仏教の開祖、ブッダ釈尊は輪廻転生、因果応報、因縁果報の教えを説いている。
仏教にとって人間に生まれてくる事は非常に良き生まれであると説く。
その大きな理由として、人間の境涯からのみブッダになる事が出来る事。
人間にとって神々に生まれる事は良き生まれであるといわれるが神々にとって、人間に生まれる事が良き生まれであるといわれている。
輪廻転生の世界では衆生(生き物達)は地獄界や畜生界に生まれ替わる方が人間界に生まれ替わるよりも圧倒的に多いと仏典では説きます。(阿含経 増支部経典 参照)
仏教の目的はこの苦に満ちた輪廻転生からの解脱、脱出を説きます。
本質的に仏教はこの六道輪廻の世界を苦しみの世界とみなしそこからの離脱を目指します。
仏典に修行を完成した表現として
「現法の中において、自身作證し、生死已に盡き、梵行已に立ち、所作すでに辨じ、自ら後生を受けざるを知る、すなわち阿羅漢果を得たり」
(阿含経 長部経典参照)(国訳一切経 印度撰述部 阿含部 7)
阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(西暦1921年~2016年)
その輪廻転生には分段生死(ぶんだんしょうじ)と変易生死(へんやくしょうじ)と云う種類の転生があります。
分段生死とは凡夫の輪廻転生を意味し、
六道輪廻つまり
地獄界(極めて苦しい残虐悲惨な境涯)
餓鬼界(飢え、乾きに苦しむ境涯)
畜生界(動物の境涯)、
修羅界(争いの境涯)、
人間界(人間の境涯)、
天界(天、神の境涯)
の六種類の境涯を衆生(生き物)が何回も何回も際限なく輪廻転生していく転生を意味します。
チベット仏教 六道輪廻図絵
チベット仏教 六道輪廻図絵
変易生死とは聖者の輪廻転生を意味し、聖者が仏陀の境涯に向かって修行していく過程、聖者としての境涯が後退せず上昇していく転生を意味します。
変易生死について詳しく解説すると、例えば聖者の境涯に預流(よる)という境涯があります。凡夫が仏道修行により修行の境涯が進むと先ず預流という聖者に成ります。
預流とは聖者の流れに入った者の意を表し、預流になると地獄界、餓鬼界、畜生界という最も苦しみの度合いが激しい三悪道の境涯には二度と生まれ変わらないとされています。
そして最高位の聖者である仏陀に成るまで三回~七回程度、人間界と天界への生死を繰り返し最後には必ず仏陀の境涯に至る事が出来るとされています。
先ほど、仏教では、人間に生まれてくる事は非常に良き生まれである。と説く。と説明したが、
その大きな理由として、人間の境涯からのみブッダになる事が出来る事。
また、修行が六道の中で一番し易い事と言われている。
事実、お釈迦様は兜率天(とっそつてん)という天界の境涯から下生し、人間に生まれ変わり、人間界において修行し完全解脱、無上等正覚を得られ、ブッダになられたとされています。
仏教では、将来、ブッダになる予定の方は、ブッダになるために人間に生まれ変わる直前に、兜率天(とっそつてん)という天界において待機しているとされている。(ジャータカ、漢訳経典 本生経 参照)。
パーリ仏典において仏陀(ブッダ)は次のようにお説きになられている。
「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、(そのもの自身が)堅固不動のものになると、かれ(修行者)は生き物達の死と再生について知る事(死生通)に心を傾け、心を向けるのです。
そして、かれ(修行者)は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知るのです。
すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。
かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。
一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。
故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。とかれ(修行者)は知る。」
仏陀(釈尊)の覚醒の課程は三夜にわたる智の開眼、智慧の獲得で説明される。
第一夜(初夜 夜6時~夜10時頃)において釈迦(釈尊)は瞑想によって自らの百千の生涯、幾多の宇宙の成立期、破壊期、成立破壊期を残らず想起した。(宿明智の獲得)
第二夜(中夜 夜10時~夜中2時頃)において天眼(清浄で超人的、神的な透視力)により生き物達が無限の生死循環(輪廻転生)を繰り返す様を見透す。(天眼智の獲得)
第三夜(後夜 夜中2時~朝6時頃)において「一切(輪廻転生の本質)は苦である」という認識を得、縁起の法を悟って覚醒、漏尽解脱、智慧解脱の完成を得た。(漏尽智の獲得)
「わたし(釈尊)は最高の道を悟った。
私の悟りは揺るがず、壊れない。
私(釈尊)は解脱を果たした。
もう苦しみの世に生まれる事は決してない。」
仏道修行者は究極的にはこの三明智の体得、三明智の獲得を目指さなければならない。
チベット仏教 釈迦成道絵
釈迦 降魔成道像(インド)
パーリ仏典「サンユッタ・ニカーヤ」において仏陀は次のように説かれている。
「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。
全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。
人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等
それこそが、その人自身のものである。
人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。
それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。影が人に従うように。
それ故に善い事をして功徳を積め。功徳は人々のよりどころとなる。」
書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。
書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」
パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ及び漢訳仏典雑阿含経において ブッダ(仏陀、等正覚者)はこうお説きになられている。
「悪行(悪い行為)をした者は肉体が滅んだ死後に苦悩・災いの世界、不幸な状態、煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」
「信仰もなく貪欲で利己的で悪い思いを抱き、誤った主義に生きて敬愛の心がなく、僧侶や托鉢をする人を嘲(ののし)り罵(あざけり)り心に怒り心を抱き食を乞う者に誰かが与えようとするのを邪魔する者。
このような人が死後恐ろしい煉獄(劣った世界 地獄 餓鬼界、畜生界)に生まれる。」とある。
地獄絵
パーリ仏典「ウダーナヴァルガ」において分かち合うことの大切さが説かれている。
「信ずる心あり、恥を知り、誡(いまし)めをたもち、また財を分かち与える、これらの徳行は、尊い人のほめたたえることがらである。
この道は崇高なものである とかれらは説く。
これによって、この人は天の神々におもむく。
もの惜しみする人々は、天の神々の世界におもむかない。
その愚かな人々は、分かち合うことをたたえない(賞賛しない)。
しかしこの信ある人は分かち合うことを喜んでいるので、このようにして来世には幸せとなる。」
パーリ仏典「ダンマパダ」及び「ウダーナヴァルガ」において仏陀はこうお説きになられている。
「悪の報いが熟しない間は悪人でも幸運にあうことがある。
しかし悪の報いが熟したときには、悪人は災い(わざわい)にあう。
善の報いが熟しない間には善人でも災い(わざわい)にあう事がある。
しかし善の果報が熟したときには善人は幸福にあう。」
「袈裟(けさ)を纏(まと)っていても、性質(たち)が悪く、つつしみのない者が多い、かれら悪人は悪いふるまいによって、悪いところ、地獄に堕ちる。」
(※袈裟とは一般的に仏教の僧侶、仏教修行者、仏教信仰者が首から掛ける長い布状のたすきのようなもの)
「南伝大蔵経 大蔵出版」参照
「南伝大蔵経 大蔵出版」参照
参考文献
「仏教(上)ベック著 岩波文庫」
「仏教(下)ベック著 岩波文庫」
「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤ1 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」
「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」
「大正新修大蔵経第1巻 阿含部上 大蔵出版社」
「大正新修大蔵経第2巻 阿含部下 大蔵出版社」
「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 七 大東出版社」
「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 九・十 大東出版社」
「南伝大蔵経 大蔵出版」
「原始仏典〈第1巻〉長部経典1 中村 元 (監修), 森 祖道 (翻訳), 橋本 哲夫 (翻訳), 浪花 宣明 (翻訳), 渡辺 研二 (翻訳) 春秋社」
「釈迦の本―永遠の覚者・仏陀の秘められた真実 NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 9 」
「ブッダの真実の教えを説く(上巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「ブッダの真実の教えを説く(中巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「ブッダの真実の教えを説く(下巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「輪廻する葦 阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「間脳思考 霊的バイオホロ二クスの時代 桐山靖雄著 平河出版」