浄土真宗の開祖 親鸞上人(しんらんしょうにん)の悪人正機説という考えがある。
仏教に関してあまり興味や知識がない方々にとっては、親鸞上人の悪人正機説とは、字面(じづら)だけで見ると「悪人は正しい」という、悪人を正当化する説であると、そのように解釈する方が世間には一定数いると思う。
いや、多くの人々が「悪いことは正しい事。」と説いたのが悪人正機説と解釈する人が多くいると思われる。
本来、仏教の教え、お釈迦様の教えは
諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
つまり、
もろもろの悪を作すこと莫く
もろもろの善を行い
自ら其の意(こころ)を浄くす
是がもろもろの仏の教えなり
つまり、悪いことはしてはいけない。よいことをしなさい。」という教え。
つまり、「諸悪莫作(しょなくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」が本来の仏の教えの根本である。
また、本来の仏の教えは、善因善果、悪因悪果、良いことをすればよい報いを受ける。悪いことをすれば悪い報いを受ける。という教えが一貫して説かれているのだが、この親鸞上人の悪人正機説はお釈迦様の本来の教えと真逆の事を説いているとしか思われない。
しかし、一部の浄土真宗の僧侶や学者の方々は、「親鸞上人の悪人正機説はそんなうわべだけの解釈ではなく、もっと深い深遠な意味があるのだ!
世の中には悪いことと知ってても悪いことをせざるを得ないかわいそうな状況の悪人は自分が悪い人間であると自覚し、自己反省の心が強い分、懺悔反省の心が強い分、その分、善人ぶった偽善者よりも仏教的に正しい機根をもっているのだ!」と主張されるかもしれない。
たしかに、ソクラテスの無知の知という言葉があるが、すなわち、無知を自覚している人は無知を自覚しない人よりも賢明であるという意味であるが、親鸞上人も悪人正機という本来の意味は、自分が罪深い悪人であると自覚する人は自分が罪深い悪人であると自覚しない人よりも仏教的に見ると正しい機根をもっているという事を意味していると私は考える。
しかし、世間一般の一定数の方々、特に思慮分別に乏しい子供たちにとって、また、あまり物事を深く考えない人々にとって、この悪人正機説は悪人正機という字面だけでその内容を解釈し、仏教の偉いお坊さんの親鸞上人は悪人が正しい機根を持っていると説いている。また、仏教は、悪人は正しいと考えていると解釈する人々が世の中に一定数、存在すると思われる。
仏典の中には、誤った教えを多くの人々に流布、布教するとことはその誤った教えを弘めた罪により地獄に堕ちるという内容の仏典が阿含部経典に存在するが、悪人正機説を宣布することは地獄に堕ちる業、カルマを積む恐れがあるのではないのではないか?と思えてならない。
お釈迦様の言行録として名高い、パーリ小部経典「スッタ・ニパータ」や「ダンマ・パダ」を読むと、悪いことをすると悪いところに生まれ変り、良いことをすると良いところに生まれ変わると一貫して説かれており、その教えの内容にはぶれがなく、一貫性のある教えが説かれていると強く感じる。
やはり、親鸞上人の悪人正機説は、仏教本来の教えと真っ向から相反する内容で、世間の人々に対して仏教に対する誤解と混乱を招き、あまりこの説を世間に流布することはかえって地獄に堕ちる諸業を積むことになるのではないのではないか?と思えてならない。
多くの人々に対し、また、世間一般大衆に対し教えを説くときは、現在、自分自身が説いているこの教えが本当に仏の御心にかなった正説であるのかを、よくよく内容を吟味検証し、万遺漏無きを期す心構えでもって教えを説かないと、その説法する事自体が自身の悪い業、悪いカルマを積んでしまう恐れがあると思われる。
教えを説く際は、万遺漏なきを期さないといけない、と自戒を込めて強くそう思う次第である。