浄土真宗の開祖の親鸞聖人が説く悪人正機説は仏説と相矛盾する危険な邪説であると私は考える。

浄土真宗の親鸞聖人の悪人正機説は仏説と相矛盾する外道の説であると私は考える。

特に、仏教や倫理、道徳教育をほとんど受けていない子供たち、青少年たち、一般的に、大人に比べると思慮分別が乏しいと考えられる子供たち、青少年たち、この言葉をそのまま文字通りに、彼ら、彼女たちに教えると、彼ら、彼女たちの多くは「仏教では悪人は正しいと説いている。」と解釈し、仏教に対し誤った解釈、いわゆる誤解や混乱を招く恐れが多いにある。

悪人正機説は危険な言葉、危険な文言であると思う。

凶悪犯罪の原因になりかねない言葉であるように思われてならない。

完全に間違っている説であると私は考える。

そもそも、仏教の根本的な教え、ブッダ、真理に目覚めた等正覚者達の最も重要な教えと、根本的な教えは

「良いことをしなさい。悪いことはしてはいけない。

という倫理、道徳の実践の教えであるといえる。

漢訳仏典においても

 諸悪莫作(しょあくまくさ)
 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
 自浄其意(じじょうごい)
 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」 という

七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)という有名な言葉がある。

七仏とは過去7人の偉大なブッダがいたとされている。

すなわち、

毘婆尸仏、 尸棄仏、毘舎浮仏、倶留孫仏、倶那含牟尼仏、 迦葉仏、釈迦牟尼仏

お釈迦様はその中の一人である。

その方々の共通する教えが先に述べた通り

 諸悪莫作(しょあくまくさ)
 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
 自浄其意(じじょうごい)
 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

という七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)なのである。

またパーリ仏典の法句経(ダンマパダ)においてブッダは次のように説かれている。

「一切の悪をなすことなく、善を具備実践し、自分の心を浄化すること、これが諸仏の教えである」

諸仏とは真理に目覚め、ブッダとしての悟りをお開きになられた覚者達の事。

確かに、中には

「親鸞聖人の悪人正機説はそのような悪人が正しいという意味で説いたのではない!」

「悪人にも正しい所はあるという意味だ!」

「もっと教学を勉強しろ!」

「もっと深い意味を読み取れ!」

と立腹、お叱りを受けるかもしれない。

しかし、明らかに、この言葉そのものは普通に解釈すれば「悪人は正しい。」と解釈してしまう危険性を秘めた言葉であると考えざるを得ない。

さらに、大人に比べると思慮分別が乏しいと考えられる子供たち、青少年たち、この言葉をそのまま文字通り、彼ら、彼女たちに教えると、彼ら、彼女たちは「悪人こそ正しい。」と解釈して仏教に対し誤解や混乱を招きかねない。

そもそも、浄土真宗の親鸞聖人の悪人正機説という言葉自体、釈迦牟尼世尊、ゴータマブッダ、過去に現れた多くのブッダ達の言葉の内容と相矛盾する外道の説、邪道の説であると考えざるを得ない。

確かに、親鸞聖人は仏教を一部の特権階級のものから一般大衆のものにしたという偉大な功績がある、つまり、仏教の教えを民衆が使う言葉で初めて布教しだしのは日本では鎌倉時代、日蓮上人や法然上人、親鸞聖人だとされている。

また、親鸞聖人の宗教的な情熱は素晴らしいものであり、尊敬に値するものと思う。

しかし、仏教徒は仏祖への報恩謝徳の為、一般民衆の幸福の為、誤りのない、誤解のない、わかりやすい、正しい仏教、正しい仏法を社会に広めなければならない。と思う。

それが義務であると思う。

確かに私自身、不勉強の部分はあるかもしれないが、私のその意見について是正、叱正して下さる方がいれば幸いです。

最後に、書籍「バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)」の中で次のように書かれている。

「現在のアーガマ(阿含経)をそのまま釈尊の教えに直結することはあまりにも短絡化しすぎており、今日の仏教学からすれば、むしろ誤りとみなされる。

 ただし釈尊の教えと佛弟子たちの言行録などは、そして、最初期、ないし、初期の仏教の資料はアーガマ(阿含経)にしか存在していないのであり、大乗経典(これを日本人は釈尊の教えそのものと誤解し受容してきた。)には求むべくもないことが明白である以上、何よりもまずアーガマ(阿含経)の解明に専念する仏教文献学が必要不可欠の前提とされる。

そして、それは近代学問として、すでに100年以上の年月を刻んで今日もなお継続している。」

さらに、

「現在の日本には、約7万5000余と言われる仏教寺院で読誦されるお経は、開祖の釈尊の阿含経典は全く顧みられず、開祖である釈尊とは異なる別の仏による大乗のお経の一説であり、そればかりか、その大部分は宗祖に準ずる特記すべき高僧の文がお経として敬われ、読誦され続けている。

例えば、日本最大の宗派の浄土真宗の場合、大乗経典の浄土三部経、いわゆる無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の一部のほか、宗祖である親鸞の主著、教行信証、行巻の末尾にある正信偈、もしくは、真宗中興の祖とされる蓮如の御文がその宗のお経であり、曹洞宗では大乗経典の般若心経や法華経の一部のほか、宗祖の道元の主著の正法眼蔵から、本来は明治時代に在家信者向きにダイジェスト化したテキストの修証義がお経として読誦されていて、それにより日々の勤行から諸種の行事、仏事、法事までの全てが進行する。

他の宗派においてもほぼこれに準ずる。

親鸞、蓮如、道元、その他の諸宗祖などは、いずれも、ひときわ偉大な高僧であり、かつ学僧であるとはいえ、彼らは特定の論師であって仏ではない以上、厳密に言えば、これらの人々の著述は経に属するのではなくて、論のカテゴリーに入る。

 それでも日本では、それらがお経とされていて、何人も疑わず、異議を挟むものもいない。


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