怒り、憎み、恨みの心の弊害についての法話

怒りについて以下のような言葉、ことわざがある。

例えば、

「怒りは敵と思え」

「一朝の怒りは其の身を忘る」

「一朝の怒りに一生を過(あやま)つ」

「善く戦う者は怒らず、善く勝つ者は争わず」

「堪忍は一生の宝」

「堪忍五両、思案百両」

「ならぬ堪忍、するが堪忍」

「短気は損気」などなど。

このように怒りについて多くの言葉が残されている。

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次に、仏典「ウダーナ ヴァルガ」において、仏陀(ブッダ)は怒り、憎しみについて次のように説かれている。

「怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。

いかなる束縛をも超越せよ。

名称と形態とに執着せず、無一物となった者は苦悩に追われることがない。

怒りが起こったならば、それを捨て去れ。

情欲が起こったならば、それを防げ。

思慮ある人は無明を捨て去れ。

真理を体得することから幸せが起こる。

怒りを滅ぼして安らかに臥す。

怒りを滅ぼして悩まない。

毒の根であり、甘味を害なうものである怒りを滅ぼす事を聖者らは賞賛する。

修行僧らよ、それを滅ばしたならば、悩むことがない。

怒りたけった人は、善いことでも悪いことだと言い立てるが、のちに怒りがおさまったときには、火に触れたように苦しむ。

かれは、恥じることもなく、誓戒を守ることもなく、怒りたける。

怒りに襲われた者には、たよりとすべきいかなる帰趣(よるべ)もこの世に存在しない。

あるひとにとって力は力であっても、怒ったならば、その力は力でなくなる。

怒って徳行の無い人には道の実践ということがない。

この人が力のある人であっても、無力な人を耐え忍ぶならば、それを最上の忍耐という。

弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。

他の人々の主である人が弱い人々を忍んでやるならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。

弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。

力のある人が、他人から謗られても忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。

弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。

他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、自分をも他人をも大きな危険から守ることになる。

他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行っているのである。

自分と他人と両者のために行っている人を「弱い奴(やつ)だ。」と愚人は考える。ことわりを省察することもなく。

愚者は荒々しいことばを語りながら、「自分は勝っているのだ。」と考える。

しかし、謗(そし)りを忍ぶ人にこそ、常に勝利があるのだと言えよう。

人は恐怖のゆえに、優れた人の言葉を許す。人は争いをしたくないから、同輩の言葉を許す。しかし自分より劣った者の言葉を許す人がおれば、それを、聖者らは、この世における最上の忍耐と呼ぶ。」

また、憎しみについて、次のように説かれている。

「実にこの世においては、およそ怨(うら)みに報いるに怨(うら)みを以てせば、ついに怨(うら)みの止むことがない。

耐え忍ぶことによって怨(うら)みは止む。

これは永遠の真理である。

怨(うら)みは怨(うら)みによってはけっして静まらないであろう。

怨(うら)みの状態は、怨(うら)みの無いことによって静まるであろう。

怨(うら)みにつれて次々と現れることは、ためにならぬということが認められる。

それ故にことわりを知る人は怨(うら)みを作らない。」

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      ブッダ釈尊

次に、古代ギリシアの哲学者セネカは怒りの感情について仔細に分析した著書怒りについて」を著している

その著書怒りについて」の中でセネカは次のように説かれている。

私自身、特にこの著書で共感した文章をここで紹介する。

「或る賢者たちは、怒りを短期の気狂いだと言っている。

怒ることそれ自体が、どんなに多くの人々に害を与えるか、ということである。或る者は、余りに激しく怒ったために血管を破ったし、限度以上に張り上げた叫び声が出血を起こしたし、目の中に激しく湧き出た涙によって目の鋭さが曇らされたし、病人が病気をぶり返したりした。

これ以上に気狂いになる道はない。

それゆえ、怒りの狂暴を続けて、しまいには、自分から追い出しておいた知性を再び取り戻せなかった者も多い。

酒は怒りを燃え上がらせるが、それは酒が熱を高めるからである。

口論が長時間にわたり、しかもケンカになる恐れがある場合には、口論が激しさを加えない最初のうちに必ず停止する方がよい。

論争というものは自ずから勢いを増していくものであって、熱中すればするほど当人を押さえて離さない。

自分を争いから引き出すよりも、そこから自分を遠ざけておく方が容易である。

体の疲れにも用心せねばならない。

疲れは、われわれのうちにあるどんな穏やかさ静かさを無くし、荒々しさを引き起こすからである。

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次に、江戸時代の高僧、慈雲尊者の著書「十善法語」という書籍の中で慈雲尊者は次にようにお説きになられている。

「華厳経(けごんきょう)の中に、瞋恚(しんに)の罪、また衆生をして三悪道に堕せしむ。

たまたま人中に生ずれば、二種の果報を得。一つには短命、二つには常に悩害せらる。恒に人に短をもとめられるとある。」

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慈雲尊者(1718~1804)

また、慈雲尊者の著書「人となる道」(書籍「日本古典文学大系〈第83〉仮名法語集 岩波書店」)の中で

華厳経等に、一念瞋恚の火、無量劫の功徳法財を焼亡ぼすと説けり。」と説かれている。

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次に阿含宗開祖の桐山靖雄猊下は自身の著作「説法六十心 桐山靖雄著 平河出版社」の中で瞋恚について次のようにお説きになられている。

瞋というのは、瞋恚(しんに)といって、いかることです。

これは人間の煩悩の中で、一番悪い、よくないものです。

また、一番強い力を持っている。

人生を破壊してしまう。

世の中の一切を打ち破る根本悪といってもよいよくない心です。

これほど恐ろしい心はありません。

この瞋恚の心がどうして起こるかというと、一番はじめは、ものごとが自分の思ったようにいかないことを不愉快に思うところから起こります。

あるいは、自分とちがうものにたいして不快を感ずるというところから起きる。

これは、なんといっても、わたくしたちのわがままです。

手前勝手というよりほかない。

最初、自分のいままでやっていることと少しちがうものが出てくると、なんだかおもしろくない。

すべて自分の思っているようにいかないと腹が立つ。

はじめはちょっとしたことでもだんだんそれが大きくなっていく。

それが嵩(こう)じると、いわゆる瞋恚というものになって、自分とちがったもの、自分の自分の気にくわないものすべて仇敵(きゅうてき)とするということになる。これが恐ろしい。

貪欲(という煩悩)はまだ、利益という点で仲間を集めるという協力の気持ちがあるが、瞋恚の心が起きると、世の中すべて敵、三千世界をすべて敵にしてしまう。

そうなると人間が孤立してしまう。

親でも子でも、妻でも友人でも自分が本当に腹を立てたときには、みんな仇敵です。

向こうが味方をしようと思っても、こちらが腹を立てていると、よせつけない。

心の中で敵にしてしまっている。

世界中全部、敵。

これはじつに浅ましく、恐ろしいことです。

人間はみんないっしょに力を合わせて生きてゆかなければならない。

その本性をまるで失って、一切を仇敵とする。

その心は地獄ですね。

他の迷い(煩悩)の中には、まだいくらかとりえがある。

たとえば、貪欲(という煩悩)というものは悪いが、しかし、貪るためには一時的でも人と仲よくなることがある。

協力するという心がある。

こういうことをやりたいが仲間に入らないか、もうかりますよ。というように他の人を仲間に入れる。

ところが瞋は周囲をみんな敵にしてしまう。

瞋りは破壊性を有する。

だから一番悪い。

すべてのものを敵にするこの破壊性というものは、だんだん大きくなっていく。

戦争もそうです。

貪りだけだったら経済戦ですむが、貪りがうまくゆかないでいかりが加わったら、戦争になって殺し合いがはじまり、破壊がはじまる。

そのもとはわがまま、手前勝手です。

自分と少しでも考えのちがうものに対して不愉快を感ずる。

あるいは自分の思い通りにならないものをおもしろくなく思う。

相手の立場とか、考えというものを考えてみようとしない。

そういうものを一切無視して腹を立てる。

これは自己中心、手前勝手から起きる心です。

世の中にはたくさんの人がいて、それぞれの立場、それぞれの考えというものがある。

それで成り立っているので、それが自分とおなじ意見ではないからといって腹を立て、そういうことをやられたら自分の利益にならないといっておこっていたら、際限のないことです。

大きな広い心で、理解するということがなくては、この世の中、成り立たない。

自分自身も孤立してしまう。」

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次に、仏教教団、阿含宗の機関紙、「アゴンマガジン2011年4月号」の36ページに次のような記載が書かれている。

修行の心得

必ず導師の指導のもとに行をすすめてゆく、自分勝手な独行は絶対につつしみ御法の護持にあたる。

いかに御法に精進しても、人をにくみ、ものをにくみつつの行は、御法の力いだだけぬものと知れ。

いかに御法に精進しても、人をうらみ、ものをうらみつつの行は、御法の力いただけぬものと知れ。

いかに御法に精進しても、人をいかり、ものをいかりつつの行は、御法の力いただけぬものと知れ。

いかに御法に精進しても、人をむさぼり、ものをむさぼりつつの行は、御法の力いただけぬものと知れ。

行は日常生活の中から始まります。毎月の例祭にはもちろんのこと、その他の日にも必ず月に一回以上は道場にお詣りして、わが身の因縁浄化の勤行をすること。

阿含宗の会員証には、このような修行の心得が記されています。

人間性を高め、霊性を確立していくためにもこの心得を常に念頭において修行精進いたしましょう。

無財の七施

和語施、親切でなごやかな言葉づかいを施す。

和顔施、にこやかな笑顔を施す。

眼施、やさしい眼(まなざし)を施す。

身施、礼儀正しい行動、身体を使う奉仕活動を施す。

心施、うるわしい思いやりを施す。

房舎施、気持ちの良い待遇を施す。

人に喜びを与え、人につくす布施の行はその心さえあれば必ず出来ます。

昔から無財の七施といって、お金や物がなくても、七つの施しができるといわれています。

まず、無財の七施を実行いたしましょう。

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921~2016)

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1921~2016)


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