世の中には、奪うこと、取ること、取り込む事ばかりを考え、人に与えるということは損することだ考え、人に与えるということを一切しないという人々が世間には多くいる。
今から約2500年程前のインドにおいて仏教の開祖お釈迦様が活躍されていた時代、お釈迦様の直弟子に目連尊者(もくれんそんじゃ)という方がおられた。
その目連尊者はお釈迦様の直弟子の中において神通力が最も優れていると認められていた方であった。
その目連尊者が修行により悟りを開くと直ちに故郷の母を想い起こし自身の天眼通(超人的な透視力、霊眼)により母の所在を探すと母はもう既に亡くなっており餓鬼界(がきかい)に堕ちて苦しんでいる事を知った。
餓鬼界とは食べものが無く、飢えに苦しみ境涯の事を言うが
目連尊者は餓鬼界において母の飢えに苦しむ姿を見て、非常に悲しみ、哀れに思い、自分自身の神通力により母の傍らに赴き、手づから食物を捧げると母はうれし涙にくれ直ちに食物を口に入れようとするも過去の悪業報の報いにより食物はそのまま火炎となって燃え上がり食べる事が出来なかった。
母は悲泣し目連尊者もどうすることも出来ず赤子のようにただ泣くのみであった。
その後、目連尊者はお釈迦様の所に趣き母の苦しみを救って欲しいと願い出た。
するとお釈迦様は次のように説かれた。
「目連の母は生前の悪業が深いので目連の力だけではどうする事も出来ない。
このうえは十方(多数)の衆僧(修行僧)の威徳に頼る他は無い。
七月十五日は僧懺悔の日、仏歓喜の日であるから、その日に飲食を調えて十方の衆僧を供養するがよい。
そうすればその功徳により母の餓鬼道の苦しみも消えるであろう。」
と説かれたので目連尊者はお釈迦様の教えの通りに行うと母の餓鬼道の苦しみを救う事が出来た」と伝えられている。
詳しくは盂蘭盆経(うらぼんきょう)というお経に説かれている。
「国訳一切経 経集部 大東出版社」参照。
この話から分かることは、目連の大神通力をもってしても母の餓鬼界の苦しみを取り除くことは出来なかったが、修行僧に対する布施の功徳力、また、その功徳を母に廻向することにより目連の母が救われたということを考えるといかに布施の力が広大で偉大なものであるかが分かる。
また、この話で分かることは、神通力、超能力は万能ではなく、ある種の限界があるとも言える。
布施にはいくつもの種類があり、仏に対する布施、病人に対する布施、貧困者に対する布施、父母に対する布施、畜生に対する布施などが仏典に説かれている。