仏教者の布教伝道の意義と目的についての話

上求菩提下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)ということばがあります。

今は亡き、阿含宗管長、桐山靖雄先生(1921年~2016年)は自身の著書「説法六十心 桐山靖雄著 平河出版」において次のように説かれている。

「自分自身、上の境涯に向かって菩提、悟りを求めて一心に修行をすると同時に

自分より下の境涯の者に向かっては親切に指導をしてあげる。

仏道修行者が必ず実践しなければならない事だと言われています。

また、指導する、教え導く立場の人間が心すべきこととしては、どんなに大知識者、大学者であっても自分一人の力だけでそうなったのではなく、社会や無数の方々のおかげもあったという事を忘れてはいけない。

そのために、その知識は社会の幸福の為、社会に役立てる為、社会に対して、そのお返しをしなければならない。

特に仏教徒は仏祖への報恩謝徳の為に又、一般民衆の幸福の為に正しい仏教、正しい仏法を広めなければならない。」

また、桐山靖雄先生は自身の書籍「アラディンの魔法のランプ 桐山靖雄著 平河出版」の中で次のようにお説きになられている。

「道場に訪れる人はみな娑婆世界の住人ですから、何かの苦しみ、悩みを抱いています。

救われたい、助けていただきたい、心の安らぎを得たい、仏さまの心に触れたい、そう思って道場においでになるのですから、やはり、その人たちを快くお迎えして「来てよかったなぁ」という気持ちにしてあげることが、修行者として、いちばん大切です。

それが仏さまに対する行供養なのです。」と説かれている。

さて、仏教経典には布施の実践の必要性を説いている。

その布施に2種類の布施があると説かれている。

書籍「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

いわゆる、財施と法施があると説かれている。

財施は文字通り、財物を布施する意味。

法施とは仏教などの教えを世の中に広め人々を教え導く事。

宗教家、山口修源先生は自身の著書「あなたの死後はこうなる 山口修源著 星雲社」」という本の中でこう説かれている。

「法施(正しい教えと法を広く世間、社会、人々に説き弘める事など)を多くした人達、生きている間に霊的に人々を多く救った人達、また、そういう道標を作った人達、道標を作っておけば直接的にたくさん人を救っていなくてもその道標が有る限りずっとその後の多くの人達を救い導く事が出来る。

例えば仏典の翻訳本を出した鳩摩羅什法師や玄奘三蔵法師達の為された法施の功徳は非常に大きい。

彼らはけっして人間的にはそれほど人格的に高くはなかったかもしれない。

しかし、あの2人の為した功徳は大きすぎて、既にあの2人は救われ解脱していると思われる。

2種類の布施の功徳を比較すると俗世間の善事と法施の功徳の差は一と百などというものではなく一と千あるいは一と万というくらい違う。

法施つまり正しい教法を世間に広める功徳の方がはるかに大きい。

正法つまり正しい教え、正しい法というものを説いていく役割についた人が最も大きな功徳を積むことが出来る。

そういった意味において、あの2人(鳩摩羅什法師や玄奘三蔵法師)のなした功徳は大きすぎて、あの2人は既に救われ解脱していると思われる」と山口修源先生は説かれている。

参考文献

「説法六十心1 桐山靖雄著 平河出版」
「アラディンの魔法のランプ―仏舎利宝珠尊和讃 桐山靖雄著 アーガマサンガブックス」
「あなたの死後はこうなる 山口修源著 星雲社」

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921年~2016年)

 

玄奘三蔵法師

 



仏典が説く、大富豪が死んだ後、餓鬼界に堕ちて苦しんでいる話

悪しき行為が餓鬼の世界への生まれ変わりに繋がるかを示した問答が仏典に説かれている。

餓鬼は、地獄に落ちた者たちに課せられる恐るべき刑罰を受けることはないが、地上をさまよい飢えに苛まれ、しかも口が小さすぎて飢えを満たせないでいる者たちのことである。

餓鬼は裸で醜くやせ細り、静脈は浮き上がり、肋骨が突きでた姿をしている。

仏典には、大富豪が死後、極貧の餓鬼の世界に堕ちた話が書かれている。

その餓鬼との問答をひとつご紹介する。

尊者曰はく
「お前は一体何者か?」

餓鬼曰はく
「尊者よ。私は閻魔の世界の悪しき運命に落ちた亡霊である。

悪業を犯したため、私はこの亡霊どもの世界に来た。」

尊者曰はく
「一体どんな悪事、身体、声、心によって犯した為にそれが熟してお前をこの世からこの亡霊たちの世界に赴かせることになったのか?」

餓鬼曰はく

「かつて私は大富豪で荷車80台分の黄金と、莫大な金、おびただしい真珠と碧玉を私は持っていた。

だが、どれほど、たくさんの富を持とうが私は与えることを好まなかった。

乞食にその宝物を見られないよう家の門を閉じ、家の奥で富を楽しんだものだった。

不信心な利己主義者で、ケチで口うるさかった。

人々が施しをするのを邪魔したものだった。

施しが実を結ぶことはない。

倹約の果実はどこから来るというのか?

私はそう言い続けた。

ハスの池、井戸、木々の植えられた庭園、貯水槽を壊させたものだ。

善行はせずに悪行をした挙句、この世を去った途端、亡霊たちの世界に生まれ変わり、飢えと渇きに苛まれている。

もう食べ物や飲み物とはどんなものかもわからない。

倹約、それは破滅だ。

破滅それは倹約だ。

まことに亡霊たちはよく知っている。

倹約それは破滅だと。

私はかつて倹約ばかりしてたくさんの自分の恵みを施さなかった。

施しによって自らの島を作らなかった。

後になって自身の行いの果実を掴みとっては悔やんでいる。

4か月後、私は死ぬだろう。

地獄へ、全てが苦しく恐ろしいところへ私は堕ちて行く。

地獄は四角く、四つの門があり、絶妙の割合で別れ、青銅の壁に囲まれたお堂に覆い尽くされている。

地面は青銅でできていて燃え盛る炎が上がっては四方八方にも広がっていき、それがまだ続く。

あちらで私は長い間苦しい思いを味わうだろう。

それも我が悪しき行いの果実である。

だからこんなにも嘆いているのだ。

ここに集まっているあなたあなた方、全てに、私はためになる忠告をする。

悪しき行いをしてはならない。

こっそり隠れてでも。

公然とでも。

今、あるいは、今後、悪しき行いをしたら、たとえ逃げようと、もはや、あなたに苦からの解脱はない。

父母、年長の家族、修行者を敬いなさい。

そうすれば天に行けるだろう。

天空にも、海底にも、山深く分け入った岩穴の中にも、そこにいれば、悪しき行いから逃れられるという場所など、この世に見い出せはしない。」

次に、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版」参照。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版」参照。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版」参照。

書籍「南伝大蔵経 第十二巻 相応部経典一 大蔵出版」参照。

ところで、その餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事、盂蘭盆会という行事があります。

この行事は餓鬼界に落ちて苦しんでいる餓鬼を供養する為の仏教行事です。

餓鬼界とは生前もの惜しみ心が強くケチで人に親切でなく布施をしたりせず悪い事をした者が死後に生まれ変わっていく境涯であります。

餓鬼界には食物がほとんどなく空腹で苦しみ仮に食べ物があっても食べ物を食べようとすると火になって燃えてしまったりする。

そういった餓鬼界で苦しんでいる餓鬼達に食べ物を供養したり食事が出来るように餓鬼達を救う為の行事を盂蘭盆会や施餓鬼供養といいます。

餓鬼へのご供養をする為のご真言が仏教経典には書かれている。

真言には無量威徳自在光明殊勝妙力等の餓鬼を供養するご真言があるが施餓鬼の経典として有名な「仏説盂蘭盆経」「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼」等の経典に詳しく記載されている。

この仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経のお経の主な内容は、昔、お釈迦様の直弟子の阿難尊者がある夜、閑静な場所に独り座し仏様の教えの内容を深く観じていると深夜に一人の餓鬼が現れた。

その姿は、髪は蓬(よもぎ)のように乱れ口からは焔(ほのお)を吹き身体はやせこけ咽(のど)は針の如く細く爪は長くとがり顔に苦悶の形相が凄く、阿難尊者に向かってこのように言った。

「あなたは三日後に死んで私のように餓鬼となるであろう。」と。

阿難尊者は内心大いに恐れ「どのようにしたらこのような苦しみから解放されることが出来るのだろうか」と反問したところ餓鬼が次のように答えた。

「この世界に満ちている多数の餓鬼に飲食を施し、多数の仙人、多数の修行者及び三宝(仏、法、僧)に供養をすれば、その功徳に依って私も餓鬼の苦しみから解放され、あなたも寿命を延ばし餓鬼界に堕ちる事はないでしょう」と言って姿を消した。

阿難尊者は仏様にその出来事について相談をし仏様から餓鬼供養のご真言や供養法を教わった。

そして、その法を修したところ阿難尊者も天命を全うし餓鬼の苦しみも解脱したとあります。(大正新修大蔵経第21巻(密教部四)464P~465P参照。)

餓鬼に関連するお経に盂蘭盆経というお経もある。

その主な内容は

「昔、お釈迦様の直弟子であり高弟の目連尊者が修行により悟りを開くと、直ちに故郷の母を想い起こし、目連尊者自身の天眼通(超人的な透視力、霊眼)により母の所在を探すと母はもう既に亡くなって、餓鬼道に堕ちて苦しんでいたのを見た、

目連尊者は大いに悲しんで自身の神通力により母の傍らに赴き、手づから食物を捧げると、母はうれし涙にくれ、直ちに目連が持ってきた食物を口に入れようとしたが、過去に目連の母が犯した多くの悪業報の報いにより、食物はそのまま火炎となって燃え上がり目連の母はその食物を食べる事が出来なかった。

母は悲泣し目連尊者もどうすることも出来ず、ただ赤子のように泣くのみであった。

その後、目連尊者はお釈迦様の所に行き、母の苦しみを救って欲しいとお願いした。

するとお釈迦様は次のように説かれた。

「目連の母は生前の悪業が深いので目連の力だけではどうする事も出来ない。

このうえは十方(多数)の衆僧(修行僧)の威徳に頼る他は無い。

七月十五日は僧懺悔の日、仏歓喜の日であるから、その日に飲食を調えて十方の衆僧を供養するがよい。

そうすればその功徳により母の餓鬼道の苦しみも消えるであろう。」と説かれたので目連尊者はその教えの通り、その日に十方の衆僧に飲食を調え供養を行うと母の餓鬼道の苦しみを救う事が出来た。」と書かれている。

この目連尊者のお母さんが救われたのを見た目連尊者が喜びのあまり、狂ったように踊って喜んだ。

周りの僧侶たちは、あの勤勉で真面目で実直な目連尊者が狂ったように踊り、喜んでいる姿を見て、大変驚いたという。

毎年、日本の夏に行われている盆踊りの起源は、この時の目連尊者の踊りが起源とされています。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

 

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」参照。

書籍「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

参考文献

「ブッダの教え  初期経典をたどって アンドレ・バロー著  富樫瓔子訳」
「ブッダ 神々との対話 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 中村元著 岩波文庫」
「お盆と彼岸の供養 開甘露門の世界 野口善敬編者 禅文化研究所」
「大正新修大蔵経第二十一巻 密教部四 大蔵出版」
「地獄の話 山辺習学著 講談社学術文庫」

「国訳一切経 印度撰述部 経集部 第十四巻 大東出版社」

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仏教が説く、盗み、泥棒、窃盗、略奪行為に対する死後における報い。

「因果は巡る小車」という諺があるが、その意味は善行も悪行も自分に返ってくる。

一般的には悪いことをした報いは自分に返ってくるといった意味。

つまり、自業自得のような意味に使われがちですが「輪転五道罪福報応経」という仏教のお経によると、わるいことだけではなく、よいことをした報いも自分に返ってくるとされています。

何かをしくじって、一般的に、ごまかしたり、やり過ごせたりしても後になってそれが原因となり自分の身に災難が降りかかってくるケースは少なくありません。

当然のことと思った善行によって後々、その相手から窮地を救ってもらえる例もあります。

こちらは情けは人の為ならずと同義です。

ところで、現代において典型的な盗みの罪として、

振り込め詐欺、オレオレ詐欺、架空請求詐欺、ワンクリック詐欺、ひったくり、

ぼったくり、いかさま、スリ、着服、横領、不正請求、ペーパー商法、

悪徳商法、金融犯罪、強盗、強奪、置き引き、持ち逃げ等の罪などがある。

仏典では、そのような悪事、悪業を犯すと未来、死後、来世においてその悪事、悪業の罪の報いとして

地獄界、鉄窟地獄(てつくつじごく)、寒氷地獄、餓鬼界(飢えや渇き等に苦しむ境涯)、

畜生界の三悪道、三悪趣という大きな悩み苦しみに満ちた残虐、悲惨な境界、

地獄 獄卒絵

人間に生まれるならば撲隷(奴隷)、無幸処(幸せの無い境界)、極貧、貧困等の大きな悩み苦しみ多き境涯に生まれ変わると説かれている。

仏教では六道輪廻を説きます。

六道輪廻とは生き物達が

天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六道。

つまり六つの境涯を途方もない膨大な期間、途方もなく膨大な回数、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしている。

つまり、輪廻転生している事を説いている。

六道輪廻図(チベット)

六道輪廻図(チベット)

その六道のうち動物の境涯である畜生界、飢えや渇きに苦しむ境涯、餓鬼界、地獄の鬼達に残虐に責め立てられ痛めつけられ苦しめられる極めて残虐悲惨な境涯である地獄界は三悪道、三悪趣といって六道輪廻の中では最も苦しい境涯であると説きます。

増一阿含経において、生き物たちのことを、仏教用語では衆生(しゅじょう)と呼びますが、衆生は死後に、人間や神に生まれ変わるより、地獄界や畜生界、餓鬼界などの悪趣に生まれ変わる回数の方が圧倒的に多いと説いています。

仏典、増一阿含経 第七巻 五戒品 第十四において盗み、泥棒(どろぼう)、窃盗(せっとう)、略奪(りゃくだつ)行為の報いについて説かれているお経が存在する。

その主な主旨内容は、盗み、泥棒、窃盗行為を多く行った者はその罪の報いにより未来、将来、死後、来世において地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ赴(おもむ)くと説かれている。

また、人間に生まれ変わっても極めて貧しく、衣服や食事に極めて事欠く境涯に生まれ赴くと説かれている。

(大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下  576ページ中段参照、国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社 参照)

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社」参照

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社」参照

また、パーリ仏典サンユッタ・ニカーヤ、雑阿含経において仏陀は次のように説かれている。

「他人から奪った人が(来世、未来において)他人から奪われるのである。

愚か者は悪の報いが実らない間は悪の報いがない事を当然のことだと考える.

しかし、悪の報いが実ったときには愚か者は苦悩を受ける。

殺す者は(未来には)殺され、怨む者は(未来には)怨みを買う。

また、罵りわめく者は(未来には)他の人から罵りを受ける。

怒りたける者は(未来には)他の人から怒りを受ける。」

次に、パーリ仏典「ダンマパダ」及び「ウダーナヴァルガ」において
仏陀はこうお説きになられている。

「悪の報いが熟しない間は悪人でも幸運にあうことがある。

しかし、悪の報いが熟したときには、悪人は災い(わざわい)にあう。

善の報いが熟しない間には善人でも災い(わざわい)にあう事がある。

しかし、善の果報が熟したときには善人は幸福にあう。」

さらに、「ダンマパダ」(法句経)において仏陀はこうお説きになられている。

「悪しき(悪業)をなしてこの世(現世)に苦しみ、かの世(来世)に苦しみ両世(現世、来世)に苦しむ。

「我 悪しきをなせり」と思い苦しみ、難所(地獄など)に行きていよいよ苦しむ。

良き(善業)をなしてこの世(現世)に歓喜し、かの世(来世)に歓喜し両世(現世、来世)に歓喜す。

「我 良きをなせり」と歓喜し、善処(天界)に行きていよいよ歓喜す。」

さらに、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀はこうお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし、人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

ブッダに供養を捧げる女性

さらに、法句経において仏陀は次のように説かれている。

「悪業の報いはたとえ大空においても大海においても奥深い山中に隠れても悪業の報いからは逃れることが出来ない。」

さらに、仏典パーリ中部経典の中の賢愚経(けんぐきょう)、漢訳仏典 中阿含経の癡慧地経(ちえぢきょう)において仏陀は次のように説かれている.

「仮に賭博(とばく)や博打(ばくち)に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運があったとしても、罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後、地獄へ堕ち、膨大な年数、極めて残虐悲惨な苦しみを受ける地獄での大苦痛大苦悩に比べれば賭博、博打に負け自分の妻や子供や財産を全て失い,自分も囚(とら)われの身になるという不運などはとるに足らない僅(わず)かな不運である。」

つまり「罪、悪事を犯し、その罪、悪事の報いにより死後地獄へ堕ち、膨大な年数、残虐で極めて悲惨な苦しみに遭遇する地獄へと堕ちる不運こそが最悪の大不幸、大不運、大損である。」という内容の説法をされている。

つぎに、真言密教(真言宗)の開祖弘法大師空海様の晩年の著作「秘密曼陀羅十住心論」や日本の浄土宗に大きな影響を与えたとされる天台宗僧侶、慧心僧都源信様の著作「往生要集」、その他多くの仏教諸経典において偸盗罪(ちゅうとうざい)つまり他者(他人)の所有物を盗む事の罪(与えられない物を奪い取る罪)の業報について説かれている。

弘法大師空海様が著された「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において盗み、窃盗、泥棒、収奪の業報について次のように説かれている。

「また、その殺生によりて、貪害滋(しげ)く多し、滋(しげ)く多きをもっての故に、すなわち義譲なくして劫盗(こうとう)を行ず。

今身に偸盗(ちゆうとう)して、与えざるを取れば、死してすなわちまさに鉄窟地獄(てっくつじごく)に堕して、劫(けこう)の中においてもろもろの苦悩を受くべし。

受苦すなわち終わって畜生の中に堕して、駆捶打(くそくすいだ)せられて余息あることなし。

所食の味はただ水草をもってす。

この中に処して、無量に生死す。

本因縁をもって、もし、微善に遇うて、たまたま人身に復すれば、つねに僕隷(ぼくれい)となりて、駆策走使(くさくそうし)せられて自在なることを得ず。

償債(しょうさい)いまだおわらざれば、聞法することを得ず。

これによりて苦を受けて、輪廻無窮なり。

まさに知るべし、この苦はみな偸盗によることを。

・・・中略・・・・・・

「地持論」にいわく、劫盗の罪はまた衆生をして三悪道に堕せしむ。もし人中に生ずれば二種の果報を得。

一には貧窮、ニには共財にして自在なることを得ず」と。

劫盗は何が故にか地獄に堕するや。

その劫盗は人の財を剝奪(はくだつ)し偸窃して衆生を苦しめるをもっての故に、身死してすなわち寒氷地獄に入りてつぶさに諸苦を受く。

劫盗(こうとう)は何が故にか出でて畜生となるや。

それ人道を行ぜざるをもっての故に、畜生の報いを受けて身常に重きを負い、宍(にく)をもって人に供してその宿債を債う。

何が故にかまた餓鬼に堕するや。

慳貪をもってすなわち劫盗を行ずるによって、これをもって畜生の罪おわりてまた餓鬼となる。

何が故にか人となりて貧窮なるや。

その劫盗は物をして空乏ならしむるによって、ゆえに貧窮なり。

何が故にか共財にして自在なることを得ざるや。

その劫盗は偸奪して官に没せらるるによって、もし財銭あればすなわち五家のために、共せられて自在なることを得ず。

まさに知るべし。

劫盗は二の大苦なり。

・・・後略・・・・・・」

 

秘密曼荼羅十住心論 書き下し文

書籍「空海 日本思想大系 川崎庸之 (校注者)   岩波書店」参照。

秘密曼荼羅十住心論 原文(弘法大師空海 著)

書籍「空海 日本思想大系 川崎庸之 (校注者)   岩波書店」参照。


さらに、その十住心論の中で、空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 五五七頁)というお経を引用し盗みの業報について次のようにお説きになられている。

真言宗開祖 弘法大師空海

そのお経の概要は

「ある一人の鬼(死者)がいた。その鬼が仏弟子である目連尊者に対しこのように質問した。

「私の腹は極度に大きく、のど、手足は極度に細くて食べ物や飲み物を取ること、食事をする事が出来ない。

何が原因でこのような苦しみを受けるのか。

目連尊者は答えて言った。

「あなたは前世(前生)において高い地位にあり富貴、裕福で、さまざまな食事、お酒を大いに楽しんだが、他の人々を軽視し、侮り(あなどり)、見下し他の人々の飲食を奪(うば)い取り、他人を飢(う)えさせ、他人を困らせた。

このような他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた行い、行為、因縁、業報、罪の報いによりこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、業報であり、このような罪の報いによる地獄の苦しみは後になって受けるのである」

さらに、因果の道理を知る事の重要性について弘法大師空海様は自身が著された「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)の中において次のように説かれている。

「三途の苦は劫を経ても免れがたし。如来の慈父この極苦を見てその因果を説きたもう。

悪の因果を説いてその極苦を抜き、善の因果を示してその極果を授く。

その教えを修するものに略して二種あり。

一には出家、二には在家なり。

出家とは頭を剃り衣を染むる比丘・比丘尼等これなり。

在家とは冠を頂き縷(えい)を絡(まと)える優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)これなり。

上、天子に達し、下、凡庶に及ぶまで、五戒、十善戒を持(たも)って仏法に帰依するものみなこれなり。

菩薩といっぱ、かくのごとくの在家の人、十善戒を持(たも)って六度の行を修するものこれなり。

出家して大心を発するものもまたこれなり。

悪を断ずるが故に苦を離れ、善を修するが故に楽を得。

下、人天より上、仏果に至るまでみなこれ断悪修善の感得するところなり。

この両趣を示さんがために、大聖教を設けたもう。

仏教すでに存せり。

弘行人に在り。

この故に法を知るものは出家し燈(この文章では仏の教えを意味する)を伝え、道を仰ぐものは道に入って形を改む。

・・・・・・後略・・・・・」

ちなみに真言密教における十善戒とは

不殺生戒

不偸盗戒

不邪淫戒

不偸盗戒

不両舌戒

不悪口戒

無義語戒

不貪欲戒

不瞋恚戒

不邪見戒

を意味する。

書籍「弘法大師著作全集 第一巻 弘法大師(著) 勝又俊教(編)山喜房仏書林」参照。

次に、地獄に関する書物として今から約千年程前に著された有名な「往生要集」という書物がある。

西洋ではダンテにより著された「神曲」という書物が地獄について書かれた世界的に有名な書物であるが、この「往生要集」は東洋の「神曲」ともいうべき書物とも言える。

この「往生要集」は浄土宗に大きな影響を与えた書物で鎌倉時代前に活躍した天台宗の僧侶、源信(慧心僧都源信、横川僧都源信)という僧侶により書かれた書物である。

この往生要集は宗(約千年前の中国の国名)の国に贈呈され台州の周文徳という方が往生要集を国清寺に収められた。

また、周文徳は源信を小釈迦源信如来として賛嘆、褒め称えた。

また、真宗皇帝も源信を賛賞する事切なるものがあったという。

日本国においても源信様は今迦葉(迦葉とはお釈迦様の在世当時の十大弟子の一人 優秀な高弟の名前)と呼ばれ、源信を賛賞する事切なるものがあったという。

この書物の前半では地獄界 餓鬼界などの状況等について各教典論書を引用し具体的に書かれている。

又、どのような行為(例えば殺生、盗み、妄語、邪淫、飲酒など)によりどういう境涯(例えば地獄界、餓鬼界、畜生界など)に赴くのかが記載されている。

また、仏の三十二相についても具体的に説かれている。

どういう種類の良い行いにより良き報い、良き境涯、優れた仏の外観相形などを得られるのかという事も書かれている。

天台宗僧侶 

慧心僧都源信(えしんぞうずげんしん)

書籍「日本思想大系  源信   石田瑞麿 (校注者)  岩波書店」参照。

次に、江戸時代に活躍された僧侶、臨済宗の中興の祖、白隠禅師様が書かれた書物「辺鄙以知吾(へびいちご)・壁訴訟(かべぞしょう)」という書物がある。

その書物の内容は、江戸時代の一部の殿様や将軍達の農民に対する貪欲かつ暴利を貪るが如き年貢の要求、冷酷な年貢の取立て、またその冷酷無慙な取立てにより農民達が苦しめられ、追いつめられ、ついには農民一揆という行動をとらざるを得なくなり、最後には農民達が死罪に追い込まれていった詳しい事情経緯がこの本に書かれている。

また、この書籍の中で白隠禅師は、苦しめられ追いつめられていく農民の姿を見てお殿様や将軍達に対して次のように批判した。

「あまり農民達を冷酷、過酷な取り立てで苦しめ追いつめると来世(死後)には農民達を過酷な取り立てで追いつめ苦しめた罪、悪事、悪業の報いによってお殿様や将軍様が死後において過酷で残虐、悲惨な地獄の苦しみを受けることになりますよ。」と忠告及び批判をしている。

この本は江戸時代に一時、発禁処分対象の書物であった。

臨済宗中興の祖 白隠禅師

参考文献

「生き方がうまい人のことわざの知恵 幸運社編 三笠書房 知的生き方文庫」
「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版社」
「往生要集 上  源 信 著  石田 瑞麿訳注 岩波文庫」
「往生要集 下  源 信 著  石田 瑞麿訳注 岩波文庫」

「日本思想大系 空海 川崎庸之 (校注者)  岩波書店」

「日本思想大系 源信 石田瑞麿 (校注者) 岩波書店」

「弘法大師著作全集 第一巻 弘法大師(著) 勝又俊教(編)山喜房仏書林」
「大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 大蔵出版社」
「国訳一切経 印度撰述部 阿含部 八 大東出版社」
「白隠禅師法語全集 第1冊 邊鄙以知吾・壁訴訟 白隠 慧鶴 著, 芳澤 勝弘 著 辺鄙以知吾 禅文化研究所」
「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤ1 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」
「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」

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お釈迦様は死後の存在を肯定したのか?否定したのか?を検証する

一部の仏教学者や一部のお坊さん達、特に浄土真宗のお坊さんや仏教学者の中で、信者さんや聴衆に対し「お釈迦様は霊魂の存在を否定している。」「お釈迦様は死後の存在を否定している。」と説法しているという話を本で読んだり話を聞いたりしたことがあるが、お釈迦様は本当に霊魂の存在、死後の存在を否定したのであろうか?

お釈迦様の言行録として学問的に認められているパーリ仏典や阿含経などの文献を見てみると霊魂の存在、死後の存在を肯定するような文言が頻繁に出てくる。

例えば、パーリ仏典サンユッタ・二カーヤにおいて仏陀は次のようにお説きになられている。

「この世でもの惜しみをし、吝嗇(りんしょく)、ケチで乞う者をののしり退け他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる。

もし人間に生まれても貧窮貧乏の家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯を得る事が難しい。

愚かな者達はそれを来世で得ようと望むがかれらはそれが得られない。

現世ではこの報いがあり死後には悪いところに落ちる。」

「この世において人たる身を得て気前よく分かち与え、物惜しみをしない人々がブッダの真理の教えとに対し信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならばかれらは天界に生まれてそこで輝く。

もし人間の状態になっても富裕な家に生まれる。

そこでは衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

他人の蓄えた財物を他化自在天のように喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり死後には善いところに生まれる。」

パーリ仏典、大パリニッバーナ経(南伝大蔵経 小部経典)において次のように説かれておられる。

「聖賢の生まれなる人が住居をかまえる地方において、そこで、有徳にして自ら制せる清浄行者たちを供養したならば、そこにいる神霊たちはかれらに 施与の功徳をふり向けるであろう。

かれら(神霊)は供養されたならば、かれを供養し、崇敬されたならば、かれを崇敬する。

かくて、かれを愛護すること、あたかも母がわが子を愛護するようなものである。

神霊の冥々の加護を受けている人は、つねに幸運を見る。」

パーリ仏典「ダンマパダ」や「ウダーナヴァルガ」においてブッダはこう説かれている。

「つねに敬礼を守り年長者を敬う人には四種のことがらが増大するー すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。

実に心が統一されたならば豊かな智慧が生じる

心が統一されないならば豊かな智慧が滅びる

戦場の象が射られた矢に当たっても耐え忍ぶように我は人のそしりを耐え忍ぼう。

多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。

世のそしりを忍び自らを治めた者は人々のなかにあっても最上の者である。

悪の報いが熟さない間は悪人でも幸運に遭う事がある。

しかし、悪の報いが熟すると悪人は災いに遭う。

善の報いが熟さない間は善人でも災いに遭う事がある。

しかし、善の報いが熟すると善人は幸福に遭う。」

さらに、
「穀物も財産も金も銀も、またいかなる所有物があっても、奴僕も傭人も使い走りの者もまたかれに従属して生活する者どもでも、どれもすべて(死後の世界 来世に)連れて行く事は出来ない。

全てを捨てて(死後の世界 来世に)行くのである。

人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、つまり言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い  また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等 それこそが、その人自身のものである。

人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って(死後の世界 来世に)行くのである。

それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。

影が人に従うように。

それ故に善い事をして功徳を積め。功徳は人々のよりどころとなる。

仏教経典 雑阿含経第十九のなかに屠牛者経 屠羊者経 殺猪経 猟師経というお経がある。

屠牛者経を例に挙げると、そのお経の概要は釈尊の高弟の目連尊者がある日の托鉢中において鷲 烏 飢えた犬等の姿をした霊的な生き物にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き苦しんでいる奇怪な姿をした霊的な生き物を見た。

目連尊者はその奇怪な姿をした霊的な生き物について托鉢から帰った後に釈尊に尋ねると釈尊はこう説かれた。

「目連尊者のように正しい修行を行い正しい修行によりある一定のレベルに到達するとこのような存在を見る事が出来る。

また、その奇怪な姿をした霊的な生き物は生前(生きている間)において牛の屠殺を行っていた者であり死後その屠殺を行った罪の報いにより地獄に生まれ巨大な年数の間 様々な大きな苦しみ激痛を受け更に地獄における巨大な年数の間の多くの苦しみ激痛が終わってもなおその屠殺を行った余罪にて 鷲 烏 飢えた犬等の霊的な生き物達にその内臓を食いつばまれ、すすり泣き、泣き叫んで苦しんでいる。

また我(釈尊)もまたこの衆生(生き物)を見る」という内容の事が説かれている。

屠羊者経 殺猪経 猟師経も屠牛者経と同様、大体似た内容で説かれている。

仏教のお経の阿含経に「好戦経」というお経があります。

戦争を好み刀等の武器によって人々を悩まし、苦しめ、傷つけ、殺したりした者が死後その罪の報いにより膨大な期間、地獄に落ち、激烈な痛み、猛烈な苦しみに遭遇し、すすり泣き、号泣している悲惨な状況の姿が説かれている。

又「堕胎経」というお経もある。

内容は胎児を中絶堕胎殺害した者、又させた者(男女を問わず)が死後その堕胎した又させた罪の報いにより膨大な期間、地獄で苦しんでいる状況が説かれている。

仏教経典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九に屠殺(殺生)に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前(生きている間)において人間や動物達等の生き物の屠殺(殺す事)、殺生(生き物を殺す事)を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業(罪障)の報いにより非常に長い年月の間地獄(大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒(地獄の鬼達)により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界)に赴き多くの様々な激しい苦しみを受けその地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達(カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等)に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

「好戦経」「堕胎経」は「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二 大東出版社」の中の雑阿含経 第十九に又「大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」の中の雑阿含経 第十九の中に説かれている。

大正新脩大蔵経はあらゆる仏教のお経の原典原文を網羅、集大成したもので世界中の仏教学者の間から権威的文献、引用文献として高い評価を得ている。

大正新脩大蔵経には阿含部 華厳部 方等部 密教部 法華部 般若部 涅槃部 図像部などあらゆる種類の仏典が網羅されている。

国訳一切経、大正新脩大蔵経は内容がかなり専門的であり一般の方々、特に仏教書をあまり読まれた事がない方々にとって読んで理解するのに困難な一面があると思われる。

先に紹介した「好戦経」「堕胎経」を一般の方々に対し非常に分かり易く解説した書籍に「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」という書籍がある。

その書籍の中に「好戦経」「堕胎経」を非常に分かり易く説かれている箇所がある。

さらにまた、雑阿含経に爪甲経(そうこうきょう)というお経がある。

その概要は

「ある日、釈尊は釈尊自身の手で大地の土を拾い釈尊自身の手の爪と手の甲の上にその土を乗せて諸々の比丘(修行者)に次のように尋ねられた。

「諸々の比丘(びく)よ。私のこの手の爪と手の甲の上に乗っている土の量とこの大地の土の量とではどちらの土の量が多いか?」

諸々の比丘は次のように答えた。

「世尊(釈尊)よ。世尊(せそん)の手の爪と手の甲の上に乗っている土の量はこの大地の土の量と比べるならば比べものにならない程ごくわずかな量です。」

釈尊は続けてこのようにお説きになられた。

「諸々の比丘よ。もし肉眼で見える生き物たちの数をこの手の爪と手の甲の上にある土の量とするならば、その形が微細で肉眼では見えない生き物たちの数はこの大地の土の量のように膨大に存在する。

比丘たちよ。

未だ無間等の悟り(仏陀の悟り)に到達しない者は努めて無間等(むけんとう)の悟りに至るよう努力せよ。」

(大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 114ページ上段(雑阿含経第十六巻)
国訳一切経 阿含部二 雑阿含経第十六巻引用)

このように、お釈迦様は霊魂の存在を肯定し、死後の存在を肯定している。

また、パーリ仏典、大パリニッバーナ経(南伝大蔵経 小部経典)において仏陀釈尊は神霊の存在について、次のように説かれている。

「聖賢の生まれなる人が住居をかまえる地方において、そこで、有徳にして自ら制せる清浄行者たちを供養したならば、そこにいる神霊たちはかれらに 施与の功徳をふり向けるであろう。

かれら(神霊)は供養されたならば、かれを供養し、崇敬されたならば、かれを崇敬する。

かくて、かれを愛護すること、あたかも母がわが子を愛護するようなものである。

神霊の冥々の加護を受けている人は、つねに幸運を見る。」

(ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 中村 元訳 岩波文庫参照)

最後に、ブッダ釈尊が瞑想中において生き物たちが死後、様々な境涯に生まれていくのを透視した事について説かれている四分律経典を紹介いたします。

      書籍『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照

      書籍『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照

参考文献

「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・二カーヤ1 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」
「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」
「ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 中村 元訳 岩波文庫」
「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」
「国訳一切経 阿含部 二巻 大東出版社」

「国訳一切経 律部二 大東出版社」
「輪廻する葦 阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」
「間脳思考 霊的バイオホロ二クスの時代 桐山靖雄著 平河出版」

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仏教のお経、阿含経というお経についての話

日本や中国において、長い間、大乗仏教が信仰され、特に、日本において大乗経典と呼ばれる法華経や阿弥陀経などの大乗仏教が独占的に信仰され、その一方、阿含経というお経は小乗仏教、小乗経典として、軽視、もしくは、ほとんど無視されていた経典であった。

日本の仏教は千年以上の長きにわたり、阿含経を劣った小乗経典、つまり、自分だけの悟りを求め、自己のみが救われる事を目指す利己的で、レベルの低い卑しい経典とみなされていた。

また、出家しなければ救われない出家仏教の経典ともいわれてきた。

今から約1400年以上前の中国において、高僧、天台大師智顗(チギ)が立てた五時教判という教相判釈があるが、その教相判釈によると法華経、涅槃経が最も高い大乗の教えであり阿含経は最も低い小乗の教えであると結論づけされている。

その為,日本において、阿含経に対する研究や信仰はほとんどなされなかったが、近年文献学の目覚しい発展、パーリ語、サンスクリット語等の原語での仏典研究、著しい学術的進歩により阿含経典(パーリの五部 漢訳四阿含)こそが仏教の開祖であるお釈迦様が実際にお説きになった内容、もしくは、極めて近い内容の経典であると学問的に認められている。

この事についてインド哲学、仏教学の世界的権威(故)中村元 博士(1912~1999)は著書「バウッダ(佛教) 中村元 三枝充悳 共著 講談社学術文庫」において次のように解説されている。

中村 元 博士(1912年~1999年)

「現存のアーガマ(阿含経)を、そのまま「釈尊の教え」に直結することは、あまりにも短絡化しすぎており、今日の仏教学からすれば、むしろ誤りとみなされる。

ただし、釈尊の教えと仏弟子達の言行などは、そして、最初期ないしは初期の資料は、アーガマ(阿含経)にしか存在していないのであり、多数の大乗経典 (これを日本人は「釈尊の教え」そのものと誤解し「仏教」として受容してきた)には、求むべくもないことが明白である以上、何よりもアーガマ(阿含経)の解明に専念する仏教文献学が必要不可欠の前提とされる。

そして、それは、近代学問としてすでに100年以上の年月を刻んで、今日もなお営々として継続している。」とある。

また、仏教学者の(故)平川彰(ひらかわあきら)博士(1915~2002)は仏教経典の阿含経(あごんぎょう)について自身の著作である「インド仏教史 上巻 平川彰著 春秋社」という書籍において以下の主旨、概要の解説をされている。

「阿含経はアーガマ(Agama)、つまり伝わったもの、伝承されたものとも呼ばれ、仏陀釈尊の直接の教えが伝承されたものであることを示している。

しかし、これらの経典(阿含経)は仏陀釈尊の死後、仏陀釈尊の直弟子、仏陀釈尊の高弟達の記憶によって仏陀釈尊の教えの内容がまとめられ、又経典として書きとめられ伝来された為、伝承の間に仏陀釈尊の弟子の理解や解釈が付加され増広され、仏陀釈尊直説の教説が多少変化を蒙(こうむ)ったことは避けられなかったもしれない。

阿含経は仏陀釈尊の教えそのものではないかもしれない。

しかし、幾多の仏教諸経典の中で阿含経は仏陀釈尊の教えの内容を最も含んでいる経典であり仏陀釈尊の思想を求めるとすれば先ず阿含経の中に求められなければならない」

また、著名な日本の哲学者であった(故)梅原猛教授は自身の著作「地獄の思想 梅原 猛著 中央文庫」の中で

「釈迦の説法集が出来上がったのはむしろ釈迦の死後である。

釈迦の死後に様々な経典が作られた。

そして、その経典の中には釈迦の説というより弟子自身の説が混じるようになる。

後世の人々が釈迦の名において勝手に自己の学説を正当化する経典を作るようになる。

かくして、仏滅後五百年も六百年も過ぎて、なお釈迦の名において多数の経典群が作られていく。

そして、謎の人、釈迦の正体を解いたのは、ヨーロッパの近代文献学にもとづく仏教学であった。

文献学的な方法にもとづく仏教学は経典の成立年代を大体、考証的に明らかにした。

そして、釈迦の正説は、従来、日本においては、小乗と卑しめられてきた阿含部経典や律部経典にあることが分かったのである。

これは伝統的な仏教家にとっては大きなショックであるはずであった。

なぜなら、彼らが千数百年来、崇拝してきた仏教の経典が、釈迦の説ではなく、後世の説であり、彼らが卑しんできた経典こそ釈迦の説であることが明らかになったからである。

もし、このことを知ったら、親鸞や日蓮や道元はどのように驚いたであろうか。」

次に、パーリ仏典研究の世界的権威、(故)水野弘元博士(1901年~2006年)は仏教経典の源流について自身の著作「経典はいかに伝わったか 成立と流伝の歴史 水野弘元著 佼成出版社」において次のように説かれています。

「大乗仏教の般若の空思想や菩薩の波羅蜜の修道法もその源泉、源流は阿含経の中にあります。

インド大乗仏教の祖師と云われる龍樹菩薩や世親菩薩の著作において、阿含経の教説は大乗の教説と並べて権威的な典拠(典籍)として扱われ龍樹菩薩、世親菩薩の著作においてしばしば阿含経が引用されています。」

   竜樹菩薩(チベット画) 

  竜樹菩薩(日本画)

また、ドイツの仏教学者、(故)ヘルマン・ベック(1875年~1937年)博士が著した「仏教(上)(下)岩波文庫  ベック著」という書籍においてヘルマン・ベック博士は仏教の実践の綱要を瞑想に見い出し、種々の経典、特にパーリ仏典の長部経典(漢訳では阿含経の長部経典にほぼ該当する)等を多く引用し瞑想、禅定に関する詳細な解説をしている。

さらにまた、(故)水野博士は自身の著作の「原始仏教」において阿含経を引用し

「那伽(ナーガ)は常(つね)に定(じょう)に在(あ)り。」と引用し実際に仏陀釈尊は禅定の熟達者であったと経典に伝えられている。

この経典の中で那伽(ナーガ)とは仏陀釈尊を意味する。

定とは瞑想、禅定を意味している。

南伝大蔵経の増支部経典においても

「那伽(ナーガ)は行(ゆ)くにも定(じょう)にあり、

那伽(ナーガ)は立(た)てるも定にあり、

那伽(ナーガ)は臥(ふ)すにも定にあり、

那伽(ナーガ)は座(ざ)せるにも定にあり」

とある。

また、漢訳仏典の中阿含経118の龍象経においても、

「龍行止倶定、坐定臥亦定、龍一切時定、是謂龍常法」

とある。

仏典中の龍(竜)とは優れた修行者を意味する事もある。

この経典の中の那伽(ナーガ)、龍(竜)とは仏陀釈尊を意味する。

仏陀釈尊は特に禅定(瞑想)に入っていない日常の精神状態であっても定(禅定)にあるのと同じように無念無想の精神統一を得られていたとされる。

  水野弘元博士

参考文献
「バウッダ(佛教) 中村元 三枝充悳 共著 講談社学術文庫」
「インド仏教史 上巻 平川彰著 春秋社」

「インド仏教史 下巻 平川彰著 春秋社」
「地獄の思想 梅原猛著 中央文庫」
「経典はいかに伝わったか 成立と流伝の歴史 水野弘元著 佼成出版社」
「原始仏教 水野弘元著 サーラ叢書」
「仏教(上)(下)ベック著 岩波文庫」
「輪廻する葦 桐山靖雄著 平河出版」

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いじめ、虐待問題の根本的な原因とその解決方法についての考察

いじめ、虐待の問題の根本的な原因は第二次世界大戦における敗戦以後、教育において、宗教的なものを排除する方向に向かった事が大きな原因のひとつと考えられる。

道徳教育は人間にとって非常に重要な事である。

しかし、道徳教育のみではその道徳を実践する正当性を主張、説明するには理論的限界があるように思われる。

この道徳教育の理論的限界について、仏教学者、(故)平川彰博士(1915年~2002年)は自身の著作「インド・中国・日本 仏教通史 平川彰著 春秋社」において次のように説かれている。

「国家を治めるには刑罰だけでは治められないのであり、社会の平和を実現するには道徳が必要である。

しかし、道徳は道徳だけでその正当性を主張するのは困難であり、その根底には宗教による基礎づけを必要とする。

したがって、聖徳太子が三宝(仏、法、僧)興隆の詔勅を発し、率先して仏教を導入されたのは、仏教によって国民の道徳的精神を高める目的があったとともに、物質文化を高めることも大きな理由であったであろう。」

ここで平川彰博士が解説されている宗教による基礎づけとは仏教において説かれている輪廻転生の教説、善因善果・悪因悪果の因果業報説も当然、含まれていると考える。

また、宗教教育の欠落の弊害についてインド哲学、仏教学の世界的権威である(故)中村元博士(1912~1999)は自身の著作「日本人の思惟方法 中村 元著 春秋社」において次のように言及されている。

インド哲学、仏教学の世界的権威

中村元(なかむらはじめ)博士

 

「明治維新以後もそうであったが、ことに第二次世界大戦における敗戦以後、日本の指導者達は、宗教的なものを全面的に禁圧する方向に向かって指導し、そのとがめが種々の局面に現れているようである。

いま、教育の荒廃ということが盛んに論じられているが、例えば、いじめとか登校拒否とかいう問題は公立学校でだけ起こっていることである。

反対に宗教教育を行なっている学校では起こっていない。

仏教精神で教育を行なっている学校では、この問題は起こっていない。

キリスト教関係の学校でもついぞ聞いたことがない。

また、いずれかひとつの宗教に偏るのではなく機会あるごとにいろいろな宗教の講話を聞かせている学園でも、この問題は起きていない。

これらは戦後に顕著になった現象なのである。

公立学校では宗教と教育とは分離するべきであるとの理由により公教育の場から宗教を追放したからである。

その法的な根拠は日本国憲法であり、その憲法の原文はGHQから日本政府に交付されたものである(後略)」

その宗教の中のひとつに仏教という宗教があるが、その仏教の経典のひとつ「スッタ・ニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

「一度生まれる生き物(胎生つまり母胎から生まれる生き物)でも、二度生まれる生き物(卵生、つまり卵から生まれる生き物)でも、この世で生き物を害し、生き物に対する哀(あわ)れみのない人(慈悲心のない人)、彼を賤(いや)しい人であると知れ」

「母、父、兄弟、姉妹或いは義母を打ち、また言葉で罵(ののし)る人、彼を賤(いや)しい人であると知れ。」

仏教とほぼ同時期に成立したジャイナ教の教えにも次のように説かれている。

「わたしは説く。

いかなる生物も傷つけてはならない。

これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。

全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。虐待してはならぬ。

害してはならぬ。

苦しめてはならぬ。

悩ましてはならぬ。

これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。

一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

ジャイナ教の教えの特長は人間だけではなく動物や植物に対する不殺生戒を徹底的に重視する点にある。

 ジャイナ教では一般に善業は楽しみを生ずる手段であり、悪業は苦しみを生ずる手段であると考えていた。

 したがって、不道徳な行為は苦しみをもたらすものであるが、そればかりではなく、行為そのものが結局において、やはり苦しみをもたらすのである。

この苦しみは行動から生ずるものである。

 人の作った業(行為)が(行為を行ったその人自身の)来世の運命を決定するということはジャイナ教においても強調されている。

 業の観念は既にジャイナ教以前において成立していたものである。

 現世における行為に応じて来世に楽あるいは苦の果報を受けるという漠然とした観念はすでにインド最古の文献「リグ・ベーダ」に現れている。

 インド最古の文献、古ウパニシャッドにおいてもこのような思想は特に明確に表明されている。

ジャイナ教は業の恐ろしさを説いている。

因果応報について種々の経典に説かれている。

また、仏教の経典、パーリ仏典「サンユッタ・ニカーヤ」、漢訳仏典「雑阿含経」において仏陀は次のように説かれている。

「他人から奪った人が(来世、未来において)他人から奪われるのである。

愚か者は悪の報いが実らない間は悪の報いがない事を当然のことだと考える。

しかし、悪の報いが実ったときには愚か者は苦悩を受ける。

殺す者は(未来には)殺され、怨む者は(未来には)怨みを買う。

また、罵りわめく者は(未来には)他の人から罵りを受ける。

怒りたける者は(未来には)他の人から怒りを受ける。・・・後略」

つまり自分が(来世、未来において)殺されないようにするためには他者を殺してはいけない。

また(来世、未来において)自分のお金や大切にしている物を盗まれないようにする為には他者のお金や物を盗んではいけない。

さらに仏教の経典のひとつ、法句経において次のように説かれている。

「悪業の報いはたとえ大空においても大海においても奥深い山中に隠れても、悪業の報いからは逃れることが出来ない。」

と仏陀は説かれている。

また、次のような教えも仏教経典に説かれている。

「耐え忍び、苦行、隠忍は最高のものであり、ニルヴァーナは最高のものであると諸々の覚者(ブッダ)は説いた。

他人を害(そこな)う人は出家者ではない。

他人を悩ます人は修行者ではない。

一切の悪をなさず、善を具現し、自らの心を清らかならしめる。

これが諸々の覚者の教えである。

争わず、害せず、それぞれの解脱について制していること。

食事に量を知り、座臥に人々から離れ、高潔なることに心を専らにすること。

これが諸々の覚者の教えである。」

(長阿含経第一巻 大本経)

パーリ仏典「サンユッタ・二カーヤ」というお経においても次のようにお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。

怒りを断ち切って、悲しまない。

その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを聖者達は賞賛(しょうさん)する。

それ(怒り)を断ち切ったならば悲しむことがない。」

「人は利を求めて自分を与えてはならない。

自分を捨て去ってははならない。

人は善い(優(やさ)しい)言葉を放つべきである。

悪い、粗暴(そぼう)な言葉を放ってはならない。

やさしい言葉を口に出し荒々(あらあら)しい言葉を口に出してはいけない。」

仏教経典 漢訳大蔵経の中の阿含経及び南伝大蔵経においても次のようにお説きになられている。

「比丘(修行者)たちよ。

まさに一法を断つがよい。

一法を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう。

その一法とはなんであろうか。

いわゆる瞋恚(しんに)(怒り)がそれである。

比丘(修行者)たちよ、まさに瞋恚(怒り)を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう。」

「瞋恚(怒り)にかりたてられて、人は悪しき処におもむく。

まさに、つとめて瞋恚(怒り)を捨つれば、すなわち煩悩滅尽して聖者たらん。」

「雑言と悪語とを語って愚かなる者は勝てりという。

されど誠の勝利は堪忍を知る人のものである。

怒る者に怒り返すは悪しきことと知るがよい。

怒る者に怒り返さぬ者は二つの勝利を得るのである。

他人の怒れるを知って正念に自分(自分の心、精神、感情)を静める人はよく己(自分)に勝つとともに他人に勝つのである。」

ところで、話は少し変わるが、日本の仏教の宗旨宗派に真言宗という宗派があるが、その真言宗の開祖である弘法大師 空海様の晩年の著作である「秘密曼荼羅十住心論第一巻」において空海様は中絶(ちゅうぜつ)、堕胎(だたい)の果報、業報について説かれている箇所がある。

そのなかで空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経 第十七巻 経集部四 五五八頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。そのお経の概要は

「一人の鬼あり、その鬼が仏弟子である目連尊者に対してこう問いかけた。

「私(鬼)の身体は常に肉の塊(かたまり)にして手、脚、眼、耳、鼻等あること無し、

つねに多くの鳥達に体をついばまれ、食べられ、耐えられない程苦しい。

何が原因でこういう苦しみに遭(あ)うのか?」

お釈迦様のお弟子である目連尊者は次のように答えて言った。

「あなたは前世(前生)においてつねに他者に薬を与え、他者の胎児(たいじ)を堕(おろ)した。

胎児を中絶させた。

胎児を殺害した。

このような行為、因縁、業報により死後、現在においてこのようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、行為の報い、罪の報いであり、地獄の苦果、苦しみはまさに後身にあり。(果報の報いはあとになって受ける)」とある。

(鬼という言葉は死者を意味する。昔は死ぬ事を鬼籍に入ると言った。)

また、空海様は盗み、窃盗、泥棒、収奪の業報についても諸経典を引用し説かれている。

空海様は雑宝蔵経(雑蔵経 大正新修大蔵経第十七巻 経集部四 五五七頁)というお経を引用し次のようにお説きになられている。

そのお経の概要は

「ある一人の鬼(死者)がいた。

その鬼が仏弟子である目連尊者に対しこのように質問した。

「私の腹は極度に大きく、のど、手足は極度に細くて食べ物や飲み物を取ること、食事をする事が出来ない。

何が原因でこのような苦しみを受けるのか。

仏弟子の目連尊者は次のように答えて言った。

「あなたは前世(前生)において高い地位にあり富貴、裕福で、さまざまな食事、お酒を大いに楽しんだが、他の人々を軽視し、侮り(あなどり)、見下し、他の人々の飲食を奪(うば)い取り、他人を飢(う)えさせ、他人を困らせた。

このような他の人々の飲食を奪い取り、他人を飢えさせ、他人を困らせた行い、行為、因縁、業報、罪の報いにより、このようなひどい苦しみを受けている。

これは(あなたが作った)果報、業報であり、このような罪の報いによる地獄の苦しみは後になって受けるのである。」

次に、仏教経典「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」という書籍の中の雑阿含経第十九にも屠殺、殺生に関するお経が書かれている。

その経典には屠牛者経 屠羊弟子経 好戦経 堕胎経 猟師経 殺猪経 断人頭経 捕魚師経等の屠殺や殺生に関するお経が書かれている。

そのお経に共通する主な内容は生前、生きている間において人間や動物達等の生き物の屠殺(殺す事)、殺生(生き物を殺す事)を行った者がその死後においてその屠殺、殺生を行った罪業(罪障)の報いにより非常に長い年月の間地獄(大きな悩み苦しみ憂い悲しみの世界 極めて苦しい激痛の世界 獄卒(地獄の鬼達)により責め立てられ苦しめられる極めて悲惨な世界)に赴き、多くの様々な激しい苦しみを受け、その地獄より出てきた後にもその屠殺や殺生の余罪により様々な生き物達、カラス 狂暴な犬 キツネ ワシ等に内臓をついばまれ食われその激痛に苦しみ泣き叫んでいる様子が書かれている。

仏教の教えでは、生き物は死んでも再度、何度も何度も生まれ変わる事を説きます。

すなわち、輪廻転生を説きます。

その輪廻転生には分段生死(ぶんだんしょうじ)と変易生死(へんやくしょうじ)と云う種類の転生があります。

分段生死とは凡夫の輪廻転生を意味し、六道輪廻つまり

地獄界(極めて苦しい残虐悲惨な境涯)、

餓鬼界(飢え、乾きに苦しむ境涯)、

畜生界(動物の境涯)、

修羅界(争いの境涯)、

人間界(人間の境涯)、

天界(天、神の境涯)

の六種類の境涯を衆生(生き物)が何回も何回も際限なく輪廻転生していく転生を意味します。

変易生死とは聖者の輪廻転生を意味し、聖者が仏陀の境涯に向かって修行していく過程、聖者としての境涯が後退せず上昇していく転生を意味します。

変易生死について詳しく解説すると、例えば聖者の境涯に預流(よる)という境涯があります。

凡夫が仏道修行により修行の境涯が進むと先ず預流という聖者に成ります。

預流とは聖者の流れに入った者の意を表し、預流になると地獄界、餓鬼界、畜生界という最も苦しみの度合いが激しい三悪道の境涯には二度と生まれ変わらないとされています。

そして最高位の聖者である仏陀に成るまで三回~七回程度、人間界と天界への生死を繰り返し最後には必ず仏陀の境涯に至る事が出来るとされています。

仏教経典「阿含経 長部経典」の「迦葉獅子吼経」の中で仏陀釈尊は苦行者の迦葉に向かってこう説かれた。

「外面的な規定を守ることによってではなく、倫理的行為と霊的自制と智とを完成させることにより、さらに内面的な憎しみとあらゆる敵意を克服し慈愛深い心をもつ者のみが解脱に到達する見込みがある。」

参考文献

「インド・中国・日本 仏教通史 平川彰著 春秋社」

「日本人の思惟方法 中村 元著 春秋社」

「ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫」

「思想の自由とジャイナ教 中村元著 春秋社」

「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波文庫」

「ブッダ 神々との対話 中村元訳 岩波文庫」

「ブッダ 悪魔との対話 中村元訳 岩波文庫」

「仏教思想8 解脱 仏教思想研究会 平楽寺書店」

「仏教 上 ベック著 岩波文庫」

「仏教 下 ベック著 岩波文庫」

「ブッダの真実の教えを説く(上巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」

「ブッダの真実の教えを説く(中巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」

「ブッダの真実の教えを説く(下巻)阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」

「輪廻する葦 阿含経講義 桐山靖雄著 平河出版」

「間脳思考 霊的バイオホロ二クスの時代 桐山靖雄著 平河出版」

「弘法大師著作全集 第1巻 勝又俊教著 山喜房仏書林」

「国訳一切経 印度撰述部 阿含部二巻 大東出版社」

「大正新修大蔵経 第一巻 阿含部上 大蔵出版」

「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」


















日本仏教は葬式仏教で堕落している。という批判についての考察

日本の仏教は葬式仏教で堕落している。

本来の仏教とは違う。

という批判をする人がいるが、これについて参考するべき見解として、仏教の経典に「梵網経(ぼんもうきょう)」というお経があり、そのお経の中に不救存亡戒(ふぐそんぼうかい)という戒律があります。

仏教信者は慈悲の心を持って全ての生者、死者に対して慈悲の行為を行わなければならない事が説かれ、特に父母兄弟等の家門の親しい先亡精霊に対し、冥界における幸福を助けるための宗教行為に勤めるべきことを勧めています。

追善供養とは亡者のために追って善事を修して福を薦め、その冥福を祈る事です。

人の死後四十九日の間、亡者の霊は中有に迷って果報、転生先が定まらないので遺族、僧侶が善根を追修、回向してその功徳を亡者に捧げ、三途の苦報を免がれさせようとするため追善供養を行います。

ただし、極善の者は四十九日間を待たずに直ぐに仏界、天上界に直行し、極悪の者は直ぐに地獄界へ直行するとされています。

追善供養は人の死後、七日ごとに初七日忌、二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌、六七日忌、七七日忌つまり四十九日忌を行います。

また、百日目の百カ日忌、一年目に一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などに法要を営み、その功徳を亡者に回向します。

仏教には死者に対しての追福追善の報恩行、冥福を祈る宗教行事があります。

参考文献

「葬式仏教 圭室諦成著 大法輪閣刊」

ブッダ釈尊が説く孝養。

昔の日本の一部の地域であった姥捨て山(うばすてやま)のような、老齢になって役に立たなくなった老人を遺棄する。という現象は昔から汎世界的に見られるが、仏教はその風潮に対し、強く反対し、父母をいたわることを説いている。

ブッダ釈尊は次のように説かれている。

「世に母を敬うことは楽し。また父を敬うことは楽し。」

「母あるいは父を法によりて養う人あらば父母に仕えるそのことを以って、この世にてはもろもろの賢者がかれを賞賛す。

また死後(その功徳により)、かれは天界にて楽しむ。」

「母と父とは梵天ともいわれ先師ともいわれる。

子らの供養すべきものにして、また子孫を愛する者なり。

されば実に賢者は飲食と衣服と床と塗身と沐浴と洗足とを以って父母に敬礼し尊敬せよ。」

「されば正しき善人は、恩を感じて恩を知り、昔の恩を思い起こして母と父を扶養す。

昔、恩を受けたるが如くにかれら(父母)に対して義務を果たす。

教えを護り、扶養して、家系を断たず、信仰あり、戒を保つ子は賞賛せらるべきなり。」

「われらは両親に養われたならば、かれらを養うべし。

かれらの為に為すべきことを為すべし。

家系を存続すべし。

財産相続を為すべし。

また祖霊に対して適当なる時々に供物を捧ぐべし。」

パーリ仏典や漢訳仏典 雑阿含経においてブッダ釈尊はこうも説かれている。

1、母と父を養う人、父母を供養する。

2、家においては年長者を敬う人。家の尊重に供養する。

3、やさしい心の通う会話をなす人。柔和で優しい謙遜の言葉、態度をする。

4、そしる言葉を捨てた人。荒々しい言葉を離れる。

5、もの惜しみを除くのに努めている人。ケチな心をやめる。

6、真実なる人(真実の言葉を言う 嘘はつかない)。

7、怒りに打ち勝った人(怒りが起きても怒り心をすぐに取り除く人。

こういう立派な人々は来世(死後)に三十三天に生まれる事が出来る。と。

 

書籍「国訳一切経 印度撰述部 阿含部三 大東出版社」参照。

つぎに、仏教経典 パーリ相応部経典(サンユッタ・二カーヤ)のお経において父母を養っているバラモンが尊師(仏陀釈尊)に次のように質問をした。

「ゴータマ(仏陀釈尊)さま。

わたくしは、きまりにしたがって食を求めます。

きまりにしたがって托鉢(たくはつ)して食を求めて、両親を養っています。

わたくしは、このようにしていますが、なすべきつとめを果たしているのでしょうか。」

尊師(仏陀釈尊)は次のように言った。

「バラモンよ。たしかに、そなたは、このようにして、なすべきつとめを果たしているのです。

きまりにしたがって食を求め きまりにしたがって食を求めて両親を養っている人は、多くの功徳を生じます。

母または父を、ことわりにしたがって養う人は、両親に対するその奉仕によって、この世では。賢者がかれを称賛し、死後には天にあって楽しむ。」

その言葉を聞きバラモンは次のように言った。

「すばらしいことです。

ゴータマさま。

すばらしいことです。

ゴータマさま。

ゴータマさま、私を在俗(在家)信者として受け入れて下さい。

今日以後、命ある限り貴方様に帰依致します。」

参考文献

「宗教における思索と実践 中村元著 サンガ文庫」
「地獄の話 山辺習学著 講談社学術文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」



仏教やジャイナ教が説く「不殺生戒」について

ことわざに「一寸の虫にも五分(ごぶ)の魂(たましい)」という言葉があるが、仏教の戒律に不殺生戒という戒律がある。

つまり、生き物を殺してはいけないという戒律がある。

仏典「スッタニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

 

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。

いかなる生き物、生類(しょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」

「あたかも、母が己(おの)が独り子を命を賭けても護(まも)るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈(いつく)しみの心を起こすべし。

また、全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。

上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。

立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりたもて。

この世では、この状態を崇高(すうこう)な境地と呼ぶ。」

    

漢訳仏典の本生経(ほんじょうきょう)、パーリ語仏典でジャータカというお経の内容は釈尊や釈尊の弟子、菩薩などの前世物語を集めたお経である。

そのお経で次のように説かれている。

「私(釈尊)の喜ぶ事がしたいならば永久に狩り(狩猟)をやめてくれ。

森の憐(あわ)れな獣類(けもの、動物達)は智慧が鈍(にぶ)いのだから、ただこれだけの理由でも彼らを憐(あわ)れむ価値があるではないか」

釈尊はこうした心持ちから、広く人畜を殺さないようにせよと説かれたので、この平和の福音を仏教徒の掟(おきて)、戒律の最初に置かれたのはいかにも意味の深いことと思われる。

また、仏教経典「阿含経 長部経典」の「迦葉獅子吼経」の中で仏陀釈尊は苦行者の迦葉に向かってこう説かれた。

「外面的な規定を守ることによってではなく、倫理的行為と霊的自制と智とを完成させることにより、さらに内面的な憎しみとあらゆる敵意を克服し慈愛深い心をもつ者のみが解脱に到達する見込みがある。」

と説かれている。

次に、不殺生戒を具現化した行事に、放生会(ほうじょうえ)という行事がある。

殺される運命にある生き物を助け逃がしてやる行事をいう。

殺生を戒める宗教儀式で仏教の不殺生戒(生き物を殺してはいけないとういう戒律)から神仏習合により神道にも取り入れられた。

例えば殺される運命にある捕えられた鳥を大空に逃がしてやったり、又捕えられた魚や亀などを海や川や池に逃がしてやる行事。

各神社、各お寺でも実施している所がある。

京都府の石清水八幡宮

奈良県生駒郡 斑鳩町にある吉田(きちでん)寺、

大分県宇佐市にある宇佐神宮,

福岡県福岡市東区箱崎にある筥崎宮

筥崎宮では「ほうじょうや」とよぶ)

全国の八幡宮(八幡神社)でも行われている。

仏教とほぼ同時期に成立したジャイナ教の教えも仏教と同様、不殺生戒を重視する。

その教えの特長は人間だけではなく動物や植物に対する不殺生戒を仏教以上に徹底的に重視する点にある。

ジャイナ教の教えにこうある。

「わたしは説く。

いかなる生物も傷つけてはならない。

これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。

全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。

虐待してはならぬ。

害してはならぬ。

苦しめてはならぬ。

悩ましてはならぬ。

これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。

一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

      

ジャイナ教の第2代祖師 ゴーマテーシュバラ像。

「ブッダのことば 中村元著 岩波文庫」
「仏教 ベック著 岩波文庫」
「ジャータカ全集1 藤田宏達著 中村元著 春秋社」
「思想の自由とジャイナ教 中村元著 春秋社」
「放生(仏教行事歳時記 瀬戸内寂静著 藤井正雄著 第一法規」