし、単なる合理性や倫理性だけではそれは宗教とはなり得ないであろう。

宗教である限り、自らの実践だけではなく、他をも絶対信に導き入れなければならない。

宗教を他の方々に対し教化救済する利他的な宗教面は三明六通というような神通奇跡によって得られるのである。

宗教が多くの人々に信じられていくのは神通奇跡によってである。

また仏教各宗の祖師と言われるような人々も多かれ少なかれ常人を超えた不思議な力を持った人であったに相違ない。」とある。

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さらにまた、修験道研究の碩学、五来重(ごらいしげる)博士は阿含宗の機関紙、月刊アーガマ(昭和55年5月号)紙上において次のように説かれている。

「修験道に関する説話や文学には、よく山伏の法験や「験競」(げんくらべ)がかたられている。

今ではそのようなことはありえない超人間的な事跡が伝えられるのは、禅定が真剣に実行された時代には、十分可能だったことをものがたるものであろう。

私は奇蹟がなければ宗教はありえないものと考えている。

奇蹟を否定して、ただ人生観と倫理観の問題を信仰だというのは、哲学であり道徳ではあっても宗教ではない。

宗教の近代化と称して、奇蹟を否定した理性的宗教を正信とし、奇蹟を信じるのを迷信とするのは、宗教の自殺である。」と説かれている。

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~西暦2016年)

 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~西暦2016年)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

大柴燈護摩修法中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(日本)

今から約2500年前、ブッダ釈尊が約18年間、人々を説法、教化した土地、場所とされているインド サヘト・マヘト(祇園精舎)。

1980年11月、インド サヘト・マヘトへの仏跡巡拝をされた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。当時、59歳)

インド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地

今から約2500年前、ブッダ釈尊が多くの人々の前で大神変力を現わしたとされているインド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地において強烈な仏勅、強烈な霊的バイブレーションを受けた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1980年11月8日、当時59歳)。

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インド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1980年11月8日 インド サヘトマヘト、当時59歳)

今から約2500年前、ブッダ釈尊が多くの人々の前で大神変力を現わしたとされているインド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地に立つ阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1980年11月8日、当時59歳)

そのインド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地において強烈な仏勅、強烈な霊的バイブレーションを受けた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。

阿含宗 観返り阿含 思念による王者の相承 ※映像切れあり※ (youtube.com)

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大柴燈護摩修法中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

(昭和57年)(1982年)(当時、61歳)

大柴燈護摩修法中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

(昭和57年)(1982年)(当時、61歳)

講演中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(日本)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(日本)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(日本)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(日本)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(日本)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(日本)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(日本)

1983年8月21日、チベット仏教で最も由緒ある格式の高い全ニンマ派の総本山の法主、大座主、管長でもあるミンリン・ティチン・リンポチェ猊下より一切萬霊守護金剛(あらゆる霊的存在の守護者という意味)という最高の法位、法号を授かる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

(昭和58年)(1983年)(当時、62歳)

スリランカのジャヤワルデナ大統領より真正仏舎利を授かる

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1986年スリランカ)

(昭和61年)(1986年)(当時、65歳)

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1990年1月 スリランカの古刹、マハー・マティンダ・ピリベナ寺から真正仏舎利を拝受される阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時69歳)

1992年11月2日、スリランカ仏教シャム派総本山より「輝く平和の大王」という法号を授けられる阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時71歳)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(日本)(1993年)

(当時72歳)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(日本)(1993年)(当時72歳)

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。

このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、76歳)

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、76歳)

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年、76歳)

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、76歳)

1996年6月3日、モンゴル全土で数ヶ月間続いている広大な面積の山火事で、北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失し、まさに国家的な危機状況の中、阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下がモンゴルのジャスライ首相に対し、「明後日のガンダン寺の法要で、観世音菩薩様に雨が降るようにお祈りします。

観世音菩薩様は必ず雨を降らせて下さいます。

必ず雨が降ります。」と祈りによって雨を降らす事を約束。

そして、モンゴル国ガンダン寺での護摩修法当日未明、ウランバートル市全域に一大雷鳴がとどろき、全市民を驚愕させた。

同時に、豪雨が大地を叩き、全市民を歓喜させた。

待望の雨の第一陣であった。

さらに、護摩修法後、桐山靖雄大僧正猊下は参拝者の方々の前で、十一面観世音菩薩様がこのように雨を降らせて下さったと語り、十一面観世音菩薩様の偉大なる神通力、お力を称賛された。

その護摩修法後、モンゴル全土ですさまじい雨が降った。

また、モンゴルの文化大臣がこの状況を目の当たりに見、「祈りの力がいかに偉大なものであるかを目のあたりに見て、心から驚嘆しました。」と述べた事を当時の現地の新聞記事が伝えた。

最終的に1ヶ月間は消えないであろうとされていたモンゴル全土の山火事が護摩修法後、モンゴル全土の大雨により6月5日の法要から5日後に山火事は完全鎮火した。

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モンゴル国 ガンダン寺 国立十一面観音世音菩薩像

モンゴル国 ガンダン寺 国立十一面観音世音菩薩様を描いたタンカ

モンゴルの森林火災の完全鎮火を知らせる新聞記事(1996年6月)

書籍「密教 超能力の秘密 桐山靖雄著 平河出版社」(1972年初版)参照

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印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1999年3月6日 当時78歳 インドにて)

印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1999年3月6日 当時78歳 インドにて)

印度聖地大柴燈護摩(1999年3月6日 インドにて)

印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1999年3月6日 当時78歳 インドにて)

印度聖地大柴燈護摩のご本尊釈迦如来像と真正仏舎利尊(1999年3月6日 インドにて)。

1999年3月6日の印度聖地大柴燈護摩のご本尊、真正仏舎利尊から発するご霊光。「一九九九年七の月よ、さらば! 桐山靖雄著 平河出版」参照。

印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1999年3月6日 当時78歳 インドにて)

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仏陀に成られた方の御遺骨(ごゆいこつ)を仏舎利(ぶっしゃり)とお唱え致します。

その仏舎利尊から発するご霊光は、今から約900年前、臨済宗の開祖、栄西禅師様(1141年~1215年)も宋の国への留学中、阿育王山  広利禅寺に参拝した際、仏舎利から発するご霊光を目撃した体験記が栄西禅師様の著書「興禅護国論」に記載されている。

(中国の阿育王寺にある真正仏舎利尊をお祀りする舎利殿)

また、今から約1100年前、天台宗の慈覚大師円仁様(794年~864年)は、自身の唐への巡礼紀行体験を記した書籍「入唐求法巡礼記」の中において、仏舎利から発するご霊光にまつわる体験記が書籍『円仁 唐代中国への旅 入唐求法巡礼行記の研究 エドウィン・O・ライシャワー著 田村完誓訳 講談社学術文庫』の中で次のように記されている。

「長年、法華経を読誦していた僧があった。

最近、いくつかの仏陀の遺品が彼に授かった。町中の人々は来て捧げものをした。

寺は僧俗であふれた。どれくらい大勢来たか分からないほどであった。

遺品を発見した由来は、経を読む僧が夜中に彼の部屋に座って経を読んでいると、三本の光が射し込み、部屋全体を輝かせ、寺全体を明るくした。

光りのもとを探すとそれは寺の西の崖のふもとから来たものであった。

毎晩、光はその部屋と寺を照らした。

数日後、僧は光を辿って崖に行き、地面を十フィート以上も掘り下げると、そこには仏陀の遺品を納めた三つの壺があった。

青い瑠璃の中には七粒の舎利があり、白い瑠璃の壺には五粒、金の壺には三粒あった。

彼はそれらを持ち帰り、仏堂に安置して供養を捧げた。

太原府と近郊の貴賤男女や役人たちは位の高いものも低いものもすべて来て尊敬を捧げ、供養した。

誰もがいった、これこそ僧の法華経に対する熱心さがもたらした不思議な力によるものである。と。

町から山へ来る人々は道を埋め、大群衆は礼拝し、驚嘆した。」

書籍『円仁 唐代中国への旅 入唐求法巡礼行記の研究 エドウィン・O・ライシャワー著 田村完誓訳 講談社学術文庫』299頁~300頁 引用。

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さらにまた、今から約1400年前、玄奘三蔵法師様(604年~662年)もインドにおいて仏舎利から発するご霊光を目撃した体験記が書籍『玄奘三蔵 西域・インド紀行 慧立 長澤和俊訳 講談社学術文庫』の中で次のように伝えられている。

「さて、ちょうどこのときは正月のはじめであった。

西国の法として、毎年この月にボードガヤの菩提寺では仏舎利を出し、諸国の道俗の人々はみなやってきて来観するならわしであった。

法師(玄奘三蔵)もその年は師のジャヤセーナとともに、舎利骨(しゃりこつ)を見に行った。

あるいは大きくあるいは小さく、大きいのは真珠ぐらいで紅白色に光り輝き、肉舎利は豌豆(えんどう)大で、赤色で光沢があった。

無数の人々が香花を奉献し、礼拝が終わると、その舎利は塔中に還しておくことになっていた。

その日の夜半、ジャヤセーナは法師(玄奘三蔵)とともに見た舎利が大小さまざまであったのを論じ

「私がほかの所で見た舎利は、みな大きさは米粒ぐらいのものであった。

ところがここで見たのは、非常に大きいものだ。

そなたはあれを見て疑わなかったか?」といった。

法師(玄奘三蔵)も、

「いや、じつは私も果たして本当の舎利かどうか、疑わしいと思っていました」と答えた。

するとしばらくして室内に灯火がないのに部屋の内外が非常に明るくなった。

怪しんで外に出てみると、舎利塔の中から空高く光を発し、飛炎天に沖して五彩に輝いていた。

そしてあたりには香気がみなぎった。そこで二人は人々に

「舎利に大神変が起こった。」と言った。

書籍『玄奘三蔵 西域・インド紀行 慧立 長澤和俊訳 講談社学術文庫』205頁~206頁 引用。

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次に、真言密教の第五祖、不空三蔵様(705年~774年、生地はインドもしくは唐国)が釈尊の仏舎利を禮敬する意を述べた文章に舎利禮門(しゃりらいもん)という経文を紹介する。

真言宗や曹洞宗などの宗派では法要、日々の勤行において舎利禮門(しゃりらいもん)を読経する場合があります。

その全文は以下の通りです。

舎利禮門(しゃりらいもん)

一心頂禮(いっしんちょうらい)
萬徳園満(まんとくえんまん)
釈迦如来(しゃかにょらい)
真身舎利(しんじんしゃり) 
本地法身(ほんじほっしん)  
法界塔婆(ほうかいとうば)  
我等禮敬(がとうらいきょう)   
爲我現身(いがげんしん)  
入我我入(にゅうががにゅう) 
佛加持故(ぶつかじこ) 
我請菩提(がしょうぼだい)   
以佛神力(いぶつじんりき)  
利益衆生(りやくしゅじょう)  
発菩提心(ほつぼだいしん)  
修菩薩行(しゅぼさつぎょう) 
同入園寂(どうにゅうえんじゃく)  
平等大智(びょうどうだいち)  
今将頂礼(こんじょうちょうらい) 

とお唱え致します。

仏舎利を祀る霊験功徳は多くの経典に説かれているが、その多くの経典のうち、代表的な経典、大般涅槃経と悲華経と蓮華面経において、仏舎利について次のように説かれている。

以下、書籍『守護仏の奇蹟 桐山靖雄著 平河出版社』『守護霊の系譜 桐山靖雄著 平河出版社』参照する。

大般涅槃経にいはく、

『天界に住む神々と、僧侶、在家の仏教徒は、仏舎利を得たら七つの宝で出来ている瓶に盛り、これを都城の内なる道地において七宝でできている塔を建立して仏舎利を供養するならば、生きとし生ける一切衆生に大いなる功徳をもたらし、三界に生存する三有の苦しみを離脱し、涅槃の安楽に至らせるであろう。

仏舎利を供養するということは、まさに生ける仏を供養することなのである。』

悲華経にいはく、

『衆生の福尽きて、三災(刀兵、飢饉、悪疫の三つの難)まさに現れ、経巻地に没して、衆生みな死に瀕する時が来る。

この時にあたって、仏舎利、金剛際より出でて、大虚空に昇って、種々の花を雨らす。

その花の中にもろもろの珍宝、名衣、百味の飲食を雨らす。その花の中に声を発して、法を説く。衆生、聞いてみな菩提心を発(おこ)す。』

蓮華面経にいはく、

『舎利の光明はるかに奈利(地獄)を照らす。

罪業の衆生、この光を受けて抜苦与楽すること、称計するべからず。』

書籍

『守護仏の奇蹟 桐山靖雄著 平河出版社』

『守護霊の系譜 桐山靖雄著 平河出版社』参照。

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ブッダが説いた「分かち合う事の重要性」と業報思想

西暦2020年の現在、全世界の人口の約1パーセントよりもさらに少ない、極めてごくわずかな少数の人たちが世界中のすべてのお金の約半分以上の桁外れな莫大なお金を所有、占有していると聞く。その中には一個人で数兆円、数十兆円もの資産、いわゆる一人の人間が小さな国の国家予算とほぼ同額のお金を所有し、一生かかっても使いきれない程の莫大な、桁外れな莫大な額のお金を所有する人がいる。

一方、それとは逆に、生まれてからこのかた十分な食事も満足に取れず、餓死したり、栄養失調に苦しみ、住む家すらなく、人知れず亡くなっていく人々も世界には多くいる。

仏教の開祖お釈迦様、ブッダ釈尊は仏教の聖典パーリ仏典「サンユッタ・ニカーヤ」(南伝大蔵経)において分かち合う事の重要性を次のようにお説きになられている。

「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い  また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等 それこそが、その人自身のものである。
人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。
それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。影が人に従うように。
それ故に善い事をして功徳を積め。功徳は人々のよりどころとなる。」

さらに、仏陀は次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ(南伝大蔵経)及び漢訳仏典雑阿含経において ブッダ(仏陀、等正覚者)はこうお説きになられている。

「悪行(悪い行為)をした者は肉体が滅んだ死後に苦悩・災いの世界、不幸な状態、煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」

「信仰もなく貪欲で利己的で悪い思いを抱き、誤った主義に生きて敬愛の心がなく、僧侶や托鉢をする人を嘲(ののし)り罵(あざけり)り心に怒り心を抱き食を乞う者に誰かが与えようとするのを邪魔する者。

このような人が死後恐ろしい煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」

以上、書籍「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤⅠ 中村元訳 岩波文庫」引用。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版」参照。

 

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版」参照。

地獄 獄卒絵

 

さらに、パーリ仏典において仏陀(ブッダ)は業報思想、いわゆる善因善果、悪因悪果の思想について自分自身、及び弟子たちの瞑想体験に基づき次のように説かれている。

「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、(そのもの自身が)堅固不動のものになると、かれ(修行者)は生き物達の死と再生について知る事(死生通)に心を傾け、心を向けるのです。

そして、かれ(修行者)は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知るのです。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。

とかれ(修行者)は知る。」と説かれている。

「原始仏典 第一巻 長部経典Ⅰ 翻訳 中村元 森祖道 橋本哲夫 浪速宣明 渡辺研二 春秋社」参照。

 

   書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部七 大東出版社」参照

   書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部七 大東出版社」参照

 

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

ところで、インドではお釈迦様が出生される数千年も前よりヨーガという文化的宗教が存在します。

そのヨーガについて書かれたヨーガ根本経典の中に業、カルマについて書かれた以下の章句がある。

「行為の結果には二種ありと知るべし。

天界と地獄とである。

天界はさまざまであり、地獄も同様である。

功徳ある行為の結果は天界であり、罪の行為の結果は地獄である。

万物の創生は行為の束縛によって成るもので、断じて他の何者でも無い。

天界においては生類は種々の楽を受け、地獄界においては耐え難い苦を受ける。

悪行の力で苦が生じ、善行の力で楽が生ずる。それ故に、楽を望む者はいろいろな善行を励んで行う。」

ここで説かれている行為の束縛とは業、すなわちカルマのことである。

前生において行った行為の内容によって、必然的に今生の運命の内容が定まるという思想はインドの根本思想の一つで、仏教もまたこの思想を受け継いでいる。

天地創生(天地創造)もまた生物全体の業の集計した力によって成されると考えられている。

以上、書籍「続・ヨーガ根本経典 佐保田鶴治著 平河出版」参照。

さて、仏教の行事には盂蘭盆会という行事があります。

この行事は餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事です。

餓鬼界とは生前もの惜しみ心が強くケチで人に親切でなく布施をしたりせず悪い事をした者が死後に生まれ変わっていく境涯であります。

餓鬼界には食物がほとんどなく空腹で苦しみ仮に食べ物があっても食べ物を食べようとすると火になって燃えてしまったりする。

そういった餓鬼界で苦しんでいる餓鬼達に食べ物を供養したり食事が出来るように餓鬼達を救う為の行事を盂蘭盆会や施餓鬼供養といいます。

餓鬼へのご供養をする為のご真言が仏教経典には書かれている。

真言には無量威徳自在光明殊勝妙力等の餓鬼を供養するご真言があるが施餓鬼の経典として有名な「仏説盂蘭盆経」「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼」等の経典に詳しく記載されている。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

白隠禅師(はくいんぜんじ)の施行歌(せぎょううた)

仏教やジャイナ教、ヨーガの教えに布施、施しを勧める教えが存在する。

その教えの根本には、因果応報の思想、いわゆる善因善果、悪因悪果の思想、

いわゆる、善い事をすれば未来においてその善い報いが自分に返ってくる。

その逆に、悪い事をすれば未来においてその悪い報いが自分に返ってくるという思想がある。

仏教国の日本において、江戸時代、禅宗の中の一つ、臨済宗に白隠禅師という高僧がいた。白隠禅師は臨済宗中興の祖と言われ、また、500年間不出の高僧とも言われた程の高僧であった。

             白隠禅師

その白隠禅師は自身の説く教えの中に、布施を強く勧める教えを歌にして多くの人々に布施の重要性を説いた。

以下、白隠禅師が説いたとされている施行歌を紹介する。


施行歌(白隠禅師作)

今生富貴する人は

前世に蒔きおく種がある

今生ほどこしせぬ人は

未来は極めて貧なるぞ

利口で富貴がなるならば

鈍なる人はみな貧か

利口で貧乏するを見よ

この世は前世の種次第

未来はこの世の種次第

富貴に大小あることは

蒔く種大小あるゆえぞ

この世はわづかのものなれば

よい種えらんでまきたまえ

たねを惜しみてうえざれば

穀物とれたるためしなし

田畑に麦稗(むぎひえ)まかずして

麦稗取ったるためしなし

麦稗一升まきおけば

五升や一斗はみのるぞや

しかればすこしの施しも

果報は倍倍あるものぞ

いわんやほどこし多ければ

果報も多しと計り知れ

それゆえお釈迦も観音も

施しせよとすすめたり

さすれば乞食非人まで

救うこころを発すべし

おのおの富貴で持つ宝

有ればあるほどたらぬもの

多くの宝を譲るとも

持つ子が持たねば持たぬもの

少しも田畑ゆずらねど

持つ子はあっぱれ持つものぞ

我が子の繁昌祈るなら

人を倒さず施行せよ

人を倒して持つ宝

我が子にゆづりて怨となる

人の恨みのかかるもの

ゆづる我が子に沈みきる

枡や秤や算盤や

筆の非道をし給うな

つねづね商いするひとも

あまり非道な利をとるな

死んで三途に入ることぞ

その身は三途に落ち入れて

屋敷は草木が生い茂る

非道は子孫の害となる

親の悪事が子に報う

世間に数々あるものぞ

一門繁昌することは

親が悪事をせぬゆえぞ

もし又親にはなれなば

ますます重恩思い知れ

子を慈しむ親心

あらい風をも厭ひしぞ

それほど親に思われて

親を思わぬ愚かさよ

親に不幸な人々は

鳶やカラスに劣りたり

娘むすこをしつけるに

惜しむ宝はなきものぞ

親の後生のためならば

その金出して施行せよ

飢え死ぬ人を助けなば

これに勝れる善事なし

たとえ満貫長者でも

死んで身につく物はなし

妻も子供も銭金も

捨てて冥途の旅立ちぞ

冥途の旅立ちするときは

耳も聞こえず目も見えず

ゆくえしらずに門をいで

闇を闇路に入ることぞ

その時後悔限りなし

兎に角命ある限り

菩提の種をうえたまえ

命は脆きものなれば

露の命と名づけたり

今宵頭痛がし始めて

九死一生なるもあり

強い自慢をする人も

暮れに頓死をするもあり

今日は他人を葬礼し

明日は我が身の葬礼ぞ

然らば頼み無き娑婆に

金銀蓄え何にする

富貴幸いある人は

貧者に施しせらるべし

貧者に施しせぬ人は

富貴で暮らすかいもなし

狗でも口は過ぐるぞや

飢饉貧者を助くべし

慈悲善根はそのままに

家繁栄の御祈祷ぞ

慈悲善根をする人は

神や仏にまもられて

天魔外道はよりつかず

然れば祈祷になるまいか

よくよく了見せらるべし

恵み施しならぬとは

余りどうよく目に余る

飢え死ぬ貧者を見ぬふりに

暮らす心は鬼神か

慈悲善根のなき人は

子孫繁栄長からじ

宝はあまりなきものぞ

施行で借銭し初めよ

それこそ真の信心よ

上たる人をはじめとし

頭立ったる人々は

われもわれもと共々に

厚く施行に身を入れよ

貧者の命救うなら

広大無辺の善事なり

平生貧者に敬われ

身につく果報はあるまいか

人に食い物すつるのを

好んで拾って食う者は

前世に種まきたらぬゆえ

是非なく袖乞いすることぞ

かかる有様見ながらも

おのおの仁心起こらぬか

とにもかくにも人として

信心なければ人でなし

この節信心おこらねば

まったく牛馬にことならず

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お釈迦様が説く布施の重要性。

仏教の開祖、お釈迦様の言行録として世界的に有名なダンマパダ(法句経)の中に、布施をすることの重要性が次のように説かれている。

「善い人々は僅(わず)かであっても、正しく、わかち与えるならば、多くの人々に勝つ。

ただ物をくれてやることが勝つのではない。

たとい、僅(わず)かなものであっても、信仰心をもって与えるならば、この人は来世において安楽となる。

分かち与えることと戦闘とは相等しいと人々は言う。

これらの美徳は悪人には存在しない。

人々にわかち与える時は、戦闘の時のごとくである。

その原因をまとめて言うならば(いずれも他と)等しいであろう。

執着する心がなくて施しを与える人は、幾百の障害に打ち勝って、敵である物惜しみを圧倒して勇士よりもさらに勇士であると、われは語る。

福徳の果報が熟するのは楽しい。 希望する事が成就する。

そうしてその人は速やかに最高のやすらぎ、覆いの解きほぐされた(解脱)の状態におもむく。

福徳を積んだ人に対しては、悪魔の身をとった神々も、他から害をなすことも、障りをなすこともできないであろう。」

書籍「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波文庫」269ページ~270ページ引用。

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また、舎利礼門というお経の中に

万徳円満、釈迦如来という文言が出てくるが、

仏様、お釈迦様は、万(よろず)の徳が全て備わっている存在といわれている。

仏教の教え、おしゃかさまの教えの中に、田んぼや畑(はたけ)に種子(しゅし)を撒(ま)くと実が成り、収穫があるように、仏,僧,父母,貧窮者などに布施をすると,未来に功徳が得られ、その布施する対象、いわゆる、福田という事を教えている。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

ふくでん【福田】 とは仏教用語であり、福徳を生み出す田地の意味である。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八巻 大東出版社」

仏教の平和主義、寛容主義とキリスト教を比較検証する。

インド学、仏教学の世界的権威である今は亡き、中村元博士は仏教は暴力や武力を使わないで世界に広まった数少ない宗教の一つであると言及されている。

仏教はキリスト教と比較すると著しく平和的で寛容的であると思われる。

書籍「パール博士「平和の宣言」ラダビノード・パール著 田中正明 編著 小学館」の中で次のような文章がある。

「現代の偉大な思想家であるオルダス・ハクスレーは次のように指摘している。

7世紀の初め、インドを訪れ、14年間滞在した時の詳しい記述を残しているシナの行脚僧、玄奘三蔵は次の事実を明らかにしている。

すなわち、ヒンズー教徒と仏教徒は一緒に住んでいても何ら暴力沙汰を起こさなかった。

彼らはお互いに、一方が他方を改宗させようとしたが、そのための手段として用いたのは説得と論争とであって、力によるものではなかった。

ヒンズー教も仏教も決して宗教裁判に該当するような何者によっても損なわれてはいない。

また、ヨーロッパの十字軍のような非道や、16世紀17世紀の宗教戦争のような犯罪精神病などの罪に問われることもなかった。

だが、ヴェーダの宗教はさておき、何人も仏教に対してこの異常な寛容の徳を否定することはできない。

オルダス・ハクスレーは言う。

インドの平和主義はブッタの教えに完全に表現されている。

仏教もヒンズー教も同様にアヒムサ、すなわち、生きとし生けるものを損なわないということを教えている。

世界のあらゆる偉大な宗教の中でただ仏教のみが、迫害も、検察も、宗教裁判も無しに栄えていった。

これら、すべての点で仏教の経歴はキリスト教のそれに比べて非常に優れているということができる。

キリスト教は軍国主義と結合した民衆の間で旧約聖書の野蛮が青銅時代の文学に訴えることにより信徒の血に飢えた性行を正当視することができた。

仏教徒にとっては怒りは常にそして無条件的に恥辱である。

エホバを神と同一視するように訓練されたキリスト教徒にとっては、正当なる義憤というようなものがある。

この義憤が正当なものであり得るということのおかげで、キリスト教徒が次々に戦を起こしたり、この上なく忌まわしき虐殺を起こすことを正当と思い込んできたのである。」

書籍「パール博士「平和の宣言」ラダビノード・パール著 田中正明 編著 小学館」参照。

 

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布教伝道とホームページやインターネットについて考える

昔、インターネットがなかった時代、昔の僧侶たちは、お釈迦様もそうであるが、自らの足で長い距離を歩き、不便さ、不自由を忍び、一人一人に教えを説いたこともある事を考えれば、現代はインターネット、パソコン、google ,ホームページを作成するブログ、ワードプレスなどがあり、それで自分の意見、信条など世界に向けて自由に発信、発表できることは非常にありがたい。非常に恵まれた時代でもある。

インターネットはアメリカで当初、軍事目的で開発されたが、このように多くの人々に利便性を与え、特に、自分自身の信条、信仰などについて自由に発信、発表できることは非常にありがたい。

特に、欧米の科学者、技術者の貢献が大きいかもしれない。

過去、科学技術は軍事転用され焼夷弾、原子爆弾などを生み、多くの人々を殺戮したが、このように人間の科学技術が人々の幸福の為に使われるのは良いことだと思う。

宗教が重視する瞑想についての話

真言宗には阿字観という瞑想法があり、
天台宗には摩訶止観という瞑想法がある。

密教の修行法においては精神統一を表す言葉として三摩地(さんまじ)、定(じょう)という言葉がある。

さらにヨーガにおいては精神集中の高まり、瞑想の段階過程として

制感(せいかん)、

凝念(ぎょうねん)、

静慮(じょうりょ)、

三味(さんまい)という段階がある。

凝念、静慮、三味をまとめて綜制(そうせい)ともいう。

仙道においては精神集中、精神統一の修行法として内部統覚法、外部統覚法という修行法がある。

世界的に有名な歴史学者アーノルド・トインビー氏は

「現代西洋文明の危機を救う方法は東洋に伝わる瞑想である」という言葉を残されている。

その瞑想についての話であるが、1900年代、インドに住むゴーピ・クリッシュナという名前の在家の妻子ある男性が毎朝、17年間にわたり精神集中を主体としたヨガの瞑想の修業を積んできた。

その男性が1937年12月のある朝、瞑想中に突然クンダリニー覚醒というヨーガにおいてかなり高度な覚醒体験 神秘体験をした。

又、その後の自身の肉体的、精神的な変化及び、その後46才頃、詩人としての才能が突然芽生えた。

その体験が「Kundalini: The Evolutionary Energy in Man (English Edition) 」という書籍として出版された。

この書籍は、1967年頃に出版され、当時、欧米の人々の注目を集め、特に、心理学 生理学 、医学 哲学の専門家達の注目も集めた。

また、当時、この書籍はアメリカ、ヨーロッパでも話題になり、この書籍がきっかけで多くのアメリカやヨーロッパの若者たちがヨガや瞑想を志した。

この書籍は日本でも1980年代に「クンダリニー」という書名で平河出版社から出版されている。

次に、インドの哲学者であり政治家でもあり近代インドを代表する思想家でもあったラーダークリシュナン氏は著書「Eastern Religious and Western Thought」において次のように説かれている。

「孤独における魂は、宗教の誕生地である。

淋しいシナイ山のモーゼ、菩提樹のもとで禅定にふけったブッダ、

ヨルダン川のほとりで静かに祈ったイエス、

砂漠に独りとどまっていたパウロ、

メッカの孤立せる塚にあったマホメット、

アルヴェルノ高地の岩石のうちにあって祈ったアッシジのフランシスは実在する神の力と確信を見出したのであった。

宗教における偉大な新しい創造なるものは、ことごとく、静かなる祈り、孤独なる瞑想にふける魂の測り知れざる深淵から現れ出るのである。」と。

次に、仏教の開祖、仏陀釈尊は孤独で静寂なる環境での深い瞑想により大いなる悟りを得られたが、静かなる環境における孤独な祈り、孤独な瞑想が重視されているように思われる。

パーリ仏典のダンマパダ(法句経)において次のように説かれている。

「修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を越えた楽しみが起こる。」

「実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。

心が統一されないならば豊かな智慧がほろびる。

生じることと滅びることの二種の道を知って豊かな智慧が生じるように自己をととのえよ。」

「憎む人が憎む人に対し、恨む人が恨む人に対してどのような事をしようとも、邪なことを目指している心はそれよりもひどい事をする。」

「母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れた事を、正しく向けられた心がしてくれる。」

つまり禅定の完成と智慧の完成の重要性が説かれている。

また、仏陀釈尊は特に瞑想に入っていない日常の精神状態であっても禅定にあるのと同じように無念無想の精神統一を得られていたとされる。

阿含経に

「那伽(ナーガ)は常(つね)に定(じょう)に在(あ)り。」という一節がある。

実際に仏陀釈尊は禅定の熟達者であったと経典に伝えられている。

この経典の中で那伽(ナーガ)とは仏陀釈尊を意味する。

定とは瞑想、禅定を意味している。

また南伝大蔵経の増支部経典において

「那伽(ナーガ)は行(ゆ)くにも定(じょう)にあり、

那伽(ナーガ)は立(た)てるも定にあり、

那伽(ナーガ)は臥(ふ)すにも定にあり、

那伽(ナーガ)は座(ざ)せるにも定にあり」とある。

また漢訳仏典の中阿含経118の龍象経においても

「龍行止倶定、坐定臥亦定、龍一切時定、是謂龍常法」とある。

仏典中の龍(竜)とは優れた修行者を意味する事もある。

この経典の中の那伽(ナーガ)、龍(竜)とは仏陀釈尊を意味する。

龍(竜)をサンスクリット語でナーガと云う。

釈尊の覚醒の課程は三夜にわたる智の開眼、智慧の獲得で説明される。

第一夜(初夜 夜6時~夜10時頃)において釈尊は瞑想によって自らの百千の生涯、幾多の宇宙の成立期、破壊期、成立破壊期を残らず想起した。

第二夜(中夜 夜10時~夜中2時頃)において天眼、清浄で超人的、神的な透視力により生き物達が無限の生死循環、輪廻転生を繰り返す様を見透す。

第三夜(後夜 夜中2時~朝6時頃)において「一切、輪廻転生の本質は苦である」という認識を得、縁起の法を悟って覚醒、漏尽解脱、智慧解脱の完成を得た。

パーリ仏典において仏陀(ブッダ)は次のようにお説きになられている。

「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、そのもの自身が堅固不動のものになると、

修行者は生き物達の死と再生について知る事、死生通に心を傾け、心を向ける。

そして、修行者は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知る。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。

と修行者は知る。」

また、書籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」という書籍がある。

この書籍において、著者の修山脩一教授は本来、仏教は禅定を重視し、また、輪廻転生思想が土台になってその教義が成立している事に言及、特に禅定、輪廻転生に関する内容が多くの大蔵経を引用し、かなり専門的に書かれており学術的に非常に興味深く、示唆に富んだ内容に満ち溢れている。

書籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照

書籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照

書籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照

書籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照

書籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照

さて、仏教にとって人間に生まれてくる事は非常に良き生まれであると説く。

人間にとって神々に生まれる事は良き生まれであるといわれるが、神々にとっては人間に生まれる事が良き生まれであるといわれている。

輪廻転生の世界では衆生(生き物達)は地獄界や畜生界に生まれ替わる方が人間界に生まれ替わるよりも圧倒的に多いと仏典では説く。

(阿含経 増支部経典)

仏教の目的はこの輪廻転生からの脱出を説きます。

本質的に仏教はこの六道輪廻の世界を苦しみの世界とみなしそこからの離脱を目指します。

仏典に修行を完成した表現として

「現法の中において、自身作證し、生死已に盡き、梵行已に立ち、所作すでに辨じ、自ら後生を受けざるを知る、すなわち阿羅漢果を得たり」とあります。

(阿含経 長部経典)

インドにはお釈迦様が出生される数千年も前よりヨーガという文化的宗教が存在します。
そのヨーガについて書かれたヨーガ根本経典の中に業(カルマ)について書かれた以下の章句があります。

「行為の結果には二種ありと知るべし。

天界と地獄とである。

天界はさまざまであり、地獄も同様である。

功徳ある行為の結果は天界であり、罪の行為の結果は地獄である。

万物の創生は行為の束縛によって成るもので、断じて他の何者でも無い。

天界においては生類は種々の楽を受け、地獄界においては耐え難い苦を受ける。

悪行の力で苦が生じ、善行の力で楽が生ずる。

それ故に、楽を望む者はいろいろな善行を励んで行う。」

ここで説かれている行為の束縛とは業、すなわちカルマのことである。

前生において行った行為の内容によって、必然的に今生の運命の内容が定まるという思想はインドの根本思想の一つで、仏教もまたこの思想を受け継いでいる。

天地創生(天地創造)もまた生物全体の業の集計した力によって成されると考えられている。

良い行いをする事を徳を積むといいます。

悪い行いをする事を不徳を積むという。

良い行いを積み重ねる、 善行を積み重ねる事。

その徳の積み重ねが自分自身の幸福の基、福徳の原因となります。

仏舎利(仏陀のご遺骨)を賛嘆、称賛する舎利礼文(しゃりらいもん)というお経に万徳円満 釈迦如来という文言があります。

万(よろず)の徳、全ての徳が完全円満に備わっている釈迦如来という意味であります。

如来とは真理(真如)の世界から来られた方、悟りを開かれた方、仏陀と同じ意味の事であります。

仏道修行者の究極の目標はその万徳円満である釈迦如来、つまり仏様、如来、仏陀に成ることです。

パーリ仏典サンユッタ 二カーヤにおいてブッダは次のように説かれている。

生きとし生ける者どもは(寿命が尽きて)いつかは(必ず)死ぬであろう。

生命はいずれ死に至る。

かれらは死後に自己の作った業(自己の行った行為の内容)に従って各所に赴いてそれぞれ善悪の報いを受けるであろう。

悪い行いをした人々は死後において地獄(大いなる苦しみ悩み痛みに満ちた世界 悪い世界)に生まれ赴き

善い行いをした人々は(死後)善いところ(幸福、平和、快楽、安楽の世界 善い世界)に生まれ赴くであろう。

その為に来世(自分の魂が死後に生まれて変わって行く世界 死んでから自分が再び生まれ変わる世界)の幸福、平和、安楽の為に現世(現在生きているこの世界)で善い事をして功徳を積まなければならない。

人々が作ったその功徳はあの世で人々のよりどころとなる。

仏教の根本的な教え、ブッダ、真理に目覚めた等正覚者達の最も重要な教えとは「よいことをせよ。わるいことはするな」という倫理、道徳の実践の教えであるといえる。

漢訳仏典において
「諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」 という七仏通誡偈がある。

またパーリ仏典の法句経(ダンマパダ)には

「一切の悪をなすことなく、善を具備実践し、自分の心を浄化すること、これが諸仏(真理に目覚め、ブッダとしての悟りをお開きになられた覚者達)の教えである」

とある。

雑阿含経に爪甲経(そうこうきょう)というお経がある。その概要は

「ある日釈尊は釈尊自身の手で大地の土を拾い釈尊自身の手の爪と手の甲の上に土を乗せて諸々の比丘(修行者)に次のように尋ねられた。

「諸々の比丘(びく)よ。私のこの手の爪と手の甲の上に乗っている土の量とこの大地の土の量とでは土の量はどちらが多いか?」

諸々の比丘は次のように答えた。

「世尊(釈尊)よ。世尊(せそん)の手の爪と手の甲の上に乗っている土の量はこの大地の土の量と比べるならば比べものにならない程ごくわずかな量です。」

釈尊は続けてこのようにお説きになられた。

「諸々の比丘よ。もし肉眼で見える生き物たちの数をこの手の爪と手の甲の上にある土の量とするならば、その形が微細で肉眼では見えない生き物たちの数はこの大地の土の量のように膨大に存在する。

比丘たちよ。未だ無間等の悟り(仏陀の悟り)に到達しない者は努めて無間等(むけんとう)の悟りに至るよう努力せよ。」


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阿含経についての話

日本の仏教は千年以上の長きにわたり阿含経を劣った小乗経典つまり自分だけの悟りを求め自己のみが救われる事を目指す利己的でレベルの低い卑しい経典とみなされていた。

また、出家しなければ救われない出家仏教の経典ともいわれてきた。

その為、日本において阿含経に対する研究や信仰はほとんどなされなかった。

今から約1400年以上前の中国において、天台大師智顗が立てた五時教判という教相判釈があるが、その教相判釈によると法華経、涅槃経が最も高い大乗の教えであり阿含経は最も低い小乗の教えであると結論づけされている。

その天台大師智顗が立てた経典判尺はすべての漢訳仏典を釈迦一代で全て説いたものと考えた。

まず、釈迦が悟りを開いた後、人々に華厳経を説いた。

しかし、あまりにもその内容が純粋過ぎ人々には理解されなかったので、釈迦は最初は一番程度の低い卑近な阿含経の教えから説いていき、それから、年を経る程、順次、般若経などのお経を説いていき、釈迦の晩年の時代、一番内容の高い、最高の教えであり、真実のお経である、法華経、涅槃経を説いたと智顗は考えた。

この天台大師智顗が立てた経典判尺により、天台の最澄、日蓮が法華経を所依の経典として天台宗や日蓮宗という一宗を立てた。

        天台宗開祖 伝教大師 最澄

また、日本の仏教ではその影響を受け、法華経が広く信仰されるようになった。

最近では真言密教系の教団、真如苑も涅槃経は釈迦が最後に説いた真実で最高の教えであると涅槃経を所依の経典として重視している。

しかし、現在、世界の仏教学界においてはこの智顗の教相判釈は否定されている。

また、近年、文献学の目覚しい発展、パーリ語、サンスクリット語等の原語での仏典研究、著しい学術的進歩により阿含経典こそが仏教の開祖お釈迦様が実際にお説きになった内容、もしくは極めて近い内容の経典であると学問的に認められている。

このことについて、「地獄の思想―日本精神の一系譜 (中公文庫)」という書籍で梅原猛教授は

「釈迦の説法集が出来上がったのはむしろ釈迦の死後である。

釈迦の死後に様々な経典が作られた。

そしてその経典の中には釈迦の説というより弟子自身の説が混じるようになる。

後世の人々が釈迦の名において勝手に自己の学説を正当化する経典を作るようになる。

かくして仏滅後五百年も六百年も過ぎて、なお釈迦の名において多数の経典群が作られていく。

そして謎の人、釈迦の正体を解いたのは、ヨーロッパの近代文献学にもとずく仏教学であった。

文献学的な方法にもとずく仏教学は経典の成立年代を大体、考証的に明らかにした。

そして釈迦の正説は、従来、日本においては、小乗と卑しめられてきた阿含部経典や律部経典にあることが分かったのである。

これは伝統的な仏教家にとっては大きなショックであるはずであった。

なぜなら、彼らが千数百年来、崇拝してきた仏教の経典が、釈迦の説ではなく、後世の説であり、彼らが卑しんできた経典こそ釈迦の説であることが明らかになったからである。

もしこのことを知ったら、親鸞や日蓮や道元はどのように驚いたであろうか。」

また、仏教学者の平川彰博士は仏教経典の阿含経について自身の著作である「インド仏教史 上 〈新版〉」という書籍において以下のように書かれている。

「阿含経はアーガマ、つまり伝わったもの、伝承されたものとも呼ばれ、仏陀釈尊の直接の教えが伝承されたものであることを示している。

しかし、これらの経典(阿含経)は仏陀釈尊の死後、仏陀釈尊の直弟子、仏陀釈尊の高弟達の記憶によって仏陀釈尊の教えの内容がまとめられ、又、経典として書きとめられ伝来された為、伝承の間に仏陀釈尊の弟子の理解や解釈が付加され増広され、仏陀釈尊直説の教説が多少変化を蒙ったことは避けられなかったもしれない。

厳密に考察すると阿含経は仏陀釈尊の教えそのものではないかもしれない。

しかし、幾多の仏教諸経典の中で阿含経は仏陀釈尊の教えの内容を最も含んでいる経典であり仏陀釈尊の思想を求めるとすれば先ず阿含経の中に求められなければならない」とある。

さらに、パーリ仏典研究の世界的権威、(故)水野弘元博士は仏教経典の源流について自身の著作「経典はいかに伝わったか―成立と流伝の歴史」において次のように説かれている。

         パーリ仏典研究の世界的権威、水野弘元博士

「大乗仏教の般若の空思想や菩薩の波羅蜜の修道法もその源泉、源流は阿含経の中にあります。
インド大乗仏教の祖師と云われる龍樹菩薩や世親菩薩の著作において阿含経の教説は大乗の教説と並べて権威的な典拠として扱われ龍樹菩薩、世親菩薩の著作においてしばしば阿含経が引用されています。」

 

さらにまた、書籍「バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)」の中で著者は次のように書かれている。

「現在のアーガマ(阿含経)をそのまま釈尊の教えに直結することはあまりにも短絡化しすぎており、今日の仏教学からすれば、むしろ誤りとみなされる。

 ただし釈尊の教えと佛弟子たちの言行録などは、そして、最初期、ないし、初期の仏教の資料はアーガマ(阿含経)にしか存在していないのであり、大乗経典(これを日本人は釈尊の教えそのものと誤解し受容してきた。)には求むべくもないことが明白である以上、何よりもまずアーガマ(阿含経)の解明に専念する仏教文献学が必要不可欠の前提とされる。

そして、それは近代学問として、すでに100年以上の年月を刻んで今日もなお継続している。」

さらに、

「現在の日本には、約7万5000余と言われる仏教寺院で読誦されるお経は、開祖の釈尊の阿含経典は全く顧みられず、開祖である釈尊とは異なる別の仏による大乗のお経の一節であり、そればかりか、その大部分は宗祖に準ずる特記すべき高僧の文がお経として敬われ、読誦され続けている。

 例えば、日本最大の宗派の浄土真宗の場合、大乗経典の浄土三部経、いわゆる無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の一部のほか、宗祖である親鸞の主著、教行信証、行巻の末尾にある正信偈、もしくは、真宗中興の祖とされる蓮如の御文がその宗のお経であり、曹洞宗では大乗経典の般若心経や法華経の一部のほか、宗祖の道元の主著の正法眼蔵から、本来は明治時代に在家信者向きにダイジェスト化したテキストの修証義がお経として読誦されていて、それにより日々の勤行から諸種の行事、仏事、法事までの全てが進行する。

他の宗派においてもほぼこれに準ずる。

 親鸞、蓮如、道元、その他の諸宗祖などは、いずれも、ひときわ偉大な高僧であり、かつ学僧であるとはいえ、彼らは特定の論師であって仏ではない以上、厳密に言えば、これらの人々の著述は経に属するのではなくて、論のカテゴリーに入る。

 それでも日本では、それらがお経とされていて、何人も疑わず、異議を挟むものもいない。」と書かれている。

また、江戸時代に富永仲基という市井の学者がいた。

本居宣長も絶賛する程の学者であったが、この学者は漢訳仏典を全て読破した結果、加上説という説を唱えた。

つまり、漢訳仏典はすべて釈迦が説いたものではなくて、加上、つまり、後代にわたって書き加えられたものが最終的に現在の膨大な漢訳仏典になったという。

彼の説では、釈迦は自分自身、経典を書いたりはしなかった。

そして、釈迦の死後、多くの優れた弟子たちが釈迦の教えを文字に残しておくべきだと考え、弟子の摩訶迦葉が座長になり、約500人の仏弟子と共に、わたしはこのように聞いたという文言、すなわち、如是我聞という文言から始まった多くのお経が作られた。

その時にまとめられたのが阿含経であり、それから500年後に大乗仏教運動が興起し、法華経、般若経、阿弥陀経などのお経が作られ、そして釈迦の死後、約1000年後頃には大日経、金剛頂経などの密教経典が作られたという。

富永仲基氏の結論は釈迦が実際に説いた内容は阿含経のごく一部であったという。

ところで、昔の大蔵経の並ぶ順番は華厳経が先ず一巻目であった。

華厳経が一巻目の理由としては、おそらく天台大師智顗の五時教判に基づくものであると思われる。智顗の考えでは釈迦が最初に説いたお経は華厳経と考えている。

しかし、現代の大蔵経の順番は阿含経が一巻目になっている。

おそらく、五時教判より現代仏教学の見解が正しいと考え、並び方を変えたのではないかと思われる。

龍谷大学 大宮学舎などの仏教系大学の図書館に行けば昔の大蔵経の順番は華厳経が一巻目である事が確認できる。

近所に最新版の大蔵経が置いている大型書店があれば阿含経が一巻目であることを確認されてみたらいかがであろうか。

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キリスト教国と仏教国の言動を比較検証する

旧約聖書の中に、殺人、殺戮を肯定するような文章がある。

例えば、旧約聖書の「出エジプト記 22-18」に

「魔女を生かしておいてはいけない。」などの記載がある。

中世ヨーロッパにおいてキリスト教会が一般の人々を魔女に仕立て上げ、数十万人の人々が処刑された。

また、旧約聖書には羊などの動物を生贄にし神に捧げる儀式を解説した文章などもある。

哲学者のニーチェはキリスト教会の裕福な牧師の息子として生まれたが、ニーチェはキリスト教の残虐性を指摘、キリスト教を邪教として見ていた。

旧約聖書の中にはモーゼの十戒の中に

「汝、殺すなかれ」

という言葉、戒律がある反面、

聖絶思想、

いわゆる主のことばの中に

「根絶やしにしろ!」

「皆殺しにしろ!」というような過激で暴力的な言葉が出てくる。

ユダヤ教徒はその旧約聖書とタルムード(言行録)とトーラー(律法)を聖典としている。

キリスト教徒は新約聖書と旧約聖書を聖典として信仰している。

イスラム教徒は旧約聖書と新約聖書とコーランを聖典として信仰している。

世界にはキリスト教徒は約20億人、

イスラム教徒は約12億人、

ユダヤ教徒は2000万人いるとされている。

旧約聖書には過激な暴力性や残虐性に満ちた言葉がその聖典の中に出てくる。

その旧約聖書を聖典として信仰する信者が三十数億人もいるとすれば、かつて世界大戦で起きたような大量殺戮、大量虐殺、ホロコースト、ジェノサイド、いわゆる大量殺人が起きる可能性がまた出てくると思われ、心配でならない。

ところで、十字の形はキリスト教を象徴するものであるが、昔、キリスト教徒がエルサレムをイスラム教徒から取り戻す為に十字軍という軍隊を編成し、何度も遠征し戦争をし、何度も大量虐殺を行ったが、歴史を調べると、その十字軍の行ってきた蛮行、残虐な行為、虐殺行為はあまりにも凄まじく、ひど過ぎる。

特に女性や子供に対しての凌辱行為も酷い。

また、キリスト教会による組織的な魔女裁判による大量虐殺。

一般の普通の人々を魔女であると言いがかりをつけて多くの女性を殺した魔女裁判による大量虐殺も然り。

一説によると30万人とも言われる大量の人々が虐殺された。

さらに、ヨーロッパからやってきたキリスト教徒たちによる膨大な数のインディアンの大量虐殺。

キリスト教徒によるインディアン虐殺

一説には2000万人ものインディアンが殺されたと言われている。

キリスト教徒によるインディアン虐殺

キリスト教徒によるインディアン虐殺

かつて、欧米諸国は多くの国を植民地化し多くの数々の収奪、搾取、略奪行為を行っていた。

スペイン人によるインカ帝国の人々に対する残虐非道な大量虐殺、大量略奪。

「インカの反乱」という書物を読んで、人間がここまで残酷になれるものなのか?

人の面をかぶった悪魔の仕業である。とこの書籍を読んで強く感じた。

インドネシアはオランダから約350年間、オランダの植民地として長い期間、収奪、略奪されてきた。

また、欧米諸国はアフリカ諸国などの数多くの国々から奴隷として多くの人々を連行し人身売買をしてきた。

イギリスには大英博物館があるが、イギリスはかつての多くの国々を搾取し収奪していた植民地時代に、多数の国々から略奪、強奪したが、大英博物館にはその略奪品、盗難品を展示している感がある。

次に、第二次世界大戦の末期、イタリアが降伏し、日本の敗戦も決定的になろうとした1945年8月9日、突如、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破り、日本に宣戦布告。

多くの日本人がソ連の兵士から虐殺、略奪を受け、終戦後にはシベリアへの強制労働に従事させられ多くの日本人が亡くなっている。

また、これはあまり知られていないが、ソ連についでイタリアも日本に宣戦布告している。

1945年8月15日の敗戦後、宣戦布告してから数日程度しか経っていないのにも関わらずイタリアは日本に対して賠償金の請求をしている。

そのような行為はある意味、火事場泥棒的な印象を受ける。

そのイタリアにキリスト教の本家本元であるバチカン市国がある。

これら欧米列強の国々はほとんどキリスト教国で仏教を信仰する国ではない。

さらにまた、悪魔の兵器のような原子爆弾を日本に投下し、多くの人々、女子供を含む人々を無差別に大量虐殺したのもキリスト教国である。

原子爆弾の爆発

1945年8月6日にアメリカ軍の戦闘機B29は日本の広島にウラン型原子爆弾を投下した。

また、1945年8月9日にもアメリカ軍は日本の長崎にプルトニウム型原子爆弾を投下した。

それにより女、子供などの非戦闘員を含む数十万人の人々が突然、無差別に、一瞬のうちに、焼け死んだ。

建物の殆どが崩壊し跡形も無く、消え去った。

また、数十年にわたり原爆の後遺症に苦しむ人々が多数いた。

原子爆弾による大やけど

原子爆弾による死者

原子爆弾による死者

原子爆弾による死者

原子爆弾による死者

原子爆弾によって殺された日本の子供の死体

原子爆弾によって大やけどをした

日本の少女の体にできた全身のケロイド

最近、私は著名なジャーナリスト、ベンジャミン・フルフォード氏が書いた書籍「マネーカースト 世界経済がもたらす「新・貧富の階級社会」という書籍を読んだ。

その書籍の中に、欧米系ハザールマフィアが郵政民営化やプラザ合意を強引に、力ずくで日本に押し付け、それにより日本国民が所有する何百兆円という莫大な資産を収奪、略奪したことが書かれていた。

ちなみに1兆円がどの程度のお金かというと、日本国民の人口1億人とすると1人当たり1万円を徴収すると1兆円になる大きなお金。

ところで、日本の予算、会計には一般会計という会計とそれとは別に特別会計という一般会計の何倍もの予算のあるお金が日本の予算にはある。

かつて民主党の石井紘基議員がその日本国民にはほとんど知られていない特別会計の莫大なお金が不正に流れている事、一説にはその莫大なお金が海外に流れている事を発見し、石井紘基議員はその事を国会で発表しようとした。

その数日前に何者かによって殺されたという話を本で読んだり、話を聞いたことがある。

また、アメリカからの様々な要求に大変従順であった小泉純一郎元内閣総理大臣、

同じようにアメリカの要求に大変従順であった中曽根康弘元内閣総理大臣、

同じようにアメリカの要求に大変従順である安倍晋太郎現内閣総理大臣

彼らの政権は非常に長期に渡り安泰を保っていた。

2019年11月3日現在の安倍政権もかなりの長期政権になっている。

しかし、一方、アメリカからの要求に対し反発したり拒否した政治家はどうか?

例えば、アメリカ国債の押し売りの購入を拒んだ中川昭一元財務大臣

「アメリカ国債を売りたい衝動に駆られる。」と言ってアメリカの怒りに触れた橋本龍太郎元内閣総理大臣

アメリカから要求されたプラザ合意に反対した竹下登元内閣総理大臣

アメリカとは別に独自の日本の石油購入ルートを開拓しようとした田中角栄元内閣総理大臣

毎年アメリカから日本に突き付けられている年次改革要望書を拒否した鳩山由紀夫元内閣総理大臣など、

これら、アメリカの方針に逆らう政治家は政権期間が極端に短かったり、その政治家が失脚したり、急死したりしている事がわかる。(暗殺の疑い)

アメリカが日本に毎年要求している年次改革要望書には郵政民営化がトップ項目として突き付けられていた。

つまり、日本の政治家を脅し、日本の政治家に圧力をかけ、日本国民の財産、資産を奪い日本国民を貧困状態に陥れている存在がいる。

つぎに、最近の戦争で、アメリカやイギリスが中心となって行ったイラクの石油の略奪が目的のイラクへの爆撃、イラク人の大虐殺、大殺戮がある。

爆撃により戦車の中で焼け死んだイラクの兵隊

この戦争は大量破壊兵器の開発や保有、フセイン政権とアルカイダとの結びつきなど、アメリカは戦争を正当化する嘘を言って戦争を始め、多くの国々を巻き込み、その戦争に協力させた。

 イラクは戦後「経済制裁」が行われ恩恵に預かれなかったが湾岸戦争以降、石油は一気に値上がり、アメリカを始めとする大国は多額の利益を得た。

 1991年の第一次湾岸戦争時、アメリカ政府もメディアも、イラク攻撃の世論作りのために捏造と情報操作をした。

たとえば、ナイラという名前のクウェートの少女が、アメリカの公聴会で「イラクの兵士がクウェートの産院の乳飲み子を保育器から出して、次々と床に叩きつけ殺したのを見た。」と涙ながらに証言した。

しかし、後になって、この少女は、駐米クウェート大使の娘で、ずっとアメリカにいたことが分かった。

この証言はウソである事が判明した。

アメリカの広告代理店がシナリオを作り演出したものでリハーサルもしていた。

スポンサーはアメリカ政府以外にないと考えられる。

捏造がニューヨークタイムズで暴かれたのは1年3ヶ月後。

この「ナイラ証言」が出るまでは、アメリカの世論は戦争反対が多数を占めていた。

しかし、この証言で世論は一気に戦争賛成へと転じた。

たったひとつの捏造が、世論を完璧に逆転させた。

つぎに、この湾岸戦争の「油まみれの水鳥」の映像でもアメリカ政府は世界を騙した。

フセイン大統領が原油を海に流出させたという証拠はなかった。

アメリカ軍の爆撃による可能性も十分考えられた。

しかし、米政府はサダム・フセインの暴挙だと非難。

「油まみれの水鳥」の映像はフセインの「環境テロ」として世界を駆け巡った。

「極悪フセイン」のイメージが、世界の人々の脳裏に焼きついた。

しかし、今では、この原油流出の原因は、米軍の爆撃であるとされている。

この湾岸戦争後に湾岸戦争症候群という放射能汚染の影響と考えられる病気が多数現れている。

アメリカ軍が使用した劣化ウラン弾による影響と言われている。

劣化ウラン弾の準備をするアメリカを

中心とした多国籍軍の戦闘機とその兵隊

アメリカを中心とした多国籍軍による爆撃で

廃墟になったイラク国内の建物

劣化ウラン弾の影響によるものと

考えられるイラクの子供の奇形

劣化ウラン弾の影響によるものと

考えられるイラクで生まれた赤子の奇形

劣化ウラン弾の影響によるものと

考えられるイラクの子供の奇形

劣化ウラン弾の影響によるものと

考えられる湾岸戦争から帰った

アメリカ帰還兵の子供の奇形

劣化ウラン弾の影響によるものと

考えられるイラクで生まれた赤子の奇形

しかし、アメリカ政府はその因果関係を否定し、その政府による賠償責任を拒否している。

さらにまた、約10年後の2003年、イラク戦争開始の直前、アメリカのパウエル国務長官は、イラクの「大量破壊兵器の保有」の確固たる証拠を持って、世界の首脳に説明して回った。

しかし、イラク戦争開始後の翌年2004年に、パウエル長官は大量破壊兵器について

「いかなる備蓄も見つかっておらず、この先も発見されることはないだろう。」と証言。

今までの経緯から見ると、アメリカ政府は最初からイラクに大量破壊兵器は無かったと分かっていたのではないか?

と思われる。

寝ている時にアメリカ軍のミサイルが当たり左目を失明したイラク人の少年

アメリカ軍の銃撃で左目を失明したイラク人の少年

アメリカ軍の銃撃により5人の子供を殺され悲嘆にくれるイラク人の母親

また、2011年、欧米各国、NATO軍によるリビアへの空爆、爆撃があり、リビアのガダフィ大佐が殺害された。

NATO軍により惨殺されたリビアのガダフィ大佐

リビアのガダフィ大佐の殺害後、欧米諸国、NATO軍はリビアが所有する石油利権の略奪。

また、リビアが所有する60億ドル(日本円で6000億円)相当の金塊の略奪、

さらに、リビアが所有する720憶ドル(日本円で7兆円相当)の現金や債券の欧米諸国、NATO軍による強奪があった。

そもそも、リビアのガダフィ大佐はリビアのすべての国民に家を持たせると宣言し、結婚したリビア人のカップルが家を購入する際、5万ドル、いわゆる日本円で約500万円ものお金を結婚したカップルに支給し、さらに、家のローンの金利はすべて0、医療や大学を含む全ての教育費は全て無料、電気代も無料にするなど、政治家として一定の成果をあげておりリビアの国民からの信頼も厚かったといわれている。

リビアのガダフィ大佐は欧米各国が指摘するような狂暴な人間ではなく、温厚で誠実な人間であった。

リビアのガダフィ大佐

このように歴史を見てみると、アメリカやイギリスなどのキリスト教国の大殺戮、大虐殺、略奪と搾取、虚偽と偽証の連続。

アメリカやイギリスなどのキリスト教国は道徳的に見ても、倫理的に見ても、人道的に見ても極めて深刻な過失、過ち、問題があるように感じる。

一方、仏教を信仰する国々、例えば、タイ、ビルマ、スリランカ、チベット、ブータンなどのような仏教に対する信仰心が特に極めて篤い国で、はたして、そのような他国に侵略し、他国の人々の富を収奪強奪したり、他国の人々を奴隷として自分の国に強制的に連行したりしたという話はあったであろうか。

私は寡聞にしてそんな話は聞いたことがない。

例えば、生粋の仏教国スリランカの話をすると、第二次世界大戦が終わりサンフランシスコ講和条約が締結され、世界の諸国は敗戦国の日本に賠償を要求したが、その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加したが、日本に対する全ての賠償権を放棄した。

その時のスリランカの政府首脳達は声明の中で、仏典「ダンマパダ」の次の言葉を引用し次のように言った。

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの止むことがない。怨みを捨ててこそ怨みが止む。これは永遠の真理である。」

「戦いは終わったのだ。もはや怨みに報いるに怨みを以ってすることはやめよう。

この精神でセイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい。」と。

また、会議の際、日本の敗戦後、日本を4分割して占領統治するという案が浮上した。

おおまかに説明すると、

北海道がソ連(現在のロシア)

本州がアメリカ

四国が中国

四国 九州がイギリスで占領統治するという案である。

日本の占領とはいわゆる日本の国家財産の収奪、略奪、日本の植民地化である。

これに異議を唱えたのがインド スリランカなどのアジア諸国であり、特に反対したのは、後にスリランカの大統領に就任するスリランカのジャヤワルダナ氏であった。

ジャヤワルデナ氏は日本の分割統治に強く反対し、日本は独立国として認めることを各国の代表に強く訴える名演説を行った。

この長時間にわたる名演説は各国の首脳の心を強く打ち、日本の分割統治、分割占領が無くなったと言われている。

日本のことわざに「困ったときに助けてくれるのが本当の友達である。」ということわざがあるが、これらの事柄を見ても、真の友好国はどの国かが分かると思う。

これらを見ても、同じ宗教としてどちらが平和的で温情的で倫理的、道徳的に優れているかは一目瞭然として分かると思う。

どちらの宗教が魂のふるさとのような宗教であるか、

どちらの宗教が魂の安息所のような宗教であるか

どちらの宗教に真の魂の救済力があるか一目瞭然だと思う。

真の宗教、正しい宗教は、信仰しない人々に対し懲罰や殺戮の命令を下すような神様を信仰することでは無い。と思う。

 真の宗教、本当に正しい宗教とは、「万人に対する愛と慈悲」、「全ての生物に対する愛と慈悲」を説く宗教であると思う。

新新宗教のゲリー・ボーネル氏は、将来、仏教が全ての宗教の代わりになり、キリスト教もイスラム教も無くなっていくでしょう。と書籍の中において言及されている。

また、インド哲学、仏教学の世界的権威である今は亡き、中村元博士は次のように述べられていた。

インド哲学 仏教学の世界的権威 中村元博士

「世界には多くの宗教が存在するが、仏教は武力によらずして広まった数少ない宗教のひとつである。」

仏教の平和主義について高く評価されていた。

さらにまた、日本仏教の祖師、聖徳太子の「和を以て貴しとなす」という言葉は有名である。

そういう風に言うと、戦時中、日本は朝鮮人の方々を日本に連行したではないか?

中国はチベット人の方々を侵略、虐殺したではないか?

といわれるかもしれない。

しかし、厳密に言えば、日本は神道の国で、中国は儒教の国であるので、純粋な、生粋の仏教国とは言えないと思う。

ところで、仏教経典の増壱阿含経第七巻の五戒品第十四において盗み、泥棒、窃盗、略奪行為の報いについて説かれているお経が存在する。

その主な主旨内容は、盗み、泥棒、窃盗行為を多く行った者はその罪の報いにより未来、将来、死後、来世において地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ赴くと説かれている。

また、人間に生まれ変わっても極めて貧しく、衣服や食事に極めて事欠く境涯に生まれ赴くと説かれている。

仏教では六道輪廻を説きます。

六道輪廻とは生き物達が天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六道つまり六つの境涯を途方もない膨大な期間、途方もなく膨大な回数、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしている。

輪廻転生している。

その六道のうち畜生界、いわゆる動物の境涯、餓鬼界いわゆる飢えや渇きに苦しむ境涯、地獄界いわゆる地獄の鬼達に残虐に責め立てられ痛めつけられ苦しめられる極めて残虐悲惨な境涯は三悪道、三悪趣といって六道輪廻の中では最も苦しい境涯であると説きます。

ところで、仏教の見解では神を絶対の存在として考えていない。

神々も人間と同じように六道輪廻をする存在である。

たとえば、いかに偉大な神といえども、はるかに長い寿命を誇っている神も寿命が尽きると地獄界や餓鬼界、畜生界に堕ちることもある。

日本の神道史学の最高権威である元東大教授(故)宮地直一博士は自身の書籍「神道史 上巻」のなかで次のように解説されている。

「神という階級は絶対にあらず、もとより人間より上に位せるも、仏にあらず、覚者にあらず、それ以下の限られた能力の持ち主にて宿世の宿業によって神の身を得たるものなるがゆえに輪廻転生を免れず六道輪廻の中にいる存在である。」と書かれ

神の絶対性を否定している。

つまり、神でも死後に地獄や餓鬼界、畜生界などに転生する可能性もあるということである。

その神を超えた覚者であるとされている仏陀はパーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ、雑阿含経において次のように説かれている。

「他人から奪った人が他人から奪われるのである。

愚か者は悪の報いが実らない間は悪の報いがない事を当然のことだと考える。

しかし、悪の報いが実ったときには愚か者は苦悩を受ける。

殺す者は殺され、怨む者は怨みを買う、

また罵りわめく者は他の人から罵りを受ける、

怒りたける者は他の人から怒りを受ける、・・後略」

さらに法句経においてブッダは

「悪業の報いはたとえ大空においても大海においても奥深い山中に隠れても悪業の報いからは逃れることが出来ない」と。

さらにまた、パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ及び漢訳仏典雑阿含経において ブッダはこうお説きになられている。

「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて連れて行く事は出来ない。

全てを捨てて行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり、身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また、言葉や心で行ったもの、つまり、言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い  また、心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等

それこそが、その人自身のものである。

人はそれを受け取って行くのである。

それはかれに従うものである。

影が人に従うように。

それ故に善い事をして功徳を積め。

功徳は人々のよりどころとなる。」

次に、仏典パーリ中部経典の中の賢愚経(けんぐきょう)、漢訳仏典 中阿含経の癡慧地経(ちえぢきょう)というお経がある。

そのお経において仏陀は次のように説かれている.

「極悪非道な行いをした者は死後、地獄に堕ち極めて残虐悲惨な苦しみを受ける」と仏典に説かれている。

最古の仏典スッタニパータやパーリ中部経典の中の賢愚経、漢訳仏典中阿含経の癡慧地経において仏陀はこのように説かれている

「仮に賭博(とばく)や博打(ばくち)に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運があったとしても、罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後、地獄へ堕ち、膨大な年数、極めて残虐悲惨な苦しみを受ける地獄での大苦痛大苦悩に比べれば賭博、博打に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運などはとるに足らない僅(わず)かな不運である。」

つまり「罪、悪事を犯しその罪、悪事の報いにより死後地獄へ堕ち、膨大な年数、残虐で極めて悲惨な苦しみに遭遇する地獄へと堕ちる不運こそが最悪の大不幸、大不運である。」という内容が説かれている。

また地獄にも種類があり阿鼻地獄、無間地獄という地獄がある。

阿鼻地獄(無間地獄)は最も極悪非道な行為をした者が赴(おもむ)く地獄であり、最も痛み苦しみの激しい、極めて残虐極めて悲惨な地獄であると仏典に説かれている。

仏教経典には地獄という世界が説かれている。

地獄とは悪い事をした者が死後に生まれ赴く極めて苦しい、極めて残虐悲惨な世界。人や生き物を殺したり、いじめたり、苦しめたり、悩ませたり、悲しませたり、困らせたりした者、人の物を盗んだり、人をだましたりした者が死後に赴く世界。

特に阿含経、正法念処経、大智度論などの経典論書において地獄について詳しく解説した箇所がある。

日本において地獄の観念が多くの人々に弘まった大きな原因のひとつは天台宗の源信という僧侶が「往生要集」という書物を著しその書物が多くの人々に読まれたからであろう。

この「往生要集」は今から約千年程前に書かれた書物で現在に至るまで多くの人々に読まれている。

この「往生要集」で引用されている経典の種類は極めて多く、源信様がいかに多くの経典を読まれたかが分かる。

また地獄の状況を絵で表現した地獄絵というものもある。

地獄絵は文字が読めない人々や子供達に対し仏教の教義を分かり易く解説する役割を果たし、多くの人々に倫理観、道徳意識、勧善懲悪の観念を植え付け、また地獄に対する恐怖心が凶悪犯罪の防止、犯罪抑止力の役割を果たしていたと考えられる。

次に、真言宗開祖、弘法大師空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において盗み、窃盗、泥棒、収奪の業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は

「ある一人の鬼(死者)がいた。

その鬼が仏弟子である目連尊者に対しこのように質問した。

「私の腹は極度に大きく、のど、手足は極度に細くて食べ物や飲み物を取ること、食事をする事が出来ない。何が原因でこのような苦しみを受けるのか。」

目連尊者は答えて言った。

「あなたは前世において高い地位にあり富貴、裕福で、さまざまな食事、お酒を大いに楽しんだが、他の人々を軽視し、侮り、見下し他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた。

このような他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた行い、行為、因縁、業報、罪の報いによりこのようなひどい苦しみを受けている。

これは果報、業報であり、このような罪の報いによる地獄の苦しみは後になって受けるのである。」

次に、仏教経典「国訳一切経 (印度撰述部 阿含部 2)」という書籍の中の雑阿含経第十九に屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

例えば、屠牛者経を例に挙げるとそのお経の概要は釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなお、その屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

また我(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

屠羊者経 殺猪経 猟師経も屠牛者経と同様、大体似た内容で説かれている。

そのお経に共通する主な内容は、生きている間において、人間や動物達等の生き物の屠殺、殺生を行った者がその死後において、その屠殺、殺生を行った罪業の報いにより非常に長い年月の間地獄において苦しめられる極めて悲惨な世界に赴き、多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達、カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

 書籍「間脳思考―霊的バイオ・ホロニクスの時代」という書籍の中において一般の方々には難解と思われる国訳一切経(阿含部)の中の好戦経と堕胎経その他のお経について非常に分かり易く解説されている。

 ところで、仏教教団 阿含宗の開祖 今は亡き、桐山靖雄猊下の著作である
「人間改造の原理と方法―原始仏教から密教まで」
のあとがきで、

桐山靖雄猊下は次のように説かれている。

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

「我々は仏陀にはなれないかもしれないが、仏陀の残された教法を修行することにより賢者にはなれる。

いかなる場合にも、殺し合い、傷つけ合い、奪い合うような愚かな行為を演じない賢者に・・・。

 そうしてまた、そういう愚かな行為を絶滅させ、限りない愛と慈悲に満たされた高度で豊かな社会を作り出す賢者に・・・。」

1986年4月、当時のスリランカのジャヤワルダナ大統領は阿含宗の開祖 桐山靖雄猊下をスリランカに招待し釈迦のご遺骨である仏舎利を授けられた。

この仏舎利は西暦1898年に、インド ブッダガヤの金剛宝座の下から発掘されたとされている。

金剛宝座とは釈迦が悟りを開くため、正覚を得る為、ブッダになる為に瞑想した場所、悟りを開くための瞑想の際に座った場所。

これについての話は書籍 「守護霊の系譜―こうして守護霊を持てに詳しく書かれている。

また、1986年4月にジャヤワルデナ大統領から仏舎利を授けられる約2年程前の1984年1月、阿含宗の開祖、桐山靖雄猊下は「間脳思考」という書籍を著した。

その書籍の中で著者の桐山猊下は阿含経の好戦経というお経を解説されている。

そのお経の主な内容は生前、戦争を好み、刀や武器などで多くの人々を殺傷し、傷つけた者が死後、その人を殺し傷つけた罪障により地獄に堕ち、極めた長い期間、地獄の苦しみを受け、その地獄の余罪によりカラスなどの多くの鳥獣により体を啄まれ酷い苦しみ、苦痛にあえぐ霊体をお釈迦様と高弟子の目連尊者が霊視した話が説かれている。

地獄の余罪でこのような苦しみを受けるのであれば本当の地獄の苦しみは物凄い苦痛である事であると桐山猊下はこの書籍の中で解説されている

ファイナル・ウォー アメリカが目論む最後の「日本収奪計画」

泥棒国家の完成

「ヤクザ・リセッション さらに失われる10年 (光文社ペーパーバックス)

「日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日 (光文社ペーパーバックス)

国富」喪失 (詩想社新書)

拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる (文春新書)

「ゆうちょマネー」はどこへ消えたか: “格差”を生んだ郵政民営化の真実

真実を聞いてくれ―俺は劣化ウランを見てしまった

書籍「劣化ウラン弾―湾岸戦争で何が行われたか

【Amazon.co.jp 限定】M9.0東京直撃の日ー日本列島激マップ

「魔女狩り (岩波新書)

「インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫)

世界から戦争がなくならない本当の理由

広島・長崎の原爆災害 (1979年)

昭和の戦争の真実 (扶桑社BOOKS)

インカの反乱―被征服者の声 (岩波文庫)

「キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 (講談社+α新書)

「ブッダのレクイエム」―血塗られた人類史は、宗教の投影だ! 

キリスト教の悲惨 (りぶらりあ選書)

図説 魔女狩り (ふくろうの本/世界の歴史)絵で見る十字軍物語

敗戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人ースリランカのジャヤワルダナ大統領ー (ジュニアノンフィクション)

人類アカシャ全史―アカシックレコードから読み解く人類の起源と歴史、そして驚愕の近未来

旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2)

弘法大師著作全集 (第1巻)

日本の美術 no.271 六道絵

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

「間脳思考―霊的バイオ・ホロニクスの時代

人間改造の原理と方法―原始仏教から密教まで

守護霊の系譜―こうして守護霊を持て

国訳一切経 (印度撰述部 阿含部 2)」

「大正新脩大蔵経 (第2巻) (普及版大正新脩大蔵経)

書籍「国訳一切経 (印度撰述部 阿含部 8)

インド哲学 仏教学の世界的権威 中村元博士

聖徳太子

幼少期の聖徳太子

チベット仏教 生死輪図

ブッダ釈尊

閻魔大王

死後、瑠璃鏡で生前の行いを見せられる亡者

地獄絵

地獄絵

弘法大師 空海

阿含宗開祖 桐山靖雄猊下 

1986年4月7日 スリランカのジャヤワルダナ大統領から

阿含宗の開祖、桐山靖雄猊下に仏舎利が授けられる。

釈尊成道の聖地 インド ブッダガヤ 

菩提樹下の金剛宝座

b」



日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日 (光文社ペーパーバックス)













浄土真宗の開祖の親鸞聖人が説く悪人正機説は仏説と相矛盾する危険な邪説であると私は考える。

浄土真宗の親鸞聖人の悪人正機説は仏説と相矛盾する外道の説であると私は考える。

特に、仏教や倫理、道徳教育をほとんど受けていない子供たち、青少年たち、一般的に、大人に比べると思慮分別が乏しいと考えられる子供たち、青少年たち、この言葉をそのまま文字通りに、彼ら、彼女たちに教えると、彼ら、彼女たちの多くは「仏教では悪人は正しいと説いている。」と解釈し、仏教に対し誤った解釈、いわゆる誤解や混乱を招く恐れが多いにある。

悪人正機説は危険な言葉、危険な文言であると思う。

凶悪犯罪の原因になりかねない言葉であるように思われてならない。

完全に間違っている説であると私は考える。

そもそも、仏教の根本的な教え、ブッダ、真理に目覚めた等正覚者達の最も重要な教えと、根本的な教えは

「良いことをしなさい。悪いことはしてはいけない。」

という倫理、道徳の実践の教えであるといえる。

漢訳仏典においても

諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」 という

七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)という有名な言葉がある。

七仏とは過去7人の偉大なブッダがいたとされている。

すなわち、

毘婆尸仏、 尸棄仏、毘舎浮仏、倶留孫仏、倶那含牟尼仏、 迦葉仏、釈迦牟尼仏

お釈迦様はその中の一人である。

その方々の共通する教えが先に述べた通り

諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

という七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)なのである。

またパーリ仏典の法句経(ダンマパダ)においてブッダは次のように説かれている。

「一切の悪をなすことなく、善を具備実践し、自分の心を浄化すること、これが諸仏の教えである」

諸仏とは真理に目覚め、ブッダとしての悟りをお開きになられた覚者達の事。

確かに、中には

「親鸞聖人の悪人正機説はそのような悪人が正しいという意味で説いたのではない!」

「悪人にも正しい所はあるという意味だ!」

「もっと教学を勉強しろ!」

「もっと深い意味を読み取れ!」

と立腹、お叱りを受けるかもしれない。

しかし、明らかに、この言葉そのものは普通に解釈すれば「悪人は正しい。」と解釈してしまう危険性を秘めた言葉であると考えざるを得ない。

さらに、大人に比べると思慮分別が乏しいと考えられる子供たち、青少年たち、この言葉をそのまま文字通り、彼ら、彼女たちに教えると、彼ら、彼女たちは「悪人こそ正しい。」と解釈して仏教に対し誤解や混乱を招きかねない。

そもそも、浄土真宗の親鸞聖人の悪人正機説という言葉自体、釈迦牟尼世尊、ゴータマブッダ、過去に現れた多くのブッダ達の言葉の内容と相矛盾する外道の説、邪道の説であると考えざるを得ない。

確かに、親鸞聖人は仏教を一部の特権階級のものから一般大衆のものにしたという偉大な功績がある、つまり、仏教の教えを民衆が使う言葉で初めて布教しだしのは日本では鎌倉時代、日蓮上人や法然上人、親鸞聖人だとされている。

また、親鸞聖人の宗教的な情熱は素晴らしいものであり、尊敬に値するものと思う。

しかし、仏教徒は仏祖への報恩謝徳の為、一般民衆の幸福の為、誤りのない、誤解のない、わかりやすい、正しい仏教、正しい仏法を社会に広めなければならない。と思う。

それが義務であると思う。

確かに私自身、不勉強の部分はあるかもしれないが、私のその意見について是正、叱正して下さる方がいれば幸いです。

最後に、書籍「バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)」の中で次のように書かれている。

「現在のアーガマ(阿含経)をそのまま釈尊の教えに直結することはあまりにも短絡化しすぎており、今日の仏教学からすれば、むしろ誤りとみなされる。

ただし釈尊の教えと佛弟子たちの言行録などは、そして、最初期、ないし、初期の仏教の資料はアーガマ(阿含経)にしか存在していないのであり、大乗経典(これを日本人は釈尊の教えそのものと誤解し受容してきた。)には求むべくもないことが明白である以上、何よりもまずアーガマ(阿含経)の解明に専念する仏教文献学が必要不可欠の前提とされる。

そして、それは近代学問として、すでに100年以上の年月を刻んで今日もなお継続している。」

さらに、

「現在の日本には、約7万5000余と言われる仏教寺院で読誦されるお経は、開祖の釈尊の阿含経典は全く顧みられず、開祖である釈尊とは異なる別の仏による大乗のお経の一説であり、そればかりか、その大部分は宗祖に準ずる特記すべき高僧の文がお経として敬われ、読誦され続けている。

例えば、日本最大の宗派の浄土真宗の場合、大乗経典の浄土三部経、いわゆる無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の一部のほか、宗祖である親鸞の主著、教行信証、行巻の末尾にある正信偈、もしくは、真宗中興の祖とされる蓮如の御文がその宗のお経であり、曹洞宗では大乗経典の般若心経や法華経の一部のほか、宗祖の道元の主著の正法眼蔵から、本来は明治時代に在家信者向きにダイジェスト化したテキストの修証義がお経として読誦されていて、それにより日々の勤行から諸種の行事、仏事、法事までの全てが進行する。

他の宗派においてもほぼこれに準ずる。

親鸞、蓮如、道元、その他の諸宗祖などは、いずれも、ひときわ偉大な高僧であり、かつ学僧であるとはいえ、彼らは特定の論師であって仏ではない以上、厳密に言えば、これらの人々の著述は経に属するのではなくて、論のカテゴリーに入る。

それでも日本では、それらがお経とされていて、何人も疑わず、異議を挟むものもいない。」

写真と絵で見る仏教

    釈尊自身の何代も前の前々々世、はるか大昔、釈尊の過去世においてスメーダ(善慧)という名前の人間であった時、スメーダは燃灯仏(ねんとうぶつ、ディーパンカラ)に対する心からの尊敬心と憧憬心から泥道を歩こうとしている燃灯仏が少しでも足が汚れないよう、スメーダ自身の結んでいた髪を解きほどき、泥の上に体をうつぶせにして自らの長い髪を投げ出し「私の背中を踏んでいって下さい。」と言い、燃灯仏(ディーパンカラ)を心から拝んでいる姿が見てとれる。

そして、燃灯仏(ディーパンカラ)はそのスメーダの心の中を読み取りスメーダに「遠い将来、あなたは必ずブッダになる。」と予言されたとされる。

これが、いわゆる、燃灯仏授記本生図の話である。

また、この釈尊のはるか遠い前世のスメーダが燃灯仏に対して行った全身をかけた礼拝が、今現在、チベットで盛んに行われている仏様への礼拝、いわゆる五体投地に似ており、五体投地の原点のように私自身、その思えてならない。

過去現在因果経 参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 本縁部四 大東出版社」参照。

インドで釈迦として人間に生まれ変わる直前、

兜率天で修行する釈迦の前世の姿。

釈迦の直前の前世は兜率天の善慧菩薩。

託胎霊夢

マーヤ夫人の釈尊懐妊 釈尊降誕像

マーヤ夫人の釈尊降誕

釈尊の降誕(チベット仏画)

釈尊の実母 マーヤ夫人

産まれたばかりの釈尊の体に産湯をかける従者たち

産まれたばかりの釈尊の将来をアシタ仙人が王宮に来て占い、

釈尊が将来、王の地位を継承するならば転輪聖王になり、また、

出家をすれば世界を救うブッダになります。と予言した。

青年時代の釈尊

仙人を訪ねる釈尊

禅定の達人であるアーラーラ・カーラーマの

弟子になる釈尊

釈尊苦行像

断食修行を終え、新たな瞑想修行を始める

為、体力、気力を付けるため、スジャータという娘から

乳粥の供養を受ける釈尊

瞑想中の釈迦が悟りを開こうとするのを妨害する為

釈迦の元に集まってきた悪魔の群勢。

瞑想中の釈迦が悟りを開こうとするのを妨害する為

釈迦の元に集まってきた悪魔の群勢。

瞑想中の釈迦が悟りを開こうとするのを妨害する為

釈迦の元に集まってきた悪魔の群勢。

釈尊降魔成道仏画(チベット仏教)

釈尊降魔成道仏画(チベット仏教)

過去現在因果経 参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 本縁部四 大東出版社」参照。

仏教の開祖である仏陀釈尊自身の瞑想体験として、修行を完成し仏陀に成られた釈尊は、仏陀としての最高の悟りを開く直前、非常に深い瞑想中において、無量無数の生き物達がそれぞれの業、それぞれのカルマに応じて無限に近い膨大な時間、無量無数とも例えられる程の回数、生き替わり死に替わりを繰り返している情景をその超人的透視力で実際に透視したという釈尊自身の体験が仏典に説かれている。

以下は釈尊自身の瞑想の体験談である。

「このように 私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、種々なる過去の生涯を想い起こした。

すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、また幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。

我はそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカースト(階級)であり、これこれの食を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。

そこで死んでから、かしこに生まれた。

このように形や名称とともに種々なる過去の生涯を想い起こしたのである。

このように私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。

実にこれらの生存者は身に悪行を行い、言葉に悪行を行い、心に悪行を行い、もろもろの聖者をそしり、誤った見解を抱き、誤った見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後に悪しき所、堕ちた所、地獄に生まれた。

また、他のこれらの生存者は、身に善行を行い、言葉に善行を行い、心に善行を行い、諸々の聖者をそしらず、正しい見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後、善い所、天の世界に生まれた。

このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。」

また、インドの古代文献であるウパニシャッド(奥義書)の教えに、悟りを得たときには過去の生涯を明らかに思い起こすという思想がある。

そして、ジャイナ教の教えにおいても、修行者が悟りを開いたときには世界、神々、人間、悪魔のありさま、彼らがどこから出てきてどこへ行くか、という詳しい姿を見透したという。

(書籍「思想の自由とジャイナ教 中村元撰集決定版  第10巻 春秋社」参照。)

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以上の事から要約すると、仏陀釈尊の覚醒の課程は三夜にわたる智の開眼、智慧の獲得で説明される。

すなわち、第一夜(初夜 夜6時~夜10時頃)において釈迦(釈尊)は瞑想によって自らの百千の生涯、幾多の宇宙の成立期、破壊期、成立破壊期を残らず想起した。(宿明智の獲得)

次に、第二夜(中夜 夜10時~夜中2時頃)において天眼(清浄で超人的、神的な透視力)により生き物達が無限の生死循環(輪廻転生)を繰り返す様を見透す。(天眼智の獲得)

最後に、第三夜(後夜 夜中2時~朝6時頃)において「一切(輪廻転生の本質)は苦である」という認識を得、縁起の法を悟って覚醒、漏尽解脱、智慧解脱の完成を得た。(漏尽智の獲得)

そして、「わたし(釈尊)は最高の道を悟った。私の悟りは揺るがず、壊れない。私は解脱を果たした。もう苦しみの世に生まれる事は決してない。」とある。

また、釈尊はこの瞑想法だけで仏陀に成られたのではなく釈尊自身の過去世からの無量無数ともいうべき積徳の行為、功徳を積んだ行為より生じた福徳の力、福力により仏陀に成る事が出来たとされる。

仏教では福徳の力で成仏するという教えがあり、

舎利禮門というお経の文言に「万徳円満、釈迦如来」という言葉がある、

つまり万(よろず)の徳、全ての徳が完全に備わっている釈迦如来という意味であるがブッダに成るには大きな徳が必要とされる。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』

参照。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』

参照。

『四分律経典 第三十一巻』 『国訳一切経 律部二 大東出版社』

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釈尊成道像(インド)

釈尊成道後、ムチャリンダ龍王の護仏

民衆に対して説法するのを躊躇していた釈尊に対し、

説法するよう懇願する梵天

釈尊初転法輪像

火神堂内毒龍調伏

拝火教の指導者、迦葉三兄弟の釈尊への帰依

拝火教の帰仏

ブッダ説法像

ブッダ説法像

ブッダの説法を聞き入る聴衆

在家信者のスダッタ長者が

釈尊に祇園精舎を布施寄進する様子

ブッダに対する供養

ブッダに布施する職人

ブッダに布施する子供

セイロン島(スリランカ)に上陸するブッダ

ブッダ シュラヴァスティの神変

(舎衛城の神変)

ブッダ シュラヴァスティの神変

(舎衛城の神変)

ブッダ シュラヴァスティの神変

(舎衛城の神変)

ブッダ シュラヴァスティの神変

(舎衛城の神変)

ブッダ シュラヴァスティの神変

(舎衛城の神変)

ブッダ シュラヴァスティの神変

(舎衛城の神変)

洞窟内で瞑想するブッダ

涅槃入滅する前の釈尊(チベット仏画)

釈尊涅槃図絵(日本 高野山 金剛峯寺)

釈尊涅槃

釈尊涅槃

釈尊涅槃像(インドネシア アジャンター石窟)

釈尊の遺骨を祀る仏舎利塔(ストゥーパ)を礼拝供養する人々

釈尊の遺骨を祀る仏舎利塔(ストゥーパ)

仏足石(ネパール)

仏足石を礼拝する女性たち

ブッダ釈尊が悟りを開いた地とされているインド ブッダガヤ

ブッダ釈尊が悟りを開いた地とされているインド ブッダガヤ。

釈尊がこの聖菩提樹の木の下で悟りを開いた際、正覚を得た際に

座った地とされている金剛宝座。

チベット仏教 生死輪図(生き物が天界、人間界、修羅界、

畜生界、餓鬼界、地獄界の六つの境涯を輪廻転生、

すなわち、何度も何度も生まれ変わりを

繰り返す様を描いた仏画)(チベット)

チベット仏教 生死輪図(生き物が天界、人間界、修羅界、

畜生界、餓鬼界、地獄界の六つの境涯を輪廻転生、

すなわち、何度も何度も生まれ変わりを

繰り返す様を描いた仏画)(チベット)

熾盛光曼荼羅(しじょうこうまんだら)(天台密教)(日本)

 大日如来

    薬師如来

  準提観世音菩薩

  準提観世音菩薩

  準提観世音菩薩

   如意輪観世音菩薩

  十一面観世音菩薩

   地蔵菩薩

 弥勒菩薩

   如意輪観音

     文殊菩薩

   不動明王

 不動明王

    降三世明王

  降三世明王

五大力菩薩像 龍王吼菩薩

五大力菩薩像 金剛吼菩薩

五大力菩薩像 無畏十力吼菩薩

大元帥明王(だいげんすいみょうおう)像

(大元帥法(だいげんすいほう)は玉体安穏(ぎょくたいあんのん)や怨敵降伏(おんてきこうふく)のために修せられる国家的修法であるが大元帥明王は大元帥法のご本尊になる。)

閻魔大王(えんまだいおう)

  死後の裁判状況

死後の裁判状況

死後の裁判状況

死後の裁判状況

死後、生前に行った悪い行為の一部始終を浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)

で見せられる亡者

獄卒に連行される亡者、その状況を見る、亡者の子供

地獄 獄卒絵

地獄の獄卒と罪人

地獄の獄卒

地獄絵

地獄絵

       地獄絵

       地獄絵

  地獄絵

   地獄絵

地獄の獄卒が罪人たちを苦しめる。

獄卒が罪人の生前の悪行為を浄玻璃鏡で見せる。

地獄の獄卒と罪人

  地獄絵

  地獄絵

  地獄絵

死後の世界において、親がいない孤児、子供たちを救う地蔵菩薩

死後の世界、賽の河原において、親がいない孤児、子供たちを救う地蔵菩薩

地蔵菩薩

     地蔵菩薩

餓鬼たちに食物を分け与える僧侶たち

飢えに苦しむ餓鬼と対面する仏弟子の阿難尊者

餓鬼界に堕ちていた母に食物を与えるも

罪業が深く、食物を口に入れようとするも

口から火を噴き食べ物が食べられない母を見て号泣する目連尊者

大乗仏教の創始者 龍樹菩薩(チベット仏画)

真言密教伝持 第一祖 龍猛菩薩(インド)

釈迦牟尼仏像(チベット)

インドネシア ボロブドゥール遺跡

インドネシア ボロブドゥール遺跡

スリランカ 大仏像

タイ 大仏像

中国 大仏像

中国 大仏像

中国 雲崗の大仏像

日本仏教の始祖 聖徳太子(西暦574年〜西暦622年)

日本仏教の祖 聖徳太子(西暦574年〜622年)

日本仏教の祖 聖徳太子(西暦574年〜西暦622年)

法隆寺 夢殿 救世観音像

法隆寺 夢殿 救世観音像

玄奘三蔵法師(中国)(西暦602年〜西暦664年)

求法の為、インドへの旅の途上、

砂漠で遭難し行き倒れになっている

玄奘三蔵法師を助けに現れた深沙大将

箕面の滝(現在の大阪)での修行中、龍樹菩薩の霊体と遭遇する役行者(えんのぎょうじゃ)(役行者 22歳 西暦656年頃)(役行者絵巻参照。)

役行者(えんのぎょうじゃ)の強い祈りに感応して出現された蔵王権現(ざおうごんげん)(役行者 41歳 西暦675年頃)吉野山(奈良県)山中にて。)

蔵王権現(ざおうごんげん)

日本 奈良 東大寺 大仏像(西暦745年制作開始、西暦752年完成及び開眼供養。)

 日本 奈良 東大寺 大仏像 御尊顔

 日本 奈良 東大寺 大仏像 御尊顔

 日本 奈良 東大寺 大仏像 御尊顔

日本 奈良 東大寺 大仏像 御手

真言密教 開祖 弘法大師空海(西暦774年〜西暦834年)

土佐の室戸岬において求聞持法を修行する若き頃の弘法大師空海

四国、土佐の室戸岬において求聞持法を修行する若き頃の弘法大師空海

四国、土佐の室戸岬において求聞持法を修行する若き頃の弘法大師空海

四国の室戸岬で求聞持法を修行する若き日の弘法大師空海

写真は(DVD(映画)空海(空海役=北大路欣也)東映株式会社)より引用。

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弘法大師空海様は更なる求法の為、遣唐使船に乗船し唐の国に渡った。

尚、当時の航海技術は現代の航海技術と比較して著しく貧弱であった。

そのことについて書籍「竹取物語(全)角川ソフィア文庫」に次のように説明されている。

「遣唐使は、唐の文化を輸入するために、7世紀から8世紀にかけて、日本から公式に派遣された使節をいう。

西暦630年に始まり、西暦894年に停止するまで、およそ20回計画されたが、うち4回は中止されたという。

人員は、場合によって200名から500名に及んだ。

航路のうち南島路あるいは五島列島を通って、東シナ海を横断するために、漂流・遭難の危険性は非常に高かった。

実際、6回もの遭難記録が残っている。

自然の猛威にさらされるばかりか、海賊に襲われたり、漂着した島では島民に殺されたりすることもあった。

平安王朝の華麗な文化は、こうした先人の苦難のうえに花開いたのである。」

さらに

「(この当時の)遣唐使の派遣は危険な航海を伴い、事実、派遣回数の三分の一は遭難している。」

「竹取物語(全)角川ソフィア文庫」参照。

求法の為、唐の国に向かう遣唐使船に乗船する若き頃の弘法大師空海

求法の為、唐の国に向かう遣唐使船に乗船する若き頃の弘法大師空海

求法の為、唐の国に向かう遣唐使船に乗船する若き頃の弘法大師空海

密教を学ぶ為、船で唐の国に渡る弘法大師空海、その弘法大師の乗船する遣唐使船に現れたとされる湧現観音

密教を学ぶ為、船で唐の国に渡る弘法大師空海、その弘法大師の乗船する遣唐使船に現れたとされる湧現観音

密教を学ぶ為、船で唐の国に渡る弘法大師空海、その弘法大師の乗船する遣唐使船に現れたとされる湧現観音

真言密教伝持第七祖 恵果和尚(唐)(西暦746年〜西暦805年)

突如、彗星の如く恵果和尚の前に現れた異国の僧侶、空海、その空海に対し、恵果和尚が恵果の高弟を含む多くの弟子達(約1000人以上の弟子達)を差し置き、恵果の持つ全ての密教の大法を空海に授けることに対し、また、空海を極めて厚遇する事に対し、激しく恵果に抗議する恵果の高弟、珍賀。

その夜、四天王に叱責、痛めつけられる夢を見た珍賀。

恵果が空海に密教の大法を授け、空海を極めて厚遇することに激しく抗議する恵果の高弟、珍賀。その夜、四天王に叱責、痛めつけられる夢を見た珍賀。翌朝、空海に対し今までの非礼を詫びる珍賀。

真言密教伝持第七祖 恵果和尚(唐)(西暦746年〜西暦805年)から、ただ一人、真言密教伝持 第八祖、伝承者として指名された真言密教の開祖 弘法大師 空海(日本)(西暦774年〜西暦834年)

弘法大師空海様が唐において恵果和尚から密教の大法を授かった後、日本への帰国の途上、航海中、突如、船を荒波が襲い、あわや荒波が船を飲み込もうとした時、突如、海上に巨大な不動明王が現れ、不動明王の持つ剣でその荒波を切り裂いたと伝えられている。

その時の不動明王が和歌山県にある真言密教の総本山、高野山(こうやさん)において波切不動尊としてお祀りされている。

清涼殿において即身成仏の姿を現した弘法大師空海。

清涼殿において即身成仏の姿を現した弘法大師空海。

各宗旨宗派の高僧との仏教討論の際、他の宗旨宗派の高僧が来世成仏を説く中、弘法大師空海様ただ一人だけが即身成仏を説き、各宗旨宗派の高僧からその論拠を示せと迫られ、嵯峨天皇及び各宗旨宗派の高僧達の御前で即身成仏の境地に入り大日如来の姿に変化した弘法大師空海様(清涼殿において)

この現象について、書籍「密教誕生 桐山靖雄著 平河出版」の中で弘法大師空海様が現した奇瑞について著者である阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下は次のように説かれている。

「朕、空海の最尊最上の教を深く信ず。さりながら、朕、密教にて説く即身成仏の現証を未(い)まだ見ず。」と(帝が空海に問うと)

御声のもとに、空海は、静かに南面して結跏趺坐し、手に智拳印をむすんで口に密言(みつごん)を誦す。心は六大平等観に住すると見る間(ま)に、身はたちまち紫磨黄金(しまおうごん)の膚(はだえ)となって、五色遍照の光明を放ち、頭(こうべ)に五智の宝冠を現じて、座は八葉の蓮華となった。

帝は、畏くも玉座から下り給うて、南無遍照金剛と御拝あらせられた。各宗の賢哲たちも、居ならぶ朝臣等も、ひとしく平伏して、随喜讃仰の手を合わせた。

ややあって、空海は、ふたたび元の体にかえり、ここに、生仏(しょうぶつ)不二、凡身即仏の妙諦を如実に示したのである。」

天暦十年(九五六年)に著された「孔雀経音義」は、つぎのように述べている。

「仍(よ)って大師智拳印を結び、南方に向うに南門俄(にわ)かに開けて、金色の毘盧遮那を成じ、眉間に白毫相(びゃくごうそう)の光を放つ。

爰(ここ)に一人(天皇のこと)諸臣七宗の衆徒は驚いて地に下り、皆ことごとく礼拝す。即ち本体に還帰す。

入我我入の諍、即身頓証の疑いはこの日より釈然たり。

真言瑜伽宗秘密曼荼羅之道は彼の時より建立す・・・・・。」

書籍「密教誕生 桐山靖雄著 平河出版」442頁~443頁参照。

     胎蔵界曼荼羅

金剛界曼荼羅 大日如来

胎蔵界種字曼荼羅

胎蔵界曼荼羅 釈迦院 釈迦如来

胎蔵界曼荼羅 観音院(蓮華部院) 聖観音

胎蔵界曼荼羅 遍知院 準提仏母

胎蔵界曼荼羅 遍知院 大勇猛菩薩

胎蔵界曼荼羅 持明院 般若菩薩

  金剛界八十一尊大曼荼羅

さて、次は座禅中の神秘体験の話であるが、天台密教の智証大師円珍は座禅中、目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧め、帰依するならば汝を守護する。と言った。

  天台密教 智証大師円珍(西暦814年〜891年)

円珍が何者であるのかと問うと、

金人は「自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っている。」答えた。

さらに、その金色不動明王は次のように言った。

黄不動明王

「仏法の真髄を伝える汝を守護するために示現するものなり。

仏の教えを究めて迷える衆生を導くべし。」と。

その姿は魁偉奇妙、威光熾盛で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。

円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に銘じて写させたという。

鎌倉大仏(西暦1238年制作開始 西暦1243年完成 開眼供養)

次に、鎌倉時代に活躍した日蓮宗の開祖である日蓮上人様(西暦1222年〜西暦1282年)の霊験談に龍ノ口の奇跡という話がある。

日蓮上人様が当時の幕府や諸宗を批判したとして、佐渡流罪の名目で、鎌倉の松葉谷草庵にいた日蓮上人様を捕縛し連行。

翌日の西暦1271年9月13日子丑の刻(午前2時前後)、日蓮上人様を土牢から引き出し日蓮聖人様は、はだか馬に乗せられ、江ノ島片瀬 龍の口(たつのくち)刑場へと引かれていった。

途中、鶴ヶ岡八幡宮にさしかかったとき、日蓮聖人様は大声で

「八幡大菩薩はまことの神か・・・」と、法華経の行者を守る役目を果たすよう叱りつけました。

源氏の氏神を叱りつけたから、役人はびっくりし、あわてて馬を引き立てた。

鎌倉を引き回された後、日蓮聖人様は龍の口の刑場で敷物に座らされ、とうとうその首が刎ねられようとしていた。

いよいよ首を斬ろうと、役人が刀をかまえたその瞬間、江ノ島の南東から満月のように大きな光る不思議な光の玉が飛んできて北西へと飛び、日蓮聖人様の上に現れた。

そして頸を刎ねようとして太刀を大きく振りかざした武士を直撃し、役人は驚いて逃げ去り、太刀は三つに折れてしまい、その手足は動かなくなってしまった。

処刑どころではなかった。


「日蓮の首は斬れません。」と早馬が鎌倉に向かい、鎌倉からは「日蓮の首を斬るな!」との連絡があり、何かの理由により刑は中止されたという。(西暦1271年9月13日)

この竜ノ口の奇蹟の話を本で読んだり、人の話で聞いたりすると、『観音経』の中の観世音菩薩普門品偈(かんぜおんぼさつふもんぼんげ)に説かれている次の経文を思い浮かべる。

「或値怨賊繞(わくちーおんぞくにょう)

各執刀加害(かくしゅーとーかーがい)

念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)

咸即起慈心(げんそくきーじーしん)

或遭王難苦(わくそーおーなんくー)

臨刑欲壽終(りんぎょーよくじゅーじゅー)

念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)

刀尋段段壊(とーじんだんだんねー)

或執禁伽鎖(わくしゅーきんかーさー)

手足被杻械(しゅーそくひちゅーかい)

念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)

釈然得解脱(しゃくねんとくげーだつ)」

ちなみに、『観音経』というお経は『法華経』の第二十五巻目に説かれているが、もともとインドにおいて観音信仰が盛んにおこなわれている地域があり、法華経の編集者がこの観音信仰に基づく「観音経」を取り入れたという説があります。

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臨済宗中興の祖、白隠禅師(日本)(西暦1686年〜西暦1769年)

江戸時代、禅宗の中の一つ、臨済宗に白隠禅師という高僧がいた。白隠禅師は臨済宗中興の祖と言われ、また、500年間不出の高僧とも言われた程の高僧であった。

白隠禅師は自身の説く教えの中に、布施を強く勧める教えを歌にして多くの人々に布施の重要性を説いた。

以下、白隠禅師が説いたとされている施行歌を紹介する。


施行歌(白隠禅師作)

今生富貴する人は

前世に蒔きおく種がある

今生ほどこしせぬ人は

未来は極めて貧なるぞ

利口で富貴がなるならば

鈍なる人はみな貧か

利口で貧乏するを見よ

この世は前世の種次第

未来はこの世の種次第

富貴に大小あることは

蒔く種大小あるゆえぞ

この世はわづかのものなれば

よい種えらんでまきたまえ

たねを惜しみてうえざれば

穀物とれたるためしなし

田畑に麦稗(むぎひえ)まかずして

麦稗取ったるためしなし

麦稗一升まきおけば

五升や一斗はみのるぞや

しかればすこしの施しも

果報は倍倍あるものぞ

いわんやほどこし多ければ

果報も多しと計り知れ

それゆえお釈迦も観音も

施しせよとすすめたり

さすれば乞食非人まで

救うこころを発すべし

おのおの富貴で持つ宝

有ればあるほどたらぬもの

多くの宝を譲るとも

持つ子が持たねば持たぬもの

少しも田畑ゆずらねど

持つ子はあっぱれ持つものぞ

我が子の繁昌祈るなら

人を倒さず施行せよ

人を倒して持つ宝

我が子にゆづりて怨となる

人の恨みのかかるもの

ゆづる我が子に沈みきる

枡や秤や算盤や

筆の非道をし給うな

つねづね商いするひとも

あまり非道な利をとるな

死んで三途に入ることぞ

その身は三途に落ち入れて

屋敷は草木が生い茂る

非道は子孫の害となる

親の悪事が子に報う

世間に数々あるものぞ

一門繁昌することは

親が悪事をせぬゆえぞ

もし又親にはなれなば

ますます重恩思い知れ

子を慈しむ親心

あらい風をも厭ひしぞ

それほど親に思われて

親を思わぬ愚かさよ

親に不幸な人々は

鳶やカラスに劣りたり

娘むすこをしつけるに

惜しむ宝はなきものぞ

親の後生のためならば

その金出して施行せよ

飢え死ぬ人を助けなば

これに勝れる善事なし

たとえ満貫長者でも

死んで身につく物はなし

妻も子供も銭金も

捨てて冥途の旅立ちぞ

冥途の旅立ちするときは

耳も聞こえず目も見えず

ゆくえしらずに門をいで

闇を闇路に入ることぞ

その時後悔限りなし

兎に角命ある限り

菩提の種をうえたまえ

命は脆きものなれば

露の命と名づけたり

今宵頭痛がし始めて

九死一生なるもあり

強い自慢をする人も

暮れに頓死をするもあり

今日は他人を葬礼し

明日は我が身の葬礼ぞ

然らば頼み無き娑婆に

金銀蓄え何にする

富貴幸いある人は

貧者に施しせらるべし

貧者に施しせぬ人は

富貴で暮らすかいもなし

狗でも口は過ぐるぞや

飢饉貧者を助くべし

慈悲善根はそのままに

家繁栄の御祈祷ぞ

慈悲善根をする人は

神や仏にまもられて

天魔外道はよりつかず

然れば祈祷になるまいか

よくよく了見せらるべし

恵み施しならぬとは

余りどうよく目に余る

飢え死ぬ貧者を見ぬふりに

暮らす心は鬼神か

慈悲善根のなき人は

子孫繁栄長からじ

宝はあまりなきものぞ

施行で借銭し初めよ

それこそ真の信心よ

上たる人をはじめとし

頭立ったる人々は

われもわれもと共々に

厚く施行に身を入れよ

貧者の命救うなら

広大無辺の善事なり

平生貧者に敬われ

身につく果報はあるまいか

人に食い物すつるのを

好んで拾って食う者は

前世に種まきたらぬゆえ

是非なく袖乞いすることぞ

かかる有様見ながらも

おのおの仁心起こらぬか

とにもかくにも人として

信心なければ人でなし

この節信心おこらねば

まったく牛馬にことならず

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慈雲尊者(日本)(西暦1718年〜西暦1805年)

インド哲学 仏教学の世界的権威 中村元(なかむら はじめ)博士(西暦1912年〜西暦1999年)

インド哲学 仏教学の世界的権威 中村元(なかむら はじめ)博士(西暦1912年〜西暦1999年)

インド哲学 仏教学の世界的権威

中村元(なかむら はじめ)博士(西暦1912年〜1999年)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年〜西暦2016年)

真言事相の碩学、小田慈舟大僧正猊下から

伝法を受ける阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1970年、当時49歳)

京都市山科区北花山大峰にある阿含宗総本山建立中の地に立つ

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗道場内において法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

瞑想中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

京都市山科区北花山大峰において

大柴燈護摩修法中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。

お護摩の火炎の左上側に菩薩のお顔らしき姿が映っている。(霊写真)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下が大導師となって修する大柴燈護摩供(京都市山科区北花山大峰において)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下が大導師となって修する大柴燈護摩供(京都市山科区北花山大峰において)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下が大導師となって修する大柴燈護摩供(京都市山科区北花山大峰において)

今から約2500年前、ブッダ釈尊が約18年間、人々を説法、教化した土地、場所とされているインド サヘト・マヘト(祇園精舎)。

1980年11月、インド サヘト・マヘトへの仏跡巡拝をされた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。当時、59歳)

今から約2500年前、ブッダ釈尊が多くの人々の前で大神変力を現わしたとされているインド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地において強烈な仏勅、強烈な霊的バイブレーションを受けた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1980年11月8日、当時59歳)

インド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地

今から約2500年前、ブッダ釈尊が多くの人々の前で大神変力を現わしたとされているインド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地において強烈な仏勅、強烈な霊的バイブレーションを受けた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1980年11月8日、当時59歳)

含宗道場において法話をされる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗道場において法話をされる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗道場において法話をされる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗道場において法話をされる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗道場において法話をされる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

1983年8月、チベット仏教ニンマ派より高い僧位(法位)、法号を授かるに相応しい高い霊格を持った人物と判断され、外国人として初めて一切萬霊守護金剛という高い僧位(法位)法号を授かった阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時62歳)

1983年8月、チベット仏教ニンマ派より高い僧位(法位)、法号を授かるに相応しい高い霊格を持った人物と判断され、外国人として初めて一切萬霊守護金剛という高い僧位(法位)法号を授かった阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時62歳)

1986年4月 スリランカのジャヤワルデナ大統領より真正仏舎利を拝受される阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時65歳)

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1990年1月 スリランカの古刹、マハー・マティンダ・ピリベナ寺から真正仏舎利を拝受される阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時69歳)

1992年11月2日、スリランカ仏教シャム派総本山より「輝く平和の大王」という法号を授けられる阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時71歳)

1996年6月、モンゴルのガンダン寺境内において十一面観世音菩薩様を本尊として桐山靖雄大僧正猊下、率いる阿含宗による国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要が厳修された。

この年の2月~6月上旬、モンゴルは大旱魃で雨がほとんど降らず、モンゴル全土で山火事が200箇所以上で燃え広がり数ヶ月間燃え続けていた。

1996年、モンゴル全土で数ヶ月間続いている広大な面積の山火事で、北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失し、まさにモンゴルは国家的な危機状況の中、阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下がモンゴルのジャスライ首相に対し、「明後日のガンダン寺での法要の際、観世音菩薩様に雨が降るようにお祈りします。観世音菩薩様は必ず雨を降らせて下さります。必ず雨が降ります。」と祈りによって雨を降らす事を約束。

そして、モンゴル国ガンダン寺での護摩修法当日未明、ウランバートル市全域に一大雷鳴がとどろき、全市民を驚愕させた。同時に、豪雨が大地を叩き、全市民を歓喜させた。待望の雨の第一陣であった。

さらに、護摩修法後、桐山靖雄大僧正猊下は参拝者の方々の前で、十一面観世音菩薩様がこのように雨を降らせて下さったと語り、十一面観世音菩薩様の偉大なる神通力、お力を称賛された。

モンゴル国ガンダン寺十一面観世音菩薩像

モンゴル国ガンダン寺十一面観世音菩薩図絵

その護摩修法後、モンゴル全土ですさまじい雨が降った。

このモンゴルの奇跡について阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「阿含仏教 超奇跡の秘密 桐山靖雄著 平河出版社」の中で次のように書かれている。

「当時、モンゴルでは昨年末からほとんど雨が降らず、大旱魃に陥っていた。

そこへ、2月から山火事、草原の火事が各地で起こり始め、5月には北海道と四国を合わせたほどの面積が消失し、なおも延焼中という状況であった。

国境を越えて中国領内にもかなりの被害が出ていたようであった。

7月に入らなければ本格的な雨季にならず、この大火災を消すほどの豪雨は望めなかった。

また、降ったとしても鎮火には最低1ヶ月はかかるだろうと報道され、周辺の諸国から憂慮されていた。

6月3日、首相官邸を表敬訪問した私(桐山靖雄氏)は沈痛な面持ちで「雨が降らないので困る。」と話されるジャスライ首相(モンゴル国)に対し「5日の日に行われる国立十一面観音の開眼法要に豪雨を祈るからきっと雨が降りますよ。」と言った。

ごく自然にその言葉が口から出たのである。

別に何の意気込みも気張りもなかった。

気の毒だなと思うと同時に「よし、雨を降らせてあげよう!」という気持ちになったのである。

「私が祈れば必ず雨が降る。」そういう確信があった。

彼(ジャスライ首相(モンゴル国))に「火事は必ず消えますよ。」帰りしなにそう付け加えた。

その夜、深夜、私(桐山靖雄氏)はホテルの一室に籠り、一人、定(瞑想)に入った。

法要の当日までおよそ30分ずつ続けるのである。

法力集中のためである。

その翌日から定(瞑想)に入っていると法が動き出していることを感じた。

実際に草原の彼方に厚い雲が集まり出し始めたのである。

6月5日、法要当日未明に雷鳴が轟き、豪雨が大地を叩いた。

続いて各地に大豪雨が降り続き、法要から5日後、日本の国土の4倍以上もあるモンゴル百数十箇所の大火災が全て完全消火した。

私のモンゴル訪問は前年の11月に決定し、すべてのスケジュールが組まれていたのである。

スケジュールになかったのは雨を降らせることだけだった。

また、モンゴルの文化大臣がこの状況を目の当たりに見、「祈りの力がいかに偉大なものであるかを目のあたりに見て、心から驚嘆しました。」と述べた事を当時の現地の新聞記事が伝えた。

最終的に1ヶ月間は消えないであろうとされていたモンゴル全土の山火事が護摩修法後、モンゴル全土の大雨により6月5日から5日後の6月10日に山火事は完全鎮火した。

また、桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「阿含仏教 超奇跡の秘密 桐山靖雄著 平河出版社」の中でこのような奇跡、このような神変力について仏教語大辞典を引用され、次のように解説されている。

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「神変=仏、菩薩が衆生の教化のため、超人的な力によって種々のすがたや動作を現すことをいう。

神通に同じ。奇跡、あるいは奇跡を行なうこと。

奇瑞=古代インドでは、宗教的に高い境地に達した修行者は、しばしば超人的能力を現したという。

仏教では六通、三明とよび、これらの能力は、禅定とよばれる精神統一の副作用として得られるものと考えられていた。

また、神通は、「信仰の厚い、立派な男によって、奮闘の持続によって、不抜の意力によって、人間の力によって、人間の精神・人間の努力・人間の忍耐によって得られるべきもの」と経典に説かれている。

そういう心構えをもった者が、努力を重ねていくとき、その人間自身でも思いがけないほどの力を現すことがある。」と。

以上ような神通奇跡談について、仏教学者の水野弘元博士はその著書「原始仏教」の中で神通奇跡談について次のように書いておられる。

「今日の合理主義的な考え方からすれば仏陀及び原始仏教が三明六通という奇跡的神通力を説いたことはいかにも仏教の合理性を没却したものであり、おそらく原始仏教では説かれていなかったものを新たに加えられた挿入の不純物に過ぎない。と考える学者がいる。

しかし、仏教を単なる科学や倫理や修養ではなくして宗教であると考える限り、このような神通奇跡の存在は仏教の宗教的要素として極めて価値があり、かつ必要なものである。

2500年の昔において仏教は今日の科学時代にも劣らない合理性や倫理性を有したのであるが、しかし、単なる合理性や倫理性だけではそれは宗教とはなり得ないであろう。

宗教である限り、自らの実践だけではなく、他をも絶対信に導き入れなければならない。

宗教を他の方々に対し教化救済する利他的な宗教面は三明六通というような神通奇跡によって得られるのである。

宗教が多くの人々に信じられていくのは神通奇跡によってである。

また仏教各宗の祖師と言われるような人々も多かれ少なかれ常人を超えた不思議な力を持った人であったに相違ない。」とある。

さらにまた、修験道研究の碩学、五来重(ごらいしげる)博士は阿含宗の機関紙、月刊アーガマ(昭和55年5月号)紙上において次のように説かれている。

「修験道に関する説話や文学には、よく山伏の法験や「験競」(げんくらべ)がかたられている。

今ではそのようなことはありえない超人間的な事跡が伝えられるのは、禅定が真剣に実行された時代には、十分可能だったことをものがたるものであろう。

私は奇蹟がなければ宗教はありえないものと考えている。

奇蹟を否定して、ただ人生観と倫理観の問題を信仰だというのは、哲学であり道徳ではあっても宗教ではない。

宗教の近代化と称して、奇蹟を否定した理性的宗教を正信とし、奇蹟を信じるのを迷信とするのは、宗教の自殺である。」と説かれている。

1996年6月、モンゴル国ガンダン寺境内において十一面観世音菩薩様を本尊として世界平和護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(当時75歳)

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1996年6月、モンゴル国ガンダン寺境内において十一面観世音菩薩様を本尊として世界平和護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(当時75歳)

1996年、モンゴル全土が約1ヶ月間、山火事で国家的な危機状況の中、阿含宗開祖 桐山靖雄管長がモンゴルのジャスライ首相に対し、祈りによって雨を降らす事を約束。

そして、モンゴル国ガンダン寺での護摩修法後、大雨が降った。

また、モンゴルの文化大臣が桐山靖雄管長の祈りの力の凄さに非常に驚いていた事を当時の現地の新聞記事が伝えている。

書籍「密教 超能力の秘密 桐山靖雄著 平河出版社」(1972年初版)参照

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1999年3月6日 インドにおいて印度聖地大柴燈護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(当時78歳)

インド聖地大柴燈護摩法要のご本尊、釈迦如来像と真正仏舎利尊。

1999年3月6日 インドにおいて印度聖地大柴燈護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(当時78歳)

1999年3月6日 1999年3月6日の印度聖地大柴燈護摩供の修法中、真正仏舎利尊から発するご霊光。「一九九九年七の月よ、さらば! 桐山靖雄著 平河出版」参照。

1999年3月6日の印度聖地大柴燈護摩供の修法中、真正仏舎利尊から発するご霊光。「一九九九年七の月よ、さらば! 桐山靖雄著 平河出版」参照。

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1999年3月6日 インドにおいて印度聖地大柴燈護摩法要を修せられる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(当時78歳)

仏舎利とはブッダのご遺骨、いわゆる悟りを開いた方のご遺骨を意味するが、世間一般ではお釈迦様のご遺骨の事を意味する。

約900年前頃の日本で活躍した僧侶、臨済宗の開祖、栄西禅師様(1141年~1215年)も宋の国に留学中、阿育王山  広利禅寺に参拝した折、仏舎利尊から発するご霊光を目撃した体験記が栄西禅師様の著書「興禅護国論」に記載されている。

また、今から約1100年前頃に活躍した日本の僧侶、天台宗 慈覚大師円仁様(794年~864年)は、自身の唐への巡礼紀行体験を記した書籍「入唐求法巡礼記」の中において、仏舎利尊から発するご霊光にまつわる体験記が次のように記されている。

「長年、法華経を読誦していた一人の僧があった。

最近、いくつかの仏陀の遺品が彼に授かった。町中の人々は来て捧げものをした。

寺は僧俗であふれた。どれくらい大勢来たか分からないほどであった。

遺品を発見した由来は、経を読む僧が夜中に彼の部屋に座って経を読んでいると、三本の光が射し込み、部屋全体を輝かせ、寺全体を明るくした。

光りのもとを探すとそれは寺の西の崖のふもとから来たものであった。

毎晩、光はその部屋と寺を照らした。

数日後、僧は光を辿って崖に行き、地面を十フィート以上も掘り下げると、そこには仏陀の遺品を納めた三つの壺があった。

青い瑠璃の中には七粒の舎利があり、白い瑠璃の壺には五粒、金の壺には三粒あった。

彼はそれらを持ち帰り、仏堂に安置して供養を捧げた。

太原府と近郊の貴賤男女や役人たちは位の高いものも低いものもすべて来て尊敬を捧げ、供養した。

誰もがいった、これこそ僧の法華経に対する熱心さがもたらした不思議な力によるものである。と。

町から山へ来る人々は道を埋め、大群衆は礼拝し、驚嘆した。」

書籍『円仁 唐代中国への旅 入唐求法巡礼行記の研究 エドウィン・O・ライシャワー著 田村完誓訳 講談社学術文庫』299頁~300頁 引用。

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さらにまた、今から約1400年前頃に唐の国やインドにおいて活躍した玄奘三蔵法師様(604年~662年)もインドにおいて仏舎利尊から発するご霊光を目撃した体験記が次のように伝えられている。

「さて、ちょうどこのときは正月のはじめであった。

西国の法として、毎年この月にボードガヤの菩提寺では仏舎利を出し、諸国の道俗の人々はみなやってきて来観するならわしであった。

法師(玄奘三蔵)もその年は師のジャヤセーナとともに、舎利骨(しゃりこつ)を見に行った。

あるいは大きくあるいは小さく、大きいのは真珠ぐらいで紅白色に光り輝き、肉舎利は豌豆(えんどう)大で、赤色で光沢があった。

無数の人々が香花を奉献し、礼拝が終わると、その舎利は塔中に還しておくことになっていた。

その日の夜半、ジャヤセーナは法師(玄奘三蔵)とともに見た舎利が大小さまざまであったのを論じ

「私がほかの所で見た舎利は、みな大きさは米粒ぐらいのものであった。

ところがここで見たのは、非常に大きいものだ。

そなたはあれを見て疑わなかったか?」といった。

法師(玄奘三蔵)も、

「いや、じつは私も果たして本当の舎利かどうか、疑わしいと思っていました」と答えた。

するとしばらくして室内に灯火がないのに部屋の内外が非常に明るくなった。

怪しんで外に出てみると、舎利塔の中から空高く光を発し、飛炎天に沖して五彩に輝いていた。

そしてあたりには香気がみなぎった。そこで二人は人々に

「舎利に大神変が起こった。」と言った。

書籍『玄奘三蔵 西域・インド紀行 慧立 長澤和俊訳 講談社学術文庫』205頁~206頁 引用。

玄奘三蔵法師(西暦602年~664年)

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仏舎利を祀る霊験功徳は多くの経典に説かれているが、その多くの経典のうち、代表的な経典、大般涅槃経と悲華経と蓮華面経において、仏舎利について次のように説かれている。

大般涅槃経にいはく、

『天界に住む神々と、僧侶、在家の仏教徒は、仏舎利を得たら七つの宝で出来ている瓶に盛り、これを都城の内なる道地において七宝でできている塔を建立して仏舎利を供養するならば、生きとし生ける一切衆生に大いなる功徳をもたらし、三界に生存する三有の苦しみを離脱し、涅槃の安楽に至らせるであろう。

仏舎利を供養するということは、まさに生ける仏を供養することなのである。』

悲華経にいはく、

『衆生の福尽きて、三災(刀兵、飢饉、悪疫の三つの難)まさに現れ、経巻地に没して、衆生みな死に瀕する時が来る。

この時にあたって、仏舎利、金剛際より出でて、大虚空に昇って、種々の花を雨らす。

その花の中にもろもろの珍宝、名衣、百味の飲食を雨らす。その花の中に声を発して、法を説く。衆生、聞いてみな菩提心を発(おこ)す。』

蓮華面経にいはく、

『舎利の光明はるかに奈利(地獄)を照らす。

罪業の衆生、この光を受けて抜苦与楽すること、称計するべからず。』

書籍『守護仏の奇蹟 桐山靖雄著 平河出版社』参照。

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『守護霊の系譜 桐山靖雄著 平河出版社』参照。

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真言密教の第五祖、不空三蔵様(705年~774年、生地はインドもしくは唐国)が釈尊の仏舎利を禮敬する意を述べた文章に舎利禮門(しゃりらいもん)という経文があります。

この舎利禮門は真言宗や曹洞宗などの法要、日々の勤行において読経する場合がよくあります。

参考までに、その舎利禮門の経文の全文は以下の通りです。

舎利禮門(しゃりらいもん)

一心頂禮(いっしんちょうらい)
萬徳園満(まんとくえんまん)
釈迦如来(しゃかにょらい)
真身舎利(しんじんしゃり) 
本地法身(ほんじほっしん)  
法界塔婆(ほうかいとうば)  
我等禮敬(がとうらいきょう)   
爲我現身(いがげんしん)  
入我我入(にゅうががにゅう) 
佛加持故(ぶつかじこ) 
我請菩提(がしょうぼだい)   
以佛神力(いぶつじんりき)  
利益衆生(りやくしゅじょう)  
発菩提心(ほつぼだいしん)  
修菩薩行(しゅぼさつぎょう) 
同入園寂(どうにゅうえんじゃく)  
平等大智(びょうどうだいち)  
今将頂礼(こんじょうちょうらい) 

とお唱え致します。

中国の阿育王寺にある真正仏舎利を祀る舎利殿

仏教篤信者の夢の神秘体験

インドの古代奥義書、ウパニシャッドの中に「深い睡眠と真実の自己はつながっている。」という言葉がある。

確かに、思い起こせば、篤信の仏教信仰者、いわゆる信心深い仏教信仰者にある種の夢の啓示を受けた方が何人かおられる。

たとえば、真言宗の開祖、弘法大師空海は若い頃の修行時代、夢の中に毘盧遮那仏が現れ、「汝の求めているお経は久米寺の東塔の下にある。」と教えられ、久米寺に行くと空海の求めていたお経、大日経、いわゆる大毘盧遮那神変加持経を発見したという話がある。

         奈良 東大寺 毘盧遮那仏像 

 

       真言密教開祖 弘法大師空海

また、弘法大師空海が求法の為、密教の奥義を求め、唐(今の中国)に渡り、唐の大阿闍梨、いわゆる密教の専門家、密教の大導師、密教の大家である恵果和尚に会った。

 

        遣唐使船に乗船する弘法大師空海

       遣唐使船に乗船する弘法大師空海

         遣唐使船に乗船する弘法大師空海

                         恵果和尚

そして、恵果和尚は空海を一目見、言葉を交わすごとに、恵果和尚は空海の持つ天性のずば抜けた学問、識見、才能、仏性、人格、仏器、なによりも密教の師匠としての器の非凡さ、凄さに大変惚れ込み、今まで恵果和尚の高弟たちにさえも金剛界法、胎蔵界法の両部の大法をほとんどの弟子たちに授けることはなかったが弘法大師空海に対しては特別に両部の大法を惜しげもなく授けた。

       恵果和尚から伝法を受ける弘法大師空海様

恵果は空海に対し、恵果のお弟子、3000人以上いる弟子の中の特に優れた弟子、いわゆる高弟以上の処遇対応、指導教化をした。

そして、インドから中国へと代々続く密教の祖師の系譜があり、恵果和尚はその七代目であり、弘法大師空海を恵果に次ぐ真言密教の第八代目の祖師に指名、任命した。

そして空海に遍照金剛(へんじょうこんごう)という称号を授けた。

遍照金剛とは大日如来を意味する。

恵果和尚は空海に対し、全ての密教の大法秘法を授け、空海に対し、早く日本に帰り、日本にこの密教の秘法を広く弘め、民衆を益するよう空海に託した。

             大日如来

それを見た恵果和尚の高弟の珍賀が恵果和尚に対し強く抗議し、

「たかだか三ケ月程前に突然現れた異国の僧に対して、我々を差し置いて、これほどまでに破格の厚遇、指導をするのは、おかしいのではないか?」と恵果和尚をたしなめた。

しかし、その夜、珍賀の夢の中に仏教の外護神、四天王たちが現れ、夢の中で珍賀は仏教の外護神の四天王たちに囲まれ、凄い叱責を受け、殴られ、蹴られたりする夢を見た。

翌朝、目覚めた珍賀は弘法大師空海に対し今までの非礼を詫び、恵果和尚の考えに間違いは無いと考えを改め、他の門下生にも恵果和尚の考えに間違いがないことを説きまわったとされている。

恵果和尚の高弟の珍賀が師匠の恵果和尚に対し「たかだか三ケ月程前に突然現れた異国の空海に対し、我々を差し置いて、これほどまでに破格の厚遇と指導をするのは、おかしいのではないか?」と師匠の恵果和尚をたしなめ、抗議する様子。

「空海が破格の厚遇と指導を受けるのはおかしい」として、師匠の恵果和尚をたしなめ、恵果和尚に強く抗議した珍賀はその夜、珍賀の夢の中に仏教の外護神の四天王たちが現れ、外護神に囲まれ、外護神に凄い叱責を受け、殴られ、蹴られたりする夢を見た。

珍賀は夢の中で外護神に凄い叱責を受け、殴られ、蹴られたりする夢を見た翌朝、空海に対し、今までの非礼を詫びた。

次の夢に関する話として、霊友会4代目の会長の大形市太郎氏は昭和20年8月に原子爆弾の被害を受け、その原子爆弾の熱線で全身大やけどをしたが、ある夜、信心深い市太郎氏の母親の夢の中に先祖が現れ、「おまえの息子の大やけどは私が教える場所の薬屋で私が教える薬を買い、その薬を全身に塗ればきれいに治る。」といわれた。

母親は市太郎氏にその話をして市太郎氏は「原爆で跡形もないであろう。」と思いながらも母が夢の中で見た先祖が言われた通りの道を行くと不思議にもその薬屋は原爆で破壊されていなかった。

そして、市太郎氏はその薬屋で先祖が言われた通りの薬を買い、母親にやけどをした全身の皮膚にその薬を塗ってもらった。

のちに、市太郎氏の友人たちは病院で治療を受けたが原爆のケロイドは残った。

しかし、市太郎氏にはケロイドは残らなかったという。

そのことが契機となり無宗教、無信心、無信仰者であった市太郎氏は「信仰の力、目に見えない力というものは確かにあるんだ。」と考え、その信心深い母親にお経の読み方を一から教えて欲しいと頼んだ。という。

(雑誌 一個人 仏教を愉しむ旅 2005年 No.56  KKベストセラーズ参照)

次の夢に関する話として、瑜伽師地論という論書は仏教の百科全書ともいわれている大部の論書であるが、昔、インドにおいてその瑜伽師地論を修めたインドの戒賢という僧侶がいた。

戒賢はある時期から重い病に伏し、苦しみのあまり食を断って死を覚悟する状態であった。

ある夜、病に伏す戒賢は夢の中に文殊菩薩、弥勒菩薩、観音菩薩、3人の菩薩が現れ、戒賢にこう言った。

 

「3年後に中国から一人の青年が瑜伽師地論を学びにこの寺にやってくる。その青年に汝の修めた瑜伽師地論を教え導くと誓うならば汝の病は速やかに癒えるであろう。」

と言われた。

戒賢は「そのようにします。」と答えると3人の菩薩は姿を消し、戒賢は目を覚ました。

そして、しばらくすると戒賢の重い病も次第に悉く癒えてしまった。

そして、戒賢がその夢を見た3年後にこの寺にやってきた青年が玄奘三蔵法師であったという。

玄奘三蔵法師

その玄奘三蔵が戒賢から瑜伽師地論を学び、また、大般若経600巻という大部のお経も中国に持ち帰り、中国において梵語(インドの言語)から漢語(中国の言語)に翻訳する作業をしていた時、大般若経の翻訳量があまりにも膨大過ぎ、かつ、同じ文言の繰り返しが非常に多いので、繰り返しの箇所は省略して翻訳するように決めた。

しかし、そのように決めたその夜、玄奘三蔵は虎に襲われる夢や崖から突き落とされる夢を見たりし、物凄い恐ろしい思いをし、翌朝目を覚ました。

玄奘三蔵は、これは「翻訳は一切省略せずに全てを翻訳しろ!」という御仏の意思に違いないと考え、翌朝、同じ文章が重複するところも一切、省略せずに翻訳しようとした。

そのように全て省略せずに全翻訳を心に決めたその夜、玄奘三蔵は天国のような、まるで極楽浄土にいるかのような快楽に溢れた誠に心地のよい夢を見た。

翌朝、目覚めた玄奘三蔵は大般若経は一切省略せずに訳すことが御仏の意思であると確信し、大般若経600巻を全て省略せずに全翻訳することにした。

そして数年の歳月をかけ、玄奘三蔵は600巻もある大部の大般若経の完全翻訳を完遂したのであった。

さて、次の仏教信仰者と夢に関する話として、浄土真宗の開祖である親鸞聖人も京都にある観音ゆかりのお寺、頂法寺の六角堂に長期間、籠もり95日目に夢の中に観音様が現れ観音様からお告げを得たと言われている。

さて、次は夢の話ではなく、座禅中の神秘体験の話であるが、天台密教の高僧、智証大師円珍は座禅中、目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧め、帰依するならば汝を守護する。と言った。

  天台密教 智証大師円珍

円珍が何者であるのかと問うと、

金人は「自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っている。」答えた。

さらに、その金色不動明王は次のように言った。

黄不動明王

「仏法の真髄を伝える汝を守護するために示現するものなり。

仏の教えを究めて迷える衆生を導くべし。」と。

その姿は魁偉奇妙、威光熾盛で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。

円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に銘じて写させたという。

仏教が説く地獄の世界と慈悲の精神

仏教経典には地獄という世界が説かれている。

地獄とは悪い事をした者が死後に生まれ赴く極めて苦しい、極めて残虐で悲惨な世界。

人や生き物を殺したり、いじめたり、苦しめたり、悩ませたり、悲しませたり、困らせたりした者、人の物を盗んだり、人をだましたりした者が死後に赴く世界。

特に、阿含経、正法念処経、大智度論などの経典論書において地獄について詳しく解説した箇所がある。

日本において地獄の観念が多くの人々に弘まった大きな原因のひとつは今から約1000年ほど前、天台宗の源信という僧侶が「往生要集」という書物を著し、その書物が多くの人々に読まれたからであろう。

この「往生要集」は今から約千年程前に書かれた書物で現在に至るまで多くの人々に読まれている。

この「往生要集」で引用されている経典の種類は極めて多く、源信様がいかに多くの経典を読まれたかが分かる。

往生要集は浄土宗に大きな影響を与えた書籍である。

この往生要集は宗(約千年前の中国の国名)の国に贈呈され台州の周文徳という方が往生要集を国清寺に収められた。また周文徳は源信を小釈迦源信如来として賛嘆、褒め称えた。

          源信僧都

また、シナ(中国)の真宗皇帝も源信を賛賞する事切なるものがあったという。

日本国においても今迦葉、迦葉とはお釈迦様の在世当時の十大弟子の一人 優秀な高弟の名前と呼ばれ、源信を賛賞する事切なるものがあったという。

この書物の前半では地獄界 餓鬼界などの状況等について各教典論書を引用し具体的に書かれている。

又、どのような行為によりどういう境涯(例えば地獄界、餓鬼界、畜生界など)に赴くのかが記載されている。

                   書籍「日本思想大系6 源信 岩波書店」参照。

また仏の三十二相についても具体的に説かれている。

どういう種類の良い行いにより良き報い、良き境涯、優れた仏の外観相形などを得られるのかという事も書かれている。

   書籍「日本思想大系6 源信 岩波書店」参照。

地獄絵は文字が読めない人々や子供達に対し仏教の教義を分かり易く解説する役割を果たし、多くの人々に倫理観、道徳意識、勧善懲悪の観念を植え付け、また地獄に対する恐怖心が凶悪犯罪の防止、犯罪抑止力の役割を果たしていたと考えられる。

また、仏教経典 雑阿含経第十九のなかに屠牛者経 屠羊者経 殺猪経 猟師経というお経がある。

例えば屠牛者経を例に挙げると、そのお経の概要は、釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(生きている間)において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

また、わたくし(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

さらに、屠羊者経 殺猪経 猟師経も屠牛者経と同様、大体似た内容で説かれている。

さらにまた、仏教のお経の阿含経の中に「好戦経」というお経があります。

書籍「国訳一切経 阿含部2 大東出版」参照。

戦争を好み刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

又「堕胎経」というお経もある。

  書籍「国訳一切経 阿含部2 大東出版」参照。

内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。
「好戦経」 「堕胎経」は「国訳一切経 (印度撰述部 阿含部 2)」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 (第2巻) (普及版大正新脩大蔵経)」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

国訳一切経、大正新脩大蔵経は内容がかなり専門的であり一般の方々、特に仏教書をあまり読まれた事がない方々にとって読んで理解するのに困難な一面があると思われる。

「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考―霊的バイオ・ホロニクスの時代」という書籍がある。

その書籍の中において「好戦経」「堕胎経」を非常に分かり易く説かれている箇所がある。

仏教経典「国訳一切経 (印度撰述部 阿含部 2)」という書籍の中の雑阿含経第十九に屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前、生きている間において人間や動物達等の生き物の屠殺、殺す事、殺生、生き物を殺す事を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業、罪障の報いにより非常に長い年月の間地獄、すなわち、大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒、地獄の鬼達により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界に赴き多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達、カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

真言宗開祖、弘法大師空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において中絶(ちゅうぜつ)、堕胎(だたい)の果報、業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経)( 大正新脩大蔵経 (第17巻) の五五八頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。そのお経の概要は

「一人の鬼あり、その鬼が仏弟子である目連尊者に対してこう問いかけた。「私(鬼)の身体は常に肉の塊(かたまり)にして手、脚、眼、耳、鼻等あること無し、つねに多くの鳥達に体をついばまれ、食べられ、耐えられない程苦しい。何が原因でこういう苦しみに遭(あ)うのか」

目連尊者は答えて言った「あなたは前世(前生)においてつねに他者に薬を与え他者の胎児(たいじ)を堕(おろ)した。胎児を中絶させた。胎児を殺害した。このような行為、因縁、業報により死後、現在においてこのようなひどい苦しみを受けている。これは(あなたが作った)果報、行為の報い、罪の報いであり、地獄の苦果、苦しみはまさに後身にあり(果報の報いはあとになって受ける)」とある。

(鬼という言葉は死者を意味する。昔は死ぬ事を鬼籍に入ると言った。)

真言宗開祖、弘法大師空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において盗み、窃盗、泥棒、収奪の業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経) 大正新脩大蔵経 (第17巻) 五五七頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は  「ある一人の鬼(死者)がいた。その鬼が仏弟子である目連尊者に対しこのように質問した。

「私の腹は極度に大きく、のど、手足は極度に細くて食べ物や飲み物を取ること、食事をする事が出来ない。何が原因でこのような苦しみを受けるのか。
目連尊者は答えて言った.

「あなたは前世(前生)において高い地位にあり富貴、裕福で、さまざまな食事、お酒を大いに楽しんだが、他の人々を軽視し、侮り(あなどり)、見下し他の人々の飲食を奪(うば)い取り、他人を飢(う)えさせ、他人を困らせた。

このような他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた行い、行為、因縁、業報、罪の報いによりこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、業報であり、このような罪の報いによる地獄の苦しみは後になって受けるのである」

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次に、比較的初期の仏教経典とされる「法句経」(ダンマパダ)において閻魔王(えんまおう)という名前が出てくる。

閻魔王とは死後の世界における人間を中心とした生き物達が生前、つまり生きていた時に行った悪事を裁く存在、すなわち死後の裁判官のような存在。

 

法句経(ダンマパダ)において仏陀はその存在についてこのようにお説きになられている。

「汝はいまや枯葉のようなものである。

閻魔王(えんまおう)の従卒もまた汝に近づいた。

汝はいま死出の門路に立っている。

しかし汝には旅の資糧さえも存在しない。

だから自己のよりどころをつくれ、すみやかに努めよ。

賢明であれ、汚れをはらい、罪過がなければ天の尊い処に至るであろう。

汝の生涯は終わりに近づいた。

汝は、閻魔王の近くにおもむいた。

汝にはみちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。

だから自己のよりどころをつくれ。

速やかに努めよ。

賢明であれ。

汚れをはらい、罪過(つみとが)がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう」とある。

また、「スッタニパータ」において釈尊は次のようにお説きになられている。

「何者の業も滅びる事はない。それは必ず戻ってきて業を作った本人がその報いを受ける。愚者は罪を犯して来世にあってはその身に苦しみを受ける。

地獄に落ちた者は鉄の串を突き刺される所に至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。

また灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは昔作った業にふさわしい当然な事である。

地獄の獄卒どもは「捕らえよ」「打て」などといって誰もやさしい言葉をかけることなく、温顔をもってむかってくることなく、頼りになってくれない。

地獄に落ちた者どもは敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

また、そこで地獄の獄卒どもは鉄の縄をもって地獄に落ちた者どもをからめとり鉄槌をもって打つ。さらに真の暗黒である闇に至るがその闇は霧のように広がっている。

また、次に地獄に落ちた者どもは火炎あまねく燃え盛っている銅製の釜に入る。火の燃え盛るそれらの釜の中で永い間煮られて浮き沈みする。(中略)。

罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。

だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなし、おろそかにしてはならない。」

パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ及び漢訳仏典雑阿含経において ブッダ(仏陀、等正覚者)はこうお説きになられている。

 

 

「悪行(悪い行為)をした者は肉体が滅んだ死後に苦悩・災いの世界、不幸な状態、煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」

「信仰もなく貪欲で利己的で悪い思いを抱き、誤った主義に生きて敬愛の心がなく、僧侶や托鉢をする人を嘲(ののし)り罵(あざけり)り心に怒り心を抱き食を乞う者に誰かが与えようとするのを邪魔する者。

このような人が死後恐ろしい煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」とある。

つぎに、「白隠禅師法語全集 第1冊 邊鄙以知吾・壁訴訟」という本がある。

白隠禅師法語全集 第1冊 邊鄙以知吾・壁訴訟

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この書籍は江戸時代に活躍された臨済宗の白隠禅師が書かれた書籍である。

その内容は江戸時代の一部の殿様や将軍達の農民に対する貪欲かつ暴利を貪るが如き年貢の要求、冷酷な年貢の取立て、またその冷酷無慙な取立てにより農民達が苦しめられ、追いつめられ、ついには農民一揆という行動をとらざるを得なくなり、最後には農民達が死罪に追い込まれていった詳しい事情経緯がこの本に書かれている。

また、この本で白隠禅師は苦しめられ追いつめられていく農民の姿を見てお殿様や将軍達にこう批判した。

「あまり農民達を冷酷、過酷な取り立てで苦しめ追いつめると来世(死後)には農民達を過酷な取り立てで追いつめ苦しめた罪、悪事、悪業の報いによってお殿様や将軍様が死後において過酷で残虐、悲惨な地獄の苦しみを受けることになりますよ」と忠告及び批判をしている。

この本は江戸時代には一時発禁処分の書籍であったという。

現代の世相にも相通ずるものがあり、考えさせられる。

次に、「極悪非道な行いをした者は死後、地獄に堕ち極めて残虐悲惨な苦しみを受ける」と多くの仏典に説かれている。

最古の仏典スッタニパータやパーリ中部経典の中の賢愚経、漢訳仏典中阿含経の癡慧地経において仏陀はこのように説かれている。

「仮に賭博(とばく)や博打(ばくち)に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運があったとしても、罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後、地獄へ堕ち、膨大な年数、極めて残虐悲惨な苦しみを受ける地獄での大苦痛大苦悩に比べれば賭博、博打に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運などはとるに足らない僅(わず)かな不運である。」

つまり、「罪、悪事を犯しその罪、悪事の報いにより死後地獄へ堕ち、膨大な年数、残虐で極めて悲惨な苦しみに遭遇する地獄へと堕ちる不運こそが最悪の大不幸、大不運である。」という内容が説かれている。

また、地獄にも種類があり阿鼻地獄、無間地獄という地獄がある。

阿鼻地獄(無間地獄)は最も極悪非道な行為をした者が赴(おもむ)く地獄であり、最も痛み苦しみの激しい、極めて残虐極めて悲惨な地獄であると仏典に説かれている。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 七 大東出版社」

長阿含経 第十九巻 地獄品 参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 七 大東出版社」

長阿含経 第十九巻 地獄品 参照。

 

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 三 大東出版社」

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 三 大東出版社」

仏教にとって人間に生まれてくる事は非常に良き生まれであると説く。

人間にとって神々に生まれる事は良き生まれであるといわれるが神々にとっては人間に生まれる事が良き生まれであるといわれている。

輪廻転生の世界では衆生(生き物達)は地獄界や畜生界に生まれ替わる方が人間界に生まれ替わるよりも圧倒的に多いと仏典では説きます。(阿含経 増支部経典参照)

仏教の目的はこの輪廻転生からの脱出を説きます。

本質的に仏教はこの六道輪廻の世界を苦しみの世界とみなしそこからの離脱を目指します。

 

仏典に修行を完成した表現として
「現法の中において、自身作證し、生死已に盡き、梵行已に立ち、所作すでに辨じ、自ら後生を受けざるを知る、すなわち阿羅漢果を得たり」とあります。
(阿含経 長部経典参照)
国訳一切経 (印度撰述部 阿含部 7)

仏教 下 (岩波文庫 青 324-2)」という書籍がある。
この書籍において著者は仏陀の教理を五つの章に分類して解説している。

すなわち信仰 戒律 瞑想 英知 解脱である。特に瞑想の章では仏陀の最高の悟りに至るまでの具体的な心理的、霊的進行状態を各経典群を引用し更に詳しく解説しており瞑想実践者にとっては非常に興味深い。

著者は近代ヨーロッパの仏教学者であるが、主にパーリ仏典の文献を引用している。
つまり大乗仏典ではなく日本の仏教界では長年小乗経典と蔑まれてきた阿含経典群を主に引用されている。

仏陀釈尊は特に禅定(瞑想)に入っていない日常の精神状態であっても定(禅定)にあるのと同じように無念無想の精神統一を得られていたとされる。

阿含経に「那伽(ナーガ)は常(つね)に定(じょう)に在(あ)り。」という一節がある。実際に仏陀釈尊は禅定の熟達者であったと経典に伝えられている。この経典の中で那伽(ナーガ)とは仏陀釈尊を意味する。定とは瞑想、禅定を意味している。

また南伝大蔵経の増支部経典において「那伽(ナーガ)は行(ゆ)くにも定(じょう)にあり、那伽(ナーガ)は立(た)てるも定にあり、那伽(ナーガ)は臥(ふ)すにも定にあり、那伽(ナーガ)は座(ざ)せるにも定にあり」とある。

また、漢訳仏典の中阿含経118の龍象経においても「龍行止倶定、坐定臥亦定、龍一切時定、是謂龍常法」とある。仏典中の龍(竜)とは優れた修行者を意味する事もある。この経典の中の那伽(ナーガ)、龍(竜)とは仏陀釈尊を意味する。 龍(竜)をサンスクリット語でナーガと云う。

また仏教の禅定は外学(仏教以外の宗教)の主定主義者(つまり禅定そのものが目的の学派)と異なり般若の智慧を得る手段としての禅定でなければならないとされる。

「阿含経 長部経典」の「迦葉獅子吼経」の中で仏陀は苦行者の迦葉に向かってこう説かれた。

「外面的な規定を守ることによってではなく、倫理的行為と霊的自制と智とを完成させることにより、さらに内面的な憎しみとあらゆる敵意を克服し慈愛深い心をもつ者のみが解脱に到達する見込みがある」と説かれた。

仏典「スッタニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

「一度生まれる生き物(胎生つまり母胎から生まれる生き物)でも、二度生まれる生き物(卵生、つまり卵から生まれる生き物)でも、この世で生き物を害し、生き物に対する哀(あわ)れみのない人(慈悲心のない人)、彼を賤(いや)しい人であると知れ」

「母、父、兄弟、姉妹或いは義母を打ち、また言葉で罵(ののし)る人、彼を賤(いや)しい人であると知れ。」

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。いかなる生き物(いきもの)生類(しょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも強剛(きょうごう)なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」

「あたかも、母が己(おの)が独り子を命を賭けても護(まも)るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈(いつく)しみの心を起こすべし。

また全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。

上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。

立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりたもて。

この世では、この状態を崇高(すうこう)な境地と呼ぶ。」

お釈迦様ご自身の瞑想により体験して説かれた輪廻転生と因果応報の思想

仏教の根本的な教え、ブッダ、真理に目覚めた等正覚者達の最も重要な教えとは

「善いことをせよ。悪いことはするな」

という倫理、道徳の実践の教えであるといえる。

漢訳仏典において

諸悪莫作(しょあくまくさ)

衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)

自浄其意(じじょうごい)

是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

という七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)がある。

また、パーリ仏典の法句経(ダンマパダ)において

「一切の悪をなすことなく、善を具備実践し、自分の心を浄化すること、これが諸仏の教えである」

という仏教の古い言葉がある。

その仏教の開祖であるお釈迦様という方は紀元前五世紀頃、つまり、今から約2500年程前に現在のネパール領でお産まれになった方である。

お釈迦さまは王族の出身という高貴な家柄出身であり、また物質的にも非常に恵まれた身分でありました。

しかし、様々な苦悩を解決するため29才で出家修行者として修行を重ねました。

   

最終的には35才で瞑想によって悟りをお開きになって、覚者、つまり、ブッダ、いわゆる、真理に目覚めた方になったと語り継がれています。

  

釈尊は35才で悟りをお開きになり、ブッダになられてから80才でお亡くなりになるまでの約45年間、広大なインドの大地を旅して歩き、多くの方々に仏教の教えを説き、仏の教え、仏の法を弘めました。

  

 

死後、その教えは優れた弟子達により仏教経典としてまとめられ、現在に至るまでその教えは仏教経典として伝えられています。

 

  

その仏教の教義の中に瞑想法、精神統一、禅定といった極めて重要な修行法があります。

その精神統一、瞑想、禅定の修練、 熟逹により豊かな智慧が獲得出来るとされます。

   

その瞑想修行に関して、仏陀(ブッダ)はパーリ仏典において次のようにお説きになられています。

「修行者が修行により心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、そのもの自身が堅固不動のものになると、修行者は生き物達の死と再生について知る事(死生通)に心を傾け、心を向けるのです。

そして、修行者は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知るのです。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

 

 

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。修行者は知る。」

と説かれています。

また、仏陀(釈尊)になられた時の瞑想による真理の覚醒の課程は三夜にわたる智の開眼、智慧の獲得で説明されます。

最初に、第一夜(初夜 夜6時~夜10時頃)において釈迦(釈尊)は瞑想によって自らの百千の生涯、幾多の宇宙の成立期、破壊期、成立破壊期を残らず想起した。

いわゆる宿明智の獲得。

次に、第二夜(中夜 夜10時~夜中2時頃)において天眼(清浄で超人的、神的な透視力)により生き物達が無限の生死循環(輪廻転生)を繰り返す様を見透す。

いわゆる天眼智の獲得。

最後に、第三夜(後夜 夜中2時~朝6時頃)において「一切(輪廻転生の本質)は苦である」という認識を得、縁起の法を悟って覚醒、漏尽解脱、智慧解脱の完成を得た。

いわゆる漏尽智の獲得。

また、その輪廻転生には分段生死(ぶんだんしょうじ)と変易生死(へんやくしょうじ)と云う種類の転生があります。

分段生死とは凡夫の輪廻転生を意味し、六道輪廻つまり

地獄界(極めて苦しい残虐悲惨な境涯)、

餓鬼界(飢え、乾きに苦しむ境涯)、

畜生界(動物の境涯)、

修羅界(争いの境涯)、

人間界(人間の境涯)、

天界(天、神の境涯)の六種類の境涯を衆生(生き物)が何回も何回も際限なく輪廻転生していく転生を意味します。

  

一方、変易生死とは聖者の輪廻転生を意味し、聖者が仏陀の境涯に向かって修行していく過程、聖者としての境涯が後退せず上昇していく転生を意味します。

変易生死(へんにゃくしょうじ)について詳しく解説すると、例えば聖者の境涯に預流(よる)という境涯があります。凡夫が仏道修行により修行の境涯が進むと先ず預流という聖者に成ります。預流とは聖者の流れに入った者の意を表し、預流になると地獄界、餓鬼界、畜生界という最も苦しみの度合いが激しい三悪道の境涯には二度と生まれ変わらないとされています。

そして最高位の聖者である仏陀に成るまで三回~七回程度、人間界と天界への生死を繰り返し最後には必ず仏陀の境涯に至る事が出来るとされています。

輪廻転生の世界では衆生(生き物達)は地獄界や畜生界に生まれ替わる方が人間界に生まれ替わるよりも圧倒的に多いと仏典では説きます。(阿含経 増支部経典参照)

仏教にとって人間に生まれてくる事は非常に良き生まれであると説きます。

人間にとって神々に生まれる事は良き生まれであるといわれるが神々にとっては人間に生まれる事が良き生まれであると説きます。

仏教の目的はこの輪廻転生からの脱出を説きます。

本質的に仏教はこの六道輪廻の世界を苦しみの世界とみなしそこからの離脱を目指します。

お釈迦さまの教えはお釈迦さまの死後、多くの方々の努力により、主に中国  朝鮮  日本 ネパール チベット  タイ スリランカ  ビルマ ブータン ラオス ミャンマーなどのアジア諸国を中心に広まり、近年では欧米各国にも広まりつつあります。

燃燈仏

釈尊の何世代も前の前の前のはるか大昔の釈尊の前世において、釈尊がスメーダという名前の若者であったときに帰依したブッダが燃燈仏という名前のブッダであった。

(写真をクリックすると大画面に表示されます。)

釈尊の母、マーヤ夫人の懐胎(インド彫像)

(写真をクリックすると大画面に表示されます。)

釈尊の母が釈尊を出産する光景(チベット仏画)

釈尊の母、マーヤ夫人(チベット仏画)

釈尊の母、釈尊を出産(インド彫像)

産まれたばかりの釈尊に産湯をかける従者たち

釈尊の将来を占うアシタ仙人

青年時代、物質的に恵まれた生活を過ごした釈尊

修行時代、仙人のもとを訪ねる釈尊

禅定の達人者、アーラーラ・カーラーマの弟子になる若き頃の釈尊

苦行する釈尊。

断食修行を終え、瞑想修行に入る前、体力と気力を回復するため、

スジャータという名前の若い娘から乳粥の供養を受ける釈尊。

悟りを開く前、数々の悪魔が来襲し、

釈尊の悟りを開く修行の妨害をする悪魔の軍勢。

悟りを開く前、数々の悪魔が来襲し、

釈尊の悟りを開く修行の妨害をする悪魔の軍勢。

瞑想する釈尊

悟りを開いた釈尊

釈迦成道仏画(チベット仏教)

釈尊降魔成道像(インド)

釈尊降魔成道像(インド)

釈尊が悟りを開いた場所とされている金剛宝座と菩提樹(インド ブッダガヤ)

書籍『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

書籍『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~2016年)

悟りを開いた釈尊に対し、

人々に説法して下さるよう釈尊にお願いをする梵天

釈尊の初めての説法

釈尊初転法輪像(サールナート)

ムチャリンダ龍王の守護

(写真をクリックすると大画面に表示されます。)

ムチャリンダ龍王の守護

(写真をクリックすると大画面に表示されます。)

三迦葉の帰仏

(釈尊在世当時、3人の大修行者、大仙人が釈尊に帰依した様子。)

(写真をクリックすると大画面に表示されます。)

拝火教徒たちの釈尊への帰仏

(写真をクリックすると大画面に表示されます。)

釈尊の説法に聞き入る聴衆。

釈尊の説法

ブッダへの供養

洞窟内で瞑想するブッダ

(絵をクリックすると大画面に表示されます。)

酔って暴れる象が、釈尊の威徳に打たれ平伏する様子。

(絵をクリックすると大画面に表示されます。)

子供からの布施、供養を受けるブッダ

釈尊の在家信者で大富豪のスダッタ長者が釈尊、及び、釈尊の弟子、僧侶達の生活、修行する場所として広大な土地、後の祇園精舎と呼ばれる広大な土地を釈尊に寄進する様子。(写真をクリックすると大画面に表示されます。)

舎衛城の神変(シュラヴァスティの神変)

(絵をクリックすると大画面に表示されます。)

舎衛城の神変(シュラヴァスティの神変)

釈尊が病人を看護する様子。

釈尊の入滅直前の様子(死去前)(チベット仏画)

釈尊入滅、釈尊のご遷化(せんげ)(死去)

釈尊涅槃図絵(高野山 金剛峯寺)

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釈尊涅槃絵  釈尊ご遷化(せんげ)図絵

(釈尊涅槃図絵 日本国 和歌山県 高野山 金剛峯寺)

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釈尊のご遷化(せんげ)、ご逝去の時のご尊顔

(日本 高野山 金剛峯寺)

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釈尊の十大弟子の一人である

阿難尊者が釈尊の死を悲しむ様子(スリランカ石像)

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釈尊の御遺骨(仏舎利)を祀るストゥーパ(仏舎利塔)を礼拝する人々

釈尊の御遺骨(仏舎利)を祀るストゥーパ(仏舎利塔)を守護する龍王

地蔵菩薩

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チベット仏教 生死輪図

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閻魔大王

死後、閻魔王の御前において生前の悪い行いの様子を

瑠璃鏡で見せられる亡者

我が子の前で地獄の獄卒に引かれていく罪人

地獄の獄卒

地獄絵

地獄絵

地獄絵

地獄絵

地獄絵

地獄絵

地獄絵

地獄絵

餓鬼界に堕ちていた母に食べ物を与え、母がその食べ物を食べようとするも

母の口から火が噴き食物が食べられない様子を見て号泣する仏弟子の目連尊者

餓鬼と対面する仏弟子の阿難尊者

餓鬼たちに食物を分け与える僧侶たち

飢えに苦しむ餓鬼たちに食べ物を分け与える仏様

チベット仏教 生死輪図

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竜樹菩薩(南インド)(チベット仏教図絵)

竜樹菩薩(南インド)(日本仏教絵)

釈尊が悟りを開いたとされているブッダガヤ(インド)

仏足石(ネパール)

釈迦牟尼仏像(チベット)

大仏像(スリランカ)

ボロブドゥール遺跡 仏像(インドネシア)

大仏像(タイ)

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カクラク壁画(アフガニスタン)

大仏像(中国)

大仏像(中国)

大仏像(中国)

 

玄奘三蔵法師(中国)     

     

玄奘三蔵法師が中国からインドへの求法の旅の途上、砂漠で遭難しそうになり、精魂尽き果て倒れこみ、死を覚悟した際、助けに現れる深沙大将

(深沙大将は後の「西遊記」の沙悟浄のモデルになる。)

奈良 東大寺 毘盧遮那仏像(日本)

奈良 東大寺 毘盧遮那仏像 御尊顔(日本)

奈良 東大寺 毘盧遮那仏像 御尊顔(日本)

奈良 東大寺 毘盧遮那仏像 御尊顔(日本)

奈良 東大寺 毘盧遮那仏像の御手(日本)

弘法大師空海(真言宗開祖)(日本)

遣唐使船に乗船する弘法大師空海

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遣唐使船に乗船する弘法大師空海

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湧現観音(遣唐使船に乗船する空海の前に現れた湧現観音)

湧現観音(遣唐使船に乗船する空海の前に現れた湧現観音)

黄不動明王

中村元博士(インド哲学、仏教学の世界的権威)(日本)

桐山靖雄師(阿含宗開祖)(日本)

桐山靖雄師(阿含宗開祖)(日本)

チベット仏教 第十四世 ダライ・ラマ法王猊下(チベット)



Enseñanza budista

“Si un hombre obra mal,que no lo haga una y otra vez,que no se recree en ello.Dolorosa es la acumulación del mal.

El malhechor todo lo ve bien hasta que su mala acción da fruto,pero cuando madura la fruta,entonces ve sus desafortunados efectos.

Incluso una buena persona puede experimentar dolor al obrar bien,pero en cuanto el fruto se produce,entonces experimenta los buenos resultados.

Algunos nacen de matriz; los malévolos nacen en estados desgraciados;los autodominados van a estados benditos;los iluminados obtienen el Nibbana.

Ni en los ciclos ni en medio del océano,ni en una gruta en las montañas se halla un lugar donde uno pueda permanecer a salvo de las consecuencias de sus malos actos.

Ni en los ciclos ni en medio del océano,ni en una gruta en las montañas se halla un lugar donde uno
pueda permanecer a salvo de la muerte.

“Todos tiemblan ante el castigo.Todos temen la muerte. Si comparamos a los otros con uno mismo,ni mataremos ni provocaremos muerte.

Todos temen el castigo;Todos aman la vida. Comparándose con los demás,uno no debe matar ni provocar la muerte.

Quienquiera que buscando su propia felicidad daña a los que igual que él la buscan,no la obtendrá después de la muerte.

Quienquiera que busca su propia felicidad y no daña a los que igual que él la buscan,la hallará después de la muerte.

El abandono del mal,el cultivo del bien y la purificación de la mente;tal es la enseñanza de los Budas”.

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Enseñanza de Buda

El Buda predicó:

El abandono del mal,el cultivo del bien y la purificaó de la mente:tal es la enseñanza de los Budas.

“Todos tiemblan ante el castigo.Todos temen la muerte. Si comparamos a los otros con uno mismo,ni mataremos ni provocaremos muerte.

Todos temen el castigo;Todos aman la vida. Comparándose con los demás,uno no debe matar ni provocar la muerte.

Quienquiera que buscando su propia felicidad daña a los que igual que él la buscan,no la obtendrá después de la muerte.

Quienquiera que busca su propia felicidad y no daña a los que igual que él la buscan,la hallará después de la muerte.

El malhechor todo lo ve bien hasta que su mala acción da

fruto,pero cuando madura la fruta,entonces ve sus

desafortunados efectos.

Incluso una buena persona puede experimentar dolor al

obrar bien,pero en cuanto el fruto se produce,entonces

experimenta los buenos resultados.

Algunos nacen de matriz; los malévolos nacen en

estados desgraciados;los autodominados van a estados

benditos;los iluminados obtienen el Nibbana.

Ni en los ciclos ni en medio del océano,ni en una gruta en

las montañas se halla un lugar donde uno pueda

permanecer a salvo de las consecuencias de sus malos

actos.

Ni en los ciclos ni en medio del océano,ni en una gruta en

las montañas se halla un lugar donde uno

pueda permanecer a salvo de la muerte.

“Todos tiemblan ante el castigo.Todos temen la muerte. Si comparamos a los otros con uno mismo,ni mataremos ni provocaremos muerte.

Todos temen el castigo;Todos aman la vida. Comparándose con los demás,uno no debe matar ni provocar la muerte.

Quienquiera que buscando su propia felicidad daña a los que igual que él la buscan,no la obtendrá después de la muerte.

Quienquiera que busca su propia felicidad y no daña a los que igual que él la buscan,la hallará después de la muerte.

El abandono del mal,el cultivo del bien y la purificación de la mente;tal es la enseñanza de los Budas”.

El malhechor todo lo ve bien hasta que su mala acción da fruto,pero cuando madura la fruta,entonces ve sus desafortunados efectos.

Incluso una buena persona puede experimentar dolor al obrar bien,pero en cuanto el fruto se produce,entonces experimenta los buenos resultados.

Algunos nacen de matriz; los malévolos nacen en estados desgraciados;los autodominados van a estados benditos;los iluminados obtienen el Nibbana.

Ni en los ciclos ni en medio del océano,ni en una gruta en las montañas se halla un lugar donde uno pueda permanecer a salvo de las consecuencias de sus malos actos.

Ni en los ciclos ni en medio del océano,ni en una gruta en las montañas se halla un lugar donde uno
pueda permanecer a salvo de la muerte.

“Todos tiemblan ante el castigo.Todos temen la muerte. Si comparamos a los otros con uno mismo,ni mataremos ni provocaremos muerte.

Todos temen el castigo;Todos aman la vida. Comparándose con los demás,uno no debe matar ni provocar la muerte.

Quienquiera que buscando su propia felicidad daña a los que igual que él la buscan,no la obtendrá después de la muerte.

Quienquiera que busca su propia felicidad y no daña a los que igual que él la buscan,la hallará después de la muerte.

 

No habléis agresivamente con nadie,porqe los que atacáis podrán replicaros de igual manera.Las discusiones crean dolor y podréis recibir golpe por golpe.

Si permaneces en silencio,como un inservible gong,alcanzarás el Nibbana;hallarás la paz

El abandono del mal,el cultivo del bien y la purificación de la mente;tal es la enseñanza de los Budas”.

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Enseignement du Bouddha

Le Bouddha a prêché:

N’accomplir aucun mal,

Et l’on ne tuera ni ne fera tuer.

Tous craignent le châtiment,tous ont peur de la mort :s’assimile-t-on à eux ,et l’on ne tuera ni ne fera tuer.

Tous craignent le châtiment, tous chérissent la vie :s’assimile-t-on à eux, et l’on ne tuera ni ne fera tuer.

À des êtres avides de bonheur fait-on violence par le châtiment,tout en cherchant son

propre bonheur: une fois mort, on ne l’obtient pas.

À des êtres avides de bonheur, évite-t-on la violence dans le châtiment, tout en cherchant son propre bonheur :une fois mort on l’obtient .

N’accomplir aucun mal, atteindre le bien, purifier ses visées,tel est l’enseignement des Éveillés.

Même le méchant voit le bien tant que le mal n’est pas mûr ,mais quand il est mûr le méchant voit les maux.

Même le bon voit le mal tant que le bien n’est pas mûr,mais quand il est mûr,le bon voit les biens.

Certains renaissent,vont en enfer ceux qui ont commis le mal,au ciel ceux qui ont une bonne destinée ,mais ceux qui sont exempts de souillures s’éteignent complètement.

Pas plus dans le ciel qu’au milieu de l’océan,ou en pénétrant une faille dans les montagnes,on ne trouvera de lieu dans l’univers où se tenir à l’abri de l’action mauvaise.

Pas plus dans le ciel qu’au milieu de l’océan,ou en pénétrant une faille dans les montagnes,on ne trouvera de lieu dans l’univers où se tenir loin du triomphe de la mort.

 

  

 

  

En suivant bouddha

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佛陀传授轮回的世界

下面是巴利文的<中阿含>。其内容是迦牟尼的自叙,  或者是以巴拉蒙讲话的形式而流下来的。

“ 我确实进行了苦行修,  刻苦努力。信念确立后未曾, 身体放松从不, 心神得到了一。 我脱离了欲望,  脱离了不善之事。我曾有大的思, 也有过细微的思,  最后成就了从离而生喜的初褝。 (下一段)由于消除了大的和微的思, 达到了内心安定, 心神, 既没有大的思, 也没有微的思, 成就了从定而生喜的第二褝。 (下一段)由于没有沈醉于喜,  因而平静(无关心),  思考,  正确地用心,  用身体感受到安, 也就是成就了圣者解的第三褝:  ‘平静, 信念, 安 ’  舍弃了、舍弃了苦的,  因而早已清除了喜和,  便不苦不,  成就了因平静和念得到化的第四褝。这样当达到心神一。 清静, 清, ,  不垢, 柔和, 巧妙, 明确不, 才会用心于回想去生涯的智慧上。

 我想起了去各种各的生涯, 即:一种生涯,  两种生涯, 三种生涯,  四种生涯,  五种生涯,  十种生涯,  二十种生涯,  三十种生涯,  四种生涯,  五十种生涯, 百种生涯, 千种生涯,  百千种生涯,  多宇宙成立期,  多宇宙破坏期,  多宇宙成立破坏期。 ‘  

 我出生在那里, 取如此般的名字,  姓如此般的姓,   属于如此般的等,  吃如此般的食物感受到如此般的苦,  如此般的死去。在那里死后、又在那个地方出生。

 就这样我回想起一个又一个的画面和细节,  去的生涯。 是在夜最初段达到的第一明智。无明消失了,  明智生了。黑暗消除了,  光明生了。 正是努力苦行俢者身上出果。

 就这样当达到了心神,  清静,  清,  ,  不垢,  柔和, 巧妙,  确立不动时, 我就将心向予知多生存者的生死间题上。就是我用超人的天眼多生存者的死或生。 即:我看到了卑,  ,  美好的,  丑, 幸福的, 不幸的等等, 和各种各生存者正在从事各自事的情形。

  

 ‘ 实际些生存者身施,  口出,  怀恶,  诽谤许多圣者,  怀邪念,  行邪之事。们毁坏身体,  死去之后,  降生于坏地方,  堕落的地方, 地

 

与此同却有另一些生存者身施善行,  口述善言,  心怀善意,  诽谤圣者,  持正确的,  并按照正确解行事。他的身体因病死去后,  降生于美好的地方,  降生于天堂世界。’

 我就是这样用清静,  超人的天眼,  看到许许多多生存者死而复生的情形。 也就是我看到了卑,  ,  美好的, 丑, 幸福的, 不幸的等等, 和各种各生存者正在从事各自事的情形。

 

 

巴拉蒙, 就是我在夜间阶段达到的第二明智。里无明消失了, 明智生了。黑暗消除了,  光明生了。 正是努力苦行俢者身上出果。

 就这样当达到了心神,  清静,  清,  ,  不垢,  柔和,  巧妙,  确立不动时,  我就将心向消除种种污秽的智(漏尽智)上。 这时我真地知道了(一切)都是苦。

 当我这样理解,  这样观察的,  我的心从欲望的污秽中解脱出来,  从生存的污秽中解脱出来,  从无知的愚昧中解脱出来,  在底解脱之  “解脱了”   一智便生了。 我知道生命走到了尽,  完成了,  做的事情都做完了,  再没有如此的生存状可以达到。巴拉蒙,  是在夜最后段完成的第三明智。里无明消除了,  明智生了。 黑暗消除了。 光明生了。 正是努力苦行俢者身上出果。

The Buddha preached about cycle of reincarnation , metempsychosis , the transmigration of the soul.Why must not do a bad (evil) deed ?

The ” verse of commandment of the seven Buddhas ” (the seven Buddhas of the Past, including Gautama Buddha ) is one of the most famous verses in Buddhism:

” To do no evil,

To do only good,

To purify one’s mind,

This is the teaching of the Buddhas.”

“Not to commit any sin ,

to do good ,

and to purify one’s mind ,

that is the teaching of ( all ) the Awakened.”

The possession of absolute pure faith-a faith that purifies the mind-and the keeping of the precepts ( to avoid evil and to do good ) are the essence of Buddhism in that they teach the means by which faith and morality are to be achieved.

If faith in the Three Treasures is central, then the precepts will be followed naturally, and morality will become a function of faith.

In the Eightfold Path, right view refers to faith, while right speech, action and livelihood refer to morality.

It is explained to the Buddhism Buddhist scripture in detail about good behavior or right deed.

For example, a concrete interpretation of right action is to refrain from performing a negative activity like killing, stealing, or sexual misconduct (adultery) and to perform right actions such as saving lives, helping the sick, giving alms, contributing to charity, spreading the dharma, and encouraging people to progress on the Buddhist path.

The Buddha is the Awakened One, or the Enlightened One.

Majjhima Nikaya is one of the Pali Canon.

Pali Canon is Buddhism Literature.

Gautama Buddha left an account of his internal ladndscape after he had attained enlightenment through meditation.

This description, in the Buddha’s own words, is found in the Majjhima Nikaya;.

” Tireless energy was aroused in me and unremitting mindfulness was established , my body was tranquil and untroubled, my mind concentrated and unified.

Quite secluded from sensual pleasures , secluded from unwholesome states, I entered upon and abided in the first jhana, which is accompanied  by
applied  and sustained  thought, with rapture and pleasure born of seclusion,
With the stilling of applied and sustained thought, I entered upon and abided in the second jhana, which has self-confidence and singleness of mind without applied and sustained thought, with raputure and pleasure born of concentration.

With the fading away as well of rapture, I abided in equanimity, and mindful and fully aware, still feeling pleasure with the body, I entered upon and abided in the third jhana, on account of which noble ones announce: ‘ He has a pleasant abiding who has equaniminty and is mindful.’

With the abandoning of pleasure and pain, and with the previous disappearance of joy and grief, I entered upon and abided in the fourth jhana, which has neither-pain-nor-pleasure and purify of mindfulness due to equanimity.

When my concentrated mind was thus purified, bright, unblemished, rid of imperfection, malleable, wieldy, steady, and attained to imperturbarbility, I directed it to knowledge of the recollection of past lives.

I recollected my manifold past lives, that is, one birth, two births, three births, four births, five births, ten births, twenty births, thity births, forty births, fifty births, a hundred births, a thousand birthds, a hundred thousand births, many aeons of world-contraction , many aeons of world -expansion, many aeons of wolrd-contraction and expansion: “

There I was so named, of such a clan, with such an appearance, such was my nutriment, such my experience of pleasure and pain, such my life-term; and passing away from there, I reappeared elsewhere; and there too I was so named, of such a clan, with such an appearance, such was my nutriment, such my experience of pleasure and pain, such my life-term; and passing away from there,

I reappeared here.” Thus with their aspects and particulars I recollected my manifold past lives.

This was the first true knowledge attained by me in the first watch of the night.

Ignorance was banished and true knowledge arose, darkness was banished and light arose, as happens in one who abides diligent, ardent, and resolute.

When my concentrated mind was thus purified, bright, unblemished, rid of imperfection, malleable, wieldy, steady, and attained to imperturbability, I directed
it to knowledge of the passing away and reappearance of beings.

With the divine eye which is purified and surpasses the human, I saw beings passing away and reappearing, inferior and superior, fair and ugly, fortunate and unfortunate.

I understood how beings pass on according to their actions thus:

These worthy beings who were ill-conducted in body, speech, and mind, revilers of noble ones, wrong in their views, giving effect to wrong view in their actions, on the dissolution of the body, after death, have reappeared in a state of deprivation, in a bad destination, in perdition, even in hell; but these worthy beings who were well-conducted in body, speech and mind, not revilers of noble ones, right in their views, giving effect to right view in their actions, on the dissolution of the body, after death, have reappeared in a good destination, even in the heavenly world.”

Thus with the divine eye, which is purified and surpasses the human, I saw beings passing away and reappearing, inferior and superior, fair and ugly, fortunate and unfortunate, and I understood how beings pass on according to their actions.

This was the second true knowledge attained by me in the second watch of the night. Ignorance was banished and true knowledge arose, darkness was banished and light arose, as happens in one who abides diligent, ardent, and resolute.

When my concentrated mind was thus purified, bright, unblemished, rid of imperfection, malleable, wieldy, steady, and attained to imperturbability, I directed it to knowledge of the destruction of the taints.

I directly knew as it actually is: “ This is suffering ”; I directly knew as it actually is: “This is the origin of suffering ”; I directly knew as it actually is : “This is the cessation of suffering. ”; I directly knew as it actually is : “ This is the way leading to the cessation of suffering.” I directly knew as it actually is: “ These are the taints ”; I directly knew as it actually is : “ This is the origin of the taints ”; I directly knew as it actually is : “This is the cessation of the taints ”; I directly knew as it actually is : “This is the way leading to the cessation of taints.”

When I knew and saw thus, my mind was liberated from the taint of sensual desire, from the taint of bieng, and from the taint of ignorance.

When it was liberated, there came the knowledge:

“ It is liberated.” I directly knew: “ Birth is destroyed, the holy life has been lived, what had to be done has been done, there is no more coming to any state of being.”

This was the third true knowledge attained by me in the third watch of the night. Ignorance was banished and true knowledge arose, darkness was banished and light arose, as happens in one who abides diligent, ardent, and resolute.”

Buddha preached about Samsara , the cycle of reincarnation , metempsychosis , the transmigration of the soul.

Samsara, the cycle of birth and death , is sometimes translated as ” transmigration ” or “rebirth ” In this cycle, which is grounded in delusion, sentient beings are governed by good and evil karmic retribution.

Depending on the type of karma accumulated during a lifetime, sentient beings are reborn in one of six realms of existence.

When good karma prevails, a person may be reborn as a human or heavenly being, whereas a preponderance of adverse karma brings rebirth in a hell or as a hungry spirit, an animal, or an asura ( demon ) . This concept was inherited from pre-Buddhist Indian thought.

The Buddha is the Awakened One, or the Enlightened One.

Sutta-Nipata is one of the Pali Canon.

Pali Canon is Buddhism Literature.

The Buddha preached about mercy (benevolence,compassion) as follows in Sutta-Nipata.

“Whatever living beings there are, either feeble or strong, all either long or great ,middle-sized, short , small or large,Either seen or which are not seen , and which live far (or) near, either born or seeking birth , may all creatures be happy-minded.”

“As a mother at the risk of her life watches over her own child, her only child, so also let every one cultivate a boundless (friendly) mind towards all beings.

And let him cultivate goodwill towards all the world,a boundless (friendly) mind, above and below and across ,unobstructed, without hatred, without enmity.

Standing , walking or sitting or lying, as long as he be awake,let him devote himself to this mind ; this (way of) living they say is the best in this world.”

The Buddha preached about violence as follows.

「All tremble at violence;

All fear death.

Seeing others as being like yourself,

Do not kill or cause others to kill.

All tremble at violence;

Life is dear for all.

Seeing others as being like yourself,

Do not kill or cause others to kill.

You who seeking own happiness punish or kill beings who also long for happiness,will not find happiness after death.

You who seeking own happiness does not punish or kill beings who also long for happiness,will find happiness after death.

All beings tremble before violence.

All fear death.

All love life.

See yourself in others.

Then whom can you hurt?

What harm can you do?

He who seeks happiness
By hurting those who seek happiness

Will never find happiness.

For your brother is like you.

He wants to be happy.

Never harm him

And when you leave this life

You too will find happiness.」

The world called the hell is preached in the Buddhism sacred book、Pali Canon.

The hell is the extremely painful ,extremely cruel, and extremely miserable world ,the person who did a bad thing is born after death with the hell , according to the reward of the crime and an evil deed, for example, the person who killed a person or animal or other life ,and torment a person or animal or other life ,and worry a person or animal or other life 、and annoyed a person or animal or other life ,and sadden a person or animal or other life ,and steal the money of the person , steal the thing of the person , and deceived a person、and did other bad deed, did other brutal deed. did other atrocious deed.

There is the point that it is explained in a sacred books such as sutra of Buddhist、Pali Canon(Digha Nikaya、Majjhima Nikaya、Samyutta Nikaya、Anguttara Nikaya,Khuddaka Nikaya, and others) in particular, the profound knowledge degree theory in detail about hell.

地獄 獄卒絵

仏典研究者の立場からFX(外国為替証拠金取引)を考える。

1年で1万ドル(100万円)を100万ドル(1億円)にまで増やした経験をもつ、アメリカの伝説のトレーダー、ラリー・ウイリアムズ氏によると

先物取引やFX(外国為替証拠金取引)は完全なゼロサムゲームである。

誰かが儲かれば、誰かが損をする。泣きを見る。悲しむ。

椅子取りゲームのようなもの。

FXで儲けた人々の全ての合計金額をプラス・・・円、

FXで損をした人々の全ての合計金額をマイナス・・・円

トータル、プラス、マイナスすると0になる。

先物取引も同じようにゼロサムゲーム。

いわゆる、誰かが儲かれば、誰かが損をする。

言い方は悪いかもしれないが、FXで儲けた人はFXで損をした人からお金を奪っているようなもの。

FXはお金の奪い合いのような感がある。

FXは少額の資金で何十倍の大金を賭けるので、下手すれば大きな借金を背負い、借金まみれになる危険性がある。

FXにより自己破産者、自殺者が量産される危険性がある極めて恐ろしいもの。

また、ラリー・ウイリアムズ氏は相場を行う上での注意点として自己資金の約2パーセント~3パーセントだけを投入するべきであると強調している。

それにより予想が外れた際にも大きく損をすることもなく、破産状態になることが防げると強調している。

大きな金額、つまり自己資金の大半を相場に投資すると、大きく予想が外れた場合、自己資金を失うだけではなく大きな損失、大きな借金を背負うことになる。

相場自体も続行することが出来ず、退場となってしまう。

最悪、ホームレスになってしまうぞと氏は書籍で警告している。

一方、話は変わり、

仏典、阿含経において着服、横領、盗み、窃盗, 掠め取り、収奪について説かれているお経が多く存在する。

仏教経典の増壱阿含経第七巻の五戒品第十四において盗み、泥棒(どろぼう)、窃盗(せっとう)、略奪(りゃくだつ)行為の報いについて説かれているお経が存在する。

その主な主旨内容は、盗み、泥棒、窃盗行為を多く行った者はその罪の報いにより未来、将来、死後、来世において地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ赴(おもむ)くと説かれている。

また人間に生まれ変わっても極めて貧しく、衣服や食事に極めて事欠く境涯に生まれ赴くと説かれている。

(大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版社 576ページ中段参照、国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社 106ページ~107ページ参照)

パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

また、

「信ずる心あり、恥を知り、誡(いまし)めをたもち、また財を分かち与える。

これらの徳行は、尊い人のほめたたえることがらである。

この道は崇高なものである とかれらは説く。

これによって、この人は天の神々におもむく。

もの惜しみする人々は、天の神々の世界におもむかない。

その愚かな人々は、分かち合うことをたたえない(賞賛しない)。

しかしこの信ある人は分かち合うことを喜んでいるので、このようにして来世には幸せとなる。」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。」

※仏教では六道輪廻を説きます。

   チベット仏教 六道輪廻図

  チベット仏教 六道輪廻図

六道輪廻とは生き物達が天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六道つまり六つの境涯を途方もない膨大な期間、途方もなく膨大な回数、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしている。

輪廻転生している。

その六道のうち畜生界(動物の境涯)、餓鬼界(飢えや渇きに苦しむ境涯)、地獄界(地獄の鬼達に残虐に責め立てられ痛めつけられ苦しめられる極めて残虐悲惨な境涯)は三悪道、三悪趣といって六道輪廻の中では最も苦しい境涯であると説きます。

さらに、阿含経において着服、横領、盗み、窃盗, 掠め取り、収奪について説かれているお経が存在する。

その主な内容は
今から約2500年程前のインドにおいて仏教の開祖お釈迦様が活躍されていた時代、お釈迦様の直弟子に目連尊者(もくれんそんじゃ)という方がおられた。

その目連尊者はお釈迦様の直弟子の中において神通の力が最も優れていると認められていた方であった。

その目連尊者がある時、奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(前世、生きている間)において他人の食べ物をひそかに盗み、かすめ取る行為を行い、その食べ物をひそかに盗み、かすめ取った罪業の報いにより死後において多くの地獄の苦しみに苦しんでいる。

という内容が説かれている。
「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」 雑阿含経第十九巻 第四弟子諸説誦 第二目犍連相應「不分油経 盗取七菓経 盗食石蜜経 盗取二瓶経 比丘経」参照
「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」百三十八頁(ページ)上段中段参照

結論をいうと仏典研究者の立場から、お金の奪い合いのような感のある、相場、先物取引、FX(外国為替証拠金取引)は一切しない方がいい。

相場には一切、近づかない方がいいと私は考える。

参考書籍

「ラリー・ウイリアムズの相場で儲ける法 ラリー・ウイリアムズ著 林則行訳 林康史訳 日本経済新聞社」

「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤ1 中村元著 岩波文庫」

「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」

「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」

「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」参照。





仏教やジャイナ教が説く生き物に対する慈悲の教えと死後における地獄の世界

パーリ仏典「ダンマパダ」(法句経)はパーリ五部のなかの「グッタカ・二カーヤ」に属する経典であるが、その経典は釈尊の教えを説いた数多い諸経典のうちから重要な詩句を選んで集めた詩集であり、仏教のバイブル(聖書)として世界各国に翻訳され読まれている。

その「ダンマパダ」(法句経)において釈尊(仏様)はこうお説きになられている。

 「悪しき(悪業)をなしてこの世(現世)に苦しみ、かの世(来世)に苦しみ両世(現世、来世)に苦しむ。

「我 悪しきをなせり」と思い苦しみ、難所(地獄など)に行きて、いよいよ苦しむ。

良き(善業)をなしてこの世(現世)に歓喜し、かの世(来世)に歓喜し、両世(現世、来世)に歓喜す。

「我 良きをなせり」と歓喜し、善処(天界)に行きて、いよいよ歓喜す。」とある。

また、仏教経典「スッタ・ニパータ」というお経がある。

そのお経は数多くある仏教経典のなかでも最も古い仏教経典として学問的(現代)にも認められており、後世の仏教経典にみられる煩瑣(はんさ)な教理は少しもなく人間として正しく生きる道が対話の中で詳しく語られている。

その仏典「スッタ・ニパータ」を翻訳した「ブッダのことば スッタ・ニパータ 中村元訳 岩波書店」という書籍がある。

この書籍のあとがきで、本書、スッタ・ニパータの訳者で、仏教学の世界的権威である、今は亡き、中村 元博士(1999年没)は次のように言及されている 。

「スッタ・ニパータは現代の学問的研究の示すところによると仏教の諸聖典のうちで最も古いものであり歴史的人物ゴータマブッダ(仏陀釈尊)の言葉に最も近い詩句を集成した一つの聖典であるとされている。」と。

その仏典「スッタ・ニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

「一度生まれる生き物(胎生つまり母胎から生まれる生き物)でも、二度生まれる生き物(卵生、つまり卵から生まれる生き物)でも、この世で生き物を害し、生き物に対する哀(あわ)れみのない人(慈悲心のない人)、彼を賤(いや)しい人であると知れ」

「母、父、兄弟、姉妹或いは義母を打ち、また言葉で罵(ののし)る人、彼を賤(いや)しい人であると知れ。」と。

次に 仏教とほぼ同時期に勃興したジャイナ教がある。

ジャイナ教の第2代祖師 ゴーマテーシュバラ像。

そのジャイナ教の教えの特長は、人間だけではなく動物や植物に対する不殺生戒を徹底的に重視する点にある。

そのジャイナ教の教えにこうある。

「わたしは説く。いかなる生物も傷つけてはならない。

これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。

全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。虐待してはならぬ。

害してはならぬ。

苦しめてはならぬ。

悩ましてはならぬ。

これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

次に、仏教経典には地獄という世界が説かれている。

地獄とは悪い事をした者が死後に生まれ赴く極めて苦しい、極めて残虐悲惨な世界。人や生き物を殺したり、いじめたり、苦しめたり、悩ませたり、悲しませたり、困らせたりした者、人の物を盗んだり、人をだましたりした者が死後に赴く世界。

仏教経典 雑阿含経第十九のなかに屠牛者経 屠羊者経 殺猪経 猟師経というお経がある。

例えば、屠牛者経を例に挙げると、そのお経の概要は釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

その目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(生きている間)において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

   

また我(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

屠羊者経 殺猪経 猟師経も屠牛者経と同様、大体似た内容で説かれている。

仏教のお経の阿含経に「好戦経」というお経があります。

戦争を好み刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

又「堕胎経」というお経もある。

その内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。

「好戦経」 「堕胎経」は「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」という書籍がある。

  

 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)  

その書籍の中において「好戦経」「堕胎経」を非常に分かり易く説かれている箇所がある。

仏教経典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九に屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」 参照。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前(生きている間)において人間や動物達等の生き物の屠殺(殺す事)、殺生(生き物を殺す事)を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業(罪障)の報いにより非常に長い年月の間地獄(大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒(地獄の鬼達)により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界)に赴き多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達(カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等)に内臓をついばまれ食われ、その激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

また、殺人行為を犯した者の死後の業報、報いについて漢訳仏典、雑阿含経第十九巻(大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版 136ページ下段)、国訳一切経 阿含部2 大東出版 雑阿含経第十九巻の断人頭経というお経において次のように説かれている。

書籍「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」136ページ下段 参照。

「一時、仏、王舎城に住まり給えり、その時、我(目連尊者)は道中(路中)において、頭が無い一大身の衆生(生き物、霊体)を見た。その霊体は両肩に眼が生じ、胸に口があり、身体より常に血を流し、諸々の虫がその体をついばみ、獲食し、その生き物の身体は骨髄に徹する程の痛みを受け、苦しんでいるのを見た。」

仏陀釈尊は目連尊者の見聞した事の内容をお聞きになり、この衆生(生き物)について諸々の比丘(修行者)に次のようにお説きになられた。

「この衆生は生前(この世で生きている間)に、この王舎城において好んで人の頭(首)を切断し殺害した。この罪によるが故に、この衆生は既に百千歳、地獄の中に堕ちて無量の苦しみを受け、その後、更にこのような身体を受け、このようなひどい苦しみを受けるのである。

       

比丘よ。目連尊者の所見(見聞)は真実にして異ならず。まさにこれをよく受持すべし。」と。

次に、真言宗の開祖、弘法大師空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において中絶(ちゅうぜつ)、堕胎(だたい)の果報、業報について説かれている箇所がある。

 

真言宗開祖 弘法大師空海(774年~835年)

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経 第十七巻 経集部四 五五八頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は

「一人の鬼あり、その鬼が仏弟子である目連尊者に対してこう問いかけた。「私(鬼)の身体は常に肉の塊(かたまり)にして手、脚、眼、耳、鼻等あること無し、つねに多くの鳥達に体をついばまれ、食べられ、耐えられない程苦しい。

何が原因でこういう苦しみに遭(あ)うのか」

目連尊者は答えて言った

「あなたは前世(前生)においてつねに他者に薬を与え他者の胎児(たいじ)を堕(おろ)した。

胎児を中絶させた。

胎児を殺害した。

このような行為、因縁、業報により死後、現在においてこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、行為の報い、罪の報いであり、地獄の苦果、苦しみはまさに後身にあり(果報の報いはあとになって受ける)。」とある。

(鬼という言葉は死者を意味する。昔は死ぬ事を鬼籍に入ると言った。)

 

     書籍「日本思想大系5 空海  岩波書店」参照。 

次に、日本の浄土宗に大きな影響を与え鎌倉時代前に活躍した天台宗の僧侶、源信(慧心僧都源信、横川僧都源信)という僧侶により書かれた「往生要集」という書物がある。

この書物の前半では地獄界 餓鬼界などの状況等について各教典論書を引用し具体的に書かれている。

又どのような行為(例えば殺生、盗み、妄語、邪淫、飲酒など)によりどういう境涯(例えば地獄界、餓鬼界、畜生界など)に赴くのかが記載されている。

     書籍「日本思想大系6 源信 岩波書店」参照。 

日本において地獄の観念が多くの人々に弘まった大きな原因のひとつは天台宗の源信という僧侶が「往生要集」という書物を著しその書物が多くの人々に読まれたからであろう。

この「往生要集」は今から約千年程前に書かれた書物で現在に至るまで多くの人々に読まれている。

この「往生要集」で引用されている経典の種類は極めて多く、源信様がいかに多くの経典を読まれたかが分かる。

         源信僧都(942年~1017年)

特に阿含経、正法念処経、大智度論などの経典論書において地獄について詳しく解説した箇所がある。

また地獄の状況を絵で表現した地獄絵というものもある。

      

       

       

       

      

地獄絵は文字が読めない人々や子供達に対し仏教の教義を分かり易く解説する役割を果たし、多くの人々に倫理観、道徳意識、勧善懲悪の観念を植え付け、また地獄に対する恐怖心が凶悪犯罪の防止、犯罪抑止力の役割を果たしていたと考えられる。

また、仏典「スッタ・ニパータ」において釈尊は次のようにお説きになられている。

「何者の業も滅びる事はない。それは必ず戻ってきて業を作った本人がその報いを受ける。愚者は罪を犯して来世にあってはその身に苦しみを受ける。

地獄に落ちた者は鉄の串を突き刺される所に至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。また灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは昔作った業にふさわしい当然な事である。

地獄の獄卒どもは「捕らえよ」「打て」などといって誰もやさしい言葉をかけることなく、温顔をもってむかってくることなく、頼りになってくれない。

地獄に落ちた者どもは敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

またそこで地獄の獄卒どもは鉄の縄をもって地獄に落ちた者どもをからめとり鉄槌をもって打つ。

さらに真の暗黒である闇に至るがその闇は霧のように広がっている。

また、次に地獄に落ちた者どもは火炎あまねく燃え盛っている銅製の釜に入る。

火の燃え盛るそれらの釜の中で永い間煮られて浮き沈みする。

(中略)。

罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。

だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなし、おろそかにしてはならない。」と。

これらの仏教思想は作家、芥川龍之介の文学作品「蜘蛛の糸」などに大きな影響を与えている。

  書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部七巻 大東出版社」 参照。

  書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部七巻 大東出版社」 参照。

参考文献

「ブッダのことば スッタ・ニパータ 中村元訳 岩波書店」

「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」

「往生要集 上  源 信 著  石田 瑞麿訳注 岩波文庫」
「往生要集 下  源 信 著  石田 瑞麿訳注 岩波文庫」

「羅生門 蜘蛛の糸 杜子春外十八編 文春文庫 現代日本文学館」

「間脳思考 霊的バイオホロ二クスの時代 桐山靖雄著 平河出版」

「思想の自由とジャイナ教 中村元著 春秋社」

「弘法大師著作全集 第一巻 弘法大師(著) 勝又俊教(編)山喜房仏書林」

「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 二 大東出版社」

「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 七 大東出版社」

「大正新修大蔵経第二巻 阿含部下 大蔵出版社」

「大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 大蔵出版社」

「日本思想大系5 空海 岩波書店」

「日本思想大系6 源信 岩波書店」






ブッダが説く輪廻転生、因果応報、因縁果報の教え

仏教の開祖、ブッダ釈尊は輪廻転生、因果応報、因縁果報の教えを説いている。

仏教にとって人間に生まれてくる事は非常に良き生まれであると説く。

その大きな理由として、人間の境涯からのみブッダになる事が出来る事。

人間にとって神々に生まれる事は良き生まれであるといわれるが神々にとって、人間に生まれる事が良き生まれであるといわれている。

輪廻転生の世界では衆生(生き物達)は地獄界や畜生界に生まれ替わる方が人間界に生まれ替わるよりも圧倒的に多いと仏典では説きます。(阿含経 増支部経典 参照)

仏教の目的はこの苦に満ちた輪廻転生からの解脱、脱出を説きます。

本質的に仏教はこの六道輪廻の世界を苦しみの世界とみなしそこからの離脱を目指します。

仏典に修行を完成した表現として

「現法の中において、自身作證し、生死已に盡き、梵行已に立ち、所作すでに辨じ、自ら後生を受けざるを知る、すなわち阿羅漢果を得たり」

(阿含経 長部経典参照)(国訳一切経 印度撰述部 阿含部 7)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~2016年)

その輪廻転生には分段生死(ぶんだんしょうじ)と変易生死(へんやくしょうじ)と云う種類の転生があります。

分段生死とは凡夫の輪廻転生を意味し、

六道輪廻つまり

地獄界(極めて苦しい残虐悲惨な境涯)

餓鬼界(飢え、乾きに苦しむ境涯)

畜生界(動物の境涯)、

修羅界(争いの境涯)、

人間界(人間の境涯)、

天界(天、神の境涯)

の六種類の境涯を衆生(生き物)が何回も何回も際限なく輪廻転生していく転生を意味します。

チベット仏教 六道輪廻図絵

チベット仏教 六道輪廻図絵

変易生死とは聖者の輪廻転生を意味し、聖者が仏陀の境涯に向かって修行していく過程、聖者としての境涯が後退せず上昇していく転生を意味します。

変易生死について詳しく解説すると、例えば聖者の境涯に預流(よる)という境涯があります。凡夫が仏道修行により修行の境涯が進むと先ず預流という聖者に成ります。

預流とは聖者の流れに入った者の意を表し、預流になると地獄界、餓鬼界、畜生界という最も苦しみの度合いが激しい三悪道の境涯には二度と生まれ変わらないとされています。

そして最高位の聖者である仏陀に成るまで三回~七回程度、人間界と天界への生死を繰り返し最後には必ず仏陀の境涯に至る事が出来るとされています。

先ほど、仏教では、人間に生まれてくる事は非常に良き生まれである。と説く。と説明したが、

その大きな理由として、人間の境涯からのみブッダになる事が出来る事。

また、修行が六道の中で一番し易い事と言われている。

事実、お釈迦様は兜率天(とっそつてん)という天界の境涯から下生し、人間に生まれ変わり、人間界において修行し完全解脱、無上等正覚を得られ、ブッダになられたとされています。

仏教では、将来、ブッダになる予定の方は、ブッダになるために人間に生まれ変わる直前に、兜率天(とっそつてん)という天界において待機しているとされている。(ジャータカ、漢訳経典 本生経 参照)。

パーリ仏典において仏陀(ブッダ)は次のようにお説きになられている。

「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、(そのもの自身が)堅固不動のものになると、かれ(修行者)は生き物達の死と再生について知る事(死生通)に心を傾け、心を向けるのです。

そして、かれ(修行者)は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知るのです。

すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。

かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。

一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。

故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。とかれ(修行者)は知る。」

仏陀(釈尊)の覚醒の課程は三夜にわたる智の開眼、智慧の獲得で説明される。

第一夜(初夜 夜6時~夜10時頃)において釈迦(釈尊)は瞑想によって自らの百千の生涯、幾多の宇宙の成立期、破壊期、成立破壊期を残らず想起した。(宿明智の獲得)

第二夜(中夜 夜10時~夜中2時頃)において天眼(清浄で超人的、神的な透視力)により生き物達が無限の生死循環(輪廻転生)を繰り返す様を見透す。(天眼智の獲得)

第三夜(後夜 夜中2時~朝6時頃)において「一切(輪廻転生の本質)は苦である」という認識を得、縁起の法を悟って覚醒、漏尽解脱、智慧解脱の完成を得た。(漏尽智の獲得)

「わたし(釈尊)は最高の道を悟った。

私の悟りは揺るがず、壊れない。

私(釈尊)は解脱を果たした。

もう苦しみの世に生まれる事は決してない。」

仏道修行者は究極的にはこの三明智の体得、三明智の獲得を目指さなければならない。

チベット仏教 釈迦成道絵

釈迦 降魔成道像(インド)

パーリ仏典「サンユッタ・ニカーヤ」において仏陀は次のように説かれている。

「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。

全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い  また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等

それこそが、その人自身のものである。

人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。

それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。影が人に従うように。

それ故に善い事をして功徳を積め。功徳は人々のよりどころとなる。」

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ及び漢訳仏典雑阿含経において ブッダ(仏陀、等正覚者)はこうお説きになられている。

「悪行(悪い行為)をした者は肉体が滅んだ死後に苦悩・災いの世界、不幸な状態、煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」

「信仰もなく貪欲で利己的で悪い思いを抱き、誤った主義に生きて敬愛の心がなく、僧侶や托鉢をする人を嘲(ののし)り罵(あざけり)り心に怒り心を抱き食を乞う者に誰かが与えようとするのを邪魔する者。

このような人が死後恐ろしい煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」とある。

地獄絵

パーリ仏典「ウダーナヴァルガ」において分かち合うことの大切さが説かれている。

「信ずる心あり、恥を知り、誡(いまし)めをたもち、また財を分かち与える、これらの徳行は、尊い人のほめたたえることがらである。

この道は崇高なものである とかれらは説く。

これによって、この人は天の神々におもむく。

もの惜しみする人々は、天の神々の世界におもむかない。

その愚かな人々は、分かち合うことをたたえない(賞賛しない)。

しかしこの信ある人は分かち合うことを喜んでいるので、このようにして来世には幸せとなる。」

パーリ仏典「ダンマパダ」及び「ウダーナヴァルガ」において仏陀はこうお説きになられている。

「悪の報いが熟しない間は悪人でも幸運にあうことがある。

しかし悪の報いが熟したときには、悪人は災い(わざわい)にあう。

善の報いが熟しない間には善人でも災い(わざわい)にあう事がある。

しかし善の果報が熟したときには善人は幸福にあう。」

「袈裟(けさ)を纏(まと)っていても、性質(たち)が悪く、つつしみのない者が多い、かれら悪人は悪いふるまいによって、悪いところ、地獄に堕ちる。」

(※袈裟とは一般的に仏教の僧侶、仏教修行者、仏教信仰者が首から掛ける長い布状のたすきのようなもの)

「南伝大蔵経 大蔵出版」参照

「南伝大蔵経 大蔵出版」参照

「南伝大蔵経 大蔵出版」参照

参考文献

「仏教(上)ベック著 岩波文庫」
「仏教(下)ベック著 岩波文庫」
「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤ1 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」
「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」
「大正新修大蔵経第1巻 阿含部上 大蔵出版社」
「大正新修大蔵経第2巻 阿含部下 大蔵出版社」
「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 七 大東出版社」
「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 九・十 大東出版社」

「南伝大蔵経 大蔵出版」

「原始仏典〈第1巻〉長部経典1  中村 元 (監修), 森 祖道 (翻訳), 橋本 哲夫 (翻訳), 浪花 宣明 (翻訳), 渡辺 研二 (翻訳) 春秋社」
「釈迦の本―永遠の覚者・仏陀の秘められた真実  NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 9 」

「ブッダの真実の教えを説く(上巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「ブッダの真実の教えを説く(中巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「ブッダの真実の教えを説く(下巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「輪廻する葦 阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「間脳思考 霊的バイオホロ二クスの時代 桐山靖雄著 平河出版」












断眠修行という荒行について考える。

宗教家や修行者の方々など、様々な宗教的修行をされている方々の中に、よく断眠行、夜中、徹夜で様々な行をされる方々がおられるが、これなどもあまり、度を過ぎると健康上、良くないように思われる。

また、日本の風習では、12月31日の大みそか、夜半から翌朝の元旦の朝方にかけて大勢の参拝者の方々が夜半、朝方まで寝ないで、様々な神社、仏閣をお詣りする風習があるが、これなども健康上の観点から考えるとあまり好ましくないように思える。

最近、発行されている睡眠に関する書籍において次のような内容が書かれている。

「眠りは単なる体や脳の機能停止だけの働きではない。

眠りは「サボり」と考えるような睡眠をネガティブ、マイナスに捉える方々でも、眠ることで回復することは疑わないであろう。

眠りが単なる機能停止ならば、なにも起こらない、回復もしない。

睡眠は体や脳の回復とともに、様々なメンテナンスの機能を持ち合わせている。

「寝る子は育つ。」「風邪は寝て治す。」これも睡眠の機能を端的に表している。

「寝る。」「眠る。」つまり活動を減らすことでエネルギーの消費を抑え、その分のエネルギーを成長や免疫活性化に充ててる。」

「限られたエネルギーの再分配の仕組みである脳は実に様々な働きをするが、その結果、大量の老廃物が生まれる。

それらは全て排除しなければならない。

老廃物を取り除く事で、文字通り、新たな成長や発達の余地が生まれるからだ。

死んだ細胞の除去やリサイクル、有害物質の排除、老廃物の排出は脳を機能するうえで絶対に欠かせない。

眠っている間の老廃物を除去する活動は目覚めている間の10倍以上老廃物を除去する活動が活発になるという。

目覚めているときの脳は学習や成長に勤め、脳の持ち主が活躍できるよう協力している。

ずっと動きっぱなしなので、たくさんの老廃物がたまっていくが、そのほとんどは睡眠が持つ修復の力で除去される。

例えば、自宅のごみを捨てるシステムがとどこおれば、家はあっという間に悲惨なことになる。

それと同じでように充分な睡眠をとらず、その老廃物を除去する働きがなければ脳内が大変なことになる。

具体的に言うと有害な老廃物を除去する事が無いことがアルツハイマー病を発症する根本的な原因の一つだと言われている。」

睡眠中は特に脳内の老廃物を排出する時間帯でもある。

充分な睡眠時間帯が取れないと脳の老廃物を除去する事が難しくなる。

充分な睡眠時間は我々に多くの利益をもたらすが睡眠不足は我々に多くの不利益をもたらす。

充分な睡眠時間を取る事は人間の健康を維持するには最も重要な事である。

特に、体全体の疲労を回復させるホルモン(疲労回復物質や成長ホルモン)などは全て睡眠中に最も分泌するしくみになっている。

また思春期の子供達にとって成長ホルモンは身長を伸ばすなど、思春期の二次性徴を促すホルモンとして有名です。

昔から「寝る子は育つ」ということわざがあります。

さらに睡眠は全身の細胞の修復と新陳代謝を促進し疲労を回復させるという大切な役割もあります。

また脳の疲れを取り、記憶力、集中力、ひらめき力、学習能力をアップする作用があります。

睡眠こそが最も強力な疲労回復の手段である。

逆に睡眠不足などが原因で体の免疫機能が低下し、風邪や感染症にかかりやすくなる。

ガンのリスクが高まる。

高血圧、糖尿病、脳梗塞、心臓病などの恐ろしい病気の原因になる。

また認知症などの原因になると考えられている。」

「マンガ家の水木しげる氏(1922年~2015年)(93歳没)は、ご自身の短編漫画「睡眠のチカラ」の中で

「私は徹夜2日目」「僕は徹夜3日目」と徹夜自慢をするマンガ家の手塚治虫氏と石ノ森章太郎氏に対して

「あんたたち、睡眠を馬鹿にしてはいけません。眠っている時間分だけ長生きするんです。

幸せなんかも睡眠力から湧いてくる。睡眠力こそが、すべての源(みなもと)です。」

と説教するシーンが描かれています。

手塚治虫氏は61歳で胃ガンによって亡くなられています。睡眠時間はつねに3~4時間で、漫画の締め切りが迫ると連続して徹夜することもあったといいます。

石ノ森章太郎氏も同じく血液のガンであるリンパ腫による心不全が原因でわずか60歳で亡くなっています。

睡眠時間は3時間ほどしか取らず、何本も連載を抱えハードワークをこなしていたそうです。

世間では「睡眠時間を削って仕事に邁進(まいしん)することが成功の道だ。」という風潮がありますが、

その結果、短命に終わる人が多いのも紛れもない事実であります。」

「過去に起きたチェルノブイリ原子力発電所の原発事故、

原始炉融解直前までいったスリーマイル島の事故、

大規模な環境破壊につながった石油輸送船エクソン・ヴァルディーズ号の石油流出事故、

そしてアメリカのスペースシャトル「チャレンジャー号」の爆発事故、

これらの事故はいずれも眠りが足りない人々によるミスが原因で起こったものだとされる。

睡眠不足は人の頭脳の働きや反応を鈍らせ事故を起こし易くする。

さらに眠りが少な過ぎると人は急死することもあれば健康を損なう。

さらに睡眠不足は人の気分を落ち込ませ深刻な鬱病(うつびょう)を引き起こす。また感情のコントロールが効きにくくなり怒り易くなる。

全米睡眠財団の発行する機関誌(Sleep Health)の発表によると20代~50代の推奨睡眠時間は7時間~9時間と発表されている。」

ところで、仏教の開祖であり、さとりを開かれたお方であるお釈迦さまは昼寝を日常的にされていた記録がある。

仏教学の世界的権威、今は亡き、中村元博士は仏教教団 阿含宗の機関紙「月刊アーガマ42号」においてお釈迦様が食事の後よく昼寝をされたことを微笑ましく指摘されている。

食後の休息をパーリ聖典で昼住(ちゅうじゅう)という。

この習慣は現在の東南アジアの僧院でよく見かける。

当時の厳格な修行者からすると昼寝をする事はダラシのない事であり、怠惰なふるまいであったと考えられた。

当然、釈尊に対しても次のような非難が向けられていた。

ある日、サッチャカという修行者が釈尊に次のように言った。

「ゴータマ(釈尊)よ。あなたは昼寝をする者である事を認識しているのですか。」

釈尊は、次のように答えた。

「私は托鉢から帰ってきて食事をし、その後、大衣を四つ折りにし、その上に、右脇を横たえ、自らの心の動きを観察しながら眠りに入る事があります。

だから自分が昼寝をする者である事をよく認識していますよ。」

サッチャカが言った。

「ゴータマ(釈尊)よ。修行者やバラモンのある者は迷っているから、そんな事を語るのです。」

釈尊は静かにこう答えた。

「食後の昼寝をした、しないだけで、迷っているとか、迷っていないだとか、言えませんよ。」

参考文献

「眠りをめぐるミステリー 睡眠の不思議から脳を読み解く 櫻井 武 著  NHK出版新書」

「月刊 アーガマ42号 阿含宗総本山出版局」

「一流の人はなぜ眠りが深いのか 奥田 弘美 著 知的生きかた文庫」

「Sleep(最高の身体と脳を作る技術)ショーン・スチーブンソン著 花塚 恵 訳  ダイヤモンド社」

「睡眠不足は危険がいっぱい スタンレー・コレン著 木村 博江 訳 文藝春秋」




仏教者の布教伝道の意義と目的についての話

上求菩提下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)ということばがあります。

今は亡き、阿含宗管長、桐山靖雄先生(1921年~2016年)は自身の著書「説法六十心 桐山靖雄著 平河出版」において次のように説かれている。

「自分自身、上の境涯に向かって菩提、悟りを求めて一心に修行をすると同時に

自分より下の境涯の者に向かっては親切に指導をしてあげる。

仏道修行者が必ず実践しなければならない事だと言われています。

また、指導する、教え導く立場の人間が心すべきこととしては、どんなに大知識者、大学者であっても自分一人の力だけでそうなったのではなく、社会や無数の方々のおかげもあったという事を忘れてはいけない。

そのために、その知識は社会の幸福の為、社会に役立てる為、社会に対して、そのお返しをしなければならない。

特に仏教徒は仏祖への報恩謝徳の為に又、一般民衆の幸福の為に正しい仏教、正しい仏法を広めなければならない。」

また、桐山靖雄先生は自身の書籍「アラディンの魔法のランプ 桐山靖雄著 平河出版」の中で次のようにお説きになられている。

「道場に訪れる人はみな娑婆世界の住人ですから、何かの苦しみ、悩みを抱いています。

救われたい、助けていただきたい、心の安らぎを得たい、仏さまの心に触れたい、そう思って道場においでになるのですから、やはり、その人たちを快くお迎えして「来てよかったなぁ」という気持ちにしてあげることが、修行者として、いちばん大切です。

それが仏さまに対する行供養なのです。」と説かれている。

さて、仏教経典には布施の実践の必要性を説いている。

その布施に2種類の布施があると説かれている。

書籍「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

いわゆる、財施と法施があると説かれている。

財施は文字通り、財物を布施する意味。

法施とは仏教などの教えを世の中に広め人々を教え導く事。

宗教家、山口修源先生は自身の著書「あなたの死後はこうなる 山口修源著 星雲社」」という本の中でこう説かれている。

「法施(正しい教えと法を広く世間、社会、人々に説き弘める事など)を多くした人達、生きている間に霊的に人々を多く救った人達、また、そういう道標を作った人達、道標を作っておけば直接的にたくさん人を救っていなくてもその道標が有る限りずっとその後の多くの人達を救い導く事が出来る。

例えば仏典の翻訳本を出した鳩摩羅什法師や玄奘三蔵法師達の為された法施の功徳は非常に大きい。

彼らはけっして人間的にはそれほど人格的に高くはなかったかもしれない。

しかし、あの2人の為した功徳は大きすぎて、既にあの2人は救われ解脱していると思われる。

2種類の布施の功徳を比較すると俗世間の善事と法施の功徳の差は一と百などというものではなく一と千あるいは一と万というくらい違う。

法施つまり正しい教法を世間に広める功徳の方がはるかに大きい。

正法つまり正しい教え、正しい法というものを説いていく役割についた人が最も大きな功徳を積むことが出来る。

そういった意味において、あの2人(鳩摩羅什法師や玄奘三蔵法師)のなした功徳は大きすぎて、あの2人は既に救われ解脱していると思われる」と山口修源先生は説かれている。

参考文献

「説法六十心1 桐山靖雄著 平河出版」
「アラディンの魔法のランプ―仏舎利宝珠尊和讃 桐山靖雄著 アーガマサンガブックス」
「あなたの死後はこうなる 山口修源著 星雲社」

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

玄奘三蔵法師

仏典が説く、大富豪が死んだ後、餓鬼界に堕ちて苦しんでいる話

悪しき行為が餓鬼の世界への生まれ変わりに繋がるかを示した問答が仏典に説かれている。

餓鬼は、地獄に落ちた者たちに課せられる恐るべき刑罰を受けることはないが、地上をさまよい飢えに苛まれ、しかも口が小さすぎて飢えを満たせないでいる者たちのことである。

餓鬼は裸で醜くやせ細り、静脈は浮き上がり、肋骨が突きでた姿をしている。

仏典には、大富豪が死後、極貧の餓鬼の世界に堕ちた話が書かれている。

その餓鬼との問答をひとつご紹介する。

尊者曰はく
「お前は一体何者か?」

餓鬼曰はく
「尊者よ。私は閻魔の世界の悪しき運命に落ちた亡霊である。

悪業を犯したため、私はこの亡霊どもの世界に来た。」

尊者曰はく
「一体どんな悪事、身体、声、心によって犯した為にそれが熟してお前をこの世からこの亡霊たちの世界に赴かせることになったのか?」

餓鬼曰はく

「かつて私は大富豪で荷車80台分の黄金と、莫大な金、おびただしい真珠と碧玉を私は持っていた。

だが、どれほど、たくさんの富を持とうが私は与えることを好まなかった。

乞食にその宝物を見られないよう家の門を閉じ、家の奥で富を楽しんだものだった。

不信心な利己主義者で、ケチで口うるさかった。

人々が施しをするのを邪魔したものだった。

施しが実を結ぶことはない。

倹約の果実はどこから来るというのか?

私はそう言い続けた。

ハスの池、井戸、木々の植えられた庭園、貯水槽を壊させたものだ。

善行はせずに悪行をした挙句、この世を去った途端、亡霊たちの世界に生まれ変わり、飢えと渇きに苛まれている。

もう食べ物や飲み物とはどんなものかもわからない。

倹約、それは破滅だ。

破滅それは倹約だ。

まことに亡霊たちはよく知っている。

倹約それは破滅だと。

私はかつて倹約ばかりしてたくさんの自分の恵みを施さなかった。

施しによって自らの島を作らなかった。

後になって自身の行いの果実を掴みとっては悔やんでいる。

4か月後、私は死ぬだろう。

地獄へ、全てが苦しく恐ろしいところへ私は堕ちて行く。

地獄は四角く、四つの門があり、絶妙の割合で別れ、青銅の壁に囲まれたお堂に覆い尽くされている。

地面は青銅でできていて燃え盛る炎が上がっては四方八方にも広がっていき、それがまだ続く。

あちらで私は長い間苦しい思いを味わうだろう。

それも我が悪しき行いの果実である。

だからこんなにも嘆いているのだ。

ここに集まっているあなたあなた方、全てに、私はためになる忠告をする。

悪しき行いをしてはならない。

こっそり隠れてでも。

公然とでも。

今、あるいは、今後、悪しき行いをしたら、たとえ逃げようと、もはや、あなたに苦からの解脱はない。

父母、年長の家族、修行者を敬いなさい。

そうすれば天に行けるだろう。

天空にも、海底にも、山深く分け入った岩穴の中にも、そこにいれば、悪しき行いから逃れられるという場所など、この世に見い出せはしない。」

次に、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版」参照。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版」参照。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版」参照。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版」参照。

ところで、その餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事、盂蘭盆会という行事があります。

この行事は餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事です。

餓鬼界とは生前もの惜しみ心が強くケチで人に親切でなく布施をしたりせず悪い事をした者が死後に生まれ変わっていく境涯であります。

餓鬼界には食物がほとんどなく空腹で苦しみ仮に食べ物があっても食べ物を食べようとすると火になって燃えてしまったりする。

そういった餓鬼界で苦しんでいる餓鬼達に食べ物を供養したり食事が出来るように餓鬼達を救う為の行事を盂蘭盆会や施餓鬼供養といいます。

餓鬼へのご供養をする為のご真言が仏教経典には書かれている。

真言には無量威徳自在光明殊勝妙力等の餓鬼を供養するご真言があるが施餓鬼の経典として有名な「仏説盂蘭盆経」「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼」等の経典に詳しく記載されている。

この仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経のお経の主な内容は、昔、お釈迦様の直弟子の阿難尊者がある夜、閑静な場所に独り座し仏様の教えの内容を深く観じていると深夜に一人の餓鬼が現れた。

その姿は、髪は蓬(よもぎ)のように乱れ口からは焔(ほのお)を吹き身体はやせこけ咽(のど)は針の如く細く爪は長くとがり顔に苦悶の形相が凄く、阿難尊者に向かってこのように言った。

「あなたは三日後に死んで私のように餓鬼となるであろう。」と。

阿難尊者は内心大いに恐れ「どのようにしたらこのような苦しみから解放されることが出来るのだろうか」と反問したところ餓鬼が次のように答えた。

「この世界に満ちている多数の餓鬼に飲食を施し、多数の仙人、多数の修行者及び三宝(仏、法、僧)に供養をすれば、その功徳に依って私も餓鬼の苦しみから解放され、あなたも寿命を延ばし餓鬼界に堕ちる事はないでしょう」と言って姿を消した。

阿難尊者は仏様にその出来事について相談をし仏様から餓鬼供養のご真言や供養法を教わった。

そして、その法を修したところ阿難尊者も天命を全うし餓鬼の苦しみも解脱したとあります。(大正新修大蔵経第21巻(密教部四)464P~465P参照。)

餓鬼に関連するお経に盂蘭盆経というお経もある。

その主な内容は

「昔、お釈迦様の直弟子であり高弟の目連尊者が修行により悟りを開くと、直ちに故郷の母を想い起こし、目連尊者自身の天眼通(超人的な透視力、霊眼)により母の所在を探すと母はもう既に亡くなって、餓鬼道に堕ちて苦しんでいたのを見た、

目連尊者は大いに悲しんで自身の神通力により母の傍らに赴き、手づから食物を捧げると、母はうれし涙にくれ、直ちに目連が持ってきた食物を口に入れようとしたが、過去に目連の母が犯した多くの悪業報の報いにより、食物はそのまま火炎となって燃え上がり目連の母はその食物を食べる事が出来なかった。

母は悲泣し目連尊者もどうすることも出来ず、ただ赤子のように泣くのみであった。

その後、目連尊者はお釈迦様の所に行き、母の苦しみを救って欲しいとお願いした。

するとお釈迦様は次のように説かれた。

「目連の母は生前の悪業が深いので目連の力だけではどうする事も出来ない。

このうえは十方(多数)の衆僧(修行僧)の威徳に頼る他は無い。

七月十五日は僧懺悔の日、仏歓喜の日であるから、その日に飲食を調えて十方の衆僧を供養するがよい。

そうすればその功徳により母の餓鬼道の苦しみも消えるであろう。」と説かれたので目連尊者はその教えの通り、その日に十方の衆僧に飲食を調え供養を行うと母の餓鬼道の苦しみを救う事が出来た。」と書かれている。

この目連尊者のお母さんが救われたのを見た目連尊者が喜びのあまり、狂ったように踊って喜んだ。

周りの僧侶たちは、あの勤勉で真面目で実直な目連尊者が狂ったように踊り、喜んでいる姿を見て、大変驚いたという。

毎年、日本の夏に行われている盆踊りの起源は、この時の目連尊者の踊りが起源とされています。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

 

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

参考文献

「ブッダの教え  初期経典をたどって アンドレ・バロー著  富樫瓔子訳」
「ブッダ 神々との対話 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 中村元著 岩波文庫」
「お盆と彼岸の供養 開甘露門の世界 野口善敬編者 禅文化研究所」
「大正新修大蔵経第二十一巻 密教部四 大蔵出版」
「地獄の話 山辺習学著 講談社学術文庫」

「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

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仏教が説く、盗み、泥棒、窃盗、略奪行為に対する死後における報い。

「因果は巡る小車」という諺があるが、その意味は善行も悪行も自分に返ってくる。

一般的には悪いことをした報いは自分に返ってくるといった意味。

つまり、自業自得のような意味に使われがちですが「輪転五道罪福報応経」という仏教のお経によると、わるいことだけではなく、よいことをした報いも自分に返ってくるとされています。

何かをしくじって、一般的に、ごまかしたり、やり過ごせたりしても後になってそれが原因となり自分の身に災難が降りかかってくるケースは少なくありません。

当然のことと思った善行によって後々、その相手から窮地を救ってもらえる例もあります。

こちらは情けは人の為ならずと同義です。

ところで、現代において典型的な盗みの罪として、

振り込め詐欺、オレオレ詐欺、架空請求詐欺、ワンクリック詐欺、ひったくり、

ぼったくり、いかさま、スリ、着服、横領、不正請求、ペーパー商法、

悪徳商法、金融犯罪、強盗、強奪、置き引き、持ち逃げ等の罪などがある。

仏典では、そのような悪事、悪業を犯すと未来、死後、来世においてその悪事、悪業の罪の報いとして

地獄界、鉄窟地獄(てつくつじごく)、寒氷地獄、餓鬼界(飢えや渇き等に苦しむ境涯)、

畜生界の三悪道、三悪趣という大きな悩み苦しみに満ちた残虐、悲惨な境界、

地獄 獄卒絵

人間に生まれるならば撲隷(奴隷)、無幸処(幸せの無い境界)、極貧、貧困等の大きな悩み苦しみ多き境涯に生まれ変わると説かれている。

仏教では六道輪廻を説きます。

六道輪廻とは生き物達が

天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六道。

つまり六つの境涯を途方もない膨大な期間、途方もなく膨大な回数、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしている。

つまり、輪廻転生している事を説いている。

六道輪廻図(チベット)

六道輪廻図(チベット)

その六道のうち動物の境涯である畜生界、飢えや渇きに苦しむ境涯、餓鬼界、地獄の鬼達に残虐に責め立てられ痛めつけられ苦しめられる極めて残虐悲惨な境涯である地獄界は三悪道、三悪趣といって六道輪廻の中では最も苦しい境涯であると説きます。

増一阿含経において、生き物たちのことを、仏教用語では衆生(しゅじょう)と呼びますが、衆生は死後に、人間や神に生まれ変わるより、地獄界や畜生界、餓鬼界などの悪趣に生まれ変わる回数の方が圧倒的に多いと説いています。

仏典、増一阿含経 第七巻 五戒品 第十四において盗み、泥棒(どろぼう)、窃盗(せっとう)、略奪(りゃくだつ)行為の報いについて説かれているお経が存在する。

その主な主旨内容は、盗み、泥棒、窃盗行為を多く行った者はその罪の報いにより未来、将来、死後、来世において地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ赴(おもむ)くと説かれている。

また、人間に生まれ変わっても極めて貧しく、衣服や食事に極めて事欠く境涯に生まれ赴くと説かれている。

(大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下  576ページ中段参照、国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社 参照)

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社」参照

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社」参照

また、パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ、雑阿含経において仏陀は次のように説かれている。

「他人から奪った人が(来世、未来において)他人から奪われるのである。

愚か者は悪の報いが実らない間は悪の報いがない事を当然のことだと考える.

しかし、悪の報いが実ったときには愚か者は苦悩を受ける。

殺す者は(未来には)殺され、怨む者は(未来には)怨みを買う。

また、罵りわめく者は(未来には)他の人から罵りを受ける。

怒りたける者は(未来には)他の人から怒りを受ける。」

次に、パーリ仏典「ダンマパダ」及び「ウダーナヴァルガ」において
仏陀はこうお説きになられている。

「悪の報いが熟しない間は悪人でも幸運にあうことがある。

しかし、悪の報いが熟したときには、悪人は災い(わざわい)にあう。

善の報いが熟しない間には善人でも災い(わざわい)にあう事がある。

しかし、善の果報が熟したときには善人は幸福にあう。」

さらに、「ダンマパダ」(法句経)において仏陀はこうお説きになられている。

「悪しき(悪業)をなしてこの世(現世)に苦しみ、かの世(来世)に苦しみ両世(現世、来世)に苦しむ。

「我 悪しきをなせり」と思い苦しみ、難所(地獄など)に行きていよいよ苦しむ。

良き(善業)をなしてこの世(現世)に歓喜し、かの世(来世)に歓喜し両世(現世、来世)に歓喜す。

「我 良きをなせり」と歓喜し、善処(天界)に行きていよいよ歓喜す。」

さらに、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀はこうお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし、人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

ブッダに供養を捧げる女性

さらに、法句経において仏陀は次のように説かれている。

「悪業の報いはたとえ大空においても大海においても奥深い山中に隠れても悪業の報いからは逃れることが出来ない。」

さらに、仏典パーリ中部経典の中の賢愚経(けんぐきょう)、漢訳仏典 中阿含経の癡慧地経(ちえぢきょう)において仏陀は次のように説かれている.

「仮に賭博(とばく)や博打(ばくち)に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運があったとしても、罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後、地獄へ堕ち、膨大な年数、極めて残虐悲惨な苦しみを受ける地獄での大苦痛大苦悩に比べれば賭博、博打に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運などはとるに足らない僅(わず)かな不運である。」

つまり「罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後地獄へ堕ち、膨大な年数、残虐で極めて悲惨な苦しみに遭遇する地獄へと堕ちる不運こそが最悪の大不幸、大不運、大損である。」という内容の説法をされている。

つぎに、真言密教(真言宗)の開祖弘法大師空海様の晩年の著作「秘密曼陀羅十住心論」や日本の浄土宗に大きな影響を与えたとされる天台宗僧侶、慧心僧都源信様の著作「往生要集」、その他多くの仏教諸経典において偸盗罪(ちゅうとうざい)つまり他者(他人)の所有物を盗む事の罪(与えられない物を奪い取る罪)の業報について説かれている。

弘法大師空海様が著された「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において盗み、窃盗、泥棒、収奪の業報について次のように説かれている。

「また、その殺生によりて、貪害滋(しげ)く多し、滋(しげ)く多きをもっての故に、すなわち義譲なくして劫盗(こうとう)を行ず。

今身に偸盗(ちゆうとう)して、与えざるを取れば、死してすなわちまさに鉄窟地獄(てっくつじごく)に堕して、劫(けこう)の中においてもろもろの苦悩を受くべし。

受苦すなわち終わって畜生の中に堕して、駆捶打(くそくすいだ)せられて余息あることなし。

所食の味はただ水草をもってす。

この中に処して、無量に生死す。

本因縁をもって、もし、微善に遇うて、たまたま人身に復すれば、つねに僕隷(ぼくれい)となりて、駆策走使(くさくそうし)せられて自在なることを得ず。

償債(しょうさい)いまだおわらざれば、聞法することを得ず。

これによりて苦を受けて、輪廻無窮なり。

まさに知るべし、この苦はみな偸盗によることを。

・・・中略・・・・・・

「地持論」にいわく、劫盗の罪はまた衆生をして三悪道に堕せしむ。もし人中に生ずれば二種の果報を得。

一には貧窮、ニには共財にして自在なることを得ず」と。

劫盗は何が故にか地獄に堕するや。

その劫盗は人の財を剝奪(はくだつ)し偸窃して衆生を苦しめるをもっての故に、身死してすなわち寒氷地獄に入りてつぶさに諸苦を受く。

劫盗(こうとう)は何が故にか出でて畜生となるや。

それ人道を行ぜざるをもっての故に、畜生の報いを受けて身常に重きを負い、宍(にく)をもって人に供してその宿債を債う。

何が故にかまた餓鬼に堕するや。

慳貪をもってすなわち劫盗を行ずるによって、これをもって畜生の罪おわりてまた餓鬼となる。

何が故にか人となりて貧窮なるや。

その劫盗は物をして空乏ならしむるによって、ゆえに貧窮なり。

何が故にか共財にして自在なることを得ざるや。

その劫盗は偸奪して官に没せらるるによって、もし財銭あればすなわち五家のために、共せられて自在なることを得ず。

まさに知るべし。

劫盗は二の大苦なり。

・・・後略・・・・・・」

 

秘密曼荼羅十住心論 書き下し文

書籍「空海 日本思想大系 川崎庸之 (校注者)   岩波書店」参照。

秘密曼荼羅十住心論 原文(弘法大師空海 著)

書籍「空海 日本思想大系 川崎庸之 (校注者)   岩波書店」参照。


さらに、その十住心論の中で、空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 五五七頁)というお経を引用し盗みの業報について次のようにお説きになられている。

真言宗開祖 弘法大師空海

そのお経の概要は

「ある一人の鬼(死者)がいた。その鬼が仏弟子である目連尊者に対しこのように質問した。

「私の腹は極度に大きく、のど、手足は極度に細くて食べ物や飲み物を取ること、食事をする事が出来ない。

何が原因でこのような苦しみを受けるのか。

目連尊者は答えて言った。

「あなたは前世(前生)において高い地位にあり富貴、裕福で、さまざまな食事、お酒を大いに楽しんだが、他の人々を軽視し、侮り(あなどり)、見下し他の人々の飲食を奪(うば)い取り、他人を飢(う)えさせ、他人を困らせた。

このような他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた行い、行為、因縁、業報、罪の報いによりこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、業報であり、このような罪の報いによる地獄の苦しみは後になって受けるのである」

さらに、因果の道理を知る事の重要性について弘法大師空海様は自身が著された「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)の中において次のように説かれている。

「三途の苦は劫を経ても免れがたし。如来の慈父この極苦を見てその因果を説きたもう。

悪の因果を説いてその極苦を抜き、善の因果を示してその極果を授く。

その教えを修するものに略して二種あり。

一には出家、二には在家なり。

出家とは頭を剃り衣を染むる比丘・比丘尼等これなり。

在家とは冠を頂き縷(えい)を絡(まと)える優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)これなり。

上、天子に達し、下、凡庶に及ぶまで、五戒、十善戒を持(たも)って仏法に帰依するものみなこれなり。

菩薩といっぱ、かくのごとくの在家の人、十善戒を持(たも)って六度の行を修するものこれなり。

出家して大心を発するものもまたこれなり。

悪を断ずるが故に苦を離れ、善を修するが故に楽を得。

下、人天より上、仏果に至るまでみなこれ断悪修善の感得するところなり。

この両趣を示さんがために、大聖教を設けたもう。

仏教すでに存せり。

弘行人に在り。

この故に法を知るものは出家し燈(この文章では仏の教えを意味する)を伝え、道を仰ぐものは道に入って形を改む。

・・・・・・後略・・・・・」

ちなみに真言密教における十善戒とは

不殺生戒

不偸盗戒

不邪淫戒

不偸盗戒

不両舌戒

不悪口戒

無義語戒

不貪欲戒

不瞋恚戒

不邪見戒

を意味する。

書籍「弘法大師著作全集 第一巻 弘法大師(著) 勝又俊教(編)山喜房仏書林」参照。

次に、地獄に関する書物として今から約千年程前に著された有名な「往生要集」という書物がある。

西洋ではダンテにより著された「神曲」という書物が地獄について書かれた世界的に有名な書物であるが、この「往生要集」は東洋の「神曲」ともいうべき書物とも言える。

この「往生要集」は浄土宗に大きな影響を与えた書物で鎌倉時代前に活躍した天台宗の僧侶、源信(慧心僧都源信、横川僧都源信)という僧侶により書かれた書物である。

この往生要集は宗(約千年前の中国の国名)の国に贈呈され台州の周文徳という方が往生要集を国清寺に収められた。

また、周文徳は源信を小釈迦源信如来として賛嘆、褒め称えた。

また、真宗皇帝も源信を賛賞する事切なるものがあったという。

日本国においても源信様は今迦葉(迦葉とはお釈迦様の在世当時の十大弟子の一人 優秀な高弟の名前)と呼ばれ、源信を賛賞する事切なるものがあったという。

この書物の前半では地獄界 餓鬼界などの状況等について各教典論書を引用し具体的に書かれている。

又、どのような行為(例えば殺生、盗み、妄語、邪淫、飲酒など)によりどういう境涯(例えば地獄界、餓鬼界、畜生界など)に赴くのかが記載されている。

また、仏の三十二相についても具体的に説かれている。

どういう種類の良い行いにより良き報い、良き境涯、優れた仏の外観相形などを得られるのかという事も書かれている。

天台宗僧侶 

慧心僧都源信(えしんぞうずげんしん)

書籍「日本思想大系  源信   石田瑞麿 (校注者)  岩波書店」参照。

次に、江戸時代に活躍された僧侶、臨済宗の中興の祖、白隠禅師様が書かれた書物「辺鄙以知吾(へびいちご)・壁訴訟(かべぞしょう)」という書物がある。

その書物の内容は、江戸時代の一部の殿様や将軍達の農民に対する貪欲かつ暴利を貪るが如き年貢の要求、冷酷な年貢の取立て、またその冷酷無慙な取立てにより農民達が苦しめられ、追いつめられ、ついには農民一揆という行動をとらざるを得なくなり、最後には農民達が死罪に追い込まれていった詳しい事情経緯がこの本に書かれている。

また、この書籍の中で白隠禅師は、苦しめられ追いつめられていく農民の姿を見てお殿様や将軍達に対して次のように批判した。

「あまり農民達を冷酷、過酷な取り立てで苦しめ追いつめると来世(死後)には農民達を過酷な取り立てで追いつめ苦しめた罪、悪事、悪業の報いによってお殿様や将軍様が死後において過酷で残虐、悲惨な地獄の苦しみを受けることになりますよ。」と忠告及び批判をしている。

この本は江戸時代に一時、発禁処分対象の書物であった。

臨済宗中興の祖 白隠禅師

参考文献

「生き方がうまい人のことわざの知恵 幸運社編 三笠書房 知的生き方文庫」
「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版社」
「往生要集 上  源 信 著  石田 瑞麿訳注 岩波文庫」
「往生要集 下  源 信 著  石田 瑞麿訳注 岩波文庫」

「日本思想大系 空海 川崎庸之 (校注者)  岩波書店」

「日本思想大系 源信 石田瑞麿 (校注者) 岩波書店」

「弘法大師著作全集 第一巻 弘法大師(著) 勝又俊教(編)山喜房仏書林」
「大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 大蔵出版社」
「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社」
「白隠禅師法語全集 第1冊 邊鄙以知吾・壁訴訟 白隠 慧鶴 著, 芳澤 勝弘 著 辺鄙以知吾 禅文化研究所」
「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤ1 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」
「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」

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お釈迦様は死後の存在を肯定したのか?否定したのか?を検証する

一部の仏教学者や一部のお坊さん達、特に浄土真宗のお坊さんや仏教学者の中で、信者さんや聴衆に対し「お釈迦様は霊魂の存在を否定している。」「お釈迦様は死後の存在を否定している。」と説法しているという話を本で読んだり話を聞いたりしたことがあるが、お釈迦様は本当に霊魂の存在、死後の存在を否定したのであろうか?

お釈迦様の言行録として学問的に認められているパーリ仏典や阿含経などの文献を見てみると霊魂の存在、死後の存在を肯定するような文言が頻繁に出てくる。

例えば、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる。」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

パーリ仏典、大パリニッバーナ経(南伝大蔵経 小部経典)において次のように説かれておられる。

「聖賢の生まれなる人が住居をかまえる地方において、そこで、有徳にして自ら制せる清浄行者たちを供養したならば、そこにいる神霊たちはかれらに 施与の功徳をふり向けるであろう。

かれら(神霊)は供養されたならば、かれを供養し、崇敬されたならば、かれを崇敬する。

かくて、かれを愛護すること、あたかも母がわが子を愛護するようなものである。

神霊の冥々の加護を受けている人は、つねに幸運を見る。」

パーリ仏典「ダンマパダ」や「ウダーナヴァルガ」においてブッダはこう説かれている。

「つねに敬礼を守り年長者を敬う人には四種のことがらが増大するー すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。

実に心が統一されたならば豊かな智慧が生じる

心が統一されないならば豊かな智慧が滅びる

戦場の象が射られた矢に当たっても耐え忍ぶように我は人のそしりを耐え忍ぼう。

多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。

世のそしりを忍び自らを治めた者は人々のなかにあっても最上の者である。

悪の報いが熟さない間は悪人でも幸運に遭う事がある。

しかし、悪の報いが熟すると悪人は災いに遭う。

善の報いが熟さない間は善人でも災いに遭う事がある。

しかし、善の報いが熟すると善人は幸福に遭う。」

さらに、
「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。

全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い  また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等 それこそが、その人自身のものである。

人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。

それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。

影が人に従うように。

それ故に善い事をして功徳を積め。功徳は人々のよりどころとなる。

仏教経典 雑阿含経第十九のなかに屠牛者経 屠羊者経 殺猪経 猟師経というお経がある。

屠牛者経を例に挙げると、そのお経の概要は釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(生きている間)において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

また我(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

屠羊者経 殺猪経 猟師経も屠牛者経と同様、大体似た内容で説かれている。

仏教のお経の阿含経に「好戦経」というお経があります。

戦争を好み刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

又「堕胎経」というお経もある。

内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。

仏教経典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九に屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前(生きている間)において人間や動物達等の生き物の屠殺(殺す事)、殺生(生き物を殺す事)を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業(罪障)の報いにより非常に長い年月の間地獄(大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒(地獄の鬼達)により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界)に赴き多くの様々な激しい苦しみを受けその地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達(カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等)に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

「好戦経」「堕胎経」は「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

大正新脩大蔵経はあらゆる仏教のお経の原典原文を網羅、集大成したもので世界中の仏教学者の間から権威的文献、引用文献として高い評価を得ている。

大正新脩大蔵経には阿含部 華厳部 方等部 密教部 法華部 般若部 涅槃部 図像部などあらゆる種類の仏典が網羅されている。

国訳一切経、大正新脩大蔵経は内容がかなり専門的であり一般の方々、特に仏教書をあまり読まれた事がない方々にとって読んで理解するのに困難な一面があると思われる。

先に紹介した「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」という書籍がある。

その書籍の中に「好戦経」「堕胎経」を非常に分かり易く説かれている箇所がある。

さらにまた、雑阿含経に爪甲経(そうこうきょう)というお経がある。

その概要は

「ある日、釈尊は釈尊自身の手で大地の土を拾い釈尊自身の手の爪と手の甲の上にその土を乗せて諸々の比丘(修行者)に次のように尋ねられた。

「諸々の比丘(びく)よ。私のこの手の爪と手の甲の上に乗っている土の量とこの大地の土の量とではどちらの土の量が多いか?」

諸々の比丘は次のように答えた。

「世尊(釈尊)よ。世尊(せそん)の手の爪と手の甲の上に乗っている土の量はこの大地の土の量と比べるならば比べものにならない程ごくわずかな量です。」

釈尊は続けてこのようにお説きになられた。

「諸々の比丘よ。もし肉眼で見える生き物たちの数をこの手の爪と手の甲の上にある土の量とするならば、その形が微細で肉眼では見えない生き物たちの数はこの大地の土の量のように膨大に存在する。

比丘たちよ。

未だ無間等の悟り(仏陀の悟り)に到達しない者は努めて無間等(むけんとう)の悟りに至るよう努力せよ。」

(大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 114ページ上段(雑阿含経第十六巻)
国訳一切経 阿含部二 雑阿含経第十六巻引用)

このように、お釈迦様は霊魂の存在を肯定し、死後の存在を肯定している。

また、パーリ仏典、大パリニッバーナ経(南伝大蔵経 小部経典)において仏陀釈尊は神霊の存在について、次のように説かれている。

「聖賢の生まれなる人が住居をかまえる地方において、そこで、有徳にして自ら制せる清浄行者たちを供養したならば、そこにいる神霊たちはかれらに 施与の功徳をふり向けるであろう。

かれら(神霊)は供養されたならば、かれを供養し、崇敬されたならば、かれを崇敬する。

かくて、かれを愛護すること、あたかも母がわが子を愛護するようなものである。

神霊の冥々の加護を受けている人は、つねに幸運を見る。」

(ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 中村 元訳 岩波文庫参照)

最後に、ブッダ釈尊が瞑想中において生き物たちが死後、様々な境涯に生まれていくのを透視した事について説かれている四分律経典を紹介いたします。

      書籍『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照

      書籍『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照

参考文献

「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤ1 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」
「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 中村 元訳 岩波文庫」
「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」
「国訳一切経 阿含部 二巻 大東出版社」

「国訳一切経 律部二 大東出版社」
「輪廻する葦 阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「間脳思考 霊的バイオホロ二クスの時代 桐山靖雄著 平河出版」

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仏教のお経、阿含経というお経についての話

日本や中国において、長い間、大乗仏教が信仰され、特に、日本において大乗経典と呼ばれる法華経や阿弥陀経などの大乗仏教が独占的に信仰され、その一方、阿含経というお経は小乗仏教、小乗経典として、軽視、もしくは、ほとんど無視されていた経典であった。

日本の仏教は千年以上の長きにわたり、阿含経を劣った小乗経典、つまり、自分だけの悟りを求め、自己のみが救われる事を目指す利己的で、レベルの低い卑しい経典とみなされていた。

また、出家しなければ救われない出家仏教の経典ともいわれてきた。

今から約1400年以上前の中国において、高僧、天台大師智顗(チギ)が立てた五時教判という教相判釈があるが、その教相判釈によると法華経、涅槃経が最も高い大乗の教えであり阿含経は最も低い小乗の教えであると結論づけされている。

その為,日本において、阿含経に対する研究や信仰はほとんどなされなかったが、近年文献学の目覚しい発展、パーリ語、サンスクリット語等の原語での仏典研究、著しい学術的進歩により阿含経典(パーリの五部 漢訳四阿含)こそが仏教の開祖であるお釈迦様が実際にお説きになった内容、もしくは、極めて近い内容の経典であると学問的に認められている。

この事についてインド哲学、仏教学の世界的権威(故)中村元 博士(1912~1999)は著書「バウッダ(佛教) 中村元 三枝充悳 共著 講談社学術文庫」において次のように解説されている。

中村 元 博士(1912年~1999年)

「現存のアーガマ(阿含経)を、そのまま「釈尊の教え」に直結することは、あまりにも短絡化しすぎており、今日の仏教学からすれば、むしろ誤りとみなされる。

ただし、釈尊の教えと仏弟子達の言行などは、そして、最初期ないしは初期の資料は、アーガマ(阿含経)にしか存在していないのであり、多数の大乗経典 (これを日本人は「釈尊の教え」そのものと誤解し「仏教」として受容してきた)には、求むべくもないことが明白である以上、何よりもアーガマ(阿含経)の解明に専念する仏教文献学が必要不可欠の前提とされる。

そして、それは、近代学問としてすでに100年以上の年月を刻んで、今日もなお営々として継続している。」とある。

また、仏教学者の(故)平川彰(ひらかわあきら)博士(1915~2002)は仏教経典の阿含経(あごんぎょう)について自身の著作である「インド仏教史 上巻 平川彰著 春秋社」という書籍において以下の主旨、概要の解説をされている。

「阿含経はアーガマ(Agama)、つまり伝わったもの、伝承されたものとも呼ばれ、仏陀釈尊の直接の教えが伝承されたものであることを示している。

しかし、これらの経典(阿含経)は仏陀釈尊の死後、仏陀釈尊の直弟子、仏陀釈尊の高弟達の記憶によって仏陀釈尊の教えの内容がまとめられ、又経典として書きとめられ伝来された為、伝承の間に仏陀釈尊の弟子の理解や解釈が付加され増広され、仏陀釈尊直説の教説が多少変化を蒙(こうむ)ったことは避けられなかったもしれない。

阿含経は仏陀釈尊の教えそのものではないかもしれない。

しかし、幾多の仏教諸経典の中で阿含経は仏陀釈尊の教えの内容を最も含んでいる経典であり仏陀釈尊の思想を求めるとすれば先ず阿含経の中に求められなければならない」

また、著名な日本の哲学者であった(故)梅原猛教授は自身の著作「地獄の思想 梅原 猛著 中央文庫」の中で

「釈迦の説法集が出来上がったのはむしろ釈迦の死後である。

釈迦の死後に様々な経典が作られた。

そして、その経典の中には釈迦の説というより弟子自身の説が混じるようになる。

後世の人々が釈迦の名において勝手に自己の学説を正当化する経典を作るようになる。

かくして、仏滅後五百年も六百年も過ぎて、なお釈迦の名において多数の経典群が作られていく。

そして、謎の人、釈迦の正体を解いたのは、ヨーロッパの近代文献学にもとづく仏教学であった。

文献学的な方法にもとづく仏教学は経典の成立年代を大体、考証的に明らかにした。

そして、釈迦の正説は、従来、日本においては、小乗と卑しめられてきた阿含部経典や律部経典にあることが分かったのである。

これは伝統的な仏教家にとっては大きなショックであるはずであった。

なぜなら、彼らが千数百年来、崇拝してきた仏教の経典が、釈迦の説ではなく、後世の説であり、彼らが卑しんできた経典こそ釈迦の説であることが明らかになったからである。

もし、このことを知ったら、親鸞や日蓮や道元はどのように驚いたであろうか。」

次に、パーリ仏典研究の世界的権威、(故)水野弘元博士(1901年~2006年)は仏教経典の源流について自身の著作「経典はいかに伝わったか 成立と流伝の歴史 水野弘元著 佼成出版社」において次のように説かれています。

「大乗仏教の般若の空思想や菩薩の波羅蜜の修道法もその源泉、源流は阿含経の中にあります。

インド大乗仏教の祖師と云われる龍樹菩薩や世親菩薩の著作において、阿含経の教説は大乗の教説と並べて権威的な典拠(典籍)として扱われ龍樹菩薩、世親菩薩の著作においてしばしば阿含経が引用されています。」

   竜樹菩薩(チベット画) 

  竜樹菩薩(日本画)

また、ドイツの仏教学者、(故)ヘルマン・ベック(1875年~1937年)博士が著した「仏教(上)(下)岩波文庫  ベック著」という書籍においてヘルマン・ベック博士は仏教の実践の綱要を瞑想に見い出し、種々の経典、特にパーリ仏典の長部経典(漢訳では阿含経の長部経典にほぼ該当する)等を多く引用し瞑想、禅定に関する詳細な解説をしている。

さらにまた、(故)水野博士は自身の著作の「原始仏教」において阿含経を引用し

「那伽(ナーガ)は常(つね)に定(じょう)に在(あ)り。」と引用し実際に仏陀釈尊は禅定の熟達者であったと経典に伝えられている。

この経典の中で那伽(ナーガ)とは仏陀釈尊を意味する。

定とは瞑想、禅定を意味している。

南伝大蔵経の増支部経典においても

「那伽(ナーガ)は行(ゆ)くにも定(じょう)にあり、

那伽(ナーガ)は立(た)てるも定にあり、

那伽(ナーガ)は臥(ふ)すにも定にあり、

那伽(ナーガ)は座(ざ)せるにも定にあり」

とある。

また、漢訳仏典の中阿含経118の龍象経においても、

「龍行止倶定、坐定臥亦定、龍一切時定、是謂龍常法」

とある。

仏典中の龍(竜)とは優れた修行者を意味する事もある。

この経典の中の那伽(ナーガ)、龍(竜)とは仏陀釈尊を意味する。

仏陀釈尊は特に禅定(瞑想)に入っていない日常の精神状態であっても定(禅定)にあるのと同じように無念無想の精神統一を得られていたとされる。

  水野弘元博士

参考文献
「バウッダ(佛教) 中村元 三枝充悳 共著 講談社学術文庫」
「インド仏教史 上巻 平川彰著 春秋社」

「インド仏教史 下巻 平川彰著 春秋社」
「地獄の思想 梅原猛著 中央文庫」
「経典はいかに伝わったか 成立と流伝の歴史 水野弘元著 佼成出版社」
「原始仏教 水野弘元著 サーラ叢書」
「仏教(上)(下)ベック著 岩波文庫」
「輪廻する葦 桐山靖雄著 平河出版」

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いじめ、虐待問題の根本的な原因とその解決方法についての考察

いじめ、虐待の問題の根本的な原因は第二次世界大戦における敗戦以後、教育において、宗教的なものを排除する方向に向かった事が大きな原因のひとつと考えられる。

道徳教育は人間にとって非常に重要な事である。

しかし、道徳教育のみではその道徳を実践する正当性を主張、説明するには理論的限界があるように思われる。

この道徳教育の理論的限界について、仏教学者、(故)平川彰博士(1915年~2002年)は自身の著作「インド・中国・日本 仏教通史 平川彰著 春秋社」において次のように説かれている。

「国家を治めるには刑罰だけでは治められないのであり、社会の平和を実現するには道徳が必要である。

しかし、道徳は道徳だけでその正当性を主張するのは困難であり、その根底には宗教による基礎づけを必要とする。

したがって、聖徳太子が三宝(仏、法、僧)興隆の詔勅を発し、率先して仏教を導入されたのは、仏教によって国民の道徳的精神を高める目的があったとともに、物質文化を高めることも大きな理由であったであろう。」

ここで平川彰博士が解説されている宗教による基礎づけとは仏教において説かれている輪廻転生の教説、善因善果・悪因悪果の因果業報説も当然、含まれていると考える。

また、宗教教育の欠落の弊害についてインド哲学、仏教学の世界的権威である(故)中村元博士(1912~1999)は自身の著作「日本人の思惟方法 中村 元著 春秋社」において次のように言及されている。

インド哲学、仏教学の世界的権威

中村元(なかむらはじめ)博士

 

「明治維新以後もそうであったが、ことに第二次世界大戦における敗戦以後、日本の指導者達は、宗教的なものを全面的に禁圧する方向に向かって指導し、そのとがめが種々の局面に現れているようである。

いま、教育の荒廃ということが盛んに論じられているが、例えば、いじめとか登校拒否とかいう問題は公立学校でだけ起こっていることである。

反対に宗教教育を行なっている学校では起こっていない。

仏教精神で教育を行なっている学校では、この問題は起こっていない。

キリスト教関係の学校でもついぞ聞いたことがない。

また、いずれかひとつの宗教に偏るのではなく機会あるごとにいろいろな宗教の講話を聞かせている学園でも、この問題は起きていない。

これらは戦後に顕著になった現象なのである。

公立学校では宗教と教育とは分離するべきであるとの理由により公教育の場から宗教を追放したからである。

その法的な根拠は日本国憲法であり、その憲法の原文はGHQから日本政府に交付されたものである(後略)」

その宗教の中のひとつに仏教という宗教があるが、その仏教の経典のひとつ「スッタ・ニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

「一度生まれる生き物(胎生つまり母胎から生まれる生き物)でも、二度生まれる生き物(卵生、つまり卵から生まれる生き物)でも、この世で生き物を害し、生き物に対する哀(あわ)れみのない人(慈悲心のない人)、彼を賤(いや)しい人であると知れ」

「母、父、兄弟、姉妹或いは義母を打ち、また言葉で罵(ののし)る人、彼を賤(いや)しい人であると知れ。」

仏教とほぼ同時期に成立したジャイナ教の教えにも次のように説かれている。

「わたしは説く。

いかなる生物も傷つけてはならない。

これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。

全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。虐待してはならぬ。

害してはならぬ。

苦しめてはならぬ。

悩ましてはならぬ。

これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。

一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

ジャイナ教の教えの特長は人間だけではなく動物や植物に対する不殺生戒を徹底的に重視する点にある。

 ジャイナ教では一般に善業は楽しみを生ずる手段であり、悪業は苦しみを生ずる手段であると考えていた。

 したがって、不道徳な行為は苦しみをもたらすものであるが、そればかりではなく、行為そのものが結局において、やはり苦しみをもたらすのである。

この苦しみは行動から生ずるものである。

 人の作った業(行為)が(行為を行ったその人自身の)来世の運命を決定するということはジャイナ教においても強調されている。

 業の観念は既にジャイナ教以前において成立していたものである。

 現世における行為に応じて来世に楽あるいは苦の果報を受けるという漠然とした観念はすでにインド最古の文献「リグ・ベーダ」に現れている。

 インド最古の文献、古ウパニシャッドにおいてもこのような思想は特に明確に表明されている。

ジャイナ教は業の恐ろしさを説いている。

因果応報について種々の経典に説かれている。

また、仏教の経典、パーリ仏典「サンユッタ・ニカーヤ」、漢訳仏典「雑阿含経」において仏陀は次のように説かれている。

「他人から奪った人が(来世、未来において)他人から奪われるのである。

愚か者は悪の報いが実らない間は悪の報いがない事を当然のことだと考える。

しかし、悪の報いが実ったときには愚か者は苦悩を受ける。

殺す者は(未来には)殺され、怨む者は(未来には)怨みを買う。

また、罵りわめく者は(未来には)他の人から罵りを受ける。

怒りたける者は(未来には)他の人から怒りを受ける。・・・後略」

つまり自分が(来世、未来において)殺されないようにするためには他者を殺してはいけない。

また(来世、未来において)自分のお金や大切にしている物を盗まれないようにする為には他者のお金や物を盗んではいけない。

さらに仏教の経典のひとつ、法句経において次のように説かれている。

「悪業の報いはたとえ大空においても大海においても奥深い山中に隠れても、悪業の報いからは逃れることが出来ない。」

と仏陀は説かれている。

また、次のような教えも仏教経典に説かれている。

「耐え忍び、苦行、隠忍は最高のものであり、ニルヴァーナは最高のものであると諸々の覚者(ブッダ)は説いた。

他人を害(そこな)う人は出家者ではない。

他人を悩ます人は修行者ではない。

一切の悪をなさず、善を具現し、自らの心を清らかならしめる。

これが諸々の覚者の教えである。

争わず、害せず、それぞれの解脱について制していること。

食事に量を知り、座臥に人々から離れ、高潔なることに心を専らにすること。

これが諸々の覚者の教えである。」

(長阿含経第一巻 大本経)

パーリ仏典「サンユッタ・二カーヤ」というお経においても次のようにお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。

怒りを断ち切って、悲しまない。

その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを聖者達は賞賛(しょうさん)する。

それ(怒り)を断ち切ったならば悲しむことがない。」

「人は利を求めて自分を与えてはならない。

自分を捨て去ってははならない。

人は善い(優(やさ)しい)言葉を放つべきである。

悪い、粗暴(そぼう)な言葉を放ってはならない。

やさしい言葉を口に出し荒々(あらあら)しい言葉を口に出してはいけない。」

仏教経典 漢訳大蔵経の中の阿含経及び南伝大蔵経においても次のようにお説きになられている。

「比丘(修行者)たちよ。

まさに一法を断つがよい。

一法を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう。

その一法とはなんであろうか。

いわゆる瞋恚(しんに)(怒り)がそれである。

比丘(修行者)たちよ、まさに瞋恚(怒り)を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう。」

「瞋恚(怒り)にかりたてられて、人は悪しき処におもむく。

まさに、つとめて瞋恚(怒り)を捨つれば、すなわち煩悩滅尽して聖者たらん。」

「雑言と悪語とを語って愚かなる者は勝てりという。

されど誠の勝利は堪忍を知る人のものである。

怒る者に怒り返すは悪しきことと知るがよい。

怒る者に怒り返さぬ者は二つの勝利を得るのである。

他人の怒れるを知って正念に自分(自分の心、精神、感情)を静める人はよく己(自分)に勝つとともに他人に勝つのである。」

ところで、話は少し変わるが、日本の仏教の宗旨宗派に真言宗という宗派があるが、その真言宗の開祖である弘法大師 空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において空海様は中絶(ちゅうぜつ)、堕胎(だたい)の果報、業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経 第十七巻 経集部四 五五八頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。そのお経の概要は

「一人の鬼あり、その鬼が仏弟子である目連尊者に対してこう問いかけた。

「私(鬼)の身体は常に肉の塊(かたまり)にして手、脚、眼、耳、鼻等あること無し、

つねに多くの鳥達に体をついばまれ、食べられ、耐えられない程苦しい。

何が原因でこういう苦しみに遭(あ)うのか?」

お釈迦様のお弟子である目連尊者は次のように答えて言った。

「あなたは前世(前生)においてつねに他者に薬を与え、他者の胎児(たいじ)を堕(おろ)した。

胎児を中絶させた。

胎児を殺害した。

このような行為、因縁、業報により死後、現在においてこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、行為の報い、罪の報いであり、地獄の苦果、苦しみはまさに後身にあり。(果報の報いはあとになって受ける)」とある。

(鬼という言葉は死者を意味する。昔は死ぬ事を鬼籍に入ると言った。)

また、空海様は盗み、窃盗、泥棒、収奪の業報についても諸経典を引用し説かれている。

空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 五五七頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は

「ある一人の鬼(死者)がいた。

その鬼が仏弟子である目連尊者に対しこのように質問した。

「私の腹は極度に大きく、のど、手足は極度に細くて食べ物や飲み物を取ること、食事をする事が出来ない。

何が原因でこのような苦しみを受けるのか。

仏弟子の目連尊者は次のように答えて言った。

「あなたは前世(前生)において高い地位にあり富貴、裕福で、さまざまな食事、お酒を大いに楽しんだが、他の人々を軽視し、侮り(あなどり)、見下し、他の人々の飲食を奪(うば)い取り、他人を飢(う)えさせ、他人を困らせた。

このような他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた行い、行為、因縁、業報、罪の報いにより、このようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、業報であり、このような罪の報いによる地獄の苦しみは後になって受けるのである。」

次に、仏教経典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九にも屠殺、殺生に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前、生きている間において人間や動物達等の生き物の屠殺(殺す事)、殺生(生き物を殺す事)を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業(罪障)の報いにより非常に長い年月の間地獄(大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒(地獄の鬼達)により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界)に赴き、多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達、カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

仏教の教えでは、生き物は死んでも再度、何度も何度も生まれ変わる事を説きます。

すなわち、輪廻転生を説きます。

その輪廻転生には分段生死(ぶんだんしょうじ)と変易生死(へんやくしょうじ)と云う種類の転生があります。

分段生死とは凡夫の輪廻転生を意味し、六道輪廻つまり

地獄界(極めて苦しい残虐悲惨な境涯)、

餓鬼界(飢え、乾きに苦しむ境涯)、

畜生界(動物の境涯)、

修羅界(争いの境涯)、

人間界(人間の境涯)、

天界(天、神の境涯)

の六種類の境涯を衆生(生き物)が何回も何回も際限なく輪廻転生していく転生を意味します。

変易生死とは聖者の輪廻転生を意味し、聖者が仏陀の境涯に向かって修行していく過程、聖者としての境涯が後退せず上昇していく転生を意味します。

変易生死について詳しく解説すると、例えば聖者の境涯に預流(よる)という境涯があります。

凡夫が仏道修行により修行の境涯が進むと先ず預流という聖者に成ります。

預流とは聖者の流れに入った者の意を表し、預流になると地獄界、餓鬼界、畜生界という最も苦しみの度合いが激しい三悪道の境涯には二度と生まれ変わらないとされています。

そして最高位の聖者である仏陀に成るまで三回~七回程度、人間界と天界への生死を繰り返し最後には必ず仏陀の境涯に至る事が出来るとされています。

仏教経典「阿含経 長部経典」の「迦葉獅子吼経」の中で仏陀釈尊は苦行者の迦葉に向かってこう説かれた。

「外面的な規定を守ることによってではなく、倫理的行為と霊的自制と智とを完成させることにより、さらに内面的な憎しみとあらゆる敵意を克服し慈愛深い心をもつ者のみが解脱に到達する見込みがある。」

参考文献

「インド・中国・日本 仏教通史 平川彰著 春秋社」

「日本人の思惟方法 中村 元著 春秋社」

「ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫」

「思想の自由とジャイナ教 中村元著 春秋社」

「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波文庫」

「ブッダ 神々との対話 中村元訳 岩波文庫」

「ブッダ 悪魔との対話 中村元訳 岩波文庫」

「仏教思想8 解脱 仏教思想研究会 平楽寺書店」

「仏教 上 ベック著 岩波文庫」

「仏教 下 ベック著 岩波文庫」

「ブッダの真実の教えを説く(上巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」

「ブッダの真実の教えを説く(中巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」

「ブッダの真実の教えを説く(下巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」

「輪廻する葦 阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」

「間脳思考 霊的バイオホロ二クスの時代 桐山靖雄著 平河出版」

「弘法大師著作全集 第1巻 勝又俊教著 山喜房仏書林」

「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」

「大正新修大蔵経 第一巻 阿含部上 大蔵出版」

「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」


















日本仏教は葬式仏教で堕落している。という批判についての考察

日本の仏教は葬式仏教で堕落している。

本来の仏教とは違う。

という批判をする人がいるが、これについて参考するべき見解として、仏教の経典に「梵網経(ぼんもうきょう)」というお経があり、そのお経の中に不救存亡戒(ふぐそんぼうかい)という戒律があります。

仏教信者は慈悲の心を持って全ての生者、死者に対して慈悲の行為を行わなければならない事が説かれ、特に父母兄弟等の家門の親しい先亡精霊に対し、冥界における幸福を助けるための宗教行為に勤めるべきことを勧めています。

追善供養とは亡者のために追って善事を修して福を薦め、その冥福を祈る事です。

人の死後四十九日の間、亡者の霊は中有に迷って果報、転生先が定まらないので遺族、僧侶が善根を追修、回向してその功徳を亡者に捧げ、三途の苦報を免がれさせようとするため追善供養を行います。

ただし、極善の者は四十九日間を待たずに直ぐに仏界、天上界に直行し、極悪の者は直ぐに地獄界へ直行するとされています。

追善供養は人の死後、七日ごとに初七日忌、二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌、六七日忌、七七日忌つまり四十九日忌を行います。

また、百日目の百カ日忌、一年目に一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などに法要を営み、その功徳を亡者に回向します。

仏教には死者に対しての追福追善の報恩行、冥福を祈る宗教行事があります。

参考文献

「葬式仏教 圭室諦成著 大法輪閣刊」

ブッダ釈尊が説く孝養。

昔の日本の一部の地域であった姥捨て山(うばすてやま)のような、老齢になって役に立たなくなった老人を遺棄する。という現象は昔から汎世界的に見られるが、仏教はその風潮に対し、強く反対し、父母をいたわることを説いている。

ブッダ釈尊は次のように説かれている。

「世に母を敬うことは楽し。また父を敬うことは楽し。」

「母あるいは父を法によりて養う人あらば父母に仕えるそのことを以って、この世にてはもろもろの賢者がかれを賞賛す。

また死後(その功徳により)、かれは天界にて楽しむ。」

「母と父とは梵天ともいわれ先師ともいわれる。

子らの供養すべきものにして、また子孫を愛する者なり。

されば実に賢者は飲食と衣服と床と塗身と沐浴と洗足とを以って父母に敬礼し尊敬せよ。」

「されば正しき善人は、恩を感じて恩を知り、昔の恩を思い起こして母と父を扶養す。

昔、恩を受けたるが如くにかれら(父母)に対して義務を果たす。

教えを護り、扶養して、家系を断たず、信仰あり、戒を保つ子は賞賛せらるべきなり。」

「われらは両親に養われたならば、かれらを養うべし。

かれらの為に為すべきことを為すべし。

家系を存続すべし。

財産相続を為すべし。

また祖霊に対して適当なる時々に供物を捧ぐべし。」

パーリ仏典や漢訳仏典 雑阿含経においてブッダ釈尊はこうも説かれている。

1、母と父を養う人、父母を供養する。

2、家においては年長者を敬う人。家の尊重に供養する。

3、やさしい心の通う会話をなす人。柔和で優しい謙遜の言葉、態度をする。

4、そしる言葉を捨てた人。荒々しい言葉を離れる。

5、もの惜しみを除くのに努めている人。ケチな心をやめる。

6、真実なる人(真実の言葉を言う 嘘はつかない)。

7、怒りに打ち勝った人(怒りが起きても怒り心をすぐに取り除く人。

こういう立派な人々は来世(死後)に三十三天に生まれる事が出来る。と。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部三 大東出版社」参照。

つぎに、仏教経典 パーリ相応部経典(サンユッタ・二カーヤ)のお経において父母を養っているバラモンが尊師(仏陀釈尊)に次のように質問をした。

「ゴータマ(仏陀釈尊)さま。

わたくしは、きまりにしたがって食を求めます。

きまりにしたがって托鉢(たくはつ)して食を求めて、両親を養っています。

わたくしは、このようにしていますが、なすべきつとめを果たしているのでしょうか。」

尊師(仏陀釈尊)は次のように言った。

「バラモンよ。たしかに、そなたは、このようにして、なすべきつとめを果たしているのです。

きまりにしたがって食を求め きまりにしたがって食を求めて両親を養っている人は、多くの功徳を生じます。

母または父を、ことわりにしたがって養う人は、両親に対するその奉仕によって、この世では。賢者がかれを称賛し、死後には天にあって楽しむ。」

その言葉を聞きバラモンは次のように言った。

「すばらしいことです。

ゴータマさま。

すばらしいことです。

ゴータマさま。

ゴータマさま、私を在俗(在家)信者として受け入れて下さい。

今日以後、命ある限り貴方様に帰依致します。」

参考文献

「宗教における思索と実践 中村元著 サンガ文庫」
「地獄の話 山辺習学著 講談社学術文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」

書籍「人生のあらゆる悩みを2時間で解決できる! ブッダの教え 見るだけノート 大愚元勝監修 宝島社」参照

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感想(1件)

仏教やジャイナ教が説く「不殺生戒」について

ことわざに「一寸の虫にも五分(ごぶ)の魂(たましい)」という言葉があるが、仏教の戒律に不殺生戒という戒律がある。

つまり、生き物を殺してはいけないという戒律がある。

仏典「スッタニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

 

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。

いかなる生き物、生類(しょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」

「あたかも、母が己(おの)が独り子を命を賭けても護(まも)るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈(いつく)しみの心を起こすべし。

また、全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。

上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。

立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりたもて。

この世では、この状態を崇高(すうこう)な境地と呼ぶ。」

    

漢訳仏典の本生経(ほんじょうきょう)、パーリ語仏典でジャータカというお経の内容は釈尊や釈尊の弟子、菩薩などの前世物語を集めたお経である。

そのお経で次のように説かれている。

「私(釈尊)の喜ぶ事がしたいならば永久に狩り(狩猟)をやめてくれ。

森の憐(あわ)れな獣類(けもの、動物達)は智慧が鈍(にぶ)いのだから、ただこれだけの理由でも彼らを憐(あわ)れむ価値があるではないか」

釈尊はこうした心持ちから、広く人畜を殺さないようにせよと説かれたので、この平和の福音を仏教徒の掟(おきて)、戒律の最初に置かれたのはいかにも意味の深いことと思われる。

また、仏教経典「阿含経 長部経典」の「迦葉獅子吼経」の中で仏陀釈尊は苦行者の迦葉に向かってこう説かれた。

「外面的な規定を守ることによってではなく、倫理的行為と霊的自制と智とを完成させることにより、さらに内面的な憎しみとあらゆる敵意を克服し慈愛深い心をもつ者のみが解脱に到達する見込みがある。」

と説かれている。

次に、不殺生戒を具現化した行事に、放生会(ほうじょうえ)という行事がある。

殺される運命にある生き物を助け逃がしてやる行事をいう。

殺生を戒める宗教儀式で仏教の不殺生戒(生き物を殺してはいけないとういう戒律)から神仏習合により神道にも取り入れられた。

例えば殺される運命にある捕えられた鳥を大空に逃がしてやったり、又捕えられた魚や亀などを海や川や池に逃がしてやる行事。

各神社、各お寺でも実施している所がある。

京都府の石清水八幡宮

奈良県生駒郡 斑鳩町にある吉田(きちでん)寺、

大分県宇佐市にある宇佐神宮,

福岡県福岡市東区箱崎にある筥崎宮

筥崎宮では「ほうじょうや」とよぶ)

全国の八幡宮(八幡神社)でも行われている。

仏教とほぼ同時期に成立したジャイナ教の教えも仏教と同様、不殺生戒を重視する。

その教えの特長は人間だけではなく動物や植物に対する不殺生戒を仏教以上に徹底的に重視する点にある。

ジャイナ教の教えにこうある。

「わたしは説く。

いかなる生物も傷つけてはならない。

これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。

全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。

虐待してはならぬ。

害してはならぬ。

苦しめてはならぬ。

悩ましてはならぬ。

これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。

一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

      

ジャイナ教の第2代祖師 ゴーマテーシュバラ像。

「ブッダのことば 中村元著 岩波文庫」
「仏教 ベック著 岩波文庫」
「ジャータカ全集1 藤田宏達著 中村元著 春秋社」
「思想の自由とジャイナ教 中村元著 春秋社」
「放生(仏教行事歳時記 瀬戸内寂静著 藤井正雄著 第一法規」





睡眠不足による脳への弊害、不利益についての話

 眠らないことで一番害を受けるのは大脳です。

 睡眠不足によって記憶障害が起こる。

 という結果がアメリカの研究で発表されています。
 
 体には自己修復機能があります。


 しかし、睡眠を取らないと脳の損傷が進み、脳細胞が死んでしまいます。


 人は眠りの質を高めることで免疫力が上がり、細胞の再生力が上がり、更には脳が活性化します。

 つまり、眠りをきちんと取れば、薬に頼らずとも健康になることができるのです。

 私たち人間は生きるために眠るのです。

 睡眠不足を誇っていてはいけません。

 睡眠は約60兆個の細胞の修復再生時間である。

 睡眠中に私たちの体は修復再生されています。

 私たちの体は約60兆個もの細胞の集合体で日中は交感神経と活動的になるホルモンの働きでエネルギーを使い、活動するために身体全体が機能しています。

 修復再生力が高まるのが睡眠中なのです。

 睡眠の質も大事ですが、全身の細胞をしっかりメンテナンス修復再生するためにはそれなりの睡眠時間が必要になります。

 書籍「自分を変える睡眠のルール 千田琢哉著」の中で著者の千田琢哉氏は

 長期的な成功者に慢性睡眠不足の人はいないという主張をされている。

 以下、氏は次のように書籍で主張されている。

 「これまでに数多くの成功者たちと一緒に仕事をさせてもらってきたが、中でも長期的な成功者に私は注目した。

 長期的な成功者に見られた共通点は常軌を逸するほどに睡眠を重んじていたということだ。

 成功者の中には寝る間も惜しんで働いてばかりいた人の数も多かったが、残念ながら長期的ではなく短期的な成功で全員幕を閉じている。

 中には過労で亡くなってしまった人も複数いる。

 コンサル時代に顧問先でケアレスミスが目立つ人の分析をしたことがある。

 一度や二度のケアレスミスではなく、桁違いにミスが多い人間の観察をしたので彼らと面談を重ねるうちに 

 次第にこんな共通点が浮き彫りになってきた。

 それは睡眠不足だということだ。

 私はこの事実から睡眠不足というのはありとあらゆる場面に迷惑をかけるということを痛感した。

 この事実が判明して以来、彼らに生活態度を大幅に改めてよく寝るように指導したのは言うまでもない。
 
 リストラされるのではないか?と怯えた彼らに私が伝えたことは、いつもより1時間だけ早く寝るようにしてください。というわずか5秒のアドバイスだけだった。

 中には家族の世話が大変でそれどころではない人もいたから、そんな人にはランチは30分以内に終わらせて 残りは机でうつ伏せになって昼寝してください。と伝えた。

 顧問先の社長や上司の中には、彼らのケアレスミスを減らすため、何かとっておきのテクニックを伝授してくれる。と思ったのに「よく休め」とは何事だ!と烈火のごとく怒ってくる人もいた。

 だが、数日もすれば彼らはまるで別人のようにケアレスミスを激減させたものだ。

 そういえば、私も学生時代はよくケアレスミスをしたものだが、熟睡人生を謳歌するようになってからケアレスミスが激減した。

 それどころか、サラリーマンとかのケアレスミスが気になって仕方がなかったくらいだ。

 今では本来の仕事でもないのに原稿の最終チェックでケアレスミスをよく見つける。
 
 これらの理由ははっきりしている。

 サラリーマン時代も、現在も、きっと仕事で関わるメンバーの中で私が断トツ充実した睡眠を獲得しているからであろう。

 ひょっとしたら、読者の中にもケアレスミスが多い人もいるかもしれない。

もし、将来出世したいのであればケアレスミスをしているようでは絶望的だ。

なぜなら、人の上に立つということは下の人間がミスをやらかさないように管理していくのが仕事だからである。

 自分がケアレスミスをやらかしているようではお話にならないのだ。

 あなたも本気でケアレスミスを無くしたければ、よく眠ることだ。

 よく眠ると、脳が細かい部分にまで注意を払うようになるだけではなく、精神的にも落ち着いて物事に取り組むことができるようになるのだ。

 天才的な数学の先生に数学の極意を尋ねるとその先生の回答は「よく寝ることだ。」と答えた。

 よく眠り、ミスを起こさないようにしよう。

 睡眠環境について説明すると、もし飛行機や新幹線の中で睡眠を取る時には、いくら目を閉じていても大量の光が入ってくるものだ。

 だから、いくら寝ていても眠りが浅くなってしまうのだ。

 しかし、アイマスクを着用することにより一瞬で暗闇に身を置くことが可能になる。

 遮光性の高いカーテンの環境を飛行機や新幹線の中でも創出が出来る。」と。

 次に、今、この記事を書いている私自身の体験上、寝床に着く前にお風呂に入り湯舟に浸かり体をよく温めてから寝床に着くと比較的、スムーズに眠りに入れると思います。
 
 約2時間にわたる有酸素運動、例えば自転車をこいだり、ウォーキングをした直後にも、体の疲労が溜まった状態においては、比較的スムーズに眠りに入る事が出来ると私自身の体験上、そう思います。

 体は冷えた状態では眠りに入りにくいので布団や毛布を多く体にかけて体を温めた状態にすると比較的眠りに入りやすくなります。

 例えば、冬の寒い中、電車の車内で暖房がよく効き、車内が心地よい暖かい状態で目をつぶっていると、いつのまにか寝ていたという体験は誰しもが持っていると思います。

 部屋は真っ暗にした方が睡眠物質メラトニンが大量に分泌され、それにより深い睡眠、いわゆる熟睡する事が可能になり、目覚めた後も凄く気持ちのいい朝を迎える事が出来ます。

 充分な熟睡時間を堪能した直後は頭脳の回転がシャープになっており書籍を読むスピードが断然早くなり、理解力、読解力も驚くほど良くなっています。

 目覚めている間、活動中に生じた脳内の様々な疲労物質、老廃物などが熟睡する時間中にその疲労物質や老廃物が脳内から綺麗に洗い流され、排出された事により、熟睡した後は非常に爽快な気分が味わえます。

 あの天才物理学者アインシュタインの睡眠時間は約10時間、数年前にノーベル物理学賞を受賞した小柴博士も睡眠時間は10時間だそうです。

 これほどの長時間、寝て、脳細胞を最高度の状態に維持していないと、難解な書物を読むことができないかもしれません。