仏陀は、人が死んだ後、天界に生まれ、欲望を満たすことが出来る方法として、ケチな心を捨て、聖者や多くの人々に飯を施すことがその方法であるとお説きになられている。
『南伝大蔵経 小部経典(第二十三巻)(小部経典Ⅰ)』の中の『如是語経』
というお経に次のように説かれている。
『げにこれを世尊(せそん)(=仏の別名)は説き應供(おうぐ)(応供)(=仏の別名、供養に応(こた)えることが出来る存在を意味する)は説き給へりと我聞けり。
「比丘衆(仏教の出家修行者たち)よ、我知るが如く斯く若し衆生(しゅじょう=生き物たち)は布施・均分の果報を知らば與(あた)へずして食することなく且つかの慳悋(けんりん)(=ケチの意味)の汚れを心に懐(いだ)きて住することなけむ、
假令かの最後の一摶・最後の一口たりとも有する者は則ち若し受く可きもの有らば均分せずして食すること無からん。
何となれば、比丘衆よ、我知るが如く衆生(しゅじょう)(=生き物たち)は斯く布施・均分の果報を知らざるが故に與(あた)へずして食し、慳悋(けんりん)(=ケチの意味)の汚れをその心に懐(いだ)きて住するなり」と。
此の義を世尊は宣ひ此處に次のごとく説き給ふ、
「均分の果報の如何に大果あるやを、
大仙の宣へるがごと、斯く若し衆生知らば、清き心もて吝嗇(りんしょく)ケチ)の汚れを拂(はら)ひ、大果の得らるる聖なる者に適時に施せよかし。
多くの人に飯(めし)與(あた)え、應施者に施をなして施主は此處より逝きて天上に至るなり。
かく天上に行ける者は欲を満し喜び吝嗇(りんしょく)を無み、均分の果報を受く。』とある。
さて、ビルマやミャンマー、タイ、スリランカなどの東南アジアの国々、南伝仏教を信仰する多くの在家の仏教信者たちは毎朝、托鉢に来た出家修行者の方々に食事を布施する長きにわたる伝統があるが、その布施の行為が功徳となり死後、天界に生まれ変わり、良き生涯を送ることが出来ると考えている在家の信者の方々が多い。
次に、仏教は大まかに説明すると、インドから中国、朝鮮、日本と伝わった北伝仏教とインドからスリランカ、ビルマ、タイ、ミャンマーなどの南側へと伝わった南伝仏教がある。
その南伝仏教国の方々が日々、信仰、所依の経典としているのが南伝大蔵経である。
日本において南伝大蔵経の存在が知られるようになったのは明治、大正時代、昭和などの時代、いわゆる近代、現代においてからで、南伝大蔵経のおおまかな内容は北伝仏教、つまり漢訳経典の阿含部と律部経典が内容としてほぼ重複している所が多いとされている。
その漢訳仏教の阿含部には長部阿含、中部阿含、雑阿含、増一阿含という4種類の阿含経典が存在するが、南伝仏教の経典には長部、中部、雑部、増一とは別に小部経典というお経が存在する。
書籍「南伝大蔵経 第二十三巻 小部経典Ⅰ 大蔵出版社」参照。
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