真言宗には阿字観という瞑想法があり、
天台宗には摩訶止観という瞑想法がある。
密教の修行法においては精神統一を表す言葉として三摩地(さんまじ)、定(じょう)という言葉がある。
さらにヨーガにおいては精神集中の高まり、瞑想の段階過程として
制感(せいかん)、
凝念(ぎょうねん)、
静慮(じょうりょ)、
三味(さんまい)という段階がある。
凝念、静慮、三味をまとめて綜制(そうせい)ともいう。
仙道においては精神集中、精神統一の修行法として内部統覚法、外部統覚法という修行法がある。
世界的に有名な歴史学者アーノルド・トインビー氏は
「現代西洋文明の危機を救う方法は東洋に伝わる瞑想である」という言葉を残されている。
その瞑想についての話であるが、1900年代、インドに住むゴーピ・クリッシュナという名前の在家の妻子ある男性が毎朝、17年間にわたり精神集中を主体としたヨガの瞑想の修業を積んできた。
その男性が1937年12月のある朝、瞑想中に突然クンダリニー覚醒というヨーガにおいてかなり高度な覚醒体験 神秘体験をした。
又、その後の自身の肉体的、精神的な変化及び、その後46才頃、詩人としての才能が突然芽生えた。
その体験が「Kundalini: The Evolutionary Energy in Man (English Edition) 」という書籍として出版された。
この書籍は、1967年頃に出版され、当時、欧米の人々の注目を集め、特に、心理学 生理学 、医学 哲学の専門家達の注目も集めた。
また、当時、この書籍はアメリカ、ヨーロッパでも話題になり、この書籍がきっかけで多くのアメリカやヨーロッパの若者たちがヨガや瞑想を志した。
この書籍は日本でも1980年代に「クンダリニー」という書名で平河出版社から出版されている。
次に、インドの哲学者であり政治家でもあり近代インドを代表する思想家でもあったラーダークリシュナン氏は著書「Eastern Religious and Western Thought」において次のように説かれている。
「孤独における魂は、宗教の誕生地である。
淋しいシナイ山のモーゼ、菩提樹のもとで禅定にふけったブッダ、
ヨルダン川のほとりで静かに祈ったイエス、
砂漠に独りとどまっていたパウロ、
メッカの孤立せる塚にあったマホメット、
アルヴェルノ高地の岩石のうちにあって祈ったアッシジのフランシスは実在する神の力と確信を見出したのであった。
宗教における偉大な新しい創造なるものは、ことごとく、静かなる祈り、孤独なる瞑想にふける魂の測り知れざる深淵から現れ出るのである。」と。
次に、仏教の開祖、仏陀釈尊は孤独で静寂なる環境での深い瞑想により大いなる悟りを得られたが、静かなる環境における孤独な祈り、孤独な瞑想が重視されているように思われる。
パーリ仏典のダンマパダ(法句経)において次のように説かれている。
「修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を越えた楽しみが起こる。」
「実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。
心が統一されないならば豊かな智慧がほろびる。
生じることと滅びることの二種の道を知って豊かな智慧が生じるように自己をととのえよ。」
「憎む人が憎む人に対し、恨む人が恨む人に対してどのような事をしようとも、邪なことを目指している心はそれよりもひどい事をする。」
「母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れた事を、正しく向けられた心がしてくれる。」
つまり禅定の完成と智慧の完成の重要性が説かれている。
また、仏陀釈尊は特に瞑想に入っていない日常の精神状態であっても禅定にあるのと同じように無念無想の精神統一を得られていたとされる。
阿含経に
「那伽(ナーガ)は常(つね)に定(じょう)に在(あ)り。」という一節がある。
実際に仏陀釈尊は禅定の熟達者であったと経典に伝えられている。
この経典の中で那伽(ナーガ)とは仏陀釈尊を意味する。
定とは瞑想、禅定を意味している。
また南伝大蔵経の増支部経典において
「那伽(ナーガ)は行(ゆ)くにも定(じょう)にあり、
那伽(ナーガ)は立(た)てるも定にあり、
那伽(ナーガ)は臥(ふ)すにも定にあり、
那伽(ナーガ)は座(ざ)せるにも定にあり」とある。
また漢訳仏典の中阿含経118の龍象経においても
「龍行止倶定、坐定臥亦定、龍一切時定、是謂龍常法」とある。
仏典中の龍(竜)とは優れた修行者を意味する事もある。
この経典の中の那伽(ナーガ)、龍(竜)とは仏陀釈尊を意味する。
龍(竜)をサンスクリット語でナーガと云う。
釈尊の覚醒の課程は三夜にわたる智の開眼、智慧の獲得で説明される。
第一夜(初夜 夜6時~夜10時頃)において釈尊は瞑想によって自らの百千の生涯、幾多の宇宙の成立期、破壊期、成立破壊期を残らず想起した。
第二夜(中夜 夜10時~夜中2時頃)において天眼、清浄で超人的、神的な透視力により生き物達が無限の生死循環、輪廻転生を繰り返す様を見透す。
第三夜(後夜 夜中2時~朝6時頃)において「一切、輪廻転生の本質は苦である」という認識を得、縁起の法を悟って覚醒、漏尽解脱、智慧解脱の完成を得た。
パーリ仏典において仏陀(ブッダ)は次のようにお説きになられている。
「(修行者が修行により)心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れの無い、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、そのもの自身が堅固不動のものになると、
修行者は生き物達の死と再生について知る事、死生通に心を傾け、心を向ける。
そして、修行者は、その清浄な、超人的な神の眼によって生き物達の死と再生を見、生き物達はその行為に応じて劣った者にもなり、優れた者にもなり、美しい者にも、醜い者にも、幸福な者にも、不幸な者にもなることを知る。
すなわち、生き物達は、身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いをなし、聖者達を誹謗し、邪悪な考えを持ち、邪悪な考えによる行為を為す。
かれらは身体が滅びて死んだ後、悪い所、苦しい所、破滅のある所、地獄に再び生まれる。
一方、この者達は身体による良い行いを為し、言葉による良い行いを為し、心による良い行いを為し、聖者達を誹謗しないで、正しい見解による正しい行いを為している。
故に、かれらは身体が滅びで死んだ後、良い所である天界に生まれ変わった。
と修行者は知る。」
また、書籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」という書籍がある。
この書籍において、著者の修山脩一教授は本来、仏教は禅定を重視し、また、輪廻転生思想が土台になってその教義が成立している事に言及、特に禅定、輪廻転生に関する内容が多くの大蔵経を引用し、かなり専門的に書かれており学術的に非常に興味深く、示唆に富んだ内容に満ち溢れている。
書籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照
書籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照
書籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照
書籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照
書籍「禅定の研究 真宗学の諸問題 修山脩一 著 永田文昌堂」参照
さて、仏教にとって人間に生まれてくる事は非常に良き生まれであると説く。
人間にとって神々に生まれる事は良き生まれであるといわれるが、神々にとっては人間に生まれる事が良き生まれであるといわれている。
輪廻転生の世界では衆生(生き物達)は地獄界や畜生界に生まれ替わる方が人間界に生まれ替わるよりも圧倒的に多いと仏典では説く。
(阿含経 増支部経典)
仏教の目的はこの輪廻転生からの脱出を説きます。
本質的に仏教はこの六道輪廻の世界を苦しみの世界とみなしそこからの離脱を目指します。
仏典に修行を完成した表現として
「現法の中において、自身作證し、生死已に盡き、梵行已に立ち、所作すでに辨じ、自ら後生を受けざるを知る、すなわち阿羅漢果を得たり」とあります。
(阿含経 長部経典)
インドにはお釈迦様が出生される数千年も前よりヨーガという文化的宗教が存在します。
そのヨーガについて書かれたヨーガ根本経典の中に業(カルマ)について書かれた以下の章句があります。
「行為の結果には二種ありと知るべし。
天界と地獄とである。
天界はさまざまであり、地獄も同様である。
功徳ある行為の結果は天界であり、罪の行為の結果は地獄である。
万物の創生は行為の束縛によって成るもので、断じて他の何者でも無い。
天界においては生類は種々の楽を受け、地獄界においては耐え難い苦を受ける。
悪行の力で苦が生じ、善行の力で楽が生ずる。
それ故に、楽を望む者はいろいろな善行を励んで行う。」
ここで説かれている行為の束縛とは業、すなわちカルマのことである。
前生において行った行為の内容によって、必然的に今生の運命の内容が定まるという思想はインドの根本思想の一つで、仏教もまたこの思想を受け継いでいる。
天地創生(天地創造)もまた生物全体の業の集計した力によって成されると考えられている。
良い行いをする事を徳を積むといいます。
悪い行いをする事を不徳を積むという。
良い行いを積み重ねる、 善行を積み重ねる事。
その徳の積み重ねが自分自身の幸福の基、福徳の原因となります。
仏舎利(仏陀のご遺骨)を賛嘆、称賛する舎利礼文(しゃりらいもん)というお経に万徳円満 釈迦如来という文言があります。
万(よろず)の徳、全ての徳が完全円満に備わっている釈迦如来という意味であります。
如来とは真理(真如)の世界から来られた方、悟りを開かれた方、仏陀と同じ意味の事であります。
仏道修行者の究極の目標はその万徳円満である釈迦如来、つまり仏様、如来、仏陀に成ることです。
パーリ仏典サンユッタ 二カーヤにおいてブッダは次のように説かれている。
生きとし生ける者どもは(寿命が尽きて)いつかは(必ず)死ぬであろう。
生命はいずれ死に至る。
かれらは死後に自己の作った業(自己の行った行為の内容)に従って各所に赴いてそれぞれ善悪の報いを受けるであろう。
悪い行いをした人々は死後において地獄(大いなる苦しみ悩み痛みに満ちた世界 悪い世界)に生まれ赴き
善い行いをした人々は(死後)善いところ(幸福、平和、快楽、安楽の世界 善い世界)に生まれ赴くであろう。
その為に来世(自分の魂が死後に生まれて変わって行く世界 死んでから自分が再び生まれ変わる世界)の幸福、平和、安楽の為に現世(現在生きているこの世界)で善い事をして功徳を積まなければならない。
人々が作ったその功徳はあの世で人々のよりどころとなる。
仏教の根本的な教え、ブッダ、真理に目覚めた等正覚者達の最も重要な教えとは「よいことをせよ。わるいことはするな」という倫理、道徳の実践の教えであるといえる。
漢訳仏典において
「諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」 という七仏通誡偈がある。
またパーリ仏典の法句経(ダンマパダ)には
「一切の悪をなすことなく、善を具備実践し、自分の心を浄化すること、これが諸仏(真理に目覚め、ブッダとしての悟りをお開きになられた覚者達)の教えである」
とある。
雑阿含経に爪甲経(そうこうきょう)というお経がある。その概要は
「ある日釈尊は釈尊自身の手で大地の土を拾い釈尊自身の手の爪と手の甲の上に土を乗せて諸々の比丘(修行者)に次のように尋ねられた。
「諸々の比丘(びく)よ。私のこの手の爪と手の甲の上に乗っている土の量とこの大地の土の量とでは土の量はどちらが多いか?」
諸々の比丘は次のように答えた。
「世尊(釈尊)よ。世尊(せそん)の手の爪と手の甲の上に乗っている土の量はこの大地の土の量と比べるならば比べものにならない程ごくわずかな量です。」
釈尊は続けてこのようにお説きになられた。
「諸々の比丘よ。もし肉眼で見える生き物たちの数をこの手の爪と手の甲の上にある土の量とするならば、その形が微細で肉眼では見えない生き物たちの数はこの大地の土の量のように膨大に存在する。
比丘たちよ。未だ無間等の悟り(仏陀の悟り)に到達しない者は努めて無間等(むけんとう)の悟りに至るよう努力せよ。」
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