草木に霊魂の存在を認め、草木を切ったり刈ったりして、草木を殺生する事を禁じていた初期仏教やジャイナ教の教え、草木を燃やす護摩はお釈迦様の教えに反するのではないか?という疑問について

初期仏教、ジャイナ教の教えに草木に魂、精神の存在を認め、草木を切ったり、刈ったり、燃やしたりして草木を傷つけることを禁じていた。

それに関する論文が、今は亡き、元大谷大学教授の白土わか先生(1919年~2015年 享年96歳)の論文「草木成仏説について その形成と展開 白土わか」(書籍「佛教學セミナー第69号 1999年5月 大谷大学仏教學會」の中で解説されている。

白土わか先生は初期仏教やジャイナ教の教えが、草木についてどのように考えていたかを次のように説かれている。

「ジャイナ教にあっては、草木に生命・霊魂を認め、それは知・見・苦・楽等の精神作用を有するものと見ていたといわれている。

一方、仏教内の事情はどのようなものであったかのであろうか。

それを戒律の条項に照らしてみると、「四分僧戒本」波逸提十一に、

「若比丘壊鬼神村者波逸提」とあり、「壊生種戒」といわれるものがある。

それは「四分律」巻十二によれば、村とは一切草木をさし、鬼神の依る所という。

そして草木に五種ありとし、その生種を断つことを戒めている。

それが「五分戒本」には、「若比丘殺衆草木波逸提」とあり、草木を殺生することの罪となる。

「十誦比丘波羅提木叉戒本」にも同文で出されている。

「摩訶僧祇律」巻十四にも、手づから草木の命を殺生することを禁じている。

パーリ「経分別」波逸提十一にも、樹を伐り伐らしめることを禁じ、それは生命を傷つけるものであると戒めている。

以上の例を見るとき、初期仏教に於いては、草木は生命であり、精神を持つものと見ていた形跡が認められる。

しかし、それが、大乗仏教に受け継がれていった思想か否かは疑問である。

次に樹木に宿る樹神の場合を見てみよう。

樹神は仏教以前から、豊穣の神として崇められてきた。

「法句譬喩経」巻二「刀杖品」樹神説話は日本では「今昔物語」巻二「天竺神、為鳩留降長者降甘露語」や「註好選」中「樹神手下百味」の原拠となっているが、それによると舎衛国の男子が、世尊に飯食を捧げ聴法した功徳によって、忽ち大樹の樹神として生れ替わり、修行者たちの為に百味の飯食を流溢せしめて与えたという説話である。

そして、この樹神は八齋戒を果たしていたなら、天上界に生まれることができたであろう、ということになっている。

ジャータカには、樹神が釈尊の菩薩たりし時の姿として現れてくる例がしばしば見られる。

ここでは樹神が仏となるのである。

しかし、樹神は樹木に宿り司る神であり、その樹木も何種類かの特定の木に限られていて、樹木そのものが仏になるという発想に結びつかない。

ちなみに北伝の説話には、樹神が仏の前世であるという例は見当たらないようである。」

また、書籍「南伝大蔵経6 長部経典1 高楠順次郎 監修 大蔵出版」の中に仏教の戒律に樹木などの植物を伐採することを禁じている事が説かれている。

「南伝大蔵経6 長部経典1 高楠順次郎 監修  大蔵出版」

「南伝大蔵経6 長部経典1 高楠順次郎 監修  大蔵出版」

このように初期仏教、ジャイナ教において草木を刈ったり傷つけたりするのを禁止していたことが分かる。

また、書籍「植物は知性を持っている 20の感覚で思考する生命システム ステファノ・マンクーゾ アレッサンドラ・ヴィオラ マイケル・ポーランド序文 久保耕司訳  NHK出版」参照。」の中で、植物が生きとし生けるものであることを論証し、次のように記載されている。

「ユダヤ教では、理由もなく木を切る事が禁止され「樹木の新年」すなわち、春の到来を祝い、樹木に感謝を捧げるユダヤ教の祭日が祝われている。

また、ネイティブアメリカンや世界各地の様々な先住民のように植物を神聖なものとみなしている人々もいる。

さらにまた、植物の世界は、ただ、表面的に観察しただけでは、複雑さのかけらもない。まったく単純な世界にみえるかもしれない。

いっぽうで、こうも考えられる。実は植物は感覚を備えた生物で、コミュニケーション能力があり、社会的な生活を送っており、優れた戦略を用いて難題を解決することが出来る。と。

一言でいえば、植物は知性を持っているということだ。そうした考えは、何世紀もの間、さまざまな時代や文化のなかで、ときどきちらりと顔を出してきた。

植物は、一般的に考えられているよりも、ずっと優れた能力をもっていると確信していた哲学者や科学者もいる。

有名な名前をあげると、プラトン、デモクリトス、リンネ、ダーウィン、フェヒナー(グスタス・テオドール・フェヒナー。19世紀のドイツの物理学者、哲学者)、ポーズ(ジャガディッシュ・チャンドラ・ポーズ。19世紀~20世紀のインドの植物生理学者、科学者)などである。

20世紀半ばまで、植物の知性というテーマに取り組んできたのは、天才ともいうべき直感をもった者だけだった。

特に「種の起源」を著したチャールズ・ダーウィンは自身の著作「植物の運動力」という大著を著し、植物は生物であり、生き物であるとしか思えないような、様々な実験結果を紹介し、植物は生き物であると結論づけている。

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そして、この50年の間に多くの発見があった。

そして、今日、ようやく、この問題に光があてられるようになり、今や植物の世界を新たな目でみる必要が出てきた。

植物が知性があることを否定する根拠は、科学的なデータなどではなく、実は、数千年前から人類の文化に巣食っている先入観や思い込みにすぎないことを明らかにする。

この状況は現代でも変わっていない。しかし、いまこそ私たちの考え方を思い切って変えるチャンスだ。植物は予測し、選択し、学習し、記憶する能力をもった生物だということが、この数十年に蓄積された実験結果のおかげで、ようやく認められ始めている。

たとえば、スイスは、数年前に冷静な議論を重ねた結果、植物の権利を認める世界初の国になった。(2008年にスイス連邦倫理委員会は、植物に一定の尊厳を認める指針を出した。)

スイスの生命倫理委員会は倫理学者、分子生物学者、ナチュラリスト、生態学者を含め、満場一致して合意した。「植物を好き勝手に扱ってはならないとし、植物を無差別に殺すことは倫理的に正当化出来ない。」と。」

さて、次に、ヨーガの大家であられた今は亡き本山博先生は自身の著書「啓示された人類のゆくえⅡ 本山博著 宗教真理出版」の中において、木に魂が宿っているので木を切ってはいけないと、次のようなお話を紹介されている。

「木や石に魂があるという話をすると、(本山博先生に相談して来た)Pさんという方がインドの厚生大臣の下で働いていた。

(Pさんは)わりあいインド政府ではお上の方の人で、大きなマンションに住んでいた。
土地の広さは1 千坪 ぐらいあって、このお宮全体くらいの大きな館が建っているが、それを拡張したいと思った。

場所はボンベイで、英国のエリザベス女王が港に着いたときを記念してクイーンロードというのか、女王の首飾りと称えられている美しい通りが海に面してあるその通りの、海に面した側にそのマンションがある。

その持ち主の P さんが(本山博先生に)、いろんな国政の問題とか、家庭の問題とかを伺いに見えた時、(本山博先生がPさんを)じっと顔を見ていると、大きな木の精が出てきたのです。

木の精というのは、人間の格好をしているが、人間とは違うのです。

先日、伊豆高原の「池」というところで、山の斜面にある神社にお参りした際、そこの神様は出てこられたけども、山の神様も、人間とは違うのです。
人間の格好をして見えているけれどもね。

固い、冷たい感じで、男のような姿をしていられた。

インドの木の精の場合は女のような感じでしたね。

それで、インドの木の精は「切らないでほしいと Pさんに伝えてください」と言って泣いて出てきた。

不思議に思って、「今、木の精が出てきて、切らないでほしいと訴えているが、あなたの住まいの門の脇に、菩提樹の大きな木がありますか?」と聞いたら、その通りの木があって、マンションを拡げたいので切ろうと思っている、とのことでした。

それで、「その木が出てきて、泣いて、切らないでくれと言っていますよ。」と言ったらすぐ自宅に電報を打って切らないことにしたらしいです。
そのように木にも魂があるのです。

そして見えるわけです。」と説かれている。

つまり、本山先生は木の精という生き物の存在を説いている。

これは釈尊前世物語、つまりジャータカにおいて樹の精霊として生まれたことのある釈尊の前世の話とよく似ている。

次に、書籍「「未知」への事典 コリン・ウィルソン 著 ジョン・グランド 編 中村 男 訳」の中の第五部 内空間 精神と肉体 という章の中の植物の交信という項目の中に、植物は感情を持っているとしか思えないような実験結果が記載されている。以下、その記載内容である。

「植物は人間の心を読むことができるか」という論争の火種となった実験は、1968年2月に、うそ発見器の専門家クリーブ・バックスターの執務室で行われた。

ポリグラフ(うそ発見器)は、それにかけられる人の緊張が高まると、皮膚からの発汗が多くなる性質を利用して、汗の増え方を記録することによって、うそ発見器という目的を果たそうとするものである。

バックスターは植物の葉に水をかけてもそれと同じ変化を植物が示すのではないかと考え、ドラセナという百合(ゆり)科の植物に水を注いだ。

すると、不思議なことに、緊張が減少し、人間で言えば感情の充足が起こった事が示された。

次に、一枚の葉を熱いコーヒーにひたしてみたが、何の変化もなかった。

そこで今度は葉を燃やしたらどうなるか、と思うと、そう思っただけでグラフの線がラセナのパニック状態を反映するかのように急上昇し、いったんバックスターがマッチをもって戻ると、再び急角度で上昇した。」

その他、植物の感情の有無に関する様々な実験が行われ、植物が苦楽の感情を持っているとしか思えない実験結果が現れた。

また、書籍「南方熊楠コレクション 森の思想 中沢 新一 編 河出出版」の中で、その植物に対し生命の存在を感じ、植物の密集した森林の破壊、自然破壊の考えについて、次のように反論、書かれている。

「すぐに儲けにならないものの中には、貴重なものがいっぱいあるのだ。

生命の世界もそう、それに景色だってそうだ。

いまは景色なんて、なんの儲けになるかと思っているかもしれないが、それが今に一番の貴重品になる時代がやってくる。

景色を護らなくっちゃいけない。その景色の中に生きている。

生命の世界を金儲けの魔力から守らなくてはいけない。

要するに、自然を保護するという考えが大切なのだと熊楠は力説したのである。

自然を保護するという考えは、当時の日本人には、ちょっと思いつきにくいものだと思う。

人為を離れたところで、自然は生きていた。

人間は母親のような、その自然のふところに、優しくまもられてきたのだ。

その自然を、今度は人為によって護らなければいけないというのだ。

護られてばかりいる子供は、往々にして、自分を守ってくれている母親の苦悩を知らない。

母親は子供を守る。だが、その母親は、一体誰に守ってもらえばいいというのか。

自然保護の思想は、産業化された人間の力が、いち早く自然を圧倒しはじめてしまった英国に発生している。

彼らは、母親である自然からの分離を、早くから実践してきた為に (おかげで、自然は開発と探究の対象となってしまったが) 、自分たちの文明によって苦悩する自然の姿を、客観的にとらえることができたのである。

熊楠は長いこと、海外で生活した体験から一切の母親的なるものから自立を果たしていた。

そのおかげで、彼には自然が苦悩しているさまが、よく見えたのである。」

さらに、

「神道は宗教ではない、という主張の根拠として、そこには、キリスト教や仏教のような壮麗な建築物や、人目を引く宗教的なシンボルに乏しい。という点があげられることが多かった。

宗教はことごとしいやり方で、人々の心を、超越的な世界に向けようとしてきた。

ところが、わが神道には、そのようなことごとしさがなく、自然な民族的心情をすなおに表現しようとしている。

この意味でも、それは国体の自然な表現ではあっても、宗教と同列にあつかうことができない、というわけである。

これに対して、熊楠はこう反論する。

宗教の本質にとっては、壮麗な建造物やイコンやシンボルなどは、必ずしも必要なものではない。

歴史を見てみろ。バビロニアだって、エジプトだって、マヤやインカだって、偉大なる建造物は残ったが、かつてそこにあったはずの神聖なものは、もはやどこかへ消え去って、宗教の伝統は、すっかり途絶えてしまっているではないか。

大事なのは、ひとびとの精神に、大いなるものに対する畏敬が、途絶えることなく、連続してあるということだ。

その点で言えば、神道は立派な宗教ではないか。

神を祀って神社といい、それを崇敬しているのだから、たとえそれが壮大華麗な建造物などをもたなくとも、これが宗教であることはあきらかなのだ。

それを宗教でない、などと言いくるめるのは神道に対して失礼ではないか。

それに、そんな立派な建物はなくとも神道には森があるではないか。

そこには、驚くほどの老大樹がそびえたち、稀観の異植物が鬱蒼たる森をつくりなしている。

日本人は、この森の中にたたずむだけで、深い神秘の宗教感情にみたされてきたのだ。

荘厳な神のイコンでもなく、聖人の遺物でもなく、神秘の仏像でもなく、ただ森林の奥深さに、日本人は存在の神秘をおぼえ、神々に対する畏敬の念を育ててきたのである。

これは、宗教の諸形態の中でも、粗末なものであるどころか、きわめて高級なものと言っていい。

つまり、神道は真言密教などと同じく、秘密儀の宗教、素朴な神秘主義の宗教なのだ。

そのため、神道は、きわめて幽玄なやり方で、人々に感化をおよぼしてきた。

それは文字を立てず、表象を立てず、森林のもたらす神秘な感情をもとにして、人々の神のありかを語ってきたのである。

だから、それはイデオロギーなどとは無縁のものとして、すばらしいのである。」

さらに、南方熊楠先生は次のように語られている。

この椋(むくのき)も三年ばかり前に伐らんと言いしを、小生(南方熊楠)ら抗議して止(とど)む。

さて、伐らんと言いしものは今春即死、また、件(くだん)の糸田の神森を伐り、酒にして飲んでしまいし神主も、大いに悔いおりしが、数月前、へんな病にて死す。

祟りなどということ小生(南方熊楠)は信ぜぬが、昨今、英独(イギリス、ドイツ)
の不思議研究者ら、もっぱらその存在をいい、小生(南方熊楠)も神社合祀励行、森林乱伐に伴い、至る処にその事実あるを認む。

思うに不正姦邪の輩、不識不知(しらずしらず)の間にその悪行を悔い、悔念重畳して自心悩乱すること存じ候。

かかることを、当国官公史また神職らは迷信と言いて笑うことおびただし。

しかるにいずれの国にも犯神罪あり。

キリスト教国にもこれを犯して神罰で死すること多きは小生(南方熊楠)つねに見たり。」

つまり、神道は森に、林に、植物たちに対し、生命の存在を感じ、その植物たちに対し崇高なる畏敬の念を抱いた偉大なる宗教ではないのか?と思う。

以上の事から、植物も人間や動物と同じように苦楽の感情をもっている存在、生命体であると考えられるのではないだろうか。

このように考えると、修験道や密教で焚く護摩、柴燈護摩は、護摩法要でお焚きあげする草木、枝葉、樹木を、ノコギリやチェーンソーで切断、伐採したり、木の枝や葉っぱをお護摩の火で燃やしたりする行為、その行為は極めて暴力的で、生き物を殺戮しているのと同じことであり、ある種、仏教の戒律、不殺生戒を犯しているのではないかと思えてならない。

特に、修験道や密教の護摩は木の枝や葉っぱを伐採し木や枝や葉っぱを燃やし、葉っぱに付着している微生物をも焼き殺しているので、仏教の戒律、不殺生戒を犯していると考えられないだろうか?

「国訳一切経 印度撰述部 経集部十四巻 大東出版社」参照。

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凡人の肉眼では見えない、聞こえない存在を説いた超一流の仏教の祖師達

仏典、雑阿含経に爪甲経(そうこうきょう)というお経がある。

その概要は

「ある日釈尊は釈尊自身の手で大地の土を拾い釈尊自身の手の爪と手の甲の上に土を乗せて諸々の比丘(修行者)に次のように尋ねられた。

「諸々の比丘(びく)よ。私のこの手の爪と手の甲の上に乗っている土の量とこの大地の土の量とでは土の量はどちらが多いか?」

諸々の比丘は次のように答えた。

「世尊(釈尊)よ。世尊(せそん)の手の爪と手の甲の上に乗っている土の量はこの大地の土の量と比べるならば比べものにならない程ごくわずかな量です。」

釈尊は続けてこのようにお説きになられた。

「諸々の比丘よ。もし肉眼で見える生き物たちの数をこの手の爪と手の甲の上にある土の量とするならば、その形が微細で肉眼では見えない生き物たちの数はこの大地の土の量のように膨大に存在する。比丘たちよ。未だ無間等の悟り(仏陀の悟り)に到達しない者は努めて無間等(むけんとう)の悟りに至るよう努力せよ。」

(大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 114ページ上段(雑阿含経第十六巻)参照。国訳一切経 阿含部二 雑阿含経第十六巻 参照。)

つまり、釈尊は人間の肉眼では見えない生命体が多く存在している事を覚知していたと言える。

また、阿含宗の開祖 桐山靖雄大僧正猊下は自身の著作「間脳思考」において、国訳一切経 阿含部の「好戦経」を引用し「戦争を楽しみ刀剣により人を悩ませ傷つけ苦しめ殺した者がその罪の報いにより死後巨大な年数、猛烈に苦しい地獄の責め苦を受け、その長い期間の地獄の責め苦が終わった後にも地獄の余罪による猛烈な苦しみに耐えかね、号泣している霊体をお釈迦様の弟子の目連尊者が霊視した」事が説かれている。

つまり、肉眼では見る事が出来ない霊の存在をお釈迦様、仏教では説いていた事を桐山靖雄大僧正猊下は自身の著書「間脳思考」においてお説きになっておられる。

 阿含宗開祖  桐山靖雄大僧正猊下

ところで、現代の科学では人間の五感、いわゆる、見る、聞く、嗅ぐなどの感覚能力は一部の動物達と比較して著しく劣っているとされている。

例えば、匂いを嗅ぎ分ける犬の驚くべき嗅覚は非常に有名である。

麻薬の密輸捜査、様々な災害人命救助活動などにおいて、人間の嗅覚能力をはるかに凌駕した、はるかに超えた、卓越した犬の嗅覚能力が不可欠とされている。

また、ガラガラ蛇は赤外線を見る事が出来る。つまり温度を視覚化出来る。いわばサーモグラフィのような視覚能力を持っていると言う事が出来る。

コウモリは超音波を聞くことが出来る。

人間は2万ヘルツまでの周波数しか聞こえないが、豚は4万ヘルツまでの高周波の音を聞き分けることが出来る。

ナマズは地震を予知出来る。

ネズミは火事を予知出来るなどなど。

また、世界的に著名な学者、ライアル・ワトソン博士は動物行動学、人類学、医学、心理学、生物学など驚異的な知識を背景に活発な著作活動を続け、各界に知的な刺激を与えている世界的に著名な超一流の学者であるが、そのワトソン博士は自身の著作「スーパーネイチュア」の中で、普通の人には見えないエックス線を見ることが出来る人物について、次のように紹介されている。

 「1963年に、ピーター・バン・ヤールスベェルト(Pieter van Jaarsveld)という12歳になる南アフリカ人は、地下深くに隠れている水を探知する能力のために{エックス線の眼を持つ少年}として世界で有名になった。

彼は水脈占い棒のような物は使わなかったが、地表を通して{緑色の月光のようにかすかに光る}水を見ることが出来ると主張した。

ピーターは、他の人にはそれが同じように見えないことを知って非常に驚いた。

われわれが自然および古典的な五つの感覚(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、つまり、見る、聴く、触れる、味わう、嗅ぐ)は、超自然の本当の魔術のほんの小部分にすぎないことをやがて悟り始める時、もっと多くの人たちが、彼の仲間入りをして、物事を真にあるがままに見るようになると私は思っている。」とワトスン博士は説かれている。

(書籍「スーパーネイチュア ライアル・ワトソン著 牧野賢治訳  蒼樹書房  124ページ~125ページ」参照。)

また、ワトン博士はこの著書の中で、動物の地震予知能力について、地震の何時間も前にウサギやシカが、震源地域から恐怖におののいて駆け出してくるのを見たことがある。とも書かれている。

(書籍「スーパーネイチュア ライアル・ワトソン著 牧野賢治訳  蒼樹書房  98ページ」参照。)

以上の事を考えると、「自分自身は霊が見えないから霊の存在を一切信じない。霊魂の存在を一切認めない。」という考えをお持ちの方々が世間では数多くおられるが、私自身から見ると、ある種、合理的な考えではないように思われる。

さて、つぎに、真言密教の開祖、弘法大師空海様は自身の著作「弁顕密二教論」の中において、

「それ、仏に三身あり、教えはすなわち二種なり。応化の開説を名づけて顕教という。ことば顕略にして機に逗(かな)えり。法仏の談話(だんかい)これを密蔵という。ことば秘奥にして実説なり。」とお説きになられている。

 真言密教開祖、弘法大師空海

「仏に三身あり」とは、大乗仏教が説いている仏の三身説の事で、仏の三身とはすなわち、

法身(ほっしん)の仏、

報身(ほうじん)の仏、

応身(おうじん)の仏、

つまり、仏に三身あり、とは、仏様は三種類の仏様に分類される。という事になる。

具体的に説明すると、

法身の仏とは毘盧遮那仏、大日如来のような真理そのものとしての仏様を法身の仏様という。

報身の仏とは阿弥陀如来のように、菩薩として様々な修行を経、最終的に悟りを開いた仏様を報身の仏様という。

応身の仏とは釈迦如来、いわゆるお釈迦様のように凡夫でもその仏様のお姿を見ることが出来る仏様のことを応身の仏様という。

また、三身の仏様の中で、法身の仏、報身の仏のお姿は、普通の凡夫ではそのお姿を見ることが出来ないとされている。

そして、「弁顕密二教論」の中に「仏様の説法には法身説法という種類の説法がある」と説かれている。

法身説法とは密教でいう真理そのものとしての仏、大日如来、最高位の仏様がなされる説法の事。

空海様は自身の著作「弁顕密二教論」の中においてインドの高僧であり、大乗仏教の祖師でもある、龍樹菩薩様が著した、仏教の百科全書ともいうべき著作「大智度論」巻九を引用し法身説法についてこう解説されている。

「(大智度論)智度論の第九にいわく、

「仏に二種の身あり。一には法性身、二には父母生身なり。

この法性身は十方虚空に満ちて、無量無辺の色像端政にして相好荘厳(そうごうしょうごん)せり。

無量の光明、無量の音声あり。

聴法の衆もまた虚空に満てり。(これは衆もまたこれ法性身にして生死の人の所見にあらざることを明す。)

常に種々の身、種々の名号を出し、種々の生処に種々の方便をもって衆生を度す。

常に一切を度して息むことなし。かくのごときは法性身の仏なり。

よく十方の衆生を度し、もろもろの罪報を受くる者は、これ生身の仏なり。

生身の仏は次第に説法すること人の法のごとし」と。

またいわく、

「法身の仏は常に光明を放って常に説法したもう。

しかるに罪をもっての故に見ず、聞かざること例えば日(太陽)出づれども盲者(目が見えない人)は見ず、雷震地を振えども聾者(耳が聞こえない人)は聞かざるがごとし。

かくのごとく法身は常に光明を放って常に説法したまえども、衆生は無量劫の罪垢厚重なることあって、見ず聞かざること、明鏡浄水の面を照すときはすなわち見、垢不浄なるときはすなわち所見なきがごとし。

かくのごとく衆生の心清浄なるときは、すなわち仏を見、もし心不浄なるときはすなわち仏を見ず。」」

大乗仏教の始祖、龍樹菩薩

つまり、

「法身の仏は常に光明を放って説法をしているが罪業が深く、罪が重い衆生(生き物)はその罪の重さ, 業の深さが原因で(つまり過去の無量無数というべき多くの生まれ変わり、死に変わりにおいてなしてきた多くの罪、過去における無量無数の輪廻転生の中でなしてきた多くの罪障罪業が原因で)法身の仏の姿が見えず、法身の仏の説法も聞こえず、その説法の内容も理解出来ない。

その一方、罪業罪障が比較的軽い衆生(生き物)は法身の仏の姿が見え、法身の説法が聞こえ、またその説法の内容も理解出来る。」と説かれている。

「弘法大師著作全集 第一巻 勝又俊教 編修 山喜房佛書林」参照。

それに似たようなことわざに、

「心その境涯に至らざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」というべきか。

阿含宗の開祖 桐山靖雄大僧正猊下が1980年11月にインド仏跡巡拝の旅の際に体験したインド・サヘトマヘトにおける霊的神秘体験、仏陀から発せられる霊的テレパシーによる霊性開眼体験談、仏陀釈尊に関わる霊的神秘体験談が桐山靖雄大僧正猊下の著作「一九九九年カルマと霊障からの脱出(1981年7月出版)」と「間脳思考」(1984年1月出版)」において説かれている。

その桐山靖雄大僧正猊下のご著書「一九九九年カルマと霊障からの脱出 桐山靖雄著 平河出版(1981年7月出版)」の中で、その時のサヘトマヘトにおいて体験された衝撃的な霊的神秘体験を自身の自動書記にて記した文章が以下の文章である。

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「それは突然ななめ前方からやってきた。

一瞬、目がくらむほどの衝撃だった。

そんなことなど全然予期しておらず、まったく無防備だった自分は、あっという間にその衝撃に叩きのめされてしまったのだ。

修行、学問、そんなものはなんの役にも立たぬものであることを思い知らされた。

こころひそかに誇っていたこれまでの自分の修行も教学もあっというまに消しとんでしまった。

叩きのめされてしまった。

これなんだ。

これでなくてはならないのだ。

これしかないのだ。

目もくらむようなあの白銀の輝きにみちたバイブレーション!

100年の修行も万巻の教学も、ただ一瞬のこの霊的バイブレーションに如(し)かぬことを思い知らされた。

これがそれだったのだ。

これが究極のそれだったのだ。

このためにこそわたくしはここにやってきたのだ。

おお、サヘト・マヘト聖なる地、

あなたはここに待っていてくださった。

わたくしがいまあなたから受けたものをこれからわたくしはひとびとにあたえねばならぬ。

今、わたくしは聖者であることをつよく自覚する。

すべてのひとびとがこの聖なるバイブレーションを受けることのできる聖地を、わたくしはひがしの国につくらねばならぬ。

この輝きにみちたサヘトマヘートの地を、そのまま、日本の国にうつさねばならぬ。

それがわたくしの使命だったんですね。

それをかならずはたすことをわたくしはあなたに誓います。

そうですか、

もう一度、わたくしはこの地に来なければならないのですね。

だが、そのとき、なにが起きるのでしょうか?

そのとき、起きる或ることを、わたくしは非常なおそれの感情とともに予感します。

ああ、あの一瞬の霊的バイブレーション!

100年の苦行も、万巻の書物も、このバイブレーションなくしては路傍の石ころにも劣るのだった。

このバイブレーションをあたえることのできる聖者こそ、真の導師(グル)だったのだ。

理解できました。

聖師よ、ありがとう。」

今から、約2500年前、インドのサヘトマヘトにおいてブッダ釈尊は多くの人々の前で大神変力を現したとされる。

今から約2500年前 インド サヘトマヘトにおいてブッダ釈尊が奇跡(大神変力)を現したとされる池の跡地。

1980年11月8日、ブッダ釈尊が今から約2500年前に大神変力を現したとされるインド・サヘトマヘトの池の跡地で仏勅を受けられた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

また、桐山靖雄大僧正猊下は自身の著書「間脳思考」(1984年1月出版)」の中の、

「思念による王者の相承」という章において次のように説かれている。

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「チベット仏教のニンマ派では、古くから解脱の完成に三つの方法があると説いている。

(1)思念による王者の相承

(2)象徴による持明者の相承

(3)耳を通したコトバによる人の相承

である。

(1)の思念による王者の相承とは、霊界の法の世界において、法の完成者タタギャター(如来)が常に法を説いている。この法身タタギャター(如来)が言葉や象徴という媒介なしに、直接相手のこころに自分のこころを伝達するものである。

この場合、こころ、というのはたんなる思念のこころではなく、パワーを主としたものと思うべきである。

これによって、相手はたちどころにブッダとして完成するのである。

これは最高であり、理想的なものであること、もちろんである。

「王者の」、という所以(ゆえん)である。

(2)の象徴による持明者の相承とはどういうものかというと、象徴とは、ある言葉、形、音、色などに複雑な思想の内容を圧縮して詰め込んだものをいい、また、持明者とは、純粋なこころで実相をそのまま見ることができる真如の世界に到達した者たちのことである。

この相承(方法)では、真如の理解を持つ持明者たちは、導師から象徴を示されることで、密教の深奥に到達する教法を授けられるのである。

以上のすぐれた方法にたいし、普通の人間は、霊感はなかなか得がたく、また、象徴だけでは深い密教の教法を即座に理解することはできない。

そこで、導師が、いろいろな言葉を用いて、くわしく説き明かし、弟子に理解させてゆく。

いわゆる、口頭伝授である。

これが(3)の耳を通したコトバによる人の相承である。

以上三つの方法を、わたくしは、次のように分類する。

思念による王者の相承  間脳系=霊的バイブレーション

象徴による持明者の相承 新皮質系=マントラ、タントラ、コトバ、音楽、象徴

耳を通したコトバによる人の相承 大脳辺縁系=コトバ、マントラ、音楽」

さらに書籍「間脳思考」において師は、次のようにお説きになられている、

「インド サヘトマヘトの奇跡とは、先に述べた思念(バイブレーション)による相承である。

わたくしは、サヘトマヘトにおけるこの体験をするまでは、思念による王者の相承とは、霊性開眼を成就した偉大なグル(師匠)から直接、霊的バイブレーションを受けることだと理解していた。

そして、実際にその通りなので、わたくしのようにグル(師匠)を持たぬ者は、この相承などかかわりのないものであり、ひたすら七科三十七道品の成仏法を修行するしかないものと思っていた。

また、それほど偉大なグル(師匠)など現在はほとんど稀れであるし、修行によることしか考えていなかったのである。

しかし、サヘトマヘトであの強烈なバイブレーションを受けた刹那、わたくしは、「あ、これが王者の相承だ!」と直感し、なるほど、こういう王者の相承もあるのだなと思ったのである。(中略)

この奇跡はわたくしに、筆舌につくしがたい多くの貴重なものをあたえてくれたが、その中の一つは、修行によらぬ(というより、修行を超えた)霊性開眼の方法のあることだった。その方法を、身をもって体験したことだった。」

このように龍樹菩薩様や弘法大師空海様が説く法身説法の話、桐山靖雄大僧正猊下が説くインドのサヘトマヘトで体験した仏勅の話は、精神感応、いわゆるテレパシーの事であるが、テレパシーというと世間一般では迷信とか、たわごと、論ずるに値しない空想上の概念のように考える人々が非常に多いが、先に紹介した世界的著名な学者、ライアル・ワトソン博士は自身の著書「スーパーネイチュア 」の中でテレパシーについて次のように書かれている。

「われわれの視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の鋭敏さについては、まだはっきりした動かぬ限界が引かれたわけではない。

それらの潜在的可能性を新しく探求するたびに、感受性の限界はさらに遠くへと押しやられ、知覚の新領域が絶えることなく発見されていくのである。

多くの外見上は超自然的と見られる能力は、遅かれ早かれ、既存の感覚系の異常敏感性に帰せられ、決して感覚外のものではないと判明していくが、いつも突発的に起こり、確かな感覚の言葉で満足がいくように、いずれは説明されなくてはならない一つの現象が存在する。これが「思考伝達」、すなわちテレパシーである。」

(書籍「スーパーネイチュア ライアル・ワトソン著 牧野賢治訳  蒼樹書房  265ページ」参照。)

また、パーリ仏典研究の世界的権威である仏教学者の水野弘元博士はその著書「原始仏教」の中で三明六通、いわゆる、凡人の能力を超えた神秘的な力、超人的能力について次のように書いておられる。

「今日の合理主義的な考え方からすれば仏陀及び原始仏教が三明六通という奇跡的神通力を説いたことはいかにも仏教の合理性を没却したものであり、おそらく原始仏教では説かれていなかったものを新たに加えられた挿入の不純物に過ぎない。と考える学者がいるけれども、しかし、仏教を単なる科学や倫理や修養ではなくして宗教であると考える限り、このような神通奇跡の存在は仏教の宗教的要素として極めて価値があり、かつ必要なものである。

2500年の昔において仏教は今日の科学時代にも劣らない合理性や倫理性を有したのであるが、しかし、単なる合理性や倫理性だけではそれは宗教とはなり得ないであろう。

宗教である限り、自らの実践だけではなく、他をも絶対信に導き入れなければならない。

宗教を他の方々に対し教化救済する利他的な宗教面は三明六通というような神通奇跡によって得られるのである。

宗教が多くの人々に信じられていくのは神通奇跡によってであるのですが、 また仏教各宗の祖師と言われるような人々も多かれ少なかれ常人を超えた不思議な力を持った人であったに相違ない。」と説かれている。

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さて、先に三明六通という言葉が出てきたが、仏教用語で六通とは神足通、天眼通、天耳通、宿命通、他心通、漏尽通という、常人を超えた超人的能力、超人的智慧の事を意味する。

そして、その中の三明とは天眼通、宿命通、漏尽通を意味する。

その三明の中の宿命通という通力は過去世を透視する神通、智慧であるとされている。

釈尊自身、仏陀としての最高の悟りを開く直前、この通力を得たとされている。

この釈尊が宿命通を得られた体験談が仏典(阿含経)に説かれている。

釈尊自身、仏陀としての最高の悟りを開く直前、非常に深い瞑想中において、無量無数の生き物達がそれぞれの業、それぞれのカルマに応じて無限に近い膨大な時間、無量無数とも例えられる程の回数、生き替わり死に替わりを繰り返している情景をその超人的透視力で実際に透視したという釈尊自身の体験が説かれている。

以下は釈尊自身の瞑想の体験談である。

「このように 私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、種々なる過去の生涯を想い起こした。

すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、また幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。

我はそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカースト(階級)であり、これこれの食を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。

そこで死んでから、かしこに生まれた。

このように形や名称とともに種々なる過去の生涯を想い起こしたのである。

このように私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。

実にこれらの生存者は身に悪行を行い、言葉に悪行を行い、心に悪行を行い、もろもろの聖者をそしり、誤った見解を抱き、誤った見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後に悪しき所、堕ちた所、地獄に生まれた。

また、他のこれらの生存者は、身に善行を行い、言葉に善行を行い、心に善行を行い、諸々の聖者をそしらず、正しい見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後、善い所、天の世界に生まれた。

このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。」

 四分律経典 第三十一巻 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

 四分律経典 第三十一巻 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

 四分律経典 第三十一巻 『国訳一切経 律部二 大東出版社』参照。

チベット密教 六道輪廻図絵

参考書籍

「大正新修大蔵経 第二巻 阿含部下 大蔵出版」

「国訳一切経 阿含部二 大東出版」

「国訳一切経 律部二 大東出版社」

「弘法大師著作全集 第一巻 勝又俊教 編修 山喜房佛書林」

「スーパーネイチュア ライアル・ワトソン著 牧野賢治訳  蒼樹書房」

「一九九九年カルマと霊障からの脱出 桐山靖雄著 平河出版」

「間脳思考 桐山靖雄著 平河出版」

「原始仏教 水野弘元著 サーラ叢書」

「ゴータマ・ブッダⅠ 原始仏教Ⅰ 決定版中村元撰集 第11巻 春秋社」

「ゴータマ・ブッダⅡ 原始仏教Ⅱ 決定版中村元撰集 第12巻 春秋社」

    大日如来像

大乗仏教の始祖 龍樹菩薩

真言宗開祖 弘法大師空海

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

今から約2500年前、ブッダ釈尊が約18年間、人々を説法、教化した土地、場所とされているインド サヘト・マヘト(祇園精舎)。

1980年11月、インド サヘト・マヘトに仏跡巡拝された阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下。当時、59歳)

今から約2500年前、ブッダ釈尊が多くの人々の前で大神通力、大神変力を現わしたとされているインドのサヘト・マヘト ミラクルの池の跡地において強烈な仏勅、強烈な霊的バイブレーションを受けた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1980年11月8日、当時59歳)。

インド サヘト・マヘト ミラクルの池の跡地

今から約2500年前、ブッダ釈尊が多くの人々の前で大神通力、大神変力を現わしたとされているインドのサヘト・マヘト ミラクルの池の跡地において強烈な仏勅、強烈な霊的バイブレーションを受けた阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1980年11月8日、当時59歳)。

大柴燈護摩供 修法中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1982年2月、京都、当時61歳)

大柴燈護摩供 修法中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1982年2月、京都、当時61歳)

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

法話中の阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下

1983年8月21日、チベットにおいて最も由緒深く、格式のあるニェデン・カツェリン寺の法主であり、大座主であり、伝統的なチベット仏教ニンマ派の管長であらせられるミンリン・ティチン・リンポチェ管長が来日され、阿含宗管長 桐山靖雄大僧正猊下に、「一切萬霊守護金剛」という非常に位の高い法位、法号が授けられた。当時62歳

チベット仏教ニンマ派ミンリン・ティチン・リンポチェ管長から阿含宗管長 桐山靖雄大僧正猊下に対して、「一切萬霊守護金剛」という非常に位の高い法位、法号が授けられた。

阿含宗開祖  桐山靖雄大僧正猊下(1921~2016)当時62歳(写真)

(1983年8月 阿含宗 関西総本部道場において撮影)

1986年4月8日、スリランカのジャヤワルデナ大統領より真正仏舎利を授かる阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1986年スリランカ)当時65歳

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1990年1月 スリランカの古刹、マハー・マティンダ・ピリベナ寺から真正仏舎利を拝受される阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時69歳)

1992年11月2日、スリランカ仏教シャム派総本山より「輝く平和の大王」という法号を授けられる阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正猊下(当時71歳)

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

日本の4倍もの広大な面積を持つモンゴル、1996年2月下旬から、そのモンゴル全土200ヶ所以上の山火事に多くのモンゴルの方々が苦しんでいた。

このモンゴルの山火事で日本の北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願大護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、75歳)

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、 世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、75歳)

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、 世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、75歳)

1996年6月5日、モンゴル国ガンダン寺においてモンゴル国立十一面観音開眼法要、世界平和祈願護摩法要を修せられる大導師 阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下(1996年当時、75歳)

1996年、モンゴル全土で2月下旬から数ヶ月間続いている広大な面積の山火事で、北海道と四国を合わせた程の極めて広大な面積のモンゴルの山林、草原が焼失した。

まさに国家的な危機状況の中、阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下がモンゴルのジャスライ首相に対し、「明後日のガンダン寺の法要の際、観世音菩薩様に雨が降るようにお祈りします。観世音菩薩様は必ず雨を降らせて下さいます。必ず雨が降ります。」と祈りによって雨を降らす事を約束。

そして、モンゴル国ガンダン寺での護摩修法当日未明、ウランバートル市全域に一大雷鳴がとどろき、全市民を驚愕させた。同時に、豪雨が大地を叩き、全市民を歓喜させた。待望の雨の第一陣であった。

さらに、護摩修法後、桐山靖雄大僧正猊下は参拝者の方々の前で、十一面観世音菩薩様がこのように雨を降らせて下さったと語り、十一面観世音菩薩様の偉大なる神通力、お力を称賛された。

その護摩修法後、モンゴル全土ですさまじい雨が降った。

また、モンゴルの文化大臣がこの状況を目の当たりに見、「祈りの力がいかに偉大なものであるかを目のあたりに見て、心から驚嘆しました。」と述べた事を当時の現地の新聞記事が伝えた。

最終的に1ヶ月間は消えないであろうとされていたモンゴル全土の山火事が護摩修法後、モンゴル全土の大雨により護摩法要の日から5日後の6月10日に山火事は完全鎮火した。

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モンゴル国 ガンダン寺 モンゴル国立十一面観音世音菩薩像

モンゴル国 ガンダン寺 モンゴル国立十一面観音世音菩薩タンカ

モンゴルの森林火災の完全鎮火を知らせる新聞記事(1996年6月)

 

1999年3月6日、インドにおいて印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下、1999年3月6日、当時78歳。

1999年3月6日、インドにおいて印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下、1999年3月6日、当時78歳。

1999年3月6日、インドにおいて印度聖地大柴燈護摩を修する阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正猊下、1999年3月6日、当時78歳。

1999年3月6日の印度聖地大柴燈護摩供の修法中、真正仏舎利尊から発するご霊光。「一九九九年七の月よ、さらば! 桐山靖雄著 平河出版」参照。

仏陀に成られた方の御遺骨(ごゆいこつ)を仏舎利(ぶっしゃり)とお唱え致します。

仏舎利尊から発するご霊光は、今から約900年前頃の日本で活躍した僧侶、臨済宗の開祖、栄西禅師様(1141年~1215年)も宋の国に留学中、阿育王山  広利禅寺に参拝した折、仏舎利尊から発するご霊光を目撃した体験談が栄西禅師様の著書「興禅護国論」に記載されている。

また、今から約1100年前頃に活躍した日本の僧侶、天台宗 慈覚大師円仁様(794年~864年)も、自身の唐への巡礼紀行体験を記した書籍「入唐求法巡礼記」の中において、仏舎利尊から発するご霊光にまつわる体験記が次のように記されている。

「長年、法華経を読誦していた僧があった。

最近、いくつかの仏陀の遺品が彼に授かった。

町中の人々は来て捧げものをした。

寺は僧俗であふれた。

どれくらい大勢来たか分からないほどであった。

遺品を発見した由来は、経を読む僧が夜中に彼の部屋に座って経を読んでいると、三本の光が射し込み、部屋全体を輝かせ、寺全体を明るくした。

光りのもとを探すとそれは寺の西の崖のふもとから来たものであった。

毎晩、光はその部屋と寺を照らした。

数日後、僧は光を辿って崖に行き、地面を十フィート以上も掘り下げると、そこには仏陀の遺品を納めた三つの壺があった。

青い瑠璃の中には七粒の舎利があり、白い瑠璃の壺には五粒、金の壺には三粒あった。

彼はそれらを持ち帰り、仏堂に安置して供養を捧げた。

太原府と近郊の貴賤男女や役人たちは位の高いものも低いものもすべて来て尊敬を捧げ、供養した。

誰もがいった、これこそ僧の法華経に対する熱心さがもたらした不思議な力によるものである。と。

町から山へ来る人々は道を埋め、大群衆は礼拝し、驚嘆した。」

書籍『円仁 唐代中国への旅 入唐求法巡礼行記の研究 エドウィン・O・ライシャワー著 田村完誓訳 講談社学術文庫』299頁~300頁 引用。

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さらにまた、今から約1400年前頃に唐の国やインドにおいて活躍し、『西遊記』のモデルにもなった玄奘三蔵法師様(604年~662年)がインドにおいて仏舎利尊から発するご霊光を目撃した体験記が次のように伝えられている。

「さて、ちょうどこのときは正月のはじめであった。

西国の法として、毎年この月にボードガヤの菩提寺では仏舎利を出し、諸国の道俗の人々はみなやってきて来観するならわしであった。

法師(玄奘三蔵)もその年は師のジャヤセーナとともに、舎利骨(しゃりこつ)を見に行った。

あるいは大きくあるいは小さく、大きいのは真珠ぐらいで紅白色に光り輝き、肉舎利は豌豆(えんどう)大で、赤色で光沢があった。

無数の人々が香花を奉献し、礼拝が終わると、その舎利は塔中に還しておくことになっていた。

その日の夜半、ジャヤセーナは法師(玄奘三蔵)とともに見た舎利が大小さまざまであったのを論じ

「私がほかの所で見た舎利は、みな大きさは米粒ぐらいのものであった。

ところがここで見たのは、非常に大きいものだ。

そなたはあれを見て疑わなかったか?」といった。

法師も、

「いや、じつは私も果たして本当の舎利かどうか、疑わしいと思っていました。」と答えた。

するとしばらくして室内に灯火がないのに部屋の内外が非常に明るくなった。

怪しんで外に出てみると、舎利塔の中から空高く光を発し、飛炎天に沖して五彩に輝いていた。

そしてあたりには香気がみなぎった。

そこで二人は人々に

「舎利に大神変が起こった。」と言った。

書籍『玄奘三蔵 西域・インド紀行  長澤和俊訳 講談社学術文庫』205頁~206頁引用。

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ところで、次には、真言密教の第五祖、不空三蔵様(705年~774年、生地はインドもしくは唐国)が釈尊の仏舎利を禮敬する意を述べた文章に舎利禮門(しゃりらいもん)という経文を紹介する。

この舎利禮門は真言宗や曹洞宗などの法要、日々の勤行において読経する場合がよくあります。

参考までに、その舎利禮門の経文の全文は以下の通りです。

舎利禮門(しゃりらいもん)

一心頂禮(いっしんちょうらい)
萬徳園満(まんとくえんまん)
釈迦如来(しゃかにょらい)
真身舎利(しんじんしゃり) 
本地法身(ほんじほっしん)  
法界塔婆(ほうかいとうば)  
我等禮敬(がとうらいきょう)   
爲我現身(いがげんしん)  
入我我入(にゅうががにゅう) 
佛加持故(ぶつかじこ) 
我請菩提(がしょうぼだい)   
以佛神力(いぶつじんりき)  
利益衆生(りやくしゅじょう)  
発菩提心(ほつぼだいしん)  
修菩薩行(しゅぼさつぎょう) 
同入園寂(どうにゅうえんじゃく)  
平等大智(びょうどうだいち)  
今将頂礼(こんじょうちょうらい) 

とお唱え致します。

ところで、仏舎利を祀る霊験功徳は多くの経典に説かれているが、その多くの経典のうち、代表的な経典、大般涅槃経と悲華経と蓮華面経において、仏舎利について次のように説かれている。

大般涅槃経にいはく、

『天界に住む神々と、僧侶、在家の仏教徒は、仏舎利を得たら七つの宝で出来ている瓶に盛り、これを都城の内なる道地において七宝でできている塔を建立して仏舎利を供養するならば、生きとし生ける一切衆生に大いなる功徳をもたらし、三界に生存する三有の苦しみを離脱し、涅槃の安楽に至らせるであろう。仏舎利を供養するということは、まさに生ける仏を供養することなのである。』

悲華経にいはく、

『衆生の福尽きて、三災(刀兵、飢饉、悪疫の三つの難)まさに現れ、経巻地に没して、衆生みな死に瀕する時が来る。この時にあたって、仏舎利、金剛際より出でて、大虚空に昇って、種々の花を雨らす。その花の中にもろもろの珍宝、名衣、百味の飲食を雨らす。その花の中に声を発して、法を説く。衆生、聞いてみな菩提心を発(おこ)す。』

蓮華面経にいはく、

『舎利の光明はるかに奈利(地獄)を照らす。罪業の衆生、この光を受けて抜苦与楽すること、称計するべからず。』

書籍『守護仏の奇蹟 桐山靖雄著 平河出版社』

  『守護霊の系譜 桐山靖雄著 平河出版社』参照。

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怒りの感情についての考察(ブッダの言葉から考える)

2016年11月13日、ある男性が同じ宿泊者の上司とトラブルになり上司の顔を殴り死に至らしめたとのニュースを見た。

怒りという感情が最終的に暴力になり相手を死に至らしめたのである。

我々は怒り、憎悪、憎しみ、激怒という感情をコントロールし抑える必要がある。

激怒という感情をコントロールする事が必要であり、そのことは社会生活を営むうえで最も重要な事であると思われます。

怒りが国家間レベルになるとその怒りが憎しみを生み双方の憎しみ合いは最終的には戦争という大量虐殺につながる事態を引き起こす結果になりかねない。

仏教では怒りの感情を起こさないよう教えている、憎しみの感情を起こさないよう気をつけるよう説かれている。

特に睡眠不足、酒に酔った状態では脳内における感情のコントロールが効きにくくなり、怒り易くなる、キレやすくなるように思われる。

日々の充分な睡眠、休息、日々の正しい生活が必要である。

パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において仏陀はこうお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。

怒りを断ち切って悲しまない。

その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを、聖者達は称賛する。

それを断ち切ったならば、悲しむことがない」

また漢訳仏典の大正新修大蔵経第二巻阿含部下、雑阿含経第三十二巻において仏陀はつぎのような主旨の法話を説かれている。

「嗔恚(しんに)を離れるを善と成す。

嗔恚及び驕慢(きょうまん)を生じることがないようにせよ。」とある。

つまり、怒り、激怒,うぬぼれ,慢心の心を起こさないようにせよという主旨の内容が説かれている。

また、仏教経典 漢訳大蔵経の中の阿含経及び南伝大蔵経において仏陀釈尊は次のようにお説きになられている。

「比丘(修行者)たちよ。まさに一法を断つがよい。一法を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう。

その一法とはなんであろうか。いわゆる瞋恚(しんに)(怒り)がそれである。

比丘(修行者)たちよ。まさに瞋恚(怒り)を断たば、汝ら必ず煩悩を滅し尽くして聖者たることを得るであろう」

「瞋恚(怒り)にかりたてられて、人は悪しき処におもむく。まさにつとめて瞋恚(怒り)を捨つれば、すなわち煩悩滅尽して聖者たらん。」

「雑言と悪語とを語って愚かなる者は勝てリという。されど誠の勝利は堪忍を知る人のものである。

怒る者に怒り返すは悪しきことと知るがよい。

怒る者に怒り返さぬ者は二つの勝利を得るのである。

他人の怒れるを知って正念に自分(自分の心、精神、感情)を静める人はよく己(自分)に勝つとともに他人に勝つのである。」

パーリ仏典「サンユッタ 二カーヤ」において仏陀(仏様)はこうお説きになった。

「愚者(おろかもの)は荒々しい言葉を語りながら「自分が勝っているのだ」と愚者は考える。

しかし、真理を認知する人がそしり(悪口、中傷誹謗,罵詈雑言、罵倒)を耐え忍ぶならば、(耐え忍ぶ)その人にこそ勝利が存在する。

怒った人に対して怒りを返す人はそれによっていっそう悪をなすことになるのである。

怒った人に対して怒りを返さないならば勝ち難き戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのを知って気をつけて静かにしているならばその人は自分と他人の両者の為になることを行っているのである。

理法(真理)に通じていない人々は「その者(怒りを返さない者)は愚者(おろかもの)だ」と考える。

パーリ仏典「スッタニパータ」において仏陀曰く

「罪がないのに罵(ののし)られ、殴(なぐ)られ、拘禁(こうきん)されるのを耐え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、彼を私はバラモンという。」

さらに、パーリ仏典「サンユッタ・二カーヤ」というお経においてブッダは次のようにお説きになられている。

「怒りを断ち切って安らかに臥す。怒りを断ち切って、悲しまない。その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを聖者達は賞賛(しょうさん)する。それ(怒り)を断ち切ったならば悲しむことがない。」

「人は利を求めて自分を与えてはならない。自分を捨て去ってははならない。

人は善い(優(やさ)しい)言葉を放つべきである。

悪い、粗暴(そぼう)な言葉を放ってはならない。

やさしい言葉を口に出し荒々(あらあら)しい言葉を口に出してはいけない。」

次に、ダンマパダ(法句経)に次のような言葉がある。

「(彼は、我を罵った。彼は、我を害した。彼は、我に打ち勝った。彼は我から強奪した)という思いを抱く人には、恨みはついに止むことが無い。」

「(彼は、我を罵った。彼は、我を害した。彼は、我に打ち勝った。彼は我から強奪した)という思いを抱かない人には、ついに恨みが止む。」

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの止むことがない。怨みを捨ててこそ怨みが止む。これは永遠の真理である。」

第二次世界大戦が終わり講和条約が締結され、世界の諸国は敗戦国の日本に賠償を要求したが、その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加したが、日本に対する全ての賠償権を放棄した。

その時のスリランカの政府首脳達は声明の中で、このダンマパダのこの言葉を引用し次のように言った。

「戦いは終わったのだ。もはや怨みに報いるに怨みを以ってすることはやめよう。

この精神でセイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい。」と。

このダンマパダの教えは今日に至るまで、南アジアの人々に暖かい気持ちを起こさせている。

パーリ仏典ダンマパダやウダーナヴァルガに次のように説かれている。

「手むかうことなく罪咎(つみとが)のない人々に危害を加えるならば、次に挙げる十種類の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう

1、激しい痛み

2、老衰

3、身体の傷害

4、重い病

5、乱心

6、国王からの災い

7、恐ろしい告げ口

8、親族の滅亡

9、財産の損失

10、その人の家を火が焼く

この愚か者は死後に地獄へ生まれる。」

と説かれている。

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