浄土真宗の開祖 親鸞上人の悪人正機説による道徳観念の破壊の危険性について考える

浄土真宗の開祖 親鸞上人(しんらんしょうにん)の悪人正機説という説がある。

仏教にあまり興味や関心がなく、また、仏教に関する知識があまりない方々にとって、親鸞上人の悪人正機説は、字面(じづら)だけを見ると「悪人は正しい」という、悪人を正当化する説である。そのように解釈する方々が世の中に一定数存在すると思われる。

しかし、本来の仏教の教え、お釈迦様の教えとは

「諸悪莫作(しょあくまくさ)

衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)

自浄其意(じじょうごい)

是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」

つまり、

「もろもろの悪を作すこと莫(な)く

もろもろの善を行い

自ら其の意(こころ)を浄くす

是がもろもろの仏の教えなり。」

つまり、

「悪いことはしてはいけない。

善いことをしなさい。」

という教えが本来の仏教の教えであると伝えられている。

いわゆる

「諸悪莫作(しょなくまくさ)、

衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」

の教えが本来の仏の教えの根本であると考えられる。

仏典「ウダーナヴァルガ」に次のように説かれている。

「すべて悪しきことをなさず、

善いことを行ない、

自己の心を浄めること、

これが仏の教えである。」

(書籍「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」252頁参照。)

さらにまた、本来の仏の教えは、

「善因善果、悪因悪果。」

つまり、「善いことをすれば善い果報を受ける。

悪いことをすれば悪い果報を受ける。」と説いている。

釈迦の言行録として世界的に有名な仏典「ダンマ・パダ」においてブッダは次のようにお説きになられている。

「悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する。)

その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら愚者につきまとう。」

(書籍「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」20頁参照。)

「まだ悪の報(むく)いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭(あ)うことがある。

しかし、悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。

まだ、善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。

しかし、善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遭う。」

(書籍「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」27頁参照。)

つまり、善因善果、悪因悪果の教えが一貫して説かれているのだが、この親鸞上人の悪人正機説は、仏教本来の教え、お釈迦様の本来の教えと真逆の事を説いているとしか思われない。と私は考える。

ところが、一部の浄土真宗の僧侶や学者の方々は、

「親鸞上人の悪人正機説はそんなうわべだけの解釈ではなく、もっと深い深遠な意味があるのだ。」

「世の中には悪いことと知ってても悪いことをしなければ生活出来ない気の毒な状況の悪人がおり、また、自分自身が悪い人間であると自覚し、自己反省の心が強い分、懺悔反省の心が強い分、善人ぶった偽善者より仏教的には正しい機根をもっているのだ!」

と主張されるかもしれない。

また、

「阿弥陀如来様は慈悲深いので、阿弥陀様から見ると、悪人こそ哀れで可哀想な存在だとお思いになり、阿弥陀様の慈悲にて悪人は救われるのだ!」

また、

「阿弥陀様を信仰すればどんな悪人でも救われるのだ!いや、悪人こそが救われるのだ!」

と主張する人もいるかもしれない。

例えば、ソクラテスの無知の知という言葉がある。

すなわち、無知を自覚している人は無知を自覚しない人よりも賢明であるという意味であるが、それとよく似た考えで、親鸞上人の悪人正機という本来の意味は、自分自身が罪深い悪人であると自覚する悪人は自分自身が本来、罪深い悪人であると悪を自覚しない人よりも正しい機根をもっている事を親鸞聖人は主張したいのではないかと私は考える。

しかし、世間一般の一定数の方々、特に思慮分別の心に乏しいと思われる青少年や子供たち、また、あまり物事を深く考えない人々にとって、この悪人正機説は悪人正機という字面だけでその意味、内容を理解、解釈する可能性があると思われる。

例えば、仏教の偉い有名なお坊さんである親鸞上人は悪人は正しいという説を説いている。と解釈する人たちが世の中に一定数いると思われる。

つまり、悪人正機説という文言を知った一部の人々は、仏教の教えというのは本来、悪人を正しいと考えている。と解釈する可能性があると思われる。

いや、それどころが悪人を正しいと解釈し、悪事を正当化し、それどころか悪事を推奨してしまう危険性があるのではないだろうか?

ところで、仏典には、誤った教えを創出する行為はその誤った教えを創出した罪により地獄に堕ちると説いている経典が阿含部経典の中の『仏為首迦長者説業報差別経』に存在するが、悪人正機説を創出、また、流布、布教する行為は地獄に堕ちる業、悪いカルマを積んでいる事になるのではないのか?と私自身、思えてならない。

お釈迦様の言行録として名高い、パーリ小部経典スッタ・ニパータ」や「ダンマ・パダ」「ウダーナヴァルガ」を読むと、悪いことをすると死後に悪いところに生まれ変り、良いことをすると死後に良いところに生まれ変わると一貫して説かれており、その教えの内容にはぶれがなく、一貫性のある教えが説かれていると強く感じる。

やはり、親鸞上人の悪人正機説は、仏教本来の教えと真っ向から相反する内容で、世間の人々に対し仏教に対する誤解と偏見、混乱を招き、あまりこの説を広く世間に流布することはかえって地獄に堕ちる業、カルマを積むことになるのではないだろうか?と思えてならない。

多くの人々に対し、また、世間一般大衆に対し教えを説くときは、現在、自分自身が説いているこの教えが本当に仏の御心にかなった正説であるのかを、よくよく内容を吟味検証し、万遺漏無きを期して教えを説かないと、説法する事自体が自身の悪い業、悪いカルマを積んでしまう恐れがあると思われる。

仏典「ダンマパダ」においてブッダは次のような教えをお説きになられている。

「茅草(かやぐさ)でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行者の行(ぎょう)も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。」

(書籍「ブッダの真理のことば 感興のことば 中村元著 岩波文庫」53頁参照。)

教えを説く際は、万遺漏なきを期さないといけない、と自分自身、自戒を込めて強くそう思う次第である。