仏教の植物観と科学者の植物観、及び神道の植物観について

初期仏教、ジャイナ教の教えに草木に魂、精神の存在を認め、草木を切ったり、刈ったり、燃やしたりして草木を傷つけることを禁じていた。

また、釈迦の過去世物語であるジャータカには、樹神(樹の神様)が釈尊の菩薩たりし時の姿として現れてくる例がしばしば見られる。

また、上座部仏教の聖典(現在のスリランカなどの仏教)である南伝大蔵経の中に説かれている戒律には、樹木などの植物を伐採することを禁じている内容が説かれている。

次に、仏教以外の科学者、哲学者、植物学者の方々の植物に対する考えをみてみると、植物は人間と同様に生命を有していると強く主張する書籍「植物は知性をもっている  20の感覚で思考する生命システム  ステファノ マンクーゾ著  アレッサンドラ ヴィオラ著  マイケルポーラン著 久保耕司訳 NHK出版」がある。その書籍の中で著者は次のように主張している。

「じつは、植物にも脳や魂がそなわっている考えや、もっと単純な植物さえも外界の刺激に反応する考えは、何千年ものあいだ、数多くの哲学者や科学者によって示されてきた。
プラトン、デモクリトス、フェヒナー、ダーウィンなど(これはほんの一例だ)、どんな時代にも天才といわれる人々のなかには、植物には知性があるという説を支持する者がいた。

植物には感覚があるという者もいた。

さらには、植物は逆立ちした人間であると考える者もいた。

すなわち、頭を土のなかに突っこみ、逆立ちしたできないことはできないものの、それ以外ならなんでもでき、感覚や知性もある、というわけだ。

実際、多くの偉大な思想家が、植物の知性を論じ、文章に残している。

それでも、いまだに、植物は知性の点で劣った存在だ。あるいは無脊椎動物と同じ段階にさえ進化していないといった考えがはびこっている。

進化の階段において、植物は石や岩などの動かない物体のすぐ上に位置しているにすぎないという信念は、どんな文化にも根強く残っている。

こうした信念は、私たちの心に深く根づいているが、それはあくまで仮定でしかない。」

さらに

「ユダヤ教では、理由もなく木を切る事が禁止され「樹木の新年」すなわち、春の到来を祝い、樹木に感謝を捧げるユダヤ教の祭日が祝われている。

また、ネイティブアメリカンや世界各地の様々な先住民のように植物を神聖なものとみなしている人々もいる。

さらにまた、植物の世界は、ただ、表面的に観察しただけでは、複雑さのかけらもない。まったく単純な世界にみえるかもしれない。

いっぽうで、こうも考えられる。実は植物は感覚を備えた生物で、コミュニケーション能力があり、社会的な生活を送っており、優れた戦略を用いて難題を解決することが出来る。と。

一言でいえば、植物は知性を持っているということだ。そうした考えは、何世紀もの間、さまざまな時代や文化のなかで、ときどきちらりと顔を出してきた。

植物は、一般的に考えられているよりも、ずっと優れた能力をもっていると確信していた哲学者や科学者もいる。

有名な名前をあげると、プラトン、デモクリトス、リンネ、ダーウィン、フェヒナー(グスタス・テオドール・フェヒナー。19世紀のドイツの物理学者、哲学者)、ポーズ(ジャガディッシュ・チャンドラ・ポーズ。19世紀~20世紀のインドの植物生理学者、科学者)などである。

20世紀半ばまで、植物の知性というテーマに取り組んできたのは、天才ともいうべき直感をもった者だけだった。」

特に「種の起源」を著したチャールズ・ダーウィンは自身の著作「植物の運動力」という大著を著し、植物は生物であり、生き物であるとしか思えないような、様々な実験結果を紹介し、植物は生き物であると結論づけている。

植物が知性があることを否定する根拠は、科学的なデータなどではなく、実は、数千年前から人類の文化に巣食っている先入観や思い込みにすぎないことを明らかにする。

この状況は現代でも変わっていない。しかし、いまこそ私たちの考え方を思い切って変えるチャンスだ。植物は予測し、選択し、学習し、記憶する能力をもった生物だということが、この数十年に蓄積された実験結果のおかげで、ようやく認められ始めている。

たとえば、スイスは、数年前に冷静な議論を重ねた結果、植物の権利を認める世界初の国になった。(2008年にスイス連邦倫理委員会は、植物に一定の尊厳を認める指針を出した。)

スイスの生命倫理委員会は倫理学者、分子生物学者、ナチュラリスト、生態学者を含め、満場一致して合意した。

「植物を好き勝手に扱ってはならないとし、植物を無差別に殺すことは倫理的に正当化出来ない。」と。」

さらに、日本の植物学者でもあり博引傍証の天才と謳われている南方熊楠先生は著書「南方熊楠コレクション 森の思想 中沢 新一 編 河出出版」の中で、次のように語られている。

「この椋(むくのき)も三年ばかり前に伐らんと言いしを、小生(南方熊楠)ら抗議して止(とど)む。

さて、伐らんと言いしものは今春即死、また、件(くだん)の糸田の神森を伐り、酒にして飲んでしまいし神主も、大いに悔いおりしが、数月前、へんな病にて死す。

祟りなどということ小生(南方熊楠)は信ぜぬが、昨今、英独(イギリス、ドイツ)の不思議研究者ら、もっぱらその存在をいい、小生(南方熊楠)も神社合祀励行、森林乱伐に伴い、至る処にその事実あるを認む。

思うに不正姦邪の輩、不識不知(しらずしらず)の間にその悪行を悔い、悔念重畳して自心悩乱すること存じ候。

かかることを、当国官公史また神職らは迷信と言いて笑うことおびただし。

しかるにいずれの国にも犯神罪あり。

キリスト教国にもこれを犯して神罰で死すること多きは小生(南方熊楠)つねに見たり。」

さらに

「明治の国家は、神道をもって、国民のアイデンティティを形成するための、精神的装置にしようともくろみをもっていた。

日本文化と神道は一体であり、キリスト教や仏教のように、外からやって来た宗教や、天理教や金光教のような新しい民衆宗教とは、一線を画する必要があった。

そのためには、神道は宗教ではない。

国体と一体となった。

国体の表現そのものにほかならないのだから、これを諸宗教と同列に扱うことができない、という発言がしばしば行われた。

熊楠はその発言をとらえて、批判を加えているのである。

神道は宗教ではない、という主張の根拠として、そこには壮麗な建築物や、人目を引く宗教的シンボルにとぼしい、という点があげられることが多かった。

宗教はことごとしいやり方で、人々の心を、超越的な世界に向けようとしている。ところが、わが神道は、そのようなことごとしさがなく、自然な民族的心情をすなおに表現しようとしている。この意味でも、それは国体の自然な表現ではあっても、宗教と同列にあつかうことはできない、というわけである。

これについて熊楠はこう反論する。

宗教の本質にとっては、壮麗なやイコンやシンボルなどは、必ずしも必要なものではない。

歴史を見てみろ。

バビロニアだって、エジプトだって、マヤやインカだって、偉大なる建造物は残ったが、かつてそこにあったはずの神聖なるものは、もはやどこかへ消え去って、宗教の伝統は、すっかりとだえてしまっているではないか。

大事なのは、人々の精神に大いなるものに対する畏敬が、とだえることなく、連続してあるということだ。

その点で言えば、神道は立派な宗教ではないか。

神を祀って神社といい、それを崇敬しているのだから、たとえそれが壮大華麗な建造物などをもたなくとも、これが宗教であることがあきらかなのだ。

それを宗教ではない、などと言いくるめるのは、神道にたいして失礼ではないか。

それに立派な建物はなくとも、神道には森があるではないか。

そこには驚くほどの老大樹がそびえたち、稀観の異植物が鬱蒼(うっそう)たる森をつくりだしている。

日本人は、この森の中にたたずむだけで、深い神秘の宗教感情にみたされてきたのだ。

荘厳な神のイコンでもなく、聖人の遺物でもなく、神秘の仏像でもなく、ただ森林の奥深さに日本人は存在の神秘をおぼえ、神々にたいする畏敬の念を育ててきたのである。

これは宗教の諸形態の中でも、粗末なものであるどころか、きわめて高級なものと言っていい。

つまり、神道は真言密教などと同じく、秘密儀の宗教、素朴な神秘主義の宗教なのだ。

そのため、神道は幽玄なやり方で、人々に感化をおよぼしてきた。

それは、文字を立てず、表像を立てず、森林のもたらす神秘の感情をもとにして、人々に神のありかを語ってきたのである。

それはイデオロギーなどとは、もともと無縁のものとして、すばらしいのである。」

 

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「佛説目連鬼問経」参照

書籍「国訳一切経 経集部十四 大東出版社」参照

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