仏教やジャイナ教が説く「不殺生戒」について

ことわざに「一寸の虫にも五分(ごぶ)の魂(たましい)」という言葉があるが、仏教の戒律に不殺生戒という戒律がある。

つまり、生き物を殺してはいけないという戒律がある。

仏典「スッタニパータ」において仏陀は次のようにお説きになられている。

 

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。

いかなる生き物、生類(しょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」

「あたかも、母が己(おの)が独り子を命を賭けても護(まも)るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈(いつく)しみの心を起こすべし。

また、全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。

上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。

立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりたもて。

この世では、この状態を崇高(すうこう)な境地と呼ぶ。」

    

漢訳仏典の本生経(ほんじょうきょう)、パーリ語仏典でジャータカというお経の内容は釈尊や釈尊の弟子、菩薩などの前世物語を集めたお経である。

そのお経で次のように説かれている。

「私(釈尊)の喜ぶ事がしたいならば永久に狩り(狩猟)をやめてくれ。

森の憐(あわ)れな獣類(けもの、動物達)は智慧が鈍(にぶ)いのだから、ただこれだけの理由でも彼らを憐(あわ)れむ価値があるではないか」

釈尊はこうした心持ちから、広く人畜を殺さないようにせよと説かれたので、この平和の福音を仏教徒の掟(おきて)、戒律の最初に置かれたのはいかにも意味の深いことと思われる。

また、仏教経典「阿含経 長部経典」の「迦葉獅子吼経」の中で仏陀釈尊は苦行者の迦葉に向かってこう説かれた。

「外面的な規定を守ることによってではなく、倫理的行為と霊的自制と智とを完成させることにより、さらに内面的な憎しみとあらゆる敵意を克服し慈愛深い心をもつ者のみが解脱に到達する見込みがある。」

と説かれている。

次に、不殺生戒を具現化した行事に、放生会(ほうじょうえ)という行事がある。

殺される運命にある生き物を助け逃がしてやる行事をいう。

殺生を戒める宗教儀式で仏教の不殺生戒(生き物を殺してはいけないとういう戒律)から神仏習合により神道にも取り入れられた。

例えば殺される運命にある捕えられた鳥を大空に逃がしてやったり、又捕えられた魚や亀などを海や川や池に逃がしてやる行事。

各神社、各お寺でも実施している所がある。

京都府の石清水八幡宮

奈良県生駒郡 斑鳩町にある吉田(きちでん)寺、

大分県宇佐市にある宇佐神宮,

福岡県福岡市東区箱崎にある筥崎宮

筥崎宮では「ほうじょうや」とよぶ)

全国の八幡宮(八幡神社)でも行われている。

仏教とほぼ同時期に成立したジャイナ教の教えも仏教と同様、不殺生戒を重視する。

その教えの特長は人間だけではなく動物や植物に対する不殺生戒を仏教以上に徹底的に重視する点にある。

ジャイナ教の教えにこうある。

「わたしは説く。

いかなる生物も傷つけてはならない。

これは霊的な生活を送るうえでの永遠の絶えざる不変の道である。」

「過去、現在、未来の敬われるべき聖者、尊師らはすべてこのように説き、このように語り、このように告げ、このように示す。

全ての生き物、全ての有情、すべての生命あるもの、すべての生存者を殺してはならぬ。

虐待してはならぬ。

害してはならぬ。

苦しめてはならぬ。

悩ましてはならぬ。

これは清浄にして永遠、常恒なる理法である。」

「一切の生き物は、(自己の)生命を愛し、快楽に浸り、(自己の)苦痛を憎み、(自己の)破滅を嫌い、(自己の)生きることを愛し、(自己が)生きようと欲する。

一切の生き物は、(自己の)命が愛しいのである。」

      

ジャイナ教の第2代祖師 ゴーマテーシュバラ像。

「ブッダのことば 中村元著 岩波文庫」
「仏教 ベック著 岩波文庫」
「ジャータカ全集1 藤田宏達著 中村元著 春秋社」
「思想の自由とジャイナ教 中村元著 春秋社」
「放生(仏教行事歳時記 瀬戸内寂静著 藤井正雄著 第一法規」





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