日本仏教は葬式仏教で堕落している。という批判についての考察

日本の仏教は葬式仏教で堕落している。

本来の仏教とは違う。

という批判をする人がいるが、これについて参考するべき見解として、仏教の経典に「梵網経(ぼんもうきょう)」というお経があり、そのお経の中に不救存亡戒(ふぐそんぼうかい)という戒律があります。

仏教信者は慈悲の心を持って全ての生者、死者に対して慈悲の行為を行わなければならない事が説かれ、特に父母兄弟等の家門の親しい先亡精霊に対し、冥界における幸福を助けるための宗教行為に勤めるべきことを勧めています。

追善供養とは亡者のために追って善事を修して福を薦め、その冥福を祈る事です。

人の死後四十九日の間、亡者の霊は中有に迷って果報、転生先が定まらないので遺族、僧侶が善根を追修、回向してその功徳を亡者に捧げ、三途の苦報を免がれさせようとするため追善供養を行います。

ただし、極善の者は四十九日間を待たずに直ぐに仏界、天上界に直行し、極悪の者は直ぐに地獄界へ直行するとされています。

追善供養は人の死後、七日ごとに初七日忌、二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌、六七日忌、七七日忌つまり四十九日忌を行います。

また、百日目の百カ日忌、一年目に一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などに法要を営み、その功徳を亡者に回向します。

仏教には死者に対しての追福追善の報恩行、冥福を祈る宗教行事があります。

参考文献

「葬式仏教 圭室諦成著 大法輪閣刊」


ブッダ釈尊が説く孝養。

昔の日本の一部の地域であった姥捨て山(うばすてやま)のような、老齢になって役に立たなくなった老人を遺棄する。という現象は昔から汎世界的に見られるが、仏教はその風潮に対し、強く反対し、父母をいたわることを説いている。

ブッダ釈尊は次のように説かれている。

「世に母を敬うことは楽し。また父を敬うことは楽し。」

「母あるいは父を法によりて養う人あらば父母に仕えるそのことを以って、この世にてはもろもろの賢者がかれを賞賛す。

また死後(その功徳により)、かれは天界にて楽しむ。」

「母と父とは梵天ともいわれ先師ともいわれる。

子らの供養すべきものにして、また子孫を愛する者なり。

されば実に賢者は飲食と衣服と床と塗身と沐浴と洗足とを以って父母に敬礼し尊敬せよ。」

「されば正しき善人は、恩を感じて恩を知り、昔の恩を思い起こして母と父を扶養す。

昔、恩を受けたるが如くにかれら(父母)に対して義務を果たす。

教えを護り、扶養して、家系を断たず、信仰あり、戒を保つ子は賞賛せらるべきなり。」

「われらは両親に養われたならば、かれらを養うべし。

かれらの為に為すべきことを為すべし。

家系を存続すべし。

財産相続を為すべし。

また祖霊に対して適当なる時々に供物を捧ぐべし。」

パーリ仏典や漢訳仏典 雑阿含経においてブッダ釈尊はこうも説かれている。

1、母と父を養う人、父母を供養する。

2、家においては年長者を敬う人。家の尊重に供養する。

3、やさしい心の通う会話をなす人。柔和で優しい謙遜の言葉、態度をする。

4、そしる言葉を捨てた人。荒々しい言葉を離れる。

5、もの惜しみを除くのに努めている人。ケチな心をやめる。

6、真実なる人(真実の言葉を言う 嘘はつかない)。

7、怒りに打ち勝った人(怒りが起きても怒り心をすぐに取り除く人。

こういう立派な人々は来世(死後)に三十三天に生まれる事が出来る。と。

つぎに、仏教経典 パーリ相応部経典(サンユッタ・二カーヤ)のお経において父母を養っているバラモンが尊師(仏陀釈尊)に次のように質問をした。

「ゴータマ(仏陀釈尊)さま。

わたくしは、きまりにしたがって食を求めます。

きまりにしたがって托鉢(たくはつ)して食を求めて、両親を養っています。

わたくしは、このようにしていますが、なすべきつとめを果たしているのでしょうか。」

尊師(仏陀釈尊)は次のように言った。

「バラモンよ。たしかに、そなたは、このようにして、なすべきつとめを果たしているのです。

きまりにしたがって食を求め きまりにしたがって食を求めて両親を養っている人は、多くの功徳を生じます。

母または父を、ことわりにしたがって養う人は、両親に対するその奉仕によって、この世では。賢者がかれを称賛し、死後には天にあって楽しむ。」

その言葉を聞きバラモンは次のように言った。

「すばらしいことです。

ゴータマさま。

すばらしいことです。

ゴータマさま。

ゴータマさま、私を在俗(在家)信者として受け入れて下さい。

今日以後、命ある限り貴方様に帰依致します。」

参考文献

「宗教における思索と実践 中村元著 サンガ文庫」
「地獄の話 山辺習学著 講談社学術文庫」
「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・二カーヤ2 中村元著 岩波文庫」




仏教やジャイナ教が説く「不殺生戒」について

ことわざに「一寸の虫にも五分(ごぶ)の魂(たましい)」という言葉があるが、仏教の戒律に不殺生戒という戒律がある。

つまり、生き物を殺してはいけないという戒律がある。

仏典「スッタニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

 

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。

いかなる生き物、生類(しょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」

「あたかも、母が己(おの)が独り子を命を賭けても護(まも)るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈(いつく)しみの心を起こすべし。

また、全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。

上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。

立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりたもて。

この世では、この状態を崇高(すうこう)な境地と呼ぶ。」

    

漢訳仏典の本生経(ほんじょうきょう)、パーリ語仏典でジャータカというお経の内容は釈尊や釈尊の弟子、菩薩などの前世物語を集めたお経である。

そのお経で次のように説かれている。

「私(釈尊)の喜ぶ事がしたいならば永久に狩り(狩猟)をやめてくれ。

森の憐(あわ)れな獣類(けもの、動物達)は智慧が鈍(にぶ)いのだから、ただこれだけの理由でも彼らを憐(あわ)れむ価値があるではないか」

釈尊はこうした心持ちから、広く人畜を殺さないようにせよと説かれたので、この平和の福音を仏教徒の掟(おきて)、戒律の最初に置かれたのはいかにも意味の深いことと思われる。

また、仏教経典「阿含経 長部経典」の「迦葉獅子吼経」の中で仏陀釈尊は苦行者の迦葉に向かってこう説かれた。

「外面的な規定を守ることによってではなく、倫理的行為と霊的自制と智とを完成させることにより、さらに内面的な憎しみとあらゆる敵意を克服し慈愛深い心をもつ者のみが解脱に到達する見込みがある。」

と説かれている。

次に、不殺生戒を具現化した行事に、放生会(ほうじょうえ)という行事がある。

殺される運命にある生き物を助け逃がしてやる行事をいう。

殺生を戒める宗教儀式で仏教の不殺生戒(生き物を殺してはいけないとういう戒律)から神仏習合により神道にも取り入れられた。

例えば殺される運命にある捕えられた鳥を大空に逃がしてやったり、又捕えられた魚や亀などを海や川や池に逃がしてやる行事。

各神社、各お寺でも実施している所がある。

京都府の石清水八幡宮

奈良県生駒郡 斑鳩町にある吉田(きちでん)寺、

大分県宇佐市にある宇佐神宮,

福岡県福岡市東区箱崎にある筥崎宮

筥崎宮では「ほうじょうや」とよぶ)

全国の八幡宮(八幡神社)でも行われている。

仏教とほぼ同時期に成立したジャイナ教の教えも仏教と同様、不殺生戒を重視する。

その教えの特長は人間だけではなく動物や植物に対する不殺生戒を仏教以上に徹底的に重視する点にある。

ジャイナ教の教えにこうある。

「わたしは説く。

いかなる生物も傷つけてはならない。

これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。

全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。

虐待してはならぬ。

害してはならぬ。

苦しめてはならぬ。

悩ましてはならぬ。

これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。

一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

      

ジャイナ教の第2代祖師 ゴーマテーシュバラ像。

「ブッダのことば 中村元著 岩波文庫」
「仏教 ベック著 岩波文庫」
「ジャータカ全集1 藤田宏達著 中村元著 春秋社」
「思想の自由とジャイナ教 中村元著 春秋社」
「放生(仏教行事歳時記 瀬戸内寂静著 藤井正雄著 第一法規」