仏陀が説く貪瞋痴の煩悩について

仏教では貪瞋痴の三毒、いわゆる、貪り、瞋り、痴の煩悩が悪趣に赴く原因であると説かれている。

『南伝大蔵経 小部経典』の中の『如是語経』においてブッダは貪瞋痴の三毒、について次のように説かれている。

「げにこれを世尊(せそん=仏の別名、世間から尊ばれるべきお方という意味)は説き應供(応供)(おうぐ=仏の別名、供養に応えることが出来る存在を意味する)は説き給へりと我聞けり。

比丘衆(出家修行者)よ、一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果(ふげんか=二度とシャバ世界に生まれて来ない聖者、仏に次ぐ位の高い聖者)の成就者なり。何れの一法ぞ。

比丘衆よ、貪の一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果の成就者なり。と。

この義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ。

「貪婪の有情(生きもの)は、貪によりて悪趣に行く、

勝観の者はその貪を、正しく知りて断つ、

断ちてこの世に、決して再来せず」と。

世尊はこの義をも説き給へりと我聞けり、と。

げにこれを世尊(せそん)は説き應供(応供)(=仏の別名、供養に応えることが出来る存在を意味する)は説き給へりと我聞けり。

比丘衆(出家修行者)よ、一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果(仏に次ぐ位の高い聖者)の成就者なり。

何れの一法ぞ。

比丘衆よ、瞋の一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果の成就者なり。と。

この義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ。

「嗔(いか)れる有情は、瞋(しん)によりて悪趣に行く、

勝観の者はその瞋(しん)を、正しく知りて断つ、

断ちてこの世に、決して再来せず」と。

世尊はこの義をも説き給へりと我聞けり、と。

げにこれを世尊は説き應供は説き給へりと我聞けり。

比丘衆よ、一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果の成就者なり。

何れの一法ぞ。

比丘衆よ、痴の一法を断つべし。

汝等よ、我は不還果の成就者なり。と。

この義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ。

「痴れる有情は、痴によりて悪趣に行く、

勝観の者はその痴を、正しく知りて断つ、

断ちてこの世に、決して再来せず」と。

世尊はこの義をも説き給へりと我聞けり、と。」

書籍「南伝大蔵経 第二十三巻 小部経典Ⅰ 大蔵出版社」参照。

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天界に生まれ欲望を満たす方法と布施の意義を説いた世尊(ブッダ)

仏陀は、人が死んだ後、天界に生まれ、欲望を満たすことが出来る方法として、ケチな心を捨て、聖者や多くの人々に飯を施すことがその方法であるとお説きになられている。

『南伝大蔵経 小部経典(第二十三巻)(小部経典Ⅰ)』の中の『如是語経』

というお経に次のように説かれている。

『げにこれを世尊(せそん)(=仏の別名)は説き應供(おうぐ)(応供)(=仏の別名、供養に応(こた)えることが出来る存在を意味する)は説き給へりと我聞けり。

「比丘衆(仏教の出家修行者たち)よ、我知るが如く斯若し衆生(しゅじょう=生き物たち)は布施・均分の果報を知らば與(あた)ずして食することなく且つかの慳悋(けんりん)(=ケチの意味)の汚れを心に懐(いだ)きて住することなけむ、

假令かの最後の一摶・最後の一口たりとも有する者は則ち若し受く可きもの有らば均分せずして食すること無からん。

何となれば、比丘衆よ、我知るが如く衆生(しゅじょう)(=生き物たち)は斯く布施・均分の果報を知らざるが故に與(あた)へずして食し、慳悋(けんりん)(=ケチの意味)の汚れをその心に懐(いだ)きて住するなり」と。

此の義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ、

「均分の果報の如何に大果あるやを、

大仙の宣へるがごと斯く若し衆生らば、清き心もて吝嗇(りんしょく)ケチ)の汚れを拂(はら)ひ、大果の得らるる聖なる者に適時に施せよかし。

多くの人に飯(めし)與(あた)え、應施者に施をなして施主は此處より逝きて天上に至るなり。

かく天上に行ける者は欲を満し喜び吝嗇(りんしょく)を無み、均分の果報を受く。』とある。

さて、ビルマやミャンマー、タイ、スリランカなどの東南アジアの国々、南伝仏教を信仰する多くの在家の仏教信者たちは毎朝、托鉢に来た出家修行者の方々に食事を布施する長きにわたる伝統があるが、その布施の行為が功徳となり死後、天界に生まれ変わり、良き生涯を送ることが出来ると考えている在家の信者の方々が多い。

次に、仏教は大まかに説明すると、インドから中国、朝鮮、日本と伝わった北伝仏教とインドからスリランカ、ビルマ、タイ、ミャンマーなどの南側へと伝わった南伝仏教がある。

その南伝仏教国の方々が日々、信仰、所依の経典としているのが南伝大蔵経である。

日本において南伝大蔵経の存在が知られるようになったのは明治、大正時代、昭和などの時代、いわゆる近代、現代においてからで、南伝大蔵経のおおまかな内容は北伝仏教、つまり漢訳経典の阿含部と律部経典が内容としてほぼ重複している所が多いとされている。

その漢訳仏教の阿含部には長部阿含、中部阿含、雑阿含、増一阿含という4種類の阿含経典が存在するが、南伝仏教の経典には長部、中部、雑部、増一とは別に小部経典というお経が存在する。

書籍「南伝大蔵経 第二十三巻 小部経典Ⅰ 大蔵出版社」参照。

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弘法大師空海様が説く十善戒について

仏教には十善戒という戒律が存在する。

すなわち、

①不殺生戒(ふせっしょうかい)、

②不偸盗戒(ふちゅうとんかい)、

③不邪淫戒(ふじゃいんかい)、

④不妄語戒(ふもうごかい)、

⑤不両舌戒(ふりょうぜつかい)、

⑥不悪口戒(ふあっくかい)、

⑦不綺語戒(ふきごかい)、

⑧不貪欲戒(ふとんよくかい)、

⑨不瞋恚戒(ふしんにかい)、

⑩不邪見戒(ふじゃけんかい)

という十種類の戒律がある。

真言密教の開祖である弘法大師空海様は晩年の著作『秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』の中でこの十の戒律、すなわち十善戒について次のようにお説きになられている。

「次に十善を修することを明かす。

・・・・中略・・・・

殺と怨恨(おんごん)とを離れて利慈を生ずれば端正なり長命なり諸天護(まも)る。

盗まず知足にして衆生に施せば資材壊(え)せず天上に生ず。

邪淫を遠離(おんり)して染心(ぜんしん)なければ自妻に知足す

況(いわ)んや他女をや。

所有の妻妾侵奪(しんだつ)せず。

これ円寂の器として生死を出ず。

妄語せざれば常に実言なり。

一切みな信じて供(ぐ)すること王の如し。

両舌語を離れて離間なければ親疎堅固にして怨の破することなし。

もろもろの悪口を離れて柔軟の語なれば勝妙の色を得て人みな慰(やす)んず。

道義の語を思いて綺語(きご)を離るれば現身にすなわち諸人の敬を得’(う)。

他の財を貪せず心願わざれば

現には珠宝を得て後には天に生ず。

瞋(しん)を離れて慈(じ)を生ずれば一切に愛せらる。

輪王の七宝これによりて得(う)。

八邪見を離れて正道に住するは

これ菩薩の人なり煩悩を断ず。

かくの如くの十善の上中下は粟散(ぞくさん)と輪王と三乗との因なり。

「華厳経」にいわく、「十善業道は、人天の因及び有頂の因なり。」

すまわち、

「殺生と怨みとを離れて人々のために慈(いつく)しみを生ずれば端正にして長寿であり、神々に守護される。

盗まず、足るを知って人々に施せば物質・財産がなくならずに天上界に生まれる。

異性に対する邪(よこし)まな行為(邪淫)を離れて煩悩の心がなければ自分の妻に満足するから、ましてや他の婦人に対して煩悩の心が起ころうか

自分の妻妾をうばわれることがない。

これはさとり(円寂)の器(うつわ)にして迷い(生死)を出ることである。

嘘(うそ)をつかない者は常(つね)に真実(しんじつ)を語る。

すべての人々はみな信じてものを供(そな)えることは王のようである。

二枚舌を離れて人々を仲たがいさせることがなければ親しい人とも、疎(うと)い人とも関係が確かで、怨(うら)みによって破られることがない。

もろもろの悪口を離れてやさしい言葉で語れば勝れて妙なる姿かたちを得て人はみな安らかである

理にかなった言葉を心がけて、飾った言葉を離れるならばこの身にすなわちもろもろの人の尊敬を得る。

他人の財産を貪らず、心に願わなければ現世に宝珠を得て、後世に天に生まれる。

怒りを離れて慈(いつく)しみを生ずれば、すべての人々に愛され転輪聖王(てんりんじょうおう)の七宝をこれによって得る。

八つの邪まな見解(八邪見)を離れて正しい道にあるのはこれは菩薩の人、煩悩を断ったのである。

このような十善の上と中と下の部類は小国の王と転輪聖王と三乗(声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんがくじょう)・菩薩乗(ぼさつじょう)とのいずれかになるものである。」

華厳経にいう

「十善業道というのは、人間界と天界に生まれる原因であり、有頂天に生まれる原因となる。」

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